前漢演義第五十五回 太尉が叛乱を平定して功を立て、弱小の王は隣国に助命を乞う (平叛軍太尉建功 保孱王鄰封乞命)

亜夫の持久戦と夜襲撃退

  • 糧道を断たれた呉王濞は周亜夫の軍を先に攻めることとし、下邑で対峙した。亜夫は弓弩を配して守りに徹し、軽率な出撃を許さなかった。
  • 夜、陣中が騒然としても亜夫は動じず鎮圧した。呉楚軍は東南から陽動、西北から本隊で夜襲を仕掛けたが、亜夫は事前に見抜いて迎撃し、多数を討ち取って一兵も失わず撃退した。

灌孟・灌夫父子の奮戦

  • 漢軍校尉灌孟は呉軍に単騎で斬り込み奮戦の末に戦死。子の灌夫は父を救おうとしたが及ばず、後に私兵を率いて夜襲をかけ、呉王本営にまで斬り込んで重傷を負いながら生還した。

呉楚の敗走

  • 兵糧が尽きた呉王濞は太子駒と少数の親兵を連れて夜陰に紛れて東へ逃走、残された二十万の兵は総崩れとなった。楚王戊は自ら首を刎ねて死んだ。
  • 呉王父子は東越(東甌)に落ち延びたが、周亜夫の使者の要請を受けた東越王に謀殺され、首は長安に送られた。太子駒のみ閩越へ逃れた。
  • 周亜夫はわずか三月で呉楚の乱を平定し凱旋した。

斉の攻防と路中大夫の忠義

  • 膠西・膠東・菑川の三国連合軍に包囲された斉の都・臨淄では、使者路中大夫が敵に捕らえられながらも偽りの降伏勧告を拒み、城壁の下で「漢の援軍が来る、決して和議に応じるな」と叫んで斬られた。斉王はこれに奮起して籠城を続け、欒布・曹襄の援軍とともに三国軍を撃退した。

膠西王卬らの最期

  • 敗れた膠西王卬は弓高侯韓頺当に降伏を請うたが、鼂錯誅殺だけでは説明のつかない斉への攻撃を咎められ、自刃した。母・子も後を追い自尽。膠東王雄渠・菑川王賢・済南王辟光もそれぞれ自殺した。
  • 趙王遂は邯鄲に籠城したが、酈寄・欒布の連合軍が水攻めで城を落とし、遂も自殺して七国の乱は平定された。

済北王志の救済

  • 膠西王と通謀していた済北王志は郎中令に阻まれ挙兵できずにいたが、斉滅亡の報に絶望し自殺しようとした。家臣公孫玃が梁王武に働きかけて弁明したことで、景帝は済北王を赦免し菑川へ転封した。

戦後処理

  • 竇嬰は魏其侯、欒布は鄃侯に封じられた。斉王将閭は脅迫されて加担したとして罪を問われず、諡を贈られ子の壽が跡を継いだ。呉・楚の後嗣封建は竇太后の反対で見送られた。楚には劉礼(元王の子)が封じられ、呉の旧地は魯・江都の二国に分けられた。

太子廃立の伏線

  • 翌年、景帝は栗姫の子・栄を皇太子に立てた。栗姫は寵を頼みに薄皇后を廃させることに成功したが、後に自身も皇后になれず、栄も廃されて憤死する(詳細は次回)。

評語

呉楚両王が梁で足踏みし西進を急がなかったことは大きな失策であり、周亜夫の巧みさだけでなく彼ら自身の失策も敗因である。灌夫の復讐、路中大夫の殉節は後世に語り継ぐべき忠義である。公孫玃が一言で済北王を救ったように、忠臣の有無が国家の存亡を分ける。七王の滅亡はすべて自ら招いた結果であり、憐れむには値しない。