前漢演義第十六回 項梁は定陶で敗死し、宋義は安陽で命を落とす (駐定陶項梁敗死 屯安陽宋義喪生)

李斯の獄死

  • 李斯は趙高の拷問により昏倒するが冷水を浴びせられ蘇生する。趙高から自白を迫られ、再び拷問を受けるのを恐れて虚偽の罪を認めてしまう。
  • 獄中で二世皇帝への上書を試みるが、趙高に阻まれて握りつぶされる。趙高は偽の御史などを送り込み、李斯が冤罪を訴えるたびに笞打たせ、翻意させなかった。
  • 二世が改めて審理させても、李斯は拷問に耐えかね自ら罪を認め、死罪が確定した。三川郡からの報告により、子の李由の戦死が確認されると、趙高はこれを口実に謀反の罪をでっち上げさせた。

李斯一族の処刑

  • 二世は激怒し、李斯に五刑(肉刑を重ねる極刑)を科し、三族を誅殺するよう命じた。
  • 李斯は次子と刑場で今生の別れを惜しみ、一族はことごとく処刑された。かつて栄華を極めた李斯家も、この報いを受けて滅亡した。

趙高の専横と項梁の油断

  • 趙高は李斯の後任として中丞相となり、軍国の大事を独占し、二世は名ばかりの皇帝となった。
  • 章邯は濮陽に籠もりつつ項梁軍の動静を探らせていた。項梁は定陶で連勝の驕りから軍紀を緩め、連日酒宴にふけっていた。沛公と項羽は外黄を包囲するが長雨で攻めあぐねていた。

宋義の諫言と使者行き

  • 謀士の宋義は、項梁の慢心と秦兵の増強を憂えて諫めるが、項梁は聞き入れず、章邯を侮って豪語するばかりであった。
  • 項梁が斉への使者派遣を渋る様子を見て、宋義は自ら斉への使者を買って出て出発する。
  • 途中、斉の使者高陵君顕と会い、項梁が驕り軍が疲弊していることから近く敗れると予言し、道中をゆっくり進むよう勧める。

項梁の敗死

  • 項梁は軍を緩めたまま油断し、秋の長雨の夜、章邯の夜襲を受ける。楚軍は不意を突かれ大混乱に陥り、項梁自身も章邯に討ち取られて非業の死を遂げた。
  • 敗残兵から急報を受けた項羽と沛公は悲しみのうちに外黄の包囲を解いて東へ撤退し、呂臣の軍とも合流して江左に布陣した。
  • 懐王は彭城に遷都し、項羽と呂臣の軍を統合して自ら統帥となる。沛公は碭郡に留め置かれ武安侯に、項羽は魯公・長安侯に、呂臣は司徒に任じられた。章邯は楚を離れ趙へ矛先を転じ、その隙に懐王は魏豹を派して魏の故地を平定させた。

宋義の帰還と懐王の評価

  • 高陵君顕は彭城で懐王に謁見し、宋義の先見の明を伝える。折しも宋義自身も斉から帰り、懐王は項梁敗死の経緯を確認し、宋義の見識を高く評価して側近に留めた。
  • 懐王は諸将を集め、秦を討ち関中に先に入った者を秦王に立てると宣言する。沛公と項羽がともに名乗りを上げ、項羽は叔父の仇討ちを強く望んだが、懐王は決断できずにいた。

老将たちの進言と懐王の裁断

  • 老将たちは項羽の残虐な性格(襄城・城陽での虐殺)を挙げ、関中攻略には寛大な沛公こそふさわしいと進言する。懐王はこれを容れ、項羽を関中攻めには遣わさないことを決める。
  • 折しも趙からの救援要請が届く。章邯が趙を攻め、陳余は敗れ、張耳らは鉅鹿城に籠城して包囲されていた。懐王は宋義を上将軍(卿子冠軍)とし、項羽を次将、范増を末将として趙救援に向かわせ、沛公には別途西進を命じた。

宋義の逗留と沛公の西進

  • 沛公は陳勝・項梁の残兵を集めて西進し、成陽・杠里で秦軍を破り、王離を退けて昌邑へ向かう。時は秦二世三年であった。
  • 一方、宋義は安陽に四十六日も留まり進軍しなかった。速戦を主張する項羽に対し、宋義は「秦趙が疲弊するのを待つ」との持論を説き、取り合わなかった。
  • 寒さと飢えに苦しむ兵をよそに、宋義は酒宴にふけり、私事で子の宋襄を斉へ送るなど身勝手な振る舞いを続けた。

項羽による宋義誅殺

  • 項羽は兵士の不満を煽る演説を行い、宋義が私利を図り国家の急を顧みないと訴え、大衆の支持を得る。
  • 翌朝、項羽は宋義の陣に踏み込み、彼を斬殺してその首を掲げ、諸将に示した。
  • (詩:宋義もまた驕りゆえに項梁と同じ運命を辿ったことを嘆く内容)

評語

  • 項梁の死も宋義の死も、根は同じ「驕り」にある。宋義は項梁の驕兵必敗を見抜きながら、自らも寵愛と権力を得て驕慢に陥り、逗留して進軍せず、士気を損ねた。人を見る目は明晰でも己を省みることができなかった宋義の生き様への論評。