通鑑紀事本末藩鎮の乱(藩鎮之亂)
黄巣の乱ののち、田令孜と藩鎮が塩池の利をめぐって決裂したことに始まる、唐末の朝廷と藩鎮の抗争。光啓元年(885)から光化元年(898)まで。帝はたびたび都を追われ、襄王李煴が擁立され、宦官楊復恭は失脚して興元で滅び、杜譲能は李茂貞討伐に失敗して死を賜った。李茂貞・王行瑜・韓建の三鎮が兵を擁して入京し、韓建は諸王の兵を解いて粛清する。宮闕の修復を経て昭宗はようやく長安に還る。
年表(13件)
- 僖宗
- 光啟元年(・塩池をめぐる決裂)885年田令孜が安邑・解県の塩利を奪おうとし、王重栄がその十罪を挙げて対立する
- 光啟二年(・襄王李煴の擁立)886年令孜が帝を宝鶏へ連れ出し、朱玫らが襄王李煴を擁立する
- 光啟三年(・李昌符の乱)887年李昌符が行宮を焼いて叛き、李茂貞が隴州招討使としてこれを討つ
- 文德元年(・僖宗の崩御と昭宗即位)888年僖宗が崩じ、楊復恭の推す寿王が立って昭宗となる
- 昭宗
- 龍紀元年(・宦官抑制の企て)889年孔緯・張濬が宦官の権を抑えるよう勧め、帝は楊守立を李順節として手元に置く
- 大順二年(・楊復恭の失脚)891年楊復恭が致仕を迫られて興元に走り、養子の楊守亮らが挙兵する
- 景福元年(・興元陥落)892年李茂貞と王行瑜が勝手に興元を攻め落とし、復恭らは閬州へ逃げる
- 景福二年(・杜讓能の死)893年帝が茂貞討伐を強行して敗れ、杜譲能が責を負って死を賜る
- 乾寧元年894年李茂貞が兵を並べて入朝し、李谿の宰相任命が劉崇魯に阻まれる
- 乾寧二年(・三鎮の入京と李克用の南下)895年王行瑜・李茂貞・韓建が入京して韋昭度・李谿を殺し、李克用が兵を南下させる
- 乾寧三年(・華州行幸)896年諸王の募兵を怨んだ李茂貞が京師に迫り、帝は華州へ行幸する
- 乾寧四年(・諸王の粛清)897年韓建が謀反を告発させて諸王の兵を解き、李筠を斬って諸王を召還させる
- 光化元年(・還京)898年韓建が宮闕を修復し、車駕は華州を発って長安に還り改元する
僖宗光啟元年(885年・塩池をめぐる決裂)
- かつて田令孜は蜀で新軍五十四都を募り、一都千人として左右の神策軍に分け、十軍として統べていた。また南牙・北司の官は合わせて一万余員に上った。
- このころ藩鎮はそれぞれ租税を独占し、河南・河北・江淮からの上供は絶え、三司や転運は徴発する先がなく、度支が収められるのは京畿・同州・華州・鳳翔など数州の租税だけで、賄いきれなかった。賞賜が滞り士卒に不満の声が出たので、令孜は困り果てた。
- 安邑・解県の両池の塩はもと塩鉄使に属し、官が専売していたが、中和以来は河中節度使の王重栄が独占し、毎年三千車を献じて国用に供していた。令孜は旧制どおり塩鉄に属させるよう奏し、夏四月には自ら両池榷塩鉄使を兼ねてその利を軍費に充てた。重栄は再三上章して訴え、中使が諭しても承知しなかった。
- 当時、令孜は多くの腹心を派して藩鎮を偵察させ、自分に付かぬ者は必ず陥れようとした。令孜の養子・匡祐が河中へ行くと、重栄は厚くもてなしたのに匡祐は傲慢きわまりなく、全軍が憤激した。重栄は令孜の罪悪を数え上げてその無礼を責め、監軍の仲裁でようやく逃げ帰らせた。匡祐は帰って令孜に告げ、重栄を除くよう勧めた。
- 五月、令孜は重栄を泰寧節度使に移し、泰寧節度使の斉克譲を義武節度使、義武節度使の王処存を河中節度使とし、李克用に河東軍で処存の赴任を援護させるよう詔した。
- 重栄は京城回復の功がありながら令孜に排斥されたと考え、兖州へ赴かず、再三上表して令孜が君臣を離間していると論じ、その十罪を数えた。令孜は邠寧節度使の朱玫、鳳翔節度使の李昌符と結んで対抗した。王処存も「幽州・鎮州の兵が退いたばかりで易定を離れられない。しかも王重栄に罪はなく国に大功がある。軽々しく替えては藩鎮の心を揺るがす」と上言したが、詔で出発を促され、八月、軍を率いて晋州に至ったところ、刺史の冀君武が城を閉じて入れなかったので戻った。
- 冬十月、重栄は李克用に救援を求めた。克用はちょうど、朝廷が朱全忠を罪しないことを恨み、兵を選び馬を買い諸胡を糾合して汴州攻めを議していたところで、「まず全忠を滅ぼしてから戻り、あの鼠どもを秋の落葉のように掃こう」と返答した。重栄は「公が関東から帰るのを待っていては私は捕虜だ。まず君側の悪を除くほうがよい。そのあと全忠を擒にするのは容易だ」と説いた。
- 当時、朱玫と李昌符も密かに朱全忠に付いていた。克用は「玫と昌符は全忠と表裏をなして臣を滅ぼそうとしている。臣は自衛せざるを得ない。すでに蕃漢の兵十五万を集め、来年渡河して渭北から二鎮を討つ。京城には近づかず、騒がせぬことは保証する。二鎮を誅したら兵を返して全忠を滅ぼし讎恥を雪ぐ」と上言した。帝は使者を送って和解を促し、その往来は絶えなかった。
- 朱玫は朝廷に克用を討たせようと、しばしば人を京城に潜入させて備蓄を焼き、近侍を刺殺しては「克用の仕業だ」と言いふらした。京師は震え上がり、日ごとに流言が飛んだ。
- 令孜は玫と昌符に本軍および神策・鄜延・霊夏などの軍合わせて三万を率いさせ、沙苑に屯して王重栄を討たせた。重栄は兵を出して防ぎ、克用に急を告げ、克用は兵を率いて赴いた。
- 十一月、重栄が同州を攻め、刺史の郭璋は出戦して敗死した。重栄と玫らは一月余り対峙し、克用の兵が到着すると重栄とともに沙苑に塁を築き、令孜および玫・昌符の誅殺を上表した。和解の詔が下ったが克用は聞かなかった。十二月癸酉、合戦となり、玫と昌符は大敗してそれぞれ本鎮へ逃げ帰り、潰軍は通過地を焼き掠めた。
- 克用が京城に迫り、乙亥の夜、令孜は天子を奉じて開遠門から出て鳳翔へ向かった。かつて黄巣が長安の宮室を焼いて去り、諸道の兵が入城して略奪し、官署や民家の六、七割を焼いた。王徽が数年かけて修繕してようやく一、二割を復したのに、ここでまた乱兵に焼き掠められ、何一つ残らなくなった。
光啟二年(886年・襄王李煴の擁立)
- 春正月、李克用は河中へ軍を返し、王重栄とともに車駕の還宮を請い、あわせて田令孜の罪状を挙げて誅殺を求めた。帝は飛龍使の楊復恭を枢密使に復した。
- 戊子、令孜が興元への行幸を請うたが帝は従わなかった。その夜、令孜は兵を宮中に入れて帝を脅し宝鶏へ連れ出した。従ったのは黄門と衛士わずか数百人で、宰相も朝臣も知らなかった。
- 翰林学士承旨の杜譲能は禁中に宿直していてこれを聞き、徒歩で乗輿を追い、城外十余里で人の捨てた馬を得たが轡がなく、帯を解いて首に繋いで乗り、ただ一人、宝鶏で帝に追いついた。翌日、太子少保の孔緯ら数人が続いて到着した。譲能は杜審権の子、緯は孔戣の孫である。
- 宗正が太廟の神主を奉じて鄠に至ったところで盗賊に遭い、すべて失った。乗輿を追う朝士は盩厔で乱兵に衣装をほぼ奪われた。
- 庚寅、帝は孔緯を御史大夫として長安へ帰し百官を召させた。帝は宝鶏に留まって待った。
- 当時、田令孜が権を弄んで二度も帝を流亡させたため、天下がこぞって憎んでいた。朱玫と李昌符もその手先とされるのを恥じ、加えて李克用・王重栄の強さを憚って、彼らと結び直した。蕭遘は邠寧の奏事判官・李松年が鳳翔に来た機に、詔を託して朱玫に急ぎ車駕を迎えるよう伝えた。
