通鑑紀事本末憲宗、淮蔡を平定する(呉元済/徳宗の呉少誠討伐を付す)(憲宗平淮蔡)
陳仙奇を殺して淮西に拠った呉少誠から、子と称された呉少陽、その子の呉元済まで、蔡州の三州が朝命を拒み続けた三十余年の顛末。徳宗期の韓全義の討伐は大敗して赦免に終わり、憲宗は武元衡暗殺の危機を越えて裴度を宰相に据え、自ら行営へ送り出して諸将の心を一つにした。李愬が雪の夜に七十里を駆けて蔡州を奇襲し、呉元済を擒にして平定した。徳宗貞元二年(786年)から憲宗元和十二年(817年)までの32年間。
年表(9件)
- 徳宗
- 貞元二年――呉少誠の自立786年呉少誠が陳仙奇を殺して淮西留後となる
- 貞元三年――淮西の精兵787年叛いて帰る騾軍が李泌らに撃たれ、少誠は判官の鄭常らを殺す
- 貞元十三年〜十五年(797–)――少誠の侵犯と討伐799年少誠が唐州・臨潁を掠めて官爵を削られ、諸軍が小溵水で自ら潰える
- 貞元十六年〜十七年(800–)――韓全義の敗北801年招討使の韓全義が五楼で大敗し、少誠は赦されて官爵を復す
- 順宗
- 永貞元年805年彰義節度使の呉少誠に同平章事を加える
- 憲宗
- 元和四年〜九年(809–)――呉少陽・呉元済814年少誠・少陽が相次いで死に、呉元済が喪を隠して自立し四方を掠める
- 元和十年――武元衡の暗殺と裴度の入相815年刺客が武元衡を殺し裴度を傷つけるが、憲宗は裴度を宰相として討伐を急ぐ
- 元和十一年――高霞寓の大敗816年高霞寓が鉄城で大敗し、代わって李愬が唐随鄧節度使となる
- 元和十二年――李愬の雪夜入蔡817年李愬が雪夜に蔡州を襲って呉元済を擒にし、淮西が平定される
徳宗貞元二年(786年)――呉少誠の自立
- 淮西兵馬使の呉少誠が陳仙奇を殺して自ら留後となった。少誠はもとより狡猾で険しく、李希烈に寵任されていたので、その仇を報いたのである。七月己酉、虔王の諒を申・光・随・蔡節度大使とし、少誠を留後とした。
貞元三年(787年)――淮西の精兵
- はじめ李希烈が淮西に拠っていたとき、騎兵でとりわけ精鋭な者を選んで左右門槍・奉国の四将とし、歩兵でとりわけ精鋭な者を左右克平の十将とした。淮西は馬が少なく、精兵はみな騾馬に乗ったので、これを騾軍と呼んだ。
- 陳仙奇が淮西を挙げて降ってわずか数か月、詔してその兵を京西の防秋に発した。仙奇は都知兵馬使の蘇浦に淮西の精兵五千をことごとく率いさせて行かせた。折しも仙奇が呉少誠に殺された。少誠はひそかに人を遣わして門槍兵馬使の呉法超らを召び、兵を率いて帰らせた。浦はこれを知らなかった。
- 法超らが歩騎四千を率いて鄜州から叛いて帰ろうとした。帝は急ぎ中使を遣わして陝虢観察使の李泌に詔し、兵を発して防ぎ止め、黄河を渡らせぬよう命じた。泌は押牙の唐英岸に兵を率いさせて迎え撃たせた。賊衆は大敗し、その騾軍兵馬使の張崇献を捕らえた。英岸は追って永寧の東に至り、賊はみな潰えて山谷に入った。呉法超はその衆を率いて長水へ向かったが、都将の燕子楚が撃って法超を斬り、その士卒の三分の二を殺した。
- 帝は汴州刺史の劉玄佐に詔書を持たせて道沿いで誘わせ、百三十余人を得たが、汴州に至るとことごとく殺した。その潰兵は道中でまた村民に殺され、蔡に着けたのはわずか四十七人であった。呉少誠はその数が少ないのを見てことごとく斬り、そのうえで奏聞し、あわせて使者に幣を持たせて李泌に礼を述べた。叛卒を破ってくれたからである。泌は張崇献ら六十余人を京師に送り、詔してことごとく鄜州の軍門で腰斬し、防秋の衆に令とした。
- 夏五月、申蔡留後の呉少誠は兵を整え城を修めて朝命を拒もうとした。判官の鄭常と大将の楊冀が逐うことを謀り、手詔を偽って諸将に賜り、申州刺史の張伯元らに事を起こさせようとした。事が漏れ、少誠は常・冀・伯元を殺した。大将の朱旻と曹済は長安へ走った。
貞元十三年〜十五年(797–799年)――少誠の侵犯と討伐
- 貞元十三年(797年)冬十月、淮西節度使の呉少誠が勝手に刀溝を開いて汝に入れた。帝は中使を遣わして止めるよう諭したが従わない。兵部郎中の盧群が赴いて詰問すると、少誠は「この水を開けば人に大いに利がある」と言った。群は言った。「君が令して臣が行う。人に利があるからといって、臣が専断できましょうか。公は天子の令を承けながら従われぬ。何をもって下吏に公の令を従わせるのですか」。少誠はただちに工事をやめた。
- 貞元十四年(798年)秋九月、彰武節度使の呉少誠が兵を遣わして寿州の霍山を掠め、鎮遏使の謝詳を殺し、二十余里の地を侵して兵を置いて守らせた。
- 貞元十五年(799年)春三月甲寅、呉少誠が兵を遣わして唐州を襲い、監軍の邵国朝、鎮遏使の張嘉瑜を殺し、百姓千余人を掠めて去った。
- 秋八月丙申、陳許節度使の曲環が薨じた。乙未、呉少誠が兵を遣わして臨潁を掠めた。陳州刺史の上官涗が陳許留後を知り、大将の王令忠に兵三千を率いさせて救わせたが、みな少誠に捕らえられた。丙午、涗を陳許節度使とした。
- 少誠はそのまま許州を囲んだ。涗は城を棄てて逃げようとしたが、営田副使の劉昌裔が止めて言った。「城中の兵で賊に当たれます。ただ城を閉ざして戦わなければ、数日で賊の気は自ずと衰えます。我らが万全をもってその疲れを制すれば、落とせぬはずがありません」。少誠が昼夜急攻すると、昌裔は勇士千人を募って城を穿って出撃させ、少誠を大破した。城はこれによって全うされた。昌裔は兗州の人である。
- 少誠はまた西華を侵したが、陳許の大将の孟元陽が拒み退けた。陳許都知兵馬使の安国寧は上官涗と折り合いが悪く、城を翻して少誠に応じようと謀った。劉昌裔は計を用いて斬り、その麾下を召んで一人に絹二匹を給し、要所の路地に兵を伏せて、絹を持つ者を見つけるとことごとく斬り、一人も逃さなかった。
- 丙辰、詔して呉少誠の官爵を削奪し、諸道に兵を進めて討たせた。
