通鑑紀事本末朱温、唐を簒奪する(崔胤の宦官誅殺を付す)(朱温簒唐(崔胤誅宦官附))

宰相崔胤が宦官の根絶を図って朱全忠を引き入れ、その結果として唐が滅びるまでの九年間。劉季述の政変と昭宗の復位、韓全誨らによる鳳翔行幸と朱全忠の鳳翔包囲、宦官の全滅と長安帰還、洛陽遷都と昭宗の弑逆、白馬駅で朝士三十余人が黄河に投げ込まれた惨劇を経て、907年に朱全忠が受禅して大梁を建て、翌年には昭宣帝も毒殺される。

年表(12件)

昭宗光化三年(900年・王摶の死)

  • 春二月、吏部尚書の崔胤を同平章事・清海節度使とした。
  • 司空・門下侍郎・同平章事の王摶は聡明で度量があり、当時、良相と称された。帝はかねて宦官を憎み、樞密使の宋道弼・景務脩が専横だったので、崔胤は日々帝と宦官排除を謀っていた。宦官もこれを知り、南北両司はいよいよ憎み合い、それぞれ藩鎮と結んで援けとし、傾け合った。
  • 摶は乱を招くことを恐れ、くつろいだ折に帝に言った。「人君は大体を明らかにすることに努め、偏りや私心を持たぬべきです。宦官が権を専らにする弊は誰もが知っておりますが、その勢いは急には除けません。多難が次第に鎮まるのを待って加減されるべきです。陛下は軽々しくお言葉を漏らして姦変を早めぬようお願いします」。
  • 胤はこれを聞き、摶を帝に讒言して「王摶は姦邪で、すでに道弼らの外応となっております」と言った。帝は疑い、胤が宰相を罷めると、摶が自分を排斥したと考えていよいよ恨んだ。
  • 広州へ出鎮すると、胤は朱全忠に書を送って摶の言葉を詳しく伝え、上表して論じさせた。全忠は「胤を輔弼の地から離すべきではありません。摶は敕使と表裏をなして共に社稷を危うくしています」と上言し、表を次々に上った。帝はその実情を察していたが、全忠に迫られてやむを得ず、胤が湖南まで来たところで召し返した。
  • 六月、胤を司空・門下侍郎・同平章事とし、摶を罷めて工部侍郎とし、道弼を荊南監軍、務脩を青州監軍とした。戊辰、摶を溪州刺史に貶し、己巳にはさらに崖州司戸に貶し、道弼を驩州、務脩を愛州へ長流とし、同日、いずれも自尽を賜った。摶は藍田駅で、道弼と務脩は霸橋駅で死んだ。
  • こうして胤は朝政を専断し、勢いは内外を震わせた。宦官は皆横目で睨みながら、憤りに堪えなかった。

光化三年冬十一月(900年・劉季述の政変)

  • はじめ崔胤は帝と密かに宦官皆殺しを謀っており、宋道弼・景務脩が死ぬと宦官はいよいよ恐れた。帝は華州から還って以来ふさぎ込み、酒に浸って喜怒が定まらず、左右はとりわけ身を危ぶんだ。
  • そこで左軍中尉の劉季述、右軍中尉の王仲先、樞密使の王彦範・薛斉偓らが密かに謀った。「主上は軽佻で変わりやすく、詐りが多くて仕えにくい。もっぱら南司の言を聴かれる以上、我らはいずれその禍に遭う。太子を奉じて立て、主上を太上皇として尊び、岐州・華州の兵を援けとして諸藩を制すれば、誰が我らを害せよう」。
  • 十一月、帝は苑中で狩りをし、酒宴を開いて夜に酔って帰り、自ら黄門と侍女数人を殺した。翌朝、辰巳の刻になっても宮門が開かない。季述は中書へ行って崔胤に「宮中に必ず変事があります。私は内臣ですから便宜に従って処せます。入って見て参ります」と言い、禁軍千人を率いて門を破って入った。事情をすべて聞き出すと、出て胤に「主上のなさりようがこれでは、天下を治められましょうか。昏を廃して明を立てるのは古よりあること。社稷の大計であって、不順ではありません」と言った。胤は死を恐れて逆らえなかった。
  • 庚寅、季述は百官を召し、殿庭に兵を並べ、胤らの連名の状を作って太子の監国を請う形にし、これを示して署名させた。胤も百官もやむなく署名した。
  • 帝は乞巧楼にいた。季述と仲先は将士千人を門外に伏せ、宣武進奉官の陳巌ら十余人とともに入って謁見を請うた。季述と仲先が殿に登るや、将士が大声を上げて宣化門に突入し、思政殿の前まで来て、行き会う宮人を片端から殺した。
  • 帝は兵が入るのを見て驚いて牀から落ち、立ち上がって逃げようとしたが、季述と仲先が脇を抱えて座らせた。宮人が走って皇后に告げ、后は駆けつけて拝して「軍容よ、驚かせないでください。宅家(陛下)に事があれば、軍容と相談なさいます」と請うた。
  • 季述らは百官の状を出して帝に「陛下は大位に倦まれ、内外の群情は太子の監国を願っております。陛下は東宮でお休みください」と言った。帝が「昨日そなたらと楽しく飲んで度を過ごしただけだ。なぜここまでのことになる」と言うと、「これは臣らの仕業ではなく、みな南司の総意で、抑えられません。陛下はひとまず東宮へ移られ、事が少し定まればまた大内へお迎えします」と答えた。后は「宅家、早く軍容の言に従われませ」と言い、そのまま伝国の宝を取って季述に授けた。
  • 宦官が帝を扶けて后とともに輦に乗せ、嬪御や侍従はわずか十余人で少陽院へ移った。季述は銀の撾で地を指しながら帝の罪を数え、「某の時の某の事、おまえは私の言に従わなかった。その罪が一つ」と言い、そのように数十も数え立ててやめなかった。そして自ら門を鎖し、鉄を溶かして塞ぎ、左軍副使の李師虔に兵で囲ませ、帝の一挙一動を報告させた。壁に穴を開けて飲食を通し、武器はもとより針も刃物も一切入れさせなかった。帝が銭や帛を求めても得られず、紙も筆も与えられない。折しも厳寒で、嬪御や公主に衣も夜具もなく、その泣き声は外まで聞こえた。
  • 季述らは詔と偽って太子に監国させ、太子を迎えて宮に入れた。辛卯、詔と偽って太子を即位させ、名を縝と改め、帝を太上皇、皇后を太上皇后とした。甲午、太子が皇帝に即位し、少陽院を問安宮と改めた。
  • 季述は百官の爵秩を加え、将士にも厚く賞を与えて衆の歓心を買おうとし、睦王の李倚を殺した。宮人・側近・方士・僧道で帝に寵信されていた者は皆撲殺した。毎夜人を殺し、昼に十台の車で屍を運び出したが、一台に一、二体しか載せず、威を立てようとした。司天監の胡秀林を殺そうとしたとき、秀林は「軍容は君父を幽閉したうえ、さらに無辜を多く殺すおつもりか」と言い、季述はその正論を憚ってやめた。
  • 季述らは崔胤も殺したかったが朱全忠を憚り、度支・塩鉄転運使の職を解くにとどめた。
  • 崔胤は密かに全忠に書を送って挙兵と復位を図らせた。左僕射で致仕した張濬は長水にいて、洛陽で張全義に会って匡復を勧め、また諸藩鎮にも書を送って勧めた。
  • 進士の李愚(無棣の人)は華州に客遊しており、韓建に書を上って大意こう述べた。「僕は書を読んで君臣父子の間で教えを傷つけ義を害する事があるたび、市朝で誅せられぬのを恨みとしてきました。明公は関に近い重鎮にありながら、君父が幽閉され辱められて一月余りになるのに、凶逆を座視して勤王の挙を忘れておられる。僕には解せません。ひそかに思うに、朝廷の輔弼には志があっても権がなく、外鎮の諸侯には権があっても志がない。ただ明公だけが忠義で社稷の頼みです。往年、車輅が播遷した折、号泣して迎え奉り、数年にわたり供給して廟朝を再び回復させた。その義は人心を感じさせ、今も歌われております。今の情勢はいっそう当時と異なります。明公は要衝の地にあり、位は将相を兼ねておられる。宮闈の変事から十日余りを経た今、率先して号令を発して反正を図らず、迷って決しないでいれば、いつか山東の侯伯が義を唱え連衡して鼓を打って西へ向かうでしょう。そのとき明公が身の安全を求めても叶いましょうか。これは必然の勢いです。それより檄を四方に馳せて逆順を諭し、軍声を一挙に振るえば元凶は肝を潰し、十日のうちに二人の首は天下に伝わりましょう。これに勝る計はありません」。建は用いなかったが、愚を厚遇した。愚は固辞して去った。
  • 朱全忠は定州の行営で乱を聞き、丁未に南へ帰り、十二月戊辰、大梁に至った。季述は養子の希度を全忠のもとへ送って唐の社稷を差し出すと約し、また供奉官の李奉本に太上皇の誥を示させた。全忠は迷って決しかね、僚佐に議させた。ある者は「朝廷の大事は藩鎮が与り知るべきでない」と言ったが、天平節度副使の李振ひとりが述べた。「王室に難があるのは覇者の資本です。今、公は唐の桓公・文公として安危を担っておられる。季述は一介の宦官にすぎぬのに、あえて天子を囚え廃した。公がこれを討てぬなら、どうして諸侯に号令できましょう。しかも幼主の位が定まれば天下の権はすべて宦官に帰します。太阿の柄を人に授けるようなものです」。
  • 全忠は大いに悟り、ただちに希度と奉本を囚え、振を京師へ送って探らせ、帰ってからはさらに腹心の吏・蔣玄暉を京師へ送って崔胤と謀らせ、また程巌を大梁へ召した。
  • 太子が即位して数十日、藩鎮の牋表の多くは届かなかった。王仲先は苛察な性質で、かねて左右軍に弊が多いと知っており、中尉になると軍中の財と穀を洗い出し、着服して不正を働いた者を厳しく打ち据え、負債を厳しく取り立てたので、将士はかなり不安になった。
  • 塩州雄毅軍使の孫徳昭は左神策指揮使だったが、劉季述らの廃立以来つねに憤り悲しんでいた。崔胤はこれを聞いて判官の石戩を送って交わらせた。徳昭は酒が回るたび必ず泣くので、戩はその誠を知り、密かに胤の意を伝えて説いた。「上皇が幽閉されて以来、内外の大臣から行伍の士卒に至るまで、誰が歯噛みせずにいましょう。今、叛いたのは季述と仲先だけです。公がまことにこの二人を誅して上皇を迎えて復位させれば、富貴は一時に極まり、忠義は千古に伝わりましょう。ためらって決しなければ、功は他人の手に落ちます」。
  • 徳昭は「私は小校です。国家の大事を独断できましょうか。ただ、相公のご命令があれば死は惜しみません」と答えた。戩が胤に伝えると、胤は衣の帯を割いて自筆の書を渡した。徳昭はさらに右軍清遠都将の董彦弼・周承誨と結び、大晦日の夜に安福門の外に兵を伏せて待つことにした。

天復元年(901年・昭宗の復位)

