通鑑紀事本末両税法の弊害(両税之弊)

唐初の均田租庸調の法から、安史の乱で戸籍と賦法が崩れ、楊炎の建議で建中元年(780年)に両税法が施行されるまでの経緯と、その後に現れた弊害を述べる。第五琦以来の大盈内庫を楊炎が左蔵に戻し、李泌は税外の取り立てを寛法で改めさせたが、元友直の税外徴収はかえって民を苦しめ、貞元九年には茶税が創設された。最後に陸贄が六条を奏し、資産本位の課税・銭納・考課・徴期・義倉・兼併の弊を論じる。

年表(8件)

高祖武徳七年(624年)――均田租庸調の法

  • はじめて均田と租庸調の法を定めた。丁と中の民には田一頃を給し、篤疾の者は十分の六を減じ、寡婦や妾は七を減じた。いずれも十分の二を世業(永代の所有)、八を口分とした。
  • 丁一人につき毎年、租として粟二石を納める。調は土地に適したものに従い、綾・絹・絁・布とする。毎年二十日の労役があり、労役に出ないときはその代わりに庸を収め、一日につき布三尺とする。事があって労役を加える場合、十五日で調を免じ、三十日で租も調もともに免ずる。水害・旱害・虫害・霜害があったときは、十分の四以上の損害で租を免じ、六以上で調を免じ、七以上で課役をともに免じた。
  • 民の資産は八等または九等に分け、百戸を里、五里を郷とし、四家を鄰、四鄰を保とした。城邑にあるものを坊、田野にあるものを村とした。俸禄を食む家は民と利を争ってはならず、工商の雑類は士の列に加われない。男女は生まれると黄、四歳で小、十六で中、二十で丁、六十で老とした。毎年、計帳を作り、三年ごとに戸籍を作った。

粛宗宝応元年(762年)――元載の「白著」

  • 租庸使の元載は、江淮は兵乱と飢饉を経たとはいえ、その民は諸道に比べればなお資産があると見て、帳簿を調べて八年分の租調の未納と逃亡分を挙げ、その大まかな総額を計算して徴収した。強引な役人を選んで県令とし、督促させた。負債の有無も資産の高低も問わず、粟や帛を持つ民を見つけると人を出して取り囲み、所有をすべて記録して半分を取り、ひどい場合は十のうち八、九を取った。これを「白著」といった。従わぬ者があれば厳刑で威した。民は穀十斛を蓄えていれば足がすくんで沙汰を待つばかり、あるいは相寄って山沢に隠れて群盗となり、州県も抑えられなかった。

代宗大暦十四年(779年)――大盈内庫の廃止

  • 旧制では天下の金帛はみな左蔵に貯え、太府が四季ごとにその数を上申し、比部がその出納を照合していた。だが第五琦が度支塩鉄使となったとき、京師には豪勢な将が多く、無節操に取り立てを求めた。琦は抑えられず、そこですべてを大盈内庫に貯えて宦官に掌らせるよう奏した。天子もそこから取るのが便利だとして、久しく外に出さなかった。
  • こうして天下の公の賦税が人君の私蔵となり、有司はもはやその多寡を窺うことも増減を照合することもできなくなって、ほぼ二十年に及んだ。その事に当たった宦官は三百余員に上り、みなその中を蚕食し、根を張り絡み合って、揺るがぬまでになっていた。
  • 楊炎が帝の前で頓首して言った。「財賦は国の大本、生民の命であり、軽重も安危もこれによらぬものはありません。それゆえ前世はみな重臣にその事を掌らせましたが、それでもなお乱れて整わぬことがありました。今、宦官だけに出入りと過不足を任せ、大臣はまったく知ることができません。政の弊害でこれ以上のものはありません。どうかこれを外に出して有司に帰し、宮中の年間の入費がどれほどかを見積もり、その数を量って納入し、不足がないようにしてください。そのうえではじめて政が行えます」。
  • 帝はその日のうちに詔を下し、財賦はみな左蔵に帰して、一切を旧式によることとし、毎年その中から精良なもの三千から五千匹を選んで大盈に進めることとした。炎はわずかな言葉で人主の意を動かしたので、議者はこれを称えた。

