通鑑紀事本末安重誨の専権(安重誨專權)
後唐の明宗が即位して中門使の安重誨を樞密使に任じてから、その専権と失脚までの六年間。重誨は任圜を退けて死を賜い、孔循・王建立・華温琪・康福ら朝臣と将帥を意のままに進退させ、李従珂とは旧怨から楊彦温の乱を仕組んで対立した。やがて王淑妃・孟漢瓊・朱弘昭らの讒言で信を失い、河中で李従璋に撃殺されて二子ともども誅された。926年から931年まで。
年表(5件)
- 後唐明宗
- 天成元年(・樞密使となる)926年安重誨が樞密使となり、端明殿学士を置いて馮道・趙鳳を任じる
- 天成二年(・任圜の死)927年宰相の人選と館費をめぐって任圜と争い、罷免ののち磁州で死を賜わせる
- 天成三年〜四年(928-・専横の深まり)929年孔循を外に出し、皇子従璨に死を賜い、康福を望まぬ朔方へ追いやる
- 長興元年(・李從珂との軋轢)930年楊彦温を諭して李従珂を河中から追い出させるが、帝に庇われて謀は破れる
- 長興二年(・安重誨の死)931年朱弘昭らの讒言で樞務を解かれ、河中で李従璋に撃殺されて二子も誅される
後唐明宗天成元年(926年・樞密使となる)
- 夏四月乙未、中門使の安重誨を樞密使、鎮州別駕の張延朗を副使とした。延朗は開封の人で、梁に仕えて租庸の吏となり、機を見て権要に巧みに取り入り、娘を重誨の子に嫁がせた。だから重誨が引き立てたのである。
- 五月丙辰朔、太子賓客の鄭珏と工部尚書の任圜をともに中書侍郎・同平章事とし、圜にはなお三司を判じさせた。圜は公務を家事のように憂え、賢俊を抜擢し僥倖を絶ち、一年のうちに府庫は充実し、軍民ともに足り、朝廷の綱紀もひととおり立った。圜はいつも天下をわが任としたので、安重誨は忌んだ。
- 帝は文字が読めず、四方の奏事はすべて安重誨に読ませた。重誨もすべては解せなかったので、こう奏した。「臣はただ忠実の心で陛下にお仕えして樞機を掌れました。今、事はどうにか分かりますが、古事は臣の及ぶところではありません。前朝の侍講・侍読、近代の直崇政・樞密院に倣って文学の臣を選び、ともに事に当たらせて応対に備えたい」。そこで端明殿学士を置き、乙亥、翰林学士の馮道と趙鳳を任じた。
- 戊寅、安重誨に山南東道節度使を領させた。重誨は「襄陽は要地です。帥を欠かせません。兼領は不適当です」と固辞し、許された。
- 六月、安重誨は恩を恃んで驕横になり、殿直の馬延が誤って前導を横切ったので馬前で斬った。御史大夫の李琪が報告した。秋七月、重誨は帝に申し上げて詔を下し、「延が重臣を犯した」として内外に戒めを諭させた。
天成二年(927年・任圜の死)
- 春正月、安重誨は孔循が若いころから宮禁に仕えていたので故事に通じ朝士の人柄と能力を知っていると考え、その言をよく聴いた。
- 朝廷が宰相の設置を議したとき、循は河北の人を用いたくなかった。先に鄭珏を推し、さらに太常卿の崔恊を推した。任圜は御史大夫の李琪を用いようとしたが、鄭珏はかねて琪を憎んでいたので、循が力を尽くして妨げ、重誨に「李琪は文学がないわけではありませんが、廉潔でないだけです。宰相はただ端正重厚で器度ある者を得れば、多くの士の模範となるに足ります」と言った。
- 後日、上の前で議したとき、上が誰を宰相にすべきか問うと、重誨は恊と答えた。圜は「重誨は朝中の人物を知らず、人に売られております。恊は名家とはいえ字を知ることはきわめて少ない。臣はすでに不学の身で相の位を汚しております。どうしてさらに恊を加えて天下の笑い者になれましょう」と言った。上は「宰相は重任だ。卿らはあらためて審議せよ。私が河東にいたとき馮書記に会ったが、多才博学で人と争わなかった。これは宰相になれる」と言った。
