通鑑紀事本末回鶻の叛服(回鶻叛服)

突厥の衰亡に乗じて漠北に興った回紇(のち回鶻)と唐との、援助と婚姻と衝突の一部始終。開元四年(716)から乾符元年(874)まで、およそ百六十年。安史の乱では骨力裴羅の後継が兵を出して東京を回復させた見返りに洛陽で掠奪し、寧国・崇徽・咸安・太和と公主が次々に降嫁し、絹馬交易の負担と使者の横暴が唐を苦しめた。開成五年(840)に黠戛斯に牙帳を焼かれて崩壊し、烏介可汗は殺胡山で石雄に大破され、残衆も張仲武に滅ぼされて回鶻は消えた。

年表(30件)

玄宗開元四年(716年)

  • 突厥の黙啜可汗が拔曵固を独楽水で撃破したが、勝ちに驕って警戒を怠り、拔曵固の敗残兵頡質略に討ち取られた。
  • その子の小可汗が跡を継いだものの、骨咄禄の子である闕特勒に殺され、兄の左賢王黙棘連が擁立された。これが毗伽可汗である。

開元二十二年冬十二月(734年)

  • 毗伽可汗が重臣の梅録啜に毒を盛られて没し、弟の登利可汗が即位した。

開元二十七年秋七月(739年)

  • 登利可汗が従叔の判闕特勒に攻め殺され、毗伽可汗の子が立てられたが、まもなく骨咄葉護がこれを殺して自ら可汗を称した。
  • 突厥の内訌を見た玄宗は、左羽林将軍の孫老奴を派遣し、回紇・葛邏禄・拔悉密といった諸部族に唐への帰順を呼びかけさせた。

天寶元年(742年)

  • 拔悉密・回紇・葛邏禄の三部が結んで骨咄葉護を討ち取り、拔悉密の首長を頡跌伊施可汗に推戴、回紇と葛邏禄はそれぞれ左葉護・右葉護に収まった。突厥の残党は判闕特勒の子を烏蘇米施可汗として担いだ。
  • 回紇の葉護骨力裴羅が入貢し、奉義王の爵を授けられた。

天寶三載秋八月(744年)

  • 拔悉密が烏蘇可汗を斬り、その首が長安に送られた。突厥側は弟の鶻隴匐白眉特勒を白眉可汗に立てたが、内乱はいっそう深まった。
  • 朝廷は朔方節度使の王忠嗣に出兵を命じてこの混乱に乗じさせた。折しも回紇と葛邏禄が共同で拔悉密を攻めて頡跌伊施可汗を殺し、骨力裴羅が自立して骨咄禄毗伽闕可汗を名乗った。
  • 唐はこれを懐仁可汗として冊立。懐仁は南下して突厥の旧領を押さえ、烏徳犍山に牙帳を構えた。もとの薬邏葛など九姓に拔悉密・葛邏禄を併せて十一部となり、部ごとに都督を置き、戦のたびに新参の二部を先鋒に立てる仕組みをとった。

天寶四載(745年)

  • 懐仁可汗が白眉可汗を討って殺し、回紇の版図は東は室韋、西は金山、南は大漠を越えて突厥旧領のすべてに及んだ。
  • 懐仁の死後、子の磨延啜が継いで葛勒可汗と号した。

粛宗至徳元載(756年)

  • 安禄山の乱に際し、回紇可汗は使者を送って唐への加勢を申し出た。朝廷は饗応して送り返した。
  • 粛宗は外夷の兵を借りて軍威を張ろうと考え、豳王守礼の子承寀を敦煌王として僕固懐恩とともに回紇へ派遣し、援兵を請わせた。可汗は承寀に娘を娶わせ、重臣を承寀・僕固懐恩に同行させた。

至徳二載冬十月(757年・東京奪回)

  • 広平王俶が回紇の葉護と会したとき、洛陽の人々が賊のために城を固守しているとして、東京到着後にという約束を求めた。葉護は馬を下りて拝礼し、俶の足を捧げて「殿下のためにまっすぐ東京へ向かいましょう」と応じた。これを見た胡族の兵は皆涙し、「広平王こそ真に華夷の主だ」と口々に言った。
  • 壬戌、広平王俶が東京に入城。回紇はなお略奪をやめようとせず、俶が苦慮していると、洛陽の父老が羅錦一万匹を差し出すと申し出て、ようやく収まった。
  • 十一月己丑、回紇の葉護を司空・忠義王とし、毎年絹二万匹を回紇に贈り、朔方軍で受け取らせることとした。

乾元元年秋七月(758年・寧國公主降嫁)

  • 回紇可汗を英武威遠毗伽闕可汗として冊立し、粛宗の末娘である寧国公主を娶わせた。殿中監の漢中王瑀を冊礼使、右司郎中の李巽を副使とし、左僕射の裴冕が公主を国境まで送った。のち司勲員外郎の鮮于叔明(鮮于仲通の弟)も副使に加えられた。
  • 粛宗が咸陽まで見送ると、公主は「国家の大事です、死んでも悔いはありません」と別れを告げ、帝は涙して戻った。
  • 牙帳では可汗が赭袍・胡帽で榻上に座し、瑀らを帳外に立たせた。瑀が拝礼を拒むと可汗は君臣の礼を説いたが、瑀と叔明は「従来は宗室の女を公主としたが、今回は可汗の功に報いて天子自ら生んだ娘を嫁がせるほどの厚遇。婿の身で舅に驕り、榻に座ったまま冊命を受けてよいのか」と反論した。可汗は態度を改め、起立して冊命を受け、翌日公主を可敦に立てた。国中が喜んだ。
  • 八月、回紇は骨啜特勒と帝徳に精騎三千を率いさせ、安慶緒討伐に加勢させた。粛宗は朔方左武鋒使の僕固懐恩にこれを統率させた。

乾元二年(759年)

  • 春三月、骨啜特勒・帝徳ら十五人が相州から長安へ戻り、紫宸殿で饗応と賜与を受けたのち、行営へ帰った。
  • 夏四月、毗伽闕可汗が没した。長子の葉護はすでに殺されていたため、末子が立って登里可汗となった。回紇側は寧国公主を殉死させようとしたが、公主は「回紇が中国の風習を慕って中国の女を娶ったのに、その本俗に従えというなら、万里の彼方と婚姻を結ぶ意味がない」と拒んだ。ただし顔を切り裂いて哭する礼だけは行った。
  • 秋八月、公主に子がないことから帰国が許され、丙辰に長安へ帰着した。

寶應元年(762年・陝州の恥辱)

  • 秋九月、粛宗は中使の劉清潭を回紇に遣わし、史朝義討伐の出兵を求めた。しかし回紇はすでに朝義に誘われ、唐を侮る心を抱いていた。僕固懐恩が赴いて説くと可汗は喜び、上表して加勢を申し出た。
  • 冬十月、雍王适を天下兵馬元帥とした。丙寅、僕固懐恩に母妻ともども行営へ赴くよう命じた。
  • 雍王适が陝州に至り、河北に駐屯する可汗のもとへ数十騎の供回りで会いに行った。可汗は适が拝舞しないことを責め、藥子昂が礼にかなわぬと答えると、回紇の将車鼻が「唐の天子と可汗は兄弟の約、可汗は雍王の叔父にあたる。なぜ拝舞せぬ」と迫った。子昂は「雍王は天子の長子で今は元帥。中国の儲君が外国の可汗に拝舞する道理はない。しかも両宮が殯の最中で舞踏はできぬ」と長く争ったが、車鼻は子昂・魏琚・韋少華・李進をそれぞれ百叩きにし、适は年少ゆえ事情に暗いとして営に帰した。魏琚と韋少華は一夜のうちに死んだ。
  • 戊辰、諸軍が陝州を発ち、僕固懐恩と回紇の左殺が先鋒となった。回紇は洛陽に入ると思うままに殺戮と略奪を働いた。

代宗廣德元年(763年)

