通鑑紀事本末李氏、鳳翔に拠る(岐と蜀の相攻を付す)(李氏據鳯翔(岐蜀相攻附))
宋文通こと李茂貞が鳳翔節度使となってから、岐王として自立し、蜀と結んでは争い、後唐に臣を称して没するまで。天復年間の鳳翔攻囲で朱全忠に屈し、劉知俊を迎えて梁と戦い、蜀の王建とは婚姻を結んだのち普慈公主の帰還を機に断交して大戦を繰り返す。秦・成・階・鳳の諸州を蜀に奪われて衰え、923年に後唐に臣従、翌年に没した。その後は子の李従曮の代までを記す。887年から938年まで。
年表(10件)
- 僖宗
- 光啟三年(・李茂貞の起用)887年李茂貞が姓名を賜り、鳳翔節度使・同平章事となる
- 文德元年〜光化二年(888-)899年李茂貞が鳳翔・彰義節度使を兼ね、勢力を広げる
- 天復元年〜三年(901-・鳳翔攻囲)903年岐王に進爵するも朱全忠に囲まれ、韓全誨を誅して和解する
- 天祐元年(・蜀との和親)904年馮涓の献策で王建が茂貞と婚姻を結び、藩屏とする
- 後梁太祖
- 開平元年(・岐王の自立)907年唐の滅亡後、岐王府を開いて百官を置き帝者に擬する
- 開平二年〜三年(908-・劉知俊の去就)909年梁の劉知俊が同州を挙げて岐に付き、彰義節度使となる
- 開平四年〜乾化元年(910-・蜀との断交と戦争)911年普慈公主の帰還で蜀と絶交し、安遠軍の攻防で岐軍が大敗する
- 均王
- 貞明元年〜六年(915-・岐の衰亡)920年秦・成・階・鳳の諸州を蜀に奪われ、劉知俊も蜀へ奔る
- 後唐莊宗
- 同光元年〜二年(923-・李茂貞の帰服と死)924年秦王に進爵されたのち李茂貞が没し、子の継曮が継ぐ
- 明宗
- 天成元年〜後晉天福三年(926-・李從曮の代)938年李従曮が鳳翔を鎮するが、士卒を軽んじて軍乱を招く
僖宗光啟三年(887年・李茂貞の起用)
- 春正月、扈蹕都頭の李茂貞に武定節度使を領させた。茂貞は博野の人で、もと宋姓、名は文通、功により姓名を賜った。
- 秋八月丙子、李茂貞を同平章事・鳳翔節度使とした。
文德元年〜光化二年(888-899年)
- 文徳元年夏五月、鳳翔節度使の李茂貞に検校侍中を加えた。
- 昭宗景福元年春正月、鳳翔の李茂貞ら五節度が出兵して楊守亮を討つことを請うた。
- 光化二年秋九月、鳳翔節度使の李茂貞を鳳翔・彰義節度使とした。
天復元年〜三年(901-903年・鳳翔攻囲)
- 元年春正月、鳳翔・彰義節度使の李茂貞が来朝し、守尚書令兼侍中を加え、爵を岐王に進めた。
- 冬十一月、韓全誨らが車駕を脅して鳳翔へ行幸させ、朱全忠が西へ車駕を迎えに来ると、李茂貞は兵を出して防いだ。
- 二年秋九月癸亥、茂貞を鳳翔・静難・武定・昭武の四鎮節度使とした。
- 三年春正月、李茂貞が韓全誨らの誅殺を請い、朱全忠と和解して車駕を京へ還した。
- 夏五月、李茂貞は朱全忠を畏れ、自分の官が尚書令で全忠より上位にあることから、再三、解任を乞う表を上り、詔であらためて茂貞を中書令とした。
天祐元年(904年・蜀との和親)
