通鑑紀事本末憲宗、淄青を討つ(李師道)(憲宗討淄青)

李師古の死後、弟の李師道が幕僚に擁されて平盧十二州を継ぐ。師道は淮西の呉元済を助けて河陰の転運院を焼き、武元衡を刺殺させ、東都の焼き討ちまで謀って露見した。淮西平定後、いったん人質と三州の献上を申し出ながら妻の魏氏らに惑わされて翻し、憲宗は五道の兵で討たせる。陽穀の劉悟が反正して鄆州を襲い師道父子を斬り、淄青十二州は平定された。憲宗元和元年(806年)から元和十四年(819年)までの14年間。

年表(5件)

憲宗元和元年(806年)――李師道の襲位

  • はじめ李師古には異母弟の師道があり、常に疎んじられて外に置かれ、貧窮を免れなかった。師古はひそかに親しい者に言った。「わしが師道と仲が悪いのではない。わしは十五で節旄を擁し、稼穡の艱難を知らぬことを自ら恨んでいる。まして師道はわしより数歳若い。衣食の出どころを知らせたいのだ。そのうえで州県の務めを任せるつもりだが、諸公はきっと察してくれまい」。
  • 師古の病が篤くなったころ、師道は密州の事を知り、絵と觱篥を好んでいた。師古は判官の高沭と李公度に言った。「わしがまだ乱れぬうちに、お前たちに問いたい。わしが死んだら、誰を奉じて帥としたいか」。二人は顔を見合わせて答えなかった。師古は言った。「師道ではないのか。人情として、誰が骨肉を薄んじて他人を厚くしたがろう。しかし帥の据え方が善くなければ、軍政を敗るだけでなく、わが一族をも覆すことになる。師道は公侯の子孫でありながら兵を訓練し人を治めることに努めず、もっぱら小人の卑しい技を習ってそれを自分の能としている。果たして帥たるに堪えようか。どうか諸公、審らかに図ってくれ」。
  • 閏六月壬戌朔、師古が薨じた。沭と公度は喪を秘し、ひそかに密州へ師道を迎えて奉じ、節度副使とした。
  • 秋八月、李師道が軍務を統べて久しく朝命が来ないので、師道は将佐に諮った。ある者は兵を出して四境を掠めることを請うたが、高沭が固く止め、両税を納め、官吏の任命を申請し、塩法を行うことを請うた。使者を相次いで遣わして表を奉じて京師に詣らせた。
  • 杜黄裳がその定まらぬうちに分割することを請うたが、帝は劉闢がまだ平らいでいないとして、己巳、師道を平盧留後・知鄆州事とした。
  • 冬十月壬午、平盧留後の李師道を節度使とした。