- 退出すると孔循は会釈もせず、袖を払ってまっすぐ去り、「天下の事は一に任圜、二に任圜。圜が何者だというのか。崔恊が急死すればそれまでだが、死なぬなら必ず宰相にしてやる」と言い、病と称して数日出仕しなかった。上が重誨に諭させてようやく参内した。
- 重誨は私かに圜に「今、人が乏しい。恊をひとまず員数に備えてはどうか」と言った。圜は「明公が李琪を捨てて崔恊を宰相にされるのは、蘇合の丸を棄てて蜣螂の糞玉を取るようなものです」と言った。循は重誨と事をともにして日が浅く、琪を貶め恊を誉めた。
- 癸亥、ついに端明殿学士の馮道と崔恊をともに中書侍郎・同平章事とした。恊は崔邠の曽孫である。
- 己卯、樞密使の安重誨に侍中、孔循に同平章事を加えた。
- 任圜は剛急な性質で、しかも帝との旧交を恃んで敢えて事を行い、権臣や寵臣の多くが憎んだ。旧制では館の費用は戸部から出ることになっていたが、夏五月、安重誨が内庫から出すことを請い、圜と上の前で争って四度も応酬し、声色ともに激しくなった。
- 上が退朝すると宮人が「上がたった今、重誨と論じておられた相手は誰ですか」と問い、上は「宰相だ」と答えた。宮人は「妾は長安の宮中にいましたが、宰相や樞密が奏事してあのように振る舞うのを見たことがありません。大家(陛下)を軽んじているのです」と言った。上はいよいよ不快になったが、ついに重誨の議に従った。圜はそこで三司の職を罷めることを求め、詔で樞密承旨の孟鵠を三司副使として代判させた。鵠は魏州の人である。
- 六月丙戌、門下侍郎・同平章事の任圜を罷めて太子少保とした。秋七月、圜は致仕して磁州に住むことを請い、許された。
- 九月丙寅、樞密使の孔循に東都留守を兼ねさせた。
- 冬十月、ある者が安重誨に「職を失って外にいる人物は、賊がまだ破れぬうちに乗じて患いをなしかねません。除くに如くはありません」と言い、重誨はもっともとして、奏して使者を送って任圜に死を賜らせた。端明殿学士の趙鳳が哭いて重誨に「任圜は義士です。どうして逆をなしましょう。公がこれほど濫りに刑を用いて、どうして国を輔けられるのか」と言った。使者が磁州に至ると、圜は一族を集めて痛飲し、そのうえで死んだ。その気色は乱れなかった。
天成三年〜四年(928-929年・専横の深まり)
- 樞密使・同平章事の孔循は狡佞な性質で、安重誨は親信していた。帝が皇子に重誨の娘を娶らせようとすると、循は重誨に「公は職が機密に近い。皇子と婚を結ばれるべきではありません」と言い、重誨は辞退した。
- 長くして、ある者が重誨に「循は人を離間するのが巧みです。機密の地に置くべきではありません」と言った。循はこれを知り、密かに人をやって王徳妃と結び、自分の娘を納れるよう求めた。徳妃が循の娘を従厚の妻とするよう請い、帝は許した。重誨は大いに怒り、二月乙未、循を同平章事・忠武節度使兼東都留守として出した。
- 重誨は強情な性質だった。秦州節度使の華温琪が入朝して闕下に留まることを請い、帝は嘉して左驍衛上将軍に除し、月ごとに別に銭と穀を賜った。一年余りして帝が重誨に「温琪は旧人だ。重鎮を一つ択んで処すべきだ」と言うと、重誨は「空きがありません」と答えた。後日、帝がたびたび言うと、重誨は不機嫌になって「臣はたびたび空きがないと奏しました。ただ樞密使なら代われましょう」と言った。帝が「それもよかろう」と言うと、重誨は答えられなかった。温琪はこれを聞いて恐れ、数か月出仕しなかった。
- 重誨は成徳節度使・同平章事の王建立を憎み、「建立は王都と結んで異志があります」と奏した。建立も「重誨が専権しております」と奏し、入朝して面と向かってその状を述べたいと求めた。帝が召し、到着すると、「重誨は宣徽使・判三司の張延朗と婚を結んで表裏をなし、威福を弄んでおります」と言った。