- 夏六月、朱全忠が車駕を洛陽へ遷したとき、李茂貞・王建・李継徽は檄を伝えて兵を合わせ朱全忠を討とうとした。全忠は鎮国節度使の朱友裕を行営都統として歩騎数万を率いさせて撃たせ、保大節度使の劉鄩に鄜州を棄てて同州に屯するよう命じた。癸丑、全忠は兵を率いて大梁から西へ茂貞らを討ちに向かい、秋七月甲子、東都を通って拝謁し、壬申、河中に至った。
- 西川の諸将は王建に、李茂貞の衰えに乗じて鳳翔を攻め取るよう勧めた。建が節度判官の馮涓に諮ると、涓は答えた。「兵は凶器です。民を損ない財を費やすもので、際限なく用いるべきではありません。今、梁と晋が虎のように争い、勢いは両立しません。もし一つに併されて兵を蜀へ向けられれば、諸葛亮が生き返っても敵しがたい。鳳翔は蜀の防壁です。和親して婚姻を結び、事なきときは農に務め兵を訓練して国境を固め、事あるときはその機を窺い、隙を見て動くのが万全です」。
- 建は「よろしい。茂貞は凡庸な才だが強悍の名があり、遠近が畏れている。全忠と力を争うには足らぬが、自ら守るには余りがある。わが藩屏となってくれれば利は多い」と言い、茂貞と好誼を修めた。
- 丙子、茂貞は判官の趙鍠を西川へ送り、甥の天雄節度使・継崇のために婚を求めた。建は娘を嫁がせた。茂貞はたびたび建に財貨や甲兵を求め、建はいずれも与えた。
- 昭宣帝天祐三年秋八月乙酉、李茂貞は子の侃を西川に人質として送り、王建は侃に彭州を掌らせた。
後梁太祖開平元年(907年・岐王の自立)
- 春三月、唐の昭宣帝が梁に禅位した。このとき天祐の年号を称するのは河東・鳳翔・淮南だけ、西川は天復の年号を称し、他はすべて梁の正朔を奉じて臣を称し貢を奉じた。
- 蜀王(王建)と弘農王(楊渥)が諸道に檄を移し、晋王・岐王と兵を合わせて唐室を興復したいと述べたが、応じる者はなかった。蜀王はそこで称帝を謀り、管内の吏民に教を下して諭し、また晋王に「それぞれ一方に帝たり、朱温を平らげてから唐の宗室に詔して立て、退いて藩服に帰りましょう」と書き送った。晋王は許さず、「この生を賭けて節を失うまいと誓っている」と答えた。
- 岐王は軍を治めることきわめて寛大で、士卒への待遇も簡素だった。部将の苻昭が謀反したと告げる者があったとき、岐王はそのまま昭の家へ行き、左右をすべて退けてぐっすり眠り、一夜明けてから帰った。これで衆心は喜んで服したが、軍の統御に規律はなかった。唐が亡んだと聞いても、兵は弱く地は狭いので称帝はできず、ただ岐王府を開いて百官を置き、居所を宮殿と呼び、妻を皇后と称し、将吏の上書を牋表と称し、鞭や扇、号令の多くを帝者に擬した。
開平二年〜三年(908-909年・劉知俊の去就)
- 二年夏五月、蜀主が将に兵を率いさせて岐の兵五万と合わせて雍州を攻め、晋の張承業も兵を率いて応じた。六月壬寅、劉知俊を西路行営都招討使として防がせた。丙辰、知俊と佑国節度使の王重師が幕谷で岐の兵を大破し、晋も蜀も兵を引き揚げた。
- 秋九月戊子、岐王が任じた延州節度使の胡敬璋が上平関を侵したが、劉知俊が撃破した。
- 冬十一月、保塞節度使の胡敬璋が没し、静難節度使の李継徽は将の劉万子を代わりに延州に鎮させた。
