通鑑紀事本末銭氏、呉越に拠る(董昌の僭逆を付す)(錢氏據吳越(董昌僣逆附))

臨安の銭鏐が董昌の部将から身を起こし、劉漢宏を滅ぼし、帝を僭称した董昌を討ち、両浙を制して呉越国を建てるまでと、その子孫の治世。淮南(呉)とは徐綰の乱・蘇州攻防・浪山江の水戦などで長く争い、のち和議を結んで三十余州の民が生業を楽しんだ。武粛王鏐の死後は文穆王元瓘、忠献王弘佐、弘倧、弘俶と続き、胡進思の政変を経て後周に従い唐を攻めるまで。878年から956年までの約80年間。

年表(19件)

僖宗乾符五年〜六年(878-879年・杭州八都と劉漢宏)

  • 王郢の乱に際し、臨安の人・董昌は土団を率いて賊を討った功で石鏡鎮将に補された。この年、曹師雄が二浙を侵掠したので、杭州は諸県で郷兵を各千人募って討たせた。董昌と銭塘の劉孟安・阮結、富陽の聞人宇、塩官の徐及、新城の杜稜、余杭の凌文挙、臨平の曹信がそれぞれ都将となり、「杭州八都」と号し、昌がその長となった。のち宇が没して銭塘の人・成及が代わった。臨安の人・銭鏐は驍勇をもって昌に仕え、功により石鏡都知兵馬使となった。
  • 六年冬十月、黄巣が潭州に迫ったとき、荊南節度使の王鐸は将を残して江陵を守らせ、自ら衆を率いて襄陽へ向かった。鐸が去ると劉漢宏が江陵を大掠し、衆を率いて北へ帰って群盗となった。漢宏は兖州の人である。

廣明元年(880年・劉漢宏の浙東入り)

  • 夏五月、劉漢宏の一党がしだいに盛んになって宋州・兖州を侵掠したので、甲子、東方の諸道の兵を徴して討たせた。
  • 六月、漢宏は南下して申州を掠めた。秋七月辛酉、漢宏が降を請い、戊辰、宿州刺史とした。
  • 冬十一月、宿州刺史の劉漢宏は朝廷の賞が薄いことを怨み、甲寅、漢宏を浙東観察使とした。

中和元年(881年・董昌の杭州占拠)

  • 秋九月、淮南節度使の高駢が石鏡将の董昌を広陵に召し、ともに黄巣を撃とうとした。昌の将・銭鏐が「高公を見るに賊を討つ心がありません。郷里を防ぐという口実で辞去されるべきです」と説き、昌は従った。駢は昌を帰らせた。
  • 折しも杭州刺史の路審中が任地へ向かう途中、嘉興まで来たところで、昌は石鏡から兵を率いて杭州に入って占拠した。審中は恐れて引き返した。昌は杭州都押牙・知州事を自称し、将吏を鎮海節度使の周宝のもとへ送って承認を請うた。宝は抑えられず、上表して杭州刺史とした。

中和二年〜四年(882-884年・劉漢宏との戦い)

  • 二年秋八月、浙東観察使の劉漢宏が弟の漢宥と馬歩軍都虞候の辛約に二万を率いさせて西陵に陣し、浙西を併呑しようとした。杭州刺史の董昌は都知兵馬使の銭鏐に防がせた。壬子、鏐は霧に乗じて夜に渡江してその営を襲い、大破してほぼ皆殺しにし、漢宥も辛約も逃げた。
  • 冬十月、漢宏はさらに登高将の王鎮に七万を率いさせて西陵に屯させたが、鏐がまた夜に渡江して襲って大破し、一万を数える者を捕殺し、漢宏が諸将に官を授けた偽勅二百余通を得た。鎮は諸暨へ逃げた。
  • 三年、劉漢宏が兵を分けて黄嶺・巌下・貞女の三鎮に屯すると、銭鏐は八都の兵を率いて富春から撃ち、黄嶺を破って巌下鎮将の史弁、貞女鎮将の楊元宗を捕えた。漢宏が精兵を諸暨に屯させると、鏐はまた撃破し、漢宏は逃げた。
  • 冬十月、漢宏が十余万の衆で西陵から出て董昌を撃とうとした。戊午、銭鏐が渡江して迎え撃って大破し、漢宏は服を替え鱠刀を持って逃げた。己未、漢宏は残衆四万を収めてまた戦ったが、鏐がまた破り、その弟の漢容と将の辛約を斬った。
  • 四年春三月、婺州の人・王鎮が刺史の黄碣を捕えて銭鏐に降った。劉漢宏は将の婁賚を送って鎮を殺して代わらせたが、浦陽鎮将の蔣瓌が鏐の兵を呼んでともに婺州を攻め、賚を捕えて帰った。碣は閩の人である。

光啟二年〜三年(886-887年・越州奪取と周寶の死)

  • 二年冬十月、董昌が銭鏐に「そなたが越州を取れれば、私は杭州を授けよう」と言った。鏐は「しかり。取らねばいずれ後患となります」と言い、兵を率いて諸暨から平水へ向かい、山を鑿って五百里の道を開き、曹娥埭へ出た。浙東の将・鮑君福が衆を率いて降り、鏐は浙東の軍と戦ってたびたび破り、豊山に進屯した。
  • 十一月丙戌、銭鏐が越州を落とし、劉漢宏は台州へ逃げた。十二月、台州刺史の杜雄が漢宏を誘い出して捕え、董昌のもとへ送って斬った。昌は鎮を越州へ移して知浙東軍府事を自称し、銭鏐に杭州事を掌らせた。
  • 三年春正月辛巳、董昌を浙東観察使、銭鏐を杭州刺史とした。
  • 三月、鎮海節度使の周宝は親軍千人を募って「後楼兵」と号し、俸給は鎮海軍の倍とした。鎮海軍は皆怨み、後楼兵はしだいに驕って抑えられなくなった。宝は声色に溺れて政事を親らせず、二十余里の羅城を築き東邸を建てたので、人はその労役に苦しんだ。
  • 宝が僚属と後楼で宴を開いたとき、鎮海軍が怨望していると言う者があり、宝は「乱を起こせば殺すまでだ」と言った。度支催勘使の薛朗がこれを親しい鎮海軍の将・劉浩に告げ、士卒を抑えるよう戒めると、浩は「叛くほかに死を免れる道はない」と言った。
  • その夕、宝は酔って寝ていた。浩は一党を率いて乱を起こし、府舎を攻めて焼いた。宝は驚いて起き、裸足で芙蓉門を叩いて後楼兵を呼んだが、後楼兵も叛いていた。宝は家人を連れて徒歩で青陽門から出て常州へ逃げ、刺史の丁従実を頼った。浩は諸僚佐を殺し、癸巳、薛朗を府に迎え入れて留後に推した。
  • はじめ周宝は淮南の六合鎮遏使・徐約の兵が精強だと聞いて誘い、蘇州を撃たせた。夏四月甲辰朔、約は蘇州刺史の張雄を追い出し、雄は衆を率いて海に逃れた。
  • 五月、銭鏐は東安都将の杜稜、浙江都将の阮結、静江都将の成及に兵を率いさせて薛朗を討たせた。六月、杜稜らが陽羨で薛朗の将・李君暀を破った。
  • 冬十月、杜稜らが常州を落とし、丁従実は海陵へ逃げた。銭鏐は周宝を奉じて杭州へ帰らせ、櫜鞬を帯び部将の礼を尽くして郊外に迎えた。十二月乙未、周宝が杭州で没した。
  • 銭鏐は杜稜を常州制置使とし、阮結らに潤州へ進攻させ、丙申に落とした。劉浩は逃げ、薛朗を捕えて帰った。

文德元年〜景福二年(888-893年・鎮海節度使へ)

  • 文徳元年春正月丙寅、銭鏐は薛朗を斬ってその心をえぐり周宝を祭り、阮結を潤州制置使とした。
  • 秋九月、銭鏐は従弟の銶に兵を率いさせて蘇州の徐約を攻めさせた。
  • 昭宗龍紀元年春三月丙申、銭銶が蘇州を落とし、徐約は海へ逃げて死んだ。銭鏐は海昌都将の沈粲に蘇州事を代行させた。
  • 夏五月、潤州刺史の阮結が没し、銭鏐は成及を代えた。
  • 景福元年夏四月乙酉、杭州に武勝軍を置き、銭鏐を防禦使とした。
  • 二年閏五月、武勝軍防禦使の銭鏐を蘇杭観察使とした。秋七月、鏐は民夫二十万と十三都の軍士を動員して杭州の羅城を築いた。周囲七十里だった。九月丁卯、銭鏐を鎮海節度使とした。