  • 春閏正月己酉の夜、回紇の十五人が含光門を犯して鴻臚寺に押し入ったが、門番は制止できなかった。
  • 帰国する登里可汗の一行は道中で略奪を重ね、供給が意に沿わないと平気で人を殺した。陳鄭澤潞節度使の李抱玉が接待役を出そうとしても誰もが尻込みするなか、趙城尉の馬燧だけが名乗り出た。燧は先に使者を送って渠帥を買収し、暴掠しない約束を取りつけて旗を受け取り、「令を犯す者があれば自ら斬れ」と言わせた。そして死刑囚を側に置き、わずかでも違令があるとその場で斬ったので、回紇は顔を見合わせて色を失い、趙城の境内では皆が手をこまねいて約束を守った。抱玉は燧を非凡と見た。
  • 七月、可汗を頡咄登密施合俱録英義建功毗伽可汗、可敦を娑墨光親麗華毗伽可敦として冊立し、左右殺以下にも封賞を加えた。
  • 僕固懐恩が回紇と吐蕃を誘って侵入した。

大曆三年秋七月(768年・董晉に先立つ蕭昕の応酬)

  • 回紇の可敦が没し、右散騎常侍の蕭昕が弔祭使として派遣された。回紇の宮廷で「我らは唐に大功があるのに、なぜ馬の代金を期日どおり払わぬのか」と詰め寄られると、昕は「回紇の功にはとうに報いた。僕固懐恩が叛いたとき回紇は加勢して吐蕃とともに京畿に迫り、懐恩が死に吐蕃が退いてはじめて和を請うたのだ。唐は先の功を忘れず恩を加えて赦した。そうでなければ馬一頭も帰らなかった。約に背いたのは回紇であって、唐が信を失ったのではない」と答えた。回紇は恥じ入り、厚礼で送り返した。

大曆四年(769年・崇徽公主降嫁)

  • 僕固懐恩の死後、代宗はその功を憐れんで娘を宮中に養い、わが娘としていた。回紇が可敦に望んだため、夏五月に崇徽公主として冊立し、可汗に嫁がせた。兵部侍郎の李涵が送使となり、祠部郎中の董晉(虞郷の人)を判官に迎えた。
  • 牙帳に着くと回紇は「馬の市を約束しておきながら、渡した見返りが足りない。使者から取り立てる」と迫った。李涵が怯えて答えられず董晉を見ると、晉は「馬がなくて市をするのではない。与えている賜与は十分すぎるほどだ。そちらの馬は毎年届くが数えれば皮ばかりで、辺境の官が問い詰めよと言うのを抑えている。天子はそちらの労を思って侵犯を禁じる詔を下し、諸戎が手出しをしないのは大国の後ろ盾ゆえだ。親子ともども安んじて馬を殖やせるのは誰のおかげか」と述べた。回紇の一同は晉を取り囲んで拝し、さらに南面して順に拝礼し、両手を挙げて「大国に他意はありません」と誓った。

大曆七年(772年)

  • 春正月甲辰、回紇の使者が鴻臚寺を勝手に出て人の子女を掠め、役人が止めると殴打し、三百騎で金光門・朱雀門に押し寄せた。この日は宮門をすべて閉じ、中使の劉清潭が諭してようやく収まった。
  • 秋七月癸巳、回紇の使者がまた勝手に外出し、長安令の邵説を含光門街まで追って馬を奪った。説は別の馬に乗って去り、争おうとしなかった。

大曆八年(773年・絹馬交易の弊)

  • 乾元以来、回紇は毎年和市を求め、馬一頭につき絹四十匹、多い年には数万匹に及んだ。しかも馬は駑馬・痩馬ばかりで役に立たず、朝廷は苦しんだ。買い切れない分が残るため、回紇は次々に使者を送り込み、鴻臚寺には常に居座る者が絶えなかった。この年、代宗は機嫌を取ろうとして全部買い上げるよう命じた。
  • 秋七月辛丑、回紇が帰国を告げ、賜与と馬代を合わせて車千余乗を要した。
  • 八月壬申、回紇はさらに使者赤心を送り、馬一万匹での互市を求めた。担当官は多すぎるとして千匹分だけを買いたいと申し出、郭子儀は「それでは意に逆らいすぎる」として自分の一年分の俸禄を差し出して国のために買うと願い出た。代宗は許さず、十一月戊子に六千匹を買うよう命じた。

大曆十年〜十四年(775-779年)

  • 十年冬十二月、回紇の千騎が夏州を侵したが、州将の梁栄宗が烏水で撃破。郭子儀が三千の兵を救援に送ると回紇は退いた。
  • 十一年春二月、朔方五城の守備兵を増やして回紇に備えた。
  • 十三年春三月、帰国する回紇の使者が河中を通ったとき、朔方軍の兵士がその輜重を掠め、勢いで坊市まで荒らした。秋七月、郭子儀は回紇がなお塞上にとどまって辺民が恐れているとして、邠州刺史の渾瑊を振武軍に鎮させるよう奏請し、認められると回紇は退去した。
  • 十四年秋七月庚辰、在京の回紇や諸胡に自国の服装を守らせ、唐人の風を真似ることを禁じた。それまで長安に常駐する回紇は千人ほど、偽って紛れ込む商胡はその倍に及び、官が日々食糧を給し、彼らは財を殖やし邸宅や店を構えて利を独占し、日ごとに横暴を働いても官吏は問えなかった。唐人の服を着て人妻を誘い取る者すらあったため、禁令が出された。

德宗建中元年(780年・登里可汗の死と振武の虐殺)

  • もともと回紇の風俗は素朴で君臣の隔ても小さく、それゆえ心を一つにして無敵の強さを保っていた。ところが唐への功で厚い賜与を受けると、登里可汗は宮殿を築いて住み、婦人は粉黛や刺繍で飾るようになり、中国は財を吸い取られ、胡俗もまた崩れた。
  • 代宗の崩御に際し、告哀の中使梁文秀を登里は驕って礼遇しなかった。回紇に付いた九姓胡が「中国は富み、喪に乗じて伐てば大利がある」と唆すと、登里はこれに従って全国を挙げての侵入を企てた。宰相の頓莫賀達干(登里の従兄)は「唐は大国でわが方に非はない。先年太原を侵して牛馬数万を得たのは大捷だが、道は遠く糧は乏しく、帰りは徒歩の兵が多かった。今全軍で深入りして勝てなければどこへ帰るのか」と諫めたが、聞き入れられなかった。
  • 頓莫賀は南征を嫌う人心に乗じて兵を挙げ、登里と九姓胡二千人を殺して自立し、合骨咄禄毗伽可汗となった。臣の聿達干を梁文秀に同行させて入朝させ、藩臣となることを願い、冊命を待つ間は髪を切らないと誓った。乙卯、京兆少尹の源休を送って武義成功可汗として冊立させた。
  • 秋八月甲午、振武留後の張光晟が回紇の使者董突ら九百余人を殺した。董突は武義可汗の叔父にあたる。代宗の世、九姓胡はしばしば回紇を名乗って長安に雑居し、商いと横暴で公私の害となっていた。徳宗は即位すると董突に一党を率いて帰国するよう命じたが、その輜重はおびただしく、振武に数か月とどまって供給を強要し、一日に肉千斤を食らうありさまで、放牧と伐採で田畑を踏み荒らし、振武の人々は疲弊した。
  • 光晟はその輜重を奪おうと考えたが、相手の数を恐れて手を出せずにいた。一方、九姓胡は同族が新可汗に誅されたと聞いて逃亡を図り、董突が厳しく防いだため逃げも帰りもできず、密かに光晟に回紇殺害を持ちかけた。光晟は彼らの内部分裂を喜んで承諾した。
  • 徳宗は陝州での屈辱を根に持って回紇を憎んでいた。その意を察した光晟は「回紇の本種は多くなく、強さを支えているのは付き従う諸胡にすぎない。今は同士討ちの最中で、頓莫賀は新立、移地健の庶子と国相の梅録がそれぞれ数千の兵を擁して争い、国は定まっていない。財がなければ衆を動かせぬのに、この機に除かずその人を帰し財を与えるのは、まさに寇に兵を貸し盗に糧を与えるものだ」と三たび上奏したが、許されなかった。
  • そこで光晟は副将に館の門前をわざと無礼に通らせ、怒った董突が捕えて数十鞭打つと、それを口実に兵を伏せて一挙に襲い、諸胡もろとも皆殺しにして京観を築いた。生き証人として胡人二人だけを帰し、「回紇が大将を鞭打って辱め、振武を襲って占拠しようとしたので先手を打った」と称した。
  • 徳宗は光晟を右金吾将軍として召し返し、中使の王嘉祥に信物を持たせて回紇へ送った。回紇が下手人の引き渡しを求めると、その気持ちを宥めるため光晟を睦王傅に貶した。