- 辛酉、韓弘を宣武節度使とした。これより先、少誠は使者を遣わして宣武節度使の劉全諒と、ともに陳許を攻めて陳州を宣武に帰することを約していた。使者は幾人も館に留まっていたが、弘はことごとく引き出して斬り、卒三千を選んで諸軍と会して許下で少誠を撃った。少誠はこれによって勢いを失った。
- 山南東道節度使の于頔、安黄節度使の伊慎、知寿州事の王宗が上官涗・韓弘とともに進んで呉少誠を撃ち、しばしば破った。十一月壬子、于頔が呉房・朗山を抜いたと奏した。
- 呉少誠を討つ諸軍は統帥がなく、兵を出すたびに各自が利を図って進退が一致しなかった。乙未、諸軍は小溵水で自ら潰え、棄てた器械・資糧はみな少誠のものとなった。ここではじめて招討使を置くことが議された。
貞元十六年〜十七年(800–801年)――韓全義の敗北
- 貞元十六年(800年)春正月乙巳、恒冀・易定・陳許・河陽の四軍が呉少誠と戦い、みな利あらず退いた。
- 夏綏節度使の韓全義はもと神策軍の出で、中尉の竇文場に厚く愛され、帝に薦められて諸軍を統べて呉少誠を討つこととなった。二月乙酉、全義を蔡州四面行営招討使とし、十七道の兵はみな全義の節度を受けることとした。
- 韓全義はもとより勇も略もなく、もっぱら巧言と賄賂で宦官と結んで大帥となった者である。軍事を議するたびに監軍の宦官が数十人、帳中に坐って争論して紛糾し、決せぬまま散会した。天は次第に暑くなり、士卒は長く湿地に駐屯して多く疫病にかかったが、全義は撫でることをせず、人心は離れた。
- 五月庚戌、呉少誠の将の呉秀・呉少陽らと溵南の広利原で戦い、刃を交えたばかりで諸軍は大潰し、秀らが乗じてきた。全義は退いて五楼を保った。少陽は滄州清池の人である。
- 秋七月、呉少誠が進んで五楼の韓全義を撃ち、諸軍はまた大敗した。全義は夜逃げして溵水県城を保った。
- 九月癸丑、呉少誠が進んで溵水の数里手前まで迫って営を置いた。韓全義はまた諸軍を率いて退いて陳州を保った。宣武・河陽の兵は勝手に本道へ帰り、ただ陳許の将の孟元陽と神策の将の蘇光栄だけが部下を率いて溵水に留まった。
- 全義は偽って昭義の将の夏侯仲宣、義成の将の時昂、河陽の将の権文変、河中の将の郭湘らを誘って斬り、衆を威圧しようとした。全義が陳州に至ると、刺史の劉昌裔が城に登って言った。「天子は公に蔡州を討てとお命じになった。今ここへ来られたのだ。昌裔はお入れできません。城外にお泊まりください」。やがて昌裔が牛と酒を携えて全義の営に入って軍を犒うと、全義は驚き喜んで心服した。
- 己未、孟元陽らが少誠と戦って二千余人を殺した。冬十月、呉少誠は兵を率いて蔡州に還った。
- これより先、韋皋は諸軍が少誠を討って功がないと聞いて上言していた。「渾瑊と賈耽を元帥として諸軍を統べさせてください。元老を煩わすのが重すぎるとされるなら、臣が精鋭一万人で巴峡を下り荊楚に出て凶逆を翦りたい。さもなくば、その罪を請うのに乗じて赦し、両河の諸軍を罷めて公私を休ませるのも次善の策です。もし少誠が一朝にして罪が満ち悪が熟し、麾下に殺されたら、また彼にその爵位を授けることになる。これは一人の少誠を除いて一人の少誠を生むこと。患いは尽きません」。賈耽も帝に「賊の意も恩宥を望んでいるのでしょう。生きる路を開いてやる必要があるかと存じます」と言った。帝はそのとおりだと思った。
- 折しも少誠が官軍を監する者に書と幣を届けて雪冤を求めた。監軍が奏聞し、戊子、詔して少誠および彰義の将士を赦し、その官爵を復した。
- 貞元十七年(801年)春正月甲寅、韓全義が長安に至った。竇文場がその敗績を覆い隠したので、帝の礼遇は甚だ厚かった。全義は足の病で朝謁に堪えぬと称し、司馬の崔放を入朝させて対面させた。放が全義のために咎を引いて功のないことを謝すると、帝は言った。「全義は招討使として少誠を招き来せた。その功は大きい。人を殺してはじめて功となるとは限るまい」。閏月甲戌、夏州に帰った。
順宗永貞元年(805年)
- 春三月、彰義節度使の呉少誠に同平章事を加えた。
憲宗元和四年〜九年(809–814年)――呉少陽・呉元済
- 元和四年(809年)。はじめ呉少誠はその大将の呉少陽を寵し、従弟と名づけて軍職に就け、少誠の家に肉親のように出入りさせ、累進して申州刺史とした。少誠が病んで人事不省になると、家僮の鮮于熊児が少誠の命と偽って少陽を召び、副使を摂って軍州の事を知らせた。少誠には子の元慶があったが、少陽が殺した。十一月己巳、少誠が薨じ、少陽が自ら留後となった。
- 元和五年(810年)、帝は河朔でちょうど兵を用いており呉少陽を討てなかった。三月己未、少陽を淮西留後とした。
- 元和六年(811年)春正月甲辰、彰義留後の呉少陽を節度使とした。
- 元和九年(814年)閏八月丙辰、彰義節度使の呉少陽が薨じた。少陽は蔡州にあってひそかに亡命者を集め、馬と騾馬を養い、ときに寿州の茶山を掠めてその軍を充実させていた。その子で蔡州刺史を摂っていた元済は喪を隠して病と報告し、自ら軍務を領した。
- 帝は蜀を平らげたときから淮西を取ろうとしていた。淮南節度使の李吉甫が「少陽の軍中は上下が離れております。治所を寿州に移して経営させてください」と上言したが、折しも朝廷はちょうど王承宗を討っていて余裕がなかった。
- 吉甫が宰相となると、田弘正が魏博を挙げて帰順した。吉甫は、汝州は東都の楯であり、河陽に兵を駐屯させているのはもともと魏博を制するためだが、今、弘正が帰順した以上、河陽は内地の鎮であって重兵を屯して猜疑を示すべきではないと考えた。辛酉、河陽節度使の烏重胤を汝州刺史・河陽懐汝節度使として治所を汝州に移した。己巳、弘正に検校右僕射を加え、その軍に銭二十万緡を賜った。弘正は「わしは河陽の軍を移されたことほど嬉しいことはない」と言った。
- 九月庚辰、洺州刺史の李光顔を陳州刺史・忠武軍都知兵馬使とし、泗州刺史の令狐通を寿州防禦使とした。通は令狐彰の子である。丙戌、山南東道節度使の袁滋を荊南節度使とし、荊南節度使の厳綬を山南東道節度使とした。