乾寧元年(894年・董昌の僭越)

  • 夏五月、鎮海節度使の銭鏐に同平章事を加えた。
  • 冬十二月、義勝節度使の董昌は苛酷な政治を行い、常賦のほかに数倍を課して貢献および中外への贈物に充てた。十日に一度、綱を発し、金一万両・銀五千鋌・越の綾一万五千匹、その他も同様の量で、卒五百人を使った。雨雪や風波で日程に遅れれば皆殺された。貢奉は天下第一で、そのため朝廷は忠と見て寵命が相次ぎ、官は司徒・同平章事、爵は隴西郡王に至った。
  • 昌は越州に生祠を建て、規模はすべて禹廟と同じにし、民間で祈願する者は禹廟へ行かず生祠へ行くよう命じた。
  • 昌が越王の位を求めたが朝廷は許さなかった。昌は不快がって「朝廷は私に背くつもりか。私は累年、貢献は数知れぬのに、越王一つを惜しむのか」と言った。おもねる者が「王が越王になられるより、越の帝になられてはいかがです」と言った。そこで民間では時世が変わるという流言が飛び、人々が競って門前に押し寄せて昌に帝位に即くよう騒いだ。昌は大喜びして人を送って謝し、「天の時がまだ来ておらぬ。時が来れば自らそうする」と言った。僚佐の呉瑶、都虞候の李暢之らも皆これを勧めた。
  • 吏民で謡・讖・符瑞を献じる者は数知れず、初めは銭数百緡を賞したが、献じる者が日ごとに増えたので五百、三百と減らしていった。昌は「讖に『兎子、金牀に上る』とある。これは私のことだ。私が生まれた年は卯、来年もまた卯、二月の卯の日、卯の刻こそ私が帝を称する時だ」と言った。

乾寧二年(895年・大越羅平国)

  • 春正月、董昌は称帝しようとして将佐を集めて議した。節度副使の黄碣が述べた。「今、唐室は衰えていますが、天も人もまだ見放しておりません。斉の桓公も晋の文公も周室を翼戴して覇業を成しました。大王は畎畝から起こって朝廷の厚恩を受け、位は将相に至り、富貴は極まっております。それを一朝にして滅族の計を立てるとは何事か。碣は死んで忠臣となろうとも、生きて叛逆にはなりません」。
  • 昌は怒り、衆を惑わすとして斬り、その首を厠に投げ入れて罵った。「奴賊め、私に背いた。この聖明の世に三公も待てず、先に死を求めたか」。その一家八十人も殺して同じ穴に埋めた。
  • 会稽令の呉鐐に問うと、「大王は真の諸侯となって子孫に伝えようとせず、天子を僭称して滅亡を招こうとされるのですか」と答えた。昌はこれも族滅した。
  • 山陰令の張遜に「そなたには良い政績がある。私はよく知っている。私が帝となったら御史台を掌らせよう」と言うと、遜は「大王は石鏡鎮から起こって浙東に節を建て、栄貴は二十年近くに及びます。なぜ苦しんで李錡や劉闢の真似をされるのか。浙東は海の隅の僻地で、管内に六州あっても、大王が帝を称せば彼らは必ず従いません。ただ孤城を守って天下の笑い者になるだけです」と言った。昌はこれも殺し、人に「この三人がいなくなれば、もう誰も私に逆らわぬ」と言った。
  • 二月辛卯、昌は袞冕を着けて子城の門楼に登って皇帝に即位し、瑞物をことごとく庭に並べて衆に示した。
  • これに先立ち、咸通の末に呉越の間で「山中に四つ目三本足の大鳥があり、鳴き声は『羅平天冊』と言う。見た者は殃いがある」という流言があり、民間ではその像を描いて祀る者が多かった。昌は僭号にあたり「これぞわが鸑鷟だ」と言い、大越羅平国を自称して順天と改元し、城楼を「天冊の楼」と名づけ、臣下には自分を「聖人」と呼ばせた。
  • 前杭州刺史の李邈、前婺州刺史の蔣瓌、両浙塩鉄副使の杜逞、前屯田郎中の李瑜を宰相とし、呉瑶らを翰林学士、李暢之らを大将軍とした。
  • 昌は銭鏐に書を送り、仮に羅平国の位に即いたと告げ、鏐を両浙都指揮使とした。鏐は「門を閉ざして天子となり九族と百姓ともども塗炭に陥るより、門を開いて節度使となり終身の富貴を得るに如くはありません。今なら悔い改めるのに間に合います」と書き送ったが、昌は聞かなかった。
  • 鏐は三万を率いて越州城下に至り、迎恩門で昌に会って再拝して言った。「大王の位は将相を兼ねております。なぜ安きを捨てて危うきに就かれるのか。鏐が兵を率いてここへ来たのは、大王の改悛を待つためです。天子が将に命じて出師されたら、大王が自らを惜しまれずとも、郷里の士民に何の罪があって大王に従って族滅されねばならぬのか」。
  • 昌は恐れ、犒軍の銭二百万を届け、首謀者の呉瑶と巫覡数人を捕えて鏐に送り、天子の処分を待ちたいと請うた。鏐は兵を引き揚げてその旨を奏した。
  • 夏四月、朝廷は董昌に貢輸の勤めがあり、今回の行いは心の病によるものらしいとして、詔でその罪を赦して田里に帰らせることとした。
  • 銭鏐は董昌の僭逆は赦せないと上表し、本道の兵で討つことを請うた。楊行密は使者を銭鏐のもとへ送って「董昌はすでに改めた。赦すべきだ」と言い、また使者を昌のもとへ送って朝貢を促した。
  • 五月、詔で董昌の官爵を削り、銭鏐に討たせた。六月庚寅、銭鏐を浙東招討使とし、鏐はあらためて兵を出して董昌を撃った。
  • 秋九月、董昌が楊行密に救援を求め、行密は泗州防禦使の臺濛に蘇州を攻めさせて救い、あわせて「昌は罪を認め職貢を修めたいと願っております。官爵を復されたい」と上表し、また銭鏐に「昌は狂疾で自立したが、すでに兵諫を畏れて同悪の者を捕えて送った。あらためて伐つべきではない」と書き送った。
  • 冬十月、楊行密は寧国節度使の田頵と潤州団練使の安仁義に杭州の鎮戍を攻めさせて董昌を救い、昌は湖州の将・徐淑に淮南の将・魏約と合わせて嘉興を囲ませた。銭鏐は武勇都指揮使の顧全武を送って嘉興を救わせ、烏墩・光福の二寨を破った。淮南の将・柯厚は蘇州の水柵を破った。全武は余姚の人である。
  • 十二月、鎮海節度使の銭鏐に侍中を兼ねさせた。

乾寧三年(896年・董昌の滅亡)

  • 春正月辛未、安仁義が舟師で湖州に至り、渡江して董昌に応じようとした。銭鏐は武勇都指揮使の顧全武と都知兵馬使の許再思に西陵を守らせ、仁義は渡れなかった。昌は将の湯臼に石城、袁邠に余姚を守らせた。
  • 二月戊辰、顧全武と許再思が石城で湯臼を破った。帝は楊行密の請いにより董昌を赦して官爵を復したが、銭鏐は従わなかった。
  • 三月己酉、顧全武らが余姚を攻め、明州刺史の黄晟が兵を送って助けた。董昌は将の徐章を送って余姚を救わせたが、全武が撃って捕えた。
  • 夏四月、淮南の兵と鎮海の兵が黄天蕩で戦って鎮海の兵は不利となり、楊行密はそのまま蘇州を囲んだ。
  • 董昌は人を送って銭鏐の兵を偵察させたが、強盛だと言う者はそのたび怒って斬り、兵が疲れて食も尽きたと言えば賞した。
  • 戊寅、袁邠が余姚を挙げて鏐に降り、顧全武と許再思が越州城下まで進んだ。五月、昌は出戦して敗れ、城に籠って守った。全武らが包囲すると、昌は初めて恐れて帝号を捨て、節度使を称した。
  • 癸未、蘇州の常熟鎮使・陸郢が州城を挙げて楊行密に応じ、刺史の成及を捕虜とした。銭鏐は蘇州陥落を聞いて急ぎ顧全武を召し、西陵へ向かって行密に備えさせようとした。全武は「越州は賊の根本です。落ちかけているのに、なぜ棄てるのですか。先に越州を取り、あとで蘇州を回復されたい」と言い、鏐は従った。
  • 甲午の夜、顧全武が越州を急攻し、乙未の朝に外郭を落とした。董昌はなお牙城に拠って防いだ。戊戌、鏐は昌の旧将・駱団を送り、「詔を奉じて大王を致仕させ臨安へ帰らせる」と偽らせた。昌は牌と印を渡して清道坊へ移り住んだ。己亥、全武は武勇都監使の呉璋に舟で昌を杭州へ運ばせ、小江の南で斬り、その一家三百余人、宰相の李邈・蔣瓌以下百余人も殺した。
  • 昌は城を囲まれている間も貪欲さを増し、民間の銭帛を戸ごとに割り当てて取り立て、戦士の糧を減らしていた。城が破れると、庫には金帛や雑貨が五百室分、倉には糧三百万斛があった。銭鏐は昌の首を京師へ送り、金帛を散じて将士に賞し、倉を開いて貧民を賑わした。
  • 八月、銭鏐に中書令を兼ねさせた。甲寅、門下侍郎の王摶を威勝節度使に充てた。
  • 冬十月、銭鏐は両浙の吏民に上表させて自分に浙東を兼領させるよう請わせ、朝廷はやむなく王摶をあらためて吏部尚書・同平章事とし、鏐を鎮海・威勝両軍節度使とした。丙子、威勝を鎮東軍と改めた。
  • 十一月、淮南の将・安仁義が婺州を攻めた。