- 三年春二月、保塞節度使の劉万子は暴虐で衆心を失い、しかも梁に二心を抱いた。李継徽は延州牙将の李延実に図らせ、延実は万子が胡敬璋を葬る折に攻めて殺し、そのまま延州に拠った。馬軍都指揮使の高万興(河西の人)は弟の万金とともに変を聞き、数千の衆を率いて劉知俊のもとへ降った。岐王が鄜城に置いていた翟州の守将も降った。
- 夏四月丙申朔、劉知俊が軍を移して延州を攻め、李延実は城に籠って守った。知俊は白水鎮使の劉儒に兵を分けて坊州を囲ませた。
- 劉知俊が延州を落として李延実が降ると、岐王が任じた保大節度使の李彦博と坊州刺史の李彦昱はいずれも城を棄てて鳳翔へ逃げ、鄜州都将の厳弘倚は城を挙げて降った。己未、高万興を保塞節度使、絳州刺史の牛存節を保大節度使とした。
- 五月丁卯、帝は劉知俊に勝ちに乗じて邠州を取るよう命じたが、知俊は難色を示して食糧不足を理由に断り、召し返された。
- 帝は河東を伐とうとして急ぎ知俊を入朝させ、河東西面行営都統としようと考え、また丹州・延州の功があるので厚く賜与した。知俊の弟で右保勝指揮使の知浣は帝に従って洛陽におり、密かに人をやって知俊に「入れば必ず死にます」と伝え、また帝に弟や甥を率いて知俊を迎えに行きたいと申し出て許された。
- 六月乙未朔、知俊は「軍民に引き留められました」と奏し、そのまま同州を挙げて岐に付き、監軍および従わない将佐を捕えて械をかけて岐へ送り、兵を華州に入れて刺史の蔡敬思を追い出し、兵で潼関を守らせた。
- 帝は近臣を送って知俊を諭したが返答がなく、詔で知俊の官爵を削り、山南東道節度使の楊師厚を西路行営招討使として侍衛馬歩軍都指揮使の劉鄩らを率いさせて討たせた。鄩は潼関に至って落とした。
- 帝は知俊の甥の嗣業に詔を持たせて同州へ行かせ知俊を招諭した。知俊は軽騎で行在へ行って謝罪しようとしたが、弟の知偃が止めた。楊師厚らが華州に至ると、知俊の将・聶賞が門を開いて降った。知俊は潼関が守れず官軍が続いて来ると聞いて狼狽し為すすべを失い、乙卯の夜、一族を挙げて岐へ逃げた。
- 楊師厚が長安に至ると岐の兵がすでに城を占めていたが、師厚は奇兵を南山沿いに急がせ、西門から入って落とした。庚申、劉鄩を佑国留後代行とした。岐王は劉知俊を厚遇して中書令としたが、土地が狭くて藩鎮を与えられず、ただ手厚く俸禄を与えるだけだった。
- 岐王は霊州を取って劉知俊を置き、あわせて牧馬の地としようと、知俊に自ら兵を率いて攻めさせた。朔方節度使の韓遜が使者を送って急を告げ、詔で鎮国節度使の康懐貞と感化節度使の寇彦卿に兵を率いて邠寧を攻めさせ救わせた。懐貞らは向かうところ皆勝ち、寧州・衍州を落とし、慶州の南城を落とし、刺史の李彦広は出て降り、遊撃の兵は涇州の境まで侵掠した。
- 劉知俊はこれを聞き、十二月己丑、霊州の囲みを解いて兵を引いて戻った。帝は急ぎ懐貞らを呼び戻し、兵を三原の青谷まで迎えに出した。懐貞らが三水まで戻ったとき、知俊が兵を送って険に拠って待ち伏せたが、左龍驤軍使の王彦璋(寿張の人)が力戦してようやく通過できた。
