前漢演義第七十六回 巫蠱の獄で丞相一族が滅び、皇太子は泉鳩里で命を落とす (巫盅獄丞相滅門 泉鳩裡儲君斃命)

酷吏の跋扈と盗賊の蜂起

  • 漢廷は長年の遠征で賦役が重く、廷尉杜周ら酷吏が法を弄んで民怨を招き、山東一帯で盗賊が頻発した。
  • 武帝は直指使者・范昆らに二千石以下を専断で誅殺する権限を与えて鎮圧に当たらせたが、乱殺のみで平定できなかった。捕らえきれない場合は郡吏まで死罪とする「沈命法」を新設し、直指使者暴勝之は容赦なく威を示した。
  • 渤海の雋不疑が暴勝之を諫めて寛政に転じさせ、後に青州刺史に推薦された。繡衣御史王賀は逆に多くを見逃し、子孫の繁栄を予言した。
  • 趙王門下から身を起こした江充は、趙太子丹の醜聞を暴いて長安に逃れ、容貌を買われて直指使者となり貴戚を取り締まった。太子据の家人の車馬を咎めて武帝に直訴し、水衡都尉に昇進した。

巫盅の兆しと後宮の動揺

  • 太始・征和と改元が続く中、武帝は建章宮で幻の剣客を見たと騒ぎ、上林を大捜索させたが何も見つからなかった。以後、疑心暗鬼が募った。
  • 長安には巫覡の出入りが盛んで、丞相公孫賀の子・敬聲が北軍の公金を流用して捕らえられた。賀は俠客朱安世を捕らえて贖罪しようとしたが、安世は獄中から敬聲と陽石公主の私通・呪詛を告発。杜周が厳しく取り調べ、公孫賀父子は獄死、衛伉・陽石公主・諸邑公主も連座して死を賜った。
  • 武帝は動じず、涿郡太守劉屈氂を左丞相に起用した。

後宮の寵姫争いと鉤弋夫人

  • 老いてなお色を好んだ武帝は、尹婕妤と邢娥を争わせて「尹邢避面」の逸話を残した。
  • 河間の趙氏女・鉤弋夫人は不思議な逸話とともに入宮し、十四月の懐妊を経て弗陵を産んだ。武帝は堯の故事になぞらえて鉤弋宮を「堯母門」と呼んだ。
  • 武帝は悪夢に苦しみ心身が衰え、公孫賀事件以来ますます疑心を深めていった。

江充の巫盅捜査と太子への迫害

  • 江充は武帝の夢を巫盅の祟りと断じ、胡巫を使って各地で木偶を掘り出させ、拷問によって偽の自白を強要し、数万人を死に至らしめた。
  • 衛皇后の寵が衰える中、太子据は温厚さゆえに冤罪を晴らす立場にあったが、黄門郎蘇文らの讒言や江充の追及で追い詰められていった。
  • 江充は武帝が没した後の報復を恐れ、太子を除こうと画策。武帝が甘泉宮で療養中、胡巫檀何を使って宮中の盅気を訴えさせた。

太子の挙兵と江充誅殺

  • 江充は皇后・太子の両宮を捜索させ、東宮から帛書まで見つけたと称した。少傅石德の進言を受け、太子はやむなく詔を偽って江充を捕らえ、これを斬り、胡巫檀何も焼き殺した。
  • 事態は蘇文らの讒言で武帝に「太子謀反」と伝わり、武帝は丞相劉屈氂に討伐を命じた。太子は囚人を赦して兵を集め、長安で丞相軍と数日にわたり激戦となったが、次第に劣勢となった。

太子の逃亡と衛皇后の死

  • 太子は復盎門から脱出しようとしたが門は閉ざされ、司直田仁が見逃して逃した。田仁は後に処刑され、彼を庇った暴勝之も自殺に追い込まれた。
  • 武帝は衛皇后の璽綬を取り上げさせ、皇后は自ら命を絶った。太子妃妾や東宮の属吏も連座して誅殺された。

令狐茂の諫言と太子の最期

  • 壺関の三老・令狐茂が上書し、太子は江充の迫害から逃れるために已むを得ず兵を挙げたのであり、謀反の意図はなかったと弁護した。武帝はやや心を動かされたが、赦免には至らなかった。
  • 太子は湖県の泉鳩里に潜伏していたが、旧友を頼ろうとしたことから発覚し、新安令李寿に囲まれて自ら首を吊った。二人の子も抗戦の末に落命した。

冤罪の露見と思子宮

  • 後に巫盅の証拠の多くが誣告と判明し、太子には反意がなかったことが明らかになった。高寝郎車千秋の上書で武帝は感じ入り、江充の一族を滅ぼし、蘇文を焼き殺した。
  • 武帝は湖県に思子宮・帰来望思台を築いて哀悼を示した。太子の死後、諸子が後継の座を争い、新たな禍が起きることになる。

評語

  • 衛子夫は歌女から皇后にまで昇ったが、一族の栄華は儚く終わった。公孫賀は妻の縁で出世しながら、子の驕奢を許して身を滅ぼした。
  • 江充の讒言に端を発した父子相克の悲劇は、太子の敗死・衛皇后の死・衛氏一門の没落へと連鎖した。
  • 武帝は子孫のために天下を治めながら、自らその子孫を滅ぼす結果を招いた。思子宮を築いても失われたものは戻らないと嘆く。