建中三年(782年・「以水洗血」)

  • 突董殺害の後、徳宗は回紇との断交まで考え、冊立使の源休を太原から呼び戻していたが、しばらくして突董・翳密施・大小梅録ら四人の遺体を送り返させた。
  • 可汗は宰相の頡子思迦らを迎えに出したが、頡子思迦は大帳に座して源休らを雪中に立たせ、殺害の経緯を詰問し、幾度も殺そうとした。待遇は粗末で、五十余日留め置かれてようやく帰された。
  • 可汗は人を介して「国人は皆おまえを殺して恨みを晴らしたがっているが、私はそう思わぬ。そちらが突董らを殺し、こちらがおまえを殺すのは、血で血を洗って汚れを増すようなもの。今は水で血を洗おうではないか。ただし唐が滞らせている馬代の絹百八十万匹は速やかに返してもらう」と伝えた。散支将軍の康赤心を源休に同行させて入見させたが、休はついに可汗に会えぬまま帰った。
  • 己卯に長安へ戻ると、帛十万匹・金銀十万両で馬代を償う詔が下された。源休は弁が立ったため、盧杞は帝に気に入られることを恐れ、到着前に光禄卿の職に押し込めた。

建中四年〜興元元年(783-784年)

  • 両河の用兵に際し、王武俊が回紇の兵を呼んで李懐光らの糧道を絶とうとしたが、懐光らはすでに西へ去っていた。折しも回紇の達干が回紇千人・雑虜二千人を率いて幽州北境に至ったので、朱滔がこれを説いて共に河南へ下り洛陽を取って朱泚に呼応しようと誘い、河南の子女・金帛を約束した。朱滔は回紇の女を側室としており、回紇は彼を「朱郎」と呼んでいた。略奪の利にも惹かれて承諾した。
  • 興元元年夏五月乙亥、李抱真・王武俊が貝州の三十里手前に布陣。回紇の達干は朱滔に会って戦いを請うたが、敗走した。

貞元三年(787年・李泌の和回紇論)

  • 回紇の合骨咄禄可汗がしきりに和親と婚姻を求めたが、徳宗は許さなかった。折しも辺将から馬が不足していると報告があり、李泌は「臣の策を用いれば数年で馬は今の十分の一の値になります」と述べた。
  • 泌の献策は「北は回紇と和し、南は雲南と通じ、西は大食・天竺と結ぶ。そうすれば吐蕃は自ら疲弊し、馬も容易に手に入ります」というものだった。徳宗は他の三国は認めたが回紇だけは断固拒み、「回紇のことは口にするな」と言った。泌は「今の急務はまず回紇です。他の三国は急ぎません」と譲らず、宰相として意見を述べる権利を主張した。
  • 徳宗が拒む理由は陝州の恥だった。「韋少華らは朕のせいで辱めを受けて死んだ。忘れられようか。国難が多くて報復の暇がないだけで、和議は断じてならぬ」。
  • 泌は反論した。「少華らを害したのは牟羽可汗です。陛下の即位後に挙兵して侵入しようとしたその可汗を、今の合骨咄禄可汗が殺したのです。ならば今の可汗は陛下に功があり、封賞を受けるべき相手で、恨む筋合いはありません。その後、張光晟が突董ら九百余人を殺しても、合骨咄禄は朝廷の使者を殺そうとはしませんでした。彼に罪はないのです」。
  • 徳宗が「では朕が間違いだと言うのか」と問うと、泌は「臣は社稷のために申し上げております。もし迎合して身を保つなら、天上の粛宗・代宗にどう顔向けできましょう」と答えた。以後、泌は十五回以上も回紇の件を論じ続け、ついに辞職を願い出るに至った。徳宗は「諫言を拒むのではない、道理を論じ合いたいだけだ」と引き留めた。
  • 泌はさらに踏み込んだ。「陝州の一件は、少華らが陛下に背いたのであって、陛下が彼らに背いたのではありません。かつて葉護が安慶緒討伐に来たとき、粛宗は臣に元帥府で饗応させるにとどめ、先帝(代宗)は会おうとされなかった。葉護が強く求めても粛宗は許さず、出陣間際になってようやく会わせた。戎狄は豺狼であり、その兵が中国の腹中に入る以上、過剰なほど防がねばならぬからです。陝州の折、陛下はお若く、少華らは深慮せず、万乗の長子をそのまま敵営へ行かせ、しかも会見の儀礼を事前に取り決めなかった。相手が驕慢を尽くしたのは少華らの落ち度で、死んでも償いきれません」。
  • 「さらに香積寺の勝利の折、葉護は長安を掠めようとしましたが、先帝が馬前で自ら拝して止め、葉護は城に入りませんでした。見ていた十万余の人は皆嘆じて『広平王こそ真の華夷の主だ』と言いました。屈したものは小さく、伸ばしたものは大きい。葉護は牟羽の叔父です。牟羽は可汗の身で全国の兵を挙げて中原の難に赴いた、だからこそ驕り高ぶって陛下に礼を責めた。陛下は屈しなかった。もしあのとき可汗が陛下を営中に十日も留めて宴を張ったら、天下は肝を冷やしたでしょう。ところが天威に豺狼も馴れ、可汗の母は貂裘で陛下を庇い、左右を叱って退け、自ら馬に乗せて送り返した。香積寺の例に照らせば、己を屈するのが正しいのか、屈しないのが正しいのか。陛下が牟羽に屈したのか、牟羽が陛下に屈したのか」。
  • 徳宗が李晟・馬燧に意見を求めると、二人も「泌の言うとおりなら回紇は許せましょう」と答えた。徳宗が「そなたらまで朕に与しないのか」と言うと、泌はさらに「恨むべきは回紇ではなく、これまでの宰相です。今の可汗は牟羽を殺した者で、その国人には二度も京城を回復した勲がある。何の罪がありましょう。国難に乗じて河隴数千里を奪い、京城に兵を入れて先帝を陝州に蒙塵させた吐蕃こそ百代必報の讎で、その賛普は今も存命です。宰相がこれを弁別して申し上げず、かえって吐蕃と和して回紇を攻めようとした。それこそ恨むべきです」と述べた。
  • 徳宗が「長く怨敵だった上、吐蕃には盟を破られた。今さら和を求めて拒まれ、夷狄の笑いものになりはせぬか」と危ぶむと、泌は「臣がかつて彭原にいたころ、今の可汗は胡禄都督、今の国相白婆帝はともに葉護に従って来ており、臣は親しく遇しました。臣が宰相になったと聞いて和を求めてきたのですから、拒むはずがありません」と請け合った。
  • そして泌は五つの条件を書簡で約させると提案した。臣を称すること、陛下の子と称すること、来る使者は二百人を超えないこと、交易の馬は千匹を超えないこと、中国人や商胡を連れて塞外へ出ないこと。「この五つを守れば和親を許す、とすれば威は北荒に及び、傍らの吐蕃をも震え上がらせ、陛下の年来の胸のつかえも晴れましょう」。
  • 徳宗は「至徳以来、兄弟の国としてきた相手を今さら臣とするなど、承知すまい」と危ぶんだが、泌は「彼らは久しく中国との和親を望んでおり、可汗も国相も臣の言を信じています。まとまらねば、もう一通書を出すだけのこと」と答え、帝はこれに従った。
  • 果たして可汗は上表して「児」「臣」と称し、五か条をことごとく承諾した。徳宗が大いに喜んで「なぜこれほどそなたを畏れ服するのか」と問うと、泌は「陛下の威霊です。臣の力ではありません」と答えた。
  • 続いて徳宗が雲南・大食・天竺の招致法を尋ねると、泌は「回紇と和すれば吐蕃はもう軽々しく塞を犯せません。次に雲南を招くのは吐蕃の右腕を断つこと。雲南は漢以来中国に臣属していたのを、楊国忠が理由もなく騒がせて叛かせ吐蕃に付かせたもので、重い賦役に苦しみ、一日として唐の臣に戻ることを願わぬ日はありません。大食は西域最強で、葱嶺から西海まで天下の半ばに及ぶ地を有し、天竺ともども中国を慕い、代々吐蕃と仇敵です。だから招けると分かるのです」と説いた。
  • 癸亥、回紇の使者合闕将軍を帰し、咸安公主の降嫁を許し、馬代の絹五万匹を支払った。