- 呉少陽の判官の蘇兆・楊元卿、大将の侯惟清はみな少陽に入朝を勧めていた。元済はこれを憎み、兆を殺し惟清を囚えた。元卿は先に奏事のため長安にいたので、淮西の虚実および元済を取る策をことごとく李吉甫に告げ、討伐を請うた。
- 当時、元済はなお喪を隠していた。元卿は吉甫に、蔡の使者で入奏する者はみなその所在で止めるよう勧めた。少陽が死んで四十日近く、朝廷は輟朝せず、ただ蔡を取り巻く諸鎮の将帥を替えて兵を増やして備えさせた。元済は元卿の妻および四人の男子を殺し、その屍を的の土手にした。淮西の宿将の董重質は呉少誠の婿で、元済はこれを謀主とした。
- 李吉甫が帝に言った。「淮西は河北とは違い、四方に党援がありません。国家は常に数十万の兵を置いて備えており、労苦と費えは支えきれません。今取らなければ、後には図りがたくなります」。帝は討とうとしたが、張弘靖が、まず少陽のために輟朝して官を贈り、使者を遣わして弔い、彼に不順の跡が出るのを待ってから兵を加えるよう請うた。帝は従い、工部員外郎の李君何を遣わして弔祭させた。
- 元済は勅使を迎えず、兵を発して四方に出し、舞陽を屠り、葉を焼き、魯山・襄城を掠めた。関東は震え恐れ、君何は入れずに還った。
- 冬十月壬戌、忠武節度副使の李光顔を節度使とした。甲子、厳綬を申光蔡招撫使として諸道の兵を督して呉元済を招討させた。
元和十年(815年)――武元衡の暗殺と裴度の入相
- 呉元済が兵を放って侵掠し、東畿にまで及んだ。正月己亥、制して元済の官爵を削り、宣武など十六道に進軍して討たせた。
- 厳綬が淮西の兵を撃って小さく勝ったが、備えを設けなかった。淮西の兵が夜のうちに引き返して襲い、二月甲辰、綬は磁丘で敗れて五十余里退き、唐州に駆け込んで守った。寿州団練使の令狐通も淮西の兵に敗れて州城に逃げ込み、境上の諸柵はことごとく淮西に屠られた。癸丑、左金吾大将軍の李文通を代わりとし、通を昭州司戸に貶した。
- 詔して鄂岳観察使の柳公綽に兵五千を安州刺史の李聴に授けて呉元済を討たせようとした。公綽は「朝廷はわしを書生で兵を知らぬと思っているのか」と言い、ただちに奏して自ら行くことを請い、許された。
- 公綽が安州に至ると、李聴は弓袋と矢筒を身に着けて迎えた。公綽は鄂岳都知兵馬使と先鋒行営兵馬都虞候の二つの辞令を授け、卒六千を選んで聴に属させ、その部下の校尉に「行営の事は一切、都将が決する」と戒めた。聴は恩に感じ威を畏れ、まるで公綽の麾下から出たかのようであった。
- 公綽の号令は整い粛然として、軍事の処置に諸将で服さぬ者はなかった。行営にある士卒の家に病や死があれば厚く給し、妻が淫らな者は江に沈めた。士卒はみな喜んで「中丞が我らのために家を治めてくださる。我らがどうして前へ出て死なずにおれよう」と言った。ゆえに戦うたびにみな勝った。
- 公綽の乗る馬が馬丁を蹴り殺した。公綽は馬を殺してその祭りに供えるよう命じた。ある者が「馬丁が不注意だったのです。この良馬は惜しゅうございます」と言うと、公綽は「材は良くとも性が悪い。惜しむに足りぬ」と言い、ついに殺した。
- 三月庚子、李光顔が臨潁で淮西の兵を破ったと奏した。田弘正が子の布に兵三千を率いさせて厳綬の呉元済討伐を助けさせた。甲辰、李光顔がまた南頓で淮西の兵を破ったと奏した。
- 呉元済が使者を遣わして恒・鄆に救いを求めた。王承宗と李師道はしばしば上表して元済を赦すよう請うたが、帝は従わなかった。当時、諸道の兵を発して元済を討ちながら淄青には及ばなかったので、師道は大将に三千人を率いさせて寿春へ向かわせ、官軍の元済討伐を助けると言い触らしたが、実は元済の援けとするつもりであった。
- 師道はもとより刺客・姦人数十人を養って厚く資を給していた。その徒が師道に説いた。「兵を用いるのに急を要するのは糧の蓄えに勝るものはありません。今、河陰院に江淮の租賦が積まれております。ひそかに往ってこれを焼き、東都の悪少年数百を募って都市を劫かし宮闕を焼けば、朝廷は蔡を討つ暇もなく、まず腹心を救うことになります。これも蔡を救う一つの奇策です」。師道は従った。これよりいたるところで盗賊が起こった。
- 辛亥の暮れ、盗賊数十人が河陰転運院を襲って十余人を殺傷し、銭帛三十余万緡匹と穀二万余斛を焼いた。ここに至って人情は恐れおののき、群臣の多くが兵を罷めるよう請うたが、帝は許さなかった。
- 諸軍が淮西を討って久しく功がなかった。五月、帝は中丞の裴度を行営に遣わして宣慰させ、用兵の形勢を察させた。度は還って淮西は必ず取れる状況だと述べ、あわせて「諸将を見るに、ただ李光顔だけが勇にして義を知り、必ず功を立てられましょう」と言った。帝は喜んだ。
- 考功郎中・知制誥の韓愈が上言した。「淮西の三小州は疲弊困憊の余りをもって天下の全力に当たっております。その破敗は立って待てるほど。ただ知りがたいのは、陛下が決断されるかされぬかにあるだけです」。そのうえで用兵の利害を条陳した。
- 「今、諸道が発する兵はそれぞれ二、三千人で勢力は弱く、異郷に旅して賊とも互いに事情を知らず、風を望んで怯えております。将帥は客兵として遇するので待遇は薄く使い方は苛酷、あるいは隊伍を分割して兵と将が互いを見失い、心は孤立し意は怯えて功を立てにくい。しかもその本軍がそれぞれ支給せねばならず、道は遠く労費は倍します」。
- 「聞くところでは、陳・許・安・唐・汝・寿などの州で賊と接するところの村落の百姓はみな兵器を持ち戦闘に慣れ、賊の深浅を知っております。近ごろまだ処置がなくとも、自ら衣糧を備えて郷里を守ることを願っております。召募させれば、たちまち軍を成せましょう。賊が平らいだのちも農に帰らせやすい。どうか諸道の軍をことごとく罷め、土地の人を募って代えてください」。
- また言った。「蔡州の士卒もみな国家の百姓です。もし勢力が窮して悪をなせなくなった者に対しては、過度の殺戮は要りません」。