- 三月辛亥、帝は重誨に会うと顔色ひどく怒って「今、卿に一鎮を与えて休息させよう。王建立を卿に代える。張延朗も外官に除する」と言った。重誨は「臣は荊棘を分けて陛下にお仕えすること数十年。陛下が竜飛されるに当たって機密の職を賜り、数年で天下は幸いにも事なきを得ました。今、一朝にして棄てて外鎮とされるなら、臣はその罪を伺いたい」と言った。帝は不快になって立った。
- 帝が宣徽使の朱弘昭にこれを語ると、弘昭は「陛下は平生、重誨を左右の手のように扱ってこられました。どうして小さな忿りで棄てられるのか。三思されたい」と言った。帝はまもなく重誨を召して慰撫した。
- 翌日、建立が帰任を辞すと、帝は「卿はかねて入朝して朕の憂いを分かちたいと奏していた。今また去ってどこへ行くのか」と言った。折しも門下侍郎兼刑部尚書・同平章事の鄭珏が致仕を請い、己未、珏を左僕射・致仕とし、癸亥、建立を右僕射兼中書侍郎・同平章事・判三司とした。
- 冬十一月庚寅、皇子の従厚が孔循の娘を妃に納れた。循はこれで大梁へ来られたので、王徳妃の党と厚く結んで安重誨に留まってほしいと乞うた。重誨はその事をつぶさに奏して力を尽くして退け、礼が済むとすぐ鎮へ帰らせた。
- 四年、皇子の右衛将軍・従璨は剛毅な性質で、安重誨が実権を握っても屈しなかった。帝が東巡したとき従璨を皇城使とした。従璨が会節園で客と宴を開き、酒が回って戯れに御榻に登った。重誨は誅殺を奏請し、三月丙戌、従璨に死を賜った。
- はじめ朔方節度使の韓洙が没して弟の澄が留後となったが、まもなく定遠軍使の李厈賓が徒党を集めて保静鎮に拠って乱を起こし、朔方は不安になった。冬十月丁酉、韓澄が使者に絹の表を持たせて朝廷に帥を命じるよう乞うた。
- 前磁州刺史の康福は胡語に巧みで、上は退朝後しばしば便殿に召して時事を諮り、福は胡語で答えた。安重誨は憎んで常に「康福、おまえがみだりに奏事すれば、いずれ斬るぞ」と戒めた。福は恐れて外任を求めた。重誨は霊州が胡の境に深く入り、帥となった者の多くが害に遭うことから、戊戌、福を朔方・河西節度使とした。
- 福は上に会って涙を流して辞退した。上は重誨に福のために他の鎮を替えるよう命じたが、重誨は「福は刺史から功もなく節を建てました。まだ何を求めるのか。しかも成命はすでに下っております。改めがたい」と言った。上はやむなく福に「重誨が承知せぬ。朕の意ではない」と言った。
- 福が出発するとき、上は将軍の牛知柔と河中都指揮使の衛審(一字欠)に一万の兵で護送させた。審は徐州の人である。
長興元年(930年・李從珂との軋轢)
- はじめ王徳妃は安重誨のおかげで進んだので常に恩に感じていた。帝は倹約な性質だったが、在位が長くなると宮中の用度がやや奢侈になり、重誨はそのたび規諫した。妃が外庫の錦を取って敷物を作ったとき、重誨は切諫して劉后を戒めとして引いた。妃はこれで怨んだ。
- 宣武節度使の苻習は宿将を恃んで議論ではしばしば安重誨に抗した。重誨はその過失を探して奏し、夏四月丁酉、詔で習を太子太師・致仕とした。
- はじめ帝が真定にいたころ、李従珂は安重誨と酒を飲んで言い争い、従珂が重誨を殴り、重誨は逃げて免れた。醒めてから悔いて謝ったが、重誨はついに根に持った。
- ここに至って重誨が実権を握ると、皇子の従栄・従厚まで敬い仕えるのに追われた。当時、従珂は河中節度使・同平章事で、重誨はたびたび帝に貶め言ったが帝は聞かなかった。重誨はそこで帝の命と偽って河東(河中)牙内指揮使の楊彦温に諭して従珂を追い出させた。
- この日、従珂は城を出て馬を閲していた。彦温は兵を整えて門を閉じて拒んだ。従珂が人をやって門を叩いて「私はそなたを厚遇してきた。なぜこんなことをする」と詰問すると、「彦温はあえて恩に背くのではありません。樞密院の宣を受けただけです。公は入朝されたい」と答えた。従珂は虞郷に留まり、使者を送って状を報告した。
