前漢演義第十九回 趙高を誅すも秦の命運尽き、降卒を坑にし函関へ進む (誅逆閹難延秦祚 坑降卒直入函關)
趙高の子嬰擁立
- 趙高は二世の死を喜び、伝国の玉璽を得るが、篡奪の反発を恐れて公子嬰を擁立することにする。秦の勢力縮小を理由に「王」の号に戻すことを提案し、群臣は積威に押されて従う。二世の遺体は庶人並みに簡素に葬られた。
子嬰による趙高誅殺
- 子嬰は趙高が自分も傀儡として利用した後に廃するつもりだと見抜き、二人の子と腹心の宦官・韓談と密議して趙高暗殺を計画する。
- 折しも趙高が沛公と関中を分け合う交渉をしていたとの情報が入り、子嬰は病と称して廟見を拒む。焦った趙高が自ら子嬰を迎えに来たところを、伏兵の韓談らが斬り殺す。
- 子嬰は趙高の一族を三族皆殺しにし、趙成・閻楽も処刑する。その後正式に王位に就き、嶢関の守備を固めた。
嶢関の攻略
- 沛公は張良の献策により、守将が利に目がないことを見抜き、酈食其を遣わして金宝で懐柔しつつ、疑兵を山上に配して威圧させる。守将は懐柔に応じ沛公との連合を約束する。
- 張良はこの油断を突く奇襲を進言し、周勃が間道から秦営を奇襲、守将を討ち取り、嶢関を陥落させる。周勃はもと貧しい出身ながら武勇に優れ、沛公配下で活躍していた人物である。
子嬰の降伏
- 沛公軍は藍田を破り覇上に到達。漢元年(秦王子嬰の代)十月、子嬰は素車白馬で玉璽を捧げて投降する。諸将は子嬰の処刑を勧めるが、沛公は懐王の意図と信義を重んじ、これを退けて生かした。子嬰の在位はわずか四十六日であった。
咸陽入城と約法三章
- 将士が財貨を略奪する中、蕭何だけは秦の図籍・戸籍を回収し、後の統治に活かした。沛公は秦宮の豪奢と美女に心を奪われ長居しようとするが、樊噲・張良の諫言を受けて我に返り、府庫を封印し覇上へ引き返す。
- 沛公は父老を集めて秦の苛法を批判し、「殺人者は死、傷害・窃盗は相応の罰」とする約法三章を布告して秦の民心を得た。項羽の到着を覇上で待つ。
新安の坑殺
- 東進する項羽軍中で、投降した秦兵が本音では不満を抱き、反乱の懸念があるとの噂が広まる。項羽は英布・蒲将軍に命じ、夜襲によって降兵二十万人を新安城南で皆殺しにした。章邯・司馬欣・董翳の三将のみが生かされた。
函谷関での対峙
- 項羽軍が函谷関に至ると、沛公配下が関を固く閉ざし通行を拒む。激怒した項羽は攻撃を命じ関を突破、鴻門(戯地)まで進出する。
- 沛公配下の曹無傷の密告により、項羽は沛公が関中の王となり秦の財宝を独占しようとしていると知り激怒する。范増は沛公に天子の気配ありとして即刻攻撃を進言するが、項羽は翌朝の攻撃を決めるにとどめた。
- (詩:沛公の陣営に天が味方する様子を詠み、范増の謀もこれには及ばないと結ぶ内容)
評語
- 子嬰が趙高を誅殺できたことは賢明さの証だが、始皇・二世の暴政の報いを一身に受け、賢くとも位を保てなかったことを惜しむ。項羽が降兵二十万人を穴埋めにした残虐さは秦に劣らぬ暴であり、長く続くはずがないと断じる。対して沛公は財も女も求めず約法三章で民心を得ており、天命が彼にあることは明らかとする。范増の献策も項羽を害を成す方向へ煽っただけで、決して智とは言えないと評する。