通鑑紀事本末鄴都の変(鄴都之變)
後唐の荘宗が中原を得たのち、伶官と宦官を寵任し、劉皇后と孔謙の聚斂で軍民を窮乏させ、郭崇韜・朱友謙ら勲臣を讒言で誅したことから人心が離れる。貝州の戍卒が皇甫暉に脅されて趙在礼を擁立し鄴都に拠ると、討伐に向かった李嗣源が乱兵に擁立されて大梁を押さえた。荘宗は郭従謙の兵変に射殺され、李嗣源が柩前で即位して明宗となる。923年から927年まで。
年表(8件)
- 後唐同光元年冬十月(・伶官の跋扈)923年伶人の景進らが宮中に出入りして政事に干渉し、群臣も藩鎮も憚る
- 同光二年(・宦官の復活と財政の乱れ)924年宦者を諸道の監軍に復し、劉氏を皇后に立て、孔謙の聚斂で百姓が怨む
- 同光三年(・張憲と即位壇)925年即位壇を毀して楼を営み、李嗣源を疑い忌み、飢饉のなお遊猟をやめない
- 同光三年冬〜四年(925-・郭崇韜の誅殺)926年宦官の讒言と劉后の教により、成都で郭崇韜を殺す謀が動き出す
- 明宗
- 天成元年(・郭崇韜・朱友謙の死)926年継岌が郭崇韜父子を撃殺し、朱友謙も一族もろとも誅され、勲臣は自ら危ぶむ
- 天成元年二月〜三月(・鄴都の兵変)926年皇甫暉が趙在礼を擁して鄴都に拠り、討伐に来た李嗣源が乱兵に擁立されて大梁に入る
- 天成元年夏四月(・莊宗の死と明宗の即位)926年郭従謙が興教門を攻めて荘宗が流れ矢に没し、李嗣源が柩前で即位する
- 天成二年春二月927年郭従謙を景州刺史として着任させたうえで族誅する
後唐同光元年冬十月(923年・伶官の跋扈)
- 帝は使者を送って梁の滅亡を呉と蜀に告げ、二国はいずれも恐れた。呉の揚州司馬・厳可求は笑って「唐主は中原を得たばかりで志気は驕り満ち、下を御するに法がないと聞く。数年たたぬうちに内変があろう。我らはただ辞をへりくだらせ礼を厚くし、境を保ち民を安んじて待てばよい」と言った。
- 滑州留後の李紹欽は伶人の景進を通じて宮中に財貨を納れ、泰寧節度使に除された。
- 帝は幼いころから音律を好んだので、伶人には寵を得て常に側に侍る者が多かった。帝は時に自ら粉墨を塗って優人と庭で戯れて劉夫人を喜ばせ、優名を「李天下」と称した。あるとき優をしていて自ら「李天下、李天下」と呼ぶと、優人の敬新磨がただちに前へ出てその頬を張った。帝は色を失い、群優も驚愕した。新磨はおもむろに「天下を理める者はただ一人です。ほかに誰を呼ぶのですか」と言い、帝は喜んで厚く賜った。
- 諸伶は宮中に出入りして搢紳を侮り弄び、群臣は憤り憎んでも息も出せず、かえって付き従って恩沢を望む者もあった。四方の藩鎮は争って財貨で彼らと結んだ。とりわけ政を蝕み人を害する者では景進が筆頭だった。進は巷の些細な事を採って帝に聞かせるのを好み、帝も外の事を知りたがったので、進を耳目として委ねた。進は奏事のたび常に左右を退けて問われたので、これで進はその讒佞を施し政事に干渉でき、将相大臣まで皆憚った。
- 荊南節度使の高季興が洛陽にいたとき、帝の側近の伶官が飽くことなく財貨を求めた。季興は憤り、帰って将佐に言った。「新朝は百戦してようやく河南を得たのに、功臣に向かって手を挙げて『私は十本の指の上で天下を得た』と誇っている。あれほど自慢するなら、他人には功がないことになる。誰が解体せずにいよう。しかも禽と色に溺れている。どうして長続きしよう。私に憂いはない」。
同光二年(924年・宦官の復活と財政の乱れ)
- 春正月、勅で「内官は外に居るべからず。前朝の内官および諸道の監軍、ならびに私家がかねて蓄えていた者は、貴賤を問わずすべて闕に来させよ」とした。当時、帝の側にいた者はすでに五百人、ここに至ってほぼ千人に達し、いずれも給与を優厚にし、職務を委ねて腹心とした。
- 内諸司使は天祐以来、士人が代わっていたが、ここに至って再び宦者を用い、しだいに政に干渉した。まもなく諸道の監軍も再置され、節度使が出征したり闕下に留まったりすると、軍府の政はすべて監軍が決した。主帥を侮り勢いを恃んで権を争ったので、藩鎮は皆憤った。
- 二月己巳朔、上は南郊を祀って大赦した。租庸副使の孔謙は聚斂で機嫌を取ろうとし、赦文で免除された分をあらためて徴収した。以後、詔令が出るたび人は皆信じず、百姓は愁い怨んだ。
- 郭崇韜は汴・洛に至った当初、藩鎮の贈物をかなり受けた。親しい者が諫めると、崇韜は「私は位が将相を兼ね、禄と賜は巨万だ。どうして外の財を頼ろう。ただ偽梁の末に賄賂が風となった。今、河南の藩鎮はいずれも梁の旧臣で、主上の仇讐だ。その意を拒めば恐れずにいられようか。私は特に国家のために私室に蔵しているだけだ」と言った。
- 南郊を祀ろうとするころ、崇韜は真っ先に労軍の銭十万緡を献じた。
- これに先立ち、宦官が帝に天下の財賦を内外の府に分けるよう勧めていた。州県の上供分は外府に入れて経費に充て、方鎮の貢献分は内府に入れて宴遊と側近への賜与に充てた。これで外府は常に空しく、内府は山と積まれた。
- 有司が郊祀を行うにあたり労軍の銭が足りず、崇韜は帝に「臣はすでに家の物をすべて傾けて大礼を助けました。陛下も内府の財を出して有司に賜られたい」と言った。帝は長く黙り、「私の晋陽には蓄えがある。租庸に運ばせて助けよう」と言った。そこで李継韜の私邸の金帛数十万を取って足した。軍士は皆望みに満たず、初めて怨恨を抱いて離心した。
- 郭崇韜は位が将相を兼ね、さらに節旄を領し、天下をわが任として権は人主に等しく、朝夕、車馬が門を埋めた。剛急な性質で事に当たればすぐ発し、寵臣が僥倖を求めるのを多く抑えたので、宦官は憎んで朝夕帝に讒言した。崇韜は腕を扼して制そうとしたができなかった。
- 豆盧革と韋説がかつて「汾陽王(郭子儀)はもと太原の人で華陰に移りました。公は代々鴈門の出。その分かれではありませんか」と問うた。崇韜は「乱に遭って譜牒を失いましたが、かつて先人が『汾陽から四代さかのぼる』と言うのを聞きました」と答えた。革は「では確かにご一族です」と言った。崇韜はこれで名門を自任し、流品をやたら区別して浮華の徒を引き立て、勲功ある古参を鄙しんだ。官を求める者に「公の功と能はよく存じている。だが門地が寒素だ。用いれば名流に嗤われよう」と言った。これで宦臣は内で憎み、勲旧は外で怨んだ。
- 崇韜はたびたび樞密使を李紹宏に譲ることを請うたが許されず、また樞密院の事を内諸司に分けてその権を軽くすることを請うた。それでも宦官の誹謗はやまなかった。崇韜は鬱々として志を得ず、親しい者と本鎮へ赴いて避けることを謀ったが、その人は「なりません。蛟竜も水を失えば螻蟻でも制せられます」と言った。
- これに先立ち、帝は劉夫人を皇后に立てようとしたが、正妃の韓夫人がおり、太后はかねて劉夫人を憎み、崇韜もたびたび諫めたので果たせなかった。ここで親しい者が崇韜に「公が劉夫人を皇后に立てるよう請えば、上は必ず喜ばれます。内に皇后の助けがあれば、伶官の輩も患いをなせません」と説き、崇韜は従って宰相とともに百官を率いて劉夫人を中宮の位に正すべきだと奏した。
- 癸未、魏国夫人の劉氏を皇后に立てた。皇后は寒微の出で、貴くなるともっぱら蓄財に努めた。魏州にいたころは薪や果物・野菜まで売っていた。皇后となると四方の貢献をいずれも二つに分け、一つを天子に、一つを中宮に上らせた。これで宝貨は山と積まれたが、ただ仏経を写して尼師に施すのに使うだけだった。
- 当時、皇太后の誥、皇后の教が制勅とともに藩鎮に行われ、いずれも同じように奉じられた。
- 勲臣は伶官の讒言を畏れて皆落ち着かず、蕃漢内外馬歩副総管の李嗣源が兵権の返上を求めたが、帝は許さなかった。
