通鑑紀事本末蛮族、南詔を導いて侵入する(蠻導南詔入冦)
安南都護李涿の苛政に怨んだ諸蛮が南詔を手引きしたことに始まり、南詔の酋龍が帝を称して唐の南辺を荒らし続けた二十余年と、その和親成立までを記す。大中十二年(858)から中和三年(883)まで。交趾は二度陥ち、邕州・黔中も破られ、西川はたびたび侵されて成都は籠城に追い込まれた。高駢が交趾を回復し、のち西川で南詔を大渡河まで追って羅城を築く。酋龍の死後は和親の議が続き、称臣なしのまま安化長公主が南詔に降嫁して収まった。
年表(21件)
- 宣宗
- 大中十二年858年李涿の貪苛に怨んだ諸蛮が南詔を導き、蛮が安南を侵す
- 大中十三年(・南詔の離反)859年酋龍が皇帝を称して国号を大礼とし、播州を陥れる
- 懿宗
- 咸通元年〜二年(860-・交趾と邕州の陥落)861年土蛮が南詔の兵を導いて交趾を陥れ、翌年には邕州も落ちる
- 咸通三年(・蔡京の讒言)862年蔡京の讒言で戍兵が削られ、蔡襲の「十必死状」は握り潰される
- 咸通四年(・交趾陥落)863年交趾が再び陥ちて蔡襲が海に溺れ死に、諸道の兵は嶺南の防衛に回される
- 咸通五年(・康承訓の虚報)864年康承訓が斥候を怠って邕州で包囲され、海門の兵を二万五千に増す
- 咸通六年865年喩士珍の貪虐から嶲州が南詔に落ち、高駢が海門で兵を整える
- 咸通七年(・交趾回復と静海軍の設置)866年高駢が韋仲宰と交趾を囲んで南詔を破り、安南を回復する
- 咸通八年867年高駢が安南から広州への海路の暗礁を掘削し、漕運の停滞をなくす
- 咸通九年(・定邊軍の設置)868年李師望の建議で邛州に定辺軍を置き、嶲州を西川から分ける
- 咸通十年(・南詔の大挙侵入)869年酋龍が国を挙げて侵入し、大渡河を渡って黎州・雅州を陥れる
- 咸通十一年(・成都籠城)870年避難民で溢れる成都で盧耽・楊慶復が守備を整え、募兵に応じる者が雲集する
- 咸通十二年〜十四年(871-)873年南詔が西川と黔南を侵し、城を棄てた秦匡謀が斬られる
- 僖宗
- 乾符元年(・大渡河の攻防)874年黄景復が大渡河で南詔を防ぐも敗れ、黎州が陥ちて成都が動揺する
- 乾符二年(・高駢の再登場)875年高駢が西川に着任し、南詔を大渡河まで追って諸城柵を修復する
- 乾符三年876年高駢が驕慢な蛮使を斬り、僧景仙を南詔に遣わす間に成都の羅城を築く
- 乾符四年(・酋龍の死)877年酋龍が没して子の灋が立ち、辛讜が和議を許すよう請う
- 乾符五年(・称臣をめぐる論争)878年南詔が臣を称さず和親を請い、崔澹らの議をめぐって朝議が割れる
- 乾符六年(・徐雲虔の使行)879年徐雲虔が善闡に至って驃信と応酬し、厚遇されて牒二通を託される
- 廣明元年(・和親の裁定)880年盧攜らの上言により称臣なしの和親を許し、李亀年を南詔に遣わす
- 中和元年〜三年(881-・和親の成立)883年驃信が帰服を誓って公主を求め、宗室の女を安化長公主として嫁がせる
宣宗大中十二年(858年)
- 安南都護の李涿は政務が貪欲かつ苛烈で、蛮地の馬や牛を強制的に買い上げては一頭につき塩一斗しか与えず、さらに蛮の酋長・杜存誠を殺した。諸蛮は怨みを募らせ、南詔を手引きして辺境を侵させるようになった。
- 峯州の林西原にはもと防冬兵六千が置かれ、近隣の七綰洞の蛮酋・李由独が常に唐の守備を助け、租賦も納めていた。ところが峯州の職にあった者が李涿に進言して戍兵を廃し、防備を由独だけに委ねさせた。孤立した由独が持ちこたえられずにいると、南詔の拓東節度使が書を送って誘い、姪を由独の子に嫁がせて拓東押牙に任じた。由独は衆を率いて南詔に臣従し、これ以後、安南に蛮の患いが生じた。
- 六月、蛮が安南を侵した。
大中十三年(859年・南詔の離反)
- かつて韋皋が西川にあったとき、青渓道を開いて諸蛮と通じ、由独を経て入貢させ、また諸蛮の子弟を選んで成都に集め、読み書きと算術を教えて懐柔し、学業が成れば帰らせて別の子弟を迎えるということを五十年続けた。成都で学んだ諸蛮の子弟はほぼ千人に及び、軍府は給養に嫌気がさしていた。加えて蛮の使者は賜与目当てに従者をどんどん増やしていた。西川節度使の杜悰がその人数削減を奏請し、詔で認められた。
- 南詔の豊祐は怒り、賀冬の使者に表を嶲州へ置いたまま帰らせ、また留学中の子弟の返還を求める牒は無礼な言葉遣いだった。以後、入貢は不定期になり、辺境をしばしば騒がせた。
- 宣宗が崩じ、中使を告哀に遣わしたが、折しも豊祐が没し、子の酋龍が立っていた。酋龍は「わが国にも喪があるのに朝廷は弔祭せず、しかも詔書は亡き王に宛てたものだ」と怒り、使者を外館に置いて粗略に扱った。使者が帰って報告すると、唐は酋龍が喪を告げる使者を送らなかったこと、その名が玄宗の諱に近いことを理由に冊立の礼を行わなかった。
- 酋龍は自ら皇帝を称し、国号を大礼、年号を建極と改め、兵を送って播州を陥れた。
懿宗咸通元年〜二年(860-861年・交趾と邕州の陥落)