- 懐貞は裨将の李徳遇・許従実・王審権と道を分けて進んだが、いずれも援兵と行き会えなかった。昇平に至ったとき、劉知俊が山口に兵を伏せており、懐貞は大敗してかろうじて身一つで逃れ、徳遇らの軍はすべて壊滅した。岐王は知俊を彰義節度使として涇州に鎮させた。
開平四年〜乾化元年(910-911年・蜀との断交と戦争)
- 四年、岐王はたびたび蜀に財貨を求め、蜀主はいずれも与えた。さらに巴州・剣州を求めると、蜀主は「私が茂貞に尽くすのも十分だ。だが土地を与えるのは民を棄てることになる。むしろ財貨を多く与えよう」と言い、あらためて絲・茶・布帛七万を贈った。
- 乾化元年春正月、蜀主の娘・普慈公主は岐王の甥で秦州節度使の継崇に嫁いでいたが、公主は宦者の宋光嗣に絹の書を持たせて蜀主に送り、継崇が驕慢で酒に耽ることを訴えて成都への帰還を求めた。蜀主は公主を里帰りに召し、辛亥、公主が成都に着くとそのまま留め、宋光嗣を閤門南院使とした。岐王は怒り、ここに蜀と絶交した。光嗣は福州の人である。
- 三月、岐王が兵を集めて蜀の東の辺境に臨んだ。蜀主は群臣に「茂貞が朱温に苦しめられて以来、私は常にその窮乏を援けてきた。それが恩に背いて寇となった。誰が私のために撃つか」と言った。兼中書令の王宗侃が願い出、蜀主は宗侃を北路行営都統とした。
- 司天少監の趙温珪が「茂貞はまだ辺境を犯していません。諸将が功を貪って深入りすれば糧道が遠く隔たり、国家の利ではありません」と諫めたが、蜀主は聞かず、兼侍中の王宗祐、太子少師の王宗賀、山南節度使の唐道襲を三招討使、左金吾大将軍の王宗紹を宗祐の副として歩騎十二万で岐を伐たせた。壬辰、宗侃らが成都を発ち、旌旗は数百里に及んだ。
- 夏四月乙卯朔、岐の兵が蜀の興元を侵したが、唐道襲が撃退した。蜀主は利州へ行った。蜀の諸将は岐の兵を撃ってたびたび破った。秋七月、蜀主は西へ戻り、御営使の昌王・宗鐬を利州に屯させた。
- 岐王は彰義節度使の劉知俊と秦州節度使の李継崇に兵を率いさせて蜀を撃たせた。乙亥、王宗侃・王宗賀・唐道襲・王宗紹が青泥嶺で戦って蜀兵は大敗し、馬歩使の王宗浩は興州へ逃げて川に溺れ死に、道襲は興元へ逃げた。
- これに先立ち、歩軍都揮使の王宗綰が西県に城を築いて安遠軍と号していた。宗侃・宗賀らは散兵を収めてそこへ逃げ込んで守り、知俊と継崇が追って包囲した。衆議は興元を棄てようとしたが、道襲は「興元がなければ安遠もなく、利州はそのまま敵地になる。私は必ず死んで守る」と言った。
- 蜀主は昌王・宗鐬を応援招討使、定戎団練使の王宗播を四招討馬歩都指揮使として安遠軍の救援に向かわせた。廉譲の間に塁を築き、唐道襲と合わせて岐の兵を撃ち、明珠曲で大破した。翌日、鳧口でも戦い、その成州刺史の李彦琛を斬った。
- 冬十月、蜀主は利州へ行き、太子に監国を命じた。決雲軍虞候の王琮が岐の兵を破ってその将・李彦太を捕え、三千五百級を捕殺した。乙卯、捉生将の彭君集が岐の二寨を破って三千級を捕殺した。
- 王宗侃は裨将の林思諤を中巴から間道で泥渓へ行かせ、蜀主に急を告げた。蜀主は開道都指揮使の王宗弼に兵を率いて安遠を救わせ、斜谷で劉知俊と戦って破った。
