前漢演義第三十回 奇策で龍且を斬り勝ちを収め、鴻溝を境に和議して家族を迎える (斬龍且出奇制勝 划鴻溝接眷修和)

漢王、負傷を隠して軍中を巡回

  • 項羽が漢王の死を待って攻めようとする中、張良は漢王に無理を押して軍を巡回させ、健在ぶりを示して兵の動揺を鎮めさせた。漢王は巡回後に成臯へ戻り療養した。項羽は漢王の生存を知って攻めあぐね、そこへ大将・龍且の敗死の報が届いて大きく動揺した。

韓信、濰水の水攻めで龍且を破る

  • 龍且は二十万の援軍を率いて斉に入り、斉王田廣と合流して濰水を挟んで韓信と対陣した。部下の諫言(漢軍と正面から戦わず、堅く守って持久戦に持ち込むべし)を退け、韓信を見くびった龍且は決戦を挑んだ。
  • 韓信は夜のうちに部将・傅寬に命じて濰水の上流を土嚢で堰き止めさせ、翌日わざと少数で渡河して交戦し、劣勢を装って退却した。龍且は勝ちに乗じて水の減った川を渡って追撃したが、韓信軍が合図の狼煙を上げると堰が切られて水位が急上昇し、渡河中の楚兵の多くが押し流された。西岸に渡りきった龍且・周蘭ら二、三千騎は、韓信・曹参・灌嬰の三方からの挟撃を受けて全滅、龍且は討たれ周蘭は捕らえられた。
  • 敗報を聞いた斉王田廣は高密から城陽へ逃れる途中で漢兵に捕らえられ、酈食其を煮殺した罪を問われて斬られた。灌嬰・曹参はそれぞれ田橫・田既ら斉の残党を掃討し、斉地は完全に平定された。

韓信、斉王の位を求める

  • 斉を平定した韓信は、漢王に「斉は反覆常なき地であり、南は楚に近いため、仮に自分を仮の斉王としてほしい」と願う書状を送った。困窮していた漢王は当初激怒したが、張良・陳平に「今は韓信を引き留めておくべき時」と諭され、「大丈夫たるもの仮王でなく真の王になれ」と態度を翻し、張良を遣わして韓信を正式に斉王に封じた。

武涉と蒯徹、韓信に離反を説く

  • 項羽の使者・武涉は、漢王の貪欲さと将来的な裏切りの危険を説き、楚と結んで天下三分の形勢を築くよう韓信を勧めたが、韓信は漢王への恩義を理由にこれを拒んだ。
  • 続いて謀士・蒯徹が、韓信の立場が張耳・陳餘のように友誼が仇に転じかねないこと、また功績が大きすぎる臣はかえって主君に危険視される(「狡兎死して走狗烹らる」の理)ことを説き、楚漢いずれにも与せず独立して天下を三分するよう勧めた。韓信は動揺しつつも漢王への忠義を貫く決意を変えず、蒯徹は身の危険を避けて狂人を装い姿を消した。韓信は結局、楚討伐への出兵を控えたまま漢王の動向を窺い続けた。

侯公の使いと鴻溝の講和

  • 広武で対峙が長引く中、漢王は英布を淮南王に封じて九江へ、彭越には梁地への侵攻を命じて楚の背後を脅かす一方、人質の太公・呂后の身を案じ、洛陽出身の侯公を使者として楚に和睦を求めさせた。
  • 兵糧が尽きかけていた項羽のもとで、侯公は「戦えば勝敗は測りがたく、両軍とも疲弊している」と説き、講和と太公・呂后の返還を求めた。項羽の心情に訴える巧みな弁舌(父を殺さず妻を辱めず、捕らえた者を解放することが仁・義・孝の三徳を示す)に項羽は心動かされ、項伯とも協議のうえ、鴻溝を境として東を楚・西を漢とする和議が成立した。
  • 太公・呂后・審食其は無事に漢へ返され、漢王は侯公を平国君に封じて労をねぎらった(漢四年九月)。項羽は東へ撤退を始め、漢王も帰還の支度を命じたが、そこへ二人の人物が「天下統一を望まないのか」と諫めに現れた。

評語

  • 龍且は勝つ前から驕り高ぶっており、韓信の巧みな謀がなくとも敗れる道理であった。項羽が二十万の大軍を龍且に委ねたことは人選の誤りであり、有勇無謀な龍且と項羽自身の気質が通じ合った結果の敗北といえる。龍且の死は項羽の後の敗亡にもつながる。
  • 武涉が韓信を説いたのは各々その主に仕える者として当然だが、楚に仕える身でもない蒯徹があえて韓信に漢からの離反を唆したことは不可解であり、後の韓信の悲劇(鐘室の禍)の萌芽はここにあると言える。
  • 漢が太公・呂后を取り戻せた講和は侯公の弁舌によるところが大きいが、実際には一時の僥倖に過ぎない。もし項羽が応じず太公を殺していれば、漢王は天下を得ても「父を死なせた罪人」の汚名を免れなかったであろう。天の幸運を頼みに功を図ることは、君子の取るべき道ではない。