前漢演義第七十七回 武帝は過ちを悔い輪台の詔を下し、遺言で幼帝の輔佐を託す (悔前愆痛下輪台詔 授顧命囑遵負扆圖)

皇位継承をめぐる思惑

  • 武帝には六人の男子がおり、太子据の死後、齊王閎は既に没し、燕王旦・広陵王胥・昌邑王髆・鉤弋子弗陵が残った。燕王旦は自ら宿衛を志願したが許されなかった。
  • 貳師将軍李広利は甥の昌邑王髆を太子に立てようと丞相劉屈氂と結び、両家は姻戚関係にあった。

対匈奴遠征と劉屈氂の破滅

  • 匈奴が五原・酒泉に侵攻し、武帝は李広利・馬通・商邱成に出兵させた。広利は緒戦で勝利したが、内官郭穰の密告により、丞相劉屈氂と広利が昌邑王擁立を謀り、丞相夫人が呪詛を行っていたことが発覚。劉屈氂は腰斬、妻子も処刑された。
  • 広利は退くに退けず戦い続けたが、燕然山で匈奴に包囲され、進退窮まって匈奴に降伏した。単于に厚遇されたが、後に衛律の讒言により祭祀の生贄として殺された。

輪台の詔と武帝の悔悟

  • 武帝は李氏一門を族誅する一方、方士への不信を強め、東巡でも神仙を得られなかったことから、群臣に「これまでの狂悖を悔いる」と語った。田千秋の進言で方士を退け、還都後に丞相へ任じた。
  • 桑弘羊の屯田策を退け、「輪台の詔」を下して民の負担軽減と武備の縮小を宣言し、以後は用兵を控えるようになった。趙過の代田法により農業も改善した。
  • 田千秋の勧めもあり、武帝はさらに徳を修め刑を省みる詔を重ねて発した。匈奴の単于からは田千秋の急な抜擢を皮肉られる一幕もあった。

金日磾の忠義と馬何羅の逆謀

  • 甘泉宮で武帝の侍中僕射・馬何羅が謀反を企て、駙馬都尉金日磾が取り押さえて未然に防いだ。馬何羅一族は誅殺された。
  • 金日磾は子の不行跡を自ら罰するなど厳格で忠実な人物として武帝に深く信頼された。

鉤弋夫人の死と後継の定め

  • 武帝は太子の死後、後継を定めておらず、幼い弗陵を後継に望むが、その母鉤弋夫人が若く、将来の外戚専横(呂后の再来)を恐れた。
  • 霍光に周公輔成王の図を賜って意中を示し、鉤弋夫人には言いがかりをつけて死を賜った。「主少母壮」の弊害を防ぐためと周囲に説明した。

武帝の崩御と顧命

  • 五柞宮で病に倒れた武帝は、霍光・金日磾に後事を託そうとしたが、金日磾は自ら辞退し霍光を推挙。結局、霍光を大司馬大将軍、金日磾を車騎将軍、上官桀を左将軍とし、丞相田千秋・御史大夫桑弘羊とともに幼主を輔けさせた。
  • 武帝は五柞宮で七十一歳で崩御。在位五十六年、改元十一回に及んだ。儒学振興・郊祀改革などの功績がある一方、晩年の失政も多かったが、輪台の詔による悔悟と後継の措置が評価された。

昭帝の即位と霍光の輔政

  • 太子弗陵が即位して昭帝となる(時に八歳)。霍光が実権を握り、昭帝の姉・鄂邑公主(蓋長公主)を宮中に入れて後見させた。
  • 即位直後、御璽をめぐる混乱があったが、尚符璽郎が職務を全うして事なきを得た。霍光は鉤弋夫人を皇太后に追尊し、武帝を「孝武皇帝」と諡した。

評語

  • 太子据の死、劉屈氂の誅、李広利の降伏という一連の出来事は、武帝を晩年の悔悟へと向かわせた。
  • 武帝は秦始皇と多くの点で似るが、輪台の詔で過ちを悔い、少子への継承と霍光への託孤によって秦の滅亡を免れた点に知人の明があったと評される。