- 元年冬十月、安南都護の李鄠が播州を回復した。十二月戊申、安南の土蛮が南詔の兵を導き、合わせて三万余人で手薄になった交趾を攻めて陥れた。都護の李鄠は監軍とともに武州へ逃げた。
- 二年春正月、邕管および近隣諸道の兵を発して安南を救い南蛮を撃つよう詔が下った。
- 夏六月癸丑、塩州防禦使の王寛を安南経略使とした。李鄠は武州で土軍を集めて諸蛮を攻め、安南を回復していたが、朝廷は失守の責を問うて儋州司戸に貶した。鄠は着任当初に蛮の酋長・杜守澄を殺しており、その一族が諸蛮を導いて交趾を陥れたのである。朝廷は杜氏の勢力を恐れて宥和に努め、その力を借りようと、守澄の父・存誠に金吾将軍を追贈し、あらためて守澄殺害の罪を挙げて鄠を崖州へ長期流配とした。
- 秋七月、南蛮が邕州を攻めて陥れた。もともと広・桂・容の三道が合わせて三千人を邕州に戍らせ三年交代としていたが、経略使の段文楚が三道分の衣糧で土軍を募って代えたいと願い出て許された。ところが応募は五百人余にとどまった。文楚が金吾将軍として中央に入ると、後任の経略使・李蒙は欠員分の衣糧を着服するため三道の戍卒をすべて帰し、募兵だけで左右江を守らせたので、兵力は従来の七、八割減となった。蛮はこの隙に乗じて侵入した。
- このとき李蒙はすでに没し、着任十日の経略使・李弘源には防ぐ兵がなく、城は陥ちた。弘源は監軍とともに身一つで巒州へ逃げ、二十余日して蛮が去ってから戻り、その責で建州司戸に貶された。当時殿中監だった段文楚が再び邕管経略使とされたが、着任すると城邑の住民は十分の一も残っていなかった。文楚は段秀実の孫である。
- 杜悰は「南詔が唐に靡いて七十年、蜀中は兵を休め、諸蛮も従っていた。今、西川の兵も食糧も乏しく、軽々しく断交すべきではない。まず弔祭使を送り、清平官らに新王の名が廟諱に触れるためまだ冊命を行わないのだと諭し、改名して謝恩したうえで冊命の使者を出せば大体を全うできる」と上言し、宣宗はこれに従って左司郎中の孟穆を弔祭使とした。ところが出発前に南詔が嶲州を侵して邛峡関を攻めたため、穆は行かなかった。
咸通三年(862年・蔡京の讒言)
- 春二月、南詔がまた安南を侵し、経略使の王寛がしきりに急を告げたので、前湖南観察使の蔡襲を後任とし、許・滑・徐・汴・荊・襄・潭・鄂などの兵三万を与えて防がせた。兵勢が盛んになると蛮は引き揚げた。邕管経略使の段文楚は旧制を変更した責で威衛将軍・分司に左遷された。
- 嶺南はもと五管に分かれ、広・桂・邕・容・安南がいずれも嶺南節度使に属していた。蔡京が嶺南を二節度に分けるよう奏請して容れられ、五月、広州を東道、邕州を西道とし、桂管の龔州・象州、容管の藤州・巌州を邕管に移した。まもなく嶺南節度使の韋宙を東道節度使、蔡京を西道節度使とした。
- 蔡襲が諸道の軍を率いて安南にあることを蔡京は妬み、功を立てられては困ると考え、「南蛮は遠く逃げ辺境に憂いはない。武人が功を求めて戍兵を無駄に占有し、輸送費を空費している。辺鄙で道が遠く検証しにくいのをよいことに奸詐を働いているのだ。戍兵を廃して各本道に帰すべきだ」と奏し、朝廷はこれに従った。
- 襲は「諸蛮は久しく隙を窺っており備えを欠かせない」として戍兵五千の残留を再三請うたが認められず、蛮の侵入は必至なのに交趾は兵も糧も欠き、知恵も力も尽きたとして「十必死状」を作って中書に上申した。しかし宰相は蔡京の言を信じ、ついに顧みなかった。
- 秋八月、蔡京は苛酷な政治を行い炮烙の刑まで設けたため領内から怨まれ、邕州の軍士に追われて藤州へ逃げた。偽の勅書と攻討使の印を作って郷丁や近隣の土軍を募り邕州を攻めたが、烏合の衆はすぐ潰え、桂州を頼ろうとしても、分割を怨む桂州の人々に拒まれた。身の置き所を失った京は崖州司戸に貶されたが赴任せず、零陵まで戻ったところで自尽を命じられた。桂管観察使の鄭愚が嶺南西道節度使となった。
- 冬十一月、南詔が諸蛮五万を率いて安南を侵し、都護の蔡襲が急を告げた。荊南・湖南の兵二千と桂管の義征子弟三千を邕州へ送り、鄭愚の節度を受けさせた。
- 嶺南東道節度使の韋宙は「蛮は必ず邕州へ向かう。守りを固めずに遠征すれば、背後を突かれて糧道を絶たれる」と奏し、蔡襲を海門に屯させ、鄭愚に兵を分けて防備させた。十二月、襲がさらに増兵を求め、山南東道から弩手千人を送ることとしたが、このとき南詔はすでに交趾を包囲しており、襲は城に籠って固守し、救兵は到着できなかった。
咸通四年(863年・交趾陥落)
- 春正月、南詔が交趾を陥れた。蔡襲は左右の兵をすべて失い、徒歩で力戦して身に十本の矢を受け、監軍の船へ向かおうとしたが船はすでに岸を離れており、海に溺れて死んだ。幕僚の樊綽はその印を携えて江を泳ぎ渡った。
- 荊南・江西・鄂岳・襄州の将士四百余人が城東の水際まで逃れたとき、荊南虞候の元惟徳らは「船がない。水に入れば死ぬだけだ。城へ戻って蛮と戦い、一身で二人の蛮と引き換えるほうが得だ」と言って引き返し、東羅門から城内へ入った。蛮は備えておらず、惟徳らは兵を放って蛮二千余人を殺した。夜になって蛮将の楊思縉がようやく子城から出て救援し、惟徳らは全員戦死した。