乾寧四年〜光化三年(897-900年・淮南との攻防)

  • 四年春正月、銭鏐は行軍司馬の杜稜に婺州を救わせ、安仁義は兵を移して睦州を攻めたが落とせず引き揚げた。
  • 夏四月辛亥、銭鏐は顧全武らに三千を率いさせて海路から嘉興を救わせ、己未、城下に至って淮南の兵を大破した。癸亥、両浙の将・顧全武らが淮南の十八営を破り、淮南の将士である魏約ら三千人を捕虜とした。淮南の将・田頵が駅亭埭に屯すると、両浙の兵が勝ちに乗じて追い、甲戌、頵は湖州から逃げ帰り、両浙の兵が追って破り、頵の衆は千余人が死んだ。
  • 六月己酉、銭鏐は越州へ行って鎮東の節鉞を受けた。秋七月庚戌、杭州へ戻り、顧全武を送って蘇州を取らせた。乙未に松江、戊戌に無錫、辛丑に常熟・華亭を落とした。
  • 九月、湖州刺史の李彦徽が州を挙げて楊行密に付こうとしたが衆が従わず、彦徽は広陵へ逃げ、都指揮使の沈攸が州を挙げて銭鏐に帰した。
  • 光化元年春正月、銭鏐は鎮海軍を杭州へ移すことを請い、認められた。
  • 三月、淮南の将・周本が蘇州を救おうとしたが、両浙の将・顧全武が撃破した。淮南の将・秦裴は三千の兵で崑山を落として戍った。
  • 秋九月、顧全武が蘇州を攻め、城中も援兵も食が尽きた。甲申、淮南が任じた蘇州刺史の臺濛は城を棄てて逃げ、援兵も逃げた。全武は蘇州を落とし、望亭で周本らを追って破った。ただ秦裴が守る崑山だけが落ちなかった。
  • 全武は一万余を率いて攻めた。裴はたびたび出戦し、病者に甲を着せて矛を持たせ、壮健な者に弓弩を引かせたので、全武はそのたび退いた。全武が檄を送って降伏を促すと、裴は函を封じて恭順を伝えると言ってきた。全武はかつて僧だった。喜んで諸将を集めて函を開くと、中は仏経一巻だった。全武は大いに恥じて「裴は死を恐れておらぬ。私をからかう余裕さえあるのか」と言い、兵を増やして城を攻め、水を引いて灌いだ。城は壊れ食も尽き、裴はようやく降った。
  • 銭鏐は千人分の膳を用意して待ったが、出てきた痩せ衰えた兵は百人に満たなかった。鏐が怒って「これほど手薄でありながら、なぜ長く抗戦できたのか」と言うと、「裴は義として楊公に背けません。今は力尽きて降っただけで、心から降ったのではありません」と答えた。鏐はその言葉を良しとし、顧全武も赦すよう勧め、鏐は従った。時の人は全武を長者と称えた。
  • 冬閏十月、銭鏐は将の曹圭を蘇州制置使とし、王球を送って婺州を攻めさせた。十一月、衢州刺史の陳岌が楊行密に降を請い、銭鏐は顧全武に討たせた。十二月、楊行密が成及らを両浙へ帰して魏約らと交換したいと申し入れ、銭鏐は許した。
  • 二年春三月、婺州刺史の王壇が両浙に囲まれて宣歙観察使の田頵に救援を求め、夏四月、頵は行営都指揮使の康儒らを送って救わせた。五月庚戌、康儒らが龍丘で両浙の兵を破ってその将・王球を捕え、そのまま婺州を取った。
  • 三年春正月、宣州の将・康儒が睦州を攻め、銭鏐は従弟の銶に防がせた。秋八月、康儒は食が尽きて清渓から逃げ帰った。

天復元年〜二年(901-902年・李神福の来襲と徐綰の乱)