- 十一月、蜀の王宗弼が金牛で岐の兵を破って十六の寨を落とし、六千余級を捕殺し、その将の郭存らを捕えた。丙申、王宗鐬・王宗播が黄牛川で岐の兵を破ってその将の蘇厚らを捕えた。
- 丁酉、蜀主が利州から興元へ移り、援軍が集まった。安遠軍がその旗を望むと、王宗侃らは鬨の声を上げて出撃し、援軍と挟み撃ちにして岐の兵を大破し、二十一の寨を落として将の李廷志らを斬った。己亥、岐の兵は囲みを解いて逃げ去った。唐道襲は先に斜谷に兵を伏せて迎え撃ち、またこれを破った。庚子、蜀主は西へ戻った。
- 二年冬十二月戊寅、蜀の行営都指揮使・王宗汾が岐の文州を攻め落とし、守将の李継夔は逃げた。
均王貞明元年〜六年(915-920年・岐の衰亡)
- 元年夏五月、岐王は彰義節度使の劉知俊に邠州を囲ませたが、霍彦威が固守して防いだ。
- 秋八月乙未、蜀主は兼中書令の王宗綰を北路行営都制置使、兼中書令の王宗播を招討使として秦州を攻めさせ、兼中書令の王宗瑶を東北面招討使、同平章事の王宗翰をその副として鳳州を攻めさせた。
- 冬十一月己巳、蜀の王宗翰が兵を率いて青泥嶺を出て固鎮を落とし、秦州の将・郭守謙と泥陽川で戦ったが、蜀兵は敗れて鹿臺山に退いて守った。辛未、王宗綰らが金沙谷で秦州の兵を破り、その将の李彦巣らを捕え、勝ちに乗じて秦州へ向かった。興州刺史の王宗鐸が階州を落として刺史の李彦安を降し、甲戌、王宗綰が成州を落として刺史の李彦徳を捕えた。
- 蜀軍が上染坊に至ると、秦州節度使の李継崇は子の彦秀に牌と印を奉じさせて降った。宗綰は秦州に入り、排陣使の王宗儔を留後とするよう上表した。
- 劉知俊は邠州の霍彦威を半年攻めても落とせず、秦州が蜀に降って知俊の妻子が皆成都へ移されたと聞き、囲みを解いて鳳翔へ戻ったが、ついに禍が及ぶことを恐れ、夜、親兵七十人を率いて関門を斬って出て、庚辰、蜀軍のもとへ逃げた。
- 王宗綰は河池・両当から進軍して王宗瑶と合流し鳳州を攻め、癸未に落とした。
- 蜀は鳳州に武興軍を置き、文州・興州を隷属させ、前利州団練使の王宗魯を節度使とした。岐王の衰弱を知って、十二月、耀州・鼎州を挙げて降る者があった。
- 二年秋八月丙午、蜀主は王宗綰を東北面都招討、集王の宗翰と嘉王の宗寿を第一・第二招討として十万の兵で鳳州から出し、王宗播を西北面都招討、武信節度使の劉知俊・天雄節度使の王宗儔・匡国軍使の唐文裔を第一・第二・第三招討として十二万の兵で秦州から出し、岐を伐った。
- 冬十月甲申、蜀の王宗綰らが大散関を出て岐の兵を大破し、一万を数える者を捕殺して宝雞を取った。己丑、王宗播らが故関を出て隴州に至った。
- 丙寅、保勝節度使兼侍中の李継岌は岐王の猜忌を恐れ、二万の衆を率いて隴州を棄てて蜀軍へ逃げた。蜀の兵が隴州へ進攻し、継岌を西北面行営第四招討とした。劉知俊は王宗紹らと合わせて鳳翔を囲んだが、岐の兵は出てこず、折しも大雪となったので蜀主は軍を呼び戻した。李継岌の姓名を桑弘志と改めさせた。
- 三年秋七月、蜀主は桑弘志を西北面第一招討、王宗宏を東北面第二招討、兼中書令の王宗侃を東北面都招討、武信節度使の劉知俊を西北面都招討とした。
