通鑑紀事本末荘宗、前蜀を滅ぼす(莊宗滅蜀)
前蜀の太子・王元膺が唐道襲と争って敗死し、末子の王衍が徐賢妃と張格の画策で太子に立つ。王建の死後、王衍は奢淫と遊幸に耽り、宋光嗣ら宦官と韓昭・王承休らが政を壟断して国は衰えた。後唐の李厳が蜀の実情を報じたのを機に荘宗が魏王・継岌と郭崇韜に伐蜀を命じ、出師七十日で成都が降り、王衍は洛陽へ送られる途中で一族もろとも誅された。913年から928年まで。
年表(5件)
- 後梁乾化三年(・太子元膺の乱)913年太子元膺が唐道襲を殺して敗死し、末子の鄭王・宗衍が太子に立てられる
- 乾化四年〜貞明四年(914-・王建の死)918年王建が没して王衍が即位し、宋光嗣ら宦官が実権を握る
- 貞明五年〜後唐同光二年(919-・王衍の奢淫)924年王衍が北巡と遊宴に耽り、官を売り諫臣を流して国政が乱れる
- 同光二年〜三年(924-・唐の伐蜀準備)925年李厳の報告を受けて荘宗が魏王・継岌と郭崇韜に伐蜀を命じ、成都が降る
- 明宗
- 天成元年〜三年(926-・王衍の死)928年洛陽へ送られる王衍の一族が秦川駅で誅され、のち順正公を贈られる
後梁乾化三年(913年・太子元膺の乱)
- 蜀の太子・元膺は猪のような口に反った歯、目つきも正しくなかったが、機敏で書を解し騎射に長けた。ただし性は狷介短気で猜疑深く残忍だった。蜀主は杜光庭に純朴で徳のある者を選んで東宮に侍らせるよう命じ、光庭は儒者の許寂と徐簡夫を推したが、太子は一度も彼らと言葉を交わさず、日々楽工や小人と際限なく戯れた。僚属は誰も諫められなかった。
- 秋七月、蜀主が七夕に出遊しようとした。丙午、太子は諸王と大臣を宴に招いたが、集王の宗翰、内樞密使の潘峭、翰林学士承旨の毛文錫(高陽の人)が来なかった。太子は怒って「集王が来ぬのは、必ず峭と文錫が離間したのだ」と言った。
- 大昌軍使の徐瑶と常謙はかねて太子に親信されており、酒が回ると何度も少保の唐道襲に目配せした。道襲は恐れて席を立った。
- 丁未の朝、太子は参内して蜀主に「潘峭と毛文錫が兄弟を離間しております」と告げ、蜀主は怒って峭と文錫の貶謫を命じ、前武泰節度使兼侍中の潘炕を内樞密使とした。
- 太子が退出すると道襲が入った。蜀主がその件を告げると、道襲は「太子は乱を起こそうと謀り、諸将と諸王を召して兵で閉じ込め、そのうえで事を起こそうとしているのです」と言った。蜀主は疑って出遊をやめた。道襲は屯営の兵を召して宿衛させることを請い、許された。内外は戒厳態勢に入った。
- 太子ははじめ備えていなかったが、道襲が兵を召したと聞いて天武の甲士で自衛し、潘峭と毛文錫を捕えて撾で死ぬほど打ち、東宮に囚え、さらに成都尹の潘嶠を捕えて得賢門に囚えた。
- 戊申、徐瑶・常謙と懐勝軍使の厳璘らがそれぞれ部下の兵を率いて太子を奉じて道襲を攻め、清風楼に至った。道襲は屯営の兵を率いて出て防戦したが、流れ矢に当たり、城の西まで追われて斬られた。屯営の兵も多く殺され、内外は驚き騒いだ。
- 潘炕が蜀主に「太子は唐道襲と権を争っただけで、他意はありません。陛下は大臣に面と向かって諭して社稷を安んじられるべきです」と言った。蜀主は兼中書令の王宗侃・王宗賀、前利州団練使の王宗魯らを召して兵を発して乱を起こした徐瑶・常謙らを討たせた。宗侃らは西の毬場門に陣し、兼侍中の王宗黯は太安門から梯で城に入り、会同殿の前で瑶・謙と戦って数十人を殺し、残る衆は皆潰えた。瑶は死に、謙は太子とともに竜躍池へ逃げて艦の中に隠れた。日暮れにやや収まった。
- 己酉の朝、太子が出て舟人に食を乞い、舟人が告げた。蜀主は集王・宗翰を送って慰撫させたが、着いたときには太子はすでに衛士に殺されていた。蜀主は宗翰が殺したのではないかと疑って慟哭してやまなかった。左右は変事を恐れた。
- 折しも張格が軍民を慰諭する榜を呈し、「斧鉞の誅を行わなければ、社稷の計を誤ることになる」というくだりを読んだとき、蜀主は涙を収めて「朕がどうして私で公を害せようか」と言った。そこで詔を下して太子・元膺を庶人に廃した。宗翰が自ら太子を斬った者を誅したと奏し、元膺の左右で連座して死んだ者は数十人、貶められ流された者はきわめて多かった。