- 癸巳、玫は歩騎五千を率いて鳳翔に至った。孔緯は宰相のもとへ行って詔を宣べ百官を召そうとしたが、蕭遘と裴澈は令孜が帝の側にいるため行きたがらず、病と称して会わなかった。緯が台吏に百官を行在へ赴かせるよう促させると、皆「袍も笏もない」と言って断った。緯は三院の御史を召し、涙ながらに「布衣の親旧でさえ急があれば駆けつけるものだ。天子が蒙塵しているのに、臣子として再三召されて行かぬ者があろうか」と述べた。御史たちが「支度に数日いただきたい」と言うと、緯は袖を払って立ち上がり、「私は妻が死にかけているのに顧みずに行くのだ。諸君は自分でよく考えられよ。これで失礼する」と言って去った。
- 緯は李昌符のもとへ行って護衛の騎兵を請い、昌符はその義気に感じて旅費を贈り騎兵をつけて行在へ送った。
- 邠寧・鳳翔の兵が乗輿に迫り、潘氏で神策指揮使の楊晟を破った。鉦鼓の音が行宮まで聞こえ、田令孜は帝を奉じて宝鶏を発ち、禁軍を残して石鼻を守らせ後詰めとし、興州・鳳州に感義軍を置いて楊晟を節度使として散関を守らせた。
- 当時、軍民が入り乱れ刃が飛び交うなか、神策軍使の王建と晋暉を清道斬斫使とし、建は長剣の兵五百を率いて先駆けとなり、奮戦してようやく乗輿を進ませた。帝は伝国の宝を建に授けて背負わせて従わせた。
- 大散嶺に登ったところで李昌符が桟道を焼き、一丈余りが崩れかけた。王建は帝を助けて煙と炎の中を跳び越えた。夜は板の下に宿り、帝は建の膝を枕にして眠り、目覚めてようやく食事をとった。帝は御袍を脱いで建に賜り、「涙の跡がついているからだ」と言った。
- 車駕が散関に入ったばかりのころ、朱玫はすでに宝鶏を囲み、石鼻の軍は潰えた。玫は長駆して散関を攻めたが落とせなかった。嗣襄王の李煴は粛宗の玄孫で、病のため従駕に間に合わず遵塗駅に留まっていたところを玫に捕えられ、ともに鳳翔へ戻った。
- 庚戌、李克用は太原へ帰った。
- 二月、王重栄・朱玫・李昌符が再び上表して田令孜の誅殺を求めた。
- 朱玫と李昌符は山南西道節度使の石君渉に柵を築いて険要を塞がせ、駅を焼かせた。帝は別の道から進み、山谷は険しく、邠州軍が背後に迫って危うい場面が四度もあったが、ようやく山南に達した。三月壬午、君渉は鎮を棄てて朱玫のもとへ逃げ帰った。
- 癸未、鳳翔にいた蕭遘ら百官が田令孜とその党の韋昭度の罪状を挙げて誅殺を請うた。昭度はかつて供奉僧の澈を通じて宦官と結び宰相になれた人物である。澈の師の知玄は澈のやり口を鄙しみ、昭度が同列とともに知玄を訪ねて拝礼しても、知玄は会釈して「澈のところで茶でも」と言うだけだった。
- 山南西道監軍の厳遵美(馮翊の人)が西県で帝を迎え、丙申、車駕は興元に着いた。
- 戊戌、御史大夫の孔緯と翰林学士承旨・兵部尚書の杜譲能をともに兵部侍郎・同平章事とした。保鑾都将の李鋋らが鳳州で邠州軍を破った。詔で王重栄に応接糧料使を加え、本道の穀十五万斛を国用に充てるよう命じたが、重栄は「令孜が誅されぬうちは詔を奉じない」と上表した。
- 尚書左丞の盧渥を戸部尚書・山南西道留後、厳遵美を内枢密使とした。王建に部兵を率いて三泉を戍らせ、晋暉と神策軍使の張造に四都の兵を率いて黒水に屯し桟道を修復して往来を通じさせた。建は壁州刺史を遥領した。将帥が州鎮を遥領するのはこれに始まる。
- 朱玫は田令孜が天子の側にいる限り除けぬと考え、蕭遘に言った。「主上の流離は六年、中原の将士は矢石を冒し、百姓は兵糧を供し、戦死・餓死で七、八割が減って、ようやく京城を回復できた。天下は還宮を喜んだのに、主上は勤王の功をかえって敕使(令孜)の栄誉とし、大権を委ねて綱紀を乱し、藩鎮を騒がせ、乱と禍を招いている。私は先日、尊命を奉じて大駕を迎えに行ったのに、信じてもらえずかえって脅迫のように扱われた。我らの報国の心は極まり、賊と戦う力も尽きた。どうして首を垂れ耳を伏せて宦官の手に制せられていられよう。李氏の子孫はまだ多い。相公はここは考えを改めて社稷の利を図られてはどうか」。
- 遘は答えた。「主上は即位十余年、大きな過ちはない。ただ令孜が専権して肘腋にあり、座も安んじられぬ。主上はそのたび涙を流されている。先日も主上に出発の意はなく、令孜が帳前に兵を並べて脅して連れ出し、夜明けも待たせなかった。罪はすべて令孜にあると誰もが知っている。足下が王室に尽心されるなら、兵を率いて鎮へ帰り、上表して鑾輿を迎えるべきだ。廃立は重大事で伊尹・霍光ですら難しかった。遘は承れぬ」。
- 玫は退出して「私は李氏の一王を立てる。異議ある者は斬る」と公言した。
- 夏四月壬子、玫は鳳翔の百官に迫って襄王の李煴に軍国の事を代行させ、制を承けて封拝を行い、大臣を蜀に送って車駕を迎えるとした。石鼻駅で百官と盟い、蕭遘に冊文を書かせようとしたが、遘は文才が衰えたと断ったので、兵部侍郎・判戸部の鄭昌図に書かせた。
- 乙卯、煴は冊命を受け、玫は自ら左右神策十軍使を兼ね、百官を率いて煴を奉じて京師へ戻った。鄭昌図を同平章事・判度支とし、塩鉄・戸部にもそれぞれ副使を置いて三司の事をすべて委ねた。河中にいた崔安潜ら百官も襄王に受冊を賀する牋を上った。
- 田令孜は自分が天下に容れられぬと悟り、枢密使の楊復恭を左神策中尉・観軍容使に推し、自らは西川監軍使に任じて陳敬瑄を頼った。復恭は令孜の一党を排し、王建を利州刺史、晋暉を集州刺史、張造を万州刺史、李師泰を忠州刺史として外に出した。
- 五月、朱玫は中書侍郎・同平章事の蕭遘を太子太保とし、自ら侍中・諸道塩鉄転運等使を加え、裴澈に判度支、鄭昌図に判戸部を加えた。淮南節度使の高駢に中書令を兼ねさせ江淮塩鉄転運等使・諸道行営兵馬都統とし、淮南右都押牙・和州刺史の呂用之を嶺南東道節度使とするなど、大量の封拝を行って藩鎮の歓心を買った。吏部侍郎の夏侯潭を河北へ、戸部侍郎の楊陟を江淮へ宣諭に遣わすと、諸藩鎮の六、七割がその命を受け、高駢に至っては牋を奉って即位を勧めた。
- もともと鳳翔節度使の李昌符も朱玫と襄王擁立を謀っていたが、玫が自ら宰相となって専権したため、昌符は怒ってその官を受けず、あらためて興元へ上表した。詔で昌符に検校司徒を加えた。
- 朱玫は将の王行瑜に邠寧・河西の兵五万を率いさせて乗輿を追わせた。感義節度使の楊晟はたびたび退けられ、散関を棄てて逃げ、行瑜は鳳州に進屯した。
- このころ諸道の貢賦の多くは長安へ行って興元へ来ず、従官も衛士も食に窮した。帝は涙を流して為すすべを知らなかった。杜譲能は「楊復光は王重栄とともに黄巣を破って京城を回復し、親しかった。復恭はその兄です。重臣を送って大義を諭し、復恭の意も伝えれば、考えを改めて国に帰る道理があります」と申し上げ、帝は従って右諫議大夫の劉崇望を河中へ遣わし詔を持たせて重栄を諭した。重栄はただちに命に従い、使者を送って絹十万匹を献じ、朱玫を討って罪を贖いたいと請うた。
- 戊戌、襄王煴の使者が晋陽に至り、李克用に詔を賜って「主上は途中で六軍が変乱を起こし、あわただしく崩御された。私は藩鎮に推されて今すでに冊命を受けた」と述べた。朱玫も克用に書を送った。克用はこの謀がすべて玫から出たと知って激怒した。大将の蓋寓は「鑾輿の流離は天下がみな我らのせいにしている。今、玫を誅し李煴を廃さねば、汚名は雪げません」と説き、克用は従って詔書を焼き、使者を捕え、隣道に檄を回して「玫は藩方を欺き、あからさまに崩御と称した。当道はすでに蕃漢の兵三万を出して凶逆を討つ。ともに大功を立てよう」と告げた。寓は蔚州の人である。
