通鑑紀事本末黄巣の乱(黄巢之亂)

唐末、王仙芝と黄巣が起こした大反乱の始めから終わりまで。乾符元年(874)から光啓元年(885)まで十二年。連年の水旱と苛斂に加え、田令孜の専権と宋威らの虚報・不和が討伐を誤らせ、賊は江南から広州まで転戦したのち北上して潼関を破り、長安を陥れた。僖宗は蜀に逃れ、鄭畋・王鐸が諸軍を糾合し、朱温が降って全忠の名を賜り、李克用の沙陀軍が長安を奪回。黄巣は王満渡で大破されて東へ走り、狼虎谷で滅んだ。

年表(12件)

僖宗乾符元年(874年・王仙芝の蜂起)

  • 春正月丁亥、翰林学士の盧攜が上言した。その要旨——陛下は即位したばかりであり、民をこそ深く思うべきです。国家に百姓があるのは草木に根があるようなもので、秋冬に手をかければ春夏に茂ります。昨年の関東の旱害は虢から海に至るまで麦は半作、秋の実りはほぼ皆無、冬の野菜も乏しく、貧者は蓬の実を挽いて麺とし、槐の葉を蓄えて漬物にし、衰弱した者はそれすら採れません。例年なら不作でも近隣へ散っていけますが、今はどこも飢えており、行き場もなく郷里に座して溝に倒れるのを待つばかりです。残る税は免除するほかなく、実際に徴収の余地もないのに、州県は上供や三司の銭を厳しく督促し、殴打まで加えます。家を壊し木を伐り、妻を雇わせ子を売っても、係の役人の酒食代にしかならず、府庫には届きません。租税のほかに雑徭まで課される所もあります。朝廷が百姓を撫養しなければ、民に生きる術はありません。州県に命じて未納の残税をすべて徴収停止とし、蚕と麦の実りを待たせ、あわせて各地の義倉を開いて急ぎ賑給していただきたい。ぐずぐずしてはなりません。
  • 詔はその言に従ったが、担当官はついに実行できず、空文に終わった。
  • 冬十月、吏部侍郎の鄭畋と戸部侍郎の盧攜をともに本官のまま同平章事とした。
  • 僖宗は年少で政は臣下の手にあり、南牙(外朝)と北司(宦官)は互いに反目していた。懿宗以来、奢侈は日ごとに甚だしく、用兵は絶えず、賦斂はいよいよ厳しかった。関東は連年の水旱に見舞われたが、州県は実情を報告せず、上下が欺き合い、流民や餓死者は訴える先もなく、寄り集まって盗賊となり、各地で蜂起した。州県の兵は少なく、太平が長く続いて人は戦を知らず、盗賊と遭遇すれば官軍はたいてい敗れた。
  • この年、濮州の人・王仙芝が数千の衆を集めて長垣に起こった。

乾符二年(875年・黄巣の合流)

  • かつて僖宗が普王だったころ、小馬坊使の田令孜が寵を得ており、即位後は枢密を掌らせ、ついで中尉に抜擢した。帝は当時十四歳で遊戯にのみ耽り、政事はすべて令孜に委ねて「阿父」と呼んだ。令孜は書物をよく読み権謀に長け、権を握って賄賂を取り、官の任命も緋紫の賜与も帝に諮らなかった。帝に会うときは常に果物を二皿用意し、向かい合って飲み食いし、ゆったり過ごしてから退いた。
  • 帝は内園の少年たちと戯れ、楽工や芸人への賜与は万を単位とし、府庫は空になった。令孜は両市の商人の宝貨を登録して内庫に納めさせるよう説き、訴え出る者は京兆府に送って杖殺した。宰相以下は口を閉ざして何も言えなかった。
  • 夏六月、王仙芝とその党の尚君長が濮州・曹州を攻め落とし、衆は数万に達した。天平節度使の薛崇が出兵して撃ったが敗れた。
  • 冤句の人・黄巣も数千の衆を集めて仙芝に応じた。巣は若いころから仙芝とともに私塩の販売を業とし、騎射に長け任侠を好み、書物にもひととおり通じ、たびたび進士に応じたが及第せず、ついに盗賊となった。仙芝とともに州県を攻め掠め山東を横行すると、重い徴収に苦しむ民が争って身を投じ、数か月で衆は数万になった。群盗はしだいに十余州から淮南にまで広がり、多い者は千余人、少なくとも数百人を擁した。詔により淮南・忠武・宣武・義成・天平の五軍の節度使と監軍に、急ぎ討伐と招撫に当たらせた。
  • 十二月、王仙芝が沂州を侵した。平盧節度使の宋威は、歩騎五千を別立ての一使とし本道の兵も率いて各地で賊を討ちたいと上表した。そこで威を諸道行営招討草賊使とし、禁兵三千・甲騎五百を与え、河南の諸鎮が派遣する討賊都頭もすべて威の指揮下に置くよう詔した。

乾符三年(876年・宋威の虚報と招安の失敗)

  • 春二月、福建・江西・湖南などの観察使・刺史に士卒を訓練させ、天下の郷村にも刀・弓・鼓・板を備えて群盗に備えさせた。
  • 三月、左僕射の王鐸に門下侍郎・同平章事を兼ねさせた。
  • 秋七月、宋威が沂州城下で王仙芝を大破し、仙芝は逃げた。ところが威は「仙芝はすでに死んだ」と奏し、諸道の兵を解散させて自身は青州へ帰り、百官はこぞって祝賀した。三日後、州県から「仙芝は健在で、従来どおり攻め掠めている」との報告が入った。兵はようやく休んだところで再動員の詔を受け、士卒は皆憤って乱心を抱いた。
  • 八月、仙芝が陽翟・郟城を陥れた。忠武節度使の崔安潜(崔慎由の弟)に出兵させ、また昭義節度使の曹翔に歩騎五千と義成の兵を率いて東都の宮を守らせ、左散騎常侍の曽元裕を招討副使として東都を守らせ、山南東道節度使の李福には歩騎二千を選んで汝州・鄧州の要路を守らせた。仙芝が汝州に迫ると、邠寧節度使の李侃と鳳翔節度使の令狐綯に歩兵千・騎兵五百を選んで陝州と潼関を守らせた。
  • 九月丙子、仙芝が汝州を陥れ、刺史の王鐐(王鐸の従兄弟)を捕えた。東都は大いに動揺し、士民は家族を連れて城外へ逃げた。乙酉、王仙芝と尚君長の罪を赦して官を授け招諭する勅が出た。仙芝は陽武を陥れ鄭州を攻めたが、中牟に屯していた昭義監軍判官の雷殷符に破られて敗走した。冬十月、仙芝は南下して唐州・鄧州を攻めた。
  • 十一月、仙芝は郢州・復州を攻めて陥れた。十二月、申・光・廬・寿・舒・通などの州を攻めた。淮南節度使の劉鄴が増兵を求め、感化節度使の薛能に精兵数千を選んで助けさせた。
  • 鄭畋は自分の献策が用いられないため病と称して辞任を申し出たが許されず、上言した。「沂州の捷報以来、仙芝はますます猖獗を極め、五、六州を屠り、数千里が傷ついた。宋威は老衰し病がちで、虚報を出して以来、諸道はことに服さない。今も亳州に留まって進討の意がない。曽元裕は蘄州・黄州に兵を擁して、ひたすら風を望んで退こうとする。賊に揚州を陥れられれば江南も国のものでなくなる。崔安潜は威望が人に勝り、張自勉は驍勇な良将、宮苑使の李瑑(西平王・李晟の孫)は厳格で勇がある。安潜を行営都統、瑑を招討使として威に代え、自勉を副使として元裕に代えていただきたい」。帝はかなりその言を採った。
  • 招討副使都監の楊復光が、尚君長の弟・尚譲が査牙山に拠り、官軍は鄧州へ退いて守っていると奏した。
  • 王仙芝が蘄州を攻めた。蘄州刺史の裴渥は王鐸が知挙のとき登用した進士だった。賊中にいた王鐐が仙芝のために書を送って渥を説き、渥は仙芝と兵を収めて戦わない約を結び、代わりに官職を奏請すると約束した。鐐も仙芝を説いて約に従わせた。渥は城を開いて仙芝と黄巣ら三十余人を迎え入れ、酒宴を設け、多くの財貨を贈り、事情を上表した。
  • 宰相の多くは「先帝は龐勛を赦さず、一年でこれを誅した。仙芝は小賊で龐勛の比ではない。罪を赦して官を授ければ奸悪をますます助長する」と論じたが、王鐸が強く請うて許され、仙芝を左神策軍押牙兼監察御史とし、中使が告身を持って蘄州で授けた。仙芝は大いに喜び、鐐も渥も祝った。
  • ところが一同が退く前に、黄巣は自分に官が及ばぬことに激怒し、「はじめは共に大誓を立てて天下を横行しようと言ったのに、一人だけ官を取って左軍へ行くのか。この五千余の衆はどこへ行けばよい」と罵り、仙芝を殴って頭を傷つけた。衆は騒ぎ止まず、仙芝は衆の怒りを恐れて任命を受けず、蘄州を大掠して城中の人を半ば連れ去り半ば殺し、家屋を焼いた。渥は鄂州へ、勅使は襄州へ逃げ、鐐は賊に拘束された。賊はここで軍を分け、三千余人が仙芝と尚君長に、二千余人が黄巣に従い、それぞれ別の道を進んだ。

乾符四年(877年・宋威と鄭畋の対立)