- 庚戌、唐道襲に太師を贈り忠壮と諡し、あらためて潘峭を樞密使とした。
- 冬十月、蜀の潘炕がたびたび太子を立てるよう請うた。蜀主は雅王・宗輅が自分に似ており、信王・宗傑が才敏であることから、いずれか一人を択んで立てようとした。鄭王・宗衍は最も幼かったが、その母の徐賢妃が寵を得ており、その子を立てさせようと、飛竜使の唐文扆に張格へ上表して宗衍擁立を請うよう仄めかさせた。
- 格は夜、その表を功臣の王宗侃らに示し、密旨を受けたと偽った。衆は皆署名した。蜀主が人相見に諸子を見させると、これも旨に迎合して「鄭王の相が最も貴い」と言った。蜀主は衆が本当に宗衍を立てたがっていると思ってやむなく許し、「宗衍は幼く懦弱だ。その任に堪えられようか」と言った。甲午、宗衍を太子に立てた。
乾化四年〜貞明四年(914-918年・王建の死)
- 乾化四年春正月丙子、蜀主は太子に六軍を判じさせ、崇勲府を開いて僚属を置き、境上まで行って別れた。
- 秋八月戊子、内樞密使の潘峭を武泰軍節度使・同平章事、翰林学士承旨の毛文錫を礼部尚書・判樞密院とした。
- 貞明三年秋七月、蜀の飛竜使・唐文扆が中枢で実権を握り、張格が付き従って、司徒・判樞密院事の毛文錫と権を争った。文錫が娘を左僕射兼中書侍郎・同平章事の庾伝素の子に嫁がせるにあたり、親族を樞密院に集めて楽を用いたが、あらかじめ上奏しなかった。蜀主は楽の音を聞いて怪しみ、文扆がそれに乗じて讒言した。
- 八月庚寅、文錫を茂州司馬に貶し、その子で司封員外郎の詢を維州へ流し、その家を没収した。文錫の弟で翰林学士の文晏を栄経尉に貶し、伝素を罷めて工部尚書とし、翰林学士承旨の庾凝績に内樞密院事を代判させた。凝績は伝素の再従弟である。
- 四年、蜀の太子・衍は酒色を好み遊戯を楽しんだ。蜀主がかつて夾城を通ったとき、太子が諸王と闘鶏や打毬をして騒ぐ声を聞き、「私は百戦して基業を立てた。この輩がそれを守れようか」と嘆じた。これで張格を憎んだが、徐賢妃が内から主を務め、ついに除けなかった。
- 信王・宗傑には才略があり、たびたび時政を陳べたので、蜀主は賢しとして廃立の意を抱いた。二月癸亥、宗傑が急死し、蜀主は深く疑った。
- 蜀主は永平の末から病を得て意識が朦朧としていたが、ここに至って重くなり、北面行営招討使兼中書令の王宗弼が沈静で謀があることから、五月に召し還して馬歩都指揮使とした。
- 乙亥、大臣を寝殿に召して告げた。「太子は仁弱だ。朕は諸公の請いに逆らえず、順序を越えて立てた。もし大業に堪えぬなら別宮に置いてよい。ただ殺さぬでほしい。王氏の子弟から諸公が択んで輔けよ。徐妃の兄弟はその禄位を優遇するだけにとどめ、決して兵を掌らせ政に与らせてはならぬ。そうしてその宗族を全うさせよ」。
- 内飛竜使の唐文扆は長く禁兵を掌り機密に参与しており、諸大臣を除こうとして人に宮門を守らせた。王宗弼ら三十余人は日々朝堂へ来たが入って拝謁できなかった。文扆はたびたび蜀主の命と称して慰撫し、蜀主が没しだい難を起こそうと窺い、一党の内皇城使・潘在迎を送って外の事を偵察させた。ところが在迎はその謀を宗弼らに告げた。宗弼らは扉を排して入り、文扆の罪を述べ、天冊府掌書記の崔延昌に六軍事を代判させ、太子を召して看病に侍らせた。
- 丙子、唐文扆を眉州刺史に貶し、翰林学士承旨の王保晦は文扆に付会した罪で官爵を削られ瀘州へ流された。在迎は潘炕の子である。
- 丙申、蜀主は詔で内外の財賦・中書の除授・諸司の刑獄案牘をもっぱら庾凝績に委ね、都城および行営の軍旅の事を宣徽南院使の宋光嗣に委ねた。丁酉、唐文扆の官爵を削って雅州へ流した。辛丑、宋光嗣を内樞密使とし、兼中書令の王宗弼・宗瑶・宗綰・宗夔とともに遺詔を受けて輔政させた。
- はじめ蜀主は唐の制に倣って樞密使を置きもっぱら士人を用いていたが、唐文扆が罪を得ると、諸将の多くが許州以来の旧知であることから幼主のために働かぬことを恐れ、光嗣を代えた。以後、宦者が実権を握るようになった。
- 六月壬寅朔、蜀主が没した。癸卯、太子が皇帝に即位し、徐賢妃を太后、徐淑妃を太妃と尊び、宋光嗣に六軍諸衛事を判じさせた。乙卯、唐文扆と王保晦を殺し、西面招討副使の王宗昱に天雄節度使の唐文裔を秦州で殺させ、左保勝軍使・領右街使の唐道崇の官を免じた。
