通鑑紀事本末裴延齢の奸悪(裴延齢姦蠹)

徳宗の貞元年間、陸贄の反対を押し切って度支を判じた裴延齢が、虚数の帳簿と別庫の名目で余剰をでっち上げ、ありもしない陂沢や巨材を奏して帝を惑わせた顛末。陸贄は趙高の指鹿為馬になぞらえてその姦詐を極論したが、かえって罷免され忠州別駕に貶され、李充・張滂・李銛も連座した。諫議大夫の陽城が諫官を率いて延英門に伏して救いを求め、金吾将軍の張万福がこれを祝したが、延齢は貞元十二年(796年)に戸部尚書のまま卒するまで寵を保った。

年表(5件)

徳宗貞元八年(792年)――度支を判ずる

  • 秋七月甲寅朔、戸部尚書・判度支の班宏が薨じた。陸贄は前湖南観察使の李巽に度支を権判させるよう請い、帝も許した。ところがのちに司農少卿の裴延齢を用いようとした。
  • 贄は上言した。「今の度支は万貨の平準を司るものです。けちけちすれば患いを生じ、緩やかにすれば不正を容れます。延齢はでたらめな小人であり、これを用いれば人々の耳目をひとしく驚かせましょう。禄を食んで職を果たさぬ責めは、もとより微臣に及ぶべきですが、人を知る明もまた聖上のご明察を傷つけることを恐れます」。帝は従わず、己未、延齢に度支の事を判じさせた。

貞元九年(793年)――虚数の粉飾

  • 秋七月癸卯、戸部侍郎の裴延齢が奏した。「度支を判じて以来、諸州の未納銭八百余万緡を調べ上げ、諸州の抽貫銭三百万緡、見本の物三十余万緡を収めました。別に欠負耗剰の季庫を置いてこれを掌り、染練の物には別に月庫を置いて掌りたい」。詔して従った。
  • しかし未納分はみな貧しい者のもので償える見込みはなく、ただ数字が残っているだけであり、抽貫銭は支給に回してたちまち尽き、見本や染練の物はいずれも左蔵の正規の物であった。延齢はただ別の庫を置いて名目と数を虚しく張り、帝を惑わせただけである。帝はこれを信じて国を富ませられる者と見て寵愛したが、実際には何も増えておらず、役人の帳簿仕事を無駄に費やしただけであった。
  • 京城の西の湿地に数畝ほど蘆が生えていた。延齢は「長安・咸陽に数百頃の陂沢があり、厩の馬を放牧できます」と奏した。帝が有司に見に行かせるとそんなものはなかったが、