前漢演義第六十七回 倹約を失った旧友の不正を暴き、凱旋した大将は恩寵を受ける (失儉德故人燭隱 慶凱旋大將承恩)
斉王次昌の乱倫
- 斉王劉次昌は妻を疎み、母の紀太后の姪である紀翁主と密通するなど乱倫を重ねていた。紀太后は後宮の女官が次昌に近づかぬよう監視させていた。
主父偃の縁談と斉相就任
- 宦官の徐甲が王太后の娘・修成君の娘の縁談を斉王に持ちかけたが、紀太后が激怒して断った。主父偃も自分の娘を斉王の後宮に入れようとしていたため、この一件を恨みに思う。
- 主父偃は斉王の乱倫を武帝に告げ、自ら斉相として派遣される。故郷に錦を飾った主父偃は旧友に金を配って絶縁し、斉王宮の侍臣を取り調べて姦通の証拠を握った。
- 追い詰められた斉王次昌は自殺。武帝は主父偃が命令を超えて斉王を死に追いやったことを怒り、趙王彭祖や公孫弘の弾劾もあって主父偃を投獄、一族もろとも誅殺した。食客の中で孔車だけが遺骸を葬り、武帝はその忠厚を称えた。
公孫弘の出世と偽善
- 公孫弘は倹約を装って布団一枚で通していたが、汲黯にそれを偽善と指摘され、素直に非を認めて武帝の信任をかえって深めた。
- 故人の高賀が公孫弘の家に泊まり、粗食倹約が来客用の演出でしかないことを見抜いて暴露し、公孫弘の虚飾が知れ渡った。元朔五年、丞相薛沢に代わり公孫弘が丞相となり平津侯に封じられた。
汲黯・董仲舒の処遇
- 公孫弘は汲黯を治めにくい右内史に推薦するが、汲黯は慎重に事に当たり無事に務めた。
- 董仲舒も膠西相に推薦され、酷薄な膠西王劉端の下で務めるが、董仲舒の名声はかえって高まった。董仲舒は早めに辞職し、著述に専念して『春秋繁露』を著した。
張湯と倪寛
- 廷尉の張湯は公孫弘と気脈を通じ、武帝の意向を探って判決を左右する処世を得意とした。ある難しい裁決文を倪寛という属吏が見事に仕上げたことから、倪寛は張湯に重用されるようになった。
汲黯の直言
- 汲黯は張湯の法令の恣意的な運用を厳しく批判し、また武帝に「新参者が古参の上に立つ」と皮肉を言って諫めた。武帝は汲黯の言葉に一理あると認めつつも公然とは同調せず、汲黯を「学が足りない」とはぐらかした。
- 汲黯は大将軍衛青に対しても拝礼を省き対等の礼で接した。衛青はこれを咎めず、むしろ汲黯を賢者として厚遇した。
衛青、右賢王を破り大将軍となる
- 元朔五年、衛青が三万騎を率いて出撃し、匈奴右賢王の陣営を急襲。右賢王は愛妾と共に逃走したが、部下の大半と多数の捕虜・家畜を得る大勝利となった。
- 武帝は衛青を大将軍に昇進させ、その子らも列侯に封じた。公孫賀・李蔡ら諸将にも恩賞が下された。衛青が凱旋すると、ある寡居の公主が衛青との結婚を望むようになる(趣旨の詩:帝女の身でありながら操を軽んじることを風刺する)。
評語
- 主父偃は権謀により身を滅ぼしたが、公孫弘は同様に策謀家でありながら踏みとどまることを知っていたために名を全うした。汲黯や董仲舒への嫌がらせも度を越さなかった点で、主父偃とは異なる。
- 天道は驕りを憎むという道理に照らせば、主父偃の破滅はその驕りゆえである。衛青が汲黯の対等の礼を咎めず賢者として厚遇したのは、驕りを戒める道を知っていたからであり、それゆえ幸いにも終わりを全うできたと評する。