前漢演義第三十七回(第037回)
田叔ら趙の家臣を登用
貫高の自害後、趙王家臣の田叔・孟舒ら十余人が趙王の冤罪を弁じて高祖に評価され、郡守や諸侯国の相に任命された。張敖は宣平侯に降格され、如意が趙王に移封、代は陳豨が守ることになった。周昌が趙相から御史大夫に転じ汾陰侯となる。口下手ながら剛直で直言する人物として描かれる。
周昌の諫言
周昌が高祖と戚姫の睦まじい場面を目撃してしまい、高祖に問い詰められて「桀紂のようだ」と直言する逸話が語られる。
戚姫の寵愛と太子廃立問題
戚姫が如意を太子にと涙で懇願し、高祖も心動くが群臣の強い反対に遭う。廃立の議論の場で周昌が「期期」と口ごもりながらも強く反対し、議論を止めさせた。呂后が陰でこれを聞いており、周昌に深く感謝する場面が続く。
趙堯の献策
戚姫・如意の身の安全を案じる高祖に、掌璽御史趙堯が「周昌を趙相として配置すべき」と進言。周昌は不満ながらも赴任し、趙堯は後任の御史大夫となった。
太上皇の崩御
高祖十年七月、太上皇が新豊で発病し櫟陽宮で崩御。櫟陽の北原に葬られた。
陳豨の謀反
代相陳豨が賓客を多く抱え兵権を握るなか、淮陰侯韓信との密約(豨が挙兵すれば信が都で内応する)が語られる。趙相周昌の密告を受け高祖が調査させたところ不穏な動きが確認され、陳豨は挙兵して代王を自称した。高祖は自ら出征して邯鄲に至り、周昌の進言で被害の少ない守将らを赦免。周勃・樊噲・灌嬰らの各方面軍が順調に勝利を重め、東垣も陥落した。陳豨は匈奴へ逃亡し、呼応していた韓王信も柴武に討たれて戦死した。
代王の交代
代・趙の地を再び分割し、薄姫所生の皇子恒を代王に立てた。高祖の寵を失っていた薄姫は、かえってこれにより恒母子ともども平穏な余生を得ることになる。
評語
周昌が太子廃立に強く反対したことは正道を守った行いである。呂后が後に権力を専断するに至った根本原因は、太子廃立問題ではなく高祖が韓信・彭越を誅殺したことにある。高祖が戚姫と離れがたく周昌一人を趙へ送ったために、呂后への備えが不十分だったとの指摘もある。陳豨の謀反は韓信の教唆に始まるが、最終的に不忠を働いたのは陳豨自身の責任であるとまとめられる。