貞元四年冬(788年・咸安公主降嫁と回鶻への改称)

  • 合骨咄禄可汗は婚姻の許可を得て大いに喜び、妹の骨咄禄毗伽公主や大臣の妻、国相の跌都督以下千余人を可敦の出迎えに送った。その辞礼はきわめて恭しく、「昔は兄弟、今は子婿すなわち半ば子です。吐蕃が患いとなれば、子として父のために除きましょう」と述べ、吐蕃の使者を罵倒して関係を断った。
  • 冬十月戊子、回紇の一行が長安に到着。可汗は上表して「回紇」を「回鶻」と改めることを願い、許された。
  • 庚子、咸安公主を冊立し、回鶻可汗に長寿天親可汗の号を加えた。十一月、刑部尚書の関播を送使兼冊立使とした。

貞元五年冬十二月(789年)

  • 天親可汗の訃報が届き、鴻臚卿の郭鋒を遣わしてその子を登里羅没密施俱禄忠貞毗伽可汗として冊立させた。
  • これ以前、安西・北庭はいずれも回鶻を経由して奏事していたため、唐は回鶻と和を保っていた。北庭は回鶻にとりわけ近く、回鶻の誅求は際限なかった。さらに沙陀六千余帳が北庭に依り、三葛禄・白服突厥も回鶻に属していたが、回鶻はしばしばこれらを侵掠した。吐蕃は葛禄・白服の衆を使って北庭を攻め、回鶻の大相頡干迦斯が救援に向かった。

貞元六年(790年・北庭・安西の喪失)

  • 忠貞可汗が弟に弑され、その弟が自立したが、頡干迦斯が吐蕃討伐で不在の間に、夏四月、次相が国人を率いて簒奪者を殺し、忠貞の子阿啜(十五歳)を可汗に立てた。
  • 頡干迦斯は吐蕃との戦に敗れ、吐蕃は北庭を急攻。北庭の人々は回鶻の誅求に苦しんでいたため、沙陀酋長の朱邪尽忠らとともに吐蕃に降り、節度使の楊襲古は麾下二千を率いて西州へ逃れた。
  • 六月、頡干迦斯が帰国すると、次相は廃立を咎められることを恐れ、可汗ともども郊外に迎え出て平伏し、擅立の経緯を述べて「今日はただ大相のご存念次第」と言い、郭鋒がもたらした国信をすべて贈った。可汗も拝して泣き、「私は幼く愚かです。運よく位に就けたなら、ひとえに阿多(父の意)を頼みとし、国政に口出しはいたしません」と述べた。頡干迦斯はその卑屈さに心を打たれ、抱いて泣き、臣の礼をとり、贈られた品はすべて随行者に分けて自分は受け取らなかった。これで国内はやや安定した。
  • 秋、頡干迦斯は数万の国兵を挙げ、楊襲古を呼んで北庭回復を図ったが、また吐蕃に敗れて過半を失った。襲古が残兵数百と西州へ帰ろうとすると、頡干迦斯は「まず牙帳へ同行を。その後お送りする」と偽って留め、ついに殺した。これにより安西との連絡は絶え、存亡も分からなくなったが、西州はなお唐のために守り抜かれた。
  • 葛禄が勝ちに乗じて回鶻の浮図川を奪うと、回鶻は震え上がり、西北の部落をすべて牙帳の南へ移して避けた。達北特勒梅録を郭鋒に同行させ、忠貞可汗の喪を告げて冊命を求めた。
  • それまで回鶻の使者は驕慢で、刺史も対等の礼で接していた。梅録が豊州に至ったとき、刺史の李景略は気迫で圧しようと考え、「可汗が亡くなられたと聞く、弔礼を申し述べたい」と言って先に高い土壇に座した。梅録が身をかがめて前で哭すると、景略はその背を撫でて「可汗は世を去られた。そなたの哀慕を助けよう」と言った。梅録の驕慢な気は跡形もなく失せ、以後は回鶻の使者は皆庭で景略を拝し、その威名は塞外に響いた。
  • 冬十月辛亥、郭鋒が回鶻から帰還した。

貞元七年〜十一年(791-795年)

  • 七年春二月、鴻臚少卿の庾鋌を遣わして回鶻の奉誠可汗を冊立した。
  • 十一年夏四月、奉誠可汗が没して子がなく、国人は宰相の骨咄禄を可汗に立てた。骨咄禄はもと跌氏で、弁舌と知略に富み勇略もあり、天親可汗の時代から兵馬を掌握して実権を握り、大臣や諸酋長は皆畏服していた。可汗となると藥羅葛氏を冒姓し、使者を送って喪を告げた。天親可汗以前の子孫で幼い者は皆唐の宮廷に迎え入れられた。
  • 五月庚寅、秘書監の張薦を遣わし、骨咄禄を騰里邏羽録没密施合胡禄毗伽懐信可汗として冊立した。

順宗永貞元年(805年)

  • 懐信可汗が没し、鴻臚少卿の孫杲を弔問に遣わし、その後継を騰里野合俱録毗伽可汗として冊立した。

憲宗元和元年(806年・摩尼教の伝来)

  • 回鶻の入貢に伴い、摩尼(マニ教)の僧が初めて中国に来て、寺を与えられて住した。その戒律では日が傾いてから食事をとり、葷を食べても乳酪は口にしないという。回鶻はこれを篤く信奉し、可汗が国事を諮ることもあった。

元和三年(808年)

  • 春二月戊寅、咸安大長公主が回鶻で薨じた。三月、騰里可汗が没した。
  • 夏五月丙午、新可汗を愛登里囉汨蜜施合毗伽保義可汗として冊立した。

元和八年〜九年(813-814年・李絳の建言)

  • 八年冬十月、回鶻が兵を発して磧を越え南下し、柳谷から西へ吐蕃を撃った。壬寅、振武・天徳軍が回鶻数千騎の鸊鵜泉到着を報じ、辺境は戒厳態勢に入った。
  • 九年春二月、李吉甫の奏請で宥州を再置し回鶻に備えた。回鶻はしばしば婚姻を求めていたが、公主降嫁の費用が莫大なため朝廷は許さずにいた。
  • 礼部尚書の李絳は上言した。「回鶻は凶悍で備えを欠かせず、淮西は追い詰められており経営が要る。今、江淮の大県には年に二十万緡を上納するものがある。それだけで降嫁の費用は賄える。一県の賦を惜しんで強敵を羈縻せぬ理由がありましょうか。婚姻が許されれば回鶻は喜んで猜疑を捨てる。その間に城塹を修め甲兵を蓄えれば辺備は整い、淮西に専念して万全を期せます。今、公主を降さぬまま西城を手薄にし磧路を無防備にしておいて、天徳を修築して虜心を疑わせている。万一北辺に急があれば、淮西の残党はさらに命を永らえましょう。虜騎が南下すれば歩兵二万・騎兵五千がなければ防げず、一年で勝てたとしてもその費用は降嫁の比ではありません」。憲宗は聞き入れなかった。
  • 十二年、回鶻はしきりに公主を求めたが、担当官の試算では費用は五百万緡近くに上り、中原で用兵中のため許されなかった。二月辛卯朔、回鶻の摩尼僧らを帰国させ、宗正少卿の李誠を回鶻に遣わして時期を先延ばしにする旨を伝えさせた。
  • 十五年、憲宗の晩年に回鶻が合達干を送って強く婚姻を求め、憲宗はこれを許した。二月癸卯朔、合達干を帰国させた。