  • 春正月乙酉朔、王仲先が入朝して安福門に至ると、孫徳昭が捕えて斬り、少陽院へ駆けつけて門を叩いて「逆賊はすでに誅しました。陛下は出て将士を労ってください」と呼ばわった。何后は信じず「まことなら、その首を持って来い」と言い、徳昭が首を献じると、帝はようやく后とともに扉を壊して出た。
  • 崔胤が帝を迎えて長楽門の楼に出御させ、百官を率いて祝賀した。周承誨が劉季述と王彦範を捕えて続き、詰責しようとしたが、すでに乱兵の棍棒で打ち殺されていた。薛斉偓は井戸に飛び込んで死に、引き出して斬った。四人の一族を滅ぼし、その一党二十余人も誅した。
  • 宦官が太子を奉じて左軍に隠れ、伝国の宝を献じた。帝は「裕は幼弱で凶徒に立てられただけ。その罪ではない」と言い、東宮へ帰らせて徳王に降し、名を裕に戻した。
  • 丙戌、孫徳昭を同平章事・静海節度使とし、李継昭の姓名を賜った。丁亥、崔胤を司徒に進めたが胤は固辞し、帝の寵遇はいよいよ厚くなった。
  • 己丑、朱全忠は季述らが誅されたと聞き、程巌の足を折って械をかけて京師へ送り、劉希度・李奉本らとともに都の市で斬った。これにより李振をいよいよ重んじた。
  • 庚寅、周承誨を嶺南西道節度使として李継誨、董彦弼を寧遠節度使として李彦弼の姓名を賜り、ともに同平章事とし、李継昭ともども宿衛に留め、十日ごとに家へ帰らせた。賜与は府庫を傾けるほどで、時の人は「三使相」と呼んだ。癸巳、朱全忠の爵を東平王に進めた。
  • 丙午、勅で「近年、宰臣が延英で奏事する際、樞密使が側に侍って議論が紛れ、退出後にも『上旨が下りない』と称してあらためて変更し、権を撓め政を乱している。今後はすべて大中の旧制に従い、宰臣の奏事が終わってから殿に登って公事を承ること」とした。両軍副使の李師虔と徐彦孫に自尽を賜った。いずれも劉季述の一党である。
  • 鳳翔・彰義節度使の李茂貞が来朝し、茂貞に守尚書令兼侍中を加え、爵を岐王に進めた。
  • 劉季述と王仲先が死ぬと、崔胤と陸扆は「禍乱が起こるのはすべて中官が兵を掌るためです。胤に左軍を、扆に右軍を主らせれば、諸侯も王室を侵せず、王室は尊ばれます」と上言した。帝は二日迷って決しなかった。李茂貞はこれを聞いて怒り、「崔胤は軍権を奪えずにおいて、もう諸侯を翦滅しようとしている」と言った。
  • 帝が李継昭・李継誨・李彦弼を召して諮ると、皆「臣らは累代軍中におりますが、書生が軍主となるなど聞いたことがありません。南司に属せば必ず多くが変わります。北司に帰したほうがよろしい」と言った。帝は胤と扆に「将士の意は文臣に属したくないという。そなたらは強いて求めるな」と告げた。
  • そこで樞密使の韓全誨と鳳翔監軍使の張彦弘を左右中尉とした。全誨も前の鳳翔監軍である。また前樞密使で致仕した厳遵美を両軍中尉・観軍容処置使に召したが、遵美は「一軍ですら務まらぬのに、まして両軍を」と固辞して出なかった。袁易簡と周敬容を樞密使とした。
  • 李茂貞が鎮へ帰ると告げると、崔胤は宦官が兵を掌る限り肘腋の患いになると考え、外兵で制しようとし、茂貞に三千の兵を京師に残して宿衛に充てるよう仄めかし、茂貞の養子・継筠に率いさせた。
  • 左諫議大夫の韓偓(万年の人)が不可としたが、胤は「兵が自分から去りたがらぬのだ。留めたのではない」と言った。偓は「では、そもそもなぜ呼んだのですか」と言い、胤は答えられなかった。偓は「この兵を留めれば家も国も危うく、留めなければ家も国も安泰です」と言ったが、胤は従わなかった。
  • 夏四月甲戌、帝は太廟に謁し、丁丑、天下を赦して改元した。
  • かつて楊復恭が中尉だったとき、度支の麴の販売の利を一年分借りて両軍の費用に充て、以後、返そうとしなかった。ここで崔胤は赦文を草するにあたり宦官を抑えようとし、酒を造る者が自ら麴を造ることを許し、月ごとに榷酤の銭を納めるだけとし、両軍が先に造った麴は値を下げて売らせ、七月を過ぎたら売らせぬこととした。
  • 崔胤が両軍の麴販売を廃したとき、近隣の鎮にも禁じた。李茂貞はその利を惜しみ、入朝して奏論したいと上表し、韓全誨が許可を請うた。茂貞が京師に至ると全誨は深く結び、崔胤はここに至って恐れ、密かに朱全忠との結びつきをいっそう厚くし、茂貞と仇敵になった。

天復元年(901年・韓偓の献策と鳳翔行幸)