  • 春二月、王仙芝が鄂州を陥れた。黄巣は鄆州を陥れて節度使の薛崇を殺した。三月、巣は沂州を陥れた。夏四月、巣は尚譲と合流して査牙山に拠った。
  • 六月庚申、仙芝と巣が宋州を攻め、三道の兵は敗れて、賊は宋州で宋威を包囲した。甲寅、右威衛上将軍の張自勉が忠武の兵七千で宋州を救い、賊二千余人を殺し、賊は囲みを解いて去った。
  • 王鐸と盧攜は自勉の兵を宋威の指揮下に入れようとしたが、鄭畋は「威と自勉はすでに疑い憎み合っている。麾下に入れば必ず殺される」として奏に署名を拒んだ。八月辛未、鐸と攜は帝に訴えて罷免を求め、庚辰、畋は滻川へ帰って療養したいと願い出たが、いずれも許されなかった。
  • 仙芝が安州を陥れ、乙卯には随州を陥れて刺史の崔休徴を捕えた。山南東道節度使の李福が子に兵を率いさせて随州を救わせたが戦死した。福が援兵を求め、左武衛大将軍の李昌言が鳳翔の五百騎を率いて向かった。仙芝は転じて復州・郢州を掠めた。忠武大将の張貫ら四千人は宣武の兵とともに襄州を援けていたが、申州・蔡州の間道から逃げ帰り、忠武節度使の崔安潜と宣武節度使の穆仁裕に人を送って呼び戻させた。
  • 冬十月、鄭畋は帝の前で王鐸・盧攜と用兵を争論して敗れ、退いてまた上奏した。「王仙芝の擾乱以来、崔安潜が真っ先に兵を合わせての討伐を請い、続いて士卒を出し兵糧を尽くして供した。賊は千里を往来して諸州を塗炭に苦しめたが、ひとりその境だけは犯せなかった。また本道の兵を張自勉に与えて宋州の囲みを解かせ、江淮の漕運を通じさせ、賊の手に落とさせなかった。ところが今、自勉の率いる七千をすべて張貫に率いさせて宋威の隷下に置き、自勉ひとりを許州へ帰らせた。しかも威は上奏で誣告し、功があだになった。臣は痛惜します。安潜は出兵して前後の勝利は一度ではない。それが一朝にして強兵をすべて他人に渡し、良将は空手で帰った。強敵が急に来たら何で支えるのか。忠武の四千を威に与え、残る三千は自勉に率いさせてその境を守らせたい。宋威の功を侵さず、安潜に恥をかかせずに済みます」。盧攜は同意せず、帝は決しかねた。
  • 畋はさらに上言した。「宋威は朝廷を欺き、敗北の醜態は目に余る。しかも王仙芝が七度も降伏を願う状を出したのに、威は奏聞しなかったと聞く。朝野は歯噛みして軍法を正すべきだと言っている。これほどの行状では、もはや兵権を与えるべきではない。宮中の重臣とご相談のうえ、早く罷免を」。容れられなかった。
  • 黄巣が蘄州・黄州を侵掠したが、曽元裕が撃破して四千余級を斬り、巣は逃げた。
  • 十一月、招討副都監の楊復光が人を送って王仙芝を説諭し、仙芝は尚君長らを送って復光に降伏を申し出た。ところが宋威は兵を送って道中で君長らを奪い取り、十二月、「潁川の西南で君長らと戦い生け捕りにして献じた」と奏した。復光は「君長らは実際に降ったのであり、威が捕えたのではない」と奏した。侍御史の帰仁紹らが取り調べたが結局明らかにできず、君長らは狗脊嶺で斬られた。
  • 黄巣が匡城を陥れ、ついで濮州を陥れた。潁川刺史の張自勉に諸道の兵を率いて撃たせた。
  • 王仙芝が荊南を侵した。節度使の楊知温は楊知至の兄で、文学で身を立て兵を知らなかった。賊来襲の報にも妄言だとして備えなかった。折しも漢水は浅く狭く、賊は賈塹から渡った。

乾符五年(878年・仙芝の死と黄巣の南下)

  • 春正月丁酉朔、大雪。知温が年賀を受けているところへ賊はすでに城下に至り、羅城は陥ちた。将佐がともに子城を固めて守ったが、日暮れても知温は出てこない。将佐が士卒を撫するよう請うと、知温は紗帽に黒い裘という姿で出てきた。流れ矢に備えて甲を着けるよう請われても聞かず、士卒が防戦するのを見ながら詩を作って幕僚に見せる始末だった。
  • 山南東道節度使の李福に急を告げると、福は全軍を率いて自ら救援に向かった。折しも襄陽には沙陀五百がおり、福とともに荊門で賊に遭遇。沙陀が騎馬で突撃して破ると、仙芝はこれを聞いて江陵を焼き掠めて去った。江陵城下はもと三十万戸あったが、このとき三、四割が死んだ。
  • 壬寅、討副使の曽元裕が申州の東で仙芝を大破し、一万人を殺し、降伏させて解散させた者も一万に上った。宋威は長患いを理由に招討使を罷めて青州へ帰り、曽元裕を招討使、潁州刺史の張自勉を副使とした。
  • 二月、楊知温を郴州司馬に貶した。
  • 曽元裕が黄梅で仙芝を大破し五万余人を殺したと奏した。追撃して仙芝を斬り、首を送った。残党は散り、黄巣はちょうど亳州を攻めていたが落とせずにいた。尚譲が仙芝の残衆を率いて巣に合流し、巣を王に推して衝天大将軍と号し、王霸と改元して官属を置いた。巣は沂州・濮州を襲って陥れたが、その後たびたび官軍に敗れ、天平節度使の張禓に書を送って奏請を頼んだ。詔で巣を右衛将軍とし鄆州で武装解除するよう命じたが、巣はついに来なかった。
  • 山南東道節度使の李福に同平章事を加えた。荊南を救った功への賞である。
  • 三月、群盗が朗州・岳州を陥れた。招討使の曽元裕は荊州・襄州に屯し、黄巣は濮州から宋州・汴州を掠めたので、副使の張自勉を東南面行営招討使とした。巣が衛南を攻め、ついで葉県・陽翟を攻めたので、河陽の兵千人を東都へ送り、宣武・昭義の兵二千とともに宮闕を守らせ、左神武大将軍の劉景仁(劉昌の孫)を東都応援防遏使として三鎮の兵を統率させ、東都でさらに二千人の募兵を許した。また曽元裕に東都へ直行させ、義成の兵三千で轘轅・伊闕・河陰・武牢を守らせた。
  • 仙芝の残党である王重隠が洪州を陥れ、江西観察使の高湘は湖口へ逃げた。賊は転じて湖南を掠め、別将の曹師雄は宣州・潤州を掠めた。曽元裕と楊復光に救援させた。
  • 黄巣は兵を率いて長江を渡り、虔・吉・饒・信などの州を攻め落とした。
  • 夏四月、東都の軍糧不足のため、商人や富人から銭穀を借りて数か月の費用に充てることとし、空名の殿中侍御史の告身五通、監察御史の告身十通を賜り、家財を多く供出した者に与えることとした。当時、連年の旱と蝗、盗賊の横行で耕作も養蚕も半ば廃れ、租賦は足りず、内蔵も空で援助のしようがなかった。兵部侍郎・判度支の楊厳は三度も上表して、才が乏しく調達しきれぬので職を解いてほしいと哀切に願い出たが、許されなかった。
  • 五月丁酉、鄭畋と盧攜がともに罷免され、太子賓客・分司となった。
  • 六月、仙芝の残党が浙西を掠めた。朝廷は荊南節度使の高駢がかつて天平にあって威名があり、仙芝の党に鄆州出身者が多いことから、駢を鎮海節度使に移した。
  • 秋八月、黄巣が宣州を侵した。宣歙観察使の王凝が防いだが南陵で敗れた。巣は宣州を落とせず、兵を浙東に入れ、七百里の山路を開いて福建の諸州を攻め掠めた。
  • 九月、平盧軍が節度使・宋威の死を奏した。辛丑、諸道行営招討使の曽元裕に平盧節度使を兼領させた。
  • 冬十二月甲戌、黄巣が福州を陥れ、観察使の韋岫は城を棄てて逃げた。

乾符六年(879年・広州陥落と荊門の敗戦)

  • 春正月、鎮海節度使の高駢は将の張璘・梁纉を分けて黄巣を撃たせ、たびたび破って、その将である秦彦・畢師鐸・李罕之・許勍ら数十人を降した。巣は広南へ向かった。彦は徐州の人、師鐸は冤句の人、罕之は項城の人である。
  • 帝が群盗を憂えると、王鐸は「臣は宰相の首座にあります。朝廷にいても陛下の憂いを分かつには足りません。自ら諸将を督して討たせてください」と申し出て、司徒兼侍中・荊南節度使・南面行営招討都統とされた。
  • 泰寧節度使の李係は李晟の曽孫で、弁は立つが実は勇略がなかった。王鐸はその家柄を買って行営副都統兼湖南観察使に奏請し、精兵五万と土団を率いて潭州に屯し、嶺北への路を塞いで黄巣を防がせた。
  • 五月、巣は浙東観察使の崔璆と嶺南東道節度使の李迢に書を送り、天平節度使の地位を求めた。二人がこれを奏聞したが朝廷は許さなかった。巣はさらに上表して広州節度使を求めたが、左僕射の于琮は「広州は市舶の宝貨が集まる地。賊に取らせてよいはずがない」と述べて許されず、別の官を議し、六月、宰相の請いで率府率を授けることとした。
  • 秋九月、率府率の告身を得た巣は激怒して執政を罵り、広州を急攻して即日陥れ、節度使の李迢を捕え、嶺南の州県を転々と掠めた。巣が迢に自分の意を述べる表を書かせようとすると、迢は「私は代々国恩を受け、親戚は朝廷に満ちている。腕は断たれても表は書けぬ」と拒み、巣は殺した。
  • 嶺南で士卒の三、四割が瘴疫に倒れたため、一党は北へ帰って大事を図るよう勧め、巣は従った。桂州から大筏数千を編み、増水に乗って湘江を下り、衡州・永州を経て、十月癸未、潭州城下に至った。李係は城に籠って戦わず、巣は急攻して一日で陥れ、係は朗州へ逃げた。巣は戍兵をことごとく殺し、屍が川面を覆って流れ下った。
  • 尚譲は勝ちに乗じて江陵に迫り、衆は五十万と号した。当時、諸道の兵はまだ集まらず、江陵の兵は一万に満たなかった。王鐸は将の劉漢宏に江陵を守らせ、自らは襄陽へ向かい、劉巨容の軍と合流すると称した。鐸が去ると漢宏は江陵を大掠して焼き尽くし、士民は山谷に逃げ隠れた。折しも大雪で、凍死者が野に満ちた。十日余りしてから賊が到着した。漢宏は兖州の人で、衆を率いて北へ帰り群盗となった。
  • 十一月、巣が襄陽へ向かうと、劉巨容と江西招討使・淄州刺史の曹全晸が兵を合わせて荊門に屯して防いだ。賊が来ると巨容は林中に兵を伏せ、全晸が軽騎で迎え撃って敗走を装った。賊が追うと伏兵が起こって大破し、勝ちに乗じて江陵まで追い、七、八割を捕殺した。巣と尚譲は残衆を収めて江を渡り東へ逃げた。
  • 巨容に追撃を勧める者があり、「窮追すれば賊は殲滅できる」と言ったが、巨容は「国家は人に背きやすい。急なときは将士を撫して官賞を惜しまぬが、事が収まれば棄て、かえって罪を得ることもある。賊を残して富貴の資としたほうがよい」と答え、衆は止まった。全晸は江を渡って追ったが、朝廷が泰寧都将の段彦謨を招討使に代えたため、これも止まった。こうして賊勢は再び振るい、鄂州を攻めて外郭を陥れ、饒・信・池・宣・歙・杭など十五州を掠め、衆は二十万に達した。
  • 十二月、王鐸を太子賓客・分司とした。
  • かつて兵部尚書の盧攜は高駢を都統にできると推していた。このとき駢の将・張璘らがたびたび黄巣を破ったので、攜を再び門下侍郎・平章事とし、関東の節度使のうち王鐸・鄭畋が任命した者の多くを差し替えた。