  • 元年夏五月己酉、鎮海・鎮東節度使の銭鏐に守侍中を加えた。
  • 秋八月、「銭鏐が盗賊に殺された」と楊行密に告げる者があり、行密は歩軍都指揮使の李神福らに兵を率いさせて杭州を取らせた。両浙の将・顧全武らは八つの寨を連ねて防いだ。
  • 李神福と顧全武が長く対峙した。神福は杭州の捕虜を自分の寝所に出入りさせ、諸将に「杭州の兵はなお強い。わが軍はひとまず夜に引き揚げよう」と言った。捕虜は逃げて全武に告げたが、神福は追わせなかった。日暮れに弱兵を先に行かせ、自ら殿を務め、行営都将の呂師造に青山の下に兵を伏せさせた。全武はかねて神福を軽んじており、兵を出して追った。神福と師造が挟撃して大破し、五千級を斬り、全武を生け捕った。銭鏐はこれを聞いて驚き泣いて「わが良将を失った」と言った。神福は臨安へ進攻し、両浙の将・秦昶が三千の衆を率いて降った。
  • 十二月、李神福は銭鏐が確かに死んでいないと知り、しかも臨安の城は堅くて長く攻めても落ちないので帰ろうとしたが、鏐に待ち伏せされることを恐れた。そこで人を送って鏐の祖先の墓を守衛させ樵採を禁じ、また顧全武に家信を通じさせた。鏐が使者を送って謝すると、神福は要路に多くの旗を立てて空の寨を作った。鏐は淮南の大軍が来たと思って和を請い、神福はその犒いと贈物を受けて帰った。
  • 二年夏四月、楊行密が顧全武を杭州へ帰して秦裴と交換し、銭鏐は大喜びして裴を帰した。五月、鎮海・鎮東節度使・彭城王の銭鏐の爵を越王に進めた。
  • はじめ孫儒が死ぬとその士卒の多くが浙西へ逃げ、銭鏐はその驍悍を愛して中軍とし「武勇都」と号した。行軍司馬の杜稜が「狼子の野心です。いずれ必ず深い患いとなります。土地の者に代えられたい」と諫めたが、従わなかった。
  • 鏐が衣錦軍へ行き、武勇右都指揮使の徐綰に衆を率いて溝洫を掘らせた。鎮海節度副使の成及が士卒の怨言を聞いて鏐に労役の中止を請うたが、従わなかった。
  • 丙戌、鏐が諸将を饗すると、綰は席上で鏐を殺そうと謀ったが果たせず、病と称して先に退出した。鏐は怪しんだ。丁亥、綰に部下を率いて先に杭州へ帰るよう命じたところ、外城に至ると兵を放って焼き掠めた。武勇左都指揮使の許再思が出迎えの兵とともに合流し、進んで牙城に迫った。鏐の子・伝瑛が三城都指揮使の馬綽らと門を閉じて防ぎ、牙将の潘長が綰を撃つと、綰は退いて龍興寺に屯した。
  • 鏐は帰途、龍泉で変を聞き、急ぎ城北まで駆けつけ、成及に鏐の旗鼓を掲げさせて綰と戦わせた。鏐自身は微服で小舟に乗り、夜に牙城の東北隅に至って城を越えて入った。宿直の兵が鼓に寄りかかって寝ていたので、鏐は自ら斬った。城中はここで鏐の到着を知った。
  • 武安都指揮使の杜建徽が新城から救援に入った。徐綰が木を積んで北門を焼こうとすると、建徽はその木をすべて焼いた。建徽は杜稜の子である。湖州刺史の高彦は難を聞いて子の渭に兵を率いて救援させたが、霊隠山まで来たところで綰の伏兵に殺された。
  • はじめ鏐が杭州の羅城を築いたとき、僚佐に「十歩ごとに楼を置けば固められよう」と言った。掌書記の羅隠(余杭の人)が「楼はすべて内向きにするに越したことはありません」と言った。ここに至って、人々は隠の言が的中したと言った。
  • 九月、銭鏐に渡江して東の越州を保ち徐綰・許再思の難を避けるよう勧める者があった。杜建徽は剣を按じて叱り、「事が成らぬなら共にここで死ぬまで。どうして東へ渡れましょう」と言った。
  • 鏐は徐綰らが越州を占拠することを恐れ、大将の顧全武に兵を率いて戍らせようとした。全武は「越州へ行くには及びません。広陵へ行かれるべきです」と言った。鏐が理由を問うと、「綰らが田頵を招こうとしていると聞きます。田頵が来て淮南が助ければ敵しがたい」と答えた。建徽は「孫儒の難のとき、王は楊公に恩を施されました。今こそ告げに行けば報いがありましょう」と言った。
  • 鏐は全武に楊行密へ急を告げさせた。全武は「ただ行っても益がありません。王子を人質にいただきたい」と言い、鏐は子の伝璙を微服させて全武の僕とし、ともに広陵へ向かわせ、あわせて行密に婚を求めさせた。潤州団練使の安仁義のもとを通ったとき、仁義は伝璙の清らかな美しさを愛して僕十人と交換しようとしたが、全武は夜半に門番に賄賂を贈って逃げ去った。
  • 綰らは果たして田頵を招き、頵は兵を率いて赴いた。先に腹心の吏・何饒を送って鏐に「大王は東の越州へ行き、府廨を空けてお待ちいただきたい。士卒を殺すには及びません」と伝えさせた。鏐は「軍中の叛乱などどこにでもある。公は節帥でありながら賊を助けて逆をなすのか。戦うなら早く戦え。大言は無用」と答えた。
  • 頵は塁を築いて往来の道を絶った。鏐は憂え、その地を奪える者に州を賞すると募った。衢州制置使の陳璋が三百の兵で城を出て奮撃し、その地を奪ったので、鏐はただちに衢州刺史とした。
  • 顧全武は広陵に至って楊行密に「田頵が志を得れば必ず王の患いとなります」と説いた。王が頵を召し戻すなら、銭王は子の伝璙を人質とし、あわせて婚を求めると伝え、行密は許して娘を伝璙に嫁がせた。
  • 冬十一月、田頵が杭州を急攻し、あわせて舟を用意して西陵から渡江しようとしたが、銭鏐は将の盛造・朱郁を送って撃破した。
  • 十二月、楊行密が人を送って田頵を召し、「帰らねば人を送って宣州の鎮を代えさせる」と言った。庚辰、頵は帰るにあたり、銭鏐から犒軍の銭二十万緡を徴し、あわせて鏐の子を人質に求め、娘を嫁がせようとした。
  • 鏐が諸子に「誰が田氏の婿になれるか」と問うと誰も答えない。鏐が幼子の伝球を送ろうとしたが伝球が承知しないので、鏐は怒って殺そうとした。次子の伝瓘が行きたいと申し出た。呉夫人が泣いて「どうしてわが子を虎口に置くのか」と言うと、伝瓘は「国家の難を和らげるのに、どうして身を惜しめましょう」と言い、再拝して出た。鏐は泣いて送り、伝瓘は数人を連れて北門から縄で降りた。頵は徐綰・許再思とともに宣州へ帰った。
  • 鏐は伝球から内牙兵の印を取り上げた。越州客軍指揮使の張洪は徐綰の一党であることから自ら疑い、歩兵三百を率いて衢州へ逃げ、刺史の陳璋が受け入れた。温州の将・丁章が刺史の朱敖を追い出し、敖は福州へ逃げ、章が温州に拠った。田頵が使者を送って招いたとき、その道が衢州を通ったが、陳璋は往復を黙認した。鏐はこれで璋を恨んだ。
  • 三年秋七月、睦州刺史の陳詢が銭鏐に叛いて蘭渓を攻めた。鏐は指揮使の方永珍に撃たせた。武安都指揮使の杜建徽は詢と姻戚だったので鏐は疑ったが、建徽は弁解しなかった。折しも詢の腹心の吏が逃げてきて、建徽が詢に送った書が手に入ったが、いずれも勧告と戒めの言葉だったので、鏐はようやく喜んだ。建徽の従兄・建思が「建徽は私かに兵器を蓄えて乱を謀っている」と讒言し、鏐が人をやって捜索させると、建徽はちょうど食事中で、使者が寝所まで踏み込んでも顧みなかった。鏐はこれでいっそう親しみ重んじた。
  • 冬十月、田頵が楊行密に叛き、行密が銭鏐に出兵を求めた。鏐は方永珍を潤州、従弟の鎰を宣州に屯させ、また指揮使の楊習に睦州を攻めさせた。十一月、田頵が敗れ、銭伝瓘が杭州へ帰った。

天祐元年〜三年(904-906年・呉王・淮南との角逐)

  • 元年春三月、楊行密が銭伝璙とその妻および顧全武を銭塘へ帰した。
  • 夏四月、鎮海・鎮東節度使・越王の銭鏐が呉越王への封を求めたが朝廷は許さず、朱全忠が執政に取りなして呉王に改封した。
  • 冬十一月、銭鏐は密かに衢州羅城使の葉譲に刺史の陳璋を殺させようとしたが露見し、十二月、璋は譲を斬って叛き、楊行密に降った。
  • 昭宣帝天祐二年春正月、両浙の兵が睦州で陳詢を囲み、楊行密は西南招討使の陶雅に兵を率いさせて救わせた。軍中が夜に騒ぎ、士卒の多くが塁を越えて逃げた。左右と裨将の韓球が駆けつけて告げても雅は平然と寝たまま応じず、まもなく自ずと収まり、逃げた者も皆戻った。銭鏐が従弟の鎰と指揮使の顧全武・王球を送って防いだが、雅に敗れ、鎰と球は捕えられた。
  • 夏四月、淮南の将・陶雅が衢州・睦州の兵と合わせて婺州を攻め、銭鏐は弟の鏢に救わせた。秋八月、鏐は方永珍を送って婺州を救わせた。
  • 九月、淮南の将・陶雅と陳璋が婺州を落として刺史の沈夏を捕えて帰った。楊行密は雅を江南都招討使・歙婺衢睦観察使、璋を衢婺副招討使とした。璋が暨陽を攻めると両浙の将・方習が破り、習は進んで婺州を攻めた。十二月、陳詢は睦州を守りきれず広陵へ逃げ、淮南招討使の陶雅が入って拠った。
  • 三年春正月、陶雅が兵を率いて歙州へ帰り、銭鏐は睦州を奪回した。庚辰、銭鏐は睦州へ行った。陳璋は陶雅の帰還を聞いて婺州から衢州へ退いて守り、両浙の将・方永珍らが婺州を取って衢州へ進攻した。
  • 秋八月、両浙が衢州を囲むと、衢州刺史の陳璋は淮南に急を告げた。楊渥は左廂馬歩都虞候の周本に兵を率いさせて璋を迎えさせた。本が衢州に至ると浙人は囲みを解いて城下に陣した。璋は衆を率いて本に帰し、両浙の兵は衢州を取った。
  • 呂師造が「浙人は我らに近いのに動かない。侮っているのです。撃ちましょう」と言ったが、本は「私は命を受けて陳使君を迎えに来た。今それは果たした。なぜまた戦うのか。彼には必ず我らを待ち構える備えがある」と言い、兵を引いて自ら殿を務めた。浙人が付け狙うと、本は道中に伏兵を置いて大破した。
  • 冬十二月乙酉、銭鏐が行軍司馬の王景仁を推薦し、詔で景仁に寧国節度使を領させた。

後梁太祖開平元年〜四年(907-910年・呉越国の成立)