  • 帝の復位に際し、中書舎人の令狐渙と給事中の韓偓はいずれもその謀に与っていたので、翰林学士に抜擢され、たびたび召されて機密を諮られた。渙は令狐綯の子である。
  • 当時、帝は軍国の事をことごとく崔胤に委ね、奏事のたび帝はゆったりと話し込み、灯をともすほど長引くこともあった。宦官は恐れて横目で睨み、事の大小を問わず胤に諮ってから行った。胤は宦官を根絶やしにする志を抱いていた。
  • 韓偓はたびたび諫めて「事は極端に過ぎるのを禁物とします。この輩も皆無というわけにはいきません。その一党が追い詰められてまた別の変を起こしかねません」と言ったが、胤は従わなかった。
  • 六月丁卯、帝はひとり偓を召して「敕使のなかで悪をなす者は林のように多い。どう処すべきか」と問うた。偓は「東内の難のとき、敕使で同罪でない者がありましょうか。処すべきは元日のときで、今はもう時機を失っています」と答えた。
  • 帝が「そのときなぜ崔胤に言わなかったのか」と問うと、偓は答えた。「臣は陛下の詔書に『劉季述ら四家のほかは一切問わぬ』とあるのを見ました。人主が重んじるものに信より大きいものはありません。この詔を下した以上、堅く守るべきです。さらに一人でも誅せば人々は死を恐れます。しかもその後に除かれた者は少なくありません。だからこそ彼らは動揺して不安なのです。陛下はむしろ、とくに素行の悪い数人を選んで罪を明示して法に処し、そのうえで残りを撫して『そなたらが、私が心に含むところがあると思うのを恐れる。今後は疑うに及ばぬ』と諭されるべきです。そのうえで忠厚な者を選んでその長とし、善があれば奨め罪があれば懲らせば、皆自ら安んじます。今、この者たちは公私を合わせて万を数えます。どうして皆殺しにできましょう。そもそも帝王の道は重厚をもって鎮め、公正をもって御するもの。細かい機巧に走れば、こちらの機が生じればあちらの機が応じ、ついに大功は成りません。いわゆる糸を整えようとしてかえって縺れさせるものです。まして今、朝廷の権は四方に散っています。まずこの権を取り戻せれば、できぬことはありません」。
  • 帝は深くもっともと思い、「この事は最後にはそなたに任せる」と言った。
  • 閏六月、崔胤は宦官を皆殺しにし、宮人に内諸司の事を掌らせるよう請うた。宦官の属官がこれを漏れ聞き、韓全誨らは泣いて帝に哀れみを乞うた。帝はそこで胤に、事があれば封じた疏で報告し、口頭で奏さぬよう命じた。
  • 宦官は書を解する美女数人を求めて宮中に入れ、密かに探らせ、胤の密謀をすべて知ったが、帝は気づかなかった。全誨らは大いに恐れ、宴のたび涙を流して訣別し合い、日夜、胤を除く手立てを謀った。
  • 胤は当時三司使を領していたので、全誨らは禁軍を唆して帝の前で騒ぎ、胤が冬衣を減らしたと訴えさせた。帝はやむなく胤の塩鉄使を解いた。
  • 当時、朱全忠と李茂貞はそれぞれ天子を擁して諸侯に号令する意があり、全忠は帝を東都へ、茂貞は鳳翔へ行幸させようとした。胤は謀が漏れて事態が急だと知り、全忠に「密詔を受けた」として兵で車駕を迎えるよう書き送り、かつ「先の復位はすべて令公の良策によるのに、鳳翔が先に入朝してその功を横取りした。今、速やかに来なければ必ず罪人となる。功が他人のものになるどころか、征討されかねない」と述べた。全忠は書を得て、秋七月甲寅、急ぎ大梁へ帰って兵を発した。
  • 八月甲申、帝が韓偓に「陸扆は朕の復位を喜ばず、元日に服を替えて小馬に乗って啓夏門から出たと聞くが、本当か」と問うた。偓は「復位の謀は臣と崔胤ら数人しか知らず、扆は知りませんでした。突然、宮中に変があると聞けば、誰しも驚くもの。服を替えて逃げ隠れても差し支えありません。陛下が『宰相でありながら難に死ぬ志がなかった』と責められるのはよろしいが、復位を喜ばなかったというのは讒人の口から出たものかと存じます。ご賢察を」と答え、帝は取りやめた。
  • 韓全誨らは誅殺を恐れて兵で帝を制する謀を立て、李継昭・李継誨・李彦弼・李継筠と深く結んだが、継昭ひとりは従わなかった。
  • 後日、帝が韓偓に「外で何を聞いている」と問うと、「ただ、敕使が誅殺を恐れて功臣や継筠と結び、不穏になろうとしていると聞くだけで、事実かどうかは存じません」と答えた。帝は「それは根も葉もない話ではない。近ごろ継誨や彦弼らの言葉がしだいに強くなって耐えがたい。令狐渙は崔胤と全誨らを内殿に召して酒を置いて和解させよと言うが、どうか」と言った。偓が「そうすれば彼らの凶悖はいっそう増します」と答え、帝が「ではどうする」と問うと、「明白な罪のある数人を速やかに追放し、残りには自新を許すほかありません。それでどうにか収まりましょう。何も問わなければ、彼らは陛下が心に含むところがあると知って、いよいよ安んじず、事はついに片づきません」と述べ、帝は「よかろう」と言った。
  • ところが宦官は党援がすでに固まったのを恃み、しだいに敕旨に従わなくなった。帝が監軍として出そうとしても、諸陵を守れと降しても、いずれも行かず、帝はどうしようもなかった。
  • 九月癸丑、帝は急ぎ韓偓を召して言った。「全忠が来て君側の悪を除こうとしていると聞く。まことに忠を尽くすものだ。だが茂貞と功を共にさせねばならぬ。両帥が争えば事は危うい。そなたは朕のために崔胤に告げ、急ぎ両鎮へ書を飛ばして共に謀らせよ」。
  • 壬戌、帝はまた偓に「継誨・彦弼らの驕横はいよいよ甚だしい。先日は継筠とともに参内して、殿の東で小児に歌わせて酒を勧める始末。驚かせられる」と言った。偓は答えた。「臣は必ずそうなると存じておりました。この件は初めを誤ったのです。元日に功を立てたとき、官爵・田宅・金帛で報いるべきで、禁中への自由な出入りを許すべきではありませんでした。この輩はもとより知識がなく、たびたび拝謁を求め、みだりに朝政を論じ、僭越に人を推し、少しでも聞き入れられねば怨望します。まして利を貪ることしか知らぬ者を、敕使が厚い利で雇ってこうさせているのです。崔胤はもともと衛兵を留めて敕使を制するつもりでしたが、今や敕使と衛兵は一体です。どうしましょう。汴の兵が来れば必ず岐の兵と闕下で戦います。臣は寒心いたします」。帝はただ憂え沈むばかりだった。
  • 冬十月戊戌、朱全忠が大挙して大梁を発した。
  • 韓全誨は朱全忠の到来を聞き、丁酉、李継誨・李彦弼らに兵を整えさせて帝を脅し、鳳翔への行幸を請うた。宮禁の諸門はいずれも兵を増やして防ぎ、人も文書も出入りに厳しい検査を受けた。
  • 帝は人を送って密かに崔胤に御札を賜った。言葉はいずれも悲痛で、末尾に「私は宗社の大計のため、勢い西へ行かねばならぬ。そなたらはただ東へ行け。惆悵、惆悵」とあった。
  • 戊戌、帝は趙国夫人を送って韓偓に「今朝、彦弼らの無礼はきわまった。そなたを召して対したいが、状況が許さぬ」と伝えさせ、さらに「帝と皇后はただ涙を流して向かい合っている」と言わせた。以後、学士は拝対できなくなった。
  • 癸卯、全誨らは帝を入閤させて百官を召し、正月丙午の敕書を撤回して、すべて咸通以来の近例どおりとした。この日、延英を開いたが、全誨らはそのまま側に侍って政事を議した。
  • 丁未、神策都指揮使の李継筠が部兵を送って内庫の宝貨・帳帷・法物を掠め、韓全誨は人を送って諸王と宮人を密かに先に鳳翔へ送った。
  • 戊申、朱全忠が河中に至り、車駕の東都行幸を上表して請うた。京城は震え上がり、士民は山谷に逃げた。この日、百官は誰も参内せず、闕の前は人影もなかった。
  • 十一月己酉朔、李継筠らが闕下に兵を並べて人の出入りを禁じ、諸軍が大掠したので、紙や布の綿入れを着た士民が街に満ちた。
  • 韓建は幕僚の司馬鄴に匡国留後を掌らせていたが、朱全忠が四鎮の兵七万で同州へ向かうと、鄴は迎えて降った。
  • 韓全誨らは李継昭が同調しないので遮断して帝に会わせなかった。当時、崔胤の邸は開化坊にあり、継昭は部下六千余人と京師にいる関東諸道の兵とともにこれを守衛し、百官や乱を避ける士民は皆そこへ身を寄せた。
  • 庚戌、帝は供奉官の張紹孫を送って百官を召したが、崔胤らは皆上表して辞退して来なかった。
  • 壬子、韓全誨らは殿前に兵を並べ、帝に「全忠が大兵で京師に迫り、天子を脅して洛陽へ行幸させ、禅譲を求めようとしています。臣らは陛下を奉じて鳳翔へ行幸し、兵を集めて防ぎたい」と述べた。帝が許さず、剣を杖ついて乞巧楼に登ると、全誨らは帝に楼を下りるよう迫った。帝が寿春殿まで行ったところで、李彦弼はすでに御院に火を放っていた。
  • この日は冬至だった。帝はひとり思政殿に座り、片足を上げ片足で欄干を踏み、庭に群臣なく傍らに侍者もなかった。しばらくしてやむなく皇后・妃嬪・諸王ら百余人とともに馬に乗り、慟哭の声は絶えなかった。門を出て振り返ると、禁中の火はすでに赤々と燃えていた。その夕、鄠県に泊まった。
  • 朱全忠は司馬鄴を華州へ送り、韓建に「公が早く過ちを悟って自ら帰順しなければ、この軍をわずらわせて城下にしばらく留まることになる」と言わせた。この日、全忠は故市から兵を率いて南へ渭水を渡り、韓建は節度副使の李巨川を送って降を請い、銀三万両を献じて軍を助けた。全忠は西南の赤水へ向かった。
  • 癸丑、李茂貞が田家磑で車駕を迎え、馬を下りて慰め迎えた。甲寅、車駕は盩厔に至り、乙卯、一日留まった。
  • 朱全忠は零口の西まで来て車駕が西へ行幸したと聞き、僚佐と議して兵を赤水へ返した。左僕射で致仕した張濬が「韓建は茂貞の一党です。先に取らねば必ず後患となります」と説いた。全忠は建が天子に鳳翔行幸を勧める表を出したと聞き、兵を率いてその城に迫った。建は単騎で出迎え、全忠が責めると、「建は文字を知りません。表章も書檄もすべて李巨川の作です」と答えた。全忠は巨川がかつて建のために策を巡らせたことがあったので軍門で斬り、建に「公は人に許されている。すぐ錦を着て故郷へ帰るがよい」と言った。
  • 丁巳、建を忠武節度使として陳州を治めさせ、兵で送らせ、前商州刺史の李存に華州事を掌らせ、忠武節度使の趙珝を匡国節度使に移した。
  • 車駕が華州にあったころ、商人が集まり、韓建が重く課税して二年で九百万緡を得ていた。ここで全忠がすべて取り上げた。
  • 当時、京師には天子がなく、行在には宰相がなかった。崔胤は太子太師の盧渥ら二百余人に連名の状で全忠に西へ行って車駕を迎えるよう請わせ、また王溥を赤水へ送って全忠と協議させた。全忠は「進めば君を脅したとの謗りを恐れ、退けば国に背いた恥を抱く。しかし勉めぬわけには参らぬ」と返書した。戊午、全忠は赤水を発った。
  • 辛酉、兵部侍郎の盧光啓に中書事を代行させた。車駕は岐山に三日留まり、壬戌に鳳翔に至った。
  • 朱全忠が長安に至ると、宰相が百官を率いて長楽坂に並んで迎え、翌日の出発時には臨臯駅で並んで送った。全忠は李継昭の功を賞し、はじめ匡国留後を代行させたが、あらためて両街制置使として留め、賜与はきわめて厚かった。継昭はその兵八千人をすべて献じた。
  • 全忠は判官の李択と裴鋳を送って奏事させ、「密詔を奉じ、また崔胤の書を得て兵を率いて入朝しました」と述べた。韓全誨らは詔と偽って「朕は災いを避けてここへ来たので、宦官に脅されたのではない。密詔はすべて崔胤の偽作である。卿は兵を収めて領土へ帰り守るがよい」と答えた。
  • 茂貞は将の符道昭を武功に屯させて全忠を防いだが、癸亥、全忠の将・康懐貞が撃破した。
  • 丁卯、盧光啓を右諫議大夫・参知機務とした。
  • 戊辰、全忠が鳳翔に至って城東に陣した。李茂貞が城に登って「天子は災いを避けられたので、臣下の無礼ではありません。讒人が公を誤らせてここまで来させたのです」と言うと、全忠は「韓全誨が天子を脅して遷した。今は罪を問い、宮へ迎え還すために来た。岐王が謀に与っていないなら、くだくだしい弁明は無用」と答えた。
  • 帝がたびたび全忠に帰鎮を詔したので、全忠は表を奉って辞し、辛未、兵を北の邠州へ向けた。
  • 甲戌、制で守司空兼門下侍郎・同平章事の崔胤を工部尚書に降し、戸部侍郎・同平章事の裴枢を罷めて本官のみとした。
  • 乙亥、全忠が邠州を攻め、丁丑、静難節度使の李継徽が降を請い、楊崇本の姓名に戻した。全忠はその妻を河中に人質として崇本に邠州を鎮させた。
  • 全忠が西の関に入ったとき、韓全誨と李茂貞は詔命で河東に徴兵し、茂貞はさらに書で李克用に援けを求めた。克用は李嗣昭に五千騎を率いさせて沁州から晋州へ向かわせ、平陽の北で汴の兵と戦って破った。
  • 乙亥、全忠は邠州を発ち、戊寅、三原に宿した。十二月癸未、崔胤が三原に至って全忠に会い、車駕を迎えるよう促した。己丑、全忠は朱友寧に盩厔を攻めさせたが落ちず、戊戌、自ら行って督戦し、盩厔は降ったが屠った。全忠は崔胤に百官と京城の住民をすべて率いて華州へ移らせた。
  • 全忠が関に入ったとき、戎昭節度使の馮行襲は副使の魯崇矩を送って全忠の指図を受けた。韓全誨は中使二十余人を分けて江淮に徴兵させ、金州に屯させて全忠を脅そうとしたが、行襲は中使をすべて殺してその詔敕を全忠に送った。また中使を王建に徴兵に送り、朱全忠も使者を送って建に出兵を乞うた。建は表向き全忠と好誼を修めて李茂貞の罪状を挙げながら、密かに茂貞に堅守を勧めて救援を約し、武信節度使の王宗佶と前東川節度使の王宗滌らを扈駕指揮使として五万を率いさせ、車駕を迎えると言い触らしながら、実は茂貞の山南諸州を襲った。

天復二年(902年・鳳翔攻囲)