元和十年(815年)――東都謀略の露見

  • 官軍が呉元済を討ったとき、李師道は大将に二千を率いさせて寿春へ向かわせ、元済の援けとしようとした。また盗賊に河陰転運院を襲わせ、銭帛三十余万緡匹と穀二万余斛を焼かせた。夏六月癸卯、盗賊が武元衡を殺した。
  • 秋八月、李師道が東都に留後院を置いた。本道の人が雑然と往来しても吏はあえて咎めなかった。当時、淮西の兵が東畿を犯したので防禦の兵はことごとく伊闕に駐屯していた。師道はひそかに兵を院中に入れて数十百人に達し、宮闕を焼き、兵を放って殺し掠めようと謀った。すでに牛を煮て士に饗し、翌日決行するというとき、その小卒が留守の呂元膺のもとに詣って変を告げた。
  • 元膺は急ぎ伊闕の兵を呼び戻して囲ませたが、賊衆は突破して出た。防禦の兵はその後を追ったがあえて迫らず、賊は長夏門を出て山を目指して逃げた。このとき都城は震え驚き、留守の兵は少なく弱かったが、元膺は皇城の門に坐って指図し部署を定め、意気は平然としていた。都の人はこれによって安らいだ。
  • 東都の西南は鄧・虢に接し、みな高い山と深い林で、民は耕作せずもっぱら狩猟で生きていた。人はみな敏捷で勇があり、これを「山棚」と呼んだ。元膺は重い懸賞を設けて賊を捕らえさせた。数日して山棚が鹿を売っていたところ、賊が出会って奪った。山棚は走ってその仲間を呼び、あわせて官軍を導いてともに谷中に囲み、ことごとく捕らえた。
  • 取り調べてその首魁を得た。中岳寺の僧の円浄である。かつて史思明の将であり、勇悍は人に過ぎていた。師道のために謀って伊闕・陸渾の間に多く田を買い、山棚を住まわせて衣食を与えていた。訾嘉珍・門察という者があってひそかに部署を定めて円浄に属し、円浄は師道の銭千万で表向き仏光寺を修めると称して党を結び謀を定め、嘉珍らに城中でひそかに事を起こさせ、円浄が山中で火を挙げて二県の山棚を集めて入城して助けることを約していた。
  • 円浄は当時、年八十余。捕らえた者が鎚を振るってその脛を打ったが折れなかった。円浄は罵って言った。「鼠め、人の脛も折れずして、よく健児と称するな」。そして自分でその脛を置いて折り方を教えた。刑に臨んで嘆じた。「わが事を誤った。洛城を血に流させられなんだ」。党与で死んだ者はおよそ数千人。留守と防禦の将二人および駅卒八人はみなその職名を受けて耳目となっていた。
  • 元膺が訾嘉珍と門察を取り調べて、はじめて武元衡を殺したのは師道であると知った。元膺はひそかに奏聞し、檻車で二人を京師に送った。帝はすでに王承宗を討っていたので、これ以上は追及しなかった。
  • 元膺が上言した。「近ごろ藩鎮が跋扈して臣従せぬのは、なお容赦できるものもあります。しかし師道が都城を屠り宮闕を焼こうと謀ったのは悖逆のなかでもとりわけ甚だしく、誅せぬわけにはまいりません」。帝はそのとおりだと思ったが、ちょうど呉元済を討ち王承宗を絶っていたので、師道を治める暇がなかった。
  • 冬十一月丁酉、武寧節度使の李愿が李師道の衆を破ったと奏した。当時、師道はしばしば兵を遣わして徐州を攻め、蕭・沛の数県を破った。愿は歩騎をことごとく都押牙で温の人の王智興に委ねて撃ち破らせた。十二月甲辰、智興がまた師道の衆を破って二千余級を斬り、敗走を追って平陰まで行って還った。愿は李晟の子である。

元和十一年〜十二年(816–817年)

  • 元和十一年(816年)冬十一月、李師道は李光顔らが呉元済の陵雲柵を抜いたと聞いて恐れ、偽って帰順を請うた。帝は力がまだ討つに及ばぬとして、師道に検校司空を加えた。
  • 元和十二年(817年)、官軍が呉元済を攻めていたとき、李師道は人を募って蔡に使いさせ、その形勢を探らせようとした。牙前虞候の劉晏平が応募して汴・宋の間を出、ひそかに蔡に至った。元済は大いに喜び、厚く礼遇して帰した。
  • 晏平が鄆に還ると、師道は人を退けて問うた。晏平は言った。「元済は数万の兵を外に晒して危うきこと軒先に立つがごとくでありながら、内では日々僕妾と遊戯し博奕して、平然と憂色もありません。愚見では、おそらく亡ぶまで久しくありますまい」。師道はもとより淮西を援けと頼んでいたので、これを聞いて驚き怒り、ほどなく別の過ちを捏造して杖殺した。