- 丙申、李光顔が時曲で淮西の兵を破ったと奏した。淮西の兵が朝、その塁に迫って陣を敷き、光顔は出られなかった。そこで自らその柵の左右を毀って騎を出して撃った。光顔は自ら数騎を率いてその陣を衝き、四度出入りした。賊はみなこれを見知って、矢がその身に集まること蝟の毛のようであった。その子が轡を取って止めると、光顔は刃を挙げて叱って去らせた。ここで人は争って死力を尽くし、淮西の兵は大潰して数千人が殺された。帝は裴度を人を知る者とした。
- 帝は李吉甫が薨じてから用兵の事をことごとく武元衡に委ねていた。李師道の養う客が師道に説いた。「天子が鋭意、蔡を誅されるのは元衡が賛成しているからです。ひそかに往って刺させてください。元衡が死ねば他の宰相はその謀を主る勇気がなく、争って天子に兵を罷めるよう勧めましょう」。師道はそのとおりだと思い、ただちに資を給して遣わした。
- 王承宗が牙将の尹少卿を遣わして奏事させ、呉元済のために遊説させた。少卿が中書に至って言葉が不遜だったので、元衡は叱って追い出した。承宗はまた上書して元衡を誹謗した。
- 六月癸卯、まだ夜の明けぬころ、元衡が入朝しようとして住む靖安坊の東門を出たところ、賊が暗中から突然現れて射た。従者はみな逃げ散り、賊は元衡の馬を執って十余歩行ってから殺し、その頭骨を取って去った。さらに通化坊に入って裴度を襲い、その頭を傷つけて溝の中に落とした。度は氈の帽子が厚かったので死なずに済んだ。従者の王義が後ろから賊を抱きかかえて大声をあげ、賊は義の腕を斬って去った。
- 京城は大いに驚いた。ここで詔して宰相の出入りに金吾の騎士を加え、弦を張り刃を露わにして護衛させ、通る坊の門では厳しく誰何させた。朝士は夜が明けぬうちはあえて門を出ず、帝が殿に出御しても長い間、朝班が揃わないことがあった。賊は金吾および府県に紙を残して「我らを急いで捕らえるな。我らはまずお前たちを殺す」と言ったので、捕吏はあえて急がなかった。
- 兵部侍郎の許孟容が帝に会って言った。「古来、宰相が道端に横たわって死んだのに盗賊が捕らえられなかったことはありません。これは朝廷の恥です」。そう言って涙を流し、中書に詣ってもまた涙を拭って、裴中丞を起こして宰相とし、大いに賊の党を捜索してその姦の源を究めることを奏請した。
- 戊申、詔して中外いたるところで捜索させ、賊を捕らえた者に銭一万緡と五品の官を賞し、あえて庇い隠す者は一族を誅すこととした。ここで京城は大捜索となり、公卿の家で二重壁や二重天井のある者はみな捜された。
- 成徳軍進奏院に恒州の卒の張晏ら数人がいて素行が定かでなく、多くの者が疑った。庚戌、神策将軍の王士則らが、王承宗が晏らを遣わして元衡を殺させたと告げた。吏が晏ら八人を捕らえ、京兆尹の裴武、監察御史の陳中師に取り調べさせた。癸亥、詔して王承宗の前後三度の表を百寮に示してその罪を議させた。
- 裴度は傷を病んで二十日臥した。詔して衛兵にその邸に宿らせ、中使の見舞いは絶えなかった。ある者が度の官を罷めて恒・鄆の心を安んずるよう請うと、帝は怒って言った。「もし度の官を罷めれば姦謀が成ったことになり、朝廷にはもはや綱紀がなくなる。朕は度一人を用いて二賊を破るに足りる」。甲子、帝は度を召して対面させ、乙丑、度を中書侍郎・同平章事とした。
- 度は上言した。「淮西は腹心の疾です。除かぬわけにはいきません。しかも朝廷はすでにこれを討っております。両河の藩鎮で跋扈する者はこれを見て高下を測りましょう。中途でやめてはなりません」。帝はそのとおりだと思い、用兵の事をことごとく度に委ね、賊の討伐をいよいよ急にした。
- はじめ徳宗は猜疑が多く、朝士で互いに往来する者があれば金吾がみな伺い察して奏聞したので、宰相は私邸で客に会えなかった。度は「今、寇盗がまだ平らがぬ以上、宰相は四方の賢才を招き延いてともに謀議すべきです」と奏し、はじめて私邸で客に会うことを請い、許された。
- 陳中師が張晏らを取り調べたところ、みな武元衡殺害を白状した。張弘靖はそれが事実でないと疑ってしばしば帝に言ったが、帝は聴かなかった。戊辰、晏ら五人を斬り、その党十四人を殺した。李師道の客はついにひそかに隠れて逃げ去った。
- 秋八月乙丑、李光顔が時曲で敗れた。
- はじめ帝は厳綬が河東にあって遣わした禆将の多くが功を立てたので、襄陽に鎮させ、あわせて諸軍を督して呉元済を討たせた。だが綬には他の才能がなく、軍に到った日に府庫を傾けて士卒に賜り、累年の蓄えが一朝にして尽きた。さらに厚く宦官に賄賂を贈って声援を得、八州の衆一万余を擁して境上に駐屯しながら、壁を閉ざして一年、尺寸の功もなかった。裴度がしばしばその軍に政がないと言った。
- 九月癸酉、韓弘を淮西諸軍都統とした。弘は自ら専らにすることを楽しみ、賊に倚って自らを重からしめようとして、淮西が速やかに平らぐことを願わなかった。
- 李光顔は諸将のなかで最も力戦していた。弘はその歓心を結ぼうとして、大梁城を挙げて探させ、一人の美婦人を得て歌舞と絲竹を教え、珠玉金翠で飾って値数百万銭とし、使者に届けさせた。使者はまず書を届けた。光顔はそこで大いに将士に饗応した。使者が妓を進めると、その容色は絶世で一座はみな驚いた。
- 光顔は使者に言った。「相公は光顔の旅暮らしを憐れんで美妓を賜った。ご恩はまことに深い。しかし戦士数万はみな家を棄てて遠く来て白刃を冒しております。光顔がどうして独り声色に楽しめましょうか」。そう言って涙を流し、座の者もみな泣いた。ただちに席上で厚く繒帛を使者に贈り、妓とともに返して言った。「光顔のために相公に篤くお伝えください。光顔は身を国に許し、逆賊とともに日月を戴かぬことを誓っております。死んでも二心はありません」。
- 冬十月、戸部侍郎の李遜を襄・復・郢・均・房節度使、右羽林大将軍の高霞寓を唐・随・鄧節度使とした。朝議で唐が蔡と接しているので、霞寓に専ら攻戦を事とさせ、遜には五州の賦を調えて糧を送らせることとした。