廣明元年(880年・潼関陥落と長安失陥)

  • 春二月、左拾遺の侯昌業が、盗賊が関東に満ちているのに帝は政事を親らせず遊戯に耽り、賞賜に節度なく、田令孜が専権して上を無みし、天文に変異があり社稷が危ういとして極諫の上疏をした。帝は激怒し、昌業を内侍省に召して死を賜った。
  • 帝は騎射・剣槊・算法から音律・博打まで巧みで、蹴鞠と闘鶏を好み、諸王と鵞鳥を賭けたが、鵞鳥一羽が五十緡もした。とりわけ打毬に長け、優人の石野猪に「朕が打毬で進士に応じたら状元になるだろうな」と言うと、「もし堯舜が礼部侍郎なら、陛下は落第を免れますまい」と答えられ、帝は笑うだけだった。
  • 度支が費用不足のため富戸や胡商から財貨を借りたいと奏し、半額を借りる勅が出たが、塩鉄転運使の高駢が「天下の盗賊蜂起はみな飢寒から出ている。まだそうなっていないのは富戸と胡商だけだ」と上言し、取りやめた。高駢は楊子院を発運使に改めるよう奏した。
  • 三月、淮南節度使の高駢が将の張璘に黄巣を撃たせてたびたび勝った。盧攜の奏で駢を諸道行営兵馬都統とし、駢は檄を伝えて天下の兵を徴し、広く募兵して土兵・客兵合わせて七万を得、威望は大いに振るった。朝廷は深く駢を頼りにした。
  • 夏四月、張璘が江を渡って賊帥の王重霸を降し、たびたび黄巣軍を破った。巣は饒州に退き、別将の常宏が数万の衆を率いて降った。璘は饒州を攻め落とし、巣は逃げた。諸葛爽を北面行営副招討とした。
  • 五月、汝州防禦使の諸葛爽を振武節度使とした。
  • 黄巣は信州に屯して疫病に遭い、兵の多くが死んだ。張璘が急攻すると、巣は璘に金を握らせ、あわせて高駢に書を送って降伏を請い、駢の奏請による保証を求めた。駢は誘い出すつもりで節鉞を求めてやると約束した。当時、昭義・感化・義武などの軍が淮南に到着していたが、駢は功を分けられることを恐れ、「賊はまもなく平定できる。諸道の兵は不要ゆえすべて帰されたい」と奏し、朝廷は許した。賊は諸道の兵が北へ淮を渡ったと探知するや、駢に絶交を告げて戦いを挑んだ。駢は怒って璘に撃たせたが、兵は敗れて璘は戦死し、巣の勢いは再び盛り返した。
  • 六月、巣の別将が睦州・婺州を陥れた。庚戌、巣が宣州を攻めて陥れた。
  • 秋七月、巣は采石から江を渡り、天長・六合を包囲した。兵勢は盛んで、淮南の将・畢師鐸は高駢に「朝廷は公を安危の要と頼んでいます。今、賊は数十万の衆で勝ちに乗じて長駆し、無人の境を行くようです。険要の地に拠って撃たず、淮水を越えさせれば、もう制御できず必ず中原の大患となります」と述べた。しかし駢は諸道の兵をすでに散らし、張璘も死んで、自力では抑えられぬと見て、恐れて出兵せず、諸将に厳重な自衛を命じるだけだった。そのうえで「賊六十余万が天長に屯し、臣の城から五十里です」と上表して急を告げた。
  • それまで盧攜は「駢には文武の才があり、兵権をすべて委ねれば黄巣など平定は容易」と言っており、朝野に駢を頼りにならぬとする声もあったが、なお期待は残っていた。この上表が届くと上下は失望し、人心は大いに動揺した。詔書は駢が諸道の兵を解散させ、賊に無備の隙を突いて渡江させたことを責めた。駢は「解散は奏聞したうえのことで独断ではありません。今は力を尽くして一方を保衛し、必ずやり遂げます。ただ賊が次々に淮を越えるのが心配なので、急ぎ東道の将士に十分な防備を命じられたい」と上表し、以後は中風と称して出戦しなくなった。
  • 河南の諸道に兵を発して溵水に屯させ、泰寧節度使の斉克譲を汝州に屯させて黄巣に備えた。辛酉、淄州刺史の曹全晸を天平節度使兼東面副都統とした。
  • 九月、巣の衆は十五万と号し、全晸は六千で戦って殺害・捕獲もかなりあったが、衆寡敵せず泗水のほとりに退き、諸軍の到着を待って力を合わせようとした。しかし高駢はついに救わず、賊は全晸を撃って破った。
  • 徐州が三千の兵を溵水へ送り、許昌を通過した。徐州の兵は元来凶暴で知られていたが、節度使の薛能は以前彭城を鎮したとき徐州の人に恩信があったと自負し、毬場に宿営させた。日暮れに徐州の兵が大騒ぎを起こし、能が子城の楼に登って問うと「供給が行き届かない」と答えたので、長々と慰労してようやく収まったが、許州の人々はひどく恐れた。
  • そのとき忠武も大将の周岌を溵水へ送っていたが、遠くまで行かぬうちにこれを聞き、夜に兵を返して明け方に入城し、徐州の兵を襲ってことごとく殺した。さらに能が徐州の兵を厚遇したことを恨んで追放し、能が襄陽へ逃げようとすると乱兵が追って一家もろとも殺した。岌は自ら留後を称した。
  • 汝鄭把截制置使の斉克譲は岌に襲われるのを恐れて兖州へ引き揚げ、溵水に屯していた諸道の兵は皆散った。黄巣はここで全軍を挙げて淮を渡り、通過地では略奪せず、ただ壮丁を取って兵を増やした。
  • 冬十月、諸葛爽を夏綏節度使とした。巣は申州を陥れ、潁・宋・徐・兖の境に入った。
  • 十一月、河東節度使の鄭従讜に本道の兵を諸葛爽と代州刺史の朱玫に与えて南下させ黄巣を討たせるよう詔した。乙卯、代北都統の李琢を河陽節度使とした。
  • 黄巣が淮を渡ろうとしたころ、豆盧瑑は天平の節鉞を巣に授け、着任したところを討つよう請うた。盧攜は「盗賊に飽きるということはない。節を与えても略奪は止まらぬ。急ぎ諸道の兵で泗州を扼し、汴州節度使を都統とするに如くはない。賊は前進しても関中に入れず、必ず戻って淮浙を掠め、海辺で生き延びるだけになる」と述べ、これが採られた。ところが淮北から相次いで急報が届くと、攜は病と称して出仕しなくなり、京師は大いに恐れた。
  • 庚申、東都が黄巣の汝州境入りを奏した。辛酉、河中都虞候の王重栄を留後代行とした。
  • 汝鄭把截制置都指揮使の斉克譲は「黄巣は天補大将軍を自称し、諸軍へ牒を回して『各自塁を守り、わが鋒を犯すな。私は東都に入り、そのまま京邑へ至る。自ら罪を問うつもりで、皆には関わりない』と言っている」と奏した。
  • 帝が宰相に議させると、豆盧瑑と崔沆は関内の諸鎮と両神策軍を出して潼関を守るよう請うた。壬戌の冬至、帝は延英殿を開いて宰相と対し、涙を流した。観軍容使の田令孜は「左右神策軍の弓弩手を選んで潼関を守らせ、臣自ら都指揮制置把截使となります」と奏した。帝が「侍衛の将士は戦に慣れていない。役に立つまい」と言うと、令孜は「昔、安禄山が叛いたとき、玄宗は蜀へ幸して避けられました」と述べた。崔沆は「禄山の衆はわずか五万。黄巣に比べれば取るに足りません」と言い、豆盧瑑は「哥舒翰は十五万で潼関を守りきれなかった。今、黄巣の衆は六十万、潼関には哥舒翰ほどの兵もない。令孜が社稷のために図るというなら、三川の帥臣はいずれも令孜の腹心ですから、玄宗の折より備えは整っております」と述べた。帝は不快になり、令孜に「ともかく朕のために兵を出して潼関を守れ」と命じた。
  • この日、帝は左神策軍に赴いて自ら将士を閲した。令孜は左軍馬軍将軍の張承範、右軍歩軍将軍の王師会、左軍兵馬使の趙珂を推薦し、帝は三人を召見して、承範を兵馬先鋒使兼把截潼関制置使、師会を制置関塞糧料使、珂を句当塞柵使とし、令孜を左右神策軍内外八鎮および諸道兵馬都指揮制置招討などの使、飛龍使の楊復恭を副使とした。
  • 癸亥、斉克譲が「黄巣はすでに東都の境に入り、臣は軍を収めて潼関に退き守り、関外に塞を置いた。将士は度重なる戦闘で長く物資が乏しく、州県は荒れ果てて人煙はほぼ絶え、東西南北どこにも人の住む家が見えない。凍えと飢えに迫られ、兵器は摩耗し、皆が郷里を思っている。一朝にして潰散しかねない。早く物資と糧、そして援軍を」と奏した。帝は両神策の弩手を選んで二千八百人を得、張承範らに率いさせて向かわせた。
  • 丁卯、黄巣が東都を陥れた。留守の劉允章が百官を率いて出迎え、巣は入城して労いの言葉をかけただけで、町は平穏だった。允章は劉廼の曽孫である。田令孜は坊市の人数千を募って両軍を補充した。
  • 辛未、陝州が東都陥落を奏した。壬申、田令孜を汝洛晋絳同華都統として左右軍を率いて東征させることとした。この日、賊は虢州を陥れた。神策将の羅元杲を河陽節度使とした。
  • 乙亥、張承範らが神策の弩手を率いて京師を発った。神策の軍士はいずれも長安の富家の子弟で、宦官に賄賂を贈って軍籍に名を潜り込ませ、厚い俸禄を得ながら、派手な衣と立派な馬で威勢を張るだけで戦陣を知らなかった。出征と聞くと父子で泣き合い、多くは金帛で施療院の貧者を雇って身代わりに行かせたので、その多くは武器も扱えなかった。
  • この日、帝は章信門の楼に出て見送った。承範は「黄巣は数十万の衆を擁して鼓を打って西進していると聞きます。斉克譲は飢えた兵一万で関外に頼り、そこへ臣が二千余人で関上に屯するのみ。しかも兵糧の手当ての話も聞きません。これで賊を防ぐとは、臣は寒心いたします。どうか諸道の精兵を急がせ、早く後詰めを」と申し上げた。帝は「そなたらはとにかく行け。兵はすぐ追いつく」と言った。
  • 丁丑、承範らが華州に着くと、刺史の裴虔余は宣歙観察使へ転じたあとで、軍民は皆華山へ逃げ込み、城中はがらんとし、州の倉庫は塵と鼠の跡ばかりだった。ただ倉に米が千余斛残っていたので、軍士は三日分を携えて進んだ。