- 蜀では唐文扆が死ぬと、太傅・門下侍郎・同平章事の張格は内心落ち着かなかった。ある者が病と称して命を待つよう勧めたが、礼部尚書の楊玢は自ら勢いを失うことを恐れ、格に「公には援立の大功があります。憂えるに足りません」と言った。
- 庚午、格を茂州刺史、玢を栄経尉に貶し、吏部侍郎の許寂と戸部侍郎の潘嶠はいずれも格の一党として貶官された。格はまもなく維州司戸に再貶された。
- 秋七月壬申朔、蜀主は兼中書令の王宗弼を鉅鹿王、宗瑶を臨淄王、宗綰を臨洮王、宗播を臨潁王、宗裔・宗夔および兼侍中の宗黯をいずれも琅邪郡王とした。甲戌、王宗侃を楽安王とした。丙子、兵部尚書の庾伝素を太子少保兼中書侍郎・同平章事とした。
- 蜀主は政事を親らせず、内外の任免はすべて王宗弼から出た。宗弼は賄賂を納れて私することが多く、上下は嘆き怨んだ。宋光嗣は聡明機敏で迎合が巧みで、蜀主は寵任した。蜀はこれによって衰えた。
- 蜀の諸王は皆軍使を領していたが、彭王・宗鼎が兄弟に「親王が兵を掌るのは禍乱の本だ。今、王は若く臣は強く、讒言と離間が起ころうとしている。甲を修め士を訓練するのは我らのすべきことではない」と言い、そのまま固く軍使を辞した。蜀主は許し、宗鼎はただ書舎を営み松竹を植えて自ら楽しむだけだった。
- 乙丑、蜀主は内給事の王廷紹・欧陽晃・李周輅・朱光葆・宋承蕰・田魯儔らを将軍や軍使とした。皆政事に干渉し、驕縦で貪欲残暴、大いに蜀の患いとなった。周庠が切諫したが聞かれなかった。晃は住まいが狭いのを嫌い、夜に風に乗じて火を放って西隣の軍営数百間を焼き、翌朝、工匠を召してその居を広げたが、蜀主はそれも問わなかった。光葆は光嗣の従弟である。
貞明五年〜後唐同光二年(919-924年・王衍の奢淫)
- 五年、蜀主は奢縦で節度なく、日々太后・太妃と貴臣の家で遊宴し、近郡の名山に遊び、酒を飲み詩を賦し、その費用は数え切れなかった。仗内教坊使の厳旭は士民の女子を無理に取って宮中に入れ、あるいは厚い賂を得て免じ、これでたびたび昇進して蓬州刺史に至った。太后と太妃はそれぞれ教令を出して刺史や令録などの官を売り、一官が空くたび数人が争って賂を納れ、賂の多い者が得た。
- 六年秋七月乙卯、蜀主が詔を下して北巡することとし、礼部尚書兼成都尹の韓昭(長安の人)を文思殿大学士として翰林承旨の上に位置づけた。昭は文学がなく便佞で寵を得、宮禁に出入りし、蜀主に通渠・巴州・集州など数州の刺史の職を乞うて売り、邸宅を営んだ。蜀主は許し、識者は蜀の滅亡が近いと知った。
- 八月戊辰、蜀主は成都を発ち、金の甲を着け珠の帽を冠り、弓矢を執って行った。旌旗と兵甲は百余里に連なった。雒令の段融が「都邑を遠く離れるべきではありません。大臣に征討を委ねられたい」と上言したが従わなかった。九月、安遠城に宿った。
- 冬十月辛酉、蜀主は武定軍へ行き、数日してまた安遠へ戻った。十一月庚戌、安遠城を発ち、十二月庚申、利州に至った。閬州団練使の林思諤が来朝して自分の治所への行幸を請い、従われた。癸亥、江に舟を浮かべて下った。竜舟と彩色の艀が江の渚に照り映え、州県は供応に追われ、民は初めて愁い怨んだ。
- 壬申、閬州に至った。州民の何康の娘は容色が美しく、嫁ごうとしていたが、蜀主が取り上げ、その夫の家に帛百匹を賜った。夫は一声慟哭して死んだ。癸未、梓州に至った。
- 龍徳元年春正月甲午、蜀主が成都へ帰った。
- はじめ蜀主が太子だったとき、高祖は兵部尚書の高知言の娘を娶らせて妃としたが寵はなく、韋妃が入宮するといっそう疎んじられた。ここに至って実家へ帰され、知言は驚いて倒れ、食を絶って没した。
- 韋妃は徐耕の孫で、絶世の美貌だった。蜀主が徐氏の家へ行った折に見て気に入り、太后がそこで後宮に納れた。蜀主は母方の一族から娶るのを嫌い、韋昭度の孫だと偽った。はじめ婕妤とされ、累加して元妃となった。
- 蜀主は常に錦の歩障を並べてその中で打毬をし、しばしば遠くへ出かけても外の人は知らなかった。諸々の香を昼夜絶えず焚き、久しくして飽きると、あらためて皁莢を焚いてその香を乱した。繒を結んで山や宮殿・楼観をその上に作り、風雨に壊れれば新しいものに替えた。あるいは繒の山で楽しく飲んで十日も下りなかった。山の前に渠を穿って禁中に通じさせ、あるいは船で夜に帰るとき、宮女に蝋燭千余本を持たせて前の船に立たせて照らさせ、水面は昼のようだった。あるいは禁中で痛飲し、鼓吹が沸き立って明け方に及んだ。これを常とした。