  • 春正月、朱全忠はまた三原に屯し、さらに武功へ軍を移した。河東の将が慈州・隰州を攻めて全忠の兵勢を分散させようとした。
  • 丁卯、給事中の韋貽範を工部侍郎・同平章事とした。丙子、給事中の厳亀を岐汴和協使とし、朱全忠に李姓を賜って李茂貞と兄弟にしようとしたが、全忠は従わなかった。
  • 三月庚戌、帝は李茂貞および宰相・学士・中尉・樞密と宴を開いた。酒が回ると茂貞と韓全誨は逃げるように退席した。帝が韋貽範に「朕はなぜここまで巡幸することになったのか」と問うと、「臣は外におりまして存じません」と答えた。強いて問うても答えないので、帝は「そなたはなぜ朕の前で『知らぬ』などと妄言を吐くのか」と言い、さらに「そなたは道でないやり方で宰相となった以上、公事は法どおりにすべきだ。もし従えぬなら必ず故事に照らせ」と言い、目を怒らせて睨み、小声で「この賊めは杖二十が要る」と言い、韓偓を顧みて「こんな輩まで宰相を名乗る」と言った。貽範はたびたび大杯で帝に酒を勧め、帝がすぐ受け取らないと、杯を帝の顎まで差し出した。
  • 夏四月丁酉、崔胤が華州から河中へ行き、朱全忠に泣いて訴えた。「李茂貞が天子を脅して蜀へ行幸させるかもしれません。時を移さず迎え奉るべきで、猶予はなりません」。全忠が宴を開くと、胤は自ら拍子木を持って全忠のために歌って酒を勧めた。
  • 五月、鳳翔の人は朱全忠が来ると聞いて皆恐れ、癸丑、城外の住民は皆城内へ移った。己未、全忠は精兵五万を率いて河中を発ち、東渭橋に至って長雨に遭って十日留まった。
  • 庚午、工部侍郎・平章事の韋貽範が母の喪に遭い、宦官は翰林学士の姚洎を宰相に推した。洎が韓偓に諮ると、偓は「永く利を図るなら就かぬに越したことはありません。もし上の御意から出たなら差し支えありませんが。しかも汴軍は今にも囲みを完成させ、孤城は保ちがたく、家族は東にあります。案じずにいられましょうか」と言った。洎は病と称し、帝もまた自ら許さなかった。
  • 六月丙子、中書舎人の蘇検を工部侍郎・同平章事とした。当時、韋貽範は服喪中で、検と姚洎を李茂貞に推していた。帝が洎を用いなかったので、茂貞と宦官は帝が自ら人を用いることを恐れ、力を合わせて検を推し、こうして用いられた。
  • 丁丑、朱全忠が虢県に布陣した。甲申、李茂貞が大挙して兵を出し自ら率いて虢県の北で全忠と戦ったが、大敗して帰り、死者は一万余だった。丙戌、全忠は将の孔勍を散関から出して鳳州を攻め落とした。丁亥、全忠は鳳翔城下へ進軍し、朝服で城に向かって泣いて「臣はただ車駕を宮へ迎え還したいだけです。岐王と勝負を争うのではありません」と言い、そのまま五つの寨を築いて取り囲んだ。
  • 秋七月、韋貽範は宰相のとき多くの賄賂を受けて官を約束していたが、母の喪で罷めると連日、債権者に騒ぎ立てられた。腹心の吏・劉延美の負担がとりわけ大きかったので、貽範は起復(服喪中の復職)に躍起になり、日々人を両中尉・樞密および李茂貞のもとへ送って求めた。
  • 甲戌、韓偓に貽範の起復の制を草するよう命じた。偓は「私の腕は断てても、この制は草せません」と言い、上疏して「貽範が喪に遭って数か月もたたぬのに、にわかに起復させるのは、まことに人の耳目を驚かせ、国体を傷つけます」と論じた。学士院の二人の中使は怒って「学士、死を戯れになさるな」と言ったが、偓は疏を渡して衣を解いて寝てしまった。二使はやむなく奏し、帝はただちに草するのを取りやめさせ、さらに敕を賜って褒めた。
  • 八月乙亥朔、班列が定まっても宣べるべき白麻がなく、宦官は「韓侍郎が麻を草さなかった」と騒ぎ立て、聞く者は驚いた。茂貞が拝謁して「陛下が宰相を任じられたのに学士が麻を草さぬとは、謀反と何が違いましょう」と言うと、帝は「そなたらが貽範を推したので朕は逆らわなかった。学士が麻を草さぬのも朕は逆らわぬ。しかも彼の述べた事理は明白だ。従わずにいられようか」と答えた。
  • 茂貞は不快なまま出て、中書で蘇検に会って「姦邪の朋党はそっくり昔のままだ」と言い、長く腕を扼した。貽範はなお画策をやめず、茂貞は人に「私は書生の礼数を知らなかった。貽範に誤らされた。いずれ邠州にでも置くとしよう」と語った。貽範はそこでやめ、劉延美は井戸に飛び込んで死んだ。
  • 保大節度使の李茂勲が兵を率いて三原に屯して李茂貞を救おうとしたが、朱全忠が将の康懐英と孔勍に撃たせ、茂勲は逃げた。茂勲は茂貞の従弟である。
  • 庚戌、李茂貞が兵を出して夜に奉天を撃ち、汴の将・倪章と邵棠を捕えて帰った。乙未、茂貞が大挙して全忠と戦ったが勝てず、日暮れに帰るところを汴の兵が追い、危うく西門に入られるところだった。
  • 己亥、前戸部侍郎・同平章事の韋貽範をあらためて起復させ、姚洎に制を草させた。貽範は辞退もせず表で謝し、翌日から執務した。
  • 九月乙巳、朱全忠は長雨で士卒が病んだので諸将に議して河中へ兵を引こうとした。親従指揮使の高季昌と左開道指揮使の劉知俊は「天下の英雄がこの挙を注視して一年になります。今、茂貞はすでに窮しております。なぜ棄てて去るのですか」と言った。
  • 全忠は茂貞が堅く守って出ないことを憂え、季昌が謀略で誘い出すことを請い、城に諜者として入れる者を募った。騎士の馬景が「この行きは必ず死にます。大王がその妻子を保護してくださるなら」と願い出た。全忠は憐れんで止めたが景は聞かなかった。当時、全忠は朱友倫を大梁へ徴兵に送っており、翌日到着するので出迎えの兵を出す予定だった。景はその機に駿馬を賜って騎兵に紛れて出たいと請い、全忠は従い、諸軍に馬に飼葉を与え兵に十分食べさせるよう命じた。
  • 丁未の朝、旗を伏せて潜み、みだりに出るなと命じ、営中は無人のように静まった。景は騎兵とともに出ると、突然馬を躍らせて西へ走り、逃亡を装って入城し、茂貞に「全忠は全軍で逃げました。傷病者一万人近くだけを残して営を守らせていますが、今夕にはそれも去ります。急ぎ撃たれたい」と告げた。
  • そこで茂貞は門を開いて全軍で全忠の営を攻めた。全忠は中軍で鼓を打ち、百営が一斉に出て兵を放って撃ち、さらに数百騎に城門を押さえさせた。鳳翔の軍は進退の拠り所を失い、自ら踏み合ってほぼ全滅した。茂貞はこれで気力を失い、初めて全忠と和して車駕を京へ還すことを議し、詔書で全忠に帰鎮を強いることもしなくなった。全忠は季昌を宋州団練使とするよう上表した。
  • 辛亥、李茂貞は騎兵をすべて隣州へ出して飼葉と糧を得させた。壬子、朱全忠は蚰蜒壕を穿って鳳翔を囲み、大きな鈴の架を設けて内外を遮断した。
  • 冬十月戊寅の夜、李茂貞の養子・彦詢が三団の歩兵を率いて汴軍へ逃げ、己卯には李彦韜が続いた。
  • 庚辰、朱全忠は幕僚の司馬鄴に表を奉じて入城させた。甲申、また使者を送って熊の脂を献じ、以後、食物や繒帛を次々に献じた。帝はいずれもまず李茂貞に示して開けさせようとしたが、茂貞もあえて開けなかった。
  • 丙戌、また使者を送って茂貞との和議を請い、城を出て薪を採る民は掠めなくなった。丁亥、全忠は宮闕の修復と車駕を迎えることを上表し、己丑、国子司業の薛昌祚と内使の王廷続に詔を持たせて全忠に賜った。
  • 癸巳、茂貞はまた兵を出して汴軍の城西の寨を撃ったが敗れて帰った。全忠は降人に絳の袍を着せて城中の人に呼びかけさせ、鳳翔の軍は夜に縄で降りて去る者、薪採りに出て戻らぬ者が多かった。以後、茂貞が兵を出して汴軍を撃たせても多くは働かず散って帰った。
  • 茂貞は帝と全忠に密約があるのではと疑い、壬寅、あらためて御院の北の垣の外に兵を増やして防衛した。
  • 十二月癸卯朔、保大節度使の李茂勲が一万余を率いて鳳翔を救い、城北の坂に屯して城中と烽火で連絡した。
  • 甲辰、帝は趙国夫人に学士院を探らせ、二人の使がいずれも不在なので、急ぎ韓偓と姚洎を召し、土門の外でひそかに会い、手を取り合って泣いた。洎が「他人に見られては困ります。早くお戻りを」と請い、帝はただちに去った。
  • 朱全忠は将の孔勍・李暉に兵を率いさせ、手薄な鄜坊を襲わせた。壬子、坊州を落とし、甲寅、大雪のなか汴軍は夕方に進んで五更に鄜州城下に至った。鄜州の人は備えておらず汴軍が入城したが、城中の兵はなお八千いて正午まで格闘し、鄜州の人はようやく敗れた。留後の李継璙を捕えた。勍は李茂勲と将士の家を保護し、住居に手を触れさせず、李暉に軍府事を代行させた。茂勲はこれを聞いて兵を率いて逃げ去った。
  • 汴軍は毎夜鼓角を鳴らし、城中の地は震えるようだった。攻める側は城上の人を「天子を劫かした賊」と罵り、守る側は城下の人を「天子を奪う賊」と罵った。
  • この冬は大雪で、城中は食が尽き、凍え飢えて死ぬ者は数え切れなかった。まだ死なずに横たわっているうちに肉を削がれる者もあり、市では人肉が一斤百銭、犬の肉は五百銭だった。茂貞の備蓄も尽き、犬や豚を御膳に供した。帝は御衣と幼い皇子の衣を市に売って費用に充て、松や柿を削って水に浸して御馬に与えた。
  • 丙子、戸部侍郎・同平章事の韋貽範が没した。
  • 癸亥、朱全忠は人を送って城外の草を刈らせて城中を困らせた。甲子、李茂貞は兵を増やして宮門を守らせた。諸宦官は自ら助からぬと悟って互いに責め合い怨み合った。
  • 蘇検はたびたび韓偓を宰相にしようと画策し、茂貞や中尉・樞密に説き、腹心の吏を送って偓に告げた。偓は怒って「公は韋公とともに貶所から召し返され、十日か一月で宰相の位に至りながら、何一つできなかった。今、朝も夕も危ういというのに、こんなことで私を汚そうというのか」と言った。
  • 十二月、李茂勲が使者を送って朱全忠に降を請い、周彝と改名した。こうして茂貞の山南の州鎮はすべて王建に、関中の州鎮はすべて全忠に帰し、孤城を守るのみとなった。そこで密かに宦官を誅して自ら罪を贖おうと謀り、全忠に書を送った。「禍乱が起こったのはすべて全誨のせいです。僕が駕を迎えてここまで来たのは他の盗賊に備えるため。公が社稷を匡すことに志を置いておられる以上、公が扈従して宮へ還されたい。僕は破れた甲と欠けた兵で公に力を尽くしましょう」。全忠は「僕が兵を挙げてここまで来たのは、まさに乗輿の播遷のためです。公が力を合わせてくださるなら、望むところです」と返書した。
  • 丁酉、帝は李茂貞・蘇検・李継誨・李彦弼・李継岌・李継遠・李継忠を召して食事をしながら朱全忠との和議を議した。帝は「十六宅の諸王以下、凍え飢えて死ぬ者が日に数人ある。宮内の諸王・公主・妃嬪も一日は粥、一日は湯餅で、それも今や尽きた。そなたらの考えはどうか」と言った。皆答えなかったので、帝は「速やかに和解すべきだ」と述べた。
  • 鳳翔の兵十余人が左銀台門で韓全誨を取り囲み、「領内は塗炭に苦しみ、城中は飢え死にしている。すべて軍容ら数人のせいだ」と罵った。全誨は叩頭して茂貞に訴えたが、茂貞は「兵卒に何が分かる」と言って酒を二杯注がせ、向かい合って飲んで収めた。全誨は帝にも訴え、帝もなだめた。
  • 李継昭は全誨に「昔、楊軍容(復恭)は楊守亮の一族を滅ぼした。今、軍容もまた継昭の一族を滅ぼすおつもりか」と言って侮り罵り、そのまま出て全忠に降り、符姓・道昭の名に戻した。

天復三年(903年・宦官の殲滅と長安帰還)