- 夏四月、孔謙が民に銭を貸して安値で絲を償わせ、たびたび檄で州県に督促させた。翰林学士承旨・権知汴州の盧質が上言した。「梁の趙巌は租庸使として貸し付け搾取し、人に怨みを結びました。今、陛下が故きを革め新しきを鼎めて人のために害を除かれているのに、有司がそのやり口を改めぬのは趙巌が生き返ったも同然です。今春は霜が桑を害して繭も絲もきわめて薄く、正税を納めるだけでも流亡が心配なのに、まして貸し付けを加えては人がどうして堪えられましょう。臣は天子に仕えるのであって租庸に仕えるのではありません。勅旨が下る前に省の牒が頻りに下っております。早く明命を降されたい」。帝は返答しなかった。
- はじめ胡柳の役で伶人の周匝が梁に捕えられ、帝は常に思っていた。汴に入った日、匝が馬前に拝謁し、帝は大いに喜んだ。匝は涙を流して「臣が生き延びられたのは、すべて梁の教坊使・陳俊と内園栽接使・儲徳源の力です。陛下に二州を乞うて報いたい」と言い、帝は許した。
- 郭崇韜が諫めた。「陛下とともに天下を取った者は皆英豪忠勇の士です。今、大功が成ったばかりで封賞はまだ一人にも及んでおりません。それなのに先に伶人を刺史とされては、天下の心を失うと恐れます」。これで行われなかった。
- 一年余りして伶人がたびたび言うので、帝は崇韜に「私はもう周匝に約束した。この三人に会うのが恥ずかしい。公の言は正しいが、私のために意を曲げて行ってくれ」と言った。五月壬寅、俊を景州刺史、徳源を憲州刺史とした。当時、親軍には帝に従って百戦しながら刺史を得ていない者があり、憤り嘆かぬ者はなかった。
- 乙巳、右諫議大夫の薛昭文が上疏した。今なお僭称する者は多く征伐の謀はにわかにやめられぬこと、士卒は長く征伐に従いながら賞給が乏しく貧しい者が多いので四方の貢献と南郊の余剰であらためて賜与すべきこと、河南の諸軍は梁の精鋭で僭称の国が密かに厚利で誘うことを恐れるので収め撫すべきこと、流亡した戸口は徭を寛くし賦を薄くして安集させるべきこと、急がぬ土木の役は裁減すべきこと、空き地を択んで馬を牧させ京畿の民田を踏ませぬこと——いずれも従われなかった。
- 六月壬辰、天平節度使の李嗣源を宣武節度使とした。
- 秋八月癸酉、副使・衛尉卿の孔謙を租庸使、右威衛大将軍の孔循を副使とした。循は趙殷衡である。梁が亡んで姓名を戻した。謙は以後、思いのまま志を行い、重い徴収と厳しい取り立てで帝の欲を満たそうとし、民は生きていけなくなった。癸未、謙に「豊財贍国功臣」の号を賜った。
同光三年(925年・張憲と即位壇)
- はじめ李嗣源が北征して興唐を通ったとき、東京の庫に御用の細かい鎧があり、嗣源は副留守の張憲に牒を送って五百領を取ろうとした。憲は軍事の急で奏する暇がなく給付した。帝は怒って「憲は詔を奉じず勝手にわが鎧を嗣源に給した。どういうつもりか」と言い、憲の俸を一月分罰し、自ら軍中へ取りに行かせた。
- 帝は義武節度使の王都が入朝するので毬場を開こうとした。憲は「かねて行宮の闕廷を毬場としております。先年、陛下はここで即位されました。その壇は毀せません。毬場は宮の西に開かれたい」と言った。数日たっても完成しないので、帝は即位壇を毀すよう命じた。憲は郭崇韜に「この壇は主上が上帝を祀って初めて命を受けられた地です。どうして毀せましょう」と言った。崇韜がそれとなく帝に言うと、帝はただちに両虞候に毀させた。憲は私かに崇韜に「天を忘れ本に背く。これほどの不祥はない」と言った。
- 春二月庚辰、李嗣源を成徳節度使に移した。
- 帝は剛毅で勝ち気な性質で、権が臣下にあることを望まなかった。洛陽に入って以来、伶官と宦官の讒言を信じ、宿将をかなり疎んじ忌んだ。李嗣源の家は太原にあり、三月丁酉、衛州刺史の李従珂を北京内牙馬歩都指揮使とするよう上表して家の便を図った。帝は怒って「嗣源は兵権を握って大鎮に居り、軍政は手中にある。どうしてその子のために奏請できようか」と言い、従珂を突騎指揮使に降して数百人を率いて石門鎮を戍らせた。嗣源は憂え恐れ、上章して弁明し、長くしてようやく解けた。
- 辛丑、嗣源が東京への朝覲を乞うたが許されなかった。郭崇韜は嗣源の功が高く位が重いことをやはり忌み、私かに人に「総管令公は長く人の下にいる人物ではない。皇家の子弟は皆及ばぬ」と言い、密かに帝に召して宿衛させ兵権を罷めるよう勧め、さらに除くことを勧めたが、帝はいずれも従わなかった。
- 洛陽の宮殿は広大だったが、宦者は帝に嬪御を増やさせようとして「宮中で夜に鬼物を見た」と偽った。帝が呪術者に祓わせようとすると、宦者は「臣は昔、咸通・乾符の天子にお仕えしました。当時、六宮の貴賤は一万人を下りませんでした。今、掖庭の大半は空です。だから鬼物が遊ぶのです」と言った。
- 上はそこで宦者の王允平と伶人の景進に民間の女子を選ばせ、遠く太原・幽州・鎮州にまで及んで後庭に充て、三千人を下らず、その素性も問わなかった。上が興唐から帰るとき、牛車に載せて路に連なった。張憲が「諸営の婦女で逃亡した者が千余人。扈従の諸軍が匿って連れ去ったのではと案じられます」と奏したが、実はいずれも宮中に入っていた。
- 庚辰、帝は洛陽に至り、辛酉、詔であらためて洛陽を東都、興唐府を鄴都とした。
- 夏六月、帝が蒸し暑さに苦しみ、禁中で涼しい場所を択んでもいずれも意に適わなかった。宦者が「臣が見ますに、長安の全盛時には大明・興慶の宮の楼観は百を数えました。今日、宅家(陛下)は避暑の場所すらお持ちでなく、宮殿の盛大さも当時の公卿の邸に及びません」と言った。
- 帝は宮苑使の王允平に別に一楼を建てて涼を取ろうとした。宦者は「郭崇韜は常に眉を開かず、孔謙に用度不足を論じております。陛下がお望みでも、結局は叶いますまい」と言った。帝は「私は自ら内府の銭を使う。経費とは関わりない」と言ったが、なお崇韜の諫めを慮り、中使に「今年の盛暑は異常だ。朕は昔、河上で梁の人と対峙したとき、行営は低湿で、甲を着け馬に乗って自ら矢石に当たったが、これほどの暑さはなかった。今、深宮の中にいて暑さは測りがたい。どうしたものか」と伝えさせた。
- 崇韜は答えた。「陛下は昔、河上におられたとき、強敵はまだ滅びず、讎恥を深く思っておられました。盛暑があっても御心に介しませんでした。今は外患が除かれ海内は服しております。だからこそ珍しい台や閑かな館でさえ蒸すように感じられるのです。陛下がもし艱難のときを忘れられなければ、暑気は自ずと消えましょう」。帝は黙った。宦者は「崇韜の邸は皇居と変わりません。至尊の暑さが分からぬのも道理です」と言った。
- 帝はついに允平に楼を営ませ、日々一万人を使い、費用は巨万に及んだ。崇韜が「今、両河は水旱で軍食も足りません。ひとまず役を休めて豊年を待たれたい」と諫めたが、帝は聞かなかった。
- 秋七月甲午、成徳節度使の李嗣源が上表して入朝を求めたが、帝は許さなかった。
- 九月乙未、皇子の継岌を魏王に立てた。丁酉、帝は宰相と伐蜀を議し、魏王・継岌を西川四面行営都統、郭崇韜を東北面行営都招討制置等使として軍事をすべて委ねた。
- 郭崇韜は北都留守の孟知祥が推挙してくれた旧恩があるので、出発にあたり上に「孟知祥は信厚で謀があります。西川を得て帥を求めるなら、この人に勝る者はありません」と言い、また鄴都副留守の張憲は謹厳重厚で識見があり宰相となれると推した。戊申、大軍が西へ発った。
- 冬十一月乙卯、大軍が成都に至り、蜀王が出て降った。
- 蜀を平らげた功は李紹琛が最も多く、位は董璋の上にあったが、璋はかねて郭崇韜と親しく、崇韜はたびたび璋を召して軍事を議した。紹琛は不平で璋に「私には蜀平定の功がある。公らはつまらぬ者どもが群れ従って、郭公の門で囁き合い、人を傾け害そうと謀っている。私は都将だ。軍法で公を斬れぬとでも思うのか」と言った。璋は崇韜に訴えた。