- 六月、扈蹕都将の楊守亮を金商節度・京畿制置使とし、二万の兵を率いて金州から出て王重栄・李克用とともに朱玫を討たせた。守亮はもと訾姓、名は亮、曹州の人で、弟の信とともに楊復光の養子となり、守亮・守信と改名した。
- 李克用が使者を送って上表し、まさに兵を出して渡河し逆党を除いて車駕を迎えると述べ、諸道に協力の詔を賜るよう願った。それまで山南の人々は「克用は朱玫と結んでいる」と言い合って人心は恐れていたが、表が届くと帝は従官に示し、山南の諸鎮にも諭したので、皆落ち着いた。ただし克用の表はなお朱全忠のことに触れていたので、帝は楊復恭に書を送らせ「三輔が鎮まったのち別途沙汰する」と諭させた。
- 秋七月、王行瑜が興州に進攻し、感義節度使の楊晟は鎮を棄てて文州に拠った。詔で保鑾都将の李鋋、扈蹕都将の李茂貞・陳佩に大唐峯に屯して防がせた。茂貞は博野の人で、もと宋姓、名は文通、功により姓名を賜った。
- 九月、朱玫の将・張行実が大唐峯を攻めたが李鋋らが撃退した。金吾将軍の満存が邠州軍と戦って破り、興州を奪回して万仞寨を守った。
- 長安の百官、太子太師の裴璩らが襄王煴に即位を勧め、冬十月、煴は皇帝に即位して建貞と改元し、僖宗を太上元皇聖帝として遥かに尊んだ。
- 十一月、田令孜が成都に至り、医者にかかることを請うて許された。
- 十二月戊寅、諸軍が鳳州を落とし、満存を鳳州防禦使とした。
- 楊復恭は関中に檄を伝え、「朱玫の首を得た者には静難節度使を賞として与える」とした。王行瑜は再三敗れて朱玫に罪せられるのを恐れ、部下と謀って「功なく帰っても死だ。それより諸君と玫の首を斬り、京城を平定して大駕を迎え、邠寧の節鉞を取るほうがよかろう」と言い、衆は従った。
- 甲寅、行瑜は鳳州から無断で兵を率いて京師へ帰った。玫は執務中にこれを聞いて怒り、行瑜を召して「勝手に帰るとは謀反か」と責めた。行瑜は「私は謀反しない。謀反人の朱玫を誅すのだ」と言って捕えて斬り、その一党数百人も殺した。諸軍は大混乱に陥って京城を焼き掠め、士民は衣もなく凍死者が地を覆った。
- 裴澈と鄭昌図は百官二百余人を率いて襄王を奉じ河中へ逃げた。王重栄は迎え入れると偽って煴を捕えて殺し、澈と昌図を投獄し、百官の半ば近くが死んだ。
- 王重栄が襄王煴の首を箱に納めて行在へ送ると、刑部は興元城の南門に出御して馘を献ずる儀を請うた。太常博士の殷盈孫は「煴は賊臣に脅されたのであり、節に死ねなかったことだけが罪である。礼では公族の罪が大辟にあたる場合、君は素服して音楽を止める。今すでに誅されたのだから庶人に廃し、その首は所在地で葬るべきだ。献馘と祝賀の礼は朱玫の首が届いてから行われたい」と議し、これが採られた。盈孫は殷侑の孫である。
光啟三年(887年・李昌符の乱)
- 春正月、邠州都将の王行瑜を静難軍節度使、扈蹕都頭の李茂貞に武定節度使を領させ、扈蹕都頭の楊守宗を金商節度使、右衛大将軍の顧彦朗を東川節度使、金商節度使の楊守亮を山南西道節度使とした。
- 二月戊辰、三川都監の田令孜の官爵を削奪して端州へ長流としたが、令孜は陳敬瑄を頼っており、ついに実行されなかった。
- 三月癸未、偽宰相の蕭遘・鄭昌図・裴澈を所在地で衆を集めて斬るよう詔が下り、いずれも岐山で死んだ。当時、煴の官を受けた朝士はきわめて多く、法司は皆極刑にしようとしたが、杜譲能が力争して七、八割が免れた。
- 壬辰、車駕が鳳翔に至った。節度使の李昌符は、車駕が帰京すれば過去の過ちは咎められずとも恩賞は薄くなると恐れ、宮室が未完成であることを理由に府舎への駐留を強く請い、認められた。
- 夏六月戊申、天威都頭の楊守立と鳳翔節度使の李昌符が道を争い、麾下が殴り合いを始めた。帝が中使を送って諭しても収まらず、その夕、宿衛はいずれも兵を厳しくして備えた。己酉、昌符は兵を擁して行宮を焼き、庚戌にはさらに大安門を攻めた。守立が大通りで昌符と戦い、昌符の兵は敗れて麾下とともに隴州へ逃れて拠った。杜譲能は変を聞いて身一つで徒歩で参内して帝に侍り、韋昭度は家族を軍中に人質として置いて反賊誅殺を誓ったので、軍士は力戦して勝った。守立は楊復恭の養子である。
- 壬子、扈駕都将・武定節度使の李茂貞を隴州招討使として昌符を討たせた。
- 秋八月壬寅朔、茂貞が、隴州刺史の薛知籌が城を挙げて降り、李昌符を斬って一族を滅ぼしたと奏した。丙子、茂貞に同平章事を加えて鳳翔節度使とした。韋昭度を守太保兼侍中とした。
文德元年(888年・僖宗の崩御と昭宗即位)
- 春二月乙亥、帝が発病した。壬午、鳳翔を発ち、己丑に長安に至った。庚寅、天下を赦して改元し、韋昭度に中書令を兼ねさせた。
- 三月己亥、帝の病が再発し、壬寅に危篤となった。皇弟の吉王・李保が年長で賢く群臣の望みを担っていたが、十軍観軍容使の楊復恭は弟の寿王・李傑を立てるよう請うた。この日、詔で傑を皇太弟・監軍国事とした。右軍中尉の劉季述が兵を送って六王宅から傑を迎え、少陽院に入れ、宰相以下が拝謁した。
- 癸卯、帝は霊符殿で崩じた。遺制で太弟の傑は名を敏と改め、韋昭度が冢宰を摂した。
- 昭宗は即位したが、容貌は明晰で英気があり、文学を好んだ。僖宗の世に威令が振るわず朝廷が日々卑しめられたことから、先代の偉業を回復する志を抱き、大臣を尊礼し、賢豪を夢に求めた。即位の初め、内外は喜びに包まれた。
- 冬十月辛卯、恵聖恭定孝皇帝を靖陵に葬り、廟号を僖宗とした。
昭宗龍紀元年(889年・宦官抑制の企て)
- 帝が円丘の祀を行うにあたり、先例では中尉・枢密は袖の詰まった衫で侍従したが、僖宗の世にすでに襴と笏を用いるようになっていた。ここでさらに有司に法服を作らせようとしたので、孔緯や諫官・礼官は皆不可としたが、帝は手ずから書を出して「そなたらの論は至当だが、事には権道もある。小さな瑕で大礼を妨げるな」と諭した。こうして宦官は初めて剣と佩を帯びて祀に侍した。己酉、円丘を祀り天下を赦した。
- 帝は藩邸にあったころから宦官を憎んでおり、即位すると楊復恭は擁立の功を恃んで不法が多く、帝は不快だった。政事はもっぱら宰相に諮り、孔緯と張濬は大中の故事に倣って宦官の権を抑えるよう勧めた。
- 復恭はいつも輿に乗って太極殿まで来ていた。ある日、帝が宰相と四方の反乱者について語ったとき、孔緯は「陛下の身近にも謀反しようとする者がおります。まして四方は」と言った。帝が驚いて問うと、緯は復恭を指して「復恭は陛下の家奴でありながら輿に乗って前殿まで来ます。多くの壮士を養子とし、あるいは禁兵を掌らせ、あるいは方鎮とする。謀反でなくて何でしょう」と述べた。復恭は「養子や壮士を持つのは士心を収めて国家を衛るためです。謀反ではありません」と答えたが、帝は「国家を衛るというなら、なぜ李姓とせず楊姓としたのか」と言い、復恭は答えられなかった。