  • 十二月庚辰朔、承範らが潼関に着き、藪を捜して村民百人ほどを集め、石を運ばせ水を汲ませて守備の備えとした。斉克譲の軍ともども兵糧が絶え、士卒に戦意はなかった。
  • この日、黄巣の先鋒が関下に至り、白旗が野を埋めて果てが見えなかった。克譲が戦うと賊はやや退いたが、まもなく巣が到着し、全軍が大呼して声は黄河と華山を震わせた。克譲は正午から酉の刻まで力戦してようやく解け、士卒はひどく飢えて騒ぎ立て、営を焼いて潰えた。克譲は関に逃げ込んだ。
  • 関の左に谷があり、平時は通行を禁じて徴税していたので「禁阬」と呼ばれていた。賊の来襲が急だったため官軍は守るのを忘れ、潰兵が谷から入った。谷中は灌木と老藤が織物のように密生していたが、一夜で踏み固められて平坦な道になった。
  • 承範は自分の荷袋をすべて開いて士卒に分け与え、使者を送って上表し急を告げた。「臣は京を離れて六日、甲卒は一人も増えず、兵糧の話も影さえ聞こえません。関に着いたその日に大敵が来ました。二千余人で六十万に当たり、外の軍は飢えて潰え、禁阬を踏み開かれました。臣の失守は鼎鑊も甘んじて受けますが、朝廷の謀臣は恥じる顔をどこに置くのか。陛下がすでに西へ巡幸を議されていると聞きます。鑾輿がひとたび動けば上下は土崩します。臣は生きているうちに死を冒す言を申し上げます。どうか近臣・宰臣とよくお考えのうえ、軽々に動かず、急ぎ兵を徴して関の守りを救っていただきたい。さすれば高祖・太宗の業はなお支えられ、黄巣は安禄山と同じ末路をたどり、微臣は哥舒翰の死に勝りましょう」。
  • 辛巳、賊が潼関を急攻し、承範は全力で防いだ。寅の刻から申の刻まで戦い、関上の矢は尽き、石を投げて撃った。関外には天然の塹があったが、賊は民千余人を追い込んで土を掘って埋めさせ、たちまち平らにして兵を渡し、夜には火を放って関楼をすべて焼いた。承範は八百を分けて王師会に禁阬を守らせたが、着いたときには賊はすでに入っていた。
  • 壬午の朝、賊が潼関を挟撃し、関上の兵は皆潰えた。師会は自殺し、承範は服を変えて残衆と逃れた。野狐泉で奉天の援兵二千に出会い、承範は「来るのが遅すぎた」と言った。
  • 博野・鳳翔の軍が渭橋まで戻ったとき、募られたばかりの新軍が暖かく新しい衣を着ているのを見て、「こいつらに何の功があってこの扱いだ。我らはかえって凍え飢えている」と怒って略奪し、そのまま賊の道案内となって長安へ向かった。
  • 賊が潼関を攻めていたころ、朝廷は前京兆尹の蕭廩を東道転運糧料使としたが、廩は病と称して辞職を願い、賀州司戸に貶された。
  • 黄巣は華州に入り、将の喬鈴を守りに残した。河中留後の王重栄は賊に降伏を申し出た。癸未、巣を天平節度使とする制が出た。
  • 甲申、翰林学士承旨・尚書左丞の王徽を戸部侍郎、翰林学士・戸部侍郎の裴澈を工部侍郎とし、ともに同平章事とした。盧攜は太子賓客・分司とされた。田令孜は黄巣の入関を聞き、帝に責められるのを恐れて攜に罪を着せて貶し、徽と澈を宰相に推したのである。その夕、攜は薬を飲んで死んだ。澈は裴休の甥である。
  • 百官は退朝後、乱兵の入城を聞いて散り散りに隠れた。田令孜は神策の兵五百を率いて帝を奉じ金光門から出た。従ったのは福・穆・沢・寿の四王と妃嬪数人だけで、百官は誰も知らなかった。帝は昼夜を分かたず駆け、従官の多くは追いつけなかった。車駕が去ると、軍士や坊市の民が争って府庫に入り金帛を盗んだ。
  • 晡の刻、黄巣の先鋒・柴存が長安に入り、金吾大将軍の張直方が文武数十人を率いて霸上に巣を迎えた。巣は金装の輿に乗り、その一党は皆髪を垂らして紅の絹で束ね、錦繡を着て武器を手に従い、甲騎は流れるように続き、輜重は道を塞いで千里に絶えなかった。民は道の両側に集まって見物し、尚譲は次々に諭して「黄王の挙兵はもともと百姓のためだ。李氏のようにおまえたちを顧みぬわけではない。安心して暮らし、恐れるな」と言った。
  • 巣は田令孜の邸に入った。その一党は長く盗賊であって富に慣れておらず、貧しい者を見るとしばしば施しをした。だが数日すると各自が出て大掠を働き、市肆を焼き、殺された者が街に満ちたが、巣は禁じられなかった。とりわけ官吏を憎み、捕えれば皆殺した。
  • 帝は駱谷へ向かった。鳳翔節度使の鄭畋が道中で拝謁し、鳳翔に留まるよう請うたが、帝は「朕は大敵のすぐそばにいたくない。ひとまず興元へ行き、兵を徴して回復を図る。そなたは東に賊の鋒を防ぎ、西に諸蕃を撫し、隣道を糾合して大功を立てよ」と述べた。畋が「道が塞がって奏報が通じにくい。便宜に事を処す権限を」と請い、許された。
  • 戊子、帝は壻水に至り、牛朂・楊師立・陳敬瑄に詔して、京城が守れず興元へ向かうこと、賊勢がなお盛んなら成都へ向かうので予め備えるよう伝えた。
  • 庚寅、黄巣は長安にいた唐の宗室を一人残らず殺した。辛卯、巣は宮中に入り、壬辰、含元殿で皇帝に即位した。黒い繒に絵を描いて袞衣とし、戦鼓を数百打って金石の楽に代えた。丹鳳楼に登って赦書を下し、国号を大斉、年号を金統とした。「広明」の号は唐の下の部分を除き「黄家の日月」を著すもので、自分の符瑞だというのである。唐の三品以上の官はすべて解任し、四品以下はそのままとした。妻の曹氏を皇后、尚譲を太尉兼中書令、趙璋を侍中、崔璆・楊希古をともに同平章事、孟楷・蓋洪を左右僕射・知左右軍事、費伝古を枢密使、太常博士の皮日休を翰林学士とした。璆は崔邠の子で、浙東観察使を罷めて長安にいたところを巣に捕えられ宰相にされた。
  • 諸葛爽は代北行営として櫟陽に屯し、巣の将である碭山の朱温が東渭橋に屯していた。巣が温に説得させると爽は降り、巣は爽を河陽節度使とした。爽が着任に向かうと羅元杲が兵を出して拒んだが、士卒は皆甲を捨てて爽を迎え、元杲は行在へ逃げた。
  • 鄭畋は鳳翔に戻って将佐を集め、賊を防ぐことを議した。皆が「賊勢は今が盛り。しばらく落ち着いて兵が集まるのを待ち、それから回復を図るべきだ」と言うと、畋は「諸君は私に賊に臣従せよと勧めるのか」と言って気を失って倒れ、敷石で顔を傷つけ、正午から翌朝まで口もきけなかった。
  • 折しも巣の使者が赦書を持って到着し、監軍の袁敬柔が将佐と並んで宣示を受け、畋に代わって表を草して署名し、巣に謝意を伝えた。監軍が巣の使者と宴を張って楽を奏させると、将佐以下は皆泣いた。使者が怪しむと、幕客の孫儲は「相公が中風で出て来られないので悲しんでいるのです」と言った。これを聞いた民間の者も皆涙した。
  • 畋は「人心がまだ唐を見捨てていないことがこれで分かった。賊が首を差し出す日も遠くない」と言い、指を刺して血で表を書き、腹心に間道から行在へ届けさせた。将佐を召して順逆を諭すと皆従い、さらに血を刺して盟を結んだ。そのうえで城と塹を整え、器械を修め、士卒を訓練し、密かに隣道と兵を合わせて討賊することを約し、隣道も皆承知して鳳翔に兵を集めた。
  • 当時、関中に分鎮していた禁軍はなお数万おり、天子が蜀へ行ったと聞いて行き場を失っていた。畋が人を送って招くと皆従い、畋は財を分けて心を結び、軍勢は大いに振るった。
  • 丁酉、車駕が興元に至り、諸道に全軍を出して京師を回復するよう詔した。
  • 己亥、黄巣は「趙璋の邸に出頭して名を届け出た百官は官に復す」と令を下した。豆盧瑑・崔沆および左僕射の于琮、右僕射の劉鄴、太子少師の裴諗、御史中丞の趙濛、刑部侍郎の李溥、京兆尹の李湯は扈従に間に合わず民間に隠れていたが、巣は捜し出して皆殺した。広徳公主は「私は唐室の女。于僕射とともに死ぬ」と誓い、賊の刃をつかんで放さず、賊はともに殺した。盧攜の屍を掘り出して市でさらしものにした。将作監の鄭綦と庫部郎中の鄭係は賊に臣従することを潔しとせず一家で自殺した。左金吾大将軍の張直方は巣に臣従しながら多くの亡命者を受け入れ、公卿を二重壁に匿ったため、巣に殺された。
  • かつて枢密使の楊復恭が処士の張濬(河間の人)を推薦して太常博士に任じ、度支員外郎に進めていた。黄巣が潼関に迫ると濬は商山に難を避けた。帝が興元へ向かう道中は接待の用意がなかったが、漢陰令の李康が騾馬に糒糧数百駄を積んで献じ、従行の軍士はようやく食にありついた。帝が「そなたは県令なのになぜこうできたのか」と問うと、「臣の思いつきではありません。張濬員外の教えです」と答えた。帝は濬を行在に召して兵部郎中とした。
  • 義成節度使の王処存は長安失陥を聞いて数日号泣し、詔命を待たず全軍を挙げて入援し、二千人を間道から興元へ送って車駕を護衛させた。
  • 黄巣は河中へ使者を送って前後数百人分の徴発を行い、吏民はその苦しみに耐えかねた。王重栄は衆に「はじめは節を屈して軍府の患いを和らげたが、財の徴発は止まず、さらに徴兵まで来る。滅びるのは時間の問題だ。兵を出して防ぐに如くはない」と述べ、皆が賛同したので、巣の使者をすべて捕えて殺した。巣は将の朱温を同州から、弟の黄鄴を華州から出して合流させ河中を撃たせたが、重栄は大破して糧と武器四十余船を得、王処存と盟を結び、渭北に陣を敷いた。
  • 陳敬瑄は車駕の出幸を聞き、歩騎三千を送って迎え、成都への行幸を請うた。従う兵が増えて興元の備蓄が足りず、田令孜も勧めたので、帝はこれに従った。