- 二年春二月、蜀主はお忍びを好み、酒肆や娼家で行かぬところはなかった。人に見分けられるのを嫌い、令を下して士民に皆大きな笠を被らせた。
- 夏四月、蜀の軍使・王承綱の娘が嫁ごうとしていたが、蜀主が取り上げて入宮させた。承綱が返還を請うと、蜀主は怒って茂州へ流した。娘は父が罪を得たと聞いて自殺した。
- 後唐同光元年秋八月、蜀主は文思殿大学士の韓昭、内皇城使の潘在迎、武勇軍使の顧在珣を狎客として遊宴に陪侍させ、宮女と入り混じって座らせ、あるいは艶歌を唱和し、あるいは談笑して戯れ、卑俗猥雑で至らぬところがなかった。蜀主はこれを楽しんだ。在珣は顧彦朗の子である。
- 当時、樞密使の宋光嗣らが国事を専断し、思うまま威虐を振るい、蜀主の欲に迎合してその権を盗もうとした。宰相の王鍇・庾伝素らはそれぞれ寵禄を守って正そうとしなかった。潘在迎はいつも蜀主に諫める者を誅して国を謗らせぬよう勧めた。
- 嘉州司馬の劉贊が「陳の後主の三閣図」を献じ、あわせて歌を作って諷し、賢良方正の蒲禹卿は対策できわめて切実率直に述べたが、蜀主は罪しはしなかったものの用いもしなかった。
- 九月庚戌、蜀主は重陽の宴を宣華苑で近臣に賜った。酒が回ると嘉王・宗寿が隙を見て「社稷はまもなく危うくなります」と極言し、涙を流してやまなかった。韓昭と潘在迎が「嘉王は酒好きで悲しがりなのです」と言い、そのまま笑い話にして散会した。
- 冬十月、彗星が輿鬼の宿に現れ、長さ一丈余りだった。蜀の司天監が「国に大災あり」と言い、蜀主は詔で玉局化に道場を設けた。右補闕の張雲が上疏して「百姓の怨気が天に達したので彗星が現れたのです。これは亡国の徴で、祈禳で消せるものではありません」と言った。蜀主は怒って雲を黎州へ流し、雲は道中で没した。
- 二年春三月己亥朔、蜀主は近臣を怡神亭の宴に招いた。酒が回ると君臣も宮人も皆髻を露わにして騒ぎ立て、思うままに振る舞った。知制誥の李亀禎(京兆の人)が「君臣が酒に沈んで国政を憂えぬのは、臣は北の敵の謀を招くのではないかと恐れます」と諫めたが、聞かれなかった。
同光二年〜三年(924-925年・唐の伐蜀準備)
- 夏四月、帝は客省使の李厳を蜀へ遣わした。厳は帝の威徳と天下統一の志を盛んに称え、あわせて「朱氏が簒奪したとき、諸侯には勤王の挙がまるでなかった」と言った。王宗儔はその言がわが国を侵すものだとして斬ることを請うたが、蜀主は従わなかった。
- 宣徽北院使の宋光葆が「晋王にはわが国家を陵ぐ志があります。将を選び兵を練り、辺境に戍を屯し、乾飯と糧を積み、戦艦を整えて待つべきです」と上言し、蜀主は光葆を梓州観察使・充武徳節度留後とした。
- 五月戊申、蜀主は李厳を帰した。はじめ帝は厳の入蜀に託して、馬で宮中の珍玩を買わせようとした。ところが蜀の法は錦・綺・珍奇の品が中国へ入ることを禁じ、粗悪なものだけを入れさせて「入草の物」と呼んでいた。厳が帰ってこれを報じると、帝は怒って「王衍は入草の人となるのを免れられようか」と言った。
- 厳はそこで帝に言った。「衍は幼稚で荒れて放縦、政務を親らせず、故老を遠ざけ小人と馴れ親しんでおります。その用事の臣である王宗弼・宋光嗣らは諂諛して専恣、貪欲で飽くことを知らず、賢愚は位を取り違え、刑賞は乱れ、君臣上下はもっぱら奢淫を尊んでおります。臣の見るところ、大兵がひとたび臨めば、瓦解土崩は爪先立ちの間に待てましょう」。帝は深くもっともと思った。
- 秋八月戊辰、蜀主は右定遠軍使の王宗鍔を招討馬歩使として二十一軍を率いて洋州に屯させ、乙亥、長直馬軍使の林思諤を昭武節度使として利州を戍らせ唐に備えた。
- 帝はあらためて使者の李彦稠を蜀へ入れ、九月己亥、成都に至った。
- 蜀の前山南節度使兼中書令の王宗儔は蜀主の失徳を見て王宗弼と廃立を謀ったが、宗弼は迷って決しなかった。庚戌、宗儔は憂憤のうちに没した。宗弼は樞密使の宋光嗣・景潤澄らに「宗儔は私におまえたちを殺せと言っていた。今日、もう心配はない」と言い、光嗣らは平伏して泣いて謝した。宗弼の子・承班はこれを聞いて人に「わが家に難を免れるのは難しかろう」と言った。
