通鑑紀事本末朱温、淄青を取る(朱温取淄青)

平盧節度使の王師範が、鳳翔に幽閉された天子を救うべく朱全忠討伐の兵を挙げ、逆に淄青一道を奪われるまでの経緯。諸州同時蜂起の計画は漏れて失敗し、劉鄩が兖州を取っただけに終わる。淮南の王茂章の援軍を得て朱友寧を斬るものの、朱全忠自ら二十万を率いて攻め寄せ、楊師厚に破られて降伏。903年から905年、最後は李振に交代させられ河陽へ移された。

年表(3件)

昭宗天復三年春正月(903年・王師範の挙兵)

  • 平盧節度使の王師範はかなり学問を好み、忠義をもって自ら任じ、統治にも実績と評判があった。朱全忠が鳳翔を囲んだとき、韓全誨が詔書で藩鎮の兵を召して乗輿を救援させようとした。師範はこれを見て涙を流し、「我らは帝室の藩屏だ。天子がこれほど困窮し辱められているのを座視し、それぞれ強兵を擁して自衛するだけでよいものか」と言った。
  • 折しも張濬も長水から書を送って義兵を挙げるよう勧めた。師範は「張公の言はまさに私の意に合う。何を迷うことがあろう。力が足りずとも生死を賭してやる」と言った。
  • 当時、関東の兵の多くは全忠に従って鳳翔にいた。師範は諸将を分けて派し、貢納や商売を装って荷に武器を包み、小車に載せて汴・徐・兖・鄆・斉・沂・河南・孟・滑・河中・陝・虢・華などの州へ送り込み、同日に一斉に蜂起して全忠を討つ手はずとした。
  • ところが諸州へ向かった者の多くは計画が漏れて捕えられ、ただ行軍司馬の劉鄩だけが兖州を取った。当時、泰寧節度使の葛従周は兵をすべて率いて邢州に屯していた。鄩はまず人を油売りに仕立てて入城させ、手薄な箇所と兵の入り口を探らせた。丙午、鄩は精兵五百を率いて夜に水路の口から入り、明け方には軍城をすべて制圧したが、市の人は誰も気づかなかった。
  • 鄩は府舎を押さえると従周の母に拝謁し、毎朝伺候し、その妻子をきわめて手厚く礼遇した。子弟の職務も供給も従前どおりとした。
  • この日、青州の牙将・張居厚が壮士二百を率いて小車で華州の東城に至った。知州事の婁敬思が怪しんで荷を割いて調べると、一党は大声を上げて敬思を殺し、西城を攻めた。当時華州にいた崔胤が衆を率いて防いだが果たせず、商州まで逃げたところで追いつかれて捕えられた。
  • 全忠は節度判官の裴迪を大梁に残して守らせていた。師範が走卒に書を持たせて大梁へ送ったとき、迪が東方の事情を尋ねると走卒の顔色が変わった。迪は変事を察して人払いして問い、走卒はすべて実情を告げた。迪は全忠に報せる暇もなく、急ぎ馬歩都指揮使の朱友寧に一万余を率いさせて東の兖州・鄆州を巡らせた。友寧は葛従周を邢州から呼んでともに師範を攻めた。全忠も変を聞いて兵を分けて先に帰らせ、友寧に併せ率いさせた。
  • 王師範は使者を送って挙兵を李克用に告げ、克用は書を送って賞讃した。河東監軍の張承業も克用に出兵して鳳翔を救うよう勧めた。克用は晋州を攻めたが、車駕が東へ還ったと聞いて取りやめた。

天復三年(903年・青州攻防)