  • 元年春三月、鎮海・鎮東節度使・呉王の銭鏐は子の伝璙・伝瓘を送って温州の盧佶を討たせた。
  • 夏四月、盧佶は銭伝璙らの来襲を聞き、水軍で青澳に防いだ。銭伝瓘は「佶の精兵はすべてここにある。戦ってはならぬ」と言い、安固から舟を捨てて間道から温州を襲った。戊午、温州は潰え、佶を捕えて斬った。呉王鏐は都監使の呉璋を温州制置使とし、伝璙らに兵を移して処州の盧約を討たせた。
  • 鎮海節度判官の羅隠が呉王鏐に挙兵して梁を討つよう説き、「たとえ成功せずとも退いて杭州・越州を保ち、自ら東帝となれます。どうして腕を組んで賊に仕え、永久の恥をお受けになるのか」と言った。鏐ははじめ、隠が唐で不遇だったので怨みがあるのだろうと思っていたが、その言を聞いて、用いられはしなかったものの、内心その義を高しとした。
  • 五月己卯、呉王の銭鏐を呉越王とした。盧約が処州を挙げて呉越に降った。秋八月辛亥、呉越王鏐に淮南節度使・本道招討制置使を兼ねさせた。
  • 二年秋八月、呉越王の銭鏐は寧国節度使の王景仁に表を奉じて大梁へ行かせ、淮南攻略の策を陳べさせた。
  • 淮南は周本・呂師造を送って呉越を撃たせ、九月、蘇州を囲んだ。呉越の将・張仁保が常州の東洲を攻め落としたが、淮南の陳璋が柴再用らを率いて東洲を奪回した。
  • 三年夏四月、淮南の兵が蘇州を囲み、洞屋を押し立てて城を攻めた。呉越の将・孫琰(臨海の人)は竿の先に輪を置き、綱を垂らして錐を投げて洞屋を剥がし、攻める者を丸裸にした。礮が来ると網を張って防ぎ、淮南は落とせなかった。呉越王鏐は牙内指揮使の銭鏢、行軍副使の杜建徽らに兵を率いさせて救わせた。
  • 蘇州には城中へ通じる水路があり、淮南は網を張って鈴をつけ水中に垂らしたので、魚や鼈が通っても分かった。呉越の遊弈都虞候・司馬福は密かに入城しようとして、わざと竿で網に触れた。敵は鈴の音を聞いて網を上げ、その隙に福は通り抜けた。水中に三日いてようやく入城でき、これで城中の号令が援兵と呼応し、敵は神業と思った。
  • 呉越王鏐はかつて府の園を巡って園卒の陸仁章が植木に才があるのを見て覚えていた。蘇州が囲まれると仁章に城中へ音信を通じさせ、果たして返報を得て戻った。鏐は孫たちと同じように育て、両府軍糧都監使まで累進させ、ついにその働きを得た。仁章は睦州の人である。
  • 辛亥、呉越の兵が内外で挟撃して淮南の兵を大破し、その将・何朗ら三十余人を捕え、戦艦二百艘を奪った。周本は夜に逃げたが、皇天蕩でまた追って破った。鍾泰章が精兵二百で殿を務め、菰や蔣の茂みに多くの旗を立てたので、追兵は進めずに引き返した。
  • 冬十月、湖州刺史の高澧が叛いて淮南に付き、兵を挙げて義和・臨平の鎮を焼いた。呉越王鏐は指揮使の銭鏢に討たせた。
  • 四年春二月、高澧が呉に救援を求め、呉の常州刺史・李簡らが兵を率いて応じた。湖州の将・盛師友と沈行思が城を閉じて入れず、澧は麾下五千を率いて呉へ逃げた。三月癸巳、呉越王鏐は湖州を巡って銭鏢を刺史とした。
  • 秋八月、呉越王鏐は捍海の石塘を築き、杭州の城を広げ、臺館を大いに修めた。これにより銭塘の富庶は東南一となった。

乾化元年〜貞明六年(911-920年・呉との戦いと和議)

  • 乾化元年、湖州刺史の銭鏢は酒に酔って人を殺し、呉越王鏐に罪せられることを恐れ、冬十月辛亥朔、都監の潘長と推官の鍾安徳を殺して呉へ逃げた。
  • 二年秋七月甲寅、呉越王鏐に尚父を加えた。
  • 均王乾化三年春三月、呉の行営招討使・李濤が二万を率いて千秋嶺から出て呉越の衣錦軍を攻めた。呉越王鏐は子で湖州刺史の伝瓘を北面応援都指揮使として救わせ、睦州刺史の伝璙を招討収復都指揮使として水軍で呉の東洲を攻めさせて兵勢を分散させた。
  • 夏四月、千秋嶺の道は険しく狭かったので、銭伝瓘は人に木を伐らせて呉軍の退路を断って撃ち、呉軍は大敗し、李濤と士卒三千余人を捕虜として帰った。
  • 五月、呉は宣州副指揮使の花虔に兵を率いさせ広徳鎮遏使の渦信と合わせて広徳に屯させ、また衣錦軍を侵そうとしたが、呉越の銭伝瓘が進んで攻め、六月、広徳を落として花虔と渦信を捕えて帰った。
  • 九月、呉越王鏐は子の伝瓘・伝璙および大同節度使の伝瑛を送って呉の常州を攻めさせ、潘葑に陣した。徐温は「浙人は軽率で臆病だ」と言い、諸将を率いて倍の速さで赴き、無錫に至った。黒雲都将の陳祐が温に「彼らは我らが遠来で疲れてまだ戦えぬと思っております。私の部隊で無備を突かせてください」と言い、別道から敵の背後に出た。温が大軍で正面に当たって挟撃し、呉越は大敗して多数を捕殺された。
  • 貞明二年夏五月、呉越王鏐は浙西安撫判官の皮光業を送り、建州・汀州・虔州・郴州・潭州・岳州・荊南の道から入貢させた。
  • 秋七月、帝は呉越王鏐の貢献の勤めを嘉し、壬戌、鏐に諸道兵馬元帥を加えた。朝議の多くは「鏐の入貢は交易の利のためだ。過分に名器を与えるべきでない」と言い、翰林学士の竇夢徴は麻の詔を執って泣き、蓬莱尉に貶された。
  • 三年冬十月己亥、呉越王鏐に天下兵馬元帥を加えた。四年春三月、呉越王鏐は初めて元帥府を立てて官属を置いた。
  • 五年春三月、詔で呉越王鏐に大挙して淮南を討たせた。鏐は節度副大使の伝瓘を諸軍都指揮使として戦艦五百艘を率いさせ、東洲から呉を撃たせた。呉は舒州刺史の彭彦章と裨将の陳汾を送って防がせた。
  • 四月、銭伝瓘は彭彦章と遭遇するにあたり、各船に灰・豆・砂を積ませた。乙巳、浪山江で戦った。呉の船が風に乗って進むと、伝瓘は舟を避けさせ、通り過ぎてから後ろに従った。呉が船を返して戦うと、伝瓘は風下から灰を撒かせ、呉の人は目を開けられなくなった。舷が接すると、伝瓘は自船に砂を撒き、呉の船に豆を撒いた。豆は戦いの血に濡れ、呉の人が踏むと皆滑って倒れた。伝瓘はそこで火を放って呉の船を焼き、呉の兵は大敗した。
  • 彦章はきわめて力戦し、兵器が尽きると木で戦い、身に数十の傷を負った。陳汾は兵を動かさず救わなかった。彦章は免れぬと悟って自殺した。伝瓘は呉の裨将七十人を捕虜とし、千余級を斬り、戦艦四百艘を焼いた。呉は汾を誅して家財を没収し、その半分を彦章の家に賜り、妻子を終身養った。
  • 秋七月、呉越王鏐は銭伝瓘に三万を率いさせて呉の常州を攻めさせた。呉の都招討使・徐温は諸将を率いて防ぎ、右雄武統軍の陳璋は水軍で海門を下ってその背後に出た。
  • 壬申、無錫で戦った。折しも温は熱病で軍を治められず、呉越は中軍を攻めて飛矢が雨のように集まった。鎮海節度判官の陳彦謙は中軍の旗鼓を左へ移し、温に似た顔立ちの者を選んで甲冑を着せて軍事を号令させ、温はしばし休息できた。まもなく病がやや和らいで出て防いだ。
  • 当時、長く旱が続いて草は枯れていた。呉の人が風に乗じて火を放つと、呉越の兵は乱れて大敗し、将の何逢と呉建が殺され、一万級を斬られた。伝瓘は逃げ、山南まで追われてまた敗れた。陳璋は香湾で呉越を破った。
  • 温は叛将の陳紹を生け捕った者に銭百万を賞すると募り、指揮使の崔彦章が捕えた。紹は勇があって謀も多かったので、温はあらためて兵を掌らせた。
  • はじめ錦衣の役のとき、呉の馬軍指揮の曹筠が叛いて呉越へ逃げた。徐温はその妻子を赦して厚遇し、密使を送って「そなたが志を得ずに去ったのは私の過ちだ。妻子のことは案ずるな」と伝えていた。この役で筠がまた呉へ逃げてくると、温は自ら「昔、筠の言を用いなかった三つの誤り」を数え上げ、筠の去来の罪は問わず、田宅を返して軍職に復した。筠は内心恥じて死んだ。
  • 知誥が歩卒二千を率いて呉越の旗と鎧を着け、敗走兵に紛れて東へ蘇州を襲いたいと請うたが、温は「そなたの策はまことに良い。だが私は今、兵を休めたい。そなたの言どおりにする余裕はない」と言った。
  • 諸将は皆「呉越が恃むのは舟です。今は大旱で水路が涸れています。天が滅ぼす好機。歩騎の勢いを尽くして一挙に滅ぼすべきです」と言った。温は嘆じて言った。「天下が離乱して久しく、民の困窮は極まっている。銭公も軽んじてよい相手ではない。兵を連ねて解かねば、かえって諸君の憂いとなろう。今、戦に勝ってこれを畏れさせ、兵を収めてこれを懐けさせ、両地の民をそれぞれ生業に安んじさせ、君臣が枕を高くできれば楽しいではないか。殺して何になる」。そのまま引き揚げた。
  • 呉越王鏐は何逢の馬を見て悲しみを抑えられなかった。だからこそ将士の心は付いた。寵姫の鄭氏の父が法を犯して死罪となり、左右が助命を請うと、鏐は「どうして一婦人のためにわが法を乱せようか」と言い、その娘を追い出して父を斬った。
  • 鏐は若いころから軍中にあって夜も寝ず、疲れ果てると丸太の小枕、あるいは大きな鈴を枕にし、熟睡すると傾いて目が覚めた。これを「警枕」と呼んだ。寝所に粉の盤を置き、記すべきことがあれば盤に書き、老いてもやめなかった。ぐっすり寝ているとき外に報告する者があれば、侍女に紙を鳴らさせるとすぐ目覚めた。時おり銅の丸を楼の塀の外へ弾いて宿直の者を警めた。かつてお忍びで夜に北の城門を叩いたところ、吏は「大王が来られても開けられません」と言って開けなかったので、他の門から入った。翌日、北門の吏を召して厚く賜った。
  • 秋八月、呉の徐温が使者を送り、呉王の書で無錫の捕虜を呉越へ返し、呉越王鏐も使者を送って呉に和を請うた。これ以後、呉は兵を休めて民を安んじ、三十余州の民が生業を楽しむこと二十余年に及んだ。呉王と徐温はたびたび呉越王鏐に書を送って自ら国に王たるよう勧めたが、鏐は従わなかった。
  • 龍徳元年春三月、呉が呉越王鏐の従弟で龍武統軍の鎰を銭塘へ帰し、鏐も呉の将・李濤を広陵へ帰した。徐温は濤を右雄武統軍とし、鏐は鎰を鎮海節度副使とした。

