前漢演義真龍が泗水に光をひそめ、大蛇を斬り夜に豊郷へ走る(十一 降真龍光韜泗水 斬大蛇夜走豐鄉)

劉邦の出生

  • 秦二世元年九月、江南沛県豊郷陽里の農家に、後の漢の高祖となる劉邦が生まれた育った経緯を語る。父は劉執嘉(太公)、母は王氏(劉媼)。
  • 劉媼は先に伯・仲の二子を生んだ後、大沢のほとりで神人と出会う不思議な体験をしたとされ、その後身ごもって三男の邦を産んだという伝承が語られる。長頸高鼻、左股に七十二の黒子があったと伝わる。
  • 邦は成長しても農業を嫌い、遊蕩を好んだため、父太公から見放され気味に育つ。

若き日の放蕩

  • 兄・伯の死後、邦は長兄の嫁の家にたびたび食事にたかりに行くが、嫌気がさした兄嫁に鍋の羹を偽って断られる一件があった。邦は争わずその場を去った。
  • その後は近隣の王媼・武婦という女性が営む二軒の酒屋の常連となり、いつも代金を溜めるが、邦の頭上に龍の光が見えるという評判から、二人の女主人は年末の勘定を帳消しにしてやっていた。

泗上亭長となる

  • 邦は成人後、吏事を学び泗上の亭長となる。県の役人たちと交わり、なかでも功曹の蕭何と最も親しくなった。曹参・夏侯嬰らとも交流した。
  • 咸陽への公務で上京した際、始皇帝の行幸を目にし「大丈夫たるものかくあるべし」と嘆じた。

呂公との縁談

  • 単父の呂公が沛県に避難してきて県令と親しくしていたところ、県吏の祝賀の席で、邦は実際には持たない大金の祝儀を名乗って上座に案内される。
  • 呂公は邦の人相を見て気に入り、酒席の後に娘の娥姁(呂雉)を邦に嫁がせたいと申し出る。妻の呂媼は反対したが、呂公は自分の眼力を信じて縁組を決めた。邦は呂雉を娶り、後に一男一女をもうけた。
  • 一方で邦は以前からの遊びの延長で曹家の娘とも関係を持ち、外に男児(後の劉肥)をもうけていたが、正妻呂雉には知らせず、曹女は実家で扶養させていた。

老人の予言

  • 亭長として勤める邦を残し、呂氏は子女とともに田畑で働いていた。ある日、通りがかりの老人が呂氏に水を求め、人相を見て「夫人は貴人となる相。子のおかげで貴くなる」と告げた。
  • 邦が追いかけて自分も見てもらうと、老人は「あなたの相は貴くこの上ない」と告げ、立ち去った後は行方が知れなくなったという。

劉氏冠の創始

  • 亭長として暇な時、邦は竹皮で作る独特の冠の意匠を考案し、薛の職人に作らせた。これが後の「劉氏冠」で、漢代には爵位が公乗以上の者だけが着用を許される特別な冠となった。

大蛇を斬る

  • 二世元年、始皇帝陵の増築のため各郡県から徒役を徴発する詔が下り、邦は沛県の罪人を率いて驪山へ護送する役目を負う。
  • 道中、逃亡者が相次いだため、邦は豊郷西方の大沢で酒を飲み、残る者を全て解放する決断をする。感激した壮士十数人は邦に従うことを申し出た。
  • 夜道を進む一行の前に大蛇が道を塞いだため、邦は剣でこれを斬り捨てて道を切り開いた。その後、酔いのため眠り込んでしまう。

白帝子・赤帝子の逸話

  • 翌朝、通りかかった豊郷の人が、蛇の死骸の傍らで泣いていた老婆に会った話を邦に伝える。老婆は「我が子は白帝の子で蛇となって道を塞いでいたが、赤帝の子に斬られた」と言い、姿を消したという。
  • 邦はこれを聞いて心中驚喜し、いずれ帝位に就く前兆かと思う。(詩:剣を振るい蛇を斬った勇気を称え、赤帝の子たる劉邦の非凡さを詠む)
  • 邦はその後、十数人の壮士とともに芒碭山中に身を隠して難を避けた。

評語

  • 本回は『高祖本紀』を下敷きに史書の各伝を参照して劉邦の微賤時代を描いたもので、根拠のない創作ではないと述べる。史書がしばしば劉邦の欠点を隠して善行のみを伝える傾向があるのに対し、本回はありのままを直叙して実像を示したとする。劉邦は元来酒色を好む人物であったが、放蕩の中にも英雄の資質を備え、後年の練達・知人善任によって大業を成したと評す。劉媼の感龍懐妊や老婆が蛇を哭く話は史家の付会かもしれないが、全く根拠がないとも言い切れないとして、伝聞をそのまま記したと結ぶ。