- 乙卯、蜀主は前鎮江節度使の張武を峡路応援招討使とした。
- 蜀の宣徽北院使・王承休が、軍中の驍勇な者一万二千人を選んで駕下に左右竜武の歩騎四十軍を置くことを請い、兵械も賜与もいずれも他軍より優遇された。承休を竜武軍馬歩都指揮使とし、裨将の安重霸を副とした。旧将で憤り恥じぬ者はなかった。重霸は雲州の人で、狡佞と賄賂で承休に仕えたので、承休は気に入った。
- 冬十一月、蜀主は翰林学士の欧陽彬(衡山の人)を答礼に送り、また李彦稠を東へ帰した。
- 蜀は唐と好誼を修めたとして威武城の戍を罷め、関宏業ら二十四軍を成都へ帰した。戊申、さらに武定・武興招討の劉潜ら三十七軍を罷めた。辛酉、蜀主は天雄軍招討を罷めて王承騫ら二十九軍を成都へ帰した。蜀主は金州の屯戍を罷めて王承勲ら七軍を成都へ帰した。
- はじめ唐の僖宗・昭宗の世、宦官は盛んだったが節を建てた者はなかった。蜀の安重霸が王承休に秦州節度使を求めるよう勧め、承休は蜀主に「秦州には美婦人が多い。陛下のために選んで献じたい」と言った。蜀主は許し、庚午、承休を天雄節度使として魯国公に封じ、竜武軍をその牙兵とした。
- 乙亥、蜀主は前武徳節度使兼中書令の徐延瓊を京城内外馬歩都指揮使とした。延瓊は外戚として王宗弼に代わって旧将の上に居り、衆は皆不平だった。
- 三年夏六月、帝は蜀を伐とうとし、辛卯、詔で天下に戦馬を買い集めさせた。
- 秋九月、蜀主は太后・太妃と青城山に遊び、文人観・上清宮を経て彭州の陽平化、漢州の三学山まで行って帰った。
- 丁酉、帝は宰相と伐蜀を議した。威勝節度使の李紹欽はかねて宣徽使の李紹宏に諂い仕えており、紹宏は「紹欽には蓋世の奇才があり、孫子・呉子でも及ばぬほど。大任を託せます」と推した。郭崇韜は「段凝(紹欽)は亡国の将で姦諂は絶倫。信じてはなりません」と言った。
- 衆が李嗣源を挙げると、崇韜は「契丹はまさに熾んです。総管は河朔を離れられません。魏王は儲副の地位にあってまだ特別な功を立てておられません。故事に依って伐蜀の都統としてその威名を成されたい」と言った。帝は「児は幼い。どうして独りで行けよう。副を求めるべきだ」と言い、まもなく「そなたに替わる者はない」と言った。
- 庚子、魏王・継岌を西川四面行営都統、崇韜を東北面行営都招討制置等使として軍事をすべて委ねた。また荊南節度使の高季興を東南面行営都招討使、鳳翔節度使の李継曮を都供軍転運応接等使、同州節度使の李令徳を行営副招討使、陝州節度使の李紹琛を蕃漢馬歩軍都排陣斬斫使兼馬歩軍都指揮使、西京留守の張筠を西川管内安撫応接使、華州節度使の毛璋を左廂馬歩都虞候、邠州節度使の董璋を右廂馬歩都虞候、客省使の李厳を西川管内招撫使として六万の兵で蜀を伐たせ、なお詔で季興に自ら夔・忠・万の三州を取って管内とさせた。
- 都統は中軍を置き、供奉官の李従襲を中軍馬歩都指揮監押、高品の李廷安と呂知柔を魏王の牙通謁とした。辛丑、工部尚書の任圜と翰林学士の李愚に都統の軍機に参預させた。
- 蜀の安重霸は王承休に蜀主の秦州東遊を請うよう勧めた。承休は着任するとすぐ府署を毀して行宮を作り、大いに労役を起こし、民間の女子を強いて取って歌舞を教え、その姿を描いて韓昭に贈って蜀主に言わせ、さらに花木の図を献じて秦州の山川と土地の風の美しさを盛んに称えた。
- 蜀主が秦州へ行こうとすると、群臣で諫める者はきわめて多かったが、いずれも聞かれなかった。王宗弼が上表して諫めると、蜀主はその表を地に投げた。太后が涙を流して食を絶って止めようとしたが、それも叶わなかった。
- 前秦州節度判官の蒲禹卿が二千言近い上表をした。その大意——先帝は艱難して業を創り、万世に伝えようとされました。陛下は富貴の中に育ち、色に荒れ酒に惑われております。秦州の人は羌胡が入り交じり、地は瘴癘が多く、万衆は奔走に困じ、郡県は供応に疲れております。鳳翔は長く仇讐で必ず釁を生じ、唐国とはようやく歓好を通じたばかりで疑いを抱かれると恐れます。先皇は理由なく遊ばれたことはありません。陛下はほしいままにたびたび宮闕を離れておられる。秦の始皇は東へ狩りに出て鑾駕は還らず、煬帝は南巡して竜舟は返りませんでした。蜀都は強盛で隣邦を睥睨し、辺境の亭に烽火の憂いはありませんが、境内には腹心の病があります。百姓は業を失い盗賊が公然と横行しております。昔、李勢は桓温に屈し、劉禅は鄧艾に降りました。山河の険固も恃むに足りません。