- 復恭の養子である天威軍使の楊守立は、もと胡姓、名は弘立で、勇は六軍第一、皆が畏れていた。帝は復恭を討つにあたり守立の反乱を恐れ、復恭に「そなたの胡子を側に置きたい」と言った。復恭が守立を引き合わせると、帝は李順節の姓名を賜って六軍の管鑰を掌らせ、一年たたぬうちに天武都頭・鎮海節度使に抜擢し、まもなく平章事を加えた。
- 順節が謝恩する日、台吏が百官を集めて班見させたいと申請したが、孔緯は不許可とした。順節は中書へ来て不機嫌だった。後日その話が出ると、緯は「宰相は百僚の師長ゆえ班見がある。相公は職としては都頭だ。それが政事堂で百僚に班見されて心地よいか」と言い、順節は二度と口にしなかった。
- 朱全忠が塩鉄を領することを求めたが、孔緯ひとりが不可として譲らず、進奏吏に「朱公がこの職を得ようとするなら、兵を起こすほかない」と告げたので、全忠は諦めた。
大順二年(891年・楊復恭の失脚)
- 秋八月、六軍十二衛観軍容使・左軍中尉の楊復恭は宿衛の兵を統べて朝政を専断し、養子は皆節度使や刺史となり、さらに宦官の子六百人を養ってすべて監軍とした。養子である龍剣節度使の楊守貞、武定節度使の楊守忠は貢賦を納めず、上表して朝廷を誹った。
- 帝の舅の王瓌が節度使を求め、帝が復恭に諮ると復恭は不可とした。瓌は怒って訴えた。瓌は禁中に出入りしてかなり権勢があり、復恭はこれを憎んで黔南節度使に奏請し、吉柏津まで来たところで山南西道節度使の楊守亮に船ごと江に沈めさせ、宗族も賓客も皆死なせ、「船が壊れた」と報告した。帝は復恭の仕業と知って深く恨んだ。
- 李順節は寵愛を得て貴くなると復恭と権を争い、復恭の隠し事をすべて帝に告げた。帝は復恭を鳳翔監軍として出したが、復恭は怒って赴かず、病と称して致仕を求めた。九月乙卯、復恭を上将軍として致仕させ、几杖を賜った。使者が詔を伝えて帰る途中、復恭は腹心の張綰を潜ませて刺殺した。
- 冬十月、復恭の邸は玉山営に近く、養子の守信が玉山軍使としてしばしば見舞いに来ていた。「復恭が守信と謀反を企てている」と告げる者があり、乙酉、帝は安喜門に出て兵を並べて自衛し、天威都将の李順節と神策軍使の李守節に兵を率いてその邸を攻めさせた。張綰が家の衆を率いて防戦し、守信も兵を率いて助けたので、順節らは落とせなかった。
- 丙戌、禁軍が含光門を守り、開門を待って両市を掠めようとしたところ、劉崇望が馬を立てて「天子は自ら街の東で戦を督しておられる。そなたらは皆宿衛の士だ。楼前で賊を殺して功を立てよ。小利を貪って悪名を得るな」と諭し、皆「承知」と言って崇望に従って東へ向かった。守信の衆は兵の来るのを見て潰走し、守信は復恭とともに一族を連れて通化門から出て興元へ向かった。永安都頭の権安が追い、張綰を捕えて斬った。
- 復恭が興元に着くと、楊守亮・楊守忠・楊守貞および綿州刺史の楊守厚がともに兵を挙げて朝廷に抗し、李順節討伐を名目とした。守厚も復恭の養子である。
- 十二月、天威都将の李順節は恩を恃んで驕横になり、出入りに常に兵を従えた。両軍の中尉である劉景宣と西門君遂はこれを憎み、帝に「乱を起こしかねません」と申し上げた。戊子、二人は詔と称して順節を召し、順節が銀台門に入ると、仗舎で待ち構えて座らせ、話をしているところを供奉官の似先知が背後からその首を斬った。従者は大騒ぎして出て行き、天威・捧日・登封の三都は永寧坊を大掠し、日暮れにようやく収まった。百官は表を奉って賀した。
- 楊守亮が金州・商州から京師を襲おうとしたが、昭信防禦使の馮行襲が迎え撃って大破した。
景福元年(892年・興元陥落)
- 春正月、鳳翔の李茂貞、静難の王行瑜、鎮国の韓建、同州の王行約、秦州の李茂荘の五節度使が「楊守亮が叛臣の楊復恭を匿っている。出兵して討ちたい。茂貞に山南西道招討使を加えられたい」と上言した。朝議は、茂貞が山南を得れば制御できなくなるとして和解の詔を下したが、いずれも聞かなかった。
- 二月、茂貞と行瑜は勝手に兵を挙げて興元を撃った。茂貞は招討使を求めてやまず、杜譲能と西門重遂に書を送って朝廷を侮った。帝は容認できず、延英殿に出て宰相・諫官を召して議したが、宦官の中には密かに二鎮と通じる者もあり、宰相は顔を見合わせて口を開かなかった。帝が不快になると、給事中の牛徽が「先朝の多難のとき茂貞にはまことに翼衛の功がありました。楊氏一党は兵を構えており、急いで攻め討ったのも悪を憎む志ではあります。ただ詔命を待たなかったのが不当なだけ。近ごろ兵が山南を通って殺傷が甚だしいと聞きます。陛下が招討使を授けて国法で縛らなければ、山南の民は尽きてしまいます」と述べた。帝は「その言はもっともだ」と言い、茂貞を山南西道招討使とした。
- 夏四月、天威軍使の賈徳晟は李順節の死をひどく憤っていた。西門重遂はこれを憎んで奏して殺した。徳晟の麾下千余騎は鳳翔へ逃げ、李茂貞はいっそう強大になった。
- 五月、邠寧節度使の王行瑜に中書令を兼ねさせた。
- 秋七月己巳、李茂貞が鳳州を落とし、感義節度使の満存は興元へ逃げた。茂貞はさらに興州・洋州を取り、いずれも子弟を鎮させるよう上表した。
- 八月辛丑、茂貞が興元を攻め落とし、楊復恭・楊守亮・楊守信・楊守貞・楊守忠・満存は閬州へ逃げた。茂貞は子の継密を興元府事の代行とするよう上表した。
景福二年(893年・杜讓能の死)
- 春正月、鳳翔節度使の李茂貞が自ら興元の鎮を願い、詔で茂貞を山南西道兼武定節度使とし、中書侍郎・同平章事の徐彦若を同平章事・鳳翔節度使とし、果州・閬州を武定軍に割いた。ところが茂貞は鳳翔も兼ねたいとして詔を奉じなかった。
- 秋七月、茂貞は功を恃んで驕横になり、上表と杜譲能への書はいずれも不遜だった。帝は怒って討伐を考えた。茂貞はさらに上表し、要旨はこうだった——「陛下は万乗の貴でありながら元舅の一身を庇えず、九州の尊に居ながら復恭という一竪を誅せなかった」「今の朝廷はただ強弱を見るだけで是非を問わない」「衰残には法を行い、盛壮には恩を加える。物を量るに錙銖、人を見るに衡と綿」「軍情は変わりやすく戎馬は御しがたい。ただ畿内の生霊がこれで禍を受けはしないかと案じるばかり。乗輿の播越がこののちどこへ向かうのか、私には分からない」。
- 帝はますます怒って茂貞討伐を決し、杜譲能に専管させた。譲能は諫めた。「陛下は即位して間もなく、国歩は平らかでなく、茂貞は国門の近くにおります。臣の愚見では、今はまだ怨みを構えるべきではありません。万一勝てなければ悔いても及びません」。
- 帝は「王室は日ごとに卑しみ、号令は国門を出ない。これこそ志士の憤り痛む時だ。薬は眩まぬほど効かねば病は癒えぬ。朕は甘んじて孱弱の主となり、鬱々と日を送って衰亡を座視することはできぬ。そなたはただ朕のために兵と糧を調えよ。用兵は朕自ら諸王に委ねる。成敗の責はそなたに問わぬ」と言った。
- 譲能が「陛下が必ず行われるのなら、内外の大臣がこぞって力を合わせて聖志を成すべきで、臣一人に任せるべきではありません」と言うと、帝は「そなたは元輔の位にあり、朕と休戚を共にする。事を避けてはならぬ」と述べた。
- 譲能は涙して「臣がどうして事を避けましょう。まして陛下が行おうとされるのは憲宗の志です。ただ時が許さず、勢いが及ばぬだけ。ただ恐れるのは、他日、臣がいたずらに晁錯の誅を受けながら七国の禍を鎮められぬことです。詔を奉じ、死をもって続けぬわけには参りません」と答えた。
