前漢演義第81回 祖廟参拝の同乗で嫌隙が生じ、女医に頼み宮中で毒を盛らせる (謁祖廟驂乘生嫌 囑女醫入宮進毒)

昌邑王廃位後の後継選び

  • 霍光は昌邑王賀を廃位したものの後継が決まらず、光禄大夫の丙吉が「武帝の曾孫・病己(劉病己)は徳望があり、経学に通じている」と推薦する上書を送る。
  • 霍光は群臣に諮り、太僕の杜延年らも賛同したため、丞相楊敞らと連名で上官太后に奏上し、正式に病己の擁立を決める。上官太后は名目上の決裁者にすぎず、実権はすべて霍光にあった。

皇曾孫病己の生い立ち

  • 病己は衛太子劉拠の孫。劉拠の側室・史良娣が生んだ史皇孫と、その妻王夫人との子。巫蠱の乱で劉拠一族が滅ぼされた際、乳児の病己だけが生き残り獄に繋がれる。
  • 廷尉監の丙吉が哀れみ、女囚の趙・胡の二人に乳を与えさせて養育。武帝が「長安の獄に天子の気配あり」として獄中の者を皆殺しにする詔を出した際も、丙吉は使者を拒み「罪なき者を妄りに殺してはならない」と説き、結果的に大赦となり病己は助かった。
  • その後丙吉は病己を史良娣の実家(史貞君・史恭)に預けて養育させ、武帝の遺詔により掖庭に戻され、掖庭令張賀(張安世の兄)の下で養育・就学した。
  • 張賀は娘を病己に嫁がせようとしたが弟の張安世に反対され、代わりに暴室嗇夫許広漢の娘・平君(婚約者に先立たれ独身)を病己に嫁がせた。以後、病己は東海の澓中翁に師事して詩経を学び、市井の風俗・吏治の得失にも通じるようになる。

「公孫病己立」の予言と即位

  • 昭帝元鳳三年、泰山の大石が自ら立ち、上林の枯柳が蘇生し、その葉の虫食い文様が「公孫病己立」と読めたため世を騒がせた。予言を説いた符節令眭孟は霍光に妖言として処刑されたが、予言は的中する。
  • 元平元年、宗正劉德が皇曾孫を未央宮に迎え、霍光はまず陽武侯に封じたのち群臣に擁立させ、劉病己は帝位に即く(後の宣帝)。
  • 即位後の高廟参拝で霍光が驂乗(陪乗)した際、宣帝は針の筵のように緊張した。帰路を張安世が代わって驂乗すると宣帝は安堵した。侍御史厳延年は霍光の廃立の専断を弾劾する上奏をしたが、宣帝は答えを保留した。

霍光政権の人事と宣帝の許皇后

  • 丞相楊敞の死後、蔡義が丞相となる(高齢すぎるとの陰口あり、霍光は「昭帝の師であった」と弁護)。
  • 立后を巡り、群臣・上官太后は霍光の娘の擁立を望んだが、宣帝は「故剣を訪ねる」詔で微賤の頃の妻許氏への思いを示し、群臣もこれを察して許氏を皇后に立てることを願い出た。霍光は許后の父広漢が宮刑を受けた身であることを理由に侯封に反対し、しばらく見送られる。

論功行賞と烏孫出兵

  • 本始元年、霍光・張安世をはじめ功臣に加増・封侯。霍光の子・霍禹、甥の霍雲・霍山も官職を得て一族が朝廷に蟠踞する。
  • 廃立を主導した田延年は公金横領を弾劾され自殺、厳延年(霍光弾劾者)は連座を咎められ逃亡(ともに性急な性格が身を滅ぼした逸話として語られる)。
  • 病己の実父母(戾太子・史良娣)の諡号を定め、武帝の廟楽増設を巡っては長信少府夏侯勝が異論を唱え投獄されるが、獄中で丞相長史黄霸に経学を教えるなどの逸話が語られる(のち恩赦)。
  • 烏孫では岑陬の死後、従弟の翁歸靡が代立し、解憂公主を妻として三男二女をもうける。匈奴・車師の侵攻に対し、宣帝は霍光と諮り五路十六万余の大軍を派遣したが、匈奴は撤退済みで大きな戦果はなかった。校尉常恵は烏孫兵を率いて匈奴の名王らを討ち大戦果を挙げ、長羅侯に封じられる。のちの使いでは霍光の密命により龟茲を攻め、龟茲王に先王殺害の責任者姑翼を斬らせて撤兵した。

霍顕の陰謀と許皇后毒殺

  • 霍光の後妻・霍顕は、娘の成君を宣帝の后にしたいと望んでいたが、宣帝が許氏を立后したため恨みを募らせる。
  • 本始三年、許皇后が出産に際して体調を崩す。霍顕は宮中に出入りする女医淳于衍(夫の官職斡旋を頼みに来ていた)に、皇后毒殺を持ちかけ、口止めと富貴を約束する。淳于衍は附子を隠し持って参内する。
  • 出産自体は無事だったが、産後の丸薬に淳于衍が附子を混入。皇后は服用後急変し、まもなく崩御した(男児は既に生まれていたため血脈は残った)。

評語

  • 霍氏の禍は驂乗の一件に端を発するとし、霍光には常に人を畏怖させる驕慢の色があったのではと推測する。
  • 田延年の自殺は霍光が功を独占させまいと見捨てたため、厳延年の失脚も霍光への弾劾が原因と暗に示唆。常恵の対烏孫・対龟茲の専断もすべて霍光の指図によるものとする。
  • 霍顕が女医に許后毒殺を命じた背景にも霍光の放任があり、後世に霍光を伊尹・周公になぞらえる評があるが、その悖乱ぶりは比すべくもないと断じる。