- 十二月、崇韜は上表して璋を東府節度使としてその軍職を解いた。紹琛はいよいよ怒り、「私は白刃を冒し険阻を越えて両川を定めたのだ。璋は座してこれを得るのか」と言い、崇韜に会って「東川は重地です。任尚書(任圜)には文武の才があります。表して帥とされたい」と言った。崇韜は怒って「紹琛は叛くのか。どうしてわが節度に背けるのか」と言い、紹琛は恐れて退いた。
- はじめ帝は宦者の李従襲らを魏王・継岌に従わせて蜀を伐たせた。継岌は都統でありながら、軍中の制置や補任はすべて郭崇韜から出た。崇韜は終日事を決し、将吏や賓客が庭を埋めて行き来したが、都統府には大将が朝に拝謁するだけで、外の牙門は閑散としていた。従襲らはこれを深く恥じた。
- 蜀を破ると、蜀の貴臣や大将は争って宝貨や妓楽を崇韜とその子・廷誨に贈り、魏王が得たものは馬一頭、束帛、唾壺、麈の柄だけだった。従襲らはいっそう不平だった。
- 王宗弼が自ら西川留後となったとき、崇韜に賄賂を贈って節度使を求めた。崇韜は表向き許したが、久しく叶わなかったので、宗弼は蜀の人を率いて連名の状で継岌に会い、崇韜を留めて蜀に鎮させるよう請うた。
- 従襲らはそれに乗じて継岌に「郭公父子は専横です。今また蜀の人に自分を帥にと請わせている。その志は測りがたい。王は備えられぬわけにいきません」と言った。継岌は崇韜に「主上は侍中を山嶽のように頼りとされ、廟堂から離せません。どうして元老を蛮夷の地に棄てられましょう。しかもこれは私の関知するところではありません。皆さんは闕へ行って自ら陳べられよ」と言った。これで継岌と崇韜は互いに疑った。
- 丙子、知北都留守事の孟知祥を西川節度使・同平章事とし、急ぎ洛陽へ赴くよう召した。
- 帝が北都留守の人選を議すると、樞密承旨の段徊らは鄴都留守の張憲を憎み、朝廷に置きたくないので皆「北都は張憲でなければなりません。憲には宰相の器がありますが、今、国家は中原を得たばかりです。宰相は天子の目の前にあり、事に得失があれば改められます。北都は一方の安危にかかるだけで、それほど重くはありません」と言った。そこで憲を太原尹・知北都留守事に移し、戸部尚書の王正言を興唐尹・知鄴都留守事とした。
- 正言は耄碌していた。帝は武徳使の史彦瓊を鄴都監軍とした。彦瓊はもと伶人で帝の寵を得ていた。魏博など六州の軍旅・金穀の政はすべて彦瓊が決し、威福をほしいままにして将佐を侮り、正言以下は皆諂い仕えた。
- はじめ帝は魏州の銀槍効節都八千人近くを得て親軍とした。いずれも勇悍無敵で、河を挟んだ戦いでは実にその働きに頼り、たびたび殊功を立てた。常に「梁を滅ぼした日には大いに賞賜する」と約束していた。ところが河南が平らぐと、賞賜は一度ならず行われたものの、士卒は功を恃んで驕り恣で飽きることなく、かえって怨望した。
- この年は大飢饉で民の多くが流亡し、租賦は足りず、道路は泥濘で漕運は難渋した。東都の倉廩は空になり軍士に給する物がなく、租庸使の孔謙は日々上東門の外で諸州の漕運の到着を待ち、着きしだい給付した。
- 軍士は食に乏しく、妻を雇いに出し子を売る者もあり、老弱は野で菜を採り、百人・十人と群れをなし、しばしば餓死した。流言と怨嗟が起こったが、帝は遊猟をやめなかった。
- 己卯、白沙で狩りをし、皇后・皇子・後宮も皆従った。庚辰は伊闕、辛巳は潭泊、壬午は龕澗に宿り、癸未に宮へ帰った。当時は大雪で、吏卒には道路で倒れる者もあった。伊水・汝水の間の飢饉はとりわけひどく、衛兵は通過するたび供給を責め、得られねばその什器を壊し、家屋を撤して薪とした。寇盗より甚だしく、県の吏は皆山谷に逃げ隠れた。
- 帝が軍儲不足を群臣に諮ると、豆盧革以下は皆策を知らなかった。吏部尚書の李琪が上疏した。「古は入るを量って出すを為し、農を計って兵を発しました。だからこそ水旱の災いがあっても匱乏の憂いはありませんでした。近代は農に税して兵を養っております。農が富み足りて兵が足りぬこと、農が痩せ衰えて兵が豊かに飽くことなど、あったためしがありません。今、租税を免除できずとも、折納・紐配の法さえ除けば、農もいくらか休めましょう」。帝はただちに有司に琪の言のとおりにするよう勅したが、ついに実行されなかった。
同光三年冬〜四年(925-926年・郭崇韜の誅殺)
- 郭崇韜はかねて宦者を憎み、かつて密かに魏王・継岌に「大王が他日、天下を得られたら、去勢した馬にすら乗ってはなりません。まして宦官を任じるなど。すべて除いてもっぱら士人を用いられるべきです」と言った。呂知柔が立ち聞きして知り、これで宦官は皆歯噛みした。
- 当時、成都は落ちたが蜀中には盗賊が群れ起こって山林に満ちていた。崇韜は大軍が去ったのちに後患となることを恐れ、任圜と張筠に道を分けて招討させ、そのため逗留して帰らなかった。帝は宦者の向延嗣を送って急がせたが、崇韜は郊外に出迎えず、会ってからの礼節も傲慢だったので延嗣は怒った。
- 李従襲が延嗣に言った。「魏王は太子です。主上はご壮健なのに郭公の専権はこの通り。郭廷誨は徒党を連ねて出入りし、日々軍中の驍将や蜀の土豪と馴れ合って飲み、天を指し地に描いております。近ごろは父に自分を蜀の帥に表するよう請い、また『蜀の地は富饒です。大人はよく自ら図られよ』と言ったとか。今、諸軍の将校は皆郭氏の党です。王は虎狼の口に身を寄せておられる。一朝にして変があれば、我らはどこに骨を埋めることになるか分かりません」。そう言って互いに向き合って涙を垂れた。
- 延嗣は帰ってつぶさに劉后に語り、后は泣いて帝に訴え、早く継岌を死から救うよう請うた。それ以前から帝は蜀の人が崇韜を帥にと請うたと聞いて不快であり、ここに延嗣の言を聞いて疑わずにいられなかった。
- 帝が蜀の府庫の帳簿を見て「人は蜀中に珍貨が数知れずと言うが、なぜこれほど少ないのか」と言うと、延嗣は「臣が聞くに、蜀が破れてその珍貨はすべて崇韜父子のもとへ入りました。崇韜には金一万両、銀四十万両、銭百万緡、名馬千匹、その他も同様。廷誨が取った分はさらにその外にあります。だから県官の得たものが多くないのです」と言った。帝はついに怒りを面に表した。
- 孟知祥が出発しようとしたとき、帝は「郭崇韜に異志があると聞く。卿は蜀へ着いたら朕のために誅せ」と語った。知祥は「崇韜は国の勲旧です。そのようなことはありますまい。臣が蜀に至って探ります。他意がなければ帰らせます」と言い、帝は許した。壬子、知祥は洛陽を発った。
- 帝はまもなく衣甲庫使の馬彦珪を成都へ馳せさせて崇韜の去就を見させ、詔を奉じて班師するならよし、遷延跋扈の状があれば継岌とともに図らせようとした。
- 彦珪は皇后に会って「臣は向延嗣から蜀中の事勢を聞きました。憂いは旦夕にあります。今、主上は断つべきときに断たれません。そもそも成敗の機は髪一筋も容れぬもの。どうして緩急を三千里の外に伺えましょう」と説いた。皇后があらためて帝に言うと、帝は「伝聞の言だ。虚実も分からぬ。にわかに決断できようか」と言った。皇后は請いが容れられず、退いて自ら教を作って継岌に与え、崇韜を殺させた。
- 知祥が石壕まで来たとき、彦珪が夜に門を叩いて詔を宣べ、知祥に赴任を促した。知祥は密かに嘆じて「乱が起ころうとしている」と言い、昼夜兼行した。
明宗天成元年(926年・郭崇韜・朱友謙の死)
- 河中節度使の李継麟(朱友謙)は帝と旧知であり、しかも功があることから帝の待遇は厚かった。だが諸伶官が飽くことなく求めるのに苦しみ、ついに拒んで与えなかった。
