前漢演義第七十五回 蘇武は匈奴の庭で節義を貫き、李陵は砂漠で敗れて降伏する (入虜庭蘇武抗節 出朔漠李陵敗降)
対匈奴強硬論と一時的和平
- 大宛を平定した武帝は再び匈奴討伐を志し、高祖の平城の恥、冒頓の呂后への無礼な書状などの国恥を挙げて雪辱を天下に布告した。太初四年冬を経て翌年を天漢元年と改元した。
- 匈奴では兒単于が死去し、季父の呴犁湖、次いで弟の且鞮侯が単于位を継いだ。且鞮侯は漢を恐れ「自分は子の世代、漢天子は舅にあたる」と述べ、抑留していた漢使路充国らを送り返し和平を求めてきた。武帝はこれに応じ、丞相となった公孫賀(衛皇后の姉婿)らと相談し、中郎将蘇武に匈奴使者の送還と贈り物を託した。
蘇武、匈奴に抑留される
- 蘇武(字子卿、蘇建の子)は副使張勝・属吏常惠らと共に匈奴へ赴き使命を果たしたが、且鞮侯単于は横柄な態度で蘇武を留め置いた。
- 折しも、漢から匈奴に降っていた衛律の従者虞常が、渾邪王の甥緱王と共謀し単于母を拉致して漢に帰参しようと企てた。副使張勝はこの陰謀に加担していたが露見し、緱王は戦死、虞常は捕らえられて自白、張勝の関与も発覚した。
- 蘇武は連座を恐れて自刎を図るが救われる(一度目の九死に一生)。単于は左伊秩訾の進言で蘇武を助命し投降を迫った。蘇武は衛律の面前で再び自刎を図り、瀕死のところを治療されて蘇生した(二度目)。
- 衛律は蘇武に虞常・張勝を処罰する場で降伏を迫ったが、蘇武は毅然として拒み、衛律を「主を裏切り夷狄に降った者」と厳しく非難した。単于はますます蘇武を降そうとし、地下の穴倉に閉じ込め食を絶ったが、蘇武は雪と旃毛を食べて生き延びた(三度目・四度目)。
- 単于はついに蘇武を北海(バイカル湖)へ流し、牡羊が子を産んだら帰してやると理不尽な条件を課して牧羊に従事させた。蘇武は野鼠や草の実を食べながら漢の使者の印である節を手放さず、孤独に年月を過ごした(五度目の生死の淵)。
貳師将軍李広利の苦戦と趙充国の武勇
- 武帝は蘇武からの音信途絶を機に李広利を再び匈奴へ派遣。緒戦で勝利するも匈奴右賢王の反撃で包囲され、仮司馬趙充国が決死の突撃で血路を開き、二十余の傷を負いながらも全軍を救った。武帝はこれを賞し趙充国を中郎に任じた。
李陵の出兵と敗北
- 侍中李陵(李広の孫)は騎都尉として匈奴に備えていたが、李広利軍への輜重輸送の任を望まず、独立して歩卒五千で匈奴に挑むことを申し出た。武帝は許可したが、路博德の後詰めは実現せず、李陵は単独で東濬稽山へ進軍した。
- 匈奴三万騎、続いて単于自ら率いる八万騎に包囲され、李陵軍は連戦しつつ後退。矢が尽き、車軸を武器に転用してなお戦い続けたが、内応者の密告で漢軍の実情(矢が尽きたこと)が敵に漏れ、包囲は狭まった。
- ついに夜襲で脱出を図るも失敗、副将韓延年は戦死し、李陵は「陛下に合わせる顔がない」と述べて投降した。部下の大半は戦死・離散し、生還したのはわずか四百余人であった。
司馬遷の受難
- 武帝は李陵の投降に激怒し、陳歩楽(先に戦況を報告していた騎士)は自殺、李陵の母・妻は投獄された。群臣は李陵を非難したが、太史令司馬遷だけは李陵の忠義を弁護した。武帝は激怒して司馬遷を投獄し、廷尉杜周の追及により宮刑に処された。司馬遷は後に『史記』を著すこととなる。
公孫敖の讒言と李陵一族の処刑
- 武帝は再度北伐を行うが(李広利・路博德・韓説・公孫敖の四路軍)大きな戦果なく終わった。武帝は公孫敖に李陵を連れ戻すよう命じていたが、公孫敖は失敗の言い訳として「捕虜の供述によれば李陵が匈奴軍を訓練している」との虚偽を報告した。
- 武帝はこれを信じ、李陵の母と妻を処刑してしまう。実際には、李陵に代わって匈奴に軍事指導をしていたのは別の降将李緒であった。李陵はこの誤解の元凶である李緒を刺殺し、匈奴の大閼氏の怒りを買って一時北方に身を隠したが、後に単于の娘を娶り右校王に立てられ、衛律と共に匈奴に仕える身となった。
評語
武帝は数十年にわたり武力による統治を続け、東西南の三方は平定できたが匈奴だけは屈服させられず、度重なる遠征も功を奏さなかった。且鞮侯単于の偽りの和睦に喜んで蘇武を派遣し、怒りに任せて李陵を出兵させたが、夷狄の多くは信用ならず、和睦の申し出も真意ではなかった。李陵にわずか五千の兵を与えて強大な匈奴に当たらせ、後詰めも与えずに孤軍を見殺しにしたのは武帝の落ち度である。蘇武が節を全うして死ななかったのは忠義の証であり、李陵が死ななかったのは結果として裏切りとなった。両者の心の在り方は異なるが、いずれも武帝の軽率な人選が招いた悲劇であり、読史する者は漢廷のためにこれを惜しむべきである。