後唐莊宗同光元年〜三年(923-925年・呉越国王)

  • 元年春二月、梁主は兵部侍郎の崔協らを送って呉越王鏐を呉越国王に冊命した。丁卯、鏐は初めて建国し、儀衛と名称の多くは天子の制に倣った。居所を宮殿、府署を朝廷、管内への教令を制敕と呼び、将吏は皆臣を称した。ただ改元はせず、表疏の冒頭に「呉越国」と称して「軍」とは言わなかった。清海節度使兼侍中の伝瓘を鎮海・鎮東留後として軍府の事を総べさせ、百官を置き、丞相・侍郎・郎中・員外郎・客省などの使があった。
  • 冬十二月、呉越王鏐は行軍司馬の杜建徽を左丞相とした。
  • 二年冬十月、呉越王鏐が本朝への職貢を再開し、壬午、帝は梁の官爵に従って任命した。鏐は貢献を厚くし、あわせて権要に賄賂を贈って金印・玉冊を求め、詔で名を呼ばず「国王」と称することを求めた。有司は「故事では玉冊は天子のみが用い、王公は皆竹冊です。しかも四夷でなければ国王に封じた例はありません」と言ったが、帝はすべて鏐の意に曲げて従った。
  • 三年秋八月丁亥、吏部侍郎の李徳休らを遣わして呉越国王に玉冊・金印・紅袍・御衣を賜った。
  • 閏十二月、呉越王鏐は使者の沈瑫に書を持たせ、玉冊を受けて呉越国王に封じられたことを呉に告げた。呉の人は国名が自分と同じであるとして書を受け取らず、瑫を返し、あわせて国境で呉越の使者や商旅を通さぬよう戒めた。

明宗天成元年〜長興三年(926-932年・武肅王の死)

  • 天成元年春三月、呉越王鏐が病んで衣錦軍へ行き、鎮海・鎮東節度使留後の伝瓘に監国を命じた。呉の徐温が使者を送って見舞うと、左右は会わぬよう勧めたが、鏐は「温は陰険で狡猾だ。見舞いと称して実は私を探らせているのだ」と言い、無理に出て会った。温は果たして兵を集めて呉越を襲おうとしていたが、鏐の病が癒えたと聞いてやめた。鏐はまもなく銭塘へ帰った。
  • この年、呉越王鏐は中国の喪乱で朝命が通じないため宝正と改元した。のち中国と通じるようになると、これを憚って称さなくなった。
  • 三年秋八月、呉越王鏐は中子の伝瓘を嗣子に立てようとし、諸子に「それぞれ自分の功を言え。多い者を立てる」と言った。伝瓘の兄の伝璹・伝璙・伝璟はいずれも伝瓘を推した。そこで両鎮を伝瓘に授けるよう奏請し、閏月丁未、詔で伝瓘を鎮海・鎮東節度使とした。
  • 四年、呉越王鏐は国内にあって尊大に構え、朝廷の使者が意を曲げて仕えれば贈物は豊かだったが、そうでなければ礼遇は薄かった。かつて安重誨に書を送ったとき、辞も礼もかなり傲慢だった。
  • 帝は供奉官の烏昭遇と韓玫を呉越へ遣わした。昭遇と玫は不仲で、使いから帰ると玫は「昭遇は鏐に会って臣を称し拝舞し、鏐を殿下と呼び、私かに国事を鏐に告げました」と奏した。安重誨の奏で昭遇に死を賜った。
  • 癸巳、制で鏐を太師として致仕させ、その他の官爵はすべて削り、呉越の進奏官・使者・綱吏はすべて所在地で捕えて処罰させた。鏐は子の伝瓘らに上表して冤を訴えさせたが、いずれも取り上げられなかった。
  • 長興元年冬十月、銭鏐は朝廷の閩王冊命使・裴羽の帰路に託して表を上って自らを責め、子の伝瓘と将佐もたびたび鏐のために上表して訴えた。癸卯、敕で両浙の綱吏を自由にさせた。
  • 二年春三月乙酉、あらためて銭鏐を天下兵馬都元帥・尚父・呉越国王とし、監門上将軍の張籛を送って「先の致仕は安重誨が制を偽ったものだ」と諭させた。
  • 三年春三月、呉越の武粛王・銭鏐が病臥し、将吏に「私の病は治らぬ。子らは愚かで気弱だ。誰を帥とすべきか」と言った。衆は泣いて「両鎮令公は仁孝で功もあります。誰が慕わずにいましょう」と言った。鏐はそこで印と鍵をすべて出して伝瓘に授け、「将吏がそなたを推した。よく守れ」と言い、さらに「子孫は中国によく仕え、姓が易わったからといって大に事える礼を廃してはならぬ」と言った。庚戌、没した。八十一歳だった。
  • 伝瓘が兄弟と同じ幕で喪に服そうとすると、内牙指揮使の陸仁章が「令公は先王の覇業を継がれました。将吏が朝夕に伺候する以上、諸公子とは別の場所におられるべきです」と言い、主管者に別の幕を設けさせて伝瓘を扶けて入らせ、将吏に「今後は令公にのみ拝謁すること。諸公子の従者はみだりに入るな」と告げ、昼夜警衛して休まなかった。
  • 鏐の晩年、左右は皆伝瓘に付いたが、仁章だけはたびたび事に触れて逆らっていた。ここに至って伝瓘が労うと、仁章は「先王がご在位のとき、仁章は令公に仕えることを知りませんでした。今日、節を尽くすのも先王に仕えるのと同じことです」と言い、伝瓘は長く感嘆した。
  • 伝瓘は位を襲うと名を元瓘と改め、兄弟で「伝」の字を用いる者も皆「元」に改めた。遺命により国の儀を廃して藩鎮の法を用い、民の田で荒廃したものの租税を除き、処州刺史の曹仲達に政事を代行させ、択能院を置いて選挙と勤務評定を掌らせ、浙西営田副使の沈崧に領させた。
  • 内牙指揮使の劉仁杞(富陽の人)と陸仁章は長く実権を握っていた。仁章は剛直、仁杞は人の短所を暴くのを好み、いずれも衆に憎まれた。ある日、諸将がこぞって府門に来て誅殺を請うた。元瓘は甥の仁俊に「二将は先王に長く仕えてきた。私はその功を思っている。そなたらは私憤を晴らそうとして殺せというのか。私はそなたらの主だ。私の命に従うべきだ。さもなくば私は臨安へ帰って賢者に道を譲る」と諭させた。衆は恐れて退いた。そこで仁章を衢州刺史、仁杞を湖州刺史とした。内外から告発の上書があっても元瓘はすべて取り上げなかったので、将吏は睦んだ。
  • 秋七月己丑、鎮海・鎮東節度使の銭元瓘に守中書令を加えた。
  • 四年秋七月丁亥、銭元瓘に呉王の爵を賜った。元瓘は兄弟にきわめて厚く、兄で中呉建武節度使の元璙が蘇州から拝謁に来ると、家人の礼で接し、杯を捧げて長寿を祝い、「これは兄上の位です。それを小子が占めているのは兄上の賜物です」と言った。元璙は「先王が賢を択んで立てられたのです。君臣の位は定まりました。元璙は忠順を知るのみ」と言い、二人は向かい合って泣いた。
  • 潞王清泰元年春正月甲午、鎮海・鎮東節度使・呉王の元瓘を呉越王とした。