- 南詔は二度の交趾攻略で殺害・捕虜が十五万近くに達し、二万の兵を残して思縉に交趾城を守らせた。渓洞の夷獠は遠近を問わず皆降った。安南へ向かっていた諸道の兵はすべて呼び戻され、嶺南東西道の防衛に回された。
- 二月、南蛮が左右江を侵して邕州に迫った。鄭愚は恐れ、「自分は儒臣で将略がない、武臣を任じてほしい」と申し出た。朝廷は義武節度使の康承訓を召して代えることとし、軍校数人と士卒数百を随行させるよう詔した。
- 夏四月、康承訓が長安に至り嶺南西道節度使とされ、荊・襄・洪・鄂四道の兵一万が付けられた。
- 五月乙亥、容管を廃して嶺南西道に併せて軍糧に充て、龔州・象州を桂管に戻した。六月、安南都護府を廃し、海門鎮に行交州を置いて右監門将軍の宋戎を行交州刺史とし、康承訓に安南および諸軍行営を兼領させた。秋七月、行交州に安南都護府を再置し、宋戎を経略使とし、山東の兵一万を送って鎮させた。
- このころ安南救援の諸道兵は嶺南・江西・湖南に屯し、江西・湖南からの輸送は湘江を遡り澪渠・灕水を経るため労費が大きく難渋し、諸軍は食に窮した。潤州の陳磻石が「千斛積みの大船を造り、福建から米を海路で運べば一月とかからず広州に着く」と上言し、これが採られて軍糧は足りた。ただし担当官は「和雇」の名目で商人の船を奪い、その荷を岸に投げ捨て、船が海で難破すれば綱吏や船人を投獄して米を弁償させたので、人々は苦しんだ。
- 八月、韋宙が「蛮は必ず邕州へ向かう」として容州・藤州への分屯を請うた。冬十二月、南詔が西川を侵した。
咸通五年(864年・康承訓の虚報)
- 春正月丙午、西川が、南詔の嶲州侵入を刺史の喩士珍が破って千余人を捕えたと奏した。右神策の兵五千と諸道の兵を送って戍らせ、忠武大将の顔慶復の請いにより新安・遏戎の二城を築いた。
- 容管経略使の張茵に交州の事を兼掌させ、海門鎮の兵を二万五千まで増やして安南回復に進ませることとした。
- 二月己巳、刑部尚書・塩鉄転運使の李福を同平章事・西川節度使とした。
- 三月、康承訓が邕州に至ったが蛮の侵寇はいよいよ盛んで、許・滑・青・汴・兖・鄆・宣・潤の八道の兵が与えられた。ところが承訓は斥候を出さず、南詔が諸蛮六万近くを率いて邕州に迫り境に入ろうとしたとき、六道一万の兵を出して防がせたが、案内に立てた獠に欺かれ、敵の到来に備えぬまま五道八千人が全滅した。一日遅れて到着した天平軍だけが難を免れた。
- これを聞いた承訓は恐慌して為すすべを知らず、節度副使の李行素が壕と柵をようやく築き終えたところで蛮軍に包囲された。蛮は四日かけて攻城具を整えた。諸将が夜に手分けして蛮営を襲うことを請うたが承訓は許さず、天水出身の小校が再三強く求めてようやく許可を得た。小校は勇士三百を率いて夜、城壁を綱で降り、蛮営に火を放って五百余級を斬った。蛮は仰天し、一日おいて包囲を解いて去った。承訓が数千の兵で追わせたが、殺害・捕虜は三百級に満たず、いずれも脅されて従った渓獠だった。それでも承訓は「蛮賊を大破した」と捷報を飛ばし、内外はこぞって祝賀した。
- 夏四月、蛮を破った功として承訓に検校右僕射を加えた。しかし功を奏して賞を受けたのは承訓の子弟や側近ばかりで、実際に営を襲った小校は一階級も昇進しなかった。軍中は怨み憤り、その声は街に流れた。
- 秋七月、西川が、両林の鬼主が南詔の蛮を迎え撃って破り、殺害・捕獲が多かったこと、保塞城使の杜守連が南詔に従わず衆を率いて黎州に降ったことを奏した。
- 嶺南東道節度使の韋宙は承訓の実態をすべて知って宰相に書き送り、承訓自身も後ろ暗く、しきりに病と称して辞任を願った。承訓を右武衛大将軍・分司とし、容管経略使の張茵を嶺南西道節度使とし、容管の四州を再び別の経略使の管轄とした。
- 南詔は邕州が空虚と知りながらもう侵入しなかった。張茵は長く安南回復に進もうとしなかったため、夏侯孜の推薦で驍衛将軍の高駢が代わり、安南都護・本管経略招討使とされ、茵の兵をすべて引き継いだ。駢は高崇文の孫である。
咸通六年(865年)
- 夏四月、楊収が「蛮の侵寇は積年平定できず、両河の兵が嶺南に戍って瘴霧に冒され十中六、七が死んでいる。江西に糧を積んで強弩三万を募り嶺南に応接させたい。道が近く便利であり、あわせて節を建てて権限を重くすべきだ」と建議し、容れられた。五月辛丑、洪州に鎮南軍を置いた。
- 嶲州刺史の喩士珍は貪欲狡猾で、両林の蛮を掠めては金に換えていた。南詔がまた嶲州を侵すと、両林の蛮は門を開いて迎え入れ、南詔は戍卒をことごとく殺し、士珍は降った。
- 壬寅、桂管観察使の厳譔(厳震の孫)を鎮南節度使とした。
- 秋七月、高駢が海門で兵を整えてまだ進まずにいると、監軍の李維周は駢を憎んで追い出そうと、しきりに進軍を促した。駢が五千を率いて先に渡り、維周には後続の応援を約させたが、駢が発つと維周は残りの衆を抱え込み一兵も出さなかった。九月、駢が南定に至ると、峯州の蛮五万近くがちょうど収穫の最中だった。駢は不意を襲って大破し、その収穫を奪って軍糧とした。
咸通七年(866年・交趾回復と静海軍の設置)