中和元年(881年・鄭畋の反攻と長安の一時奪還)

  • 春正月、車駕が興元を発ち、辛未に綿州に至って東川節度使の楊師立が拝謁した。壬申、工部侍郎・判度支の蕭遘を同平章事とした。
  • 鄭畋は前朔方節度使の田弘夫、涇原節度使の程宗楚と黄巣討伐を約した。巣が将の王暉に詔を持たせて畋を召すと、畋はこれを斬り、子の凝績を行在へ送った。凝績は漢州で帝に追いついた。
  • 丁丑、車駕が成都に至り、府舎に入った。
  • 帝は中使を次々に送って高駢に黄巣討伐を急がせたが、駢はついに出兵しなかった。帝は蜀に至ってもなお駢の功を期待し、駢の管内の刺史や功ある諸将について、監察から常侍まで墨敕で任命したうえ奏聞せよと詔した。
  • 八月乙卯朔、太子少師の王鐸を司徒兼門下侍郎・同平章事とした。丙申、鄭畋に同平章事を加えた。淮南節度使の高駢に東面都統を加え、河東節度使の鄭従讜に侍中を兼ねさせ、従前どおり行営招討使とした。
  • 代北監軍の陳景思が沙陀酋長の李友金および薩葛・安慶・吐谷渾の諸部を率いて京師の救援に向かい、絳州に至って渡河しようとしたとき、絳州刺史の瞿稹(この人も沙陀である)が景思に「賊勢は今が盛りで軽々に進めない。ひとまず代北に戻って募兵するに如くはない」と述べ、ともに鴈門へ帰った。
  • 枢密使の楊復光を京城西南面行営都監とした。
  • 黄巣は朱温を東南面行営都虞候として鄧州を攻めさせ、三月辛亥に陥れて刺史の趙戒を捕え、そのまま鄧州に戍って荊州・襄州を扼した。
  • 壬子、陳敬瑄に同平章事を加えた。甲寅、敬瑄は左黄頭軍使の李鋋に兵を率いさせて黄巣を撃つと奏した。
  • 辛酉、鄭畋を京城四面諸軍行営都統とし、詔を賜って「蕃漢の将士で難に赴いて功ある者は、すべて墨敕で任官してよい」とした。畋は涇原節度使の程宗楚を副都統、前朔方節度使の唐弘夫を行軍司馬とするよう奏した。
  • 黄巣が将の尚譲・王播に五万を率いさせて鳳翔を侵すと、畋は弘夫に要害へ伏兵させ、自らは数千の兵に多くの旗を立てさせて高い丘にまばらに陣を敷いた。賊は畋を書生と侮り、鼓を鳴らして隊列も組まずに進んだところへ伏兵が起こり、龍尾陂で大敗して二万余級を斬られ、屍は数十里に伏した。
  • 尚書省の門に賊を嘲る詩を書いた者があり、尚讓は怒って、省にいた官と門卒の目をすべてえぐって逆さ吊りにし、城中で詩の作れる者を捜索してことごとく殺した。字の読める者は賤役に回し、殺された者は三千余人に上った。
  • 瞿稹と李友金が代州で募兵し、十日余りで三万人を得たが、いずれも北方の雑胡で、崞県の西に屯して剽悍横暴、稹も友金も統御できなかった。友金は陳景思に「今、数万の衆があっても、威望ある将が統べなければ結局成功しない。わが兄の司徒(李国昌)父子は勇略が人に勝り衆が服する。驃騎(景思)が天子に奏してその罪を赦し帥として召せば、代北の人は一振りで応じ、狂賊の平定は難しくない」と説いた。景思はもっともと考えて行在へ使者を送り、詔で請いどおり許された。友金は五百騎とともに詔を携えて達靼へ迎えに行き、李克用は達靼の諸部一万を率いて赴いた。
  • 車駕に従う群臣が次第に成都に集まり、南北両司の朝臣は二百人近くになった。諸道および四夷の貢献は絶えず、蜀中の府庫は京師と変わらぬほど充実し、賞賜も欠かず、士卒は喜んだ。
  • 黄巣は王徽を捕えて官職を強いたが、徽は唖を装って従わず、一月余りして河中へ逃れ、間道から絹に書いた表を行在へ届けた。詔で徽を兵部尚書とした。
  • 前夏綏節度使の諸葛爽が河陽から上表して帰順し、そのまま河陽節度使とされた。
  • 宥州刺史の拓跋思恭(もと党項羌)は夷夏の兵を糾合し、鄜州で鄜延節度使の李孝昌と会して討賊を盟約した。奉天鎮使の斉克倹も鄭畋に使者を送って尽力を申し出た。
  • 甲子、畋は天下の藩鎮に檄を伝えて兵を合わせ討賊するよう呼びかけた。当時、天子は蜀にあって詔令が通じず、天下は朝廷がもう立ち直れぬと見ていたが、畋の檄を得ると争って兵を出して応じた。賊は恐れて京西をうかがえなくなった。
  • 夏四月戊寅朔、王鐸に侍中を兼ねさせた。拓跋思恭を夏綏節度使代行とした。
  • 黄巣は将の王玫を邠寧節度使としたが、邠州通塞鎮将の朱玫が兵を挙げてこれを誅し、別将の李重古を節度使に立て、自ら兵を率いて巣を討った。
  • このとき唐弘夫は渭北、王重栄は沙苑、王処存は渭橋、拓跋思恭は武功、鄭畋は盩厔に屯していた。弘夫は龍尾陂の勝利に乗じて長安に迫り、壬午、黄巣は衆を率いて東へ逃げた。程宗楚が先に延秋門から入り、弘夫が続き、王処存は精兵五千を率いて夜に入城した。坊市の民は喜んで歓呼して官軍を迎え、瓦礫を投げて賊を撃つ者、矢を拾って官軍に供する者もあった。
  • ところが宗楚らは功を分けられまいとして鳳翔に報せず、鄜州・夏州の軍士は武器を置いて邸宅に入り、金帛や妓妾を掠めた。処存は軍士の頭に白布を結ばせて目印としたが、坊市の若者がその目印を盗んで人を掠める者も出た。
  • 霸上に露宿していた賊は、官軍が乱れ、しかも諸軍が連携していないと探知し、兵を返して襲い、諸門から分かれて入って長安市中で大戦した。宗楚と弘夫は戦死し、軍士は重い荷を負って走れず、そのため大敗して八、九割が死んだ。処存は残衆を収めて営に戻った。
  • 丁亥、巣は再び長安に入り、民が官軍を助けたことに怒って兵を放って屠殺し、流血は川をなした。これを「洗城」と呼んだ。こうして諸軍は皆退き、賊勢はいっそう盛んになった。巣が任じた同州刺史の王溥、華州刺史の喬謙、商州刺史の宋巌は、巣が長安を棄てたと聞いて衆を率いて鄧州へ逃げたが、朱温は溥と謙を斬り、巌は釈して商州へ帰らせた。
  • 庚寅、拓跋思恭と李孝昌が王橋で賊と戦って不利となった。河中留後の王重栄を節度使とした。
  • 賊の衆は黄巣に「承天応運啓聖睿文宣武皇帝」の尊号を奉った。
  • 雉が二羽、広陵の府舎に集まった。占者が「野鳥が城邑に集まるのは城が空になる兆し」と言ったので、高駢は嫌気がさし、四方に檄を回して黄巣討伐に向かうと称し、管内の兵八万・舟二千艘を挙げ、旌旗と甲兵はきわめて盛んだった。五月己未、東塘に出て屯したが、諸将が出発の日取りを再三尋ねても、駢は風波を口実にし、あるいは日が悪いと言って、ついに出発しなかった。
  • 黄巣が長安を落としたとき、忠武節度使の周岌はこれに降っていた。あるとき岌が夜宴を開いて監軍の楊復光を急に招いた。左右が「周公は賊に臣従した。内侍に不利なことをするに違いない、行ってはならぬ」と止めたが、復光は「事ここに至れば、義として身の安全は図らぬ」と言って赴いた。
  • 酒が回ったところで岌が本朝の話に及ぶと、復光は長く涙を流して「男子が心を動かされるのは恩義だけです。公は匹夫から公侯となられた。それが十八代続いた天子を捨てて賊に臣従されるのか」と言った。岌も涙して「私一人では賊を拒めぬ。だから表向き従い、内心では図っている。今日お呼びしたのはまさにそのためだ」と言い、酒を注いで盟を結んだ。その夕、復光は養子の守亮に賊の使者を駅で殺させた。