元和十三年(818年)――高沐の死と師道の翻意

  • はじめ李師道が逆を謀ったとき、判官の高沐は同僚の郭昈・李公度とともにしばしば諫めた。判官の李文会と孔目官の林英はもとより師道に親信されており、涙を流して師道に言った。「文会らは誠を尽くして尚書のために家事を憂えているのに、かえって高沐らに憎まれております。尚書はどうして十二州の土地を憂えず、沭らの功名を成そうとされるのですか」。
  • 師道はこれによって沭らを疎んじ、沭を出して莱州を知らせた。折しも林英が入って奏事したとき、進奏の吏にひそかに師道へ「沭はひそかに朝廷に恭順を伝えております」と申し出させ、文会もこれに乗じて陥れた。師道は沭を殺し、あわせて郭昈を囚えた。およそ軍中で師道に順を効すよう勧める者を、文会はみな高沭の党と指して囚えた。
  • 淮西が平らぐと師道は憂え恐れて為すすべを知らなかった。李公度および牙将の李英曇がその恐れに乗じて説き、人質を納れ地を献じて自ら贖うよう勧めた。師道は従い、使者を遣わして表を奉じ、長子を入侍させ、あわせて沂・密・海の三州を献じることを請うた。帝は許した。
  • 春正月、左常侍の李遜を鄆州へ遣わして宣慰させた。
  • 李師道は暗弱で、軍府の大事は妻の魏氏、奴の胡惟堪・楊自温、婢の蒲氏・袁氏および孔目官の王再升とだけ謀り、大将も幕僚も与れなかった。
  • 魏氏はその子を人質に出したくなく、蒲氏・袁氏とともに師道に言った。「先の司徒以来、この十二州を有しております。どうして理由もなく割いて献じられるのですか。今、境内の兵を計れば数十万を下りません。三州を献じなくとも、せいぜい兵を差し向けられるだけのこと。力戦して勝てぬなら、そのとき献じても遅くはありません」。師道はそこで大いに悔い、李公度を殺そうとした。
  • 幕僚の賈直言がその用事の奴に言った。「今、大禍が来ようとしている。これは高沭の冤気の為すところではないか。そのうえ公度まで殺せば軍府は危ういぞ」。そこで囚えるにとどめた。李英曇を莱州へ移し、着かぬうちに縊り殺した。
  • 李遜が鄆州に至ると、師道は大いに兵を並べて迎えた。遜は盛んな気で正色して禍福を陳べ、はっきりした返答を求め、天子に申し上げると責めた。師道は退いて一党と謀ったが、みな「ひとまず承知しておけばよろしい。後日、一通の表で紛れを解けばよいだけです」と言った。師道はそこで謝して言った。「先には父子の私情ゆえ、また将士の情に迫られて、遷延して遣わさなかったのです。今、重ねて朝使を煩わせて、どうして二心を持てましょう」。
  • 遜は師道が実意で帰順していないと察し、帝に言った。「師道は頑迷愚昧で翻り覆ります。必ず兵を用いねばなりますまい」。やがて師道は上表して、軍情が人質と割地を受け入れぬと言ってきた。帝は怒り、討伐を決意した。
  • 賈直言は刃を冒して師道を諫めること二度、棺を担いで諫めること一度、さらに縛られて檻車に載せられ妻子が繋がれる図を描いて献じた。師道は怒って囚えた。
