前漢演義第四十八回 賈誼は衆に妬まれ左遷され、袁盎は后妃の礼を正し強く諫める (遭眾忌賈誼被遷 正閫儀袁盎強諫)
陳平の死と周勃の再任
丞相陳平は数か月で病死し、文帝は厚く弔って献の諡を贈り、長子賈に爵位を継がせた。陳平は自ら「陰謀を多く用いたため、子孫は久しく安泰ではあるまい」と語っていたが、後に曾孫陳何が人妻を奪った罪で処刑され、封を絶たれた。丞相の空席には再び周勃が任じられた。
賈山の上奏
日食を機に文帝が賢良方正の直言を求めると、潁陰侯の騎士賈山が秦の滅亡を例に、君主が諫言を容れず遊猟に耽ることの危うさを説く上奏を行った。秦は民を酷使し財を搾り取ったために一夫の蜂起で滅んだこと、いま文帝の徳政が実を結びつつあるさなかに遊猟に興じては大業を損ないかねないことを説き、明堂・大学を建てて先王の道を修めるよう勧めた。文帝は好んで狩猟に出ていたが、この諫言を嘉納し、以後上書を熱心に受け入れるようになった。
賈誼の登用と左遷
洛陽出身の若き俊才賈誼は、河南守呉公に見出され、文帝に召されて博士となった。年若いながら政議に的確な意見を述べ、一年で大中大夫に抜擢された。賈誼は改暦・服色の改定・官制整備・礼楽の興隆を献策し、また籍田の礼や列侯の就国も進言して採用された。文帝は賈誼をさらに要職に就けようとしたが、丞相周勃・太尉灌嬰・東陽侯張相如・御史大夫馮敬らが「洛陽の若造が権を専らにしようとしている」と讒言し、文帝はやむなく賈誼を長沙王太傅に出した。賈誼は不満を抱いたまま南下し、湘水を渡る際に讒言により放逐され自沈した楚の屈原を弔う賦を作った。長沙で三年を過ごすうち、不吉とされる鵩鳥が部屋に舞い込み、賈誼は自らの身の上に重ねて「鵩鳥賦」を作った。
劉章・劉興居の不満と反乱
諸呂誅滅の第一の功労者朱虚侯劉章と、宮中粛清に功のあった東牟侯劉興居は、周勃らから趙王・梁王に封じるとの内約を得ていたが、文帝即位後、周勃はこれを反故にして自ら厚賞を受けた。文帝も、劉章がかつて兄を帝位に推そうとしたことを快く思わず、二人への恩賞を渋った。二年後、皇子や劉氏一族への封王が行われた際、劉章は斉の地を割いて城陽王に、劉興居は済北王に封じられたが、いずれも斉国を削る形に過ぎず、望んでいた趙・梁の大国には遠く及ばなかった。二人は周勃に裏切られたと恨みを抱いた。文帝はこれを察し、列侯の就国を促す名目で周勃を丞相から免じ、絳へ帰らせた。
灌嬰の丞相就任と済北王の反乱
灌嬰が丞相となって数か月後、匈奴の右賢王が上郡に侵入し、文帝は灌嬰に八万の車騎を発して迎撃させ、自らは甘泉宮に出向いて後詰めとした。匈奴が退いた後、太原に留まって代国の旧臣を労っていたところへ、済北王劉興居の反乱の報が届く。兄劉章が鬱憤のうちに病死した後、興居は文帝の匈奴出征で関中が手薄と見て挙兵したが、柴武の軍に滎陽で大敗し、逃走中に落馬して捕らえられ、護送中に自尽した。文帝は悼恵王(斉王)の諸子七人を列侯に封じたが、済北国は廃された。
上林苑の嗇夫と張釈之
文帝が上林苑を巡幸した際、虎圏の禽獣について上林尉が答えられなかったのに対し、嗇夫が能弁に答えたため、文帝は嗇夫を上林令に抜擢しようとした。従臣の張釈之は「口達者なだけの者を重用すれば秦の二の舞になる」と諫め、文帝はこれを容れて取りやめ、逆に張釈之を宮車令に昇進させた。
張釈之の直諫
太子啓と梁王が司馬門を車のまま通過した際、張釈之はこれを法により弾劾し、薄太后の介入でようやく赦された。文帝は釈之の厳正さを評価し、中大夫、次いで中郎将に昇進させた。霸陵行幸の際、文帝が「北山の石で堅固な棺槨を作れば誰も動かせまい」と語ると、釈之は「中に珍宝があれば、いかに堅固でもいずれ暴かれる。なければ石槨がなくとも案ずるに及ばない」と答え、文帝はこれに納得し、後に釈之を廷尉に任じた。
袁盎の直諫三題
張釈之を推挙したのは袁盎であった。袁盎はかつて宦官趙談が文帝の車に同乗するのを「刑余の者と天子が同車すべきでない」と諫めて下車させ、また霸陵で文帝が急坂を馬で下ろうとした際には手綱を取って「聖主は危険を冒さぬもの」と諫止した。さらに上林苑で竇皇后と慎夫人が並んで座ろうとした際、袁盎は慎夫人を下座に退かせた。慎夫人が不満を示すと、文帝は不興げに席を立ってしまったが、袁盎は後に「皇后と妾との序列を乱せば、寵愛が仇となり『人彘』の惨事を招きかねない」と諫め、文帝は悟って怒りを解いた。事情を知った慎夫人も袁盎に感謝し、黄金五十斤を贈った。
淮南王劉長が入朝し、都で大きな事件を起こしたが文帝はこれを赦して帰国させることになる。これに袁盎がまた直諫することになるが、詳細は次回に語られる。
評語
賈誼は若くして文帝の破格の抜擢を受けたが、その才は人主を動かすに足りても、老臣たちの信を得るには至らなかった。絳侯・灌嬰ら開国の功臣と手を結ぶことなく事を進めようとしたことが、長沙左遷を招いた一因である。屈原を弔い鵩鳥賦を作ったのも、忍耐の工夫に欠け、読書はしても修養が足りなかったことの表れである。張釈之の直諫は取るべき点が多いが、なかでも袁盎が趙談の同車を退け、文帝の下坂を諫め、慎夫人の並座を正した三事はとりわけ要を得ている。もし袁盎が常にこの調子であったなら、学に乏しいとの譏りも受けなかったであろう。文帝が諫言に素直に従い過ちを改めることを厭わなかった点は、まさに一時の明主と呼ぶにふさわしい。