- 帝は譲能を中書に留め、計画と調度に当たらせた。譲能は一月余り帰宅しなかった。崔昭緯は密かに邠州・岐州と結んでその耳目となり、譲能が朝に一言発すれば夕には二鎮が知るという有様だった。
- 李茂貞は一党に市の人数百・数千を糾合させ、観軍容使の西門君遂の馬を取り囲んで「岐帥に罪はない。討伐すべきでない。百姓を塗炭に苦しめるな」と訴えさせた。君遂が「それは宰相の事で私の及ぶところではない」と言うと、市の人はさらに崔昭緯と鄭延昌の輿を取り囲んで訴えた。二人の宰相が「この件は主上がもっぱら杜太尉に委ねておられ、我らは与り知らぬ」と言うと、市の人は乱れて瓦や石を投げつけ、二人は輿を降りて民家に隠れてかろうじて逃れ、喪堂の印と朝服を失った。
- 帝はその首謀者を捕えて誅させ、用兵の意はいっそう固くなった。京師の民には山谷に逃げ隠れる者もあり、厳刑でも止められなかった。
- 八月、嗣覃王の李嗣周を京西招討使、神策大将軍の李鐬を副とした。
- 九月乙亥、覃王が禁軍三万を率いて鳳翔節度使の徐彦若を任地へ送り、興平に布陣した。李茂貞と王行瑜は兵を合わせて六万近くで盩厔に陣して防いだ。禁軍はいずれも新たに募った市井の若者、茂貞と行瑜の兵はいずれも百戦を経た辺兵だった。
- 壬午、茂貞らが興平に迫ると、禁軍は風を望んで逃げ潰えた。茂貞らは勝ちに乗じて三橋まで進み、京師は大いに震え、士民は逃げ散った。市の人はまた宮闕を守って用兵を発議した者の誅殺を請うた。
- 崔昭緯は太尉・門下侍郎・同平章事の杜譲能を害そうと、密かに茂貞に「用兵は主上のご意思ではない。すべて杜太尉から出ている」と書き送った。甲申、茂貞は臨臯駅に陣して譲能の罪を挙げて誅殺を請うた。
- 譲能は帝に「臣はかねて申し上げておりました。臣をもって事を収めていただきたい」と述べた。帝は涙をこらえられず、「そなたと訣別することになった」と言った。この日、譲能を梧州刺史に貶し、制の辞には「卿士の善き謀を棄て、藩垣の深き釁を〔招いた〕。詰問の際も強弁して譲らず」とあった。あわせて観軍容使の西門君遂を儋州、内枢密使の李周潼を崖州、段詡を驩州へ流した。
- 乙酉、帝は安福門に出て君遂・周潼・詡を斬り、譲能を雷州司戸に再貶し、使者を茂貞に送って「朕を惑わせて挙兵させたのはこの三人であって、譲能の罪ではない」と伝えた。内侍の駱全瓘・劉景宣を左右軍中尉とした。
- 壬辰、東都留守の韋昭度を司徒・門下侍郎・同平章事、御史中丞の崔胤を戸部侍郎・同平章事とした。胤は崔慎由の子で、外は寛容だが内は巧妙で険しく、崔昭緯と深く結んで宰相となれた。叔父の崔安潜は親しい者に「わが父兄は刻苦して門戸を立てたのに、結局は緇郎に壊されるのか」と言った。緇郎は胤の幼名である。
- 李茂貞は兵を解かず、杜譲能を誅してから鎮に帰ると言い、崔昭緯もこれに乗じて追い落とした。冬十月、譲能とその弟の戸部侍郎・杜弘徽に自尽を賜り、さらに詔を下して内外に「譲能は枉れる者を挙げて直き者を措き、愛憎を一時の情に任せ、獄を鬻ぎ官を売り、聚斂は巨万を超えた」と布告した。
- これ以後、朝廷の一挙一動はすべて邠州・岐州の指図を仰ぐこととなり、南北両司はしばしば二鎮に付いて恩沢を求めた。崔鋋と王超という者が二鎮の判官となり、天子が何かを可否するたび、不満のある者は鋋や超に訴え、二人は茂貞・行瑜に上章して論じさせた。朝廷が少しでも曖昧な態度をとると、その言辞はもう不遜になった。
- 制でまた茂貞を鳳翔節度使兼山南西道節度使・守中書令とした。こうして茂貞は鳳翔・興元・洋・隴・秦など十五州の地をすべて領した。徐彦若を御史大夫とした。
- 邠寧節度使・守侍中兼中書令の王行瑜が尚書令を求めると、韋昭度は「太宗が尚書令として執政し帝位に登られて以来、人臣に授けたことはない。郭子儀だけが大功により尚書令を拝したが終身辞退した。行瑜が軽々しく議してよいものではない」と密奏した。十一月、行瑜を太師とし、尚父の号と鉄券を賜った。
乾寧元年(894年)
- 春正月、李茂貞が入朝し、兵を大々的に並べて自衛し、数日で鎮へ帰った。
- 六月戊午、翰林学士承旨・礼部尚書の李谿を同平章事とした。制を宣べているさなか、水部郎中・知制誥の劉崇魯が列を出て麻の詔を奪い取って慟哭した。帝が理由を問うと、「谿は奸邪で楊復恭・西門君遂に取り入って翰林に入った者。宰相の器はなく、社稷を危うくしかねません」と答えた。谿は結局罷免されて太子少傅となった。谿は李鄘の孫で、帝は谿を師として文章を学んでいた。崔昭緯は谿が宰相になって自分の権を分かつことを恐れ、崇魯に妨げさせたのである。
- 谿は十度も上表して弁明し、崇魯の父・符が贓罪を犯して発覚し自殺したこと、弟の崇望が楊復恭と深く交わったこと、崇魯が庭で田令孜を拝み朱玫のために勧進表を書いたことを暴き、「臣が内臣と結んだと言うが、それこそ贓物を抱いて盗人と叫ぶようなもの。しかも先例では絁の巾や縿帯で禁庭に入らぬもの。臣がまことに不才なら、崇魯は上章して論ずればよい。正殿で慟哭するなど国に不祥で、人臣の礼ではありません。その罪を正されたい」と述べた。詔で崇魯は現職を停められた。谿はなお上表をやめず、誅殺や流罪を求め、その表は数千言に及んで罵詈の限りを尽くした。
乾寧二年(895年・三鎮の入京と李克用の南下)
- 崔昭緯は李茂貞・王行瑜と深く結び、天子の過失も朝廷の機密もすべて彼らに伝えていた。邠寧節度副使の崔鋋は昭緯の一族である。李谿が再び宰相になろうとしたとき、昭緯は鋋を通じて行瑜に「先に尚書令の任命はすでに動いていたのに韋昭度が阻んだ。今また李谿を同列に引き入れ、二人で聖聴を惑わせている。杜太尉の二の舞になりかねぬ」と告げさせた。行瑜は茂貞とともに「谿は奸邪、昭度に宰相の器なし、罷めて散秩に置くべし」と上表した。帝は「軍旅の事は藩鎮と図るが、宰相の任命は朕の胸中から出るものだ」と答えたが、行瑜らは論じてやまず、三月、谿は再び罷免されて太子少師となった。
- 王珂は李克用の婿である。克用は「王重栄は国に功があった。その子の珂に節鉞を賜られたい」と上表した。王珙は王行瑜・李茂貞・韓建の三帥と厚く結び、「珂は王氏の子ではない。珂を陝州、珙を河中に」と重ねて上表した。帝は先に克用の奏を許した旨を諭して認めなかった。
- 王行瑜は尚書令を得られなかったことで朝廷を怨んでいた。畿内には左右軍に属する八鎮の兵があり、郃陽鎮は華州に近いので韓建が、良原鎮は邠州に近いので王行瑜が求めたが、宦官は「これは天子の禁軍だ。渡せるものか」と言った。
- 王珂と王珙が河中を争い、行瑜・韓建・茂貞はいずれも珙のために請うたが通らず、これを恥じた。珙は人を送って三帥に「珂は交代を受けず河東と姻戚だ。必ず諸公に不利となる。討たれたい」と言わせた。行瑜は弟の匡国節度使・行約に河中を攻めさせ、珂は李克用に救援を求めた。
- そこで行瑜は茂貞・韓建とそれぞれ精兵数千を率いて入朝し、五月に京師に至った。坊市の人は皆逃げ隠れた。帝が安福門に出て待つと、三帥は甲兵を盛大に並べ、門下で拝伏舞蹈した。帝は軒に臨んで自ら詰問した。「そなたらは奏請して返答を待たず、兵を率いて京城に入った。何をするつもりか。もし朕に事えられぬというなら、今日にも賢者に道を譲ろう」。行瑜と茂貞は汗を流して言葉もなく、韓建だけが入朝の理由をおおまかに述べた。
