前漢演義第六十九回 謀反を糾明し再び大獄を興し、戦功を立てた者が同胞を連れ帰る (勘叛案重興大獄 立戰功還挈同胞)
淮南王・衡山王の獄
- 朝廷の軍が淮南王宮を包囲し、謀反の証拠となる偽の璽印が発見された。劉安は服毒自殺、太子劉遷と王后荼は処刑された。
- 廷尉張湯が厳しく取り調べ、劉安と通じていた官吏・食客らを次々に処刑した。密告者の伍被も武帝の助命の意向にもかかわらず張湯の主張で処刑された。衡山王劉賜は確証がないとして連座を免れ、淮南国は九江郡とされた。
衡山王家の乱倫と破滅
- 衡山王劉賜の家でも後継争いが起こる。太子劉爽と、継母徐来・異母弟劉孝・異母妹無彩との間で互いに讒言と姦通が絡み合う骨肉の争いが続いた。
- 劉孝は徐来の侍女と通じ、劉爽もまた継母の徐来に言い寄ろうとして拒まれるなど乱倫が重なった。劉賜は太子劉爽を廃して劉孝を立てようとする。
- 劉孝の一味(枚赫・陳喜ら)が武器を偽造していたことが発覚し、張湯の取り調べにより劉賜は自殺、徐来・劉爽・劉孝ともに処刑された。淮南・衡山両案で株連は数万人に及んだ。
皇太子冊立と張騫の西域行
- 皇子劉拠(七歳)が皇太子に立てられる。
- 張騫は月氏との同盟を目指し西域へ出発するが、匈奴に十余年抑留され、その間に妻子を得る。脱出後に大宛・康居を経て大月氏に至るが、同盟の実は結べず、帰途再び匈奴に囚われた末、単于家の内紛に乗じて漢に帰還した。
張騫の再挑戦と昆明の妨害
- 張騫は蜀経由で身毒(インド)方面への道を探る策を武帝に献じ、四路の使者を蜀方面に派遣したが、氐駹・昆明などの部族に阻まれ、財物を奪われて失敗。滇国王には歓待されたが道は開けなかった。
霍去病の戦功と李広の苦戦
- 武帝は昆明池を築いて水戦の訓練を始める一方、霍去病を驃騎将軍として出撃させ、匈奴の要人を討ち取る大戦果を収めた。
- 続く元狩二年の出撃では、李広がわずかな兵で匈奴左賢王の大軍に包囲されるが、子の李敢の奮戦もあって持ちこたえ、張騫の救援でかろうじて脱出した。霍去病は単独で祁連山まで進み大勝、諸将にも褒賞が下る。
霍去病と父子の再会
- 霍去病の武勇を胡人は歌に詠んで恐れた。武帝の勧めにも「匈奴未だ滅びず、何ぞ家を為さん」と答えるなど忠勇で知られる。
- 凱旋の帰途、生き別れていた実父・霍仲孺と再会し、異母弟の霍光を伴って都に連れ帰った。衛青・霍去病一族は五人の侯を出す栄華を極める。
衛皇后の寵衰え
- 衛皇后は年齢とともに寵愛が衰え、代わって王夫人が武帝の寵を得て男子(劉閎)を産んだ。衛氏一門の先行きを案じたある方士が衛青に策を進言する(趣旨の詩:栄華は女兄妹の縁によるもので、盛衰は常のことだと詠む)。
評語
- かつて袁盎は文帝が淮南王劉長を甘やかしたことを咎めたが、著者はむしろ高祖の代の後継争いの禍根が淮南・衡山両家の破滅にまで及んだと見る。骨肉相食む家庭の乱れが宗族滅亡を招いたのは、高祖の代からの因縁であると評する。
- 霍去病が実父と再会し弟を引き立てたことは孝友の美徳であり、「匈奴未だ滅びず何ぞ家を為さん」の言葉には愛国の熱誠が表れている。霍去病は武功のみならず人柄でも称えるべき将であると評する。