  • 春正月甲辰、殿中侍御史の崔構と供奉官の郭遵誨を朱全忠の営へ送った。丙午、李茂貞も牙将の郭啓期を送って和解を議させた。
  • 戊申、李茂貞はひとりで帝に会い、中尉の韓全誨・張彦弘、樞密使の袁易簡・周敬容はいずれも拝謁できなかった。茂貞は全誨らを誅して朱全忠と和解し、車駕を京へ還すことを請うた。帝は喜び、ただちに内養に鳳翔の兵四十人を率いさせて全誨らを捕えて斬らせた。御食使の第五可範を左軍中尉、宣徽南院使の仇承坦を右軍中尉、王知古を上院樞密、侯楊虔朗を下院樞密使とした。その夕、さらに李継筠・李継誨・李彦弼および内諸司使の韋処廷ら十六人を斬った。
  • 己酉、韓偓と趙国夫人を全忠の営へ送り、また使者に全誨ら二十余人の首を袋に入れて全忠に示させ、「先に車駕を脅して留め、罪を恐れて離間し、協和させまいとしたのはすべてこの者どもだ。今、朕は茂貞と決意して誅した。卿は諸軍に諭して衆の憤りを晴らしてほしい」と伝えた。辛亥、全忠は観察判官の李振に表を奉じて入って謝させた。
  • 全誨らが誅されても全忠は囲みを解かなかった。茂貞は崔胤が全忠に必ず鳳翔を取るよう教えているのではと疑い、帝に申し上げて急ぎ胤を召し、百官を率いて行在へ来させることとし、詔を四度下し朱書の御札を三度賜り、言葉はきわめて切実で、旧官爵もすべて復した。それでも胤は病と称して来なかった。茂貞は恐れて自ら胤に書を送り、辞はきわめてへりくだった。全忠も書で胤を召し、しかもからかって「私はまだ天子にお目にかかっていない。公に来てその是非を判じてもらわねば」と言い、胤はようやく来た。
  • 甲寅、鳳翔はようやく城門を開いた。丙辰、全忠が諸寨を巡って城北に至ったとき、鳳翔の兵が北山から下りてきた。全忠は自分に迫るのかと疑って兵を送って撃たせ、その将・李継欽を捕えた。帝が趙国夫人と馮翊夫人を全忠の営へ送ってその理由を問わせると、全忠は腹心の吏・蔣玄暉に表を奉じて入奏させた。
  • 李茂貞は子の侃に平原公主を娶らせ、また蘇検の娘を景王の妃としてわが身を固めたいと請うた。平原は何后の娘で、后は難色を示したが、帝は「ともかく朕を出させてくれ。娘のことは案ずるな」と言い、后は従った。壬戌、平原公主が李侃に嫁ぎ、景王妃に蘇氏を納れた。
  • 当時、鳳翔で誅された宦官はすでに七十二人だった。朱全忠はさらに密かに京兆に命じて、致仕して随行しなかった者を捜索させ、九十人を誅した。
  • 甲子、車駕が鳳翔を出て全忠の営に幸した。全忠は素服で罪を待ち、客省使に赦免を宣べさせて三仗を退け、平安を報じさせ、公服で入って謝した。全忠は帝に会うと頓首して涙を流し、帝は韓偓に扶け起こさせ、自らも泣いて「宗廟社稷はそなたのおかげで再び安んじ、朕と一族はそなたのおかげで再び生きられる」と言い、自ら玉帯を解いて賜った。
  • 少し休んで出発し、全忠が単騎で十里ほど先導した。帝が辞退すると、全忠は朱友倫に兵を率いて扈従させ、自らは残って後隊を差配し諸寨を焼き払った。友倫は朱存の子である。
  • その夕、車駕は岐山に泊まり、丁卯、興平に至って崔胤がようやく百官を率いて出迎えた。あらためて胤を司空・門下侍郎・同平章事とし、従来どおり三司を領させた。己巳、長安に入った。
  • 庚午、全忠と崔胤がともに拝謁し、胤は奏した。「国初の太平のころ、宦官は兵を掌らず政に与りませんでした。天寳以来、宦官はしだいに盛んになり、貞元の末には羽林衛を左右神策軍として衛従の便に供し、初めて宦官に主らせ、二千人を定制としました。以来、機密に参与して百司の権を奪い、上下でかばい合って共に不法を行い、大きくは藩鎮を煽って国家を傾け、小さくは官を売り獄を鬻いで朝政を害しました。王室の衰乱はこれが原因です。その根を絶たねば禍はやみません。内諸司使をことごとく廃してその事務をすべて省寺に帰し、諸道の監軍も皆闕下へ召し返されたい」。帝は従った。
  • この日、全忠は兵で宦官の第五可範以下数百人を内侍省に追い込んで皆殺しにした。冤みを訴える声は内外に響いた。外方へ使いに出ていた者は所在地で捕えて誅する詔が下り、黄衣の幼弱な者三十人だけを残して掃除に充てた。さらに成徳節度使の王鎔に五十人を選んで進めさせ敕使に充てた。その土地の風俗が篤実で人柄が慎み深く素朴だからである。
  • 帝は可範らに罪のない者もいたのを憐れみ、文を作って祭った。以後、詔命の伝達はすべて宮人が出入りして行った。両軍の内外八鎮の兵はすべて六軍に属させ、崔胤に六軍十二衛の事を兼判させた。

史論(臣光曰)

  • 司馬光は宦官の禍を歴代にわたって論じ、およそ次のように述べる。宦官が権を用いて国家の患いとなったのは古くからのことで、宮禁に出入りし、人主が幼少から成人まで親しく馴れ、三公六卿のように定時の拝謁で威儀を保つ相手ではないからだ。加えて機敏で弁が立ち、顔色をうかがい意向を先取りし、命じれば逆らわず、使えば効を上げる。上智の主でなければ、近い者は日ごとに親しく、遠い者は日ごとに疎くなり、甘言や哀訴が時に容れられ、じわじわと染み入る讒言が時に聴かれる。こうして黜陟と刑賞の政が知らぬ間に近習へ移る。美酒を味わって酔いを忘れるようなものだ。その柄が移って国家が危乱に陥らなかった例はない。
  • 後漢の衰えでも宦官の驕横は最も名高いが、いずれも人主の権を借り、城社に憑いて天下を濁したにとどまり、唐のように天子を嬰児のように扱い、廃立を手中にし、東西の去就を思いのままにし、天子に虎狼に乗り蛇虺を挟むごとく畏れさせた例はない。その違いは他でもない、漢の宦官は兵を握らず、唐の宦官は兵を握ったことにある。
  • 太宗は前世の弊に鑑みて宦官を深く抑え四品を超えさせなかったが、玄宗が旧章を崩して重用し、晩年には高力士に章奏を裁かせ、ついには将相の進退まで議させた。太子や王公まで畏れ仕え、宦官はここから熾んになった。中原が乱れて粛宗が霊武で兵を集めると、李輔国が東宮の旧臣として軍謀に与り、寵が過ぎて驕り、もはや制せられず、ついには愛子も慈父も庇いきれず憂悸のうちに終わった。
  • 代宗も轍を踏み、程元振・魚朝恩が相次いで実権を握って刑賞を弄び聡明を塞ぎ、天子を留守番の衣のように見なし宰相を奴隷のように扱った。そのため来瑱は入朝して讒に遭って死を賜り、吐蕃が郊甸深く侵しても隠して報せず陝州へ狼狽して行幸させ、李光弼は疑われて憤り死に、郭子儀は退けられて家に籠り墓所も保てず、僕固懐恩は冤を訴える先もなく勲功を捨てて叛乱に転じた。
  • 徳宗は即位当初こそ紀綱を振るって宦官はやや退いたが、興元から還ると諸将を猜疑し、李晟・渾瑊を信じられぬとして兵を奪い、竇文場・霍仙鳴を中尉として宿衛を掌らせた。太阿の柄はここで彼らの掌に落ちた。
  • 憲宗の末年には吐突承璀が嫡を廃して庶を立てようとして陳弘志の変を招き、宝暦には小人と狎れて劉克明・蘇佐明の逆があった。以後、絳王および文・武・宣・懿・僖・昭の六世はいずれも宦官に立てられ、勢いはいよいよ驕横になった。王守澄・仇士良・田令孜・楊復恭・劉季述・韓全誨がその魁で、自ら「定策の国老」と称し、天子を「門生」と呼んだ。根は深く蔕は固く、病は膏肓に至って救えなくなった。
  • 文宗は深く憤って除こうとしたが、宋申錫ほどの賢者ですら何もできず逆に禍を受けた。まして李訓・鄭注のような反覆常なき小人が、一朝の詭計で累世の膠のごとく固まった党を剪ろうとし、ついに禁中の路を血に染め、省の門に屍を積み、公卿大臣は首を連ねて誅に就き、一門ごと屠られた。天子は唖を装って酒に溺れ、涙を飲んで気を呑み、自ら赧王・献帝に比した。悲しくないだろうか。
  • 宣宗ほど厳毅明察な君ですら目を閉じ首を振って「畏れる」と言うほどだった。まして懿宗・僖宗の驕奢では、声色や毬猟が満たされさえすれば政事は丸ごと彼らに委ね、「父」と呼ぶのも怪しむに足りない。賊が宮闕を汚し、二度も梁州・益州へ落ちのびたのは、すべて田令孜の仕業である。
  • 昭宗はその恥に堪えず力を尽くして一掃しようとしたが、任じた人を得ず、行った道が正しくなかった。初めには張濬が平陽で軍を覆して李克用の跋扈をいっそう強め、楊復恭を山南へ亡命させて宋文通(李茂貞)の不臣の心を開かせた。終わりには兵が闕庭で交わり、矢が御衣に及び、莎城に漂泊し、華陰に寓し、東内に幽され、岐陽へ劫遷された。崔昌遐(崔胤)はどうしようもなくなって朱全忠を呼んで討たせ、兵を連ねて城を囲むこと寒暑二度に及び、御膳は乾飯にも足りず、王侯は飢えと寒さに斃れた。そのうえでようやく韓全誨は誅され、乗輿は東へ出て、その一党は一人残らず翦滅されたが、唐の廟社もそれとともに丘墟となった。
  • してみれば宦官の禍は玄宗に始まり、粛宗・代宗に盛んになり、徳宗に成り、昭宗に極まった。『易』に「霜を履めば堅氷至る」とある。国家を治める者は微を防ぎ漸を杜がねばならぬ。その始めを慎まずにいられようか。
  • これが最も顕著な害であって、そのほか賢を傷つけ能を害し、乱を招き禍を致し、官を売り獄を鬻ぎ、師旅を敗り民を蝕んだ例は挙げきれない。
  • そもそも寺人の官は三王の世から『詩』『礼』に載っており、閨闥の禁を厳しくし内外の言を通じるためのもので、なくてよいはずがない。巷伯が悪を憎んだこと、寺人披が君に仕えたこと、鄭衆が賞を辞したこと、呂彊が直諫したこと、曹日昇が患を救ったこと、馬存亮が乱を鎮めたこと、楊復光が賊を討ったこと、厳遵美が権を避けたこと、張承業が忠を尽くしたこと——その中に賢才がなかったといえようか。要は、人主が彼らと政事を議し士大夫の進退を左右させ、人を動かすに足る威福を持たせてはならぬというだけのことだ。もし罪があれば、小なら刑し、大なら誅し、寛恕しない。そうすれば専横せよと言われてもできるものではない。
  • 善悪を察せず是非を選ばず、草を薙ぎ禽を狩るように一掃しようとして、乱にならずにいられようか。だからこそ袁紹が先に行って董卓が漢を弱め、崔昌遐が後に踏襲して朱氏が唐を簒った。一時の憤りは晴れても国はそれとともに亡んだ。衣の汚れを憎んで焼き、木の虫食いを患えて伐るようなもので、その害はかえって多いではないか。孔子は「人にして不仁なる、これを疾むこと已甚だしければ乱なり」と言った。まさにこのことである。

