前漢演義第五十七回 罪を問うも弟の梁王を庇い、肉を賜って条侯周亜夫を試す (索罪犯曲全介弟 賜肉食戲弄條侯)

郅都の最期

  • 竇太后は臨江王栄の非業の死を知って泣き、景帝に郅都の処刑を命じるが、景帝は忍びずいったん免官にとどめ、密かに雁門太守として辺境へ転出させる。郅都の威名により匈奴は畏れて退き、木偶に矢を射ても命中しないほどだったという。
  • 匈奴は郅都の処罰を漢に求め、当初景帝は取り合わなかったが、竇太后が「臨江王の仇を討て」と強く迫ったため、やむなく郅都を処刑させた。清廉だが酷薄な人物として、後世「酷吏」の代表とされる。

袁盎暗殺事件と梁王

  • 太常袁盎ら数名の大臣が暗殺される事件が起こる。景帝は梁王武が、太子廃立に反対した者たちへの恨みから刺客を放ったものと直感する。
  • 現場に残された剣を手がかりに、工匠から梁国の郎官が研ぎ直しを頼んだことが判明。景帝は田叔・呂季主を梁に派遣し犯人を追わせる。
  • 田叔は真の首謀者が梁王本人と知りつつも、梁王を庇い、実行を教唆した公孫詭・羊勝の身柄引き渡しを求める方針をとる。梁王は二人を匿うが、梁相軒邱豹・内史韓安国らに追及させる。

韓安国の逸話

  • 韓安国はかつて讒言で投獄され、獄吏田甲に辱められたが、「死灰復燃」の故事を口にした。後に内史に任じられて釈放されると、逃げた田甲が謝罪に来た際、寛大に許し不問に付した。
  • 韓安国は梁王に「太后・皇帝との近しさは、臨江王と景帝の父子関係にも劣るものではない、速やかに詭・勝を差し出さねば大王御自身が危うい」と説き、梁王は涙して二人に自裁を促す。二人は毒を仰いで死ぬ。

鄒陽の周旋

  • 梁王は事件の収拾のため、忠直の士鄒陽を長安に遣わす。鄒陽は皇后の兄・王信(長君)に接近し、「梁王が誅されれば太后が悲嘆し、その怒りは長君にも及ぶ」と説く。
  • 王信はこれに従い景帝に「舜が弟の象を厚遇した故事」を引いて梁王への寛大な処置を勧め、景帝の怒りは和らぐ。
  • 田叔・呂季主も梁での取調べの記録を焼き捨て、「梁王を追及すれば太后が悲しみ、陛下も孝を欠く」と復命し、竇太后も安堵する。

梁王の帰順と免罪

  • 梁王は身をやつして関に入り長公主邸に匿われたのち出頭し、景帝はこれを許す。竇太后は再会を喜ぶ。
  • 帰国後、梁王と王信はともに周亜夫(呉楚の乱で梁を見殺しにした恨み、王信の封侯を阻んだ恨み)を除こうと画策し、それぞれ景帝に讒言する。
  • 匈奴からの降将(もと燕王盧綰の孫・盧它人ら六名)の処遇をめぐり、周亜夫は「叛臣の子孫を侯に封じるべきでない」と諫めるが、景帝は不快感を露わにして退け、六名全員を侯に封じた。周亜夫は失望し、病と称して辞職を願い出て許される。
  • 桃侯劉舎が丞相に代わり就任。景帝改元後六年には劉舎の建議で官名の改称が行われた(郡守を太守、廷尉を大理などとする改称)。
  • 帰国した梁王武は数か月後、奇怪な牛を見て驚き病を得て急死する。竇太后は激しく悲嘆し景帝を責めるが、長公主の取り成しにより梁王に「孝王」の諡号を贈り、その五人の子をすべて王に封じることで太后の心を慰めた。梁王は在位三十五年、莫大な富を蓄えていたが、太后への孝心だけは終始篤かったと評される。

周亜夫、疑われる

  • 梁王死後(景帝後元年)、景帝は梁王の生前の讒言を思い出し、周亜夫の真意を試そうと宮中に召し、酒宴を設ける。膳には大きな肉塊のみを置き、箸を与えないという奇妙な待遇をした。周亜夫が箸を求めると、景帝は皮肉げに応じ、亜夫は憤然と席を立って退出する。
  • 景帝は「この者は不満げで、後継の主に仕えるにふさわしくない」と評し、数日後、亜夫は突然対簿(尋問)を命じられる。

評語

袁盎の死は孔子が少正卯を誅した故事に通じ、殺されても仕方ない面はあるが、孔子は君主の許しを得て行ったのに対し、梁王は私的に刺客を放った点で擅殺の罪を免れない。だが梁王は竇太后の愛子であり、誅すれば太后を深く傷つけ、景帝は弟殺し・母を苦しめる罪を負うことになる。田叔が公孫詭・羊勝に罪を帰し記録を焼いて穏便に収めたのは賢明であった。周亜夫の忠直は袁盎らに勝るものであったのに、直言を疎まれ、食事に箸を与えぬ辱めを受け、ついには無実のまま獄死に追い込まれたのは冤罪というべきで、痛惜に堪えない。