前漢演義第二十八回 内帳で密かに将軍印を奪い、舎人の子のおかげで城を救う (入內帳潛奪將軍印 救全城幸得舍人兒)

項羽、彭越を討ちに転じる

  • 宛で漢軍を攻めあぐねていた項羽のもとに、魏の相国・彭越が下邳の楚軍を破り楚将・薛公を討ったとの報が届いた。激怒した項羽は彭越討伐に転じ、彭越軍を撃退したが取り逃がした。その隙に漢王は宛から成臯へ移り、英布と合流していた。項羽は改めて漢王討伐に向かい、まず滎陽を攻めることにした。

滎陽陥落、周苛・樅公の最期

  • 油断していた滎陽は楚軍の急襲を受けて陥落し、周苛・樅公は捕らえられた。項羽は周苛に上将・三万戸の恩賞を条件に降伏を勧めたが、周苛はこれを一蹴して項羽を罵り、激怒した項羽は周苛を釜茹での刑で処刑した。樅公も「苛と共に城を守った身として一人生き延びるのは忍びない」と処刑を望み、斬首された。

漢王、成臯を脱して韓信の軍印を奪う

  • 項羽は成臯に迫り、漢王は身代わりを立てる余地もないまま夏侯嬰と共に密かに北門から脱出した。諸将も次々と城を放棄し、成臯は項羽の手に落ちた。
  • 漢王は韓信・張耳の軍がいる修武へ向かい、翌朝早く漢の使者と偽って営に入り込むと、まだ眠っていた韓信の寝室に忍び入って将印と兵符を取り上げ、外の帳で諸将を召集した。諸将は韓信の点呼と思い集まったが、そこにいたのは漢王であり、一同驚愕した。漢王はそのまま諸将の配置を改めて指示した。
  • 目を覚ました韓信・張耳は謝罪し、漢王は軍営の警備の甘さを厳しく戒めた。韓信は、趙地が未平定のまま斉へ進めば挟撃の危険があるため趙の平定を優先していたと弁明し、これから趙の丁壮を募って斉を攻めると申し出た。漢王はこれを了承し、張耳には趙の鎮守を命じ、修武に集結していた兵は自ら統率して楚討伐に用いることとした。

敖倉への進出と楚糧道の遮断

  • 項羽が成臯から西進し関中を窺う構えを見せると、漢王は一時鞏・洛への後退を検討したが、酈食其が敖倉の穀物を確保する要を説き、漢王はこれを容れて滎陽・敖倉方面への進撃を決めた。
  • 郎中・鄭忠の献策により、漢王は盧綰・劉賈に楚の糧道遮断を命じ、彭越と合流して楚の輜重を夜襲で焼き払い、梁地の睢陽・外黃など十七城を奪還する戦果を挙げた。

項羽、彭越討伐で外黃を攻める

  • 燕西の糧秣を焼かれた項羽は激怒し、大司馬曹咎に成臯の守備を厳命(十五日以内に必ず戻ると約束)して自ら彭越討伐に向かった。
  • 彭越は外黃城に籠って抗戦したが支えきれず、夜陰に紛れて脱出、城は開城降伏した。項羽は、彭越に協力して抗戦した咎により、城内の十五歳以上の男子を皆生き埋めにするよう命じた。この報せに全城が悲嘆に暮れた。

十三歳の舎人の子、全城を救う

  • そこへ、かつて県令の舎人であった父を持つ十三歳の少年が単身楚軍に赴き、項羽への面会を求めた。項羽は少年の利発さに興味を示して引見した。
  • 少年は、外黃の民は決して彭越に味方したのではなく、武装した彭越の兵に城門を固められて手も足も出せなかっただけで、彭越が去るや直ちに開城して項羽を迎え入れたことこそ民心が項羽にあった証だと説いた。さらに、もしここで住民を皆殺しにすれば、この先の十数城の住民は「降伏しても殺されるなら抵抗するしかない」と死に物狂いで抗戦し、彭越や漢に助けを求めるだろうから、項羽にとって得るところより失うところの方が大きいと理を尽くして説いた。
  • 項羽は少年の言葉に道理を認め、また曹咎との約束の期限も気になっていたため、全城の住民を赦免することとし、少年には銀を賜って退けた。この赦免が舎人の子の進言によるものと知った住民たちは、その恩を少年に帰して感謝した。

成臯陥落の報

  • 項羽は外黃を発って東へ進み、その通り道の郡県は次々と恭順した。彭越は谷城へ逃れ、奪還した十七城の戦果は失われた。項羽は睢陽まで進み、年の暮れとなったためそこで越年した。
  • 漢王四年の元旦、項羽が諸将と祝宴を開いていたところへ、成臯陥落と大司馬曹咎の戦死の急報が届いた。曹咎が命令に反して出撃し、汜水で漢軍に阻まれて退けず自害したこと、司馬欣も殉死したことを知った項羽は酒宴を打ち切り、全軍を率いて西の成臯へ急行した。

評語

  • 漢王が挙兵以来の謀は多く他人の献策によるものと見えるが、韓信の陣営に単身乗り込んで兵符を奪った一件は、誰の入れ知恵でもなく漢王自身の胆略によるもので、その謀は韓信らを上回るとも言える。一方、名将とされる韓信の陣営の警備がかくも杜撰であったことは、張耳ともども評価を下げる材料である。
  • わずか十三歳の外黃の少年が、暴虐な項羽を説き伏せて万人の命を救った智恵と仁徳は驚嘆に値する。かつて項羽が秦の降兵二十万人を生き埋めにした際、これを諫める者が誰もいなかったことを思えば、項羽の周囲に人材が乏しかったことが知れる。范増ほどの人物さえこの少年に及ばぬ点があったとすれば、項羽の他の部下は推して知るべしであり、項羽が最終的に天下を失った所以もここにある。