天復三年(903年・崔胤の専権と朱全忠の伸長)

  • 春二月壬申朔、鳳翔で授けた官をすべて停める詔が下った。当時、宦官はすべて死んでいたが、河東監軍の張承業、幽州監軍の張居翰、清海監軍の程匡柔、西川監軍の魚全禋および致仕した厳遵美だけは、李克用・劉仁恭・楊行密・王建に匿われて助かり、他の囚人を斬って詔に応えていた。
  • 甲戌、門下侍郎・同平章事の陸扆を沂王傅・分司に降した。車駕が京師に還ったとき諸道に詔書を賜ったが鳳翔だけになく、扆が「茂貞の罪は大きいが、朝廷はまだ絶交していません。ここだけ詔書がないのは人に狭量を示します」と言ったので、崔胤が怒って奏して貶したのである。宮人の宋柔ら十一人はいずれも韓全誨が献じた者で、僧・道士や宦官と親しかった者二十余人ともども京兆へ送られて杖殺された。
  • 帝が韓偓に「崔胤は忠を尽くしてはいるが、そなたに比べるとかなり機略を用いる」と言った。偓は「およそ天下を治める者は万国が皆その耳目です。どうして機略で欺けましょう。誠を推して率直に行うに越したことはありません。日ごとに数えれば足りずとも、年ごとに数えれば余りが出ます」と答えた。
  • 丙子、工部侍郎・同平章事の蘇検と吏部侍郎の盧光啓にともに自尽を賜り、丁丑、中書侍郎・同平章事の王溥を太子賓客・分司とした。いずれも崔胤に憎まれた者である。
  • 戊寅、朱全忠に「回天再造竭忠守正功臣」の号を賜り、僚佐の敬翔らに「迎鑾協賛功臣」、諸将の朱友寧らに「迎鑾果毅功臣」、都頭以下に「四鎮静難功臣」の号を賜った。
  • 帝は全忠を褒め崇めようと、皇子を諸道兵馬元帥として全忠をその副にしようと議した。崔胤は輝王・李祚を推し、帝は「濮王が年長だ」と言ったが、胤は全忠の密旨を承けて祚が幼いことを利として固く請うた。己卯、祚を諸道兵馬元帥とし、庚辰、全忠に守太尉・副元帥を加え、爵を梁王に進め、胤を司徒兼侍中とした。
  • 胤は全忠の勢いを恃んで専権恣意に振る舞い、天子の一挙一動もすべて自分に報告させた。鳳翔へ従った朝臣は貶され追われた者が三十余人に上り、刑賞はその愛憎次第で、内外は恐れて足を重ね跡を並べた。敬翔を守太府卿、朱友寧に寧遠節度使を領させた。全忠は苻道昭を同平章事・天雄節度使とするよう上表し、兵を送って護送させたが、泰州まで至れず引き返した。
  • 翰林学士承旨の韓偓が進士に及第したとき、御史大夫の趙崇が貢挙を掌っていた。帝は鳳翔から還って偓を宰相に用いようとしたが、偓は崇と兵部侍郎の王賛を自分の代わりに推した。帝が従おうとすると、崔胤は自分の権が分かれることを憎み、朱全忠に入って争わせた。
  • 全忠は帝に会って「趙崇は軽薄の魁、王賛は才用がありません。韓偓はどうしてみだりに宰相に推せるのか」と言った。帝は全忠の激しい怒りを見てやむを得ず、癸未、偓を濮州司馬に貶した。帝は密かに偓と泣いて別れ、偓は「この人はもう先ごろまでの人ではありません。臣は遠くへ貶され死ぬのがむしろ幸い。簒弑の辱めを見るに忍びません」と言った。
  • 己丑、帝は朱全忠に李茂貞へ書を送らせて平原公主を取り戻させ、茂貞は逆らえずただちに帰した。
  • 壬辰、朱友裕を鎮国節度使とした。乙未、全忠は歩騎一万を旧両軍の地に留めることを奏し、朱友倫を左軍宿衛都指揮使とし、また汴の将・張廷範を宮苑使、王殷を皇城使、蔣玄暉を街使とした。こうして全忠の一党は禁衛と京畿一帯にあまねく配された。
  • 戊戌、全忠が鎮へ帰ると告げ、寿春殿で送別の宴を開き、さらに延喜楼で餞した。帝は軒に臨んで泣いて別れ、楼前で馬に乗らせた。帝はさらに全忠に詩を賜り、全忠も和して進め、あわせて楊柳枝の辞五首を賜った。百官が長楽駅で並んで送るなか、崔胤ひとりは霸橋まで送り、自ら餞の席を設け、夜二鼓にようやく城に戻った。帝はまた召して対し、全忠の様子を尋ね、酒宴を設け楽を奏し、四鼓に至ってようやく終えた。
  • 李克用の使者が晋陽に戻って崔胤の横暴を語ると、克用は「胤は人臣でありながら外は賊の勢いに拠り、内はその君を脅している。朝政を執ったうえに兵権も握った。権が重ければ怨みが多く、勢いが並べば釁が生じる。家を破り国を亡ぼすのは目の前だ」と言った。
  • 夏五月、崔胤は「左右の龍武・羽林・神策などの軍は名ばかりで実がなく、侍衛は手薄です。各軍に歩兵四将(一将二百五十人)、騎兵一将(百人)を募り、合わせて六千六百人とし、壮健な者を選んで交代で侍衛させたい」と奏し、認められた。六軍諸衛副使・京兆尹の鄭元規に規格を定めて市で募集させた。
  • 冬十月辛巳、宿衛都指揮使の朱友倫が客と左軍で打毬をしていて落馬して死んだ。全忠は悲しみ怒り、崔胤が故意にやらせたのではと疑い、同席していた十余人をことごとく殺し、兄の子の友諒を代わりに宿衛を掌らせた。
  • はじめ崔胤は朱全忠の兵力を借りて宦官を誅した。全忠は李茂貞を破って関中を併呑し威は天下を震わせ、ついに簒奪の志を抱いた。胤は恐れ、全忠とは外面は親しくしながら内心はしだいに離れた。そこで全忠に「長安は茂貞のすぐ近くです。守禦の備えを欠かせません。六軍十二衛は名ばかりですから、募集して実を伴わせ、公に西を顧みる憂いをなくさせたい」と言った。全忠はその意図を知りながら曲げて従い、密かに麾下の壮士を応募させてその動きを探った。胤は気づかず、鄭元規らと兵器を整えて日夜休まなかった。朱友倫が死ぬと、全忠はいよいよ胤を疑い、かつ天子を洛陽へ遷そうとしていたので、胤が異を立てることを恐れた。

天祐元年(904年・洛陽遷都と昭宗弑逆)