- 十一月、寿州刺史の李文通が淮西の兵を破ったと奏した。壬申、韓弘が諸軍に命じて合わせて淮西を攻めることを請い、従われた。李光顔と烏重胤が小溵水で淮西の兵を破ってその城を抜いた。
- 乙亥、厳綬を太子少保とした。盗賊が襄州の仏寺を焼き、軍の蓄えがことごとく失われた。京城では積んだ草を四郊に移して火に備えた。丁丑、李文通が固始で淮西の兵を破った。戊寅、盗賊が献陵の寝宮と永巷を焼いた。
- はじめ呉少陽は信州の人の呉武陵の名を聞いて賓友に招いたが、武陵は答えなかった。元済が反すると、武陵は書で諭した。「足下よ、部曲が自分を欺かぬなどと思われるな。人情は足下と同じである。足下が天子に叛くなら、人もまた足下に叛く。立場を替えて論ずれば、その情は分かろう」。
元和十一年(816年)――高霞寓の大敗
- 春三月、寿州団練使の李文通が固始で淮西の兵を破って𨫼山を抜いたと奏した。己卯、唐鄧節度使の高霞寓が朗山で淮西の兵を破って千余級を斬り、二つの柵を焼いたと奏した。
- 夏四月庚子、李光顔と烏重胤が陵雲柵で淮西の兵を破って五千級を斬ったと奏した。五月壬申、李光顔と烏重胤が陵雲柵で淮西の兵を破って二千余級を斬ったと奏した。
- 六月甲辰、高霞寓が鉄城で大敗し、かろうじて身を免れた。当時、淮西を討つ諸将は勝てば殺獲を誇張し、敗れれば隠していたが、ここに至って大敗して隠しきれなくなり、はじめて帝の耳に入った。中外は驚き愕いた。宰相が参内して帝に兵を罷めるよう勧めようとすると、帝は言った。「勝敗は兵家の常である。今はただ用兵の方略を論じ、将帥で任に堪えぬ者を察して替え、兵と食が足りぬ者を助けるだけのことだ。どうして一将の失利で急に罷兵を議せようか」。ここで独り裴度の言が用いられ、他の者で罷兵を言う者もやや静まった。己酉、霞寓は退いて唐州を保った。
- 帝が高霞寓の敗を責めると、霞寓は李遜の後方支援が届かなかったせいだと言った。秋七月丁丑、霞寓を帰州刺史に貶し、遜も恩王傅に左遷し、河南尹の鄭権を山南東道節度使、袁滋を彰義節度・申光蔡唐随鄧観察使として、唐州を治所とした。
- 壬午、宣武軍が郾城の衆二万を破って二千余人を殺し、千余人を捕虜としたと奏した。
- 九月乙酉、李光顔と烏重胤が呉元済の陵雲柵を抜いたと奏した。丁亥、光顔がまた石・越の二柵を抜いたと奏し、寿州が殷城の衆を破って六柵を抜いたと奏した。
- 淮西を討つ諸軍は九万近くあった。帝は諸将が久しく功のないことに怒り、冬十一月辛巳、知枢密の梁守謙に宣慰を命じ、そのままその軍を監させ、空名の告身五百通と金帛を授けて決死の士を励まさせた。庚寅、まず李光顔らに検校官を加え、そのうえで詔書で厳しく責め、功がなければ必ず罰すると示した。
- 辛卯、李文通が固始で淮西の兵を破って千余級を斬ったと奏した。
- 十二月、袁滋が唐州に至ると斥候を撤し、その兵を止めて呉元済の境を犯させなかった。元済がその新興柵を囲んでも、滋は言葉を低くして請うだけであった。元済はこれによってもう滋を意に介さなくなった。朝廷はこれを知り、甲寅、太子詹事の李愬を唐随鄧節度使とした。愬は李聴の兄である。
- はじめて淮潁水運使を置き、楊子院の米を淮陰から淮水を遡って潁水に入れ、項城から溵水に入れて郾城に運び、淮西を討つ諸軍に給した。汴の輸送に比べて七万余緡の費えを省いた。
元和十二年(817年)――李愬の雪夜入蔡
- 春正月甲申、袁滋を撫州刺史に貶した。
- 李愬が唐州に至った。軍中は敗戦の余りを承けて士卒はみな戦を憚っていた。愬はこれを知り、出迎える者に言った。「天子は愬が柔懦で恥を忍べると知って、お前たちを撫でさせるために遣わされたのだ。戦って攻め取ることは、わしの事ではない」。衆は信じて安んじた。
- 愬は自ら回って士卒の傷病者を見舞い、慰め恤み、威厳を事としなかった。ある者が軍政が粛然としていないと言うと、愬は言った。「わしが知らぬのではない。袁尚書はもっぱら恩恵で賊を懐けようとしたので、賊は侮っていた。わしが来たと聞けば必ず備えを増そう。それゆえ粛然としていないさまを示す。彼は必ずわしを懦弱と思って怠る。そうしてから図れるのだ」。淮西の人は高・袁の二帥を敗ったことがあり、愬の名位がもとより低いのを侮って、ついに備えなかった。
- 二月、李愬は蔡州を襲うことを謀り、上表して増兵を請うた。詔して昭義・河中・鄜坊の歩騎二千を給した。
- 丁酉、愬は十将の馬少良に十余騎を率いさせて巡邏させ、呉元済の捉生虞候の丁士良に遭遇して戦い、これを捕らえた。士良は元済の驍将で常に東辺の患いであったので、衆はその心臓を抉ることを請い、愬も許した。やがて召して詰問すると、士良は恐れる色がなかった。愬は「まことの丈夫だ」と言い、縄を解かせた。
- 士良は自ら言った。「もとは淮西の士ではありません。貞元中、安州に属して呉氏と戦って捕らえられ、死を覚悟しました。呉氏が私を釈して用いてくれたので、呉氏によって再び生きた。それゆえ呉氏父子のために力を尽くしたのです。昨日、力尽きてまた公に捕らえられ、やはり死を覚悟しました。今また公が生かしてくださる。どうか死を尽くして徳に報いさせてください」。愬はそこで衣服と器械を給し、捉生将に署した。
- 己亥、淮西行営が蔡州の古葛伯城を落としたと奏した。
- 丁士良が李愬に言った。「呉秀琳は三千の衆を擁して文城柵に拠り、賊の左腕となっております。官軍が近づけぬのは、陳光洽が謀主だからです。光洽は勇ですが軽率で、自ら出て戦うのを好みます。どうか公のために先に光洽を擒にさせてください。そうすれば秀琳はおのずと降りましょう」。戊申、士良は光洽を捕らえて帰った。
- 淮西は数年兵に苦しみ、倉廩を尽くして戦士に供したので、民の多くは食がなく、菱・芡・魚・鼈・鳥獣を採って食い、それも尽きた。連れ立って官軍に帰した者は前後五千余戸。賊も糧を消耗することを患って、もう禁じなくなった。庚申、詔して行県を置いてこれを収容し、県令を選んで撫養させ、あわせて兵を置いて守らせた。