- 大軍が蜀を征したとき、継麟は兵を閲して子の令徳に率いさせて従わせた。景進と宦官が「継麟は大軍が起こったと聞いて自分を討つのだと思い、驚き恐れて兵を閲して自衛したのです」と讒言し、さらに「崇韜が蜀で強情に構えていられるのは、河中と陰謀して内外呼応しているからです」と言った。
- 継麟はこれを聞いて恐れ、自ら入朝して弁明しようとした。親しい者が止めたが、継麟は「郭侍中は私より功が高い。今、事勢は危うくなろうとしている。私が主上に会って面と向かって誠意を陳べれば、讒人が罪を得よう」と言った。正月癸亥、継麟は入朝した。
- 魏王・継岌が成都を発とうとして、任圜に留守事を代行させて孟知祥を待たせ、諸軍の部署はすでに定まっていた。この日、馬彦珪が至って皇后の教を継岌に示した。継岌は「大軍がまさに発とうというときだ。彼に釁端はない。どうしてこんな心に背く事ができようか。公らは二度と言うな。しかも主上の敕がなく、皇后の教だけで招討使を殺せるものか」と言った。
- 李従襲らは泣いて「すでにこの形跡がある以上、万一、崇韜が察知して途中で変を起こせば、いよいよ救えなくなります」と言い、こもごも巧みに利害を陳べた。継岌はやむなく従った。
- 甲子の朝、従襲が継岌の命として崇韜を事の相談に召し、継岌は楼に登って避けた。崇韜が階を上ったところで、継岌の従者・李環が撾でその頭を砕き、あわせてその子の廷誨と廷信を殺した。外の人はまだ知らなかった。
- 都統推官の李崧(饒陽の人)が継岌に「今、軍を三千里の外に行い、初めから敕旨もないのに勝手に大将を殺すとは。大王はどうしてこんな危うい事をなさったのか。堪えて洛陽まで行けなかったのですか」と言った。継岌は「公の言は正しい。悔いても及ばぬ」と言った。
- 崧はそこで書吏数人を呼んで楼に登り梯を外し、敕書を偽造して蠟印を用いて軍中に宣べ、ようやく落ち着いた。崇韜の左右は皆逃げ隠れ、ただ掌書記の張礪(滏陽の人)だけが魏王府へ来て長く慟哭した。継岌は任圜に崇韜に代わって軍政を総べさせた。
- 馬彦珪が洛陽へ帰ると、詔を下して郭崇韜の罪を暴き、あわせてその子の廷説・廷譲・廷議を殺した。朝野は驚き惜しみ、群議は紛々とした。帝は宦官に密かに探らせた。
- 保大節度使・睦王の存乂は崇韜の婿である。宦官は崇韜の党を根絶やしにしようとして、「存乂は諸将の前で腕をまくり涙を垂れて崇韜の冤を訴え、言葉に怨望がありました」と言った。庚辰、存乂を邸に幽閉し、まもなく殺した。
- 景進が「河中の人に、李継麟が郭崇韜と謀反したと告げる者があります」と言い、崇韜が死んだ後も存乂と連謀していたとした。宦官はこれに乗じて速やかに除くよう帝に勧め、帝は継麟を義成節度使に移した。その夜、蕃漢馬歩使の朱守殷に兵で邸を囲ませ、継麟を徽安門の外へ引き出して殺し、姓名を朱友謙に戻した。
- 友謙の二子、令徳は武信節度使、令錫は忠武節度使だった。詔で魏王・継岌に令徳を遂州で、鄭州刺史の王思同に令錫を許州で誅させ、河陽節度使の李紹奇にその家人を河中で誅させた。
- 紹奇がその家に至ると、友謙の妻・張氏が家人二百余口を率いて会い、「朱氏の宗族は死ぬべきです。願わくは無関係の者に及ばせないでください」と言い、そこで婢僕百人を別にし、一族百口を刑に就かせた。張氏はさらに鉄券を取って紹奇に示し、「これは皇帝が昨年賜ったものです。私は婦人で字が読めません。どんな言葉が書かれているのかも分かりません」と言った。紹奇もこれには恥じ入った。友謙の旧将である史武ら七人は当時刺史だったが、いずれも連座して族誅された。
- 当時、洛中の諸軍は飢えて窮し、勝手な謡言を作った。伶官がそれを採って帝に聞かせたので、郭崇韜も朱友謙も禍に遭ったのである。成徳節度使兼中書令の李嗣源も謡言に名指しされ、帝は朱守殷を送って探らせた。
- 守殷は私かに嗣源に「令公の勲業は主を圧しております。自ら図って藩へ帰り禍を遠ざけられるべきです」と言った。嗣源は「私の心は天地に背いていない。禍福の来るのは避けようがない。すべて命に委ねるだけだ」と言った。
- 当時、伶官が実権を握り、勲功ある古参は身を保てず、嗣源も危うくなること四度に及んだが、宣徽使の李紹宏が左右で庇ったので全うできた。
- 魏王・継岌は馬歩都指揮使の李仁罕(陳留の人)、馬軍都指揮使の潘仁嗣(東光の人)、左廂都指揮使の趙廷隠、右廂都指揮使の張業(浚儀の人)、牙内指揮使の武漳(文水の人)、驍鋭指揮使の李延厚(平恩の人)を残して成都を戍らせた。甲申、継岌は成都を発ち、李紹琛に一万二千人を率いさせて後軍とし、進退は常に中軍と一舎(三十里)の差を保たせた。
天成元年二月〜三月(926年・鄴都の兵変)
- 二月、魏博指揮使の楊仁晸が部下の兵を率いて瓦橋を戍り、一年を越えて交代して帰る途中、貝州に至った。鄴都が手薄なので兵が至れば変が起こることを恐れ、勅で貝州に留屯させた。
- 当時、天下は郭崇韜の罪を知らず、民間には「崇韜が継岌を殺して自ら蜀に王となったので一族を滅ぼされた」との訛言が飛んだ。朱友謙の子・建徽は澶州刺史だったが、帝は密かに鄴都監軍の史彦瓊に殺させた。門番が留守の王正言に「史武徳が夜半に馬を馳せて城を出ました。どこへ行くとも申しません」と告げた。さらに「皇后が継岌の死を帝のせいとしてすでに帝を弑した。だから急ぎ彦瓊を召して事を計ったのだ」との訛言が飛び、人情はいよいよ驚いた。
- 楊仁晸の部兵・皇甫暉はその仲間と夜に博打をして負け、人心の不安に乗じて乱を起こし、仁晸を脅して言った。「主上が天下を有するのは、わが魏の軍の力です。魏の軍は甲を体から離さず馬の鞍を解かぬこと十余年。今、天下は定まったのに、天子は旧労を思わずかえって猜疑を加え、遠く戍って一年を越し、ようやく交代して帰れると喜んだのに、家まで咫尺なのに会わせようとしない。今、皇后が弑逆して京師はすでに乱れたと聞きます。将士は公とともに帰りたい。そのうえで朝廷に上表すればよい。天子がご壮健で兵を興して討たれても、わが魏博の兵力なら防ぐに足ります。かえって富貴の資とならぬとどうして分かりましょう」。
- 仁晸が従わないので暉は殺し、小校も脅して従わないのでこれも殺した。効節指揮使の趙在礼は乱を聞いて帯も締めずに垣を越えて逃げたが、暉が追いついて足を引いて引きずり降ろし、二つの首を示した。在礼は恐れて従い、乱兵はそのまま帥に奉じた。貝州を焼き掠めた。暉は魏州の人、在礼は泳州の人である。
- 翌朝、暉らは在礼を擁して南の臨清・永済・館陶へ向かい、通過するところを略奪した。
- 壬辰の晩、貝州から「軍が乱れて鄴都を犯そうとしている」と告げて来る者があった。都巡検使の孫鐸らが急ぎ史彦瓊のもとへ行き、甲を授けて城に登って備えることを請うた。彦瓊は鐸らに異志があるのではと疑い、「告げた者は『今日、賊は臨清に至る』と言った。行程を計れば六日はかかる。晩に備えても遅くない」と言った。
- 孫鐸は「賊が乱を起こした以上、必ず我らの無備に乗じて昼夜倍の速さで来ます。どうして行程どおりに歩きましょう。僕射は衆を率いて城に登られたい。鐸が精兵千人を募って王莽河に伏せて迎え撃ちます。賊の勢いが挫ければ必ず離散し、そこで撲滅できます。城下まで来るのを待って、万一、姦人が内応すれば事は危うい」と言ったが、彦瓊は「ただ兵を厳しくして城を守ればよい。迎え撃つ必要はない」と言った。
- その夜、賊の前鋒が北門を攻め、弓弩を乱射した。当時、彦瓊は部兵を率いて北門の楼に宿っていたが、賊の喊声を聞いてただちに驚き潰え、単騎で洛陽へ逃げた。