- 春三月戊寅、河東節度使の劉潼を西川節度使とした。かつて南詔が嶲州を囲んだとき、東蛮の浪稽部が力を尽くして助けたため城は屠られた。卑籠部は南詔に父兄を殺された恨みから忠武の戍兵を導いて浪稽を襲い滅ぼし、南詔はこれによって唐を怨むようになった。
- 南詔が清平官の董成らを成都に遣わしたとき、節度使の李福は儀衛を盛大にして引見した。先例では南詔の使者は節度使に庭で拝伏するのだが、成らは「驃信はすでに天に応じ人に順って(帝位に即いて)いる。節度使とは対等の礼で会う」と主張し、通訳を介した応酬は朝から正午まで決着せず、将士は憤激した。福は成らを引き倒して殴らせ、械をかけて獄に繋いだ。劉潼は着任するとこれを釈放し、帰国させるよう奏した。詔で成らは長安に召され、別殿で引見されて厚く賜与を受けて帰された。
- 夏六月、南詔の酋龍は善闡節度使の楊緝思を派遣して安南節度使の段酋遷の交趾守備を助けさせ、范昵些を安南都統、趙諾眉を扶邪都統とした。監勅使の韋仲宰が七千人を率いて峯州に至り、高駢はこれを加えて南詔を攻め、たびたび破った。
- ところが海門に届いた捷報を李維周はすべて握り潰し、数か月音沙汰がなかった。懿宗が不審に思って問うと、維周は「駢は峯州に駐屯して兵を弄び進もうとしません」と奏した。帝は怒って右武衛将軍の王晏権を安南に代え、駢を召還して厳しく貶そうとした。だがこの月、駢は交趾で南詔の蛮を大破し、殺害・捕獲は多く、そのまま交趾城を包囲していた。
- 包囲十余日で蛮は困窮し城は落ちる寸前だったが、王晏権が李維周とともに大軍を率いて海門を発したという牒が届いた。駢は軍事を韋仲宰に委ね、麾下百余人とともに北へ帰った。これに先立ち、仲宰は小使の王恵賛を、駢は小校の曽袞を交趾の捷報を伝えに送っていたが、海上で東から旌旗が来るのを見て遊船に問うと、新経略使と監軍だという。二人は「維周は必ず表を奪って我らを留める」と相談し、島陰に隠れてやり過ごし、維周が通り過ぎてから長安へ急行した。奏を得た懿宗は大喜びし、駢に検校工部尚書を加えて安南に復させ、駢は海門まで来て引き返した。
- 王晏権は暗愚で臆病、何事も維周の命に従い、維周は凶悪で貪欲だったので諸将は働かず、厳重な包囲は解けて蛮の大半は逃げ去った。駢は戻ると将士を督励して攻城を再開し、ついに陥れて段酋遷と、南詔の道案内をした土蛮の朱道古を殺し、斬首三万余級を挙げた。南詔は逃げ去った。駢はさらに南詔に付いていた土蛮の二洞を破って酋長を誅し、衆を率いて帰順した土蛮は一万七千人に及んだ。
- 冬十一月壬子、天下に赦を下し、安南・邕州・西川の諸軍にそれぞれ自領の防衛に専念して南詔への進攻をやめるよう命じ、劉潼に、旧交を修めるなら一切不問とする旨を諭させた。
- 安南に静海軍を置き、高駢を節度使とした。李涿が諸蛮を侵擾して安南の患いとなってからほぼ十年、ここに至ってようやく平定された。駢は安南城を周囲三千歩に築き、家屋四十余万間を造った。
咸通八年(867年)
- 春二月、安南から邕州・広州に至る海路には暗礁が多く船がよく転覆したため、高駢は工人を募って掘削させ、漕運の停滞をなくした。
- 西川の辺境に近い六姓の蛮は常に両属の構えで、侵寇がなければ帰順を唱え、あれば必ず先鋒に立った。卑籠部だけは唐に忠実で諸蛮と仇敵となっていたため、朝廷は李姓を賜って刺史に任じ、節度使の劉潼は将に兵を率いさせて助け、六姓の蛮を討って部落を焼き、五千余級を斬った。
- 冬十二月、嶺南東道節度使の韋宙に同平章事を加えた。
咸通九年(868年・定邊軍の設置)
- 夏六月、鳳翔少尹の李師望が「嶲州は南詔を扼する要衝だが、成都からは遠くて統御しがたい。定辺軍を建てて嶲州に重兵を屯し、邛州を治所とすべきだ」と上言した。朝廷はもっともと考え、師望を嶲州刺史・定辺軍節度、眉・蜀・邛・雅・嘉・黎などの州の観察、諸蛮の統押、諸道行営制置などの使とした。師望は一方面を専断できる利を狙ってこの策を建てたのであり、実際には邛州は成都からわずか百六十里、嶲州は邛州から千里も離れていた。それほどの欺瞞だった。
- 秋九月戊戌、山南東道節度使の盧耽を西川節度使としたが、定辺軍がある以上、諸蛮統押・安撫などの使は兼ねさせなかった。
咸通十年(869年・南詔の大挙侵入)
- 南詔が使者の楊酋慶を送って董成らの釈放を謝したが、定辺節度使の李師望は南詔を怒らせて功を得ようと、酋慶を殺した。西川の大将たちは師望が管轄を割いたことを恨み、密かに南詔に意を通じて侵入させた。師望は貪欲残虐で私財を百万単位で蓄えたため戍卒に憎まれ、生きながら食われそうになるところを策で逃れた。朝廷は師望を召還し、太府少卿の竇滂を代えたが、滂の貪欲残虐は師望以上で、蛮が来る前から定辺はすでに疲弊しきっていた。
- 十月、南詔の驃信・酋龍は国を挙げて侵入し、数万で董春烏部を破った。十一月、嶲州に迫った。定辺都頭の安再栄は清渓関を守っていたが攻められて大渡河の北に退き、川を隔てて九日八夜射ち合った。その間に蛮は密かに兵を分けて木を伐り道を開き、雪坡を越えて沐源川に急襲をかけた。竇滂は兖海の将・黄卓に五百人を与えて防がせたが全滅した。