  • 当時、秦宗権が蔡州に拠って岌の命に従わなかったので、復光は忠武の兵三千を率いて蔡州へ行き、宗権を説いてともに挙兵し巣を討つこととした。宗権は将の王淑に三千を率いて復光に従わせ鄧州を撃たせたが、淑がぐずついて進まないので復光は斬り、その軍を併せた。忠武の八千人を八都に分け、牙将の鹿晏弘・晋暉・王建・韓建・張造・李師泰・龐従ら八人に率いさせた。王建は舞陽の人、韓建は長社の人、晏弘・晖・造・師泰はいずれも許州の人である。復光は八都を率いて朱温と戦って破り、鄧州を落とし、藍橋まで追撃して戻った。
  • 昭義節度使の高潯が王重栄とともに華州を攻めて落とした。
  • 六月戊戌、鄭畋を司空兼門下侍郎・同平章事とし、都統は従前どおりとした。
  • 邠寧節度副使の朱玫が興平に屯すると、黄巣の将・王播が興平を囲み、玫は奉天と龍尾陂に退いて屯した。
  • 西川黄頭軍使の李鋋が一万、鞏咸が五千を率いて興平に二つの寨を築き、黄巣と戦ってしばしば勝った。陳敬瑄は神機営使の高仁厚に二千を率いさせて加勢させた。
  • 車駕が成都に着いたとき、蜀軍への賞銭は一人三緡だった。田令孜は行在都指揮処置使として、四方から金帛の貢納があるたび従駕の諸軍に配り、欠かす月はなかったが、蜀軍には及ばず、蜀軍にはかなり不満があった。
  • 秋七月丙寅、令孜は土着・客将の都頭を招いて宴を開き、金杯で酒を回し、その杯を賜与した。諸都頭は皆拝して受けたが、西川黄頭軍使の郭琪だけは受けず、立ち上がって「諸将は毎月十分な俸禄を受け、常に報いがたく思っております。飽くことを知らぬわけではない。ただ蜀軍は諸軍と同じく宿衛にありながら賞賜に大きな差があり、不満が募っております。万一の変を恐れます。どうか軍容(令孜)は諸将への賜与を減らして蜀軍に均し、土着と客兵を等しく扱っていただきたい。さすれば上下の幸いです」と述べた。
  • 令孜は黙り込み、しばらくして「そなたにどんな功がある」と言った。琪は「私は山東に生まれ育ち、辺境に戍って党項と十七度、契丹と十余度戦い、身は金創だらけです。吐谷渾征伐では脇腹を傷つけられ腸が出たのを糸で縫って戦い続けました」と答えた。令孜は別の樽から自ら酒を酌んで琪に賜った。琪は毒と知りながらやむなく再拝して飲み、帰って婢を一人殺してその血を吸って毒を解き、黒い汁を数升吐いた。そして部下を率いて乱を起こした。
  • 丁卯、坊市を焼き掠めた。令孜は天子を奉じて東城を固め、門を閉じて楼に登り、諸軍に撃たせた。琪は兵を引いて営に戻り、陳敬瑄は都押牙の安金山に攻めさせたが、琪は夜に囲みを突いて広都へ逃げた。
  • 帝は日夜もっぱら宦官とともに天下の事を議し、外朝の臣にはきわめて疎遠だった。庚午、左拾遺の孟昭図が上疏した。「治安の世でも遠近が心を一つにすべきなのに、多難の時こそ内外は一体であるべきです。去冬の西幸は南司に告げられず、宰相・僕射以下はことごとく賊に殺され、北司だけが無事でした。まして今、参集した朝臣は皆死を冒し険路を越えて遠く君親に仕えに来た者ばかり。今後は苦楽を共にすべきです。先夕の黄頭軍の乱では、陛下は令孜・敬瑄および宦官らとだけ城を閉じ楼に登られ、王鐸以下を召さず、朝臣を城内に収容もされなかった。翌日も宰相と対面されず、朝臣を慰められもしない。臣は諫官の末席にありながら、今なお聖躬のご無事すら存じません。まして疎遠な者は言うまでもない。群臣が君上を顧みぬなら罪は誅に当たりますが、陛下が群臣を恤まぬのは義としていかがか。そもそも天下は高祖・太宗の天下であって北司の天下ではなく、天子は四海九州の天子であって北司の天子ではありません。北司が必ずしもすべて信頼できるわけではなく、南司が必ずしもすべて無用なわけでもない。天子と宰相が全く関わらず、朝臣が皆行きずりの人のようであっては、回復の日はなお遠く、禄を食む者だけが安逸を貪ることになります。臣は寵栄を受け、職は補益にあります。済んだ事は諫めずとも、これからは正せます」。
  • 令孜はこれを握り潰して奏さず、辛未、詔と偽って昭図を嘉州司戸に貶し、人を送って蟇頤津に沈めた。聞く者は息を詰まらせたが、誰も口を開けなかった。
  • 鄜延節度使の李孝昌と夏州節度使代行の拓跋思恭が東渭橋に屯すると、黄巣は朱温を送って防がせた。義武節度使の王処存を東南面行営招討使、邠寧節度副使の朱玫を節度使とした。
  • 秋八月、高潯が黄巣の将・李詳と石橋で戦って敗れ河中へ逃げた。詳は勝ちに乗じて華州を奪回し、巣は詳を華州刺史とした。夏綏節度使代行の拓跋思恭を節度使とした。
  • 九月、李孝昌と拓跋思恭が東渭橋で尚讓・朱温と戦って不利となり退いた。
  • かつて高駢と鎮海節度使の周宝はともに神策軍の出身で、駢は宝を兄として遇していたが、駢が先に貴顕となり功を立てるとしだいに軽んじた。やがて封域が隣り合い些細なことで再三争って隙が生じた。駢が宝に京師への入援を促す檄を送ると、宝は水軍を整えて待った。ところが駢が長く動かないのを怪しんで幕客に尋ねると、ある者が「高公は朝廷の多難に乗じて江東を併呑する志があります。入援と称していますが、実は我らを図っているのかもしれません。備えるべきです」と言った。宝はまだ信じず、人をやって探らせたが、駢に北上の意はまるでなかった。
  • そこへ駢が瓜洲での対面と軍事協議を申し入れてきたため、宝は先の説を信じ、病と称して行かず、しかも使者に「私は李康ではない。高公はまた家門の勲功を作って朝廷を欺くつもりか」と言った。駢は怒って使者を送り「大臣を軽侮するとは何事か」と責め、宝は「互いに江を挟んだ節度使ではないか。おまえが大臣なら私は坊の門番か」と罵り、ここに深い仇敵となった。
  • 駢は東塘に百余日留まり、詔が何度も促したが、宝と浙東観察使の劉漢宏が後患になると上表して口実にし、辛亥、兵を収めて府へ帰った。実際には難に赴く心はなく、ただ雉が集まった凶兆を祓おうとしただけだった。
  • 忠武監軍の楊復光が武功に屯した。
  • 鳳翔行軍司馬の李昌言が本軍を率いて興平に屯した。当時、鳳翔の倉庫は空で、犒賞は薄く兵糧も続かなかった。昌言は府中の兵が少ないと知り、衆を煽って、冬十月、軍を返して府城を襲った。鄭畋が城に登って士卒に語りかけると、皆下馬して並んで拝し、「相公はまことに我らに背いてはおられません」と言った。畋は「行軍(昌言)が兵を統御して人を愛し、国のために賊を滅ぼしてくれるなら、順当に守ってもらってよい」と言い、その日のうちに留務を委ねて西の行在へ向かった。
  • 天平節度使の曹全晸が賊と戦って死に、軍中はその甥の存実を留後に立てた。
  • 十一月、孟楷と朱温が富平で鄜州・夏州の二軍を襲い、二軍は敗れて本道へ逃げ帰った。
  • 鄭畋は鳳州に至り、再三上表して辞任を願い、太子少傅・分司とされ、李昌言が鳳翔節度・行営招討使とされた。
  • 十二月、感化留後の時溥を節度使とした。夏州に定難軍の号を賜った。
  • 王鐸は、高駢が諸道都統でありながら討賊の意がないのを見て、自分は首相の身であるとして発憤し、出征を懇願して涙ながらに三度も願い出た。帝は許した。

中和二年(882年・朱温の帰順と李克用の召還)