- 癸巳、賊が鄴都に入り、孫鐸らは防戦したが勝てず逃げた。趙在礼が宮城に拠り、皇甫暉と軍校の趙進を馬歩都指揮使とし、兵を放って大掠した。進は定州の人である。
- 王正言はちょうど机に向かって吏を呼んで奏を草させようとしたが誰も来なかった。正言が怒ると、家人は「賊はもう入城して市で殺し掠めております。吏は皆逃げ散りました。公はまだ誰を呼ばれるのですか」と言った。正言は驚いて「私はまるで知らなかった」と言い、馬を探させても得られず、そこで僚佐を率いて徒歩で府門を出て在礼に拝謁し、再拝して罪を請うた。在礼も拝して「士卒が帰りたがっただけです。尚書は徳を重んじられよ。ご自身を卑しめられますな」と言い、慰め諭して帰した。衆は在礼を魏博留後に推し、その状を奏した。
- 北京留守の張憲の家は鄴都にあり、在礼は厚く撫し、使者に書を持たせて憲を誘ったが、憲は封も開かずにその使者を斬って報告した。
- 丙申、史彦瓊が洛陽に至った。帝が樞密使の李紹宏に大将となれる者を問うと、紹宏はまた李紹欽(段凝)を用いることを請い、帝は許して方略を箇条書きにさせた。紹欽が請う偏裨はいずれも梁の旧将で自分と親しい者ばかりだったので、帝は疑って取りやめた。皇后が「これは小事です。大将を煩わせるまでもありません。紹栄なら片づけられます」と言い、帝は帰徳節度使の李紹栄に三千騎で鄴都へ行って招撫させ、あわせて諸道の兵を徴して不服に備えた。
- 郭崇韜が死んだとき、李紹琛は董璋に「公はまた誰の門で囁くつもりだ」と言い、璋は恐れて謝罪した。
- 魏王・継岌の軍が帰路、武連に至って敕使に会い、朱友謙がすでに誅されたと諭され、董璋に兵を率いて遂州へ行って朱令徳を誅するよう命じられた。当時、紹琛は後軍を率いて魏城にいたが、これを聞き、帝が自分に令徳の誅殺を委ねず璋に委ねたことに大いに驚いた。まもなく璋が紹琛の軍を通り過ぎながら拝謁しなかった。
- 紹琛は怒り、酒に乗じて諸将に言った。「国家が南に大梁を取り西に巴蜀を定めたのは、すべて郭公の謀であり私の戦功だ。逆を去り順に効し、国家と掎角して梁を破ったのは朱公だ。今、朱も郭も罪なくして族滅された。朝廷へ帰れば次は私だ。冤しいかな、天よ、どうすればよいのか」。
- 紹琛の率いる兵の多くは河中の兵だった。河中の将・焦武らが軍門で号哭して「西平王に何の罪があって一門を屠り膾にされたのか。我らが帰れば史武らと同じく誅される。断じて東へは行かぬ」と言った。
- この日、魏王・継岌は泥渓に至り、紹琛は剣州に至って、人をやって継岌に「河中の将士が号哭してやみません。乱を起こそうとしております」と告げさせた。丁酉、紹琛は剣州から兵を擁して西へ引き返し、西川節度・三川制置等使を自称し、成都に檄を移して「詔を奉じて孟知祥に代わる」と称して蜀の人を諭した。三日で衆は五万に達した。
- 己亥、魏王・継岌が利州に至った。李紹琛が人をやって桔柏津を断ったので、継岌は任圜を副招討使として歩騎七千を率いさせ、都指揮使の梁漢顒、監軍の李延安とともに追討させた。
- 庚子、邢州の左右歩直の兵・趙太ら四百人が城に拠って安国留後を自称し、詔で東北面招討副使の李紹真に討たせた。
- 辛丑、任圜はまず別将の何建崇に剣門関を撃たせて落とした。
- 李紹栄が鄴都に至ってその南門を攻め、人をやって敕で招諭させた。趙在礼は羊と酒で軍を犒い、城上から拝して「将士が家を思って勝手に帰ったのです。相公がまことにうまく上奏してくださり死を免れられれば、自ら改めぬはずがありましょうか」と言い、そのまま敕を軍士に遍く諭した。
- 史彦瓊が手を振り上げて「死に損ないの賊どもめ。城が破れたら八つ裂きだ」と大罵した。皇甫暉は衆に「史武徳の言を聞くに、上は我らを赦されぬ」と言い、そこで騒ぎ立てて敕書を奪い取って手で破り、城壁を守って防戦した。紹栄は攻めたが不利で、その状を報告した。帝は怒って「城を落とした日には生き残りを一人も残すな」と言い、大いに諸軍を発して討たせた。壬寅、紹栄は澶州へ退いて屯した。
- 甲辰の夜、従馬直の軍士・王温ら五人が軍使を殺して乱を謀り、捕えて斬った。
- 従馬直指揮使の郭従謙はもと優人で、優名を郭門高といった。帝が梁と得勝で対峙したとき勇士を募って挑戦させ、従謙が応募して捕虜と首を得て帰り、これでいっそう寵を得た。帝は諸軍の驍勇な者を選んで親軍とし、四指揮に分けて「従馬直」と号した。従謙は軍使から功を積んで指揮使に至った。
- 郭崇韜が実権を握っていたころ、従謙は叔父として仕え、睦王・存乂は従謙を養子としていた。崇韜と存乂が罪を得ると、従謙はたびたび私財で従馬直の諸校を饗し、彼らに向かって涙を流して崇韜の冤を語った。王温が乱を起こすと、帝は戯れに「そなたは私に背いて崇韜と存乂に付いた。さらに王温に反かせて何をするつもりか」と言った。従謙はいよいよ恐れ、退いて密かに諸校に「主上は王温の件で、鄴都が平定されたらおまえたちをことごとく生き埋めにするつもりだ。家にある物はすべて酒肉に換えよ。長い計は無用だ」と言った。これで親軍は皆落ち着かなくなった。
- 丁未、李紹栄が諸道の兵で再び鄴都に迫った。庚戌、裨将の楊重霸が数百の衆を率いて城に登ったが後続がなく、重霸らは皆死んだ。賊は赦されぬと知って堅く守り降る意がなかった。
- 朝廷は憂え、日々中使を発して魏王・継岌の東帰を促した。継岌は中軍の精兵がすべて任圜に従って李紹琛を討ちに行っており、利州で待っていて帰れなかった。李紹栄は趙在礼を討って長く功なく、趙太の邢州もまだ落ちず、滄州でも軍が乱れて小校の王景戡が討ち定め、そのまま自ら留後となった。河朔の州県から乱を告げる者が相次いだ。
- 帝は自ら鄴都を征そうとしたが、宰相も樞密使も「京師は根本です。車駕を軽々しく動かせません」と言った。帝は「諸将に使える者がない」と言い、皆が「李嗣源が最も勲旧です」と言った。帝は嗣源を忌んで「私は嗣源を惜しむ。留めて宿衛させたい」と言ったが、皆が「他に人がおりません」と言った。忠武節度使の張全義も「河朔は多事です。長引けば患いは深くなります。総管に進討させられたい。紹栄らに頼っていては成功の時期が見えません」と言い、李紹宏もたびたび言った。帝は内外の推薦が揃ったので、長くしてようやく許した。甲寅、嗣源に親軍を率いて鄴都を討たせた。
- 董璋が二万の兵で綿州に屯して任圜と合して李紹琛を討った。帝は中使の崔延琛を成都へ遣わした。延琛は紹琛の軍に遭い、「私は詔を奉じて孟郎公を召しに行くところです。公がもし兵を緩めれば、自然に蜀を得られましょう」と欺き、成都に着くと孟知祥に戦守の備えをするよう勧めた。
- 知祥は壕を深くし柵を立て、馬歩都指揮使の李仁罕に四万を率いさせ、驍鋭指揮使の李延厚に二千を率いさせて紹琛を討たせた。延厚はその衆を集めて「若く壮んで勇鋭、功を立てて富貴を求めたい者は東へ。病み衰えて臆病で行陣を厭う者は西へ」と問い、七百人を選んで行った。
- この日、任圜の軍が漢州で紹琛に追いついた。紹琛が兵を出して迎え撃つと、招討掌書記の張礪が「精兵を後ろに伏せ、弱兵で誘われたい」と請い、圜は従い、董璋に東川の弱兵で先に戦って退かせた。紹琛は圜を書生と侮り、しかもその兵が弱いのを見て、力の限り追った。伏兵が起こって大破し、数千級を斬った。以後、紹琛は漢州に入って城を閉じて出なくなった。
- 三月丁巳朔、李紹真が邢州を落として趙太らを捕えたと奏した。庚申、紹真が兵を率いて鄴都に至り、城の西北に陣し、太らを鄴都の城下に引き回して殺した。
- 壬戌、李嗣源が鄴都に至って城の西南に陣した。甲子、嗣源は軍中に翌朝の攻城を令した。
- その夜、従馬直の軍士・張破敗が乱を起こし、衆を率いて大騒ぎして都将を殺し営舎を焼いた。翌朝、乱兵が中軍に迫り、嗣源は親軍を率いて防いだが敵しきれず、乱兵はいよいよ熾んになった。
