前漢演義第七回 徐巿は活路を求め開墾し、李斯は謀って詔を偽る (尋生路徐巿墾荒 從逆謀李斯矯詔)

東南巡幸と会稽の刻石

  • 始皇は雲夢・九嶷山で舜を祀り、江南を巡って会稽山で大禹陵を祭り、南海を望んで刻石を立てた。
  • (刻石文:治世の徳、法制の整備、六国討伐の正当性、風俗の粛正・貞節奨励などを称える内容の要約)

徐巿の不死薬詐術

  • 瑯琊で徐巿は、蓬萊で大鮫魚に阻まれて薬を得られなかったと弁明し、弓弩手を伴っての討伐を提案。
  • 始皇は海神と戦う夢を見ていたこともあり信じ込み、弓弩手数百人を伴い自ら大魚を射させ、これを「悪神」を倒したと喜んだ。

徐巿の逃亡と開拓

  • 徐巿は童男童女三千人と食糧を載せて出航し、無人島を見つけて開墾・定住を提案。
  • 大衆は男女を夫婦とし、開墾・農耕により自給自足の共同体を築き、徐巿を主として海外の桃源郷とした(後に日本にその墓が伝わるとの俗説を紹介)。

始皇の病没

  • 徐巿の帰りを待てぬまま始皇は西へ戻る途中、平原津で発病し重篤化。沙丘の行宮で崩御した(在位三十七年、皇帝号を称してからは十二年)。
  • 死の間際、李斯・趙高に扶蘇へ宛てた璽書を作らせたが、趙高がこれを袖に隠し秘匿した。

趙高・胡亥・李斯の共謀

  • 李斯は秘喪のまま帰還を図るが、趙高は璽書を発せず、胡亥に「長子が即位すればお前も丞相家も無事では済まぬ」と持ちかけて動揺させた。
  • 趙高は李斯にも「才・功・人望・恩義いずれも蒙恬に及ばぬ」と説き、保身を天秤にかけさせて翻意を迫った。
  • 李斯は当初拒んだが、趙高の脅しと利害の説得に屈し、ついに共謀に同意した。

偽詔と扶蘇・蒙恬への死の命令

  • 三人は胡亥を太子とする偽の遺詔を作り、扶蘇には不孝・怨望を理由に自裁を、蒙恬には扶蘇に同調した不忠を理由に死を命じる書を発した。
  • 遺体を乗せた轀輬車を進め、屍臭を隠すため各官の車に鮑魚を積ませる小細工までして咸陽へ帰還した。
  • 上郡からの使者が扶蘇の自殺と蒙恬の拘束を報告し、胡亥・趙高・李斯は快哉を叫んだ。

評語

  • 徐巿は方士として始皇を欺いたが、後に無人島を開拓した点は殖民の功績として盧生らと一線を画すると評する。
  • 趙高が禍心を抱き胡亥・李斯を次々に唆した経緯を述べ、とりわけ丞相の地位にありながら私利のために逆謀に加担した李斯を、『春秋』の筆法に照らして首悪と断じる(回目で李斯を名指しした理由もここにある)。