通鑑紀事本末李克用、唐に帰服する(李克用歸唐)

沙陀の李克用が雲州の兵乱に乗じて自立し、父の李国昌とともに唐に叛いて敗走したのち、黄巣討伐の必要から召し出されて帰順するまで。乾符五年(878)から中和二年(882)まで。克用は李尽忠らに推されて段文楚を殺し大同を握るが、李琢・李可挙・赫連鐸に破られて達靼へ逃れた。黄巣が長安を陥れると陳景思・楊復光らの働きかけで召還され、鴈門節度使を授けられて四万の兵を率い河中に至り、黄巣討伐に向かう。

年表(4件)

僖宗乾符五年(878年・雲州の兵乱)

  • 振武軍節度使・李国昌の子である李克用は沙陀副兵馬使として蔚州に戍っていた。折しも河南で盗賊が蜂起し、雲州沙陀兵馬使の李尽忠は牙帳の康君立・薛志勤・程懐信・李存璋らと謀り、「今、天下は大乱し、朝廷の号令はもう四方に行われない。これこそ英雄が功名と富貴を立てる好機だ。我らはそれぞれ兵を擁しているが、李振武(李国昌)は功大きく官位も高く天下に名が聞こえ、その子は諸軍随一の勇者だ。彼を担いで事を起こせば代北の平定は難しくない」と語り合った。皆これに賛同した。君立は興唐の人、存璋は雲州の人、志勤は奉誠の人である。
  • そのころ大同防禦使の段文楚は水陸発運使を兼ねていたが、代北は飢饉が続いて漕運が滞り、文楚は軍士の衣糧を削り、しかも法の適用がやや厳しかったため、軍士は怨みを募らせていた。
  • 尽忠は康君立を密かに蔚州へ送り、克用に挙兵して文楚を除き取って代わるよう説かせた。克用が「父が振武にいる。まず伺いを立てねば」と言うと、君立は「もう計画が漏れています。手間取れば変事が起きる。千里先の指示を待つ暇はありません」と迫った。
  • 尽忠は夜、牙兵を率いて牙城を攻め、文楚と判官の柳漢璋らを捕えて獄に繋ぎ、自ら軍州の事を執って克用を呼んだ。克用は衆を率いて雲州へ向かい、道中で兵を集め、二月庚午に城下に至った。その衆は一万近く、闘鶏台の下に屯した。
  • 壬申、尽忠は使者を送って符印を届け、克用を防禦留後に推した。癸酉、尽忠が文楚ら五人に械をかけて闘鶏台の下へ送ると、克用は軍士に肉を切り取って食わせ、騎馬でその骸を踏みにじらせた。
  • 甲戌、克用は府舎に入って政務を執り、将士に上表させて勅命を求めたが、朝廷は許さなかった。
  • 李国昌は「早く大同防禦使を任命していただきたい。克用が命に背くなら、臣が本道の兵を率いて討ちます。一人の子を惜しんで国家に背くことはいたしません」と上言した。朝廷はちょうど国昌に克用を諭させようとしていたところへこの奏が届いたので、司農卿の支詳を大同軍宣諭使とし、国昌に詔して克用に通常どおりの儀礼で出迎えさせ、克用に与える官も必ず本人が満足するようにと命じた。また太僕卿の盧簡方を大同防禦使とした。
  • 朝廷は克用が雲中を占拠していることから、夏四月、前大同軍防禦使の盧簡方を振武節度使とし、振武節度使の李国昌を大同節度使とした。こうすれば克用も拒めまいと考えたのである。
  • ところが国昌は父子で両鎮を占めることを望み、大同の制書が届くとこれを破り捨て、監軍を殺して交代を受け入れず、克用と兵を合わせて遮虜軍を陥れ、寧武軍・岢嵐軍へ進撃した。盧簡方は振武へ赴任する途中、嵐州で没した。
  • 丁巳、河東節度使の竇澣が民を動員して晋陽に塹を掘らせた。己未、都押衙の康伝圭を代州刺史とし、さらに土団千人を代州の守備に送ったが、土団は城北で隊列を組んだまま動かず、恩賞の上乗せを要求した。府庫は空だったため、澣は馬歩都虞候の鄧虔を慰諭に送ったが、土団は虔の肉を切り裂き、その屍を床に載せて府に運び込んだ。澣は監軍とともに自ら出て慰め、一人あたり銭三百と布一端を与えてようやく収まった。押牙の田公鍔が乱軍に銭と布を配ったところ、衆は彼を担ぎ上げて都将とし、代州へ向かった。澣は商人から銭五万緡を借りて軍費に充てた。朝廷は澣を無能と見て、六月、前昭義節度使の曹翔を河東節度使とした。
  • 沙陀が唐林・崞県を焼き、忻州の境に入った。
  • 冬十月、昭義節度使の李鈞、幽州節度使の李可挙に、吐谷渾酋長の赫連鐸・白義誠、沙陀酋長の安慶、薩葛酋長の米海万と兵を合わせ、蔚州の李国昌父子を討つよう詔が下った。
  • 十一月甲午、岢嵐軍が城を挙げて沙陀に応じた。丁未、河東宣慰使の崔季康を河東節度・代北行営招討使とした。沙陀が石州を攻めると、庚戌、季康が救援に向かった。
  • 十二月、崔季康と李鈞が洪谷で李克用と戦い、両鎮の兵は敗れて鈞は戦死した。昭義の兵は代州まで退いたところで士卒が略奪を働き、代州の民をほぼ殺し尽くした。残る衆は鵶鳴谷から上党へ逃げ帰った。

