殘唐五代史演義傳第三十八回 彦章、計をもって高思継を殺す (彥章智殺高思繼)
高思継、初戦
晋王は高台から彦章の勇姿を思継に指し示し、思継は自ら出陣を願い出た。両者は三百合以上も渡り合ったが決着つかず、日暮れに双方兵を収めた。
彦章の奇計と高思継の死
彦章は「思継は手強い、明日は回馬槍で仕留める」と部下に語った。翌日再び五十合ほど打ち合った後、彦章はわざと敗走を装う。思継が油断して追撃すると、彦章は振り向きざまに一槍で思継を刺し殺した。この報を聞いた晋王は「気死する」と叫んで血を吐いて倒れ、まもなく息絶えた。晋王の死因は、頭の古傷の悪化・二百戦の疲弊・八十四歳という高齢が重なったためとされる。
晋王の死後処理
潞州王李杰は、彦章に晋王死去が知れれば再び攻め込まれると案じ、密かに柩を蕭・劉二妃とともに賓州へ護送埋葬させ、自らが晋王の兵権を代行することになった。李杰は李嗣源に、直北大潼の李友金のもとへ援軍を求めに行かせた。道中、嗣源は戦乱で家を追われ流浪する百姓の惨状を目にし、梁・晋どちらの旗を掲げても略奪される様子に嘆息した。
少年将軍・史建唐の登場
大潼城で叔父李友金に窮状を訴えると、友金配下から北平出身の少年武将・史建唐(十四、五歳、九代続く名将の家系)が名乗りを上げ、健将八名とともに二万の兵で雞寶山へ向かった。潞州王は当初その若さを侮ったが、建唐は「将たる者は謀による、勇のみにあらず」と自信を示した。
建唐、彦章に一勝
建唐は伏兵の計を用い、自ら三千を率いて彦章と対決。彦章は建唐の陣立てを天地人の三才の陣と称賛しつつ交戦、二百合以上戦った末、建唐の鞭を受けて吐血し敗走した。伏兵に阻まれながらも彦章はかろうじて血路を開いて逃げ延びた。逃走を許した部下の張夷は軍法により斬首された。建唐の勝利に潞州王ら諸侯は祝杯を挙げた。
評語
高思継は晩年になって再び唐の要請に応じ、結局彦章の手にかかって命を落とした。この時代、民は梁につくか晋につくか定まらず塗炭の苦しみを味わったことが悲しまれる。