- 韓昭は禹卿に「私はおまえの表を預かる。主上が西へ帰られたら、獄吏に一字ずつ問い質させてやろう」と言った。王承休の妻・厳氏は美しく、蜀主が私通していたので、鋭意行こうとしたのである。
- 冬十月、排陣斬斫使の李紹琛が李厳と驍騎三千・歩兵一万を率いて前鋒となった。招討判官の陳乂が宝雞に至って病と称して留まりたいと願い出た。李愚は声を厲しくして「陳乂は利を見れば進み難を恐れれば止まる。今、大軍が険を渉り人心は揺れやすい。斬って衆に示すべきです」と言い、これで軍中に日和見する者はなくなった。乂は薊州の人である。
- 癸亥、蜀主が数万の兵を率いて成都を発ち、甲子、漢州に至った。武興節度使の王承捷が唐の兵の西上を告げたが、蜀主は群臣が結託して自分を妨げているのだと思ってなお信じず、「私はまさに武を耀かそうとしているのだ」と大言して東行し、道中で群臣と詩を賦して意に介さなかった。
- 丁丑、李紹琛が蜀の威武城を攻めた。蜀の指揮使・唐景思が兵を率いて出て降り、城使の周彦禋らも守れぬと知って降った。景思は秦州の人である。城中の糧二十万斛を得た。紹琛はその敗兵一万余人を逃がして去らせ、そのまま道を倍して鳳州へ向かった。李厳は書を飛ばして王承捷を諭した。
- 李継曮が鳳翔の蓄えを尽くして軍に供したが賄いきれず、人情は憂え恐れた。郭崇韜は散関に入り、その山を指して「我らは進んで功を成さねば、二度とここへは戻れぬ。力を尽くして一決すべきだ。今、輸送が尽きかけている。まず鳳州を取ってその糧に拠るべきだ」と言った。
- 諸将は皆「蜀の地は険固です。長駆すべきでありません。兵を按じて隙を見るべきです」と言った。崇韜が李愚に問うと、愚は「蜀の人はその主の荒淫に苦しみ、彼のために働く者はおりません。人情が崩れ離れている隙に、風のごとく駆け雷のごとく撃てば、彼らは皆肝を潰します。険阻があっても誰が守りましょう。兵の勢いは緩めてはなりません」と答えた。
- この日、李紹琛が捷報を告げ、崇韜は喜んで愚に「公の敵を料ることがこれほどとは。私にもう何の憂いがあろう」と言い、そのまま道を倍して進んだ。
- 戊寅、王承捷が鳳・興・文・扶の四州の印と節を持って迎え降り、兵八千と糧四十万斛を得た。崇韜は「蜀の平定は確実だ」と言い、ただちに都統の牒で承捷に武興節度使を代行させた。
- 己卯、蜀主が利州に至り、威武の敗卒が逃げ帰って、初めて唐兵の来襲を信じた。王宗弼と宋光嗣が「東川と山南の兵力はなお完全です。陛下はただ大軍で利州を扼されればよい。唐の人がどうして懸軍で深く入れましょう」と言い、従われた。
- 庚辰、随駕清道指揮使の王宗勲・王宗儼・兼侍中の王宗昱を三招討として三万の兵で迎え撃たせた。従駕の兵は綿州・漢州から深渡まで千里に連なったが、皆怨み憤って「竜武軍は糧も賜も他軍の倍だ。他軍がどうして敵を防げるか」と言った。
- 李紹琛らが長挙を過ぎると、興州都指揮使の程奉璉が部下の兵五百を率いて降り、あわせて先に橋と桟道を整えて唐軍を待ちたいと請うた。これで軍行に険阻の憂いはなくなった。辛巳、興州刺史の王承鑑は城を棄てて逃げ、紹琛らは興州を落とした。郭崇韜は唐景思に興州刺史を代行させた。
- 乙酉、成州刺史の王承朴が城を棄てて逃げた。李紹琛らが蜀の三招討と三泉で戦い、蜀の兵は大敗して五千級を斬られ、残る衆は潰走した。さらに三泉で糧十五万斛を得、これで軍糧は十分になった。
- 蜀主は王宗勲らの敗北を聞き、利州から道を倍して西へ逃げ、桔柏津の浮橋を断ち、中書令・判六軍諸衛事の王宗弼に大軍で利州を守らせ、あわせて王宗勲ら三招討を斬るよう命じた。
- 李紹琛は昼夜兼行で利州へ向かった。蜀の武徳留後・宋光葆が郭崇韜に書を送り、唐の兵が境内に入らねば管内を挙げて内附する、約束どおりでなければ城を背にして決戦して本朝に報いる、と請うた。崇韜は返書して撫し受け入れた。