廣明元年(880年・国昌父子の敗走)

  • 春正月、沙陀が鴈門関に入って忻州・代州を侵した。二月庚戌、沙陀二万余人が晋陽に迫り、辛亥に大谷を陥れた。汝州防禦使の諸葛爽(博昌の人)に東都防禦の兵を率いて河東を救わせた。
  • 夏四月丁酉、太僕卿の李琢を蔚朔等州招討都統・行営節度使とした。琢は李聴の子である。李琢は蔚朔節度使とされ、都統を兼ねた。
  • 六月庚子、李琢が沙陀二千の来降を奏した。琢は一万の兵で代州に屯し、盧龍節度使の李可挙、吐谷渾都督の赫連鐸とともに沙陀を討った。李克用は大将の高文集に朔州を守らせ、自ら衆を率いて雄武軍で可挙を防いだ。鐸が人を送って文集に帰順を説くと、文集は克用の将・傅文達を捕え、沙陀酋長の李友金、薩葛都督の米海万、安慶都督の史敬存とともに門を開いて官軍を迎え入れ、皆李琢に降った。友金は克用の族父である。
  • 秋七月、克用は雄武軍から兵を返して朔州の高文集を攻めたが、李可挙が行軍司馬の韓玄紹に薬児嶺で待ち伏せさせ、大破して七千余人を殺した。李尽忠と程懐信はともに戦死した。さらに雄武軍の境でも破って一万人を殺した。
  • 李琢と赫連鐸が蔚州へ進攻すると、李国昌は敗れて部衆はことごとく潰え、ただ克用と宗族だけを連れて北の達靼へ逃れた。詔により赫連鐸を雲州刺史・大同軍防禦使、吐谷渾の白義成を蔚州刺史、薩葛の米海万を朔州刺史とし、李可挙に侍中を兼ねさせた。
  • 達靼はもと靺鞨の別部で、陰山に居住していた。数か月後、赫連鐸が密かに達靼に賄賂を贈り、国昌父子を捕えさせようとした。これを察した克用は、達靼の豪帥たちと狩猟をしては、馬の鞭や木の葉を置き、あるいは針を吊るして射るなど百発百中の腕前を見せ、豪帥の心を服させた。さらに酒宴を設け、酔いが回ったところで「私は天子に罪を得た。忠を尽くしたくてもできぬ。今、黄巣が北上していると聞く。必ず中原の患いとなろう。いつか天子がわが罪を赦されたら、あなた方とともに南へ向かって大功を立てられる。愉快ではないか。人生は短い。誰が砂漠で老い死にたいものか」と語った。達靼は克用に留まる意思がないと知り、〔捕える〕企てをやめた。

中和元年(881年・入援と晋陽での軋轢)

  • 代北監軍の陳景思が沙陀酋長の李友金および薩葛・安慶・吐谷渾の諸部を率いて京師の救援に向かった。瞿稹と李友金は陳景思に李克用を呼び寄せるよう説いた。
  • 李克用は河東に牒を送り、「詔を奉じて五万の兵で黄巣を討つ。宿駅の準備をせよ」と称した。招討使の鄭従讜は城を閉じて備えた。克用は汾水の東に屯し、従讜が犒いと兵糧を与えても数日動かなかった。
  • 克用は自ら城下に至って大声で従讜との面会を求め、従讜は城壁に登って詫びた。癸亥、克用がさらに出兵の恩賞を求めると、従讜は銭千緡と米千斛を贈った。甲子、克用は沙陀を放って住民を略奪させ、城中は震え上がった。
  • 従讜が振武節度使の契苾璋に救援を求めると、璋は突厥・吐谷渾を率いて来援し、沙陀の二寨を破った。克用は追撃して晋陽城の南まで戦い、璋が兵を率いて入城すると、沙陀は陽曲・楡次を掠めて去った。
  • 夏六月、克用は大雨に遭い、己亥に兵を北へ返して忻州・代州を陥れ、そのまま代州に居座った。鄭従讜は教練使の論安らを百井に駐屯させて備えた。
  • 秋七月、論安が百井から無断で戻ると、従讜は靴も衫も脱がぬまま斬り、一族を滅ぼした。あらためて都頭の温漢臣に兵を率いさせて百井に屯させた。契苾璋は兵を率いて振武へ帰った。

中和二年(882年・帰順と南下)

  • 李克用が蔚州を侵した。三月、振武節度使の契苾璋は天徳・大同とともに克用を討つと奏し、鄭従讜に連携して応接するよう詔が下った。
  • 克用はたびたび上表して降伏を願いながら、忻州・代州に拠って并州・汾州をしばしば侵掠し、樓煩の牧監を奪おうとした。義武節度使の王処存は克用と代々の姻戚だったので、詔により処存から克用へ、「誠意をもって帰順するなら、ひとまず朔州へ帰って朝命を待て。従来どおり横暴を働くなら河東・大同とともに討つ」と諭させた。
  • 行営都監の楊復光は王重栄を説き、朝旨として鄭従讜に克用を召して黄巣を平定させるよう伝えさせた。王鐸は墨敕をもって克用を召し、鄭従讜に諭した。十一月、克用は沙陀一万七千を率いて嵐州・石州の路から河中へ向かった。
  • 十二月、忻代等州留後の李克用を鴈門節度使とした。
  • 李克用は四万の兵を率いて河中に至り、黄巣を討った。