- 使者が至り、壬寅、帝が重誨に「彦温はどうしてそんなことを言うのか」と問うと、「これは姦人の妄言です。速やかに討つべきです」と答えた。帝は疑い、彦温を誘い出してその事を訊こうと、彦温を絳州刺史に除そうとしたが、重誨は固く出兵して撃つことを請うた。そこで西都留守の索自通と歩軍都指揮使の薬彦稠に兵を率いて討たせ、帝は彦稠に「必ず彦温を生かして連れて来い。私が自ら訊く」と命じ、従珂を洛陽へ召した。従珂は重誨に陥れられたと知って馳せ入って自ら弁明した。
- 安重誨に中書令を兼ねさせた。
- 李従珂が洛陽に至ると、上は責めて邸へ帰らせ朝請を絶たせた。辛亥、索自通らが河中を落として楊彦温を斬り、癸丑、首を送って献じた。上は薬彦稠が生かして連れてこなかったことに怒り、深く責めた。
- 安重誨は馮道と趙鳳に仄めかして「従珂は守りを失いました。罪を加えるべきです」と奏させた。上は「わが児は姦党に傾けられたのだ。曲直もまだ明らかでないのに、公らはなぜそんなことを言い出す。この世に置きたくないというのか。これはいずれも公らの意ではあるまい」と言い、二人は恐れ入って退いた。
- 後日、趙鳳がまた言ったが上は応じなかった。翌日、重誨が自ら言うと、上は「朕は昔、小校だったころ家が貧しく、この小児が馬糞を拾って生計を助けてくれたおかげで今日、天子となれた。それを庇えぬというのか。卿はどう処したいのか。卿にとって都合のよいように」と言った。重誨は「陛下の父子の間のことに、臣がどうして口を挟めましょう。ただ陛下のご裁量に」と言い、上は「私邸で閑居させればそれでよかろう。二度と言うな」と言った。
- 丙辰、索自通を河中節度使とした。自通は着任すると重誨の意を承けて軍府の甲仗の数を記録して差し出し、従珂が私に造ったものとした。王徳妃が中で保護してくれたので、従珂は免れられた。士大夫は従珂と往来しようとしなかったが、ただ礼部郎中・史館修撰の呂琦だけが近くに住んでいて時おり訪ねた。従珂は奏請するたび皆琦に諮ってから行った。
- 安重誨が「昭義節度使の王建立が魏州を通ったとき、衆を動揺させる言葉がありました」と言い、五月丙寅、制で太傅・致仕とした。
- 秋八月乙未、捧聖軍使の李行徳と十将の張倹が告密人の辺彦温を引いて、安重誨が兵を発して自ら淮南を討とうとしていると告げ、また占相者を呼んで運命を問うたと告げた。
- 帝が侍衛都指揮使の安従進と薬彦稠に問うと、二人は「これは姦人が陛下の勲旧を離間しようとするものです。重誨は陛下に仕えて三十年、幸いにも富貴を得ております。何を苦しんで謀反しましょう。臣らは宗族をもって保証いたします」と言った。帝はそこで彦温を斬り、重誨を召して慰撫し、君臣は相対して涙を流した。
- 壬寅、趙鳳が「近ごろ姦人が大臣を誣告して国の柱石を揺るがせたと聞きました。処置がまだ十分ではありません」と奏し、帝は李行徳と張倹を捕えていずれも族滅した。
- 安重誨は長く大権を専らにし、内外に憎む者が多かった。王徳妃と武徳使の孟漢瓊がしだいに実権を握り、たびたび重誨を上に貶め言った。
- 九月、重誨は内心憂え恐れ、上表して機務の解任を求めた。上は「朕は卿を隔てていない。誣告した者はすでに誅した。卿はなぜそんなことを言うのか」と言った。
- 甲戌、重誨はあらためて面と向かって奏した。「臣は寒賤の身からこの位に至りました。ふいに謀反と誣告され、陛下がきわめて明察でなければ、臣に種は残りませんでした。臣は才薄くして任重く、ついに浮言を鎮められぬと恐れます。一鎮を賜って余生を全うさせていただきたい」。上は許さなかったが、重誨が求めてやまないので、上は怒って「卿の去るに任せる。朕は人がないことを憂えぬ」と言った。
- 前成徳節度使の范延光が上に重誨を留めるよう勧め、あわせて「重誨が去れば誰が代われましょう」と言った。上が「卿ではどうか」と言うと、延光は「臣はお使いいただいて日が浅く、しかも才は重誨に及びません。どうしてこの任に当たれましょう」と言った。