  • 五月丙申、忠武節度使の李光顔を義成節度使とした。師道討伐を謀ってのことである。河陽都知兵馬使の曹華を棣州刺史とし、詔して横海節度副使を加えた。六月丁丑、あらためて烏重胤に懐州刺史を領させて河陽に鎮させた。
  • 秋七月癸未朔、李愬を武寧節度使に移した。乙酉、制を下して李師道の罪状を挙げ、宣武・魏博・義成・武寧・横海の兵にともに討たせた。
  • 呉元済が平らぐと韓弘は恐れ、九月、自ら兵を率いて李師道を撃ち、曹州を囲んだ。
  • 冬十一月壬寅、河陽節度使の烏重胤を横海節度使とした。丁未、華州刺史の令狐楚を河陽節度使とした。重胤が河陽の精兵三千を率いて鎮に赴こうとしたところ、河陽の兵は郷里を離れることを嫌って中途で潰えて帰った。だが城に入る勇気もなく城の北に駐屯して、大いに掠奪しようとした。令狐楚がちょうど到着し、単騎で出て慰撫し、ともに帰った。
  • これより先、田弘正が黎陽から渡河して義成節度使の李光顔と会して李師道を討つことを請うていた。裴度は言った。「魏博の軍が渡河した以上、退くわけにいきません。ただちに進撃してこそ功があります。滑州に至ればそのまま度支に給養を仰ぐことになり、いたずらに輸送の労を生み、さらに様子見の勢いを生じます。しかも李光顔と互いに疑い隔たるかもしれません。渡河して進まぬくらいなら、河北で威を養わせるに如くはありません。しばらく馬を養い兵を研がせ、霜が降り水が落ちるのを待って楊劉から渡河させ、まっすぐ鄆州を指させる。陽穀まで至って営を置けば兵勢はおのずと盛んになり、賊衆の心は揺らぎましょう」。帝は従った。
  • この月、弘正は魏博の全軍を率いて楊劉から渡河し、鄆州から四十里のところに塁を築いた。賊中は大いに震えた。
  • 十二月戊寅、魏博・義成の軍が捕らえた李師道の都知兵馬使の夏侯澄ら四十七人を送ってきた。帝はみな釈して誅さず、それぞれ捕らえた行営に付して使役させ、こう言った。「もし父母があって帰りたい者があれば、手厚く支給して帰せ。朕が誅すのは師道だけである」。ここで賊中はこれを聞いて降る者が相次いだ。
  • はじめ李文会は兄の元規とともに李師古の幕下にあった。師古が薨じて師道が立つと、元規は辞して去った。文会は師道の親党に頼んで留めてもらった。元規は去るとき文会に言った。「わしが去るのは身を退いて安全を得るためだ。お前が留まれば必ずにわかに貴くなり、そして禍を受けよう」。
  • 官軍が四方から臨むに及んで、平盧の兵勢は日ごとに窮した。将士は騒ぎ立ててみな言った。「高沐・郭昈・李存は司空のために忠実に謀った。李文会は姦佞で、沐を殺し昈と存を囚えて、この禍を招いた」。師道はやむを得ず文会を出して登州刺史を摂らせ、昈と存を幕府に召し還した。
  • 武寧節度使の李愬が平盧の兵と十一戦してみな勝ち、己卯晦、進んで金郷を攻めて落とした。
  • 李師道は性が臆病で、官軍の討伐が始まってからは小さな敗北や城邑の喪失を聞くたびに憂え動悸して病になった。これによって左右はみな覆い隠して実を告げなかった。金郷は兗州の要地であるが、失われたとき、その刺史が駅騎を遣わして急を告げても左右は取り次がず、師道は死ぬまでついに知らなかった。