徳宗建中元年(780年)――両税法の施行

  • 春正月、はじめて楊炎の議を用い、黜陟使に観察使・刺史とともに百姓の丁と資産を調べて等級を定めさせ、両税法を作った。従来の新旧の徴収項目は一切廃し、両税のほかに一銭でも取り立てる者は、法を枉げた罪で論ずることとした。
  • 唐初の賦斂の法は租庸調といい、田があれば租、身があれば庸、戸があれば調があった。玄宗の末に戸籍は次第に壊れて実態と合わなくなり、至徳年間に兵乱が起こると、いたるところで賦斂は急き立てて間に合わせを取るばかりで、もはや一定の基準がなくなった。賦斂を司る役所は数を増したが互いに統括せず、それぞれ勝手に徴収して自ら項目を立て、新旧が積み重なって際限がなかった。民のうち富める者は丁が多くても官吏や僧になって課役を免れ、貧しい者は丁が多くても隠れる術がない。それゆえ上戸は優遇され下戸が苦しみ、役人はそれに乗じて蚕食した。民は十日ごとに納め月ごとに送って困弊に堪えられず、おおむね逃げ出して浮浪の戸となり、土着している者は百に四、五もなかった。
  • ここに至って炎が建議して両税法を作った。まず州県が毎年必要とする費用と上納すべき額を計算し、そのうえで人に賦課する。支出を量って収入を定めるのである。戸は土着か客かを問わず、現に居るところで簿に載せ、人は丁か中かを問わず、貧富によって差をつける。行商をする者はその所在の州県で三十分の一を税とし、定住者と均しくして不当な利を得させない。定住者の税は秋と夏の二度徴収する。その租庸調と雑徭はことごとく廃し、すべて度支が統括する。帝はその言を用い、赦令によってこれを施行した。

貞元三年(787年)――李泌の建言

  • このころ関東の防秋の兵が大挙して集まり、国用が足りなかった。李泌が奏した。「両税法に改めて以来、藩鎮や州県の多くは法に背いて取り立て、続いて朱泚の乱では、争って専売や取り立て、罰金を軍資とし、兵を集めて自衛しました。泚が平らいでからは、法に背いたことを自ら恐れて隠し、口に出せずにおります。どうか使者を遣わし、詔旨をもってその罪を赦し、ただ改めさせてください。法によって使や州に留めるべき分のほかは、ことごとく京師に納めさせ、官の未納で徴収できるものは徴収し、難しいものは免じて寛大さを示す。あえて隠す者があれば、告発への賞を重く設けて罪を問うことです」。
  • 帝は喜んで言った。「卿の策はきわめて優れている。だが法の立て方が寛すぎて、得るところが少ないのではないか」。泌は答えた。「このことは臣も熟考しました。寛くすれば得るところは多くて速く、厳しくすれば少なくて遅いのです。寛ければ人は罪を免れることを喜んで進んで納めますが、厳しければ争って隠し、取り調べねば実態がつかめません。財は今日の急を救うに足らず、みな姦吏の懐に入ってしまいます」。帝は「よろしい」と言い、度支員外郎の元友直を河南江淮南句勘両税銭帛使とした。

貞元四年(788年)

  • 春正月庚戌朔、天下に赦し、両税の等級は今後三年に一度定めるよう詔した。
  • 二月、元友直が淮南の銭帛二十万を長安に運んだ。李泌はこれをすべて大盈庫に納めた。しかし帝はなお何度も勝手に取り立てを命じ、そのうえ諸道に宰相には知らせるなと詔した。泌はこれを聞いて心を痛めたが、口に出せなかった。

史論(臣光曰)

  • 王者は天下を家とし、天下の財はみなその所有である。天下の財を豊かにして天下の民を養えば、自分もおのずとその中に入る。それをわざわざ私蔵とするのは、匹夫の卑しい心である。
  • 古人の言に「貧しければ倹約を学ぶまでもない」とある。財の多い者こそ、奢りの欲がそこから生まれるのだ。李泌は徳宗の欲を抑えようとしながら、その私財を豊かにした。財が豊かになれば欲は増す。財が欲に見合わなくなれば、求めずにいられようか。これは門を開けておきながら出るなと禁ずるようなものだ。徳宗に偏りが多かったとはいえ、泌の補佐の仕方も道にかなっていなかったのである。

  • 秋九月、元友直が諸道の税外の徴収物を調べて、ことごとく戸部に納めさせ、そのまま恒例の制度となった。毎年、税のほかに百余万緡・斛を納めることになり、民は堪えかねた。諸道の多くが帝に直訴し、帝も気づいて、本年すでに官に納められた分は京師へ送らせ、まだ納められていない分はすべて民に返し、翌年以降はすべて免ずると詔した。こうして東南の民はまた生業に安んじた。

貞元九年(793年)――茶税の創設

  • 春正月癸卯、はじめて茶に税をかけた。すべて州県で茶を産する所および茶山の外の要路で、みなその価を見積もって十分の一を税とした。塩鉄使の張滂の請いによる。滂は、昨年の水害で税が減って費用が足りぬので、茶に税をかけて補いたい、明年以降は茶税の銭をその所在地に別に貯えておき、水害や旱害があったときに民の田税に代える、と奏した。だがこれ以来、毎年茶税四十万緡を収めながら、一度も水害や旱害の救済に使われたことはなかった。