- 嗣源が叱って「そなたらは何をするつもりか」と問うと、答えた。「将士は主上に従って十年、百戦して天下を得ました。今、主上は恩を棄てて威を任じ、貝州の戍卒が帰郷を思っただけで赦さず、『城を落としたのちは魏博の軍をことごとく生き埋めにする』と言われた。近ごろは従馬直の数卒が騒いだだけで、たちまちその衆をすべて誅そうとされた。我らにはもとより叛く心はありません。ただ死を畏れるだけです。今、衆議は城中と勢いを合わせて諸道の軍を撃退し、主上に河南の帝、令公に河北の帝となって軍民の主となっていただきたい、というものです」。
- 嗣源は泣いて諭したが従わず、「そなたらが私の言を用いぬなら好きにせよ。私は自ら京師へ帰る」と言った。乱兵は白刃を抜いて取り囲み、「この輩は虎狼です。尊卑を知りません。令公が去ってどこへ行かれるのか」と言い、そのまま嗣源と李紹真らを擁して城に入った。
- 城中は外の兵を受け入れず、皇甫暉が張破敗を迎え撃って斬り、外の兵は皆潰えた。趙在礼が諸校を率いて迎え拝し、泣いて「将士どもが令公に背きました。命に従わぬはずがありません」と謝した。
- 嗣源は偽って在礼に「およそ大事を挙げるには兵力が要る。今、外の兵は散り散りで帰る先がない。私が公のために出て収めよう」と言い、在礼はそこで嗣源と紹真がともに城を出るのを許した。魏県に宿ると、散兵がしだいに集まってきた。
- 漢州には城も塹もなく木を並べて柵としていた。乙丑、任圜がその柵に進攻して火を放って焼いた。李紹琛は兵を率いて出て金鴈橋で戦ったが敗れ、十余騎で綿竹へ逃げ、追って捕えた。
- 孟知祥が自ら漢州へ来て軍を犒い、任圜・董璋と酒を置いて盛大な会を開き、李紹琛を檻車のまま座に引き出した。知祥は自ら大杯を酌んで飲ませ、「公はすでに節旄を擁し、しかも蜀平定の功がある。なぜ富貴を憂えてこの檻車に入ることを求められたのか」と言った。紹琛は「郭侍中は佐命の功第一で、兵に血塗らずに両川を取られた。それが一朝にして罪なく族誅された。紹琛のような者がどうして首を保てましょう。だから朝廷へ帰れなかったのです」と答えた。
- 魏王・継岌は紹琛を捕えると、兵を率いて道を倍して東へ向かった。
- 李嗣源が乱兵に脅されたとき、李紹栄は一万の衆で城の南に陣していた。嗣源は牙将の張虔釗・高行周ら七人を相次いで送って召し、ともに乱者を誅そうとしたが、紹栄は嗣源の偽りを疑って使者を留め、壁を閉じて応じなかった。嗣源が鄴都に入ると、そのまま兵を率いて去った。
- 嗣源が魏県にいたときは衆は百に満たず兵器もなかったが、李紹真の率いる鎮州の兵五千が嗣源の脱出を聞いて連れ立って帰し、これで嗣源の兵はやや振るった。
- 嗣源は泣いて諸将に「私は明日、藩へ帰り、上章して罪を待ち、主上の裁きに従う」と言った。李紹真と中門使の安重誨は「その策はよろしくありません。公は元帥でありながら不幸にも凶人に脅されました。李紹栄は戦わずに退いて帰朝しました。必ず公を口実にします。公が藩へ帰られれば、地に拠って君を邀えることになり、まさに讒言を裏付けるだけです。星を戴いて闕へ行き、天子に面と向かって会われるに如くはありません。それでこそ自ら明かせましょう」と言い、嗣源は「よかろう」と言った。
- 丁卯、魏県から南の相州へ向かい、馬坊使の康福に会って馬数千匹を得、ようやく軍を成せた。福は蔚州の人である。
- 平盧節度使の苻習が本軍を率いて鄴都を攻めていたが、李嗣源の軍が潰えたと聞いて兵を引いて帰った。淄州に至ると監軍使の楊希望が兵を送って迎え撃った。習は恐れてまた兵を率いて西へ向かい、青州指揮使の王公儼が希望を攻めて殺し、そのままその城に拠った。
- 当時、近侍で諸道の監軍となった者は皆恩を恃んで節度使と権を争っていた。鄴都の兵変が起こると各地で多くが殺された。安義監軍の楊継源が節度使の孔勍を殺そうと謀ったが、勍が先に誘って殺した。武寧監軍は、李紹真が李嗣源に従ったのでその元従を殺して城に拠って防ごうとしたが、権知留後の淳于晏が諸将を率いて先に殺した。晏は登州の人である。
- 戊辰、軍食が足りぬので、勅で河南尹に夏秋の税を前借りさせた。民は生きていけなくなった。
- 忠武節度使・尚書令・斉王の張全義は李嗣源が鄴都に入ったと聞いて憂え恐れて食べられなくなり、辛未、洛陽で没した。
- 租庸使が倉の蓄えが足りぬとしてかなり軍糧を削ったので、軍士の流言はいよいよ甚だしくなった。宰相は恐れて百官を率いて上表し、「今、租庸はすでに尽きましたが内庫には余りがあります。諸軍は家族を保てずにおります。もし賑救されねば離心を招くと恐れます。凶年を過ぎれば財はまた集まりましょう」と言った。
- 上はただちに従おうとしたが、劉后が「私ども夫婦は万国に君臨しております。武功によるとはいえ天命でもあります。命が天にある以上、人が私をどうできましょう」と言った。宰相がさらに便殿で論じると、后は屏風の後ろで耳をそばだてて聞き、まもなく出てきて、化粧道具と三つの銀の盆、幼い皇子三人を外に置いて「人は宮中に蓄積が多いと言いますが、四方の貢献はそのつど賜与に回しております。残るのはこれだけです。これを売って軍に給していただきたい」と言った。宰相は恐れ入って退いた。
- 李紹栄は鄴都から退いて衛州を守り、「李嗣源はすでに叛いて賊と合流しました」と奏した。嗣源は使者を送って上章して弁明し、一日に数度に及んだ。
- 嗣源の長子・従審は金槍指揮使だった。帝は従審に「私はそなたの父の忠厚をよく知っている。そなたが行って朕の意を諭し、自ら疑わせぬようにせよ」と言った。従審が衛州に至ると紹栄は囚えて殺そうとした。従審は「公らが私の父を信じられぬなら、私も父のもとへは行けません。宿衛へ戻ることをお許しください」と言い、そこで釈された。帝は従審を憐れんで継璟の名を賜り、子のように待遇した。以後、嗣源の奏はすべて紹栄に遮られて通じなくなり、嗣源はこれで疑い恐れた。
- 石敬瑭が「事は果断で成り猶予で敗れます。上将が叛卒とともに賊の城に入って、他日、無事でいられた例がありましょうか。大梁は天下の要会です。三百騎をお借りして先に取りたい。幸いに得られれば、公は大軍を率いて急ぎ進まれるべきです。そうしてこそ自らを全うできます」と言い、突騎都指揮使の康義誠も「主上は無道で、軍民は怨り怒っております。公が衆に従えば生き、節を守れば必ず死にます」と言った。嗣源はそこで安重誨に檄を移して兵を集めさせた。義誠は代北の胡人である。
- 当時、斉州防禦使の李紹虔、泰寧節度使の李紹欽、貝州刺史の李紹英が瓦橋に屯し、北京右廂馬軍都指揮使の安審通が奉化軍に屯していたが、嗣源はいずれも使者を送って召した。紹英は瑕丘の人で、もと房姓、名は知温、審通は安金全の甥である。
- 嗣源の家は真定にあり、虞候将の王建立が先にその監軍を殺したので全うできた。建立は遼州の人である。李従珂が横水から部下の兵を率いて盂県から鎮州へ向かい王建立の軍と合流し、道を倍して嗣源に従った。
- 嗣源は李紹栄が衛州にいるので白臯から渡河することを謀り、三百騎を分けて石敬瑭に率いさせて前駆とし、李従珂を殿とした。これで軍勢は大いに盛んになった。嗣源の甥・従璋が鎮州から軍を率いて南下し、邢州を過ぎると邢州の人が留後に奉じた。
- 癸酉、詔で懐遠指揮使の白従暉に騎兵で河陽橋を扼させた。帝はそこで金帛を出して諸軍に賜り、樞密・宣徽使および供奉内使の景進らも皆金帛を献じて賜与を助けた。軍士は物を背負いながら「わが妻子はもう飢え死にした。これを貰って何になる」と罵った。
