前漢演義第五十八回 即位した武帝に董仲舒が三策を進め、召しに応じ申公が二言を述べる (嗣帝祚董生進三策 應主召申公陳兩言)

周亜夫の獄死

  • 対簿で示された告発状は、亜夫の子が父の葬儀用に尚方の禁制品(甲楯五百具)を無断で買い入れ、運搬した人夫に賃金を払わなかったことに端を発する。人夫が逆恨みして「謀反の準備」と密告した。
  • 亜夫自身は全く関知していなかったが、大理(廷尉)は「地上で謀反せずとも、地下で謀反する気だろう」と揶揄する。亜夫は憤って一言も発せず、五日間絶食して血を吐き死去した。かつて相師許負の予言どおりの最期であった。

新たな人事

  • 景帝は亜夫の死を悼まず、弟の堅を平曲侯に封じて絳侯周勃の祭祀を継がせただけだった。皇后の兄王長君は蓋侯に封じられる。
  • 丞相劉舎は無為のまま罷免され、御史大夫衛綰が丞相に昇任。衛綰は文帝・景帝二代に忠実に仕えた実直な人物として知られる。御史大夫には清廉で知られる直不疑が任じられた。
  • 中尉には酷薄な寧成が起用される。景帝は晩年、疑獄の緩和や農桑奨励などの詔を発したが実効は乏しく、後元三年の初め、四十八歳、在位十六年で崩御した。

武帝の即位と儒学重視

  • 太子徹が十六歳で即位(武帝)。竇太皇太后、王皇太后を尊び、陳阿嬌を皇后に立てる。皇太后の生母臧児を平原君とし、その子田蚡・田勝もそれぞれ武安侯・周陽侯に封じた。
  • 武帝は即位後、丞相以下に賢良方正の士の推挙を命じ、董仲舒・公孫弘・厳助ら百余人が対策(策問への答申)に応じた。董仲舒の「天人三策」が特に高く評価される。
  • 董仲舒の対策は、天と人の感応、春秋の大義、儒学による一統(孔子の学以外は排斥すべし)を説くもので、武帝の意に最も適った。武帝はこれにより儒学を国是とする方向へ動くが、董仲舒自身は江都相に任じられ、朝廷には残されなかった。
  • 丞相衛綰は武帝の意向を汲み、申・商・韓非らの学(法家)や縦横家の説を修めた者の登用停止を上奏、武帝はこれを許すが、まもなく衛綰自身も罷免され、竇嬰が丞相、田蚡が新設の太尉に任じられた。田蚡は口才に長け武帝の信を得て、後年の禍根となる。

明堂辟雍の議と申公

  • 竇嬰・田蚡は儒者を求め、御史大夫に趙綰、郎中令に王臧を起用。二人は師の申公(もと楚の遺臣、詩経の大家)を招聘するよう武帝に進言し、申公は安車蒲輪の礼をもって長安に迎えられる。
  • 申公は高齢で、対面した武帝に「政治は多言よりも実行にある」とだけ述べ、多くを語らなかった。武帝はやや失望しつつも大中大夫とし、明堂辟雍などの制度整備を命じる。

竇太皇太后の反発と趙綰・王臧の死

  • 竇太皇太后は黄老思想を好み儒学を嫌っていた。趙綰が「陛下はすでに親政されているのだから、いちいち東宮(長楽宮)に伺いを立てる必要はない」と武帝に進言したことが太皇太后の耳に入り、激怒。趙綰・王臧を新垣平(かつて誅された方士)になぞらえて厳罰を求めた。
  • 武帝は祖母の意向に逆らえず、趙綰・王臧を免官・下獄させる。両名は誅を待たず自ら命を絶った。竇嬰・田蚡も連座して免官となった。

評語

武帝が儒者を重んじたのは真に学を好んだからというより、儒者の弁舌で太平を装おうとしたにすぎない。董仲舒の三策は公孫弘らより優れ、賈誼にも劣らぬものであったが、武帝は彼を朝廷に留め置かず地方に出した。申公は「実行こそ肝要」と説いたが、武帝はその戒めを用いなかった。竇太皇太后の妨害がなくとも、はたして真の儒治が実現したかは疑わしい。