元和十四年(819年)――劉悟の反正

  • 春正月辛巳、韓弘が考城を抜いて二千余人を殺した。丙戌、師道が任じた沭陽令の梁洞が県を挙げて楚州刺史の李聴に降った。壬辰、武寧節度使の李愬が魚台を抜いた。丙申、田弘正が東阿で淄青の兵を破って一万余人を殺したと奏した。丙午、田弘正が陽穀で平盧の兵を破ったと奏した。
  • 二月、李聴が海州を襲って東海・朐山・懐仁などの県を落とした。李愬が沂州で平盧の兵を破って丞県を抜いた。
  • 李師道は官軍が迫ってくると聞いて民を発して鄆州の城と塹を修め守備を固めたが、その役は婦人にまで及び、民はいよいよ恐れかつ怨んだ。
  • 都知兵馬使の劉悟は劉正臣の孫である。師道は悟に一万余の兵を率いさせて陽穀に駐屯させ、官軍を拒がせた。悟は寛やかで恵み深いことに努め、士卒を各自の都合に任せたので、軍中は「劉父」と呼んだ。田弘正が渡河しても悟の軍は備えず、戦ってはしばしば敗れた。
  • ある者が師道に言った。「劉悟は軍法を守らず、もっぱら衆心を収めております。他意があるのを恐れます。早く図られるべきです」。師道は悟を召して事を計ろうとして殺すつもりであった。ある者が諫めて言った。「今、官軍が四方から合しております。悟に叛く様子はない。一人の言で殺せば、諸将の誰が働きましょうか。これは自ら爪牙を抜くことです」。師道は悟を十日留めてからあらためて帰し、厚く金帛を贈ってその意を安んじた。悟はこれを知り、営に還ってひそかに備えた。
  • 師道は悟が兵を率いて外にあるので、悟の子の従諫を門下別奏に署していた。従諫は師道の諸奴と日々遊び戯れてその陰謀をかなり知り、ひそかに書き記して父に告げていた。また師道に言う者があった。「劉悟はいずれ患いとなります。早く除くに如くはありません」。
  • 丙辰、師道はひそかに二人の使者に帖を持たせて行営兵馬副使の張暹に授け、悟の首を斬って献じさせ、暹に権に行営を領させることとした。
  • ときに悟はちょうど高い丘に拠って幕を張り酒を置き、営から二、三里離れていた。二使が営に至ってひそかに帖を暹に授けた。暹はもとより悟と親しかったので、偽って使者と謀って言った。「悟は使府から還ってからかなり備えております。あわてては事を仕損じます。暹がまず往って申し上げましょう。『司空が使者を遣わして将士を見舞われ、あわせて賜り物がある。都頭は速やかに帰って一緒に伝言を受けられよ』と。こうすれば彼は疑いません。そのうえで図れましょう」。使者はそのとおりだと思った。
  • 暹は帖を懐にして悟のもとへ走り、人を退けて示した。悟はひそかに人を遣わしてまず二使を捕らえて殺した。すでに夕暮れであった。悟は轡を按じてゆっくり営に還り、帳下に坐って兵を厳しくして自衛し、諸将を召して険しい顔で言った。
  • 「悟と公らは死をも顧みず官軍に抗してきた。まことに司空に負い目はない。それを今、司空は讒言を信じて悟の首を取りに来た。悟が死ねば諸公はその次だ。そもそも天子が誅そうとされるのは司空一人だけ。今、軍勢は日ごとに窮している。我らはなぜ彼に従って族滅されねばならぬのか。諸公とともに旗を巻き甲を束ねて鄆州へ入り、天子の命を奉行したい。危亡を免れるだけでなく、富貴も図れる。諸公はどう思われるか」。
  • 兵馬使の趙垂棘が衆の先頭に立ち、しばらくして答えた。「そうしても事は果たして成りましょうか」。悟は声に応じて罵った。「お前は司空と共謀していたな」。ただちに斬った。順に問うて、ためらって言わぬ者はことごとく斬り、あわせて軍中でかねて衆に憎まれていた者も斬って、およそ三十余人の屍を帳の前に並べた。残る者はみな震え上がって「ただ都頭の命に従います。死力を尽くしたい」と言った。
  • そこで士卒に令した。「鄆に入った者には銭百緡を賞す。ただし軍の蔵に近づいてはならぬ。その使宅および逆党の家財は思うままに掠め取れ。仇のある者は報いよ」。士卒に腹一杯食わせ兵を執らせ、夜半に太鼓三声が絶えたら出発とし、人は枚を銜み馬は口を縛り、通行人に遭えば捕らえて留めたので、誰も知る者がなかった。