- 帝が三帥と宴を開くと、三帥は「南北両司に朋党があって朝政を乱している。韋昭度は西川討伐で失策し、李谿の宰相は衆心に合わない。誅殺されたい」と奏した。帝は許さなかったが、この日、行瑜らは昭度と谿を都亭駅で殺し、さらに枢密使の康尚弼と宦官数人を殺した。また「王珂と王珙は嫡庶の別が定まらぬ」として、珙を河中、王行約を陝州、王珂を同州へ移すよう請い、帝は皆許した。
- 三帥ははじめ帝を廃して吉王・李保を立てるつもりだったが、李克用がすでに河東で挙兵したと聞き、行瑜と茂貞はそれぞれ二千の兵を京師の宿衛に残し、韓建ともども鎮へ帰ると告げた。克用は二鎮の兵が闕を犯したと聞くや、その日のうちに十三人の使者を送って北部の兵を発し、翌月には渡河して入関する期日を定めた。
- 六月辛卯、前均州刺史の孔緯と繡州司戸の張濬をともに太子賓客とした。壬辰、緯を吏部尚書として階と爵を復し、癸巳、司空兼門下侍郎・同平章事とし、張濬を兵部尚書・諸道租庸使とした。当時、緯は華州に、濬は長水にいた。帝は崔昭緯らが外は藩鎮と通じ朋党で傾け合うのを見て、骨のある士を得たいと考え、急に緯と濬を起用したのである。緯は病を押して輿で京師に至り、帝に会って涙を流し固辞したが、許されなかった。
- 李克用は蕃漢の兵を大挙して南下し、「王行瑜・李茂貞・韓建は兵を構えて闕を犯し大臣を害した。討伐されたい」と上表し、三鎮に檄を回した。行瑜らは大いに恐れた。克用の軍が来ると絳州刺史の王瑶は城を閉じて拒んだが、克用は十日攻めて落とし、瑶を軍門で斬り、城中で抵抗した者千余人を殺した。
- 秋七月丙辰朔、克用が河中に至り、王珂が道で出迎えた。匡国節度使の王行約は朝邑で敗れ、戊午に同州を棄てて逃げ、己未に京師に至った。行約の弟の行実は当時左軍指揮使で、衆を率いて行約とともに西市を大掠し、「同州・華州はすでに陥ちた。沙陀が来る。邠州へ行幸を」と奏した。庚申には枢密使の駱全瓘が鳳翔への行幸を請うた。
- 帝は「朕は克用の表を得ている。まだ河中に駐軍している。仮に沙陀がここまで来ても、朕には支える手立てがある。そなたらはそれぞれ本軍を撫し、動揺させるな」と言った。
- 右軍指揮使の李継鵬は茂貞の養子で、もと閻珪という。駱全瓘と謀って帝を鳳翔へ連れ出そうとし、中尉の劉景宣と王行実はこれを知って邠州へ連れ出そうとした。孔緯は面と向かって景宣を難詰し、軽々しく宮闕を離れてはならぬと述べた。
- 夕方近く、継鵬が続けざまに行幸を奏請し、ここで王行約が左軍を率いて右軍を攻め、鼓と喊声が地を震わせた。帝は乱を聞いて承天楼に登って制止しようとした。捧日都頭の李筠が本軍を率いて楼前で警護すると、李継鵬が鳳翔の兵で筠を攻め、矢が御衣をかすめて楼の垂木に刺さり、左右が帝を助けて楼を降りた。継鵬はさらに火を放って宮門を焼き、煙と炎が天を覆った。
- 折しも塩州の六都の兵が京師に屯しており、平素から両軍に恐れられていた。帝が急ぎ召して入衛させると、両軍は退いてそれぞれ邠州・鳳翔へ帰った。城中は大混乱となり、互いに略奪し合った。帝は諸王および側近とともに李筠の営へ行き、護蹕都頭の李居実も衆を率いて続いた。
- 王行瑜と李茂貞が自ら車駕を迎えに来るという噂が流れ、帝は脅されることを恐れ、辛酉、筠と居実の両都の兵に護らせて啓夏門から出て南山へ向かい、莎城鎮に泊まった。車駕に従う士民は数十万に上ったが、谷口に着くまでに暑気あたりで三分の一が死に、夜にはまた盗賊に掠められ、哭声が山谷に響いた。
- 当時、百官の多くは扈従に間に合わなかったが、戸部尚書・判度支兼塩鉄転運使の薛王・李知柔だけが先に到着したので、帝は中書事と置頓使を代行させた。
- 壬戌、李克用が同州に入った。崔昭緯・徐彦若・王搏が莎城に至った。甲子、帝は石門鎮に移り、薛王知柔と知枢密院の劉光裕を京城へ帰らせ宮禁の守衛を制置させた。
- 丙寅、克用が節度判官の王瓌を送って表を奉り起居を伺った。丁卯、帝は内侍の郗廷昱に詔を持たせて克用の軍へ送り、王珂とそれぞれ一万騎を発して新平へ向かうよう命じ、また彰義節度使の張鐇に涇原の兵で鳳翔を扼させた。
- 克用が兵を送って華州を攻めると、韓建は城に登って「私は李公に礼を失ったことはない。なぜ攻めるのか」と叫んだ。克用は人をやって「公は人臣でありながら天子を追い立てた。公が有礼なら、無礼とはどういうことか」と言わせた。折しも郗廷昱が来て、李茂貞が三万を率いて盩厔に、王行瑜が兵を率いて興平に至り、いずれも車駕を迎えようとしていると告げた。克用は華州の囲みを解き、兵を移して渭橋に陣した。
- 薛王知柔を清海節度使・同平章事とし、なお京兆尹代行・判度支・塩鉄転運使を兼ねさせ、事態が正常に復してから任地へ赴かせることとした。
- 帝が南山にいて十日余り、車駕に従って乱を避けた士民は日々「邠州・岐州の兵が来た」と騒いだ。帝は延王・李戒丕を河中へ送って克用に進軍を促した。壬午、克用は河中を発した。
- 八月、帝は供奉官の張承業を克用の軍へ送った。承業は同州の人で、たびたび克用への使者を務めており、そのままその軍の監軍に留まった。
- 己丑、克用は渭橋に進み、将の李存貞を先鋒とし、辛卯に永寿を落とした。さらに史儼に三千騎を率いさせて石門の侍衛に送った。癸巳、李存信・李存審を送り、保大節度使の李思孝と合わせて王行瑜の梨園寨を攻め、その将の王令陶らを捕えて行在に献じた。思孝はもと拓跋姓、思恭の弟である。
- 李茂貞は恐れて李継鵬を斬り、その首を行在へ送って上表謝罪し、あわせて使者を送って克用に和を求めた。帝は再び延王戒丕・丹王李允を克用に送り、「ひとまず茂貞を赦し、力を合わせて行瑜を討て。平定したのちあらためて議しよう」と諭し、二王に克用を兄として拝させた。
- 戊戌、王行瑜の官爵を削奪した。癸卯、李克用を邠寧四面行営都招討使、李思孝を北面招討使、定難節度使の李思諫を東面招討使、彰義節度使の張鐇を西面招討使とした。
- 克用は子の存朂を行在に送った。十一歳だったが、帝はその容姿に感心して撫し、「そなたの兄は今まさに国の棟梁だ。他日、わが家に忠を尽くせ」と言った。
- 克用が帝の還京を上表して請い、帝は許し、克用に三千騎を三橋に駐めて備えさせた。辛亥、車駕は京師に還った。壬子、司空兼門下侍郎・平章事の崔昭緯を罷めて右僕射とした。護国留後の王珂と盧龍留守の劉仁恭をそれぞれ本鎮の節度使とした。
- 当時、宮室は焼けたまま修復の暇もなく、帝は尚書省に仮住まいし、百官はしばしば袍も笏も従僕も馬もなかった。李克用を行営都統とした。
- 九月癸亥、孔緯が没した。
- 克用が梨園を急攻すると、王行瑜は李茂貞に救援を求めた。茂貞は一万を龍泉鎮に屯させ、自ら三万を率いて咸陽の傍らに屯した。克用は茂貞に帰鎮を詔し、あわせて官爵を削奪して兵を分けて討ちたいと請うたが、帝は「茂貞は自ら継鵬を誅し、すでに赦している。あらためて削奪・誅討はできぬ」として、帰鎮の詔だけを下し、克用には和解するよう命じた。昭義節度使の李罕之を検校侍中・邠寧四面行営副都統とした。史儼が雲陽で邠寧の兵を破り、雲陽鎮使の王令誨らを捕えて献じた。