  • 三月戊午、朱全忠が大梁に至った。王師範の弟・師魯が斉州を包囲したが、朱友寧が兵を率いて撃退した。師範が兵を送って劉鄩の軍を増強しようとしたが、友寧が撃って奪ったので、兖州は援軍を絶たれ、葛従周が包囲した。友寧は青州へ進攻し、戊辰、全忠が四鎮と魏博の兵十万で続いた。
  • 夏四月、王師範が淮南に救援を求め、乙未、楊行密は将の王茂章に歩騎七千を率いさせて救わせ、さらに別将に数万を率いさせて宿州を攻めさせた。全忠が将の康懐英を宿州の救援に送ると、淮南の兵は逃げ去った。
  • 五月、朱友寧が博昌を一月余り攻めても落とせず、全忠は怒って客将の劉捍を督戦に送った。捍が着くと、友寧は民の丁壮十余万を駆り立てて木石を負わせ牛驢を牽かせて城南へ行き土山を築かせたが、着いた者を人畜も木石もろとも押し込めて突き固めた。冤みを訴える声は数十里に聞こえた。まもなく城は陥ち、皆殺しにされた。
  • 進んで臨淄を落とし青州城下に至り、別将に登州・莱州を攻めさせた。淮南の将・王茂章は王師範の弟で莱州刺史の師誨と合わせて密州を攻め落とし、刺史の劉康乂を斬り、淮海都遊奕使の張訓を刺史とした。
  • 六月乙亥、汴の兵が登州を落とした。師範は登州・莱州の兵を率いて石楼で朱友寧を防ぎ、二つの柵を築いた。丙子の夜、友寧が登州の柵を攻め、柵中が急を告げた。師範が茂章に出戦を促したが、茂章は動かなかった。友寧は登州の柵を破って莱州の柵へ進攻した。明け方、茂章は敵兵が疲れたと見て師範と兵を合わせて出戦し、大破した。友寧は傍らの険しい丘から騎馬で敵に駆けたが、馬が倒れたところを青州の将・張土梟が斬り、首を淮南へ送った。両鎮の兵は北の米河まで進み、捕殺は一万を数え、魏博の兵はほぼ全滅した。
  • 全忠は友寧の死を聞き、自ら二十万を率いて昼夜兼行で赴いた。秋七月壬子、臨朐に至って諸将に青州を攻めさせた。王師範が出戦すると汴の兵が大破した。
  • 王茂章は塁を閉じて怯えを装い、汴の兵がやや緩んだ隙を見て柵を壊して出撃し、馬を駆って激しく戦い、戦いが酣になると退いて座り、諸将を呼んで酒を飲み、そのうえでまた戦った。全忠は高所から望み見て、降人に問うて茂章と知り、「この人を将に得られたら、天下の平定など造作もないのに」と嘆じた。晡の刻になって汴の兵はようやく退いた。
  • 茂章は衆寡敵せずと判断し、その夕に軍を引き揚げた。全忠は曹州刺史の楊師厚に追わせ、輔唐で追いついた。茂章は先鋒指揮使の李虔裕に五百騎で殿を務めさせ、虔裕は決死の戦いをしたが、師厚が捕えて殺した。師厚は潁州の人である。
  • 張訓は茂章が去ったと聞いて諸将に「汴の人が来る。どう防ぐか」と言った。諸将が城を焼いて大掠して帰ることを請うと、訓は「それはならぬ」と言い、府庫を封じ、城上に旗を立て、弱兵を前に置き、自ら精兵で殿を務めて去った。全忠が左踏白指揮使の王檀に密州を攻めさせると、着いても旗が見えるため数日たってようやく入城した。府庫も城邑も無傷だったので、それ以上訓を追わず、訓は全軍を保って帰った。全忠は檀を密州刺史とした。
  • 八月戊辰朔、全忠は斉州刺史の楊師厚を残して青州を攻めさせ、自らは大梁へ帰った。
  • 楊師厚は臨朐に屯し、密州へ向かうと言い触らして輜重を臨朐に残した。九月癸卯、王師範が兵を出して臨朐を攻めると、師厚は伏兵で奮撃して大破し、一万余人を殺し、師範の弟の師克を捕えた。翌日、莱州の兵五千が青州を救おうとしたが、師厚が迎え撃ってほぼ殲滅し、そのまま寨を移して城下に迫った。
  • 戊午、王師範が副使の李嗣業と弟の師悦を送って楊師厚に降伏を請い、「師範があえて恩に背いたのではありません。韓全誨と李茂貞が朱書の御札で挙兵させたので、師範は背けなかったのです」と述べ、弟の師魯を人質に出したいと申し出た。
  • 当時、朱全忠は李茂貞と楊崇本が挙兵して京畿に迫ろうとしていると聞き、また天子を西へ連れ去られることを恐れ、車駕を迎えて洛陽に都しようと考えていた。そこで師範の降伏を受け入れ、諸将を選んで登・莱・淄・棣などの州を守らせ、師範を淄青留後代行とした。師範は「先に行軍司馬の劉鄩に五千を率いさせて兖州を押さえさせたのは彼の独断ではありません。その罪をお赦しください」と申し出、あわせて使者を鄩にも送った。
  • 葛従周が兖州を攻めたとき、劉鄩は従周の母を板輿に乗せて城に登らせ、従周に語らせた。「劉将軍は私に仕えることそなたと変わらず、嫁たちも皆安らかに暮らしている。人はそれぞれ自分の主のために働くもの。よく察するように」。従周は嗚咽して退き、攻城はそれで緩んだ。
  • 鄩は婦人と老病の者など敵に当たれぬ者をすべて選んで城外へ出し、若く壮健な者とだけ苦労を共にし、衣食を分け合って堅く守って敵を防いだ。号令は整い、兵は暴を働かず、民は皆安堵した。
  • 長引いて外の援けが絶えると、節度副使の王彦温が城を越えて出て降り、城上の兵の多くが従って止められなくなった。鄩は人を送ってさりげなく彦温に「もともと派遣した者でない兵は多く連れて行かれるな」と伝え、また城上に触れを出して「もともと派遣した者でないのに副使に従って勝手に行く者は族滅する」と告げさせた。士卒は惑って出られなくなり、敵は果たして彦温を疑って城下で斬った。これで衆心はいっそう固まった。
  • 王師範が力尽きると、従周は禍福を説いて諭したが、鄩は「王公の命でこの城を守っている。王公が勢いを失ったからといって、その命を待たずに降るのは上に仕える道ではない」と言った。師範の使者が来て、丁丑、初めて出て降った。従周は旅装を整えて鄩を大梁へ送った。
  • 鄩は「降将は梁王の寛大なご処置を受けておりません。どうして馬に乗り裘を着られましょう」と言い、素服で驢に乗って大梁に至った。全忠が冠と帯を賜っても辞退し、囚人の服で拝謁したいと請うたが許されなかった。全忠は労って酒を勧めたが、鄩は「量が小さいので」と辞した。全忠は「兖州を取ったときの量はどれほど大きかったのか」と言い、元従都押牙とした。
  • 当時、四鎮の将吏はいずれも功臣の古参だったが、鄩は降将の身で一朝にしてその上に立った。諸将が軍礼で庭に拝しても鄩は平然と座して受けたので、全忠はいよいよ非凡と見た。まもなく保大留後とするよう上表した。葛従周が長患いだったので、全忠は康懐英を泰寧節度使に代えた。

昭宣帝天祐二年(905年・王師範の失脚)

  • 春正月庚午、朱全忠は李振に青州事を掌らせ、王師範に代えた。
  • 二月、李振が青州に至り、王師範は一族を挙げて西へ移り、濮陽に至って素服で驢に乗って進んだ。大梁に至ると全忠は客として遇し、李振を青州留後とするよう上表した。
  • 三月庚午、王師範を河陽節度使とした。