後晉天福二年〜六年(937-941年・文穆王の治世)

  • 二年春二月、呉越王元瓘の弟で順化節度使・同平章事の元珦が元瓘に罪を得て庶人に廃された。
  • はじめ呉越王鏐の末子・元㺷はたびたび軍功があり、鏐は兵仗を賜っていた。呉越王元瓘が立つと、元㺷は土客馬歩軍都指揮使・静江節度使兼中書令となり、恩を恃んで驕横になり、兵仗を数千まで増やし、国人の多くが付いた。
  • 元瓘は忌んで、人をやって兵仗を返上して温州の判官として出るよう仄めかしたが、元㺷は従わなかった。銅官廟の吏が「元㺷が腹心を送って神に祈り、呉越の江山を主らんことを求めた。また蠟丸を水路の穴から出入りさせ、兄の元珦と謀議している」と告げた。
  • 三月戊午、元瓘は使者を送って元㺷を宮中の宴に召し、到着すると左右が「元㺷が懐から刃を落とした」と称し、ただちに打ち殺し、あわせて元珦も殺した。元瓘は元珦・元㺷と通じた将吏を取り調べようとしたが、子の仁俊が「昔、光武が王郎に勝ち、曹公が袁紹を破ったとき、いずれも書簡を焼いて動揺した者を安んじました。今はこれに倣うべきです」と諫め、元瓘は従った。
  • 夏四月、呉越王元瓘は同光の故事どおり建国し、丙申、領内に赦を下し、子の弘僔を世子に立て、曹仲達・沈崧・皮光業を丞相、鎮海節度判官の休鼎に教令を掌らせた。
  • 十一月戊辰、詔で呉越王元瓘に天下兵馬副元帥を加え、呉越国王に進封した。
  • 四年秋八月己酉、呉越王元瓘を天下兵馬元帥とした。
  • 冬十月、呉越の恭穆夫人・馬氏が没した。夫人は雄武軍節度使・馬綽の娘である。はじめ武粛王鏐は内外に声妓を蓄えることを禁じており、文穆王元瓘は三十過ぎまで子がなかった。夫人が鏐に願い出ると、鏐は喜んで「わが家の祭祀はまことにそなたが主るものだ」と言い、元瓘に妾を納れることを許した。鹿氏が弘僔・弘倧を、許氏が弘佐を、呉氏が弘俶を生み、その他の妾が弘偡・弘億・弘儀・弘偓・弘仰・弘信を生んだ。夫人は皆を分け隔てなく慈しみ、いつも銀の鹿を帳の前に置き、子らをその上に座らせてあやした。
  • 五年夏四月甲子、呉越の孝献世子・弘僔が没した。冬十月丁酉、呉越王元瓘に天下兵馬都元帥・尚書令を加えた。
  • 六年秋七月、呉越の府署が焼け、宮室と府庫はほぼ焼き尽くされ、呉越王元瓘は驚き恐れて発狂した。
  • 八月、呉越の文穆王元瓘が病臥した。内都監使の章徳安が忠厚で大事を決断できると見て後事を託そうとし、「弘佐はまだ若い。宗人の年長者を択んで立てるべきだ」と語った。徳安は「弘佐は若くとも群下はその英敏に服しております。王はご心配なさいますな」と言い、王は「そなたがよく輔けてくれれば憂いはない」と言った。徳安は処州の人である。
  • 辛亥、元瓘が没した。はじめ内牙指揮使の戴惲は元瓘に親任されて軍事をすべて委ねられていた。瓘の養子・弘侑の乳母は惲の妻の親戚だった。「惲が弘侑を立てようと謀っている」と告げる者があり、徳安は喪を秘して発表せず、諸将と謀って幕の下に甲士を伏せ、壬子、惲が府に入ったところを捕えて殺し、弘侑を庶人に廃して孫姓に戻し、明州に幽閉した。
  • この日、将吏は元瓘の遺命により、制を承けて鎮海・鎮東節度副大使の弘佐を節度使とした。時に十四歳だった。九月庚申、弘佐が王位に即き、丞相の曹仲達に摂政させた。軍中が賜与が不公平だと言って武器を挙げて受け取らず、諸将も抑えられなかったが、仲達が自ら諭すと皆武器を置いて拝した。
  • 弘佐は温恭で書を好み士を礼遇し、自ら政務に励み、隠れた不正を暴いたので、人は欺けなかった。嘉禾を献じる者があったとき、弘佐は倉吏に「今の蓄えはどれほどか」と問い、「十年分です」と答えると、「では軍糧は足りている。わが民を寛くできる」と言い、領内の税を三年免除させた。

齊王開運二年〜後漢乾祐三年(945-950年・内訌と代替わり)