- 冬十月丙戌、河東の将・李存貞が梨園の北で邠寧軍を破り千余人を殺した。以後、梨園は城門を閉じて出てこなかった。右僕射の崔昭緯を梧州司馬に貶した。
- 魏国夫人の陳氏は才色ともに後宮一だったが、帝はこれを李克用に賜った。克用は李罕之・李存信らに梨園を急攻させ、城中は食糧が尽きて城を棄てて逃げた。罕之らが迎え撃って一万余人を殺し、梨園など三寨を落とし、王行瑜の子の知進と大将の李元福らを捕えた。克用は梨園に進屯した。
- 庚寅、王行約・王行実が寧州を焼いて逃げ去った。克用は匡国節度使の蘇文建を静難節度使とするよう奏し、急ぎ赴任させて寧州を治め降人を招撫させた。
- 帝は大内に居を移した。
- 王行瑜は精甲五千で龍泉寨を守り、克用が攻めると李茂貞が五千で救援して鎮の西に陣したが、李罕之が鳳翔の兵を撃退した。十一月丁巳、龍泉寨を落とし、行瑜は邠州に逃げ込み、使者を送って克用に降伏を請うた。
- 克用が兵を率いて邠州に迫ると、行瑜は城に登って号泣し、「私に罪はない。乗輿を脅したのはすべて李茂貞と李継鵬の仕業だ。兵を移して鳳翔を問うていただきたい。私は身を束ねて朝廷に帰りたい」と言った。克用は「王尚父はなんと恭しいことか。私は詔を受けて三賊臣を討っている。公はその一人だ。身を束ねて朝廷に帰るかどうかは、私の一存で決められることではない」と答えた。
- 丁卯、行瑜は一族を連れて城を棄てて逃げた。克用は邠州に入って府庫を封じ住民を撫し、指揮使の高爽に軍城の巡撫を代行させ、蘇文建の赴任を促すよう奏した。行瑜は慶州の境まで逃げたところで部下に斬られ、首が送られた。
- 克用は渭北へ軍を返した。静難節度使の蘇文建に同平章事を加えた。
- 十二月乙酉、克用は雲陽に布陣した。乙未、克用の爵を晋王に進め、李罕之に侍中を兼ねさせ、河東の大将・蓋寓に容管観察使を領させ、その他克用の将佐や子孫にも官爵を進めた。
- 克用は掌書記の李襲古を謝恩に送り、密かに帝に「近年、関輔は平穏でない。この勝勢に乗じて鳳翔を取れば一労永逸です。時を失ってはなりません。臣は渭北に屯してご指示を待ちます」と申し上げた。帝が側近に諮ると、ある者が「茂貞まで滅べば沙陀が大きくなりすぎ、朝廷が危うくなります」と言った。そこで帝は克用に詔を賜り、その忠誠を褒めつつ「不臣の振る舞いは行瑜が最も甚だしかった。朕が出幸して以来、茂貞と韓建は自ら罪を悟り国恩を忘れず、職貢も続いている。ここは兵を休め民を安んじるべきだ」と述べた。克用は詔を奉じて止まった。
- ただ克用は詔使に私かに「朝廷の意を見るに、克用に異心ありと疑っているようだ。しかし茂貞を除かねば関中に安寧の日はない」と語った。
- また克用の入朝を免ずる詔が出た。将佐のある者は「今、宮闕のすぐそばにいるのに天子に拝謁せぬわけには参りますまい」と言い、克用は決しかねた。蓋寓は「先に王行瑜らが兵を放って狂悖を働き、鑾輿を播越させ、百姓を逃げ散らせた。今、天子は還ったばかりで席も温まらず、人心はなお危うい。大王が兵を率いて渭水を渡れば、また都邑を驚かせかねません。人臣の忠は勤王にあって入覲にはありません。よくお考えを」と述べた。克用は笑って「蓋寓ですら私の入朝を望まぬ。まして天下の人はどうか」と言い、「臣は大軍を総帥しており、まっすぐ入朝はできません。部落の士卒が渭北の住民を侵し騒がせることも恐れます」と上表した。
- 辛亥、克用は兵を率いて東へ帰った。その表が京師に届いて、上下はようやく安堵した。詔で河東の士卒に銭三十万緡を賜った。
- 克用が去ると李茂貞は元どおり驕横になり、河西の州県の多くを占拠して、将の胡敬璋を河西節度使とした。
乾寧三年(896年・華州行幸)
- 夏五月戊子、中使を送って崔昭緯に死を賜った。荊南まで行ったところで追いつき斬った。内外みな快哉と言った。
- 李克用が渭北に屯していたころ、李茂貞と韓建はこれを憚って朝廷への礼はきわめて恭しかった。克用が去ると二鎮の貢献はしだいに絶え、表章も驕慢になった。
- 帝は石門から還って以来、神策両軍のほかに安聖・捧宸・保寧・宣化などの軍を置き、数万を選んで諸王に率いさせた。嗣延王の李戒丕と嗣覃王の李嗣周はさらに自ら麾下数千を募った。茂貞は自分を討つためだと考えて怨言を重ね、隙は日ごとに深まった。茂貞も兵を整えて「闕へ行って冤を訴える」と言いふらし、京師の士民は争って山谷に逃げ隠れた。
- 帝は通王・李滋および嗣周・戒丕に諸軍を分けて率いさせて近畿を守らせ、戒丕は三橋に屯した。すると茂貞は「延王が理由もなく兵を構えて臣を討とうとしている。臣は今、兵を率いて入朝し罪を請う」と上表した。帝はただちに使者を河東へ送って急を告げた。
- 六月、茂貞が兵を率いて京畿に迫り、覃王が婁館で戦って官軍は敗れた。
- 秋七月、茂貞が京師に迫った。延王戒丕は「今、関中の藩鎮に頼れる者はない。鄜州から渡河して太原へ行幸されるのがよい。臣が先に行って告げます」と述べ、辛卯、鄜州への行幸の詔が出た。
- 壬辰、帝が渭北まで出ると、韓建が子の従允に表を持たせて華州への行幸を請うた。帝は許さず、建を京畿都指揮安撫制置および開通四面道路催促諸道綱運等使としたが、建の上表は次々に届き、帝も従官も遠くへ行くのを憚った。
- 癸巳、富平に至り、宣徽使の元公訊を送って建を召し、去就を面談させた。甲午、建は富平に来て帝に拝謁し、頓首して涙を流して述べた。「今、跋扈する藩臣は茂貞だけではありません。陛下が宗廟・園陵を離れて遠く辺鄙を巡られるなら、車駕が河を渡って以後、還る期はないと恐れます。今、華州の兵力は微弱ですが、関輔を扼して自ら固めるには足ります。臣が蓄えて訓練してきて十五年。西は長安から遠くありません。どうか臨まれて興復をお図りください」。帝はこれに従った。
- 乙未、下邽に泊まり、丙申、華州に至って府署を行宮とし、建は龍興寺で執務した。茂貞はそのまま長安に入り、中和以来修復してきた宮室も市肆もことごとく焼き払われた。
- 乙巳、中書侍郎・同平章事の崔胤を同平章事・武安節度使とした。帝は胤が崔昭緯の一党であるため外に出したのである。丙午、翰林学士承旨・尚書左丞の陸扆を戸部侍郎・同平章事とした。扆は陝州の人である。
- 宰相は韓建を憚って政事を自ら決められず、八月丙辰、建に朝政の議に加わるよう詔が出たが、建は固辞して取りやめとなった。建は諸道に檄を移して資糧を行在へ送らせた。
- 李克用はこれを聞いて「昨年、私の言に従っていれば、今日の患いはなかったものを」と嘆じ、さらに「韓建は天下の痴れ者だ。賊臣のために帝室を弱めている。李茂貞に擒にされねば朱全忠に捕らわれるだけだ」と言い、隣道とともに兵を出して入援すると奏した。
- 帝は天下の乱を憤り、奇傑の士を得て順序を飛ばして用いたいと考えていた。国子博士の朱朴が「私が宰相になれば一月余りで太平を招けます」と自ら言い、帝はもっともと考えて、乙丑、朴を左諫議大夫・同平章事とした。朴は凡庸卑俗で偏屈、これといった長所もなく、制が出ると内外は大いに驚いた。丙寅、韓建に中書令を兼ねさせた。
