前漢演義第十回 陳勝は諫めに背き王を称し、武臣は招撫して独立する (違諫議陳勝稱王 善招撫武臣獨立)

張耳・陳余の来歴

  • 大梁出身の張耳・陳余は「刎頸の交わり」と称される盟友。張耳は富家の女を娶り魏の外黄令となった経歴、陳余も趙の富人の婿となった経歴が語られる。
  • 魏滅亡後、秦の懸賞手配(張耳千金・陳余五百金)から逃れるため二人は姓名を変え、陳県で門番として身を潜めていた。

陳勝への諫言

  • 陳勝の下に出頭した張耳・陳余は歓待されるが、「今すぐ王を称するのは得策でない、六国の後裔を立てて秦打倒に専念すべき」と諫言した。
  • 陳勝はこれを聞き入れず、自ら「張楚」王を称し、二人を参謀として留めた。

趙地攻略と武臣の自立

  • 呉広を仮王として滎陽攻略に向かわせる一方、張耳・陳余の献策により、陳勝は武臣を将軍、二人を左右校尉として趙の地へ派遣した。
  • 武臣軍は各地を平定して勢力を拡大(弁士・蒯徹の説得により范陽を無血開城させた逸話も含む)。
  • 張耳・陳余は武臣に「陳勝に従うより自立すべき」と説き、武臣は趙王を自称。陳余を大将軍、張耳を右丞相とした。

陳勝の対応と趙の独立姿勢

  • 激怒した陳勝は武臣一族の処罰を図るが、蔡賜の諫言により思いとどまり、使者を送って懐柔しつつ武臣家族を王宮に軟禁した。
  • 張耳・陳余は表向き恭順しつつ、武臣に燕・代・河内方面への勢力拡大を勧め、実質的に独立姿勢を強めた。

周文軍の敗北

  • 陳勝配下の周文は函谷関を突破し咸陽に迫るが、趙高が二世への報告を握りつぶしていたため秦の対応は遅れた。
  • 事態が発覚すると秦は章邯を将軍とし、驪山の囚人らを兵として動員。章邯軍の反撃により周文軍は敗走し、函谷関の外へ退いた。

評語

  • 張耳・陳余を「賢者」と称されるが実質は策士の類と評し、陳勝には称王を諫めながら武臣には称王を勧めた矛盾を指摘する。
  • 二人の言動は結局のところ自己の利益のためであり、当初は陳勝を助け後には陳勝を裏切ろうとする豹変ぶりに、策士の頼りなさと二人が大成できなかった所以を見出している。