前漢演義第八十回 外藩から新帝を迎え入都させ、暗愚な君を廃し太后が実権を握る (迎外藩新主入都 廢昏君太后登殿)

昭帝の親政と崩御

  • 昭帝は十八歳で冠礼を行い、まもなく丞相田千秋が没した。後任の王訢もすぐに病没し、楊敞が丞相となったが、実権は依然として霍光が握った。
  • 昭帝は民の負担軽減のため口賦の減税を行うなど善政を敷いたが、二十一歳で病により崩御。在位十三年、子はなかった。

昌邑王賀の擁立

  • 後継として広陵王胥が候補に挙がったが、霍光は素行不良を理由に退け、代わりに武帝の孫・昌邑王賀を擁立することとした。上官皇后の命として使者を送り、賀を迎えた。
  • 賀は幼少より放縦な人物で、中尉王吉や郎中令龔遂の諫言をまったく聞き入れなかった。不吉な兆し(白犬、白熊、血の夢)が続いたが、賀は反省しなかった。

賀の入都とその不行跡

  • 長安への道中も賀は遊興にふけり、従者を多く連れて驛馬を疲弊させ、龔遂の説得でようやく人数を減らした。濟陽では不要な土産を買い漁り、弘農では民間の婦女を無理に側に置くなど不行跡を重ね、龔遂がこれを咎めて処罰した。
  • 都に入っても喪に服す態度を欠き、龔遂に促されてようやく形だけ哭礼を行った。上官皇后(太后)により皇太子に立てられ、即位した。

霍光による廃位の決断

  • 賀は即位後も淫楽にふけり、龔遂の諫言も長楽衛尉安楽の消極姿勢もあって改まらなかった。
  • 霍光は大司農田延年と謀り、伊尹が太甲を廃した故事を引いて廃位を決意。車騎将軍張安世とも密議した。
  • 光祿大夫夏侯勝の諫言をきっかけに、霍光は廃位の決断を固め、丞相楊敞や群臣を集めて同意を取り付けた。田延年が剣を按じて群臣に決断を迫る場面もあった。

廃位の実行

  • 群臣連署の上奏文により、上官太后の名で賀の淫乱・不孝の数々の罪状(従官の淫楽、皇太后の車馬の私用、宮女との淫乱など)が読み上げられ、賀は皇帝位を廃された。
  • 賀は昌邑に戻され、王号を除かれて食邑二千戸のみを与えられた。従った昌邑の臣下二百余人は多くが処刑され、王吉・龔遂は減刑、王式も死を免れた。
  • 太后は当面政務を代行し、次の後継者選びが群臣の議に委ねられることとなった。

評語

  • 昌邑王賀の擁立自体は不可能な選択ではなかったが、事前の見極めが不十分であったと評される。道中の不行跡を知りながら迎え入れた点で霍光の落ち度も指摘される。
  • 廃立という重大事を専断で成し遂げた点は伊尹には及ばないが、後世の簒奪者とは一線を画す忠臣であったとまとめられる。