通鑑紀事本末郢王の簒弑(郢王簒弑)

後梁太祖朱全忠の子・郢王友珪が父を弑して帝位を奪い、一年足らずで滅びるまで。太祖が養子の友文に後を託そうとしたことに追い詰められた友珪は、韓勍と謀って寝殿で太祖を刺殺し、詔を偽って即位する。しかし宿将は服さず、朱友謙は晋に付いて離反。均王友貞が趙巌・袁象先・楊師厚と結んで龍驤軍を動かし、912年から913年、友珪は自殺して均王が大梁で即位した。

年表(3件)

後梁太祖乾化二年(912年・朱友珪の弑逆)

  • 帝の長子・郴王の友裕は早くに没していた。次いで養子の博王・友文は帝がとりわけ愛し、常に東都の留守を務めさせ建昌宮使を兼ねさせていた。次の郢王・友珪は母が亳州の営妓で、左右控鶴都指揮使だったが寵はなく、次の均王・友貞は東都馬歩都指揮使だった。
  • はじめ元貞張皇后は厳格で智略に富み、帝は敬い憚っていた。后が没すると帝は思うまま声色に耽り、諸子が外にあってもその妻を召して侍らせ、しばしば汚した。友文の妻・王氏は美しく、帝はとりわけ寵愛した。友文を太子としてはいなかったが、帝の意は常に彼にあり、友珪は不満だった。友珪に過ちがあって帝が打ち据えると、友珪はいよいよ不安になった。
  • 帝の病が重くなり、王氏に友文を東都から召させ、訣別して後事を託そうとした。友珪の妻・張氏も朝夕帝の側に侍っていてこれを知り、密かに友珪に「大家(陛下)は伝国の宝を王氏に託して東都へ持って行かせようとしています。我らの死は目前です」と告げた。夫婦は向き合って泣いた。左右のある者が「事が急なら計が生じるもの。なぜ図り直さぬのですか。時は失えません」と説いた。
  • 六月丁丑朔、帝は敬翔に命じて友珪を莱州刺史として即日赴任させることとした。宣旨は出たがまだ勅は下っていなかった。当時、左遷された者の多くは追って死を賜っていたので、友珪はいよいよ恐れた。
  • 戊寅、友珪は服を替えてお忍びで左龍虎軍へ行き、統軍の韓勍に会って事情を告げた。勍も功臣や宿将の多くが小さな過ちで誅されるのを見て身を保てまいと恐れており、そこで共に謀った。勍は牙兵五百を友珪に従わせ、控鶴の兵に紛れ込ませて禁中に伏せた。
  • 夜半、関門を斬って入り、寝殿に至った。看病していた者は皆逃げ散った。帝は驚いて起き上がり「叛いたのは誰だ」と問うた。友珪が「他人ではありません」と答えると、帝は「私はもとよりこの賊を疑っていた。早く殺さなかったのが悔やまれる。おまえがこれほど悖逆なら、天地がおまえを容れようか」と言った。友珪は「老賊を八つ裂きにせよ」と言い、友珪の僕夫・馮廷諤が帝の腹を刺し、刃は背に抜けた。
  • 友珪は破れた氈で屍を包んで寝殿に埋め、喪を秘して発表せず、供奉官の丁昭溥を東都へ馳せさせ、均王・友貞に友文を殺すよう命じた。
  • 己卯、詔を偽って「博王・友文が謀逆し、兵を殿中に突入させた。郢王・友珪の忠孝により兵を率いてこれを誅し、朕の身を保全した。しかし病はこの驚きでいっそう危うくなった。友珪に軍国の務めを代行させよ」と称した。韓勍は友珪のために府庫の金帛を多く出して諸軍と百官に賜って歓心を買うことを謀った。
  • 辛巳、丁昭溥が戻って友文の死を伝えると、ようやく喪を発し、遺制を宣べて友珪が皇帝に即位した。

乾化二年秋(912年・朱友謙の離反)