- 十二月丁酉、蛮は兖海軍の衣服を着て敗残兵を装い、江岸で船を呼んで渡ってしまってから正体が知れた。犍為を陥れ、兵を放って陵州・栄州の境を焼き掠めた。数日後、蛮軍は嘉州の対岸・陵雲寺に大集結し、刺史の楊忞と定辺監軍の張允瓊が兵を率いて防いだが、蛮は奇兵を密かに東津から渡らせて挟撃し、忠武都将の顔慶師を殺した。残る兵は潰走し、忞と允瓊は身一つで逃げた。壬子、嘉州が陥落した。慶師は顔慶復の弟である。
- 竇滂は自ら兵を率いて大渡河で防いだが、驃信は清平官数人を送って和議を装った。滂が応対している最中に蛮は船と筏で争って渡り、忠武・徐宿の両軍が陣を組んで抗した。滂は恐れて帳中で首を吊ろうとし、徐州の将・苗全緒が解いて「都統ともあろう方が何ということを」と言った。全緒は安再栄および忠武の将とともに兵を出して戦い、滂は単騎で夜逃げした。三将は「衆寡敵せず、明朝また戦えば我らは全滅だ。夜襲で混乱させてから引き揚げるに如くはない」と謀り、夜に蛮軍へ突入して弓弩を乱射した。蛮が大いに驚いた隙に、三将は全軍を保って退いた。
- 蛮はそのまま進んで黎州・雅州を陥れ、民は山谷に逃げ隠れ、敗軍は行く先々で焼き掠めた。滂は導江へ逃げ、邛州の軍資と備蓄は乱兵の手で散逸した。蛮が到着したときには城はすでに空で、素通りできる状態だった。詔により左神武将軍の顔慶復が救援に向かった。
咸通十一年(870年・成都籠城)
- 春正月、西川の民は蛮の来襲を聞いて争って成都に逃げ込んだ。当時の成都には子城しかなく壕もなく、避難民が占められる場所は一人あたり筵一枚ほど。雨が降れば箕や甕をかぶって凌ぎ、水も乏しく摩訶池の泥水を澄まして飲んだ。将士は軍事に慣れていなかった。
- 節度使の盧耽は彭州刺史の呉行魯を参謀代行とし、前瀘州刺史の楊慶復とともに守備を整えさせた。将校を選んで職務を分掌させ、戦棚を立て、礮や檑木を備え、器具を造り、警邏を厳しくした。
- それまで西川の将士は名ばかりの職が多く給与もなかったが、ここで榜を掲げて驍勇の士を募り、実職を与えて手厚く糧と賜与を支給すると、応募者が雲のように集まった。慶復は「おまえたちは皆軍中の子弟で、若く材勇がありながら平時には世に出る手立てがなかった。今、蛮の侵略こそ富貴を得る好機だ。励まずにいられようか」と諭した。庭に武器を並べてそれぞれ得意の技を試させ、二人ずつ組ませて勝負させ、勇怯を見極めて採否を決め、三千人を選んで「突将」と号した。行魯は彭州の人である。
- 戊午、蛮が眉州に至った。耽は同節度副使の王偃らに書を持たせ、蛮の実力者・杜元忠に会わせて和議を求めたが、蛮は「我らの去就はただ〔驃信の〕胸中にある」と答えた。
- 南詔が定辺の北境である新津に進むと、耽は同節度副使の譚奉祀に書を持たせて杜元忠に来襲の意図を問わせたが、蛮は留め置いて帰さなかった。耽は朝廷に急を告げ、あわせて使者を送って和し当面の危難を緩めたいと請うた。朝廷は知四方館事・太僕卿の支詳を宣諭通和使とした。蛮は耽の恭しい応対にほだされて足踏みし、その間に成都の守備は一応整った。
- 甲子、蛮は長駆北上して双流を陥れた。庚午、耽は節度副使の柳槃を会見に送ったが、杜元忠は槃に一通の書を授け、「これが和議成立後、驃信と軍府が会見する際の儀礼だ」と言った。その儀礼はすべて驃信を王者として扱うもので、言葉はきわめて驕慢だった。さらに人に綵幕を負わせて城南へ送り、「蜀王の庁に張り巡らせて驃信の居所にする」と言わせた。
- 癸酉、定辺軍を廃し、七州を西川に返した。この日、蛮軍は成都城下に迫った。前日、耽は先鋒遊奕使の王昼を漢州へ送り、援軍の状況を探らせ督促させていた。興元の六千、鳳翔の四千はすでに漢州に着いており、そこへ竇滂も忠武・義成・徐宿の四千を率いて導江から漢州へ逃げ込み、援軍に紛れて身を保っていた。丁丑、王昼が興元・資州・簡州の兵三千余を率いて毗橋に布陣し、蛮の先鋒と戦って不利となり、漢州へ退いた。
- 成都は日々援軍を待ち望んでいたが、竇滂は失地の責を分散させようと西川も陥落することを望み、北から援軍が来るたび「蛮の数は官軍の数十倍だ。官軍は遠来で疲弊しており、軽々に進むべきではない」と説いた。諸将はこれを信じて疑い、進もうとしなかった。
- 成都十将の李自孝は密かに蛮と通じ、城東の倉を焼いて内応しようとしたが、城中で捕えられ殺された。数日後、蛮は果たして城を攻めたが、内応がないまま長引き取りやめた。
- 二月癸未朔、蛮は梯や衝車を集めて四方から成都を攻めた。城上からは鉤環でそれを引き寄せ、火を投じ油を注いで焼き、攻める者は皆死んだ。盧耽は楊慶復を左都押牙代行とし、李驤とともにそれぞれ突将を率いて出撃させ、蛮二千余人を殺傷し、日暮れに攻城具三千余点を焼いて戻った。蜀の人は元来臆病だったが、突将は慶復に抜擢されたばかりで厚い賞にも励まされ、勇気は倍増し、出撃に加われなかった者は憤って奮戦を求めた。
- 数日後、賊は民家の竹垣を何重にも重ねて濡らし、曲げて蓬のような覆いを作り、その下に人を入れて城壁に取りつかせ、掘り崩そうとした。矢石は通らず火もつかなかったが、慶復は鉄を溶かして注ぎかけ、攻める者はまた死んだ。