  • 開運二年冬十一月乙卯、呉越王弘佐が内都監使の杜昭達を誅し、己未、内牙上統軍使・明州刺史の闞璠を誅した。昭達は杜建徽の孫で、璠ともども財貨を好んだ。銭塘の富人・程昭悦が財貨で二人と結び、弘佐の側近に侍ることができた。
  • 昭悦は狡猾で佞だったが王は気に入り、寵遇は旧将を越えた。璠は不満で、昭悦はこれを知って璠のもとへ行って頓首謝罪した。璠は長々と責めたのち「私ははじめ、おまえを必ず殺そうと思っていた。今、悔い改めたのなら、私も水に流そう」と言った。昭悦は恐れて璠を除こうと謀った。
  • 璠は専横で強情、国人の憎む者が多く、王も憎んでいた。昭悦は璠を外へ出そうとしたが、覚られることを恐れ、私かに右統軍使の胡進思に「公と璠をそれぞれ本州の使に出そうと思う。そうすれば璠も疑うまい。よいか」と言い、進思は承知した。
  • そこで璠を明州刺史、進思を湖州刺史とした。璠は怒って「私を外へ出すのは私を棄てるのだ」と言った。進思は「老兵が大州を得るとは幸いだ。行かずに何とする」と言い、璠はようやく受けた。まもなく別の理由で進思は留められた。
  • 内外馬歩都統軍使の銭仁俊の母は杜昭達の叔母だった。昭悦はそれに乗じて「璠と昭達が仁俊を奉じて乱を起こそうと謀っている」と讒言し、獄に下して拷問で作り上げた。璠と昭達が誅されると仁俊の官を奪って東府に幽閉した。
  • こうして昭悦は闞・杜の一党を処断し、権位が自分と並ぶ者や気に入らぬ者を誅殺・追放すること百余人に及び、国人は恐れて横目で見るばかりだった。胡進思は重厚で寡黙だったので、昭悦は愚鈍と見て一人だけ残した。
  • 昭悦は仁俊の旧吏・慎温其を捕えて仁俊の罪を証言させようとし、拷問を尽くしたが、温其は堅く守って屈しなかった。弘佐はこれを嘉して国官に抜擢した。温其は衢州の人である。
  • 十二月、弘佐に東南面兵馬都元帥を加えた。
  • 後漢高祖天福十二年、呉越の内都監・程昭悦が多くの賓客を集め兵器を蓄えたので、二月、呉越王弘佐は斬り、銭仁俊を釈放した。
  • 夏六月、忠献王弘佐が没し、遺令で弘倧を鎮東節度使とした。丙寅、弘倧が位を襲いだ。秋七月、呉越王弘倧は弟の弘俶に相府の事を同参させた。八月、制で銭弘倧を鎮海・鎮東節度使兼中書令・呉越王とした。
  • 十一月、呉越王弘倧が水軍を大閲し、賞賜は従来の倍だった。胡進思が強く諫めると、弘倧は怒って筆を水に投げ「わが財は士卒と共にするもの。どうして多少の限りがあろう」と言った。
  • 呉越王弘倧は剛毅厳格な性質で、忠献王弘佐のとき諸将を放任して政が自分から出ていなかったことを憤り、位を襲ぐと杭州・越州で法を侮った吏三人を誅した。内牙統軍使の胡進思は擁立の功を恃んで政事に干渉し、弘倧は憎んで一州を授けようとしたが、進思は承知しなかった。進思が議論を出すたび弘倧はたびたび面と向かって退けた。進思は家に帰って忠献王の位牌を設け、髪を振り乱して慟哭した。
  • 民に牛を殺した者があり、吏が調べて「その者が市で売った肉は千斤近い」と述べた。弘倧が進思に「牛は大きくても肉はどれほどか」と問うと、「三百斤を超えません」と答えた。弘倧は「では吏の妄言だ」と言ってその罪を調べさせ、進思は拝して賀した。翌日、弘倧が「公はなぜそんなに詳しいのか」と言うと、進思は畏まって「臣は昔、従軍する前はこれを生業としておりました」と答えた。進思は弘倧が自分の前身を知っていて辱めたのだと思い、いっそう恨み怒った。
  • 進思が建議して李孺贇を福州へ帰したが、孺贇が叛くと弘倧は進思を責め、進思はいよいよ落ち着かなくなった。
  • 弘倧は内牙指揮使の何承訓と進思を追い出す謀を立て、また内都監使の水丘昭券にも諮った。昭券は「進思の党は盛んで制しがたい。容れるに如くはありません」と言い、弘倧は迷って決しなかった。承訓は事が漏れることを恐れ、かえってその謀を進思に告げた。
  • 十二月庚戌の晦、弘倧が夜に将吏と宴を開くと、進思は自分を図るのではと疑い、一党と乱を謀って親兵百人を率い、戎服で武器を持って天策堂で拝謁し、「老奴に罪はありません。王はなぜ図られるのか」と言った。弘倧が叱っても退かず、武器を持つ左右は皆憤った。弘倧は驚いて言葉も出せず義和院へ駆け込み、進思はその門を鎖した。
  • そのうえで王命と偽り、内外に「にわかに風疾を得られたので、同参相府事の弘俶に位を伝える」と告げた。進思は諸将を率いて私邸に弘俶を迎え、あわせて丞相の元徳昭を召した。徳昭は着いても簾の外に立って拝さず「新君にお目にかかってから」と言った。進思が急いで出て簾を掲げ、徳昭はようやく拝した。
  • 進思は弘倧の命と称し、制を承けて弘俶を鎮海・鎮東節度使兼侍中とした。弘俶は「わが兄を全うできるなら命を受けよう。さもなくば賢者に道を譲る」と言い、進思が承知して、弘俶は初めて政務を執った。
  • 進思は水丘昭券および進侍の鹿光鉉を殺した。光鉉は弘倧の舅である。進思の妻は「他人ならまだしも、昭券は君子です。どうして害されたのか」と言った。
  • 乾祐元年春正月壬戌、呉越王弘俶は前王の弘倧を衣錦軍の私邸へ移し、匡武都頭の薛温に親兵を率いて護衛させ、密かに「もし尋常でない処分があっても、いずれも私の意ではない。死をもって拒め」と戒めた。
  • 二月、呉越の内牙指揮使・何承訓が再び胡進思とその一党の誅殺を請うたが、呉越王弘俶はその反覆を憎み、かつ禍を招くことを恐れ、乙未、承訓を捕えて斬った。
  • 進思はたびたび廃王の弘倧を殺して後患を絶つよう請うたが、弘俶は許さなかった。進思は王命と偽って密かに薛温に害させようとしたが、温は「私が命を受けた日、そのような話はありませんでした。みだりには動けません」と言った。
  • 進思は夜に一党の方安ら二人を垣を越えて忍び込ませた。弘倧は戸を閉めて防ぎ、大声で救いを求めた。温はこれを聞いて衆を率いて入り、安らを庭で殺し、入って弘俶に告げた。弘俶は大いに驚いて「わが兄を全うできたのはそなたの力だ」と言った。
  • 弘俶は進思を畏れ忌んで意を曲げてへりくだり、進思も内心憂え恐れ、まもなく背に疽ができて死んだ。弘倧はこれで身を全うできた。
  • 八月乙未、銭弘俶を呉越国王とした。
  • 隠帝乾祐二年夏五月、呉越の内牙都指揮使・鈄淊は胡進思の一党だった。謀叛を告げる者があり、供述が丞相の弘億に及んだ。呉越王弘俶は追及しようとせず、淊を処州へ貶した。
  • 秋七月、呉越王弘俶は丞相の弘億に明州を判じさせた。冬十月壬午、呉越王弘俶に尚書令を加えた。
  • 呉越王弘俶は荒地を開墾できる民を募ってその税を取らなかったので、領内に棄てられた田はなくなった。ある者が漏れた丁を摘発して賦を増やすことを請い、あわせて自らその事に当たりたいと申し出たが、弘俶は国門で杖打ち、国人は皆喜んだ。
  • 三年冬十月丁未、呉越王弘俶を諸道兵馬元帥とした。

後周廣順元年〜顯德三年(951-956年)

  • 太祖広順元年夏四月、呉越王弘俶は廃王の弘倧を東府へ移し、宮室を築き園圃を整えて楽しませ、四季の供給もきわめて厚くした。
  • 顕徳元年秋七月丁丑、呉越王の銭弘俶に天下兵馬都元帥を加えた。
  • 世宗顕徳二年十二月、呉越王弘俶は元帥府判官の陳彦禧を入貢させ、帝は詔で弘俶に出兵して唐を撃つよう諭した。
  • 三年春二月、呉越王弘俶は兵を国境に屯させて周の命を待った。蘇州営田指揮使の陳満が丞相の呉程に「周の師が南征し、唐は国を挙げて驚き騒いでおります。常州は無備で容易に取れます」と言った。折しも唐主が江陰の吏民を撫安する詔を出しており、満は程に「周の詔書はすでに届いております」と告げた。程はそれを弘俶に伝え、急ぎ出兵してその策に従うよう請うた。
  • 丞相の元徳昭が「唐は大国です。軽んじてはなりません。我らが唐の境に入って周の師が来なければ、誰と力を合わせるのか。危うくならずにいられましょうか。ひとまず様子を見られたい」と言ったが、程は「時機を失ってはならぬ」と強く争い、弘俶はついに程の議に従った。
  • 癸未、程に衢州刺史の鮑修譲と中直都指揮使の羅晟を督させて常州へ向かわせた。程は将士に「元丞相は出師をお望みでなかった」と言い、将士は怒って徳昭を撃つという流言が飛んだ。弘俶は徳昭を府中に匿い、言い出した者を捕えさせ、「出師にあたって士卒が丞相を撃とうとするとは、まことに不祥だ」と嘆じた。
  • 癸巳、呉越王弘俶は上直都指揮使の路彦銖を送って宣州を攻めさせ、羅晟が戦艦を率いて江陰に屯した。唐の静海制置使・姚彦洪は兵民一万人を率いて呉越へ逃げた。