- 己丑、魏王・継岌が興州に至った。光葆は梓・綿・剣・竜・普の五州、武定節度使の王承肇は洋・蓬・壁の三州、山南節度使兼侍中の王宗威は梁・開・通・渠・麟の五州、階州刺史の王崇岳は階州を挙げて、いずれも降った。承肇は王宗侃の子である。その他の城鎮も皆風を望んで恭順を通じた。
- 天雄節度使の王承休は副使の安重霸と唐軍を襲うことを謀ったが、重霸は「撃って勝てねば大事は去ります。蜀中には精兵十万、天下の険固があり、唐の兵が勇猛でも、どうしてまっすぐ剣門を越えられましょう。しかし公は国恩を受けておられる。難を聞いて赴かぬわけにいきません。公とともに西へ参りたい」と言った。承休はかねて親信していたのでもっともと思った。
- 重霸は羌人に賄賂を贈って文州・扶州の路を買って帰ることを請い、承休は従い、重霸に竜武軍および募兵一万二千人を率いて従わせた。出発にあたって州の人が城外で餞し、承休が道に就くと、重霸は馬前に拝して「国家は力を尽くして秦州・隴州を得ました。開府(承休)が朝廷へ帰られたら、誰が守るのですか。開府はお行きください。重霸が公のために留守を務めます」と言った。承休はすでに道に就いていてどうしようもなく、そのまま招討副使の王宗汭と文州・扶州から南下した。
- その地はいずれも不毛で、羌人が襲ったので戦いながら進み、士卒は凍え飢え、茂州に着くころには残るは二千だけだった。重霸はそのまま秦州・隴州を挙げて降った。
- 郭崇韜が王宗弼らに書を送って利害を陳べた。李紹琛が利州に着く前に、宗弼は城を棄てて兵を率いて西へ帰った。王宗勲ら三招討が白艻で宗弼に追いつくと、宗弼は懐から詔書を探り出して示し、「宋光嗣が私におまえたちを殺せと命じたのだ」と言い、そのまま抱き合って泣き、共謀して唐に恭順を通じた。
- 十一月丙申、蜀主が成都に至り、百官と後宮が七里亭で迎えた。蜀主は妃嬪の中に入って回鶻の隊を作って入宮した。丁酉、文明殿に出て群臣に会い、涙が襟を濡らした。君臣は互いに見つめ合うだけで、ついに一言も国難を救う言葉はなかった。
- 戊戌、李紹琛が利州に至って桔柏の浮橋を修めた。昭武節度使の林思諤は先に城を棄てて閬州へ逃げ、使者を送って降を請うた。甲辰、魏王・継岌が剣州に至り、蜀の武信節度使兼中書令の王宗寿が遂・合・渝・瀘・昌の五州を挙げて降った。
- 王宗弼は成都に至って太玄門に登り、兵を厳しくして自衛した。蜀主と太后が自ら労いに行ったが、宗弼は驕慢で臣の礼もなかった。乙巳、蜀主と太后・後宮・諸王を脅して西宮へ移し、その璽綬を取り上げ、腹心の吏に義興門で内庫の金帛を奪わせてすべて自分の家に持ち帰った。その子・承涓は剣を杖ついて入宮し、蜀主の寵姫数人を取って帰った。丙午、宗弼は権西川兵馬留後を自称した。
- 李紹琛は綿州へ進み、倉庫と住民はすでに蜀の兵に焼かれ、しかも綿江の浮橋は断たれ、水は深くて渡る舟もなかった。紹琛は李厳に「私は懸軍で深く入っている。利は速戦にある。蜀の人が肝を潰しているうちに、百騎でも鹿頭関を越えれば、彼は迎え降るのに精一杯だろう。橋の修繕を待てば必ず数日かかる。ある者が王衍に近くの関を堅く閉じさせてわが兵勢を挫かせ、十日も延びれば勝負は分からなくなる」と言い、厳とともに馬に乗って江を泳ぎ渡った。従う兵で渡れた者はわずか千人、溺死した者も千余人だった。そのまま鹿頭関に入った。
- 丁未、進んで漢州に拠り、三日して後軍がようやく着いた。王宗弼が使者を送って幣・馬・牛・酒で軍を労い、あわせて蜀主の書を李厳に贈って「公が来られれば私はただちに降ります」と言った。ある者が厳に「公は真っ先に伐蜀の策を建てた。蜀の人の公への怨みは骨髄に達しております。行ってはなりません」と言ったが、厳は従わず、喜んで成都へ駆け入り、吏民を撫し諭し、大軍が続いて来ると告げた。蜀の君臣と後宮は皆慟哭した。蜀主は厳を引いて太后に会わせ、母と妻を託した。
- 宗弼はなお城に拠って守備していたが、厳がすべて楼櫓を撤去させた。己酉、魏王・継岌が綿州に至った。蜀主は翰林学士の李昊に降表を、中書侍郎・同平章事の王鍇に降書を草させ、兵部侍郎の欧陽彬に奉じさせて継岌と郭崇韜を迎えた。