- 乙酉、支詳が使者を送って蛮と和を約し、丁亥、蛮は兵を収めて和を請い、戊子、使者を送って支詳を迎えようとした。だが顔慶復の援軍が近づいていたため、詳は蛮の使者に「私は定辺で和を約せよとの詔を受けた。今、雲南は成都を包囲している。これでは先の詔旨と違う。そもそも朝廷が和すのは成都を犯さぬことを期してのこと。矢石が昼夜交わっているのに何が和議か」と述べた。蛮は和使が来ないと見て、庚寅にまた攻城を再開し、辛卯、城中から兵を出して撃つと退いた。
- そもそも韋皋は南詔を招いて吐蕃を破らせたが、蛮が甲や弩がないと訴えると工匠を送って教えさせ、数年で蛮の甲弩はいずれも精良になった。また東蛮の苴那時・勿鄧・夢衝の三部は韋皋の吐蕃討伐を助けて功があったのに、その後、辺境の官が無礼に扱ったため、東蛮は唐を深く怨んで南詔に付き、南詔の侵入のたびに力を尽くし、唐人を捕えれば必ず虐殺した。
- 朝廷は竇滂を康州司戸に貶し、顔慶復を東川節度使として、蜀を救う諸軍をすべてその節制下に置いた。癸巳、慶復が新都に至り、蛮が兵を分けて防いだが、甲午の遭遇戦で慶復は蛮軍を大破して二千余人を殺した。蜀の民数千人が草刈り鎌や白棒を手に官軍を助け、その喊声は野に響いた。
- 乙未、蛮の歩騎数万がまた来た折、右武衛上将軍の宋威が忠武軍二千を率いて到着し、諸軍と合わせて会戦、蛮軍は大敗して死者五千余、星宿山に退いて守った。威は沱江駅まで進み、成都まで三十里に迫った。蛮は臣の楊定保を支詳のもとへ送って和を請うたが、詳は「まず包囲を解いて退軍せよ」と答えた。定保が戻っても包囲は解かれなかった。城中は援軍到着を知らなかったが、蛮が再三和を請うのを見て援軍が優勢だと察した。
- 戊戌、蛮はまた和を請い、使者は十度往復し、城中も曖昧に応じた。蛮は援軍が近いことから攻撃をいっそう急にし、驃信以下が自ら矢石の中に立った。庚子、官軍が城下に至って蛮と戦い、升遷橋を奪った。その夕、蛮は自ら攻城具を焼いて逃げ去り、夜が明けてようやく官軍が気づいた。
- もともと朝廷は顔慶復に成都を救わせ、宋威には綿州・漢州に屯して後詰めをさせるつもりだった。ところが威は勝ちに乗じて先に城下へ至り、蛮軍を破った功は最も大きかった。慶復はこれを妬み、威が兵に飯を食わせて蛮軍を追おうとし、城中の戦士も北来の軍と合流して進もうとしたのに、慶復は牒を出して威の軍を取り上げ、漢州へ帰らせた。
- 蛮は双流に至って新穿水に阻まれ、橋を架けようとして手間取り狼狽し、三日かけてようやく渡り、橋を断って去った。甲兵や衣類が道に遺棄され、蜀の人々はひどく口惜しがった。黎州刺史の厳師本は散兵数千を収めて邛州に拠り、蛮に二日囲まれたが陥ちず、蛮は去った。
- 顔慶復は初めて蜀の人に壅門城の築造を教え、塹を掘って水を満たし、鹿角を植え、営鋪を分けて置いた。蛮は備えができたと知り、以後、成都を犯すことはなくなった。
咸通十二年〜十四年(871-873年)
- 十二年夏四月、門下侍郎・同平章事の路巌を西川節度使とした。
- 十四年、南詔が西川を侵し、さらに黔南を侵した。黔中経略使の秦匡謀は兵が少なく敵し得ず、城を棄てて荊南へ逃げた。荊南節度使の杜悰はこれを捕えて奏し、六月乙未、匡謀を斬り家財を没収する勅が下った。
- 西川節度使の路巌は声色と遊宴を好み、軍府の政務を側近の吏である辺咸・郭籌に委ねた。二人は何事も先に実行してから報告し、上下は彼らを恐れた。かつて大閲兵の際、二人が相談し、紙に黙って書いて見せ合ってから焼いたことがあり、軍中は異図ありと疑って動揺した。朝廷はこれを聞き、十一月戊辰、巌を荊南節度使に移した。
僖宗乾符元年(874年・大渡河の攻防)
- 冬十一月、南詔が西川を侵し、浮橋を架けて大渡河を渡ろうとした。防河都知兵馬使・黎州刺史の黄景復は半ば渡ったところを撃って蛮を敗走させ、浮橋を切断した。
- 蛮は中軍に旗を多く立てて正面に置き、密かに兵を分けて上下流それぞれ二十里の地点に出し、夜のうちに浮橋を架けて明け方に一斉に渡り、諸城柵を襲い破って挟撃した。景復は三日間力戦したのち、敗走を装った。蛮が全力で追い、景復が仕掛けた三つの伏兵の地点を三分の二ほど通過したところで伏兵が起こり、蛮軍は大敗して二千余人が殺され、官軍は大渡河の南まで追って帰り、城柵を修復して守った。
- 蛮は之羅谷まで戻ったところで本国から到着した増援と合流し、新旧の軍が合わさって鉦鼓の音は数十里に響いた。再び大渡河に迫って唐軍と川を挟んで対陣し、和議を求めると偽りつつ、また上下流から密かに渡って景復と連日戦った。西川の援兵は来ず、蛮の勢は日ごとに増し、景復は支えきれず軍は潰えた。
- 十二月、南詔は勝ちに乗じて黎州を陥れ、邛崍関に入って雅州を攻めた。大渡河の敗兵が邛州に逃げ込むと成都は動揺し、民は争って城に入り、あるいは北の他州へ逃げた。城中は厳重に守りを固め、塹や塁は先年よりも堅固になっていた。