  • 城から数里、まだ夜が明けぬうちに悟は軍を停め、城上の拍子木の音が絶えるのを聴かせた。そのうえで十人を先行させて「劉都頭が帖を奉じて追って入られる」と宣言させた。門番が「書付を写して申し上げるまでお待ちを」と言うと、十人は刃を抜いて突きつけ、みな逃げ隠れた。
  • 悟が大軍を率いて続いて至ると、城中の騒ぎは地を動かした。子城に至ったときにはもう洞のように開いており、ただ牙城だけが拒み守った。ほどなく火を放ち、斧で門を破って入った。牙中の兵は数百人に過ぎず、はじめは弓矢を放つ者もあったが、まもなく支えきれぬと知ってみな地に投げ捨てた。
  • 悟は兵を勒して庁舎に上り、師道を捜させた。師道は二人の子と厠の床下に伏せていたが、捜し当てられた。悟は牙門の外の空き地に置かせ、人に言わせた。「悟は密詔を奉じて司空を闕に送り届けます。しかし司空もまた、どんな顔で再び天子にまみえられましょう」。師道はなお生きられることを願う様子であったが、その子の弘方が仰いで言った。「事はもうここまで来た。速やかに死ぬのが幸いだ」。ほどなくみな斬られた。
  • 卯の刻から午の刻まで、悟は二人の都虞候に坊市を巡らせ、掠奪を禁じた。即刻みな鎮まった。兵と民を毬場に大集し、自ら馬に乗って巡り回って慰め安んじ、師道の逆謀に賛同した二十余家を斬った。文武の将吏は恐れつつ喜び、みな入って祝った。悟は李公度に会って手を執ってすすり泣き、賈直言を獄から出して幕府に置いた。
  • 悟が陽穀から兵を鄆へ向けたとき、ひそかに人を遣わしてその謀を田弘正に告げていた。「事が成れば狼煙を挙げてお知らせします。万一、城中に備えがあって入れなければ、どうか公は兵を率いて助けてください。功が成った日には、みな公に帰します。悟がどうしてこれを自分のものにできましょう」。そのうえで弘正に自分の営に進んで拠らせた。弘正は狼煙を見て城を得たと知り、使者を遣わして祝った。
  • 悟は師道父子の三つの首を函に納めて使者に弘正の営へ送らせ、弘正は大いに喜んで露布で奏聞した。淄青など十二州はみな平定された。
  • 弘正ははじめ師道の首を得たとき、本物でないことを疑い、夏侯澄を召して確かめさせた。澄はその顔をじっと見て長く号泣して気を失い、久しくして首を抱いてその目の中の塵を舐め、あらためて慟哭した。弘正は顔色を改め、義として責めなかった。
  • 壬戌、田弘正の勝報が届いた。乙丑、戸部侍郎の楊於陵を淄青宣撫使とした。己巳、李師道の首の函が到着した。
  • 広徳以来六十年近く、藩鎮は跋扈し、河南河北の三十余州は自ら官吏を任じて貢賦を納めなかったが、ここに至ってことごとく朝廷の約束に遵うようになった。
  • 帝は楊於陵に李師道の地を分けさせた。於陵は図籍を調べ、土地の遠近を見、士馬の多寡を計り、倉庫の虚実を較べ、三道に分けて均等にした。鄆・曹・濮を一道、淄・青・斉・登・莱を一道、兗・海・沂・密を一道とし、帝は従った。
  • 劉悟は、はじめ李師道を討つ詔に「部将で師道を殺してその衆を挙げて降る者があれば、師道の官爵をことごとくこれに与える」とあったのを見て、十二州の地をすべて得られると思い込み、文武の将佐を補任し、州県の長吏を入れ替え、その下に言った。「軍府の政は一切旧のとおりだ。今より諸公とただ子を抱き孫と戯れよう。何を憂えることがあろう」。
  • 帝は悟を他鎮へ移そうとしたが、悟が交代を受け入れず、また兵を用いねばならなくなることを恐れ、ひそかに田弘正に詔して探らせた。弘正は日々使者を悟のもとへ遣わし、好みを修めると称して実はその為すところを観察させた。悟は力が強く手取り相撲を好み、鄆州を得て三日後には軍中の壮士に相撲を教え、魏博の使者とともに庭で観、自ら肩を揺すり腕まくりして席を離れて勢いを添えた。弘正はこれを聞いて笑って言った。「これは任命の改まりを聞けばすぐ発つということだ。何ができようか」。
  • 庚午、悟を義成節度使とした。悟は制が下ったと聞いて手足の置き所を失い、翌日そのまま発った。弘正が数道の兵を率いてすでに城の西二里に来ていた。悟と客亭で会い、ただちに旌節を受けて滑州へ馳せ、李公度・李存・郭昈・賈直言を辟して同行させた。