- 四年夏四月、岐王がまた使者を送って蜀に好誼を求めた。
- 五年春三月丙戌、蜀の北路行営都招討・武徳節度使の王宗播らが散関から岐を撃ち、渭水を渡って岐の将・孟鉄山を破ったが、大雨に遭って戻り、兵を分けて興元・鳳州および威武城を戍らせた。戊子、天雄節度使・同平章事の王宗昱が隴州を攻めたが落とせなかった。
- 六年冬十一月戊子朔、蜀主は兼侍中の王宗儔を山南節度使・西北面都招討・行営安撫使とし、天雄節度使・同平章事の王宗昱、永寧軍使の王宗晏、左神勇軍使の王宗信を三招討としてその副とし、兵を率いて岐を伐たせ、故関から出て咸宜に塁を築き良原に入った。
- 丁酉、王宗儔が隴州を攻めると、岐王が自ら一万五千を率いて汧陽に屯した。癸卯、蜀の将・陳彦威が散関を出て箭筶嶺で岐の兵を破ったが、蜀兵は食が尽きて引き揚げた。宗昱は秦州、宗儔は上邽、宗晏と宗信は威武城に屯した。
後唐莊宗同光元年〜二年(923-924年・李茂貞の帰服と死)
- 元年冬十一月壬寅、岐王が使者を送って帝の梁滅亡を賀する書を送ったが、季父をもって自ら任じ、辞も礼もきわめて傲慢だった。
- 二年春正月、岐王は帝が洛陽に入ったと聞いて内心不安になり、子の行軍司馬・彰義節度使兼侍中の継曮を入貢させ、初めて表を上って臣を称した。帝はその前朝の古老であり太祖と肩を並べた人物であることから、とくに優礼を加え、詔を賜るたびただ「岐王」と称して名を呼ばなかった。庚戌、継曮に中書令を兼ねさせて帰した。
- 李継曮は唐の甲兵の盛大さを見て、帰って岐王に語り、岐王はいよいよ恐れた。癸丑、藩臣の礼を正したいと上表したが、優詔で許されなかった。
- 二月辛巳、岐王の爵を秦王に進め、なお名を呼ばず拝させなかった。
- 夏四月、秦の忠敬王・李茂貞が没し、遺奏で子の継曮に鳳翔軍府事を代行させた。五月、李継曮を鳳翔節度使とした。
明宗天成元年〜後晉天福三年(926-938年・李從曮の代)
- 天成元年春二月戊戌、李継曮が鳳翔に至ったが、監軍使の柴重厚は符と印を渡さず、闕へ行くよう促した。
- 夏六月、李継曮は華州まで至ったところで洛中の乱を聞き、鳳翔へ引き返し、そのために柴重厚を誅した。
- 秋九月壬午、李継曮に従曮の名を賜った。
- 長興元年春二月乙卯、帝が円丘を祀り、大赦して改元した。鳳翔節度使兼中書令の李従曮が入朝して祀に陪した。三月壬申、制で従曮を宣武節度使に移した。
- 潞王清泰元年夏五月、帝が鳳翔で兵を起こしたとき、天平節度使・李従曮の家財と甲兵をすべて取り上げて軍に供した。出発しようとしたとき、鳳翔の民が道を塞いで従曮を再び鳳翔に鎮させるよう請い、帝は許した。ここに至って従曮を鳳翔節度使に移した。
- 後晋天福三年、鳳翔節度使の李従曮は文士を厚遇して武人を軽んじ、農民を愛して士卒に厳しかったので、将士は怨んだ。折しも兵を発して西の辺境を戍らせようとしたところ、郊外に出たところで乱を起こし、門を突き破って城に入り、市で略奪した。従曮は帳下の兵を出して撃ち、乱兵は敗れて東へ走り、朝廷に自ら訴えようとして華州の鎮に至った。