  • 春正月辛亥、王鐸に中書令を兼ねさせ諸道行営都都統・義成節度使代行とし、兵が収まれば政府に戻ることとした。高駢は塩鉄転運使だけを領し、都統と諸使を解かれた。鐸には将佐の自由な任命を許し、太子少師の崔安潜を副都統とした。
  • 辛未、周岌と王重栄を都都統の左右司馬、諸葛爽と宣武節度使の康実を左右先鋒使、時溥を催遣綱運租賦防遏使とし、右神策観軍容使の西門思恭を諸道行営都都監とした。また王処存・李孝昌・拓跋思恭を京城東北西面都統、楊復光を南面行営都監使とした。さらに中書舎人の鄭昌図を義成節度行軍司馬、給事中の鄭畯を判官、直弘文館の王搏を推官、司勲員外郎の裴贄を掌書記とした。昌図は鄭従讜の従祖兄弟、畯は鄭畋の弟、搏は王璵の曽孫、贄は裴坦の子である。また陝虢観察使の王重盈(重栄の兄)を東面都供軍使とした。
  • 黄巣は朱温を同州刺史とし、自力で取らせた。二月、同州刺史の米誠が河中へ逃げ、温はこれを占拠した。
  • 己卯、太子少傅・分司の鄭畋を司空兼門下侍郎・同平章事として行在に召し、軍務をすべて諮った。王鐸に判戸部事を兼ねさせた。
  • 朱温が河中を侵したが、王重栄が撃退した。李昌言を京城西面都統、朱玫を河南都統とした。右神策将軍の斉克倹を左右神策軍内外八鎮兼博野奉天節度使とした。鄜坊軍に保大の号を賜った。
  • 夏四月、王鐸が両川・興元の軍を率いて霊感寺に屯し、涇原は京西、易定・河中は渭北、邠寧・鳳翔は興平、保大・定難は渭橋、忠武は武功に屯した。官軍が四方から集まり、黄巣の勢いは日ごとに窮し、号令の及ぶ範囲は同州・華州を出なかった。民は乱を避けて深山に入り柵を築いて自衛し、農事はすべて廃れ、長安城中では米一斗が三十緡した。賊は官軍から人を買って糧とし、官軍も山柵の民を捕えて数百緡で売り、肥痩で値をつけた。
  • 五月、淮南節度使の高駢に侍中を兼ねさせ、塩鉄転運使を解いた。駢は兵権を失い利権も解かれ、袖を振り上げて罵り、幕僚の顧雲に自弁の表を草させたが、その言辞は不遜だった。要旨は——「陛下が微臣を用いられぬのであって、微臣が陛下に背いたのではない」「奸臣は悟らず、陛下はなお迷い、宗廟の焼失を思わず、園陵の破壊を痛まれない」「王鐸は軍を潰した将、崔安潜は蜀にあって貪欲。この二人の儒生に強兵が統べられようか」「今の起用は帥臣から裨将まで、臣の見るところ座したまま生け捕りにできる程度」「百代にわたって恨みを抱く臣、千古に残る恥を作ってはならぬ。ただ東土に寇が起こり劉氏が再興すれば、軹道の災いは往時だけの話ではなくなる」「今、賢才は野にあり佞人は朝に満ちて、陛下を亡国の君にしようとしている。この者たちの計はどこへ向かうのか」。
  • 帝は鄭畋に詔を草させて厳しく責めた。要旨は——「利を綰べては塩の権を手中にし、兵を主どっては都統の権を握り、京北・京西の神策諸鎮まですべて指揮下にあった。統制の権は明らかだ。しかも貴くは司徒となり、栄えては太尉となった。これを不用というなら、どうすれば用いたことになるのか」「朕は長くそなたに兵権を託したが元凶を討ち取れず、天長で網を漏らして淮を越えられても一兵も出して追わず、京師を蹂躙させた。三年にわたり広陵の軍は封域を離れず、忠臣は嘆き勇士は謗る。だからこそ元臣を起用して巨寇を誅させるのだ」「かねて頼みとしていた気持ちは、今や訴える先もない。東南を凝視しては悲しみが増すばかりだ」「謝玄は淝水で苻堅を破り、裴度は淮西で呉元済を平らげた。儒臣が必ずしも武将に劣るとは限らぬ」「宗廟の焼失、園陵の破壊、亀玉が櫝の中で毀れたのは誰の過ちか」「『奸臣は悟らず』とは誰が認めよう。『陛下はなお迷い』の語は朕には受けられぬ」「そなたは天長で黄巣を縛ることすらできなかったのに、どうして諸将を座して生け捕れよう」「『劉氏が再興する』というが誰が魁首か。朕を劉玄や子嬰に比するとは、何と誣うことか」「まして天歩は傾かず皇綱はなお整い、三霊は昧まず百度は存している。君臣の礼儀、上下の名分は遵守すべきで、乱してはならぬ。朕は年若いとはいえ、軽侮されてよいものか」。駢は臣節を欠き、以後、貢賦を絶った。
  • 黄巣が興平を攻め、興平の諸軍は奉天に退いて屯した。
  • 秋七月、保大留後の東方逵を節度使・京城東面行営招討使とした。
  • 八月、黄巣の任じた同州防禦使の朱温は、河中を防ぐための増兵をたびたび請うたが、知右軍事の孟楷が抑えて取り次がなかった。温は巣の兵勢が日ごとに窮するのを見て滅亡が近いと悟り、親将の胡真・謝瞳も帰順を勧めた。九月丙戌、温は監軍の厳実を殺して州を挙げて王重栄に降り、重栄を舅として仕えた。王鐸は制を承けて温を同華節度使とし、瞳に表を持たせて行在へ送った。瞳は福州の人である。李詳も重栄が温を厚遇したのを見て帰順しようとしたが、監軍に密告されて黄巣に殺され、巣は弟の思鄴を華州刺史とした。
  • 朱温を右金吾大将軍・河中行営招討使とし、全忠の名を賜った。
  • 冬十月、平盧大将の王敬武を留後とした。当時、諸道の兵は皆関中に集まって黄巣を討っていたが、平盧だけが来なかった。王鐸は都統判官・諫議大夫の張濬を説得に送った。敬武はすでに黄巣の官爵を受けており、出迎えもしなかった。濬は敬武に会って「公は天子の藩臣でありながら詔使を侮り、上に事えることもできぬ。どうして下を使えるのか」と責め、敬武は驚いて詫びた。詔を宣べても将士は誰も応じない。濬はおもむろに諭した。「人はまず順逆を知り、次に利害を知るべきだ。黄巣は先日まで塩を売る野盗にすぎぬ。公らが累代の天子を捨ててこれに臣従して、いったい何の利がある。今、天下の勤王の師はみな京畿に集まっているのに淄青だけが来ない。ひとたび賊が平らぎ天子が復位したら、公らはどんな顔で天下の人に会うのか。急ぎ赴いて功を分かち、それぞれ富貴を取らねば、後悔しても及ばぬぞ」。将士は皆顔色を改めて非を認め、敬武を顧みて「諫議の言うとおりです」と言った。敬武はただちに兵を発し、濬に従って西へ向かった。
  • 黄巣の兵勢はなお強く、王重栄はこれを憂えて行営都監の楊復光に「賊に臣従すれば国に背き、討とうにも力が足りぬ。どうすればよい」と言った。復光は「鴈門の李僕射(克用)は驍勇で強兵を持つ。その父君は私の亡父と同僚で親しく、彼にも国に殉ずる志がある。来ないのは河東と隙があるからだ。朝旨として鄭公(従讜)に諭したうえで召せば必ず来る。来れば賊の平定は難しくない」と答えた。東面宣慰使の王徽も同意した。
  • そのとき王鐸は河中にいたので、墨敕をもって李克用を召し、鄭従讜に諭した。十一月、克用は沙陀一万七千を率いて嵐州・石州の路から河中へ向かった。
  • 李詳の旧兵が黄思鄴を追い出し、華陰鎮使の王遇を主に推して華州を挙げて王重栄に降り、王鐸は制を承けて遇を刺史とした。
  • 十二月、忻代等州留後の李克用を鴈門節度使とした。
  • 克用は四万の兵を率いて河中に至り、従弟の克脩に五百を率いさせて先に渡河させ賊を試させた。かつて克用の弟・克譲が南山の寺僧に殺され、その僕の渾進通は黄巣に身を寄せていた。高潯の敗戦以来、諸軍は皆賊を恐れて進もうとしなかったが、克用の軍が到着すると賊は恐れて「鵶軍が来た。その鋒は避けねば」と言った。克用の軍は皆黒衣だったので鵶軍と呼ばれたのである。
  • 巣は南山の寺僧十余人を捕え、使者に詔書と厚い賄賂を持たせ、渾進通を介して克用に和を求めた。克用は僧を殺して克譲を弔い、賄賂は受け取って諸将に分け、詔書を焼いて使者を返し、兵を率いて夏陽から渡河し、同州に布陣した。

中和三年(883年・長安奪回)

