前漢演義第三十六回 深宮の宴で父の長寿を祝い、獄に繋がれ死を賭して王の冤罪を訴える (宴深宮奉觴祝父壽 系詔獄拚死白王冤)
白登脱出
冒頓単于の閼氏の説得で囲みの一角が開かれる。陳平の進言により弓弩手に守らせながら高祖は徐々に下山し、匈奴軍は攻撃を仕掛けず、高祖は平城で歩兵と合流できた。冒頓は高祖の落ち着いた様子に他に策があると疑い、追撃せず兵を引いた。高祖は帰還後、誤った偵察を行った者はすでに処刑したと述べて劉敬を赦免・厚遇し(関内侯、のち建信侯)、夏侯嬰にも加増した。曲逆県を通った際は陳平の功績(六出奇計)を称え曲逆侯に改封した。
論功と諸王の処遇
匈奴侵入に対応できず代から逃げ帰った劉仲を高祖は叱責し、合陽侯に降格。代わりに幼い少子如意を代王とし、陳豨を代相として先に赴任させた。
未央宮の造営
蕭何が咸陽の宮殿(未央宮など)の完成を報告。高祖は当初その豪奢さを怒るが、蕭何は「天子の威厳を示すため」と弁明し、高祖は納得する。未央宮の周囲に城壁を築いて長安と名付け、遷居した。
柏人県での予感
高祖が柏人県に宿泊しようとした際、県名の音が「迫る」に通じることを嫌って急遽出発。これが後に貫高らの刺客計画から逃れる結果になったことが後段で判明する。
未央宮での祝宴
高祖九年正月、未央宮で太上皇を迎えて祝宴を開く。高祖は戯れに、以前無頼者と言われた自分と兄との財産・功業を比較する話を持ち出した。
劉敬の和親策と豪族移住
匈奴対策として劉敬が和親策(公主を単于に嫁がせ、子孫を通じて服属させる)を提案。高祖は呂后に長女(魯元公主)の嫁入りを相談するが、呂后は既に趙王張敖に嫁ぐ約束があるとして激しく反対。結局本物の公主は張敖に嫁がせ、後宮の娘を偽の公主として匈奴に送った。劉敬はさらに、六国旧貴族や豪族を関中に移住させる策を進言し、高祖はこれを実行して十余万人を移住させた(のちに三輔の治安が乱れる遠因になったと語られる)。
貫高・趙午の謀反企図
高祖が趙を通過した際、趙王張敖への侮辱に憤った貫高・趙午が、張敖に無断で暗殺を計画。張敖は拒否するが二人は密かに刺客を放って実行を試みた。しかし柏人での宿泊中止により未遂に終わった。
貫高の拷問と忠義
密告により謀反が発覚し、趙王張敖・貫高らが捕縛される。趙午らは自害するが、貫高は激しい拷問に耐えながら「謀は自分たちだけのもの、王は無関係」と主張し続けた。中大夫泄公の見舞いと説得を経て高祖は張敖の無実を認め赦免。貫高は自らの目的(王の潔白を証明すること)を果たしたとして自害した。
評語
高祖の言動は総じて粗豪な気質そのもので、祝宴での兄との比較や、既に嫁ぐ約束のあった魯元公主を匈奴へ再嫁させようとした一件などに表れている。貫高らの謀反企図も、元をたどれば高祖が張敖を侮辱したことに端を発する。貫高が族滅を恐れず王の無実を貫いたのは信義に厚いが、そもそも弑逆を図ったこと自体は許されない行為である。高祖の「豁達大度」との評判も、実は粗豪さの表れに過ぎないのではないか、という論評で結ばれる。