  • 春正月、全忠は密かに上表し、「司徒兼侍中・判六軍十二衛事・充塩鉄転運使・判度支の崔胤は権を専らにして国を乱し、君臣を離間しています。その一党の刑部尚書兼京兆尹・六軍諸衛副使の鄭元規、威遠軍使の陳班らともども誅されたい」と請うた。
  • 乙巳、詔で胤を太子少傅・分司に降し、元規を循州司戸、班を溱州司戸に貶した。丙午、詔を下して胤らの罪状を挙げ、裴枢に左三軍事を判じさせて塩鉄転運使とし、独孤損に右三軍事を判じさせ判度支を兼ねさせた。胤が募った兵はすべて解散させた。兵部尚書の崔遠を中書侍郎、翰林学士・左拾遺の柳璨を右諫議大夫とし、ともに同平章事とした。璨は柳公綽の従孫である。
  • 戊申、朱全忠は密かに宿衛都指揮使の朱友諒に兵で崔胤の邸を囲ませ、胤および鄭元規・陳班と胤の親しい者数人を殺した。
  • 帝が華州にいたころから朱全忠はたびたび洛陽遷都を上表していた。帝は許さなかったが、全忠は常に東都留守・佑国節度使の張全義に宮室を修めさせていた。
  • 全忠が邠州を落としたとき、静難軍節度使の楊崇本の妻子を河中に人質に取った。崇本の妻は美しく、全忠は私通してから返した。崇本は怒り、人をやって李茂貞に「唐室はまさに滅びようとしている。父上はどうして座視するに忍びるのか」と言わせ、そこで兵を連ねて京畿を侵し迫り、李継徽の姓名に戻した。
  • 己酉、全忠は兵を率いて河中に屯した。丁巳、帝が延喜楼に出御すると、全忠は牙将の寇彦卿に表を奉じさせ、「邠州・岐州の兵が畿甸に迫っております。洛陽へ遷都されたい」と述べた。帝が楼を降りたときには、裴枢はすでに全忠の書を得て百官の東行を促していた。
  • 戊午、士民を追い立てて移し、号泣の声は路に満ち、「賊臣の崔胤が朱温を呼んで社稷を覆し、我らをここまで流離させた」と罵った。老幼が数珠つなぎとなり、一月余り絶えなかった。
  • 壬戌、車駕が長安を発った。全忠は将の張廷範を御営使とし、長安の宮室・百司および民間の家屋を壊し、その材木を渭水に浮かべて黄河沿いに下した。長安はこれ以後、丘墟となった。
  • 全忠は河南・河北の諸鎮から丁匠数万を徴発して張全義に東都の宮室を造らせ、江浙・湖嶺の諸鎮で全忠に付く者はいずれも貨財を送って助けた。
  • 甲子、車駕が華州に至ると、民は道の両側で万歳を呼んだ。帝は泣いて「万歳と呼ぶな。朕はもうそなたらの主ではない」と言った。興徳宮に泊まり、侍臣に「俗謡に『紇干山の頂で凍え死ぬ雀よ、なぜ飛び去って生まれ故郷で楽しまぬ』とある。朕は今漂泊して、どこへ落ち着くとも知れぬ」と言い、涙が襟を濡らした。左右は仰ぎ見ることもできなかった。
  • 二月乙亥、車駕は陝州に至り、東都の宮室が未完成のため陝州に留まった。丙子、全忠が河中から来朝すると、帝は全忠を寝室へ招き入れて何后に会わせた。后は泣いて「これからは大家(陛下)夫婦の身を全忠に委ねます」と言った。
  • 三月丁未、朱全忠に左右神策および六軍諸衛の事を兼判させた。癸丑、全忠は私邸に酒を置いて帝の臨幸を請うた。
  • 乙卯、全忠は辞して先に洛陽へ行き宮室の修築を督することとした。帝が宴を開き、群臣が退くと、帝は全忠と忠武節度使の韓建だけを留めて飲んだ。皇后が出て自ら玉巵を捧げて全忠に飲ませ、晋国夫人の可証が帝の耳に何か囁いた。韓建が全忠の足を踏んだので、全忠は自分を図るのかと思って飲まず、酔ったふりをして退出した。
  • 全忠は長安を佑国軍とし韓建を佑国節度使、鄭州刺史の劉知俊を匡国節度使とするよう奏した。
  • 丁巳、帝はまた密使に絹の詔を持たせて王建・楊行密・李克用らに急を告げ、藩鎮を糾合して匡復を図るよう命じ、「朕が洛陽に着けば幽閉され、詔敕はすべて彼の手から出る。朕の意はもう通じられぬ」と述べた。
  • 夏四月辛巳、朱全忠は洛陽の宮室が完成したので車駕の早い出発を求め、表を次々に上った。帝は再三宮人を送って、皇后が出産したばかりで旅に堪えぬので十月まで待ってほしいと諭した。全忠は帝がぐずついて変事を待っているのではと疑って激しく怒り、牙将の寇彦卿に「おまえは速やかに陝州へ行き、その日のうちに百官を出発させろ」と言った。
  • 閏月丁酉、車駕が陝州を発ち、壬寅、全忠が新安で迎えた。帝が陝州にいたころ、司天監が「星気に変があり、期は今秋、東行に不利です」と奏したので、帝は十月に洛陽へ行こうとしたのである。全忠は医官の許昭遠に告発させ、医官使の閻祐之、司天監の王墀、内都知の韋周、晋国夫人の可証らが元帥の殺害を謀ったとして、すべて捕えて殺した。
  • 癸卯、帝は穀水で休息した。崔胤の死後、六軍は散り尽くし、残るのは打毬供奉と内園の小児合わせて二百余人が帝に従って東へ来ていた。全忠はそれさえ忌み、幕を張って食事を出し、皆縊り殺した。あらかじめ大きさや背格好の似た二百余人を選んでその衣服を着せて代え、侍衛させた。帝は初め気づかず、数日たってようやく悟った。以後、帝の左右で職務にあたる者はすべて全忠の人になった。
  • 甲辰、車駕は穀水を発って宮に入り、正殿に出て朝賀を受けた。乙巳、光政門に出て天下を赦して改元し、陝州を興唐府と改め、李茂貞と楊崇本の討伐を詔した。
  • 戊寅、勅で内諸司は宣徽など九使だけを残して他はすべて廃止し、内夫人を使に充てぬこととし、蔣玄暉を宣徽南院使兼樞密使、王殷を宣徽北院使兼皇城使、張廷範を金吾将軍・街使とし、韋震を河南尹兼六軍諸衛副使とした。また武寧留後の朱友恭を左龍武統軍、保大節度使の氏叔琮を右龍武統軍として宿衛を掌らせた。いずれも全忠の腹心である。
  • 癸丑、張全義を天平節度使とした。乙卯、全忠を護国・宣武・宣義・忠武の四鎮節度使とした。
  • 五月、帝は朱全忠と百官を崇勲殿で饗し、終わってからまた全忠を内殿の宴に召したが、全忠は疑って入らなかった。帝が「全忠が来たくないなら、敬翔を来させよ」と言うと、全忠は翔に目配せして去らせ、「翔も酔いました」と言った。辛未、全忠は東へ帰り、乙亥、大梁に至った。
  • はじめ朱全忠は鳳翔から車駕を迎えて還ったとき、徳王・李裕の眉目が秀でていて年齢も長じているのを見て憎み、密かに崔胤に「徳王はかつて帝位を犯した。どうして残しておけるか。公はなぜ言わぬのか」と言った。胤が帝に言い、帝が全忠に問うと、全忠は「陛下の父子の間のことに臣がどうして口を挟めましょう。これは崔胤が臣を売ったのです」と答えた。
  • 帝は長安を離れて以来、不測を憂え、皇后と終日酒に沈み、向かい合って涙を流すこともあった。全忠は樞密使の蔣玄暉に帝の動静を探らせ、すべて知っていた。帝はくつろいだ折に玄暉に「徳王は朕の愛子だ。全忠はなぜ執拗に殺そうとするのか」と言い、涙を流して中指を噛み、血が流れた。玄暉がこれを全忠に伝えると、全忠はいよいよ落ち着かなくなった。
  • 当時、李茂貞・楊崇本・李克用・劉仁恭・王建・楊行密・趙匡凝が檄を往来させ、いずれも唐の興復を名分としていた。全忠はまさに兵を率いて西へ討とうとしていたが、帝に英気があるので内から変が起こることを恐れ、幼君を立てて禅代を謀りやすくしようと考えた。そこで判官の李振を洛陽へ送り、玄暉および左龍武統軍の朱友恭、右龍武統軍の氏叔琮らと図らせた。
  • 八月壬寅、帝は椒殿にいた。玄暉は龍武の牙官・史太ら百人を選び、夜に宮門を叩いて「軍前に急奏があり、直接お目にかかりたい」と言わせた。夫人の裴貞一が門を開けて兵を見て「急奏になぜ兵が要るのか」と言うと、史太が殺した。玄暉が「至尊はどこか」と問うと、昭儀の李漸栄が軒に臨んで「我らを殺しても大家を傷つけるな」と叫んだ。帝は酔っていたが、あわてて起き上がり、単衣で柱を回って逃げた。史太は追って弑した。漸栄が身を挺して帝を庇うと、太はこれも殺した。さらに何后を殺そうとしたが、后が玄暉に哀れみを乞うたので釈した。
  • 癸卯、蔣玄暉は詔と偽って「李漸栄と裴貞一が弑逆した」と称し、輝王の李祚を皇太子に立てて名を祝と改め監軍国事とし、さらに皇后の令と偽って太子に柩前で即位させた。宮中は恐れて声を上げて哭くこともできなかった。丙午、昭宣帝が即位した。時に十三歳だった。
  • 冬十月、朱全忠は朱友恭らが昭宗を弑したと聞き、驚いたふりをして号哭し、自ら地に身を投げて「奴輩は私に背き、私に万代の悪名を負わせた」と言った。癸巳、東都に至って梓宮に伏して慟哭し、帝に会って自分の意志ではなかったと述べ、賊の討伐を請うた。
  • これに先立ち、護駕の軍士に市で米を掠める者があった。甲午、全忠は「朱友恭と氏叔琮は士卒を統制せず市肆を侵し騒がせた」と奏し、友恭を崖州司戸に貶して李彦威の姓名に戻し、叔琮を白州司戸に貶し、まもなくいずれも自尽を賜った。彦威は刑に臨んで大声で「私を売って天下の謗りを塞ぐか。鬼神をどうするつもりだ。こんなことをして後嗣を望めるものか」と叫んだ。
  • 丙申、天平節度使の張全義が来朝した。丁酉、あらためて全忠を宣武・護国・宣義・天平節度使とし、全義を河南尹兼忠武節度使・判六軍諸衛事とした。乙巳、全忠は鎮へ赴くと辞し、庚戌、大梁に至った。

昭宣帝天祐二年(905年・白馬駅の惨劇)

  • 春二月戊戌、全忠は蔣玄暉に昭宗の諸子——徳王の裕、棣王の祤、虔王の禊、沂王の禋、遂王の禕、景王の秘、祁王の祺、雅王の禛、瓊王の祥を九曲池の酒宴に招かせ、酒が回るとことごとく縊り殺して屍を池に投げ込んだ。
  • 三月戊寅、門下侍郎・同平章事の独孤損を同平章事・静海節度使とし、礼部侍郎の張文蔚(河間の人)を同平章事とした。甲申、門下侍郎・同平章事の裴枢を左僕射、崔遠を右僕射とし、ともに政事から外した。
  • はじめ柳璨は及第して四年たたぬうちに宰相となった。性は傾巧で軽佻、当時、天子の左右はすべて朱全忠の腹心だったので、意を曲げて仕えた。同列の裴枢・崔遠・独孤損はいずれも朝廷の宿望で璨を軽んじたので、璨はこれを恨んだ。
  • 和王傅の張廷範はもと俳優で全忠に寵愛され、太常卿に推されたが、枢は「廷範は勲臣で、幸い方鎮もある。なぜ楽卿の職を要するのか。元帥の意向でもあるまい」と言って通さなかった。全忠はこれを聞いて賓佐に「私はかねて裴十四の器識は純真で浮薄の党に入らぬと思っていたが、この議論を見るとその本性が露わになった」と言った。璨はこれに乗じて遠と損もあわせて全忠に讒言し、三人は罷免された。
  • 夏五月乙丑、彗星が天を貫くほど長く現れた。柳璨は朱全忠の勢いを恃んで思うまま威福を行っていたが、星変が起こると、占者が「君臣ともに災いがある。誅殺で応じるべきだ」と言った。璨はこれに乗じて、かねて気に入らぬ者を書き連ねて全忠に「この者たちはみな徒党を組んで放言し、怨望して腹の内で非難しております。これで災異を塞ぐべきです」と言った。
  • 李振も全忠に「朝廷が治まらぬのは、まさに衣冠の浮薄な徒が綱紀を乱しているためです。しかも王が大事を図られるにあたり、この者たちこそ朝廷で最も制しがたい連中です。すべて除くに越したことはありません」と言い、全忠はもっともと思った。
  • 癸酉、独孤損を棣州刺史、裴枢を登州刺史、崔遠を莱州刺史に貶した。乙亥、吏部尚書の陸扆を濮州司戸、工部尚書の王溥を淄州司戸に貶した。庚辰、太子太保で致仕した趙崇を曹州司戸、兵部侍郎の王賛を濰州司戸に貶した。その他、門地が高い者や科挙で進んだ者、三省・台閣にあって名節を守り評判の高い者は、皆「浮薄」と指弾されて貶され追われ、その日は絶えず、縉紳の士は一掃された。辛巳、裴枢を瀧州司戸、独孤損を瓊州司戸、崔遠を白州司戸に再貶した。
  • 六月戊子朔、勅で裴枢・独孤損・崔遠・陸扆・王溥・趙崇・王賛らにそれぞれ所在地で自尽を賜った。このとき全忠は枢らと貶官された朝士三十余人を白馬駅に集め、一夜のうちに皆殺しにして屍を黄河に投げ込んだ。
  • はじめ李振はたびたび進士に応じて及第しなかったので、深く搢紳の士を憎み、全忠に「この輩は常に自ら『清流』と称している。黄河に投げ込んで濁流にしてやるべきです」と言い、全忠は笑って従った。振が汴から洛陽へ来るたび朝臣に必ず追放される者が出たので、時の人は「鴟梟」と呼んだ。振は朝士に会うと顎で指図し気で使い、傍らに人なきがごとくだった。
  • 全忠はかつて僚佐や遊客と大きな柳の下に座り、ひとり「この木は車轂によかろう」と言った。皆が応じないなか、遊客数人が立ち上がって「車轂によろしゅうございます」と応じた。全忠は勃然と声を荒らげて「書生どもは口を合わせて人をからかうのが好きだ。どいつもこいつもこうだ。車轂には夹楡を使うもの、柳がどうして使えるか」と言い、左右を顧みて「何を待っている」と言った。左右数十人が「車轂によい」と言った者を引き倒して撲殺した。
  • 冬十月丙戌朔、朱全忠を諸道兵馬元帥とし、別に幕府を開かせた。この日、全忠は将士を差配して大梁へ帰ろうとしたが、急に考えを変えて勝ちに乗じて淮南を撃とうとした。敬翔が「今、出師して一月もたたぬうちに二つの大鎮を平らげ、地を数千里開きました。遠近これを聞いて震え上がらぬ者はありません。この威望は惜しむべきです。ひとまず帰って兵を休め、隙を待って動かれるべきです」と諫めたが、聞かなかった。
  • 辛卯、全忠は襄州を発ち、壬辰、棗陽に至って大雨に遭った。申州から光州へ至る道は険しく狭く、ぬかるみで人馬は疲れ、士卒はまだ冬服がなく逃亡が多かった。全忠は人をやって光州刺史の柴再用に「降れば蔡州刺史にしてやる。降らねば城を屠る」と言わせた。再用は守備を厳しくし、戎服で城に登って全忠を見るときわめて恭しく拝伏して「光州は城が小さく兵も弱く、王の威怒を煩わせるに足りません。王がまず寿州を落とされたら、命に従わぬはずがありません」と言った。全忠はその城の東に十日留まって去った。
  • 戊申、全忠は光州を発ったが百余里も道に迷い、また雨に遭った。寿州に着いたときには寿州の人が堅壁清野で待ち構えていた。全忠は囲もうとしたが柵にする林木もなく、退いて正陽に屯した。
  • 十一月丙辰、全忠は淮を渡って北へ向かった。柴再用がその後軍を襲って三千級を斬り、輜重を万を数えるほど得た。全忠は悔いて、いよいよ苛立ち怒った。丁卯、大梁に至った。