  • 春正月、克用の将・李存貞が沙苑で黄揆を破った。己巳、克用は沙苑に進屯した。揆は巣の弟である。王鐸は制を承けて克用を東北面行営都統、楊復光を東面都統監軍使、陳景思を北面都統監軍使とした。
  • 乙亥、中書令・諸道行営都統の王鐸を義成節度使として任地に赴かせる制が出た。田令孜は北司に重きを置こうとして、「鐸は長く黄巣を討って功なく、結局は楊復光の策で沙陀を召して破ったのだ」と称し、鐸の兵権を奪って復光を喜ばせた。副都統の崔安潜を東都留守とし、都都監の西門思恭を右神策中尉・諸道租庸兼催促諸道進軍等使とした。令孜は蜀への行幸を建議し、伝国の宝と歴代の御真を回収し、家財を散じて軍を犒ったことを自分の功として、宰相と藩鎮に加賞を請わせ、帝は令孜を十軍兼十二衛観軍容使とした。
  • 二月壬子、李克用が乾阬に進軍し、河中・易定・忠武の軍と合流した。尚讓は十五万を率いて梁田陂に屯していた。翌日の大戦は正午から日暮れまで続き、賊は大敗して数万が捕殺され、屍は三十里に伏した。巣の将である王蟠と黄揆が華州を襲って占拠し、王遇は逃げた。
  • 甲子、克用は華州を包囲した。黄思鄴と黄揆は城を固めて守り、克用は騎兵を分けて渭北に屯させた。鳳翔節度使の李昌言に同平章事を加えた。
  • 黄巣は再三敗れて食糧も尽き、密かに逃走を計り、三万を出して藍田の道を扼した。三月壬申、尚讓に華州を救わせたが、克用と王重栄が零口で迎え撃って破った。克用は渭橋に進み、騎兵は渭北に置き、毎夜、将の薛志勤・康君立を長安に潜入させて備蓄を焼き、敵を斬って戻らせたので、賊中は大いに驚いた。
  • 己丑、河中行営招討副使の朱全忠を宣武節度使とし、長安回復のあと任地に赴かせることとした。癸巳、克用らが華州を落とし、黄揆は城を棄てて逃げた。
  • 夏四月、克用は忠武の将・龐従、河中の将・白志遷らと先に進み、渭南で黄巣軍と戦って一日に三度戦って三度勝ち、義成・義武などの諸軍も続き、賊は総崩れとなった。甲辰、克用らは光泰門から京師に入り、黄巣は力戦したが勝てず、宮室を焼いて逃げ去った。賊の死者と降伏者はきわめて多かった。
  • 官軍の暴掠は賊と変わらず、長安の家屋も残った民もわずかだった。巣は藍田から商山に入り、道に多くの珍宝を捨てていったので、官軍は争ってこれを拾い、急いで追わず、賊は逃げおおせた。
  • 楊復光が使者を送って捷報を伝え、百官は祝賀に入った。詔で忠武などの軍二万人を留め、大明宮留守の王徽と京畿制置使の田従異に配置して長安を守衛させた。
  • 五月、朱玫・李克用・東方逵に同平章事を加えた。陝州を節度に昇格させて王重盈を節度使とし、延州を保塞軍として保大行軍司馬・延州刺史の李孝恭を節度使とした。
  • 克用はこのとき二十八歳、諸将の中で最も若かったが、黄巣を破って長安を回復した功は第一で、兵勢も最強、諸将は皆彼を畏れた。克用は片目がやや細く、時の人は「独眼竜」と呼んだ。
  • 詔で「崔璆は家柄も身分も高貴でありながら黄巣の宰相となり、三年にわたって逃げも隠れもしなかった」として、所在地で斬られた。
  • 黄巣は驍将の孟楷に一万を率いさせて先鋒とし、蔡州節度使の秦宗権を撃たせた。宗権は迎え撃って敗れ、城を攻められると巣に臣従し、兵を連ねた。
  • 巣が長安にいたころ、陳州刺史の趙犨(宛丘の人)は将佐に「巣が長安で死なねば必ず東へ走る。陳州はその要衝だ。しかも巣はもともと忠武と仇敵だ。備えねばならぬ」と述べ、城と塹を整え甲兵を修め、飼葉と穀物を蓄え、六十里以内で食糧を持つ民をすべて城内へ移し、勇士を多く募って弟の昶・珝と子の麓・林に分けて率いさせた。
  • 孟楷は蔡州を落としたあと兵を移して陳州を撃ち、項城に布陣した。犨はまず弱みを見せ、無備の隙を突いて襲撃し、ほぼ皆殺しにして楷を生け捕り、斬った。
  • 巣は楷の死を聞いて驚き恐れ、全軍を挙げて溵水に屯した。六月、秦宗権と兵を合わせて陳州を包囲し、五重の塹を掘って百方から攻めた。陳州の人が恐れると、犨は「忠武はもとより義勇で知られ、陳州は精兵で名高い。まして我が家は久しく陳の禄を食んできた。この州と存亡を共にすると誓う。男子は死中に生を求めるもの。国に殉じて死ぬのは賊に臣従して生きるのに勝るのではないか。異論ある者は斬る」と諭し、たびたび精兵を率いて城門を開いて出撃し、賊を破った。
  • 巣はますます怒り、州の北に陣を置き、宮室と百司を立てて長期戦の構えをとった。当時、民間に蓄えはなく、賊は人を掠って糧とし、生きたまま碓や磑に投げ入れ、骨ごと食った。その給糧所を「舂磨寨」と呼んだ。兵を放って四方を掠め、河南・許・汝・唐・鄧・孟・鄭・汴・曹・濮・徐・兖など数十州がその毒を被った。
  • 宣武節度使の朱全忠が部下数百を率いて任地に赴き、秋七月丁卯、汴州に至った。当時、汴州・宋州は飢饉が続いて公私ともに窮乏し、内には驕った軍が統御しがたく、外には大敵の攻撃を受けて戦わぬ日はなく、人心は危ぶんでいたが、全忠の勇気はいよいよ振るった。詔で黄巣未平を理由に全忠に東北面都招討使を加えた。
  • 李克用を河東節度使とし、鄭従讜を行在に召した。克用は東道から楡次を通って鴈門に赴き、父を見舞った。
  • 司徒・門下同平章事の鄭畋が罷免され太子太保となった。
  • 九月、感化節度使の時溥が溵水に陣し、溥に東面兵馬都統を加えた。
  • 十二月、趙犨が間道から隣道へ救援を求め、周岌・時溥・朱全忠が兵を率いて救援に向かった。全忠は鹿邑で黄巣の党と戦って破り、二千余級を斬り、そのまま亳州に入って拠った。

中和四年(884年・黄巣の滅亡)

  • 春正月、黄巣の兵はなお強く、周岌・時溥・朱全忠は支えきれず、共に河東節度使の李克用に救援を求めた。二月、克用は蕃漢の兵五万を率いて天井関を出たが、河陽節度使の諸葛爽が河橋の不備を口実に万善に兵を屯して防いだので、克用は兵を返し、陝州から河中を経て渡河し東へ向かった。
  • 三月、朱全忠が黄巣の瓦子寨を攻め落とし、巣の将である陝州の李唐賓と楚丘の王虔裕が全忠に降った。
  • 黄巣の陳州包囲はほぼ三百日に及び、趙犨兄弟は大小数百戦を戦って、兵も糧も尽きかけながら人心はいよいよ固かった。李克用は許・汴・徐・兖の軍を陳州に集めた。当時、尚讓は太康に屯していた。夏四月癸巳、諸軍が進んで太康を落とし、黄思鄴が西華に屯すると諸軍がまたこれを攻めて思鄴は逃げた。巣は恐れて故陽里へ退き、陳州の囲みはようやく解けた。全忠は巣の来襲を聞いて大梁へ軍を戻した。
  • 五月癸亥、大雨で平地に水が三尺たまり、黄巣の営は流された。加えて李克用の到着を聞き、巣は兵を東北の汴州へ向け、尉氏を屠った。尚讓は驍騎五千で大梁に迫り繁台まで至ったが、宣武の将である豊県の朱珍と南華の龐師古が撃退した。全忠はまた克用に急を告げた。
  • 丙寅、克用は忠武都監使の田従異とともに許州を発し、戊辰、中牟の北・王満渡で黄巣に追いつき、半ば渡ったところを奮撃して大破し、一万余人を殺した。賊は潰え、尚讓は衆を率いて時溥に降り、別将である臨晋の李讜、曲周の霍存、甄城の葛従周、冤句の張帰霸とその従弟の帰厚は衆を率いて朱全忠に降った。
  • 巣は汴水を越えて北へ逃げ、己巳、克用は封丘で追撃してまた破った。庚午の夜も大雨となり、賊は驚き恐れて東へ走った。克用は追って胙城・匡城を過ぎ、巣は残衆千人近くを収めて東の兖州へ逃げた。辛未、克用は冤句まで追ったが、ついてこられた騎兵はわずか数百、昼夜二百余里を走って人馬は疲れ、糧も尽きたので汴州へ戻り、糧を整えてまた追おうとした。巣の幼子および乗輿・器服・符印を得、掠われていた男女一万人をことごとく解放した。
  • 庚辰、時溥が将の李師悦に一万を率いさせて黄巣を追わせた。
  • 六月甲辰、武寧の将・李師悦が尚讓とともに黄巣を瑕丘まで追って破り、巣の衆はほぼ尽き、狼虎谷まで逃げた。丙午、巣の甥の林言が巣の兄弟・妻子の首を斬り、時溥のもとへ届けようとしたが、途中で沙陀と博野の軍に奪われ、言の首も併せて溥に献じられた。
  • 秋七月壬午、時溥が使者を送って黄巣および家人の首と姫妾を献じた。帝は大玄楼に出てこれを受け、姫妾に「そなたらは皆勲貴の子女で代々国恩を受けてきた。なぜ賊に従った」と尋ねた。首座にいた者は「狂賊は凶逆でした。国家は百万の衆を擁しながら宗廟を守れず巴蜀へ落ちのびられた。今、陛下は賊を拒めなかった責を一女子に問われる。公卿将相はどこに置かれるのですか」と答えた。帝はそれ以上問わず、皆を市で処刑した。人々は争って彼女らに酒を与え、他の者は悲しみ怯えて酔い潰れたが、首座の者だけは飲まず泣かず、刑に臨んでも顔色は厳然としていた。
  • 帝は長安の宮室が焼けたため長く蜀に留まって帰らなかった。王徽が京兆尹の事を掌り流散した民を招撫すると、戸口はしだいに戻り、宮室も修復されて百官の役所もおおむね体裁が整った。冬十月、関東の藩鎮が車駕の還京を上表して請うた。
  • 十二月、鳳翔節度使の李昌言が病み、従弟の昌符に留後を掌らせた。昌言が没し、昌符を鳳翔節度使とする制が出た。
  • 当時、黄巣は平らいだものの秦宗権が再び勢いを増し、将を派して隣道を侵掠した。陳彦は淮南を侵し、秦賢は江南を侵し、秦誥は襄・唐・鄧を陥れ、孫儒は東都・孟州・陝州・虢州を陥れ、張晊は汝州・鄭州を陥れ、盧瑭は汴州・宋州を攻め、行く先々で殺戮と焼き払いを尽くし、ほとんど生き残る者もなかった。その残虐は黄巣以上で、行軍に糧を運ばず、車に塩漬けの屍を積んで従えた。北は衛州・滑州、西は関輔、東は青州・斉州、南は江淮まで、州鎮でかろうじて一城を保つ程度、見渡す千里に人煙は絶えた。帝は長安に還ろうとしながら、宗権の脅威を恐れた。

光啓元年(885年・還京)

  • 春正月戊午、詔を下して招撫した。己卯、車駕が成都を発ち、陳敬瑄は漢州まで見送って戻った。二月丙申、鳳翔に至り、三月丁卯、京師に至った。荊棘が城に満ち、狐や兎が横行し、帝は物悲しく心を晴らせなかった。
  • 己巳、天下に赦して改元した。当時、朝廷の号令が行われるのは、河西・山南・剣南・嶺南の数十州だけであった。