貞元十年(794年)――陸贄の六条

  • 夏五月、陸贄がまた奏して財賦の均衡と節度を請い、すべて六条を挙げた。

第一条――両税の弊を論ず

  • その大意はこうである。「旧制の賦役の法は租・調・庸といい、丁男一人に田百畝を受けさせ、毎年粟二石を納めるのを租といい、戸ごとに土地に応じて絹か綾か絁を合わせて二丈、綿三両を出し、養蚕のできぬ土地では布二丈五尺、麻三斤を出すのを調といい、丁ごとに毎年の労役に代えて収めるものを、一日につき絹三尺の割で庸といいました。天下を一つの家とし、法制は均一で、たとい移り住もうとしてもその不正の余地がなかった。ゆえに人心は揺れず、事には定まった制度がありました」。
  • 「ところが羯胡が中華を乱すと、万民は雲のように散り乱れ、戸籍は避難によって崩れ、賦法は軍への供給によって壊れました。建中の初め、あらゆる制度を作り直したとき、担当者は弊害を改めるべきことは知っていたが、行ったことは同時にその根本を見失い、簡素にすべきことは知っていたが、掴んだところは要を得ていませんでした。およそ弊を救おうとするなら、弊の生じた由来を究めねばなりません。時勢の弊ならその時勢を処理し、法の弊ならその法をまるごと改める。行うところが必ず当たってこそ、悔いがなくなるのです」。
  • 「兵が起こって以来、供給に限度がなかった。これは時勢の弊であって法の弊ではありません。それなのに急に租調庸の法を改め、使者を分け遣わして郡邑を探り、帳簿を照合し、州ごとに大暦年間で最も取り立ての多かった一年を取って両税の定額としました」。
  • 「そもそも財が生ずるのは必ず人の力による。ゆえに先王の賦の制度は必ず丁夫を本とし、農に励んだからといって税を増さず、耕作をやめたからといって租を減らさない。だから播種が多くなる。財産を増やしたからといって徴収を厚くせず、寄留したからといって調を免じない。だから土着が固くなる。励んだからといって役を重くせず、怠けたからといって庸を免じない。だから労力が勤勉になる。こうであるから人は居に安んじ、力を尽くすのです」。
  • 「両税の制は、ただ資産を宗とし、丁身を本としません。しかも気づいていないのは、資産といっても、懐や箱に隠せるものは高価でも人には窺えず、打ち場や倉に積んだものは値が安くても衆は富と見なし、流通して増える貨は数が少なくても日々利を生み、家屋や器具の類は値は高くても年中利を生まない――こうした違いが実に多いということです。これを一律に見積もって課税すれば、公平を失い偽りを助長するのも当然です」。
  • 「そこで身軽な資産を好んで転々と移る者はいつも徭役と税を逃れ、本業に励んで住まいと財産を構える者はいつも徴収に苦しむ。これは民を誘って不正に走らせ、駆り立てて役を避けさせるもの。労力は緩まざるを得ず、賦の収入も欠けざるを得ません」。
  • 「さらに制度を作った当初、公平を期さなかったため、供給には煩雑と簡略の別があり、牧守には有能と無能の差があって、所によって徭役と賦税の軽重が甚だしく隔たり、派遣された使臣の見解もそれぞれ異なりました。それが計上され奏上されて一度定まると、加えることはあっても除くことはない。しかも大暦年間の軍への供給や進奉の類はすでに両税に組み入れられているのに、今は両税のほかにまたそれが残っております。どうか少しずつ均して減らし、疲弊を救ってください」。

第二条――両税は布帛を単位とし銭で計らぬこと

  • その大意はこうである。「国の賦税はすべて人の力を量り、土地に適したものによる。賦として納めるものは布・麻・繒・纊と百穀だけです。先王は物の貴賤が均衡を失って人の交易に基準がなくなることを恐れ、そこで銭貨の法を定めて軽重の調節としました。収めるも放つも、締めるも緩めるも、必ずこれによる。財を制する大権であり、国を治める利の柄です。これを守るのは官にあって、下に任せません」。
  • 「してみれば穀と帛は人の作るもの、銭貨は官の作るものです。それゆえ国朝の法令では、租は穀を出し、庸は絹を出し、調は繒・纊・布を出すとある。いつ人が銭を鋳ることを禁じておきながら、銭を賦としたことがありましょうか」。
  • 「今の両税だけは旧章と異なり、ただ資産を見積もって差をつけ、そのうえで銭穀で税を定め、その場になって雑物に折り換えて徴収し、毎年その品目もかなり違う。ただ取り立てやすさばかりを計り、供出の難易は論じません。徴収するものは生業とするものではなく、生業とするものは徴収されない。そこで値を上げて手元にないものを買い、値を下げて手元にあるものを売る。一つ上がり一つ下がって、損耗はすでに大きいのです。どうか諸州がはじめて両税を納めた年の絹布の定価を調べ、今の時価と比べて、安いものは加え高いものは減じ、その中を酌み取って、課税すべき銭の総額を布帛の数に換算してください」。
  • またこうも言った。「そもそも地力が物を生ずるには限度がある。取るに節度があり用いるに節制があれば常に足り、取るに節度なく用いるに節制がなければ常に足りない。物の豊凶は天によるが、物を用いる多少は人による。それゆえ聖王は基準を立て、収入を量って支出を定めた。災難に遭っても下に困窮する者がない。治まりと教化が衰えるとその逆になり、支出を量って収入を定め、無いものを憐れまない。桀は天下を用いても足りず、湯は七十里を用いて余りがあった。用いるものの過不足は、節するか節せぬかにあるだけなのです」。