  • 悟はもとより李文会と親しく、鄆州を得ると召んだ。まだ着かぬうちに鎮を移されると聞き、昈と存が謀って言った。「文会は佞人で淄青一道を敗り乱し、李司空の一族を滅ぼした。万人が共に仇とする者だ。この際に誅さねば、田相公が来て寛大を旨とされるだろう。何をもって三斉の憤怨を雪ぐのか」。そこで悟の帖を偽って使者を文会のいる所へ遣わし、その首を取ってこさせた。使者は豊斉駅で文会に遭って斬った。還ったときには悟も昈も存もすでに去っていて、復命する先がなかった。文会の二子は一人が逃げ去り一人が獄死し、家財はことごとく人に掠められ、田宅は官に没収された。詔して淄青行営副使の張暹を戎州刺史とした。
  • 癸酉、田弘正に検校司徒・同平章事を加えた。
  • これより先、李師道は敗れる数か月前から、風が動き鳥が飛ぶだけでもみな変を疑い、鄆の人が親しい者と宴を開くことや路上で語り合うことを禁じ、犯す者を刑に処していた。弘正は鄆に入るとことごとく苛酷な禁令を除き、人を遊び楽しませ、寒食の七昼夜、通行人を禁じなかった。ある者が「鄆の人は長く寇敵でした。今、平らいだとはいえ人心はまだ安らいでおりません。備えねばなりません」と諫めると、弘正は言った。「今、暴虐をなす者はすでに除かれた。寛やかな恵みを施すべきである。もしまた厳しく察すれば、桀をもって桀に易えるようなもの。何が良くなろうか」。
  • これより先、賊はしばしば人を関中に入れて陵の戟を切り、倉場を焼き、流れ矢や投げ文で京師を震え驚かせ、官軍を妨げていた。有司の督察は甚だ厳しく、潼関の吏は人の荷を開けて探るまでになったが、ついに絶やせなかった。田弘正が鄆に入って李師道の簿書を調べたところ、武元衡を殺した王士元らへの賞、および潼関・蒲津の吏卒への賞の記録があり、そこではじめて、これまで吏卒が賊から賄賂を受けてその姦を見逃していたことが分かった。
  • 裴度が蔡・鄆の用兵以来の帝の憂勤と機略を纂述し、侍宴の折に献じ、内印を押して史官に付すことを請うた。帝は「そうすれば朕の志から出たようになる。望むところではない」と言い、許さなかった。
  • 三月戊子、華州刺史の馬総を鄆曹濮等州節度使とした。己丑、義成節度使の薛平を平盧節度・淄青斉登莱等州観察使とし、淄青西面行営供軍使の王遂を沂海兗密等州観察使とした。
  • 横海節度使の烏重胤が奏した。「河朔の藩鎮が六十余年にわたって朝命を拒めたのは、諸州県にそれぞれ鎮将を置いて事を領させ、刺史・県令の権を取り上げて自ら威福を作ってきたからです。かりに刺史がそれぞれその職を行えたなら、安・史のような姦雄があっても、一州で独り反することはできなかったでしょう。臣が領する徳・棣・景の三州はすでに牒を出してそれぞれ刺史に職事を還し、州にある兵はみな刺史に領させました」。
  • 夏四月丙寅、詔して諸道の節度・都団練・都防禦・経略などの使が統べる支郡の兵馬は、みな刺史に領させることとした。至徳以来、節度使の権が重く、統べる諸州にそれぞれ鎮兵を置いて大将に主らせ、その横暴が患いとなっていたので、重胤が論じたのである。その後、河北の諸鎮のなかで横海が最も命に順ったのは、重胤の処置が宜しきを得たからである。
  • 秋七月丁丑朔、田弘正が武元衡を殺した賊の王士元ら十六人を送ってきた。詔して仗内・京兆府・御史台にあまねく取り調べさせると、みな白状して服した。京兆尹の崔元略が元衡の人相を尋ねると食い違いが多かった。元略がその理由を問うと、こう答えた。「恒と鄆が共謀して客を遣わして元衡を刺そうとしましたが、士元らは期に遅れました。恒の者が事を成したと聞いて、そのまま自分の功として盗み、還って賞を受けたのです。今、自ら量るに罪は同じで、結局は死を免れませぬゆえ、承知したまでです」。帝もあらためて弁ずることを望まず、ことごとく殺した。
  • 戊寅、宣武節度使の韓弘がはじめて入朝した。帝の待遇は甚だ厚かった。弘は馬三千、絹五千、雑繒三万、金銀の器千を献じたが、汴の庫と厩にはなお銭百余万緡、絹百余万匹、馬七千匹、糧三百万斛があった。