- 驃信はその坦綽に節度使の牛叢への書を送らせ、「侵略の意はない。天子に拝謁して、数十年来讒言によって離間され冤罪を被った事情を直訴したいのだ。聖恩によって憐れみを賜れば、尚書とも末長く隣好を結ぼう。今は貴府を通らせてもらい、蜀王の庁を数日借りて滞在し、すぐに東へ向かいたい」と述べた。叢は元来臆病でこれを許そうとしたが、楊慶復は不可として使者を斬り、二人だけ留めて書を持たせて帰した。その返書は罪状を数え上げて罵倒するものだった。蛮兵は新津まで来て引き返した。
- 叢は蛮の到来を恐れて城外の民家をあらかじめ焼き払い尽くしたため、蜀の人々に責められた。詔により河東・山南西道・東州の兵を援軍に送り、天平節度使の高駢に西川へ赴いて蛮の事を処置させた。
乾符二年(875年・高駢の再登場)
- 春正月丙戌、高駢を西川節度使とした。
- 駢は剣州に至ると、先に使者を早馬で走らせて成都の城門を開かせた。ある者が「蛮の侵寇は成都に迫り、相公はまだ遠い。万一突入されたらどうします」と諫めると、駢は「私は交趾で蛮三十万を破った。蛮は私が来ると聞けば逃げ隠れるのに精一杯で、成都を犯すどころではない。今は春気が暖まりつつあり、数十万の人が城中に籠って生者と死者が同居し、汚穢が蒸れて疫病になる。放置できぬ」と答えた。使者が成都に着いて門を開くと、民は出て生業に戻り、城壁に上っていた者も甲を解いて降り、大いに喜んだ。折しも雅州を攻めていた蛮はこれを聞き、使者を送って和を請い兵を引いた。
- 駢はさらに「南蛮の小者など防ぐのは容易だ。今、西川には新旧の兵がすでに多く、長武・鄜坊・河東から送られる兵は徒に費えを増すだけだ。すべて帰していただきたい」と奏し、河東の兵だけが止められた。
- 成都に着いた翌日、駢は歩騎五千を発して南詔を大渡河まで追い、殺害・捕獲多数、酋長数十人を捕えて成都で斬った。邛峡関と大渡河の諸城柵を修復し、さらに戎州の馬湖鎮に城を築いて平夷軍と号し、沐源川にも城を築いた。いずれも蛮が蜀に入る要路で、それぞれ数千の兵を置いて戍らせた。これ以後、蛮は侵入しなくなった。駢は黄景復を召して大渡河失守の責を問い、腰斬に処した。
- 駢はさらに、本管および天平・昭義・義成などの軍合わせて六万を自ら率いて南詔を撃ちたいと奏したが、許されなかった。
- これに先立ち、南詔の督爽(官署)が中書へ再三牒を送って怨みがましい言葉を連ね、中書は返答しなかった。盧攜は「これでは蛮はますます驕り、唐は返答もできぬと言う。十代にわたって恩を受けてきた事実を挙げて責めるべきだ。ただし中書から牒を出すのは対等に扱う嫌いがある。高駢と嶺南節度使の辛讜に詔を賜り、その詔を写して白牒として与えさせたい」と奏し、これが採られた。
乾符三年(876年)
- 春三月、南詔が使者を高駢のもとへ送って和を求めながら辺境の略奪をやめなかったので、駢はその使者を斬った。
- 蛮が交趾を陥れたとき、安南経略判官の杜驤の妻・李瑶(宗室の遠縁)を捕虜としていた。蛮は瑶を帰すとともに木夾に入れた文書を駢に届けたが、督爽から西川節度使への牒という体裁で、言葉はきわめて驕慢だった。駢は瑶を長安へ送り、甲辰、南詔へ返牒して、累代の聖恩に背いたこと、辺境を犯し残虐と欺瞞を働いたこと、安南と大渡河での敗北を数え上げて辱めた。
- 冬十月、高駢は成都の羅城を築いた。僧の景仙に周囲二十五里の設計をさせ、県令をことごとく召して人夫を集め賦役を課し、吏が百銭以上を受け取れば死罪とした。蜀の土は脆いので塼で覆い、城の十里以内で土を取る際は丘を削って平らにし、耕作を害する窪みを残させなかった。人夫は十日を超えず交代させたので、皆その公平さを喜び、鞭を用いずに工事は進んだ。八月癸丑に着工し、十一月戊子に完成した。
- 工事の当初、駢は南詔が侵入すると声を上げれば、実際には来なくとも人夫が動揺すると考え、景仙を南詔へ遊行させて驃信に唐への帰附を説かせ、公主を娶わせることまで許すと奏し、両国の礼儀を長く議論させて決着を先延ばしにした。さらに自ら辺境を巡視すると称し、朝夕に大渡河まで烽火を通じさせながら実際には行かなかったので、蛮は不安に駆られ、城の完成まで辺境に何の警報も起こらなかった。
- それまで西川の将吏が南詔に入ると驃信は座ったまま拝礼を受けていたが、駢はその風習が仏教を尊ぶことに着目して景仙を遣わした。果たして驃信は大臣を率いて迎え拝し、その言を信用した。
乾符四年(877年・酋龍の死)
- 南詔の酋龍が跡を継いで以来、辺患となることほぼ二十年、中国はこれによって国力を消耗したが、南詔の国内もまた疲弊していた。酋龍が没して景荘皇帝と諡され、子の灋が立ち、貞明・承智・大同と改元し、国号を鶴拓、また大封人とも号した。灋は狩猟と酒を好み、国事は大臣に委ねた。
- 閏二月、嶺南西道節度使の辛讜が、南詔が陀西の段嵯宝らを送って和を請うたことを奏し、あわせて「諸道の兵が邕州に戍って久しく、糧の輸送費が中国を疲弊させている。和議を許して疲れた者に肩の荷を下ろさせたい」と請い、詔で許された。讜は大将の杜弘らに書と幣を持たせて嵯宝を南詔へ送り返し、邕州には荊南・宣歙の数軍だけを残した。これにより諸道の兵は七割減った。