第三条――戸口・税・開墾の増加を長官の考課とすることを論ず

  • その大意はこうである。「人の上に立つ者で、忠恕をもって立場を替えて思いやり、至公と国のためという心を体することができる者はまれです。互いに小さな恩恵を行い、競って不正な民を誘い、隣境から奪い取ることを智能とし、逃亡者を集めることを治めと教化としております」。
  • 「あちらを捨ててこちらへ来た者は新収として優遇があり、たちまち行きたちまち来る者もまた復業として優遇される。ただ土地を思って安んじ住み、初めから終わりまで移らぬ者にだけ、徭役は日ごとに重くなり取り立ては日ごとに増す。これでは土着の人に常に怠け遊ぶ者の賦役を肩代わりさせるようなもの。転々と移ることを駆り立て、軽薄と偽りを教えるのと何が違いましょう。これは牧宰が広く通じることができず、それぞれ自分の管内だけを私する過ちによります」。
  • またこう言った。「法を立てて人を斉しくしても、久しければ弊のないことはない。治める者がもし操縦と加減の宜しきを知らなければ、巧みな偽りが芽生え、いつも褒賞と抑制のたびに増えていきます。どうか有司に命じて考課を詳しく定めてください。管内で人が豊かになり、定められた税額に余りが出たら、戸口に応じて均しく減らすことを許し、減らした数の多少をもって考課の等差とする。管内の税物を通計して一戸あたり十分の三を減らした者を上、二を減らした者をその次、一を減らした者をまたその次とする。もし人が多く流亡し、残った戸に税を加えるようであれば、比べて罰を課する法もまた同様とすべきです」。

第四条――徴税の期限が切迫していることを論ず

  • その大意はこうである。「官を置き国を立てるのは人を養うためであり、人に賦して財を取るのは国を助けるためです。明君はその助けとするものを厚くして、養うべきものを害することはない。ゆえに必ず人の仕事を先にしてその余暇の力を借り、家々の充足を先にしてその余った財を収めるのです」。
  • またこう言った。「養蚕がまさに始まったばかりで、もう絹の税を納めさせ、農作業がまだ終わらぬのに、たちまち穀の租を取り立てる。上司の督促は厳しく、下役の威圧はいよいよ急である。持つ者は急いで売って値の半ばを損ない、持たぬ者は借りて倍の利息を費やす。どうかあらためて徴税の期限を詳しく定めてください」。

第五条――茶税銭で義倉を置き水旱に備えること

  • その大意はこうである。「古に九年・六年の蓄えというのは、国中の臣民を通じて計った話であって、公の倉だけを豊かにして庶民には及ばぬということではありません。近ごろ有司が奏請して茶に税をかけ、毎年およそ五十万貫を得ています。もとの詔では戸部に貯えて百姓の飢饉を救うためとされました。今これで糧を蓄えるのが、まさに先の詔旨にかなうところです」。

第六条――兼併の家の私的取り立てが公税より重いことを論ず

  • その大意はこうである。「今、京畿の内では田一畝につき官の税は五升ですが、私家の取る小作料は一畝で一石に及ぶものさえある。これは官税の二十倍です。中等に下がってもなお半ばに当たります。そもそも土地は王者の所有、耕作は農夫の働きであるのに、兼併の徒が平然と利を得ております」。
  • またこう言った。「どうか占有する田すべてについておおよその制限を設け、小作料を減らして貧しい人を利するようにしてください。法は必ず行われることが貴く、慎むべきは酷薄に過ぎることです。その制度を寛やかにして俗に便ならしめ、その令を厳しくして違反を懲らしめる。余りある者から少しずつ損ない、足らぬ者をやや優遇する。損なっても富を失わせず、優遇すれば窮を救える。これこそ古の、富める者を安んじ窮する者を憐れむ善き道であり、捨ててはならぬものです」。