天祐二年〜三年(905-906年・禅譲への道)

  • これに先立ち、全忠は禅譲を急ぎ、密かに蔣玄暉らに謀らせた。玄暉は柳璨らと議し、「魏晋以来、いずれもまず大国に封じ九錫と殊礼を加えたうえで受禅している。順を追って行うべきだ」として、まず全忠を諸道元帥として段階を示し、刑部尚書の裴迪を告知の使者とした。
  • 全忠は激怒した。宣徽副使の王殷と趙殷衡は玄暉の権勢を妬んでその地位を得ようと、全忠に「玄暉と璨らは唐の命脈を延ばそうとして事を引き延ばし変事を待っているのです」と讒言した。玄暉はこれを聞いて恐れ、自ら寿春へ来て事情を述べた。
  • 全忠は「おまえたちは巧みに余計な事を並べて私を妨げる。仮に私が九錫を受けずとも、天子になれぬとでもいうのか」と言った。玄暉は「唐の命運は尽き、天命は王に帰しました。愚者も智者も皆知っております。玄暉と柳璨らはあえて徳に背く気などありません。ただ今、晋・燕・岐・蜀はいずれも我らの強敵です。王がにわかに受禅されれば彼らは心服せず、義理を尽くしたうえで取らねばなりません。王のために万代の業を創ろうとしているのです」と述べた。全忠は「奴め、やはり叛いたか」と叱りつけ、玄暉は狼狽して辞去し、柳璨と九錫の実施を議した。
  • 当時、天子は郊祀を行おうとして百官はすでに儀を習っていたが、裴迪が大梁から戻り、全忠が怒って「柳璨と蔣玄暉らは唐の命脈を延ばそうとして郊天を行うのだ」と言ったと伝えた。璨らは恐れ、庚午、勅で来年正月の上辛に改めた。
  • 柳璨と蔣玄暉らが全忠に九錫を加えることを議すると、朝士の多くは密かに憤りを抱いたが、礼部尚書の蘇循ひとりが「梁王の功業は顕大で、暦数の帰するところです。朝廷は速やかに揖譲すべきです」と公言し、朝士で逆らう者はなかった。
  • 辛巳、全忠を相国として百揆を総べさせ、宣武・宣義・天平・護国・天雄・武順・佑国・河陽・義武・昭義・保義・戎昭・武定・泰寧・平盧・忠武・匡国・鎮国・武寧・忠義・荊南など二十一道を魏国として魏王に進封し、あわせて九錫を加えた。全忠はその遅さに怒って辞退して受けなかった。
  • 十二月戊子、樞密使の蔣玄暉に手詔を持たせて全忠のもとへ行かせ意を諭させた。癸巳、玄暉が大梁から戻って全忠の怒りが解けぬと伝えた。甲午、柳璨が「人望は梁王に帰しております。陛下が重荷を降ろされるのは今こそです」と奏し、その日のうちに璨を大梁へ送って禅譲の意を伝えさせたが、全忠は拒んだ。
  • はじめ璨が朝士を陥れることが度を越したので、全忠もこれを憎んだ。璨は蔣玄暉・張廷範と朝夕宴を共にして深く結び、全忠のために禅代の事を謀っていた。何太后は泣いて宮人の阿秋・阿虔を送って玄暉に意を伝え、他日、禅譲後に母子の生存を求めたいと語らせた。
  • 王殷と趙殷衡は「玄暉は柳璨・張廷範と積善宮で夜宴を開き、太后に対して香を焚いて誓い、唐の命脈の興復を期しております」と讒言し、全忠は信じた。乙未、玄暉および豊徳庫使の応頊、御厨使の朱建武を捕えて河南の獄に繋ぎ、王殷に樞密を代行させ、趙殷衡に宣徽院事を代判させた。
  • 全忠は三度上表して魏王と九錫の命を辞し、丁酉、詔でこれを許し、あらためて天下兵馬元帥とした。だが全忠はすでに大梁の府舎を宮闕に改修していた。
  • この日、蔣玄暉を斬り、応頊と朱建武を杖殺した。庚子、樞密使と宣徽南院使を省いて宣徽使一員だけを置き、王殷を任じ、趙殷衡を副使とした。辛丑、勅で宮人が詔命を伝達することと視朝に随行することを廃した。蔣玄暉を凶逆として追削し、河南に命じて屍を都門の外に掲げ、衆を集めて焼かせた。
  • 玄暉の死後、王殷と趙殷衡はさらに「玄暉が私かに何太后に侍り、阿秋・阿虔に取り次がせていた」と誣告した。己酉、全忠は密かに殷と殷衡に太后を積善宮で殺させ、勅で太后を庶人に追廃し、阿秋・阿虔はいずれも殿前で撲殺した。庚戌、皇太后の喪により三日朝を廃した。辛亥、勅で宮禁の内乱を理由に来年正月上辛の郊廟拝謁の礼を取りやめた。
  • 癸丑、守司空兼門下侍郎・同平章事の柳璨を登州刺史、太常卿の張廷範を莱州司戸に貶した。甲寅、璨を上東門の外で斬り、廷範を都の市で車裂きにした。璨は刑に臨んで「国を負いし賊、柳璨が死ぬのは当然だ」と叫んだ。

後梁太祖開平元年(907年・唐の滅亡)

  • はじめ梁王は河北の諸鎮が皆服し、ただ幽州・滄州だけが従わないので、大挙して伐って諸鎮の心を固めようとした。ところが潞州で内応の叛乱が起き、王は営を焼いて帰り、威望はひどく損なわれた。内外の心がこれで離れることを恐れ、速やかに受禅して鎮めようとした。
  • 丁亥、王は魏に入って館し、病んで府中に臥した。魏博節度使の羅紹威は王が自分を襲うのではと恐れ、拝謁して「今、四方で兵を称して王の患いとなる者は、いずれも唐室を翼戴することを名分としております。王は早く唐を滅ぼして人望を絶たれるに如くはありません」と言った。王は許さなかったが内心恩に着て、急ぎ帰った。壬寅、大梁に至った。
  • 甲辰、唐の昭宣帝は御史大夫の薛貽矩を大梁へ遣わして王を労った。貽矩が臣の礼で会いたいと請い、王が会釈して階を上らせようとすると、貽矩は「殿下の功徳は人にあり、三霊の卜も改まりました。皇帝はまさに舜・禹の事を行おうとされております。臣がどうして違えましょう」と言い、北面して庭で拝舞した。王は身を横にして避けた。
  • 貽矩は帰って帝に「元帥には受禅の意があります」と言い、帝は詔を下して二月に梁へ譲位することとし、さらに宰相に書を送って王に諭させた。王は辞退した。
  • 二月、唐の大臣がこぞって昭宣帝に遜位を請い、壬子、詔で宰相に百官を率いて元帥府へ行って即位を勧めさせた。王は使者を送って却けた。こうして朝臣・藩鎮から湖南・嶺南に至るまで、牋を上って即位を勧める者が相次いだ。
  • 三月庚寅、昭宣帝は薛貽矩に再び大梁へ行って禅位の意を諭させ、また礼部尚書の蘇循に百官の牋を持たせて大梁へ行かせた。
  • 甲辰、昭宣帝が御札を降して梁に禅位した。摂中書令の張文蔚を冊使、礼部尚書の蘇循をその副、摂侍中の楊渉を押伝国宝使、翰林学士の張策をその副、御史大夫の薛貽矩を押金宝使、尚書左丞の趙光逢をその副とし、百官を率い法駕を備えて大梁へ向かわせた。
  • 楊渉の子で直史館の凝式が渉に言った。「大人は唐の宰相でありながら国家がここまで至った以上、過ちがないとは言えません。まして手ずから天子の璽綬を人に渡すのです。富貴は保てても千載の後にどう申し開きされるのか。辞退なさるべきです」。渉は大いに驚き、「おまえは私の一族を滅ぼすつもりか」と言い、幾日も顔色が優れなかった。
  • 夏四月、梁王は初めて金祥殿に出て百官の称臣を受け、下す文書を「教令」と称し、自ら「寡人」と称した。辛亥、諸々の牋表・簿籍から唐の年号を除き、月日だけを記させた。丙辰、張文蔚らが大梁に至った。
  • 壬戌、梁王は名を晃と改めた。王の兄・全昱は王が即位すると聞き、王に「朱三よ、おまえが天子になれるものか」と言った。
  • 甲子、張文蔚と楊渉が輅に乗って上源駅から冊と宝に従い、諸司がそれぞれ儀衛と鹵簿を備えて先導し、百官がその後に従って金祥殿の前に至って並べた。王は袞冕を着けて皇帝に即位した。張文蔚と蘇循が冊を奉じて殿に登って読み上げ、楊渉・張策・薛貽矩・趙光逢が順に宝を奉じて殿に登った。読み終えると降りて百官を率いて舞蹈して称賀した。
  • 帝はそのまま文蔚らと玄徳殿で宴を開き、杯を挙げて「朕が輔政して間もないのに、これはみな諸公の推戴の力だ」と言った。文蔚らは皆恥じ恐れて俯し伏して答えられず、ただ蘇循・薛貽矩および刑部尚書の張禕だけが帝の功徳を盛んに称え、天に応じ人に順うべきだと述べた。
  • 帝はさらに宗戚と宮中で飲み博打を打った。酒が回ると朱全昱が突然、賽を盆に叩きつけて散らし、帝を睨んで言った。「朱三よ、おまえはもともと碭山の一民だ。黄巣に従って盗をし、天子がおまえを四鎮の節度使に用いて富貴は極まった。それを一朝にして唐家三百年の社稷を滅ぼし、自ら帝王を称するとは。いずれ族滅されよう。博打などしていられるか」。帝は不快なまま散会した。
  • 乙丑、有司に天地・宗廟・社稷に告げさせた。丁卯、使者を送って州鎮に宣諭した。戊辰、大赦して改元し、国号を大梁とした。唐の昭宣帝を済陰王として奉じ、いずれも前代の故事どおりとした。唐の内外の旧臣の官爵はすべて元のままとした。汴州を開封府として東都と称し、旧東都を西都とし、旧西京を廃し、京兆府を大安府として佑国軍を置いた。魏博を天雄軍と改めた。済陰王を曹州へ移し、周囲に棘を植えて甲士に守らせた。

開平二年春二月(908年)

  • 癸亥、済陰王を曹州で毒殺し、唐の哀皇帝と追諡した。