王遂の殺害と曹華の詐殺

  • 沂海兗密観察使の王遂はもと銭穀の吏で、性は狷介で短気、遠い見識がなかった。当時、軍府は創設まもなく人情は落ち着いていなかったが、遂はもっぱら厳酷を治めとし、用いる杖は常のものよりはるかに大きく、将卒を罵るたびに「反虜め」と言った。さらに盛夏に士卒を使役して府舎を営み、督責は厳しく急であった。将卒は憤り怨んだ。
  • 辛卯、役卒の王弁がその仲間四人と沂水で水浴びしながらひそかに乱を謀って言った。「今、役に服して罪に触れても死ぬ。命を奮って事を立てても死ぬ。事を立てて死ぬほうがまだましではないか。明日は常侍と監軍・副使に宴がある。軍将はみな休暇、当直の兵も多くは休んでいる。我らはこの隙に不意を衝いて取れば万全だ」。四人はみなそのとおりだと思い、事が成れば弁を留後に推すことを約した。
  • 壬辰、遂が宴飲してちょうど正午を過ぎたころ、弁ら五人が当直の部屋に突入して弓と刀を取り、まっすぐ進んで副使の張敦実を射て殺した。遂と監軍はあわてて逃げ出した。弁は遂を捕らえ、盛暑に役を興し、刑を用いること刻薄であったことを数え上げて、その場で斬った。「監軍を驚かせるな」と触れさせ、弁はそのまま留後を自称した。
  • 朝廷は沂州の軍乱を聞き、甲辰、棣州刺史の曹華を沂海兗密観察使とした。
  • 八月、朝廷は兵を興して王弁を討つことを議したが、青・鄆が煽り合って続けて変を起こすことを恐れ、弁を開州刺史に除して中使に告身を賜らせた。中使は欺いて言った。「開州にはもう迎えの者が道に控えております。留後は速やかに出発なさるがよろしい」。弁はその日のうちに沂州を発った。先導と従者はなお百余人あったが、徐州の境に入ると所々で減り、その衆も次第に逃げ散った。ついに手枷をはめられ驢馬に乗せられて関に入り、九月戊寅、東の市で腰斬された。
  • これより先、鄆の兵を三分して三鎮に隷属させていた。王遂が死ぬと、朝廷は師道の余党の凶悪な気質がまだ除かれていないと考え、曹華に棣州の兵を率いて鎮に赴いて討たせた。沂州の将士で出迎える者に、華はみな好い言葉で撫でて先に入城させ、慰め安んじたので、残る衆もみな疑わなかった。
  • 華は着任三日、大いに将士を饗し、甲士千人を幕の下に伏せておいて、衆を集めて諭した。「天子は鄆の人に移住の労があったとして特に手厚く支給される。鄆の人は右、沂の人は左に並べ」。並び終わると、沂の人をみな外へ出させ、そのうえで門を閉ざして鄆の人に言った。「王常侍は天子の命でここの帥となられた。将士がどうして害してよいものか」。言い終わらぬうちに伏せていた者が出て取り囲んで殺した。死者千二百人、一人も逃れられなかった。門と屏の間に赤い霧が一丈余り立ち上り、久しくしてようやく散じた。

史論(臣光曰)

  • 春秋は「楚子虔、蔡侯般を誘いて之を申に殺す」と書いた。あれは列国のことでありながら、孔子はなお深く貶した。誘い込んで討ったことを憎んだのである。まして天子の身で匹夫を誘うのはどうか。
  • 王遂は取り立ての才をもって新造の邦を治め、苛虐によって乱を招いた。王弁は凡庸の男で隙に乗じてひそかに事を起こしたにすぎぬ。かりに沂の帥にその人を得ていれば、これを戮すのは犬や豕よりたやすかったろう。どうして天子の詔書を人を誘う餌としなければならなかったのか。
  • しかも乱をなしたのは五人だけである。それを曹華に詐りを設けさせて千余人を屠らせた。濫に過ぎるではないか。とすれば今より士卒の誰が将帥を疑わずにおれよう。将帥は何をもって士卒に令せられよう。上下が横目で睨み合って寇讐のように群れ、隙あらば互いを食い合い、ただ先に手を出した者が雄となるだけだ。禍乱はいつ止むのか。
  • 惜しいことである。憲宗は僭乱を削り平らげ、ほとんど治平に至りながら、その美業がついに全うされなかったのは、目先の功に苟しくも殉じ、大いなる信を篤くしなかったからである。