  • 秋八月、友珪が簒立すると、宿将の多くは憤り、恩礼を手厚くしても喜ばなかった。
  • 告哀使が河中に至ると、護国節度使・冀王の朱友謙は泣いて「先帝は数十年かけて基業を開かれた。先日、変が宮中に起こり、聞こえてくる話は忌まわしい限りだ。私は藩鎮の末席にあって内心恥じている」と言った。
  • 友珪が友謙に侍中・中書令を加え、詔書で自ら弁明して召し寄せようとすると、友謙は使者に「立ったのは誰か。先帝の崩御は道理に外れている。私はいずれ洛陽へ行って罪を問うつもりだ。召しに応じるまでもない」と言った。
  • 戊戌、侍衛諸軍使の韓勍を西面行営招討使として諸軍を督して討たせた。友謙は河中を挙げて晋に付いて救援を求めた。
  • 九月丁未、感化節度使の康懐貞を河西都招討使とし、あらためて韓勍をその副とした。
  • 友珪は、兵部尚書・知崇政院事の敬翔が太祖の腹心であることから自分に不利になると恐れ、内職を解こうとしたが人望を失うことを恐れ、庚午、翔を中書侍郎・同平章事とし、壬申、戸部尚書の李振を崇政院使とした。翔はしばしば病と称して政に与らなかった。
  • 康懐貞らは忠武節度使の牛存節と兵を合わせて五万で河中城の西に屯し、急攻した。晋王は将の李存審・李嗣肱・李嗣恩に兵を率いさせて救わせ、胡壁で梁軍を破った。嗣恩はもと駱氏の子である。
  • 朱友謙がまた晋に急を告げ、冬十月、晋王は自ら沢州・潞州から西へ向かい、解県で康懐貞と遭遇して大破し、千級を斬り、白徑嶺まで追って帰った。梁の兵は囲みを解いて陝州へ退いて守った。

均王乾化三年(913年・朱友珪の滅亡)

  • 春正月癸亥、郢王・友珪が太廟を朝享し、甲子、円丘を祀り、大赦して鳳暦と改元した。
  • 友珪は志を得るとたちまち荒淫に走り、内外は憤った。金や繒を与えても、ついに誰も付かなかった。
  • 駙馬都尉の趙巌は趙犨の子で太祖の婿、左龍虎統軍・侍衛親軍都指揮使の袁象先は太祖の甥である。巌が使いで大梁に来たとき、均王・友貞は密かに友珪誅殺を謀った。巌は「この事の成否は招討の楊令公(師厚)にかかっております。彼の一言で禁軍を諭せば、ことは即座に片づきます」と言った。
  • 均王は腹心の馬慎交を魏州へ送って楊師厚を説かせた。「郢王は簒弑した者で、人望は大梁にあります。公がこれに乗じて成し遂げられれば、世にまたとない功です」。あわせて事成の暁には犒軍の銭五十万緡を賜ると約した。
  • 師厚は将佐と謀って「郢王が弑逆したとき、私はただちに討てなかった。今、君臣の分はすでに定まっている。理由なく図り直してよいものか」と言った。ある者が「郢王は自ら君父を弑した賊です。均王が兵を挙げるのは復讐であり義です。義を奉じて賊を討つのに、何の君臣がありましょう。彼がひとたび賊を破ったら、公はどう身を処されるのですか」と言った。師厚は驚いて「危うく計を誤るところだった」と言った。
  • そこで将の王舜賢を洛陽へ送って密かに袁象先と謀らせ、招討馬歩都虞候の朱漢賓(譙の人)に兵を率いて滑州に屯させて外応とした。趙巌も洛陽へ帰って象先と密かに計を定めた。
  • 友珪は龍驤軍の潰乱した者を処罰し、その一党を捜索して捕えた者は族滅し、一年たってもやめなかった。当時、龍驤軍で大梁に戍る者があり、友珪はこれを召した。均王は人をやってその衆を煽り、「天子は懐州の屯兵が叛いたことで、おまえたちを追ってことごとく生き埋めにしようとしている」と言わせた。衆は皆恐れて為すすべを知らなかった。
  • 丙戌、均王は「龍驤軍は疑い恐れて出発しません」と奏した。戊子、龍驤の将校が均王に会って泣いて生きる道を請うた。王は「先帝はおまえたちと三十余年、征戦して王業を経営された。今その先帝すら人に弑された。おまえたちはどこへ逃れて死を免れるのか」と言い、太祖の肖像を出して示して泣き、「おまえたちが自ら洛陽へ赴いて讎恥を雪げば、禍を転じて福となせる」と言った。衆は皆勇み立って万歳を叫び、武器を請い、王は与えた。
  • 庚寅の朝、袁象先らが禁兵数千を率いて宮中に突入した。友珪は変を聞いて妻の張氏と馮廷諤とともに北の垣の楼の下へ走り、城を越えようとしたが、免れられぬと悟り、廷諤にまず妻を殺させ、次いで自分を殺させた。廷諤も自刎した。
  • 諸軍十余万が都の市を大掠し、百司は逃げ散った。中書侍郎・同平章事の杜暁と侍講学士の李珽はいずれも乱兵に殺され、門下侍郎・同平章事の于兢と宣政使の李振は傷を負った。晡の刻にようやく収まった。
  • 象先と巌が伝国の宝を携えて大梁へ行き均王を迎えた。王は「大梁は国家創業の地だ。洛陽である必要はない」と言い、大梁で帝位に即き、あらためて乾化三年と称した。友珪を庶人に追廃し、博王・友文の官爵を復した。
  • 三月、帝は使者を送って朱友謙を招撫し、友謙はあらためて藩を称して梁の年号を奉じた。