乾符五年(878年・称臣をめぐる論争)
- 夏四月、南詔は酋望の趙宗政を送って和親を請うたが、表を奉らず、督爽から中書への牒で「弟となる」とだけ言い、臣を称さなかった。百官に議させると、礼部侍郎の崔澹らは「南詔は驕慢僭越で無礼だ。高駢は大体をわきまえず、かえって一人の僧の口車で卑辞を弄してその使者を招いた。その請いに従えば後代の笑い者になろう」と論じた。高駢はこれを聞いて上表し崔澹と争ったので、詔を下してなだめた。
- 五月、邕州の大将・杜弘が段嵯宝を南詔へ送り届け、一年余りして帰った。甲辰、辛讜はまた巡官代行の賈宏と大将の左瑜・曹朗を南詔へ遣わした。
- 冬十二月、南詔の使者・趙宗政が帰国した。中書は督爽の牒に返答せず、西川節度使の崔安潜への書という形にして、安潜に答えさせた。
乾符六年(879年・徐雲虔の使行)
- 春正月、賈宏らは南詔に着かぬうちに相次いで道中で没し、従者も半ば以上死んだ。当時、辛讜はすでに中風で不自由な身だったが、巡官代行の徐雲虔を呼んでその手を取り、「私は朝廷に奏して南詔へ使者を送らせたのに、使者が次々と死んでしまった。どうしたものか。あなたは仕える身なら国に殉ずることを考えるはず。この行に赴いてくれまいか。中風で拝礼もできぬのが恨めしい」と言って嗚咽した。雲虔は「士は己を知る者のために死ぬもの。明公に召し出された恩に報いる術がないのが心残りでした。承らぬはずがありません」と答えた。讜は喜んで旅装を厚く整えて送り出した。
- 二月丙寅、雲虔は善闡城に至った。驃信は大使には対等の礼で会い、副使以下からは拝礼を受けた。己巳、驃信は慈双羽と楊宗を宿舎に遣わし、「貴府の牒は驃信に臣を称して方物を貢げというが、驃信はすでに人を西川経由で唐に送り、唐と兄弟、でなければ舅甥の関係を約している。兄弟や舅甥なら書と贈物のやりとりだけのこと。表も貢もあるものか」と言わせた。
- 雲虔は答えた。「驃信が弟となり甥となることを望むなら——驃信は景荘(酋龍)の子。景荘に兄弟がなかったはずはなく、それは驃信にとって諸父にあたる。驃信が君であれば諸父もみな臣を称する。まして弟や甥ならなおさらでしょう。しかも驃信の先祖は大唐の命によって六詔を一つに合わせることができたのであり、恩徳はきわめて深い。中途の小さないさかいは辺境の官に罪がある。今、驃信が旧好を修めようというのに、祖考の故事に背いてよいものか。祖考に順うのは孝、大国に事えるのは義、戦争をやめるのは仁、名分をわきまえるのは礼。この四つはいずれも美徳です。励まずにいられましょうか」。
- 驃信は雲虔をきわめて厚遇し、木夾に入れた文書を二通託した。一通は中書門下宛て、一通は嶺南西道宛ての牒である。ただし表を奉じて貢を称することにはなお応じなかった。
廣明元年(880年・和親の裁定)
- 春三月庚午、左金吾大将軍の陳敬瑄を西川節度使とし、崔安潜に代えた。
- 安南で軍乱が起こり、節度使の曽袞は城を出て避け、邕管に戍っていた諸道の兵は勝手に帰国する者が続出した。
- 趙宗政が南詔へ帰った件で、西川節度使の崔安潜は上表して崔澹の議を是とし、「南詔は小蛮にすぎず、もとは雲南一郡の地。今、使者を送って和せば、彼らは中国が怯えたと考え、さらに公主を求めてくる。どう拒むのか」と述べた。僖宗は宰相に議させた。
- 盧攜と豆盧瑑は上言した。「大中の末には府庫が充実していた。ところが咸通以来、蛮は二度安南を陥れ、一度邕管を、一度黔中を陥れ、四度西川を犯した。徴兵と糧の輸送で天下は疲弊すること十五年余、租賦の大半は京師に入らず、三使の内庫はこのために空になった。戦士は瘴癘に死に、百姓は困窮して盗賊となり、中原が荒廃したのはすべて蛮のせいである。一昨年の冬に蛮が侵さなかったのは趙宗政が帰国していなかったから、昨年の冬に侵さなかったのは徐雲虔が復命したからで、蛮はまだ望みを繋いでいるのだ。今、安南の子城は叛卒に占拠され、節度使が攻めても落ちず、戍卒の多くはすでに勝手に帰り、邕管の客軍も半減した。冬の季節が近い。もし蛮が侵入したら何で支えるのか。ひとまず使臣を送って返答し、たとえ称臣・奉貢を得られずとも、怨みを深めて辺境を犯す決意を固めさせぬようにするのが得策である」。
- そこで詔を作って陳敬瑄に賜り、称臣なしの和親を許し、敬瑄に詔を写して書とともに送らせ、金帛の賜与も増やした。嗣曹王の李亀年を宗正少卿として正使、徐雲虔を副使とし、別に内使も加えてともに南詔へ遣わした。
中和元年〜三年(881-883年・和親の成立)
- 中和元年秋八月、宗正少卿の嗣曹王李亀年が南詔から帰り、驃信は上表して帰服を誓い、詔旨にことごとく従うと申し出た。
- 二年秋七月、南詔が早く公主を降嫁させるよう上書し、詔では礼儀を審議中である旨を答えた。
- 三年秋七月、南詔が布燮の楊奇肱を公主の出迎えに送った。詔により陳敬瑄が「鑾輿は巡幸中で儀物が整っていない。京邑に還ってから降嫁させる」と書で断ったが、奇肱は従わず、そのまま成都まで来た。
- 冬十月、宗室の女を安化長公主として南詔に嫁がせた。