前漢演義范増の勧めで楚の王孫を立て、趙高が李丞相を冤罪で殺す(十五 從范增訪立楚王孫 信趙高冤殺李丞相)
秦嘉討伐と沛公の合流
- 項梁は彭城に進軍し秦嘉を敗走させ、追撃の末これを討ち取る。秦嘉が擁立した楚王景駒も逃亡先で死んだ。項梁はさらに西進し秦将章邯を牽制する一方、薛城で劉邦(沛公)と初めて出会い、兵五千と将吏十人を貸し与えた。
沛公の豊郷奪回と張良の登場
- 沛公は先に母の喪に服していたが、秦の泗川監が攻めてきたためこれを撃退し、さらに泗川守も破って左司馬曹無傷が敵将を討ち取った。
- その隙に、沛公と不仲であった雍歯が魏に誘われて豊郷を奪い魏に降ってしまう。沛公は奪回を図るが攻めきれず、援軍を求めて北上する途中、下邳で張良と出会う。
- 張良は兵法(太公兵法)を語るが誰にも理解されない中、沛公だけがすぐに悟ったため、天授の才と感嘆し、以後沛公に随行する。項梁の助力を得て沛公は豊郷を奪回し、雍歯は魏へ逃れた。
楚懐王の擁立
- 項梁は薛城で諸将を集め、陳勝没後の楚の後継について協議する。将吏の中には項梁自身を王に推す者もいたが、そこへ現れた老臣・范増が「陳勝の失敗は楚王の後裔を立てなかったためであり、楚人の人望を得るには懐王の子孫を擁立すべき」と説く。
- 項梁はこれに従い、民間で羊飼いをしていた懐王の孫・心を探し出し、楚懐王として擁立、盱眙を都と定めて陳嬰を上柱国とした。項梁は自ら武信君と称し、黥布(旧名英布に復した)を当陽君に封じた。
韓・魏・斉をめぐる攻防
- 張良は項梁に韓の再興を進言し、韓公子成を韓王に立てて自らはその司徒として韓地を攻略した。これにより山東の六国はほぼ復興し、秦の勢力は後退していく。
- 一方、秦将章邯は魏へ侵攻し、斉王田儋・魏相周市が救援に赴くも、章邯の夜襲によって両将ともに戦死する。魏王咎は民を守るため降伏の約束をした上で自ら焼身自殺した。弟の魏豹は脱出し、項梁のもとへ逃れた。
東阿の救援と項羽の武勇
- 斉の内紛(田仮を王に立てる派と、田儋の弟田栄との対立)が続く中、秦軍に包囲された東阿を項梁が救援する。項羽が章邯自身と一騎打ちに近い形で渡り合い、章邯を退けた。田栄はその後、項梁が田仮の処断に応じなかったことを理由に援軍要請を拒み、独自に斉王を立てて統治を固めた。
- 項梁・項羽らはさらに城陽を攻め、羽は先陣を切って攻城し、落城後に住民を殺戮した。沛公は止めようとしたが叶わなかった。
秦将李由の戦死と李斯の悲劇
- 項梁はさらに章邯を追い、濮陽・定陶を攻める一方、沛公・項羽を西方の攻略に派遣。雍丘で秦の三川守李由(丞相李斯の長子)と戦い、項羽がこれを討ち取った。
- 秦の朝廷では、この李由の戦死を趙高が謀反の証拠であるかのように讒言し、丞相李斯を陥れる策動が進む。
趙高の専横と李斯の失脚
- 二世皇帝は趙高の勧めに従い、深宮に籠って政務から遠ざかり、享楽にふける。趙高は李斯に「主上に諫言せよ」と唆しつつ、わざと二世が遊興中の時にだけ取り次ぎ、李斯が三度も謁見を拒まれる羽目に陥らせる。
- 趙高はこれを利用し、李斯が謀反を企てていると二世に讒言。李斯は趙高の罪状を上書したが、二世はこれを退け、逆に李斯・馮去疾・馮劫の三人を罷免・投獄させた。馮去疾と馮劫は辱めを受けまいと自殺したが、李斯は生を望んで抗弁し、趙高の拷問により千余回の杖打ちを受け、ついに気を失うまで痛めつけられた。(詩:厳刑を恣にする報いはやがて自らに返る、家族の滅亡を惜しむなら早くに死を悟るべきだったと詠む)
評語
- 范増が楚の後裔擁立を進言したことは、かつて張耳・陳餘が陳勝に説いたのと同様の策士の詐謀に過ぎず、大義に基づくものではないと批判する。真に大業を成すのに他人の権威を借りる必要はなく、酈食其が六国の後裔擁立を説いた際に張良がこれを退けて漢の統一を成した例と対比し、范増の策は成功を導かず、むしろ後の義帝弑殺という項氏滅亡の禍根になったと断じる。
- 張良が韓公子成を立てたのは韓の祭祀を絶やさぬためであり、范増が楚を名目に利用したのとは次元が異なると弁護する。蘇軾が范増を人傑と評したことにも疑問を呈す。
- 李斯の投獄は表面上冤罪だが、かつて焚書坑儒を行い、扶蘇・蒙恬を死に追いやり、厳刑主義(督責の術)を進言したのも李斯自身であったことを指摘し、多くの人を殺した者が人に殺される因果として、趙高による誅殺は実質的に李斯の自業自得であり、冤罪とは言えないと結ぶ。