- 三月乙丑、李愬は唐州から宜陽柵に駐屯を移した。
- 呉秀琳が文城柵を挙げて李愬に降った。戊子、愬は兵を率いて文城の西五里に至り、唐州刺史の李進誠に甲士八千を率いさせて城下に至らせ、秀琳を呼ばせた。城中から矢と石が雨のように降り、衆は進めなかった。進誠が還って「賊の偽りの降伏です。信じられません」と報じると、愬は「これはわしが来るのを待っているのだ」と言い、ただちに前へ出て城下に至った。秀琳は兵を束ねて馬の足下に身を投げ、愬はその背を撫でて慰労し、その衆三千人を降した。
- 秀琳の将の李憲は才と勇があった。愬はその名を忠義と改めて用い、婦女をことごとく唐州へ移し、その城に入って拠った。ここに唐鄧の軍気はまた振るい、人は戦おうとする志を抱いた。
- 賊中から降る者が道に相次いだ。それぞれ都合のよいところへ置き、父母のある者と聞けば粟と帛を給して帰し、「お前たちはみな王の民である。親戚を棄てるな」と言った。衆はみな感じて泣いた。
- 官軍と淮西の兵は溵水を挟んで陣していたが、諸軍は互いに顔色を窺ってあえて溵水を渡る者がなかった。陳許兵馬使の王沛が真っ先に兵五千を率いて溵水を渡り、要地に拠って城を築いた。ここに河陽・宣武・河東・魏博などの軍が相次いでみな渡り、進んで郾城に迫った。
- 丁亥、李光顔が郾城で淮西の兵三万を破り、その将の張伯良を走らせ、士卒の十のうち二、三を殺した。
- 己丑、李愬は山河十将の董少玢らに兵を分けて諸柵を攻めさせた。その日、少玢は馬鞍山を下し、路口柵を抜いた。
- 夏四月辛卯、山河十将の馬少良が嵖岈山を下して淮西の将の柳子野を捕らえた。
- 呉元済は蔡の人の董昌齢を郾城令とし、その母の楊氏を人質としていた。楊氏は昌齢に言った。「順に死ぬのは逆に生きるより賢い。お前が逆を去ってわしが死ぬなら、それが孝子だ。逆に従ってわしが生きるなら、それはわしを辱めることだ」。
- 折しも官軍が青陵を囲んで郾城の帰路を断った。郾城守将の鄧懐金が昌齢に諮ると、昌齢は帰国を勧めた。懐金はそこで李光顔に降を請うて言った。「城の人の父母妻子はみな蔡州にあります。どうか公が来て城を攻めてください。私は狼煙を挙げて救いを求め、救兵が来たら公が迎え撃つ。蔡の兵が必ず敗れてから私が降れば、父母妻子はおそらく免れましょう」。光顔は従った。
- 乙未、昌齢と懐金が城を挙げて降り、光顔は兵を率いて入って拠った。呉元済は郾城が守れなかったと聞いて甚だ恐れた。当時、董重質が騾軍を率いて洄曲を守っていた。元済は親近の者と守城の卒をことごとく発して重質のもとへ遣わして拒がせた。
- 李愬の山河十将の媯雅と田智栄が冶炉城を下した。丙申、十将の閻士栄が白狗・汶港の二柵を下した。癸卯、媯雅と田智栄が西平を破った。丙午、遊奕兵馬使の王義が楚城を破った。
- 五月辛酉、李愬が柳子野・李中義を遣わして朗山を襲い、その将の梁希果を捕らえた。丁丑、愬が方城鎮遏使の李栄宗を遣わして青喜城を撃って抜いた。
- 愬は降卒を得るたびに必ず自ら引いて詳しく問うた。これによって賊中の険易・遠近・虚実をすべて知った。呉秀琳を厚遇して蔡を取る策を謀ると、秀琳は言った。「公が蔡を取ろうとされるなら、李祐を得なければなりません。秀琳などでは何もできません」。
- 祐は淮西の騎将で勇と略があり、興橋柵を守って常に官軍を凌いでいた。庚辰、祐が士卒を率いて張柴村で麦を刈っていた。愬は廂虞候の史用誠を召して戒めた。「お前は三百騎であの林の中に伏せよ。そのうえで人に前で旗を振らせ、麦の積みを焼こうとするように見せかけよ。祐はもとより官軍を侮っているから、必ず軽騎で追ってくる。そこでお前が騎を出して襲えば必ず擒にできる」。用誠は言われたとおりにして祐を生け捕りにして帰った。
- 将士は祐がかつて官軍を多く殺したことから、争って殺すことを請うたが、愬は許さず、縄を解いて客の礼で待遇した。当時、愬は蔡を襲おうとしてその謀をますます秘し、独り祐と李忠義を召して人を退けて語り、夜半に及ぶこともあり、他の者は与り聞けなかった。
- 諸将は祐が変を起こすことを恐れて多く愬を諫めたが、愬は祐をいよいよ厚遇した。士卒も喜ばなかった。諸軍から日々牒が来て、祐は賊の内応だと言い、賊の牒を得た者があってその事を具さに言っているとも言った。
- 愬は誹りが先に帝に達すれば自分でも救えなくなることを恐れ、祐を抱いて泣いて言った。「天がこの賊を平らげようとされぬのか。どうしてわが二人の相知の深さをもってしても衆口に勝てぬのか」。そして衆に言った。「諸君が祐を疑う以上、天子のもとへ帰して死なせよう」。祐を械にかけて京師に送り、あらかじめひそかにその事情を上表して、「もし祐を殺せば功を成す術がありません」と言った。詔して釈して愬に還した。
- 愬は祐に会って喜び、その手を執って言った。「お前が全うされたのは社稷の霊のおかげだ」。そこで散兵馬使に署し、刀を佩びて巡警させ、帳中に出入りさせ、ときに同宿して密語し、眠らず夜明けに至った。帳の外で盗み聞いた者があったが、ただ祐が感じ入って泣く声が聞こえるだけであった。
- 当時、唐随の牙隊三千人は六院兵馬と号し、みな山南東道の精鋭であった。愬はまた祐を六院兵馬使とした。古い軍令では賊の間諜を泊めた者はその家を皆殺しにすることになっていたが、愬はその令を除いて厚く待遇した。間諜はかえって実情を愬に告げ、愬はいよいよ賊中の虚実を知った。
- 乙酉、愬が兵を遣わして朗山を攻めたが淮西の兵が救って官軍は利あらず、衆はみな残念がった。愬だけが嬉しそうに「これがわしの計だ」と言った。そして決死の士三千人を募って「突将」と号し、朝夕自ら教習し、常に出動の備えをさせて蔡を襲おうとした。折しも長雨で至るところに水が溜まり、果たせなかった。
- 呉元済は部下がしばしば叛くのを見て兵勢が日ごとに窮した。六月壬戌、上表して謝罪し、身を束ねて自ら帰したいと願った。帝は中使を遣わして詔を賜り、死なぬことを許したが、左右および大将の董重質に制せられて出られなかった。