- 甲戌、李紹栄が衛州から洛陽に至り、帝は鷂店へ行って労った。紹栄は「鄴都の乱兵はすでに一党の翟建白を博州に拠らせ、渡河して鄆州・汴州を襲おうとしております。陛下は関東へ行幸して招撫されたい」と言い、帝は従った。
- 乙亥、帝は洛陽を発ち、丁丑、汜水に宿り、戊寅、李紹栄に騎兵を率いて河沿いに東へ向かわせた。李嗣源の親党で帝に従っていた者の多くは逃げ去った。ある者が李継璟に早く脱出するよう勧めたが、継璟にはついに行く意思がなかった。帝はたびたび継璟を嗣源のもとへ遣わそうとしたが、継璟は固辞して「帝の前で死んで赤誠を明かしたい」と願った。帝は嗣源が黎陽にいると聞き、無理に継璟を渡河させて召しに行かせた。継璟は道で李紹栄に遭い、紹栄が殺した。
- 庚辰、帝は汜水を発った。辛巳、李嗣源が白臯に至り、山東からの上供の絹数船に遭い、取って軍に賞した。安重誨の従者が舟を争い、行営馬歩使の陶玘が斬って衆に示し、これで軍中は粛然とした。玘は許州の人である。
- 嗣源は渡河して滑州に至り、人を送って苻習を招いた。習は嗣源と胙城で会し、安審通も兵を率いて来て合流した。
- 知汴州の孔循は使者を送って表を奉じて西の帝を迎え、また使者を北へ送って密かに嗣源に恭順を通じ、「先に着いた者が得よ」と言った。
- これに先立ち、帝は騎将の西方鄴(満城の人)を送って汴州を守らせていた。石敬瑭は裨将の李瓊に精兵で封丘門へ突入させ、敬瑭がその後に続いて西門から入り、そのままその城に拠った。西方鄴は降を請うた。敬瑭は人をやって嗣源を促し、壬午、嗣源が大梁に入った。
- この日、帝は滎沢の東に至り、竜驤指揮使の姚彦温に三千騎を率いさせて前軍とし、「そなたらは汴の人だ。私はそなたらの境に入るのに、他の軍を先駆けとして家族を騒がせたくない」と言い、厚く賜って遣わした。彦温はただちにその衆とともに叛いて嗣源に帰し、嗣源に「京師は危迫し、主上は元行欽に惑わされております。事勢はすでに離れ、二度と仕えられません」と言った。嗣源は「そなたが自ら不忠なのだ。何と道理に外れた言い方をする」と言い、ただちにその兵を取り上げた。
- 指揮使の潘環が王村の寨を守り、飼葉と粟が数万あったので、帝は騎を送って見させたが、環も大梁へ逃げた。
- 帝は万勝鎮に至り、嗣源がすでに大梁を押さえ諸軍が離叛したと聞き、顔色を失って高所に登って嘆じ、「わが事は成らぬ」と言い、ただちに軍を返すよう命じた。その夜、また汜水に至った。帝が関を出たときの扈従の兵は二万五千だったが、帰るときにはすでに一万余を失っていた。そこで泰州都指揮使の張唐に歩騎三千で関を守らせた。
- 癸未、帝は罌子谷を通った。道が狭く、武器を持つ衛士に会うたび善言で撫し、「たった今、魏王がさらに西川の金銀五十万を京へ進めたと報せがあった。すべてそなたらに給しよう」と言った。答えて「陛下の賜与はもう遅すぎます。人も聖恩に感じません」と言い、帝は涙を流すだけだった。
- また袍と帯を求めて従官に賜ろうとしたが、内庫使の張容哥は「頒給はもう尽きました」と言った。衛士は容哥を叱って「わが君に社稷を失わせたのは、みなこの閹竪どもだ」と言い、刀を抜いて追った。ある者が救って免れた。容哥は同類に「皇后が財を惜しんでここに至ったのに、今は我らのせいにされている。不測のことがあれば我らは八つ裂きだ。私は待つに忍びない」と言い、そのまま河に身を投げて死んだ。
- 甲申、帝は石橋の西に至り、酒を置いて悲しみ涙を流して李紹栄ら諸将に「卿らは私に仕えて以来、急難も富貴も共にせぬことはなかった。今、私をここまで至らせて、誰一人策で救おうとせぬのか」と言った。諸将百余人は皆髪を切って地に置き、死をもって報いると誓い、そのまま互いに号泣した。この日の晩、洛城に入った。
- 李嗣源は石敬瑭に前軍を率いて汜水へ向かわせ散兵を収撫させ、自らも続いた。李紹虔と李紹英が兵を率いて来て合流した。
- 丙戌、宰相と樞密使がこぞって「魏王の西軍がまもなく到着します。車駕はひとまず汜水を扼して散兵を収撫して待たれるべきです」と奏し、帝は従い、自ら上東門を出て騎兵を閲し、翌朝の東行を戒めた。
天成元年夏四月(926年・莊宗の死と明宗の即位)
- 丁亥朔、厳しく支度して出発しようとし、騎兵は宣仁門の外、歩兵は五鳳門の外に陣した。従馬直指揮使の郭従謙は睦王・存乂がすでに死んだことを知らず、彼を奉じて乱を起こそうとし、部下の兵を率いて営中から刃を抜いて大呼し、黄甲の両軍とともに興教門を攻めた。
- 帝はちょうど食事中で、変を聞くと諸王と近衛の騎兵を率いて撃ち、乱兵を門外へ追い出した。当時、蕃漢馬歩使の朱守殷が騎兵を率いて外にいたので、帝は中使を送って急ぎ召し、ともに賊を撃とうとしたが、守殷は来ず、兵を率いて北邙の茂った林の下で休んでいた。
- 乱兵が興教門を焼いて城伝いに入ると、近臣も宿将も皆甲を脱いで密かに逃げ、ただ散員都指揮使の李彦卿および宿衛軍校の何福進・王全斌ら十余人だけが力戦した。まもなく帝は流れ矢に当たった。鷹坊の人・善友が帝を扶けて門楼から降ろし、絳霄殿の廡の下に至って矢を抜いた。渇いて悶え水を求めたが、皇后は自ら見に来ず、宦者に酪を進めさせた。まもなく帝は没した。李彦卿らは慟哭して去り、左右も皆散った。善友は廡の下の楽器を集めて帝の屍を覆って焼いた。彦卿は李存審の子、福進と全斌はいずれも太原の人である。
- 劉后は金宝を袋に入れて馬の鞍に結び、申王・存渥および李紹栄と七百騎で嘉慶殿を焼いて師子門から出て逃げた。通王・存確と雅王・存紀は南山へ逃げ、宮人の多くは逃げ散った。朱守殷は入宮して宮人三十余人を選び、それぞれ楽器と珍玩を持たせて自分の家に入れた。ここで諸軍は都城を大掠した。
- この日、李嗣源は罌子谷に至ってこれを聞き、慟哭して諸将に「主上はもともと士心を得ておられた。まさに小人どもに惑わされてここに至ったのだ。今、私はどこへ帰ればよいのか」と言った。
- 戊子、朱守殷が使者を馳せさせて嗣源に「京城は大乱し、諸軍の焼き掠めはやみません。急ぎ来て救っていただきたい」と告げた。
- 己丑、嗣源は洛陽に入って私邸に留まり、焼き掠めを禁じ、荘宗の骨を灰燼の中から拾って殯した。
- 嗣源が鄴都に入ったとき、前直指揮使の侯益(平遥の人)は身一つで洛陽へ帰り、荘宗は撫して涙を流した。ここに至って益は自ら縛って罪を請うたが、嗣源は「そなたは臣として節を尽くしたのだ。何の罪があろう」と言い、その職に復させた。
- 嗣源は朱守殷に「公はよく巡邏して魏王を待て。淑妃と徳妃が宮におられる。供給はとりわけ手厚くすべきだ。私は山陵が済み社稷に主が定まれば、藩へ帰って国家のために北方を防ぐだけだ」と言った。
- この日、豆盧革が百官を率いて牋を上って即位を勧めた。嗣源は面と向かって諭した。「私は詔を奉じて賊を討ったが、不幸にも部曲が叛いて散り、入朝して自ら訴えようとしたが紹栄に隔てられ、乱れてここまで至った。私にはもとより他意がない。諸君がにわかにこうして推されるのは、まことに私を分かっておられぬ。どうか言われるな」。革らが固く請うたが、嗣源は許さなかった。
- 李紹栄は河中へ逃げて永王・存霸に付こうとしたが、従う兵はしだいに散った。庚寅、平陸に至って残るは数騎だけとなり、人に捕えられ、足を折られて洛陽へ送られた。存霸も千人の衆を率いて鎮を棄てて晋陽へ逃げた。
- 辛卯、魏王・継岌が興平に至り、洛陽の乱を聞いてまた兵を率いて西へ向かい、鳳翔に拠ることを謀った。
- 向延嗣が鳳翔に至り、荘宗の命として李紹琛を誅した。