- 九月、崔胤が湖南へ出鎮したのは韓建の意向だった。胤は密かに朱全忠に援けを求め、東都の宮闕を修復して車駕を迎える表を出すよう教えた。全忠は河南尹の張全義とともに洛陽遷都を請い、あわせて兵二万で車駕を迎えたいと述べ、「崔胤は忠臣であり外に出すべきでない」と言った。韓建は恐れて、あらためて胤を宰相に召すよう奏し、使者を送って全忠に「今はひとまず静穏に」と諭させ、全忠は取りやめた。
- 乙未、胤を再び中書侍郎・同平章事とした。翰林学士承旨・兵部侍郎の崔遠を同平章事とした。遠は崔珙の弟・璵の孫である。丁酉、中書侍郎・同平章事の陸扆を硤州刺史に貶した。崔胤は扆が自分に代わったことを恨み、「李茂貞に与している」と誣告して貶したのである。
- 己亥、朱朴に戸部を兼ねさせ、軍旅・財賦の事をすべて委ねた。孫偓を鳳翔四面行営都統とし、前定難節度使の李思諫を静難節度使兼副都統とした。
- 冬十月壬子、孫偓に行営節度招討処置等使を加えた。丁巳、韓建に京兆尹・把截使を兼ねさせた。戊午、李茂貞が上表して罪を請い、自ら改めたいと願い、宮室修復の資金を献じた。韓建もこれを助けたので、結局出兵はしなかった。
乾寧四年(897年・諸王の粛清)
- 春正月甲申、韓建が「防城将の張行思らが、睦・済・韶・通・彭・韓・儀・陳の八王が臣を殺して車駕を奪い河中へ行幸させる謀があると告げてきた」と奏した。建は諸王が兵を掌ることを憎み、行思らに告発させたのである。
- 帝は大いに驚いて建を召して諭したが、建は病と称して参内せず、諸王に自分のところへ来て弁明させた。そのうえで「諸王が突然臣のもとへ来られたのは何事か測りかねます。臣は事の体面を思うに、諸王とお会いすべきではありません」と上表し、さらに「諸王こそ嫌疑を避けるべきで、軽々しく振る舞うべきでない。陛下が友愛の情でお許しになるなら、旧制どおり十六宅に帰らせ、優れた師傅を選んで詩書を教え、兵を掌らせず政に与らせぬようにされたい」と述べ、「あの烏合の兵を散じ、麟趾の化を輝かせていただきたい」と言い添えた。
- 建は帝が従わないことを慮り、麾下の精兵で行宮を包囲し、上表を重ねた。帝はやむなく、その夕、諸王の率いる軍士をすべて田里に帰し、諸王を十六宅に帰し、甲兵はすべて韓建に収めさせる詔を下した。
- 建はさらに「陛下が賢を選び能を任じれば禍乱は鎮まります。なぜ別に殿後四軍を置き、厚薄の差を明らかにして偏党なきの道を損なわれるのか。しかも集めたのは坊市の無頼で狡猾な徒ばかり。平時ですら禍変を望み、難に臨めば必ず役に立ちません。それが弓を張り刃を挟んで皇輿のすぐそばにいる。臣は寒心いたします。すべて解散されたい」と奏し、詔もこれに従った。こうして殿後四軍二万余人はことごとく散り、天子の親軍は失われた。
- 捧日都頭の李筠は石門の扈従で功第一だったが、建はまた奏して大雲橋で斬らせた。
- 建はさらに「玄宗の末に永王璘は暫く江南に出ただけで不軌を謀り、代宗のとき吐蕃が侵入し、光啓年間には朱玫が乱を起こしたが、いずれも宗室を援立して人望を繋ごうとしました。今、命を受けて四方にある諸王をすべて召還されたい」と奏し、また「諸方士が禁庭に出入りして聖聴を惑わしております。すべて禁じて入宮させぬように」と奏した。詔はいずれも従った。
- 建は諸王を別邸に幽閉したのち、帝の不快を察し、徳王を太子に立てるよう請うて機嫌を取ろうとした。丁亥、徳王・李祐を皇太子に立て、名を裕と改めた。
- 己亥、孫偓の鳳翔四面行営節度等使を罷め、副都統の李思諫を寧塞節度使とした。
- 二月乙亥、門下侍郎・同平章事の孫偓を罷めて本官のみとし、中書侍郎・同平章事の朱朴を罷めて秘書監とした。朴は執政してから言うことがすべて外れ、外議が沸騰していた。太子詹事の馬道殷は天文で、将作監の許巌士は医術で帝の寵を得ていたが、韓建は二人を罪に陥れて殺し、「偓と朴は二人と通じていた」と言ったので罷免されたのである。
- 夏六月、李茂貞が「王建が東川を攻め、数年にわたり兵を連ねて詔命に従わない」と上表した。甲寅、建を南州刺史に貶し、乙卯、茂貞を西川節度使とし、覃王・李嗣周を鳳翔節度使とした。
- 覃王が任地に赴くと、李茂貞は交代を受けず、奉天で覃王を包囲した。秋七月、韓建が茂貞に書を送り、茂貞は奉天の囲みを解き、覃王は華州へ帰った。
- 八月、帝は奉天に行幸して自ら李茂貞を討とうとし、宰相に議させたが、宰相が切に諫めて取りやめた。
- 延王戒丕が晋陽から戻ると、韓建は「陛下の即位以来、近隣の藩鎮と不和になったのは、いずれも諸王が兵を掌り、凶徒が禍を喜んだためで、鑾輿は安んじられませんでした。先に臣が兵権の廃止を奏したのは、まことに不測の変を慮ってのことです。今、延王・覃王がなお陰謀を抱いていると聞きます。どうか聖断をもって疑わず、乱れぬうちに制されれば社稷の福です」と奏した。帝は「そこまでのことか」と言い、数日返答しなかった。
- そこで建は知枢密の劉季述と詔を偽って兵を発し、十六宅を包囲した。諸王は髪を振り乱し、あるいは垣に取りつき、あるいは屋根に登り、あるいは木に登って「宅家(陛下)、児をお救いください」と叫んだ。建は通・儀・睦・済・韶・彭・韓・陳・覃・延・丹の十一王を石隄谷まで連行して皆殺しにし、謀反と報告した。
- 礼部尚書の孫偓を南州司馬に貶し、秘書監の朱朴は先に夔州司馬に貶されていたが、さらに郴州司戸に貶された。
- 九月、彰義節度使の張璉を鳳翔西北行営招討使として李茂貞を討たせ、あらためて王建を西川節度使・同平章事とし、新西川節度使の李茂貞の官爵を削奪して姓名を宋文通に戻した。
- 右拾遺の張道古が上疏し、「国家には五つの危機と二つの乱がある。昔、漢の文帝は即位して間もなく国家の事に明るくなった。今、陛下は登極して十年になるのに、いまだ君として臣を御する道をご存じない。太宗は内に中原を安んじ外に四夷を開き、海表の国で臣とならぬものはなかった。今、先朝の封域は日ごとに縮み、ほぼ尽きた。臣は微賤ながら、陛下の朝廷と社稷が初めは奸臣に弄ばれ、ついには賊臣のものとなることを傷みます」と述べた。帝は怒って道古を施州司戸に貶し、あわせて詔を下してその罪状を諫官に宣示した。道古は青州の人である。
光化元年(898年・還京)
- 春正月、帝は詔を下して自らを責め、兵を止め、李茂貞の姓名と官爵を復し、諸道の鳳翔討伐兵をすべて罷めた。
- 李茂貞と韓建はともに李克用に書を送り、「大駕の出幸は年を重ねた。和好を修め、ともに王室を助けたい。あわせて宮室修復の職人を賜りたい」と願い、克用は許した。
- かつて王建が東川を攻めたとき、顧彦暉は李茂貞に救援を求め、茂貞は将に出兵を命じて救わせ、東の乗輿に迫る余裕がなかった。そこで改心を装って韓建とともに天子を輔翼するとした。さらに朱全忠が洛陽の宮を修復し、たびたび上表して車駕を迎えていると聞き、茂貞と韓建は恐れて宮闕の修復を請い、帝を長安へ帰すこととした。
- 詔で韓建を修宮闕使とし、諸道が銭と工材を援助した。建は都将の蔡敬思に工事を監督させ、完成すると、二月に自ら見に行った。李茂貞を再び鳳翔節度使とした。
- 秋八月庚戌、華州を興徳府と改めた。己未、車駕が華州を発ち、壬戌に長安に至り、甲子に天下を赦して改元した。