- 諸軍が淮西を討って四年、克てず、輸送は疲弊して民は驢馬で耕す者まで出た。帝もこれを病んで宰相に問うと、李逢吉らは競って師が老い財が竭きたと言い、罷兵を望んだ。裴度だけが何も言わない。帝が問うと、こう答えた。「臣は自ら赴いて戦を督したいと請います」。
- 秋七月乙卯、帝はあらためて度に言った。「卿はまことに朕のために行けるか」。度は答えた。「臣はこの賊とともに生きぬことを誓います。臣が近ごろ呉元済の表を見るに、勢いは実に窮しております。ただ諸将の心が一つでなく力を合わせて迫らぬゆえ、降らぬのです。もし臣が自ら行営に詣れば、諸将は臣に功を奪われることを恐れて、必ず争って進んで賊を破りましょう」。帝は喜んだ。
- 丙戌、度を門下侍郎・同平章事兼彰義節度使とし、あわせて淮西宣慰招討処置使に充て、さらに戸部侍郎の崔群を中書侍郎・同平章事とした。制が下ると、度は韓弘がすでに都統であるのでさらに招討とはなりたくないとして、ただ宣慰処置使と称することを請い、あわせて刑部侍郎の馬総を宣慰副使、右庶子の韓愈を彰義行軍司馬とするよう奏し、判官・書記もみな朝廷の選りすぐりとした。帝はみな従った。
- 度は発つにあたり帝に言った。「臣がもし賊を滅ぼせば朝天の日がありましょう。賊が在れば闕に帰る日はありません」。帝はそのために涙を流した。
- 八月庚申、度が淮西へ赴き、帝は通化門に出御して送った。
- 右神武将軍の張茂和は張茂昭の弟である。かつて胆略を度に売り込んでいたので、度は表して都押牙とした。ところが茂和が病と称して辞退したので、度は奏して斬ることを請うた。帝は「これは忠順の門である。卿のために遠く貶そう」と言い、辛酉、茂和を永州司馬に貶し、嘉王傅の高承簡を都押牙とした。承簡は高崇文の子である。
- 李逢吉は蔡を討つことを望まず、翰林学士の令狐楚は逢吉と親しかった。度は二人が中外の勢いを合わせて軍事を沮むことを恐れ、そこで制書の数字を改めるよう請い、あわせてその草制が言葉を誤っていると言った。壬戌、楚を罷めて中書舎人とした。
- 李光顔と烏重胤が淮西と戦い、癸亥、賈店で敗れた。
- 裴度が襄城の南の白草原を過ぎるとき、淮西の人が驍騎七百で待ち伏せたが、鎮将で楚丘の曹華が知って備え、撃退した。
- 度は招討の名を辞したものの、実際は元帥の事を行い、郾城を治所とした。甲申、郾城に至った。これより先、諸道にはみな中使があって陣を監し、進退が主将から出なかった。勝てばまず自分が使者を出して勝報を献じ、利あらざれば百方に凌ぎ挫いた。度はことごとく奏して除いた。諸将ははじめてその軍事を専らにでき、戦って功のあることが多くなった。
- 九月庚子、淮西の兵が溵水鎮を侵して三将を殺し、飼葉を焼いて去った。
- 甲寅、李愬が呉房を攻めようとした。諸将が「今日は往亡の日です」と言うと、愬は言った。「わが兵は少なくて戦うに足りぬ。不意を衝くべきだ。彼は往亡の日ゆえ我らを警戒せぬ。まさに撃つべきときだ」。そのまま往ってその外城を落とし、千余級を斬った。残る衆は子城に籠もって出なかった。
- 愬は兵を率いて還って誘った。淮西の将の孫献忠が果たして驍騎五百でその背後を追撃した。衆は驚いて逃げようとしたが、愬は馬を下りて胡床に坐り、「あえて退く者は斬る」と令した。旗を翻して力戦し、献忠は死に、淮西の兵は退いた。ある者が勝ちに乗じて子城を攻めれば抜けると勧めたが、愬は「わしの計ではない」と言って兵を率いて営に還った。
- 李祐が李愬に言った。「蔡の精兵はみな洄曲および四境の守りにあり、州城を守るのはみな痩せた老兵です。虚に乗じてまっすぐその城に至れます。賊の将が聞いたころには元済はもう擒になっておりましょう」。愬はそのとおりだと思い、冬十月甲子、掌書記の鄭澥を郾城に遣わしてひそかに裴度に告げた。度は「兵は奇を出さねば勝てぬ。常侍(愬)の良い図りだ」と言った。
- 裴度が僚佐を率いて沱口の築城を視察したとき、董重質が騎を率いて五溝から出て待ち伏せ、大声をあげて進み、弩をつがえ刃を挺して今にも度に及ぼうとした。李光顔と田布が力戦して拒ぎ、度はかろうじて城に入った。賊が退くと、布はその溝中の帰路を扼した。賊は馬を下りて溝を越えようとし、落ちて圧死する者が千余人であった。
雪夜の急襲
- 辛未、李愬は馬歩都虞候・随州刺史の史旻らに文城の鎮守を命じ、李祐・李忠義に突将三千を率いさせて前駆とし、自らは監軍とともに三千人を率いて中軍とし、李進誠に三千人を率いさせて殿とした。軍が出ても行く先を知らなかった。愬は「ただ東へ行け」と言った。
- 六十里行って夜、張柴村に至り、その戍卒と狼煙番をことごとく殺してその柵に拠った。士卒を少し休ませて乾飯を食わせ、馬具を整えさせた。義成軍五百人を残して鎮めさせ、朗山からの救兵を断ち、丁士良に五百人を率いさせて洄曲および諸道の橋を断たせた。
- あらためて夜、兵を率いて門を出た。諸将が行く先を問うと、愬は「蔡州に入って呉元済を取る」と言った。諸将はみな顔色を失い、監軍は哭して「果たして李祐の姦計に落ちた」と言った。
- ときに大風雪で旌旗は裂け、凍死する人馬が相次いだ。空は暗く、張柴村から東は道すべて官軍がまだ通ったことのない道であった。人はみな必死と思ったが、愬を畏れてあえて背かなかった。
- 夜半、雪はいよいよ激しくなり、七十里行って州城に至った。城の近くに鵞鳥や鴨の池があった。愬はそれを驚かせて軍の物音を紛らわせた。呉少誠が命を拒んで以来、官軍が蔡州城下に至らぬこと三十余年、それゆえ蔡の人は備えていなかった。
- 壬申の四鼓、愬が城下に至っても一人として気づく者がなかった。李祐と李忠義がその城壁を鍬で削って足がかりを作って先登し、壮士が続いた。門を守る卒はちょうど熟睡していたのでことごとく殺し、拍子木を打つ者だけは残して従前どおり打たせ、そのまま門を開いて衆を入れた。内城もまた同様であった。城中は誰も気づかなかった。