- はじめ荘宗は呂・鄭という二人の内養を晋陽に置き、一人に兵を監させ一人に倉庫を監させていた。留守の張憲以下は応対に追われ通しだった。鄴都に変が起こると、さらに汾州刺史の李彦超を北都巡検とした。彦超は李彦卿の兄である。
- 荘宗が没すると、推官の張昭遠(河間の人)が張憲に上表して即位を勧めるよう勧めた。憲は「私は一書生から布衣で金紫を服するまでになった。すべて先帝の恩から出ている。どうして生を偸んで自ら恥じずにいられよう」と言い、昭遠は泣いて「これは古人の行ったこと。公がそれを行われれば、忠義は不朽です」と言った。
- 李存沼という荘宗の近親が洛陽から晋陽へ逃げ、荘宗の命と偽り、密かに二人の内養と憲および彦超を殺して晋陽に拠って防ぐことを謀った。彦超は察して密かに憲に告げ、先に図ろうとした。憲は「僕は先帝の厚恩を受けた。これはできぬ。義に殉じて禍を免れぬのは天だ」と言い、彦超は決しかねた。
- 壬辰の夜、軍士がこぞって二人の内養と存沼を牙城で殺し、そのまま明け方まで大掠した。憲は変を聞いて忻州へ逃げた。折しも嗣源の書が届き、彦超が士卒に号令して城中はようやく安んじ、そのまま太原の軍府を掌った。
- 百官が牋を上って嗣源に監国を請い、嗣源はそこで許した。甲午、興聖宮に入って居し、初めて百官の班見を受け、令を下すのを「教」と称し、百官は「殿下」と呼んだ。
- 荘宗の後宮で残る者はなお千余人あり、宣徽使がその美しく若い者数百人を選んで監国に献じた。監国は「これを何に使う」と言い、「宮中の職掌を欠かせません」と答えると、「宮中の職掌には故事に通じた者が要る。この輩に分かるものか」と言い、そこですべて年配の者を補し、若い者は皆出して親戚のもとへ帰らせ、親戚のない者は行きたいところへ行かせた。蜀中から送られた宮人もこれに準じた。
- 監国は各地に諸王を訪ね求めさせた。通王・存確と雅王・存紀は民間に隠れていたが、ある者が密かに告げた。樞密使の安重誨は李紹真と謀って「今、殿下は監国として喪を執っておられます。諸王は早く処されて人心を一つにすべきです。殿下は慈悲深いご性質で、お耳に入れるわけにはいきません」と言い、そこで密かに人を送って田舎で殺した。一月余りしてから監国は知り、重誨を厳しく責め、長く傷み惜しんだ。
- 劉皇后は申王・存渥と晋陽へ逃げ、道中で存渥と私通した。存渥は晋陽に至って李彦超に受け入れられず、風谷まで逃げて部下に殺された。翌日、永王・存霸も晋陽に至ったが、従う兵は皆逃げ散っていた。存霸は髪を剃り僧衣で李彦超に会い、「山僧となりたい。庇護をお願いします」と願った。軍士が争って殺そうとし、彦超が「六相公が来られた。奏して指図を仰ぐ」と言ったが、軍士は聞かず、府門の碑の下で殺した。劉皇后は晋陽で尼となったが、監国は人を送って殺した。
- 薛王・存礼および荘宗の幼子である継嵩・継潼・継蟾・継嶤は乱に遭って行方が知れなくなった。ただ邕王・存美だけが中風で半身不随のため免れ、晋陽に住んだ。
- 戊戌、李紹栄が洛陽に至った。監国が「私がそなたに何をしたというのだ。なぜわが子を殺した」と責めると、紹栄は目を怒らせてまっすぐ睨み、「先帝はそなたに何をしたというのか」と言った。そのまま斬り、姓名を元行欽に戻した。
- 監国は征蜀の軍が帰って変を起こすことを恐れ、石敬瑭を陝州留後とし、己亥、李従珂を河中留後とした。
- 監国は教を下して租庸使の孔謙の姦佞・侵刻・軍民を窮困させた罪を数えて斬り、謙が立てた苛斂の法をすべて罷めた。そのついでに租庸使と内句司を廃して旧どおり塩鉄・戸部・度支の三司とし、宰相一人に専任させた。また諸道の監軍使を罷め、荘宗が宦官によって国を亡ぼしたことから、諸道に命じてことごとく殺させた。
- 魏王・継岌は興平から武功へ退いた。宦者の李従襲が「禍福は測れません。退くは進むに如かず。王は急ぎ東行して内難を救われたい」と言い、継岌は従った。渭水まで戻ると、権西都留守の張籛はすでに浮橋を断っていたので、水を渡って進んだ。
- この日、渭南に至った。腹心の呂知柔らは皆すでに逃げ隠れていた。従襲が継岌に「時事はもう去りました。王は自ら図られよ」と言い、継岌は徘徊して涙を流し、そのまま自ら床に伏して僕夫の李環に縊り殺させた。
- 任圜が代わってその衆を率いて東へ向かい、監国は石敬瑭に慰撫させ、軍士は皆異論を言わなかった。
- これに先立ち、監国は親しい李冲を華州都監として西の師の応接に当たらせていた。冲は勝手に華州節度使の史彦鎔を入朝させ、同州節度使の李存敬が華州を通ると殺してその家も屠り、さらに西川行営部監の李従襲も殺した。彦鎔が泣いて安重誨に訴え、重誨は彦鎔を鎮へ帰し、冲を朝廷へ召し戻した。
- 監国が洛陽に入って以来、内外の機事はすべて李紹真が決していた。紹真は勝手に威勝節度使の李紹欽と太子少保の李紹冲を捕えて獄に下し、殺そうとした。安重誨は紹真に「温韜と段凝の罪悪はいずれも梁朝でのこと。今、殿下は内難を平らげたばかりで、万国を安んじることを冀っておられる。どうしてもっぱら公の仇を報じられましょう」と言い、紹真はこれでやや沮んだ。辛丑、監国は教で李紹冲と紹欽の姓名を温韜・段凝に戻し、いずれも田里へ帰らせた。
- 壬寅、孔循を樞密使とした。
- 有司が即位の礼を議した。李紹真と孔循は「唐の運はすでに尽きました。自ら国号を建てられるべきです」と言った。監国が左右に「国号とは何のことか」と問うと、「先帝は唐から姓を賜り、唐のために讎を復し、昭宗の後を継がれた。だから唐と称したのです。今、梁朝の人が殿下に唐と称してほしくないだけです」と答えた。
- 監国は言った。「私は十三で献祖にお仕えした。献祖は私をご一族として子のように見てくださった。また武皇に仕えること三十年近く、先帝に仕えること二十年近く、経綸も攻戦も与らぬことはなかった。武皇の基業は私の基業であり、先帝の天下は私の天下だ。同じ家でありながら国が異なることがあろうか」。
- 執政にあらためて議させると、吏部尚書の李琪が「もし国号を改めれば、先帝はそのまま行きずりの人となります。梓宮はどこに託されるのですか。殿下が三世の旧君を忘れられぬだけでなく、我ら人臣たる者も自ら安んじられましょうか。前代に傍系から入って継いだ例は多くあります。嗣子が柩前で即位する礼を用いられるべきです」と言い、衆は従った。
- 丙午、監国は興聖宮から西宮へ赴き、斬衰を着て柩前で皇帝に即位した。百官は白の喪服だった。まもなく袞冕を着けて冊を受け、百官は吉服で称賀した。
- 有司が太原尹・張憲の城を委棄した罪を弾劾し、庚戌、憲に死を賜った。
- 任圜が征蜀の兵二万六千人を率いて洛陽に至り、明宗は慰撫してそれぞれ営に退かせた。
- 甲寅、大赦して改元した。後宮は百人、宦官は三十人、教坊は百人、鷹坊は二十人、御厨は五十人だけを留め、その他は行きたいところへ行かせ、諸司の使務で有名無実のものはすべて廃した。諸軍を分けて近畿で食を得させて輸送を省き、夏秋の税の省耗を除き、節度使・防禦使らは正月・冬至・端午・降誕の四節に貢奉することを許し、百姓から取り立てることを禁じ、刺史以下は貢奉できぬこととした。選人で先に文書を毀損された者は三銓に詐偽だけを除かせ、あとは旧規に復した。
- 宦官数百人が山林に逃げ隠れ、あるいは髪を落として僧となり、晋陽に至った者は七十余人あった。三月、詔で北都指揮使の李従温にことごとく誅させた。従温は帝の甥である。
- 丙子、郭崇韜の帰葬を許し、朱友謙の官爵を復し、両家の貨財・田宅で先に没収されたものはすべて返した。
- 秋七月丙子、光聖神閔孝皇帝を雍陵に葬り、廟号を荘宗とした。
天成二年春二月(927年)
- 丙申、従馬直指揮使の郭従謙を景州刺史とし、着任すると使者を送って族誅した。