穆宗長慶元年(821年・太和公主降嫁)

  • 夏四月丙戌、回鶻の後継君主を登囉羽録没蜜施句主毗伽崇徳可汗として冊立した。
  • 五月丙申朔、回鶻が都督・宰相ら五百余人を公主の出迎えに送った。癸亥、太和長公主(穆宗の妹)を回鶻に嫁がせた。
  • 唐と回鶻の婚姻を聞いた吐蕃は、六月辛未に青塞堡を侵したが、塩州刺史の李文悦が撃退した。戊寅、回鶻は一万騎を北庭から、一万騎を安西から出して吐蕃を防ぎ、公主を迎えると奏した。

長慶二年〜四年(822-824年)

  • 二年、裴度の幽州・鎮州討伐に回鶻が加勢を申し出たが、朝議は不可として中使を送って止めさせた。回鶻は臣の李義節に三千人を率いさせてすでに豊州北まで来ており、退去を求めても従わなかったため、詔で繒帛七万匹を賜与し、甲寅にようやく引き揚げた。
  • 四年、崇徳可汗が没し、弟の曷薩特勒が立った。

敬宗寳曆元年〜文宗開成四年(825-839年・回鶻の衰亡)

  • 寳曆元年春三月辛酉、司門郎中の于人文を遣わし、曷薩特勒を愛登里囉汨没密施合毗伽昭礼可汗として冊立した。
  • 太和六年春三月、昭礼可汗が臣下に殺され、甥の胡特勒が立った。翌七年夏四月丙戌、新可汗を愛登里囉汨没蜜施合句禄毗伽彰信可汗として冊立した。
  • 開成四年、回鶻の相である安允合と特勒の柴革が謀反を企て、彰信可汗がこれを誅した。外征中の相・掘羅勿は馬三百を沙陀の朱邪赤心に贈って兵を借り、ともに可汗を攻めた。可汗は敗れて自殺し、国人は㕎馺特勒を可汗に立てた。折しも疫病と大雪で羊馬が大量に死に、回鶻はここに衰えた。赤心は執宜の子である。

開成五年(840年・黠戛斯の来襲と回鶻の崩壊)

  • 伊吾の西、焉耆の北に黠戛斯の部落があった。古の堅昆、唐初の結骨で、のちに黠戛斯と号した。乾元年間に回鶻に破られて以来、中国との往来が途絶えていた。君長を阿熱といい、青山に牙を構え、回鶻の牙帳からは駱駝で四十日の距離にあった。その民は剽悍で、吐蕃も回鶻も常に贈物をして官号を与えていた。
  • 回鶻が衰えると阿熱は自ら可汗を称した。回鶻は相国に兵を率いさせて攻めたが、二十余年にわたる戦いでたびたび黠戛斯に敗れた。黠戛斯は「おまえの運は尽きた。必ず金帳(可汗の居所)を取ってやる」と罵った。
  • 掘羅勿が彰信可汗を殺して㕎馺を立てると、回鶻の別将である句録莫賀が黠戛斯の十万騎を導いて回鶻を大破し、㕎馺と掘羅勿を殺して牙帳を焼き払った。回鶻の諸部は四散し、相の馺職と特勒厖ら十五部は西の葛邏禄へ、一支は吐蕃へ、一支は安西へ逃れた。可汗の兄弟である嗢没斯らと相の赤心・僕固・特勒那頡啜はそれぞれ衆を率いて天徳の塞下に至り、周辺の雑虜と穀物を交易しつつ内附を求めた。
  • 冬十月丙辰、天徳軍使の温徳彜は、回鶻の潰兵が西城に迫り、その列は六十里に及んで後尾が見えないと奏した。辺民は突然の大群に不安を募らせ、朝廷は振武軍節度使の劉沔に雲迦関への駐屯を命じて備えた。

武宗會昌元年(841年・李德裕の懐柔策)

  • 春二月、牙帳近くの回鶻十三部が烏希特勒を烏介可汗に立て、南の錯子山に拠った。
  • 秋八月、天徳軍使の田牟と監軍の韋仲平は手柄を立てようと、「回鶻の叛将嗢没斯らが塞下に迫っている。吐谷渾・沙陀・党項はいずれも代々の仇敵であり、自ら出兵して駆逐したい」と奏した。朝臣の議論はおおむね「嗢没斯らは可汗に叛いて来た者で受け入れられない。田牟らの請いどおり撃つべきだ」というものだった。
  • 宰相の李徳裕は反対した。「窮鳥が懐に入れば生かしてやるもの。まして回鶻は再三の大功があり、今は隣国に破られて部落は離散し、行き場を失って遠く天子を頼ってきた。塞を犯すこともない。その窮地に乗じて撃つのは筋が通らぬ。使者を送って鎮撫し、糧を運んで与えるべきだ。漢の宣帝が呼韓邪を服属させたのはこの方法だ」。陳夷行が「それこそ寇に兵を貸し盗に糧を与えるものだ」と反論すると、徳裕は「吐谷渾らはそれぞれ部落を持ち、利があれば争って進むが不利と見れば鳥獣のように散って巣穴に帰る。死守して国家のために働くはずがない。今、天徳城の兵はわずか千余、戦って不利になれば城は必ず落ちる。恩義で撫して安んじれば必ず患いにはならぬ。仮に辺境を侵しても諸道の大兵を徴して討つべきで、天徳一城だけに撃たせてよいものか」と述べた。
  • 鴻臚卿の張賈が巡辺使として回鶻の実情を探りに出たがまだ戻らぬうち、武宗が「嗢没斯らの降伏は信じられるか」と問うと、徳裕は「朝廷の人間ですら保証しかねます、まして数千里外の戎狄の心を。ただし彼らを叛将と呼ぶのは当たりません。可汗が国にありながら衆を率いて来たのなら体面上受け入れられませんが、今その国は乱れて主がなく、将相は逃散して吐蕃や葛邏禄に走り、この一支だけが遠く大国を頼ったのです。その上表の言葉は切迫し懇切で、どうして叛将と言えましょう。嗢没斯らは昨年九月に天徳へ来ており、烏介が立ったのは今年二月ですから、そもそも君臣の分がありません」と答え、河東・振武に厳重な守備を命じて備え、城鎮を攻めてきた場合にのみ武力で駆除する、吐谷渾らへの小規模な略奪は当事者同士の報復に任せて官軍は助けない、田牟・韋仲平には功を焦って事を起こさぬよう命じるべきだ、と献策した。辛酉、田牟に将士と雑虜を抑えて回鶻に先に手を出させぬよう詔が下り、九月戊辰朔には河東・振武に厳戒の詔が下った。田牟は田布の弟である。
  • 李徳裕は使者を送って回鶻を慰撫し、糧三万斛を賜与するよう請うた。武宗が迷い、閏月己亥に延英殿で議したとき、陳夷行は控えの間でしきりに「盗に糧を与えるものだ」と唱えたが、徳裕は「今は徴兵が集まらず天徳は孤立無援。この糧で飢えた虜を宥めて静穏を保たずに、万一天徳が陥落したら責めは誰が負うのか」と反論し、夷行は帝の前ではもう何も言えなかった。武宗は穀二万斛の賑給を許した。
  • 冬十一月、李徳裕は「回鶻が破れた今、太和公主の所在が分からない。使者を送って尋ねなければ、戎狄は唐が降嫁させた公主を惜しんでいないと考える。公主にも背き虜情も損ねることになる。通事舎人の苗縝に詔書を持たせて嗢没斯のもとへ遣わし、公主に取り次がせるとともに、嗢没斯の逆順の心も測るべきだ」と上言し、容れられた。
  • 黠戛斯は回鶻を破った際に太和公主を得たが、自らを李陵の後裔で唐と同姓だとして、達干十人に公主を送らせた。烏介可汗は兵で待ち伏せて達干を皆殺しにし、公主を人質として磧を南に渡り、天徳軍の境に駐屯した。公主は使者を送って可汗の即位を伝え冊命を求め、烏介もまた上表して「公主を住まわせるために振武の城を一つ貸してほしい」と求めた。
  • 十二月庚辰、右金吾大将軍の王會らを慰問に遣わし、米二万斛を賑給した。烏介可汗への勅書では、部衆を率いて次第に旧領を回復すべきで塞垣にさすらうのは得策でないこと、城を貸す例は前代になく、別の地に移って大国の支援を求めるにしてもまず漠南に駐まるべきこと、公主の入朝を許して直接事情を聞くつもりであること、必要な支援は惜しまぬことを諭した。