- 王宗弼は「蜀の君臣は久しく帰命を願っておりましたが、内樞密使の宋光嗣・景潤澄、宣徽使の李周輅・欧陽晃が蜀主を惑わせたのです」と称して皆斬り、首を函に納めて継岌へ送った。さらに文思殿大学士・礼部尚書・成都尹の韓昭を佞諛の廉で責めて金馬坊の門に梟した。内外馬歩都指揮使兼中書令の徐延瓊、果州団練使の潘在迎、嘉州刺史の顧在珣および諸貴戚は皆恐れ、家の金帛と妓妾を傾けて宗弼に賄賂を贈り、辛うじて死を免れた。かねて気に食わなかった者は宗弼がことごとく殺した。
- 辛亥、継岌が徳陽に至った。宗弼は使者に牋を奉じさせ、「すでに蜀主を西の邸へ移し、軍城を安撫して王師をお待ちしております」と称し、また子の承班に蜀主の後宮と珍玩を継岌と郭崇韜に賄賂として送らせ、西川節度使を求めた。継岌は「これはみなわが家の物だ。何を献じるというのか」と言い、その物は留めて使者を帰した。
- 李紹琛は漢州に八日留まって都統を待った。甲寅、継岌が漢州に至り、王宗弼が迎謁した。乙卯、成都に至った。
- 丙辰、李厳が蜀主と百官・儀衛を導いて升遷橋で降った。蜀主は白衣で璧を口に銜え、羊を牽き、草の縄を首に巻き、百官は喪服で裸足、輿に棺を載せて号哭して命を待った。継岌は璧を受け、崇韜が縄を解き棺を焼き、制を承けて罪を釈し、君臣は東北に向かって拝謝した。
- 丁巳、大軍が成都に入った。崇韜は軍士の侵掠を禁じ、市は店を替えることもなかった。出師から蜀を落とすまで七十日、節度十州・六十四県・二百四十九、兵三万を得、鎧・武器・銭・糧・金銀・繒錦は合わせて千万を数えた。
- 高季興は蜀の滅亡を聞き、食事中に匙と箸を落として「これは老夫の過ちだ」と言った。梁震は「憂えるに足りません。唐主は蜀を得ていよいよ驕り、滅亡は目前です。それが我らの福とならぬとどうして分かりましょう」と言った。
- 楚王・馬殷は蜀の滅亡を聞いて上表して臣を称し、「すでに衡山の麓に隠棲の地を営みました。印綬を返上して余生を保ちたい」と述べた。上は優詔で慰め諭した。
- 十二月癸酉、王承休と王宗汭が成都に至った。魏王・継岌が「大鎮に居り強兵を擁しながら、なぜ防戦しなかった」と詰問すると、「大王の神武を畏れたのです」と答えた。「では、なぜ降らなかった」と問うと、「王師が境内に入りませんでした」と答えた。「羌の地へともに入った者は何人か」と問うと「一万二千人」と答え、「今、帰った者は何人か」と問うと「二千人」と答えた。継岌は「一万人の死を償えるな」と言い、その子ともども皆斬った。
- 閏十二月丁酉、詔で蜀朝が任じた官のうち四品以上は等差をつけて降格して授け、五品以下で才も家柄も取るところのない者はすべて田里へ帰らせ、先に降った者や功のある者は崇韜に事に応じて奨め任じさせた。また王衍に詔を賜り、その大意は「必ず土を裂いて封じよう。決して人を険に薄めはせぬ。三辰が上にある。一言も欺かぬ」というものだった。
明宗天成元年〜三年(926-928年・王衍の死)
- 春正月庚申、魏王・継岌は李継曮と李厳に王衍およびその宗族・百官数千人を洛陽へ護送させた。
- 二月乙巳、王衍が長安に至り、詔で留められた。
- 三月、伶人の景進らが帝に「魏王はまだ到着せず、康延孝が西南を平らげたばかりで、まだ安んじておりません。王衍の族党は少なくなく、車駕が東征されると聞けば変を起こしかねません。除くに如くはありません」と言った。帝はそこで中使の向延嗣に敕を持たせて誅させることとし、敕には「王衍の一行はすべて殺戮に従わせよ」とあった。
- すでに印が押されていたが、樞密使の張居翰が確認する際、殿の柱で「行」の字を擦り消して「家」の字に改めた。これにより蜀の百官および衍の僕役で免れた者は千余人に上った。延嗣は長安に至って衍の宗族を秦川駅でことごとく殺した。衍の母・徐氏は死に際して「わが児は一国を挙げて迎え降ったのに族誅を免れなかった。信義はいずれも棄てられた。私はおまえたちもいずれ禍を受けると知っている」と叫んだ。
- 夏六月、蜀の百官が洛陽に至った。永平節度使兼侍中の馬全は「国が亡んでここまで至った。生きるは死ぬに如かず」と言い、食を絶って没した。平章事の王鍇らを諸州府の刺史・少尹・判官・司馬とし、蜀へ帰った者もあった。
- 三年夏六月、陝州行軍司馬の王宗寿が上表して故蜀主・王衍の埋葬を請うた。秋七月乙巳、衍に順正公を贈り、諸侯の礼で葬った。