前漢演義第二十七回 反間の計で范増を追いやり、紀信は身代わりとなり焚かれる (縱反間范增致斃 甘替死紀信被焚)
陳平の反間計
- 局勢を憂う漢王に陳平は、項羽軍で頼りになるのは范増(項羽が「亞父」と敬う参謀)と鍾離眜ら数名に過ぎないとし、黄金で楚の内部に流言を撒いて自滅させる策を進言した。漢王は黄金四万斤を惜しみなく与え、陳平はこれを使って楚陣営に「鍾離眜らは功に見合う恩賞がなく、漢と通じようとしている」との流言を広めさせた。
- 猜疑心の強い項羽はこれを信じ鍾離眜らを疎んじるようになったが、范増への信頼はなお変わらず、范増の進言どおり滎陽を包囲し猛攻を加えた。
楚使をだます計略
- 漢王は一旦講和を申し出て時間を稼ぎ、項羽が探りとして送った楚使を、陳平が巧妙な演出で欺いた。当初は太牢(豪華な饗応)を用意する素振りを見せ、使者が范増の使いでないと知ると態度を一変させて粗末な食事しか出さず、范増の使いだけが厚遇されると印象づけた。
- 怒って城を出た楚使は項羽に、范増が漢と内通しているのではと報告し、項羽は范増を疑い始めた。左右の取りなしでその場では詰問を控えたものの、疑念は消えなかった。
范増の失意と死
- 事情を知らない范増はなお滎陽攻略を急ぐよう項羽に迫ったが、項羽は素っ気ない態度を示し、范増は自分が讒言によって疑われていることを悟った。范増は「天下の大勢はもう定まった、どうか自らよく考えられよ」と告げ、印綬を返上して郷里への帰還を願い出た。項羽も引き止めなかった。
- 失意のうちに帰途につく范増は、長年の労苦が水泡に帰したことを嘆き続け、食も喉を通らず眠れぬ夜を重ねるうち体調を崩し、背中に悪性の腫れ物を発症した。彭城に近づく頃には病状が悪化し、随行の者が旅籠で介抱したが、二日後に腫れ物が破裂して出血が止まらず絶命した。享年七十一。時に漢王三年四月のことであった。
- 従者は范増の遺骸を郷里・居鄛に運んで葬った。後世の人々は范増が忠義を尽くしながら讒言で陥れられ非業の死を遂げたことを憐れみ、祠を建てて祀り、井戸に「亞父井」の名を残したという。
紀信、身代わりとなって焼死す
- 范増の死を知った項羽は一時悔恨を覚えたが、すぐに漢王への敵意を新たにし、鍾離眜らを慰撫して総攻撃を命じた。滎陽城内は兵糧が尽きかけ危機的状況に陥り、漢王も張良・陳平も打つ手を欠いていた。
- そこへ漢将・紀信が進み出て、自ら漢王の身代わりとなって偽りの投降を演じ、その隙に漢王を脱出させる策を申し出た。漢王は逡巡したが、紀信の強い覚悟に心を動かされ、陳平の計略も加えてこれを受け入れた。陳平は降伏の書状を書かせ、使者に楚陣営へ届けさせた。
- 項羽は大いに喜び、夜の投降を待ち構えたが、夜半に東門から現れたのは甲冑を着た女性たちの群れであった。楚兵は驚きながらも通し、二、三千人もの女性が次々に城を出るのに気を取られている隙に、漢王は陳平・張良・夏侯嬰・樊噲らとともに西門から密かに脱出した。
- 夜明け頃、龍車に乗った人物が現れ、楚軍は漢王の投降と信じて歓喜したが、項羽が火をかざして確かめると、車中の人物は漢王ではなく紀信であった。紀信は「漢王はすでに脱出し、諸軍を集めて雌雄を決するつもりだ」と項羽を挑発し、怒った項羽は車ごと火を放って焼き殺した。紀信は焼かれながらも項羽の非道を罵り続け、忠義を貫いて絶命した。
周苛・樅公の籠城と魏豹の処断
- 項羽は滎陽城に迫ったが、城門は固く閉ざされ、御史大夫・周苛と裨将・樅公が兵糧の乏しい中でも守り抜いた。周苛は、かつて魏王だった豹の心変わりを恐れ、内応を防ぐため樅公と謀って豹を謀殺し、その理由を軍中に布告して兵の結束を固めた。以後、城兵は決死の覚悟で守りを固め、危機を凌いだ。
項羽の撤退と漢王の武関出撃
- 攻めあぐねていた項羽のもとに、漢王が関中の兵を集めて武関から宛・洛方面へ進んだとの報が入った。彭城を突かれることを恐れた項羽は滎陽の包囲を解いて南へ引き返した。
- 実は漢王は密計で滎陽を脱した後、成臯を経て関中へ向かい、紀信の死を悼みつつ再び滎陽救援を図ろうとしていた。そこへ轅生という人物が、武関から宛・洛へ出て項羽の注意を引きつけ、持久戦で楚軍を疲弊させたうえで韓信らの平定を待って合流すべしと進言し、漢王はこれに従って武関から出撃、宛城で陣を固めて楚軍を迎え撃つ構えを取った。
評語
- 陳平が范増を死に追いやった策(黄金による離間と楚使への差別待遇)は、それ自体はさほど巧妙とは言えず、項羽ほどの人物が容易に欺かれるとは考えにくい。むしろ范増自身の運命が尽きていたために、項羽の疑心を誘発したとも言える。范増は長年項羽に仕えながら、その残虐非道を諫めることもなく、去るべき時に去らなかった点で評価は分かれる。鄛の人々が祠を建てて祀ったことも、必ずしも当然とは言えない。
- 一方、身代わりとなって焼死した紀信は、漢室にとって第一の忠臣というべき存在であるにもかかわらず、天下平定後の論功行賞で顧みられた記録がなく、漢王の薄情さが指摘される。范増に祠があり紀信に祠がないことは、後世の心ある者たちが不平を鳴らす所以である。