會昌二年(842年・嗢没斯の帰順と烏介の侵掠)

  • 春正月、回鶻が天徳・振武の北境に屯していることから、兵部郎中の李拭(李鄘の子)を巡辺使として将帥の能否を調べさせた。
  • 二月、河東節度使の符澈が杷頭烽の旧戍を修復して回鶻に備え、李徳裕は増兵と東・中の二受降城の修築を奏請して天徳の態勢を強化した。回鶻はまた糧を求め、吐谷渾・党項に掠められた分の調査と振武城の借用を求めたが、内使の楊観を送り、城は貸せぬがそれ以外は応じると諭した。
  • 三月戊申、巡辺から戻った李拭が振武節度使の劉沔を威略ありと評したので、庚申に病中の符澈に代えて劉沔を河東節度使とし、金吾上将軍の李忠順を振武節度使とした。将作少監の苗縝を烏介可汗の冊命に遣わすこととし、ゆっくり進んで河東に留まり可汗の位が定まってから進ませることにしたが、可汗がしきりに辺境を侵したため縝はついに行かなかった。
  • 嗢没斯は赤心が狡猾で心が読めないとして、先に田牟に「赤心が塞を犯す計画だ」と告げ、赤心と僕固を誘い出して殺した。那頡啜は赤心の衆七千帳を収めて東へ走り、河東は回鶻の兵が横水で兵民を殺掠し釈迦泊の東へ退屯したと奏した。李徳裕は「釈迦泊は可汗の帳から西へ三百里、この兵が那頡の部か可汗の派遣かは不明。ひとまず可汗の指揮を受けず勝手に辺境を掠めた兵と決めつけ、劉沔・武仲先に密詔してこれを討たせれば名分も立つ。この一支を挫けば可汗も自ら恐れよう」と上言した。
  • 夏四月庚辰、天徳都防禦使の田牟が朝旨を待たず三千の兵を出して回鶻を防いだと奏した。壬午、李徳裕は「田牟は兵を全く知らない。戎狄は野戦に長け攻城に短い。牟は堅守して諸道の兵の集結を待つべきなのに、全軍で出撃して万一敗れれば城は空になり、どう守るのか。急ぎ中使を送って止めよ。すでに交戦していれば、雲州・朔州・天徳一帯の羌渾に出兵させて奮撃させ、鹵獲は自由に取らせよ。回鶻は流離二年で糧が尽き人心も動きやすい。田牟に降者を招いて糧を与え太原へ送らせ、天徳に留めてはならぬ。嗢没斯の誠偽は不明だが、早く官賞を加えるべきだ。不誠実でも十分な反間になるし、その忠義を奨めれば討伐の名分になり、遠近の諸蕃に、責めるのは順に背いた可汗であって回鶻を滅ぼし尽くす意図ではないと知らせられる。石雄は無敵の戦上手なので、天徳都団練副使として田牟の用兵を補佐させたい」と奏し、いずれも容れられた。石雄は太和年間、河西の党項が辺を騒がせたとき文宗に白州から召されて振武軍の裨将となり、しばしば戦功を立てながら王智興との経緯で昇進が滞っていた人物で、ここで徳裕に抜擢された。
  • 甲申、嗢没斯が特勒・宰相ら千二百余人を率いて降った。五月戊申、鴻臚卿の張賈を安撫に遣わし、嗢没斯を左金吾大将軍・懐化郡王とし、次席の酋長にも官賞を与え、部衆に米五千斛・絹三千匹を賜った。
  • 那頡啜は衆を率いて振武・大同の東から室韋・黒沙を経て南下し雄武軍へ向かい、幽州をうかがった。盧龍節度使の張仲武は弟の仲至に三万の兵を与えて迎撃させ、大破して斬首・捕虜は数知れず、七千帳をことごとく降して諸道に分配した。那頡啜は烏介可汗のもとへ逃げたが、捕えられて殺された。
  • このころ烏介の衆は減ったとはいえなお十万と称し、大同軍の北・閭門山に牙を駐めていた。楊観が回鶻から戻ると、可汗は上表して糧食と牛羊を求め、あわせて嗢没斯らの引き渡しを要求した。詔ではこう答えた——糧は馬代で振武にて三千石を自ら買い付けるがよい。牛は農耕の資であり中国では屠殺を禁じている。羊は中国では少なく北辺の雑虜から出るもので、国家が徴発したことはない。嗢没斯は本国が破れた当初に塞下へ来て、可汗に従わぬまま二年になる。猜疑を恐れ窮迫して帰命したのだ。前の可汗はまさに猜疑と虐待で親しむ者を失い、内は離れ外は叛いた。今、可汗は地を失って遠く客居する身、なおさら前非を改めるべきで、また骨肉相残すれば可汗の側近も誰一人身の安全を保てまい。朕は兼愛を務めてすでにその降伏を受けた。可汗に対しては恩慈を失わず、朝廷に対しては信義を欠かない。両全ではないか。
  • 六月甲申、入朝した嗢没斯の部を帰義軍とし、嗢没斯を左金吾大将軍・軍使とした。秋七月、嗢没斯は家族を太原に置き、弟たちとともに辺境防衛に力を尽くしたいと願い出て、劉沔にその家族を保護させた。
  • 烏介可汗はまた相を送って上表し、復国のための借兵と天徳城の借用を求めたが許されなかった。可汗は天徳・振武の間を往来して羌渾を掠め、杷頭烽の北に屯し、朝廷が再三漠南へ戻るよう諭しても従わなかった。李徳裕は「那頡啜が山北に屯しているうちは、烏介は奚・契丹と結んで挟撃されるのを恐れて塞下を離れられない。張仲武に命じ、奚・契丹を諭して回鶻とともに那頡啜を滅ぼさせ、北へ帰れるようにすべきだ」と考えた。しかし那頡啜が死んでも可汗は去らず、馬代を待っているのだという議に従って全額支払っても、やはり去らなかった。