- 上は孟漢瓊を中書へ遣わして重誨の件を議させた。馮道は「諸公がまことに安令を愛されるなら、その樞務を解くのが便宜です」と言い、趙鳳は「公は失言された」と言い、そのまま「大臣は軽々しく動かすべきでありません」と奏した。
- 甲申、范延光を樞密使とし、安重誨は従前どおりとした。
- 十二月、天雄節度使の石敬瑭が蜀を征し、安重誨が自ら督戦することを請うた。出発後、石敬瑭がたびたび上表して蜀は伐てぬと論じ、上もかなりもっともと思った。
長興二年(931年・安重誨の死)
- はじめ鳳翔節度使の朱弘昭は安重誨に諂い仕えて続けて大鎮を得た。重誨が鳳翔を通ると、弘昭は馬首に迎え拝し、府舎に泊めて寝室に招き入れ、妻子が並んで拝し、酒食を進めて礼はきわめて謹んだ。重誨は弘昭に泣いて「讒人が入り交じって構え、危うく免れぬところだった。主上の明察のおかげで宗族を保てた」と語った。
- 重誨が去ると、弘昭はただちに「重誨は怨望して悪言があります。行営へ行かせてはなりません。石敬瑭の兵権を奪うのではと恐れます」と奏し、さらに敬瑭に書を送って「重誨の挙措は軽率です。軍前へ至れば将士が疑い驚いて、戦わずして潰えると恐れます。迎えて止められるべきです」と言った。敬瑭は大いに恐れ、ただちに「重誨が至れば人情に変があると恐れます。急ぎ召し還されたい」と上言した。宣徽使の孟漢瓊が西方から帰り、これも重誨の過悪を言った。詔で重誨を召し還した。
- 春二月、安重誨が三泉に至って詔を得て急ぎ帰り、鳳翔を通ったが、朱弘昭は入れなかった。重誨は恐れて騎を馳せて東へ向かった。
- 辛丑、樞密使兼中書令の安重誨を護国節度使とした。趙鳳が上に「重誨は陛下の家臣です。その心はついに主に叛きません。ただ十分に防げず人に讒言されただけです。陛下がその心を察せられねば、重誨の死は目前です」と言った。上は朋党と見て不快になった。
- 三月、帝は安重誨の樞務を解くと、李従珂を召して泣いて「重誨の思いどおりなら、そなたはどうして私にまた会えたか」と言い、丙寅、従珂を左衛大将軍とした。
- 護国節度使兼中書令の安重誨は内心落ち着かず、上表して致仕を請うた。閏五月庚寅、制で太子太師・致仕とした。この日、その子の崇賛と崇緒が河中へ逃げた。壬辰、保義節度使の李従璋を護国節度使とし、甲午、歩軍指揮使の薬彦稠に兵を率いて河中へ向かわせた。
- 安崇賛らが河中に至ると、重誨は驚いて「おまえたちはどうして来たのか」と言い、まもなく「私には分かった。これは彼らの意ではない。人にさせられたのだ。死をもって国に殉じるなら、もう何を言うことがあろう」と言い、そこで二子を捕えて上表して闕へ送った。
- 翌日、中使が至って重誨を見て長く慟哭した。重誨が理由を問うと、中使は「人は令公に異志ありと言っております。朝廷はすでに薬彦稠に兵を率いて向かわせました」と言った。重誨は「私は国恩を受け、死んでも報いるに足りぬ。どうして異志などあろうか。そのうえ国家に兵を発させて主上のご憂慮を招いては、罪はいっそう重くなる」と言った。
- 崇賛らが陝州に至ると、詔で獄に繋がれた。皇城使の翟光鄴はかねて重誨を憎んでいた。帝は光鄴を河中へ遣わして探らせ、「重誨に果たして異志があれば誅せ」と言った。
- 光鄴が河中に至ると、李従璋は甲士でその邸を囲み、自ら入って重誨に会い、庭下で拝した。重誨は驚いて階を降りて答拝した。従璋は撾を振るってその頭を撃ち、妻の張氏が驚いて救おうとしたのでこれも撾で殺した。
- 奏が届き、己亥、詔を下して重誨が孟知祥・董璋・銭鏐を離間したことを罪とし、さらに自ら淮安を撃って兵権を図ろうとしたと誣告し、「元従を送って密かに二子を本道へ帰した」として、二子ともども誅した。
- 六月乙丑、あらためて李従珂を同平章事・西都留守とした。