- 鶏が鳴いて雪が止み、愬は入って元済の外宅に居た。ある者が元済に「官軍が来ました」と告げても、元済はまだ寝ていて笑って言った。「捕虜どもが盗みをしているのだろう。夜が明けたらみな殺してやる」。また告げる者が「城が陥ちました」と言うと、元済は「これは洄曲の子弟がわしに冬着を求めに来たのだろう」と言った。
- 起きて庭で聴くと、愬の軍の号令に「常侍のお言葉」と応ずる者が一万近くあった。元済ははじめて恐れて「何という常侍がここまで来られたのか」と言い、左右を率いて牙城に登って拒み戦った。
- 当時、董重質は精兵一万余を擁して洄曲に拠っていた。愬は「元済が望みをかけるのは重質の救援だけだ」と言い、重質の家を訪ねて厚く撫で、その子の伝道に書を持たせて重質を諭させた。重質はそのまま単騎で愬のもとに詣って降った。
- 愬は李進誠に牙城を攻めさせ、その外門を毀って甲庫を得てその器械を取った。癸酉、あらためて攻めてその南門を焼いた。民は争って薪と飼葉を負って助けた。城上からの矢は蝟の毛のようであったが、夕刻に門が壊れ、元済は城上で罪を請うた。進誠は梯を掛けて下ろした。
- 甲戌、愬は檻車で元済を京師に送り、あわせて裴度に報じた。この日、申・光の二州および諸鎮の兵二万余人が相次いで降った。元済が擒にされてから、愬は一人も殺さなかった。元済の官吏、帳下、厨房、厩の卒はみなその職に復させて疑わせず、そのうえで鞠場に駐屯して裴度を待った。
- 己卯、淮西行営が呉元済を捕らえたと奏した。光禄少卿の楊元卿が帝に言った。「淮西には珍宝が大いにあります。臣はそれを知っております。往って取れば必ず得られます」。帝は「朕が淮西を討ったのは人のために害を除くためだ。珍宝は求めるところではない」と言った。
- 董重質が洄曲の軍を去ると、李光顔は馳せてその塁に入り、その衆をことごとく降した。
- 庚辰、裴度は馬総を先に蔡州に入れて慰撫させた。辛巳、度は彰義軍の節を建て、降卒一万余人を率いて入城した。李愬は弓袋と矢筒を身に着けて出迎え、路の左で拝した。度が避けようとすると、愬は言った。「蔡の人は頑迷で上下の分をわきまえぬこと数十年。どうか公はこれに乗じて示し、朝廷の尊さを知らしめてください」。度はそこで受けた。
- 李愬が軍を文城に還すと、諸将が請うて言った。「はじめ公は朗山で敗れても憂えず、呉房に勝っても取らず、大風と大雪を冒しても止まらず、孤軍で深く入っても恐れられなかった。それでいてついに功を成された。みな我らには解しかねます。あえてその故を伺いたい」。
- 愬は言った。「朗山で利あらざれば賊は我を侮って備えなくなる。呉房を取れば、その衆は蔡へ走って力を合わせて固く守る。ゆえに残しておいてその兵を分けたのだ。風雪で暗ければ狼煙が繋がらず、我が来るのを知られぬ。孤軍で深く入れば人はみな死力を尽くし、戦いは自ずと倍になる。そもそも遠くを視る者は近くを顧みず、大を慮る者は細を計らぬ。もし小さな勝ちを誇り小さな敗けを気に病めば、まず自ら挫ける。どうして功を立てる暇があろうか」。衆はみな服した。
- 愬は自らを奉ずるに倹しく士を待つに豊かで、賢を知って疑わず、可と見れば決断できた。これが功を成したゆえんである。
- 裴度は蔡の卒を牙兵とした。ある者が「蔡の人には不穏な者がなお多い。備えぬわけにいきません」と諫めると、度は笑って言った。「わしは彰義節度使である。元凶がすでに擒となった以上、蔡の人はわが人である。何を疑うことがあろう」。蔡の人はこれを聞いて感じ泣いた。
- これより先、呉氏父子は兵を構え、人が路上で語り合うことを禁じ、夜は灯を燃やさせず、酒食で行き来する者があれば死罪とした。度は政務を執ってから、ただ盗賊と闘殺だけを禁じ、他はみな問わず、往来は昼夜を問わなくした。蔡の人ははじめて生民の楽しみのあることを知った。
- 甲申、詔して韓弘と裴度に蔡を平らげた将士の功状、および降った蔡の将士を条列させ、みな等級を差して奏聞させた。淮西の州県の百姓には二年の課役を免じ、賊に近い四州には来年の夏税を免じ、官軍の戦死者はみな葬って、その家に衣糧を五年給し、戦傷で不具となった者は衣糧を止めぬこととした。
- 十一月丙戌朔、帝が興安門に出御して俘虜を受け、そのまま呉元済を廟社に献じ、独柳の下で斬った。
- はじめ淮西の人は李希烈・呉少誠の威虐に脅かされて自ら抜け出せず、久しくして老いた者は衰え幼い者は壮となり、悖逆に安んじて、もはや朝廷のあることを知らなくなっていた。少誠以来、諸将に兵を出させるとき、みな法制で束ねず、それぞれ都合に応じて戦わせたので、人はみな才を尽くせた。
- 韓全義が溵水で敗れたとき、その帳中から朝廷の貴顕の見舞いの書が見つかった。少誠は束ねて衆に示して言った。「これはみな公卿が全義に託した書だ。『蔡州を破った日には将士の妻や娘を一人、婢妾に賜れ』とある」。これによって衆はみな憤って、死をもって賊のために働いた。中国の地にありながらその風俗の荒々しさは夷貊に過ぎた。ゆえに三州の衆に対して天下の兵を挙げて取り巻いて攻め、四年してようやく克てたのである。
- 戊子、李愬を山南東道節度使として涼国公の爵を賜り、韓弘に侍中を兼ねさせ、李光顔・烏重胤らにもそれぞれ官を進めた。辛丑、唐随兵馬使の李祐を神武将軍・知軍事とした。
- 裴度は馬総を彰義留後とした。癸丑、蔡州を発った。
- 帝は封じた二剣を梁守謙に授けて呉元済の旧将を誅させようとした。度は郾城でこれに遭い、あらためてともに蔡州に入って罪を量って刑を施し、必ずしも詔旨のとおりにはせず、そのうえ上疏してこれを述べた。
- 十二月壬戌、裴度に晋国公の爵を賜り、あらためて入って政を知らせ、馬総を淮西節度使とした。
- 庚辰、淮西の降将の董重質を春州司戸に貶した。重質は呉元済の謀主でしばしば官軍を破ったので帝は殺そうとしたが、李愬が、あらかじめ重質に死なぬことを許したと奏した。