  • 八月、可汗は衆を率いて杷頭烽の南を越え大同川に突入し、河東の雑虜の牛馬数万を奪い、転戦して雲州の城門まで迫った。刺史の張献節は城を閉じて守り、吐谷渾・党項は家族を連れて山に避難した。庚午、陳・許・徐・汝・襄陽などの兵を太原・振武・天徳に屯させ、翌春の回鶻駆逐に備えるよう詔した。
  • 丁丑、嗢没斯とその弟の阿歴支・習勿啜・烏羅思にいずれも李姓を賜り、思忠・思貞・思義・思礼と名づけ、国相の愛邪勿には愛姓に弘順の名を与え、弘順を帰義軍副使とした。
  • 回鶻の石戒直を帰国させて可汗に賜った書ではこう諭した——貴国が黠戛斯に破られて辺境に投じて以来、撫養に尽くさぬところはなかった。それなのに今なお塞近くに留まって帰蕃を議せず、雲州・朔州を侵し羌渾の諸部を掠めている。遠くその意を測れば姻戚の情を恃んでいるようだが、行いを見ればまさしく突入の計を抱いている。内外の将相は皆誅伐を請うている。朕は深く己を屈して他人の災いを喜ぶに忍びない。可汗は速やかに良策を選び、後悔を残すな。
  • さらに李徳裕に劉沔の名で回鶻の相・頡干迦斯への返書を作らせ、こう述べさせた——遠来して身を寄せる以上、呼韓邪に倣って子を人質に差し出し自ら入朝し、太和公主を太皇太后に拝謁させて憐れみを乞うべきだ。そうすれば我らの救恤も心置きなく行える。ところが辺城を睨みつけ驕慢に振る舞い、法外な要求をして本国にいるかのようだ。しかも辺境に深く入って侵掠をやめない。援助と好誼を求める者のすることか。来書には「胡人は動きやすく安んじにくい、怒らせれば抑えがきかぬ」とあるが、回鶻は黠戛斯に破られ、挙国の将相の骸は野に棄てられ、累代の可汗の墳墓は天涯に隔てられている。その怒りをそちらに向けず、仁義を捨てて中華で憂さを晴らすなど、天地の神々が許すはずがない。かつて郅支は大漢に仕えず、ついに滅んだ。この戒めを忘れるな。
  • 戊子、李徳裕らは「先の詔どおり河東など三道が厳戒して来春の駆逐を待つなら、回鶻の人馬が疲弊し、官軍も厳寒を避けられる。その場合、幽州の兵は本道に留めて詔命を待たせるべきだ。もし黄河が結氷して回鶻がまた突入すると懸念し早期駆逐が必要なら、寒気が来る前の数日のうちに決断し、河朔の兵を河東に加えて二か月で片をつけねばならない。外の議論が紛々としている以上、群情を一度問わねば浮説に振り回される。公卿に集議させたい」と上言し、詔が下った。議者の多くは来春を待つべきだとした。
  • 九月、劉沔に招撫回鶻使を兼ねさせ、駆逐が必要なら諸道の行営兵を指揮させることとした。張仲武を東面招撫回鶻使とし、当道の行営兵と奚・契丹・室韋らを自ら指揮させ、李思忠を河西党項都将・回鶻西南面招討使として、いずれも太原に集結させ、劉沔を鴈門関に屯させた。
  • もともと奚・契丹は回鶻に羈属し、それぞれ監使が置かれて毎年の貢賦を督し唐の情勢を探っていた。張仲武は牙将の石公緒に二部を統べさせ、回鶻の監使ら八百余人をことごとく殺した。仲武は那頡啜を破った際に室韋酋長の妻子を捕えており、室韋が金帛・羊馬で贖おうとしても受けず、「回鶻の監使を殺せば返す」とだけ言った。
  • 癸卯、李徳裕らは「河東の奏事官孫儔がちょうど到着し、回鶻が営を四十里南へ移したと言う。劉沔は、これは契丹が同調しないため掩襲を恐れてのことだと見ている。この情勢はまさに駆除の好機だ。臣らが孫儔に、幽州と合勢して回鶻を追うにはあとどれだけ兵が要るかと尋ねると、多くは要らぬ、ただ大同の兵が少ないので易定の千人を助けに出せば足りると答えた」と奏し、いずれも容れられ、河東・幽州・振武・天徳がそれぞれ大兵を出し、営を前進させて回鶻を追うよう詔が下った。
  • 李思忠が契苾・沙陀・吐谷渾の六千騎と合勢して回鶻を撃つことを願い出、乙巳、銀州刺史の何清朝と蔚州刺史の契苾通に河東の蕃兵を分け率いさせ、振武で李思忠の指揮を受けさせた。契苾通は契苾何力の五世孫である。
  • 冬十月、黠戛斯が将軍の踏布合祖らを天徳軍へ送り、「先に都吕施合らに公主を大唐へ送らせたが、今に至るも音信がない。届いたのか、奸人に阻まれたのか分からない。今、兵を出して天に昇り地に潜っても必ず捜し出す」と述べ、さらに合羅川へ移って回鶻の故地に住むつもりであること、すでに安西・北庭・達靼など五部落を得たことを伝えた。
  • 十一月辛卯朔、昭義節度使の劉従諌が歩兵五千での回鶻討伐を願い出たが許されなかった。
  • 武宗は太和公主に冬衣を賜り、李徳裕に書を作らせた。その大意——先朝は愛を割いて婚を降し、義は家と国を安んじるためであった。回鶻なら侮りを禦ぎ塞垣を静穏に保てると考えたからだ。今の回鶻の行いはまるで道理に外れ、馬首は常に南を向く。高祖・太宗の威霊が畏れられぬのか。太皇太后の慈愛を思わぬのか。その国母である以上、指揮はできるはず。回鶻が命を受けぬなら姻好を絶ったも同然、今後は姑を口実にすることは許さない。
  • 十二月、李忠順が回鶻を撃破したと奏した。

會昌三年(843年・殺胡山の夜襲と公主帰還)

  • 春正月、烏介可汗が衆を率いて振武に迫った。劉沔は麟州刺史の石雄と都知兵馬使の王逢に、沙陀の朱邪赤心の三部および契苾・拓跋の三千騎を率いさせて牙帳を襲わせ、自らは大軍で続いた。
  • 石雄は振武に至って城に登り回鶻の兵力を望み、氈車数十乗の従者が朱碧の衣で唐人風なのを見て、諜者に問わせると「公主の帳だ」と分かった。雄は諜者を通じて「公主にとってここは実家です。帰路を求めるべきときです。これから可汗を撃ちますので、侍従とともに身を守り、車を動かさずにいてください」と伝えた。
  • 雄は城壁に十余の穴を穿ち、夜、兵を出して可汗の牙帳を直撃した。帳下に迫るまで虜は気づかず、可汗は仰天して為すすべなく輜重を棄てて逃げた。雄が追撃し、庚子、殺胡山で回鶻を大破した。可汗は傷を負って数百騎とともに逃亡。雄は太和公主を迎えて帰り、斬首は一万級、降った部落は二万余人に及んだ。丙午、劉沔の捷報が届いた。
  • 李思忠は入朝すると、回鶻の降将として辺将の猜疑を恐れ、弟の思貞らと愛弘順ともども朝廷に留まりたいと願い出て、許された。
  • 烏介可汗は黒車子族のもとへ逃れて身を寄せ、その潰兵の多くは幽州に降った。
  • 二月辛未、黠戛斯が使者の注吾合索を送って名馬二頭を献じ、太僕卿の趙蕃に饗応させた。甲戌、引見の席で渤海の使者より上位に置いた。武宗は趙蕃に黠戛斯から安西・北庭を求めさせようとしたが、李徳裕らは「安西は京師から七千余里、北庭は五千余里。仮に得たとしても都護府を再置し唐兵一万を戍らせねばならぬが、その兵をどこから徴発し、輸送路をどこに通すのか。実費を払って虚名を買うようなもので策ではない」と上言し、武宗は取りやめた。
  • 黠戛斯が冊命を求めると、李徳裕は好誼を結び、自ら兵を出して使者殺害の罪人を求めさせ黒車子を討たせるべきだと奏した。武宗は可汗の号を与えれば臣礼を修めず、回鶻の先例に倣って歳賜や馬の売りつけを求めてくるのではと躊躇したが、徳裕は「黠戛斯はすでに自ら可汗を称している。今その力を借りたい以上、この名を惜しむべきではない。回鶻には安史の乱を平らげた功があったからこそ毎年絹二万匹を賜り和市も行った。黠戛斯には中国への功がなく、いきなり賂遺を求められるはずがない。臣礼を守らぬのが心配なら、回鶻同様に臣を称するなら冊命を行うと約せばよい。また同姓の由来を述べて親しみを示し、子孫の礼を執らせるべきだ」と述べ、これが容れられた。
  • 庚寅、太和公主が長安に到着し、安定大長公主と改封された。詔により宰相が百官を率いて章敬寺前で迎謁。公主は光順門で盛装を脱ぎ簪珥を外し、回鶻が恩に背き和親を全うできなかった罪を謝した。中使が慰めの言葉を伝えてから入宮した。陽安ら六公主が慰問に来なかったため、俸物と封絹を罰として徴収した。
  • 三月、太僕卿の趙蕃を安撫黠戛斯使とし、李徳裕に黠戛斯可汗への詔書を起草させた。その内容——貞観二十一年に黠戛斯の先君が自ら入朝し、左屯衛将軍・堅昆都督を授かり、天寶に至るまで朝貢が絶えなかった。近ごろ回鶻に隔てられ、回鶻は諸蕃を虐げてきた。可汗が讎を報じ怨みを雪いだ功業と気概は近古に比類ない。今、回鶻の残兵は千人に満たず山谷に散っているが、すでに仇敵となった以上は殲滅すべきで、燃え残りを留めれば必ず後患となる。また可汗の氏の由来はわが族と同じと聞く。国家は北平太守の後、可汗は都尉の末裔であるから、族を合わせれば尊卑も知れよう。今、可汗を冊命し美号を加えたいが、可汗の意がまだ分からぬのでまず心を伝え、趙蕃の帰還後に別途使者を立てて礼を尽くす。
  • 回鶻が塞上に来て以降、また黠戛斯の入貢以来、詔勅の多くを武宗は徳裕に起草させた。徳裕が翰林学士に委ねるよう請うと、武宗は「学士では人の意を尽くせぬ。そなた自身が書くべきだ」と言った。
  • 劉沔は、帰義軍の回鶻三千余人と酋長四十三人が、諸道への分属の詔に対し大声で叫んで営を連ね、呼沱河に拠って命に従わなかったので、ことごとく誅したと奏した。幽州に降った回鶻は前後三万余人、いずれも諸道に分けて配属された。
  • 六月、黠戛斯可汗が将軍の温仵合を送って入貢し、武宗は書を賜って回鶻と黒車子を速やかに平定すれば使者を送って冊命すると諭した。
  • 秋七月、刑部侍郎兼御史中丞の李回を河北三鎮の宣慰に遣わし、幽州に秋のうちに回鶻を平らげるよう命じた。

會昌四年(844年)

  • 春三月、黠戛斯が将軍の諦徳伊斯難珠らを入貢させ、回鶻の牙帳へ移り住みたいとして出兵の時期と集会の地を求めた。武宗は詔を賜り、今秋に可汗が回鶻・黒車子を撃つ際には幽州・太原・振武・天徳の四鎮に要路へ出兵させて逃走を遮らせ、そのうえで冊命を行い、すべて回鶻の先例に従うと諭した。
  • 朝廷は回鶻の衰微と吐蕃の内乱を見て、河湟の四鎮十八州の回復を議し、給事中の劉濛(劉晏の孫)を巡辺使として、器械・糧食の準備と吐蕃の守備兵力の偵察に当たらせ、天徳・振武・河東に練兵を命じ、今秋黠戛斯が回鶻を撃つ際に南下する潰兵の処置は劉濛と節度使・団練使が協議して報告することとした。
  • 秋九月、李徳裕は「幽州の奏事官によれば、回鶻は上下の心が離れ、可汗は安西へ行こうとするが部落は『親戚は皆唐にいる、唐に帰るに越したことはない』と言っているという。室韋とも仲違いしており、遠からず降るか自壊するだろう。心得た中使を送り張仲武に詔を賜り、鎮・魏はすでに平らぎ昭義も片づいた、残るは回鶻だけだ、仲武はなお北面招討使を帯びているのだから早く功を立てよ、と諭すべきだ」と奏した。

會昌五年〜六年(845-846年)

  • 五年夏四月壬寅、陝虢観察使の李拭を冊黠戛斯可汗使とし、五月に黠戛斯可汗を宗英雄武誠明可汗として冊立した。
  • 六年、烏介可汗の衆は次々に離散し、国相の逸隠啜が金山で烏介を殺して弟の特勒遏捻を可汗に立てた。
  • 黠戛斯可汗の冊立使は国喪のため出発せず、「僻遠の小国と対等に構えるには及ばない」「回鶻がまだ平らいでいないのに急いで冊立すべきでない」との意見もあり、百官の集議に付されたが、結局この件は沙汰止みとなった。

宣宗大中元年〜二年(847-848年・回鶻の消滅)

  • 大中元年春二月庚午、盧龍節度使の張仲武にたびたび回鶻を破った賞として同平章事を加えた。夏五月、仲武は諸奚を大破。六月、鴻臚卿の李業を冊黠戛斯英武誠明可汗使とした。
  • 二年、遏捻可汗は奚王の石舎郎に食を仰いでいたが、張仲武が奚を大破したため回鶻は食を得られず日ごとに衰え、残る貴臣以下は五百人に満たず、室韋を頼っていた。年賀の使者が幽州を通ったとき、仲武は遏捻らを引き渡すよう求めさせた。これを聞いた遏捻は夜、妻の葛禄・子の特勒毒斯ら九騎で西へ逃げ、追った残衆も追いつけず、皆で大いに哭した。室韋は回鶻の衆を七つに分け、七姓で分有した。三日後、黠戛斯が相の阿播に諸胡の兵七万と号する軍を率いさせて回鶻を引き取りに来て、室韋を大破し、回鶻の残衆をことごとく収めて磧北へ帰った。なお数帳が山林に潜んで諸胡を掠める程度が残った。その別部の厖勒は先に安西にあって自ら可汗を称し、甘州に居て磧西の諸城を統べたが、種落は微弱で、時おり入朝献見するにとどまった。

大中十年〜十一年(856-857年)

  • 十年春三月辛亥、詔を下してこう述べた——回鶻は国に功があり代々婚姻を結び、臣を称し貢を奉じて北辺に警がなかった。會昌年間に虜廷が喪乱し可汗は逃亡したが、折しも奸臣が政柄を握って一挙に殄滅を図った。近ごろ降者があり、龎歴なる者が今は可汗となって安西に寓しているという。牙帳に復帰したなら冊命を加えるべきである。
  • 冬十月、使者を安西へ遣わして回鶻を鎮撫させたが、使者が霊武に至ったとき、折よく回鶻可汗の入貢使が来た。十一月辛亥、嗢禄登里羅日没密施合俱録毗伽懐建可汗として冊立し、衛尉少卿の王端章を使者とした。
  • 十一年冬十月、王端章は冊立に赴いたが黒車子に道を塞がれて到達できず引き返し、辛卯に賀州司馬に貶された。

懿宗咸通四年〜七年(863-866年)

  • 四年秋八月、黠戛斯が臣の合伊難支を送り、経籍を求め、毎年使者を馳せて暦を請いたいと上表した。また回鶻を討って安西以東をすべて唐に帰したいと申し出たが、許されなかった。
  • 七年冬十二月、黠戛斯が将軍の乙支連幾を入貢させ、鞍馬を送って冊立使を迎えたい旨と、亥年の暦日を請う旨を奏した。

僖宗乾符元年(874年)

  • 回鶻がしきりに冊命を求めたので、冊立使として郗宗莒をその国へ遣わす詔が下った。ところが折しも回鶻は吐谷渾の嗢末に破られて逃亡し、行方が分からなくなった。詔により宗莒は玉冊と国信を霊塩節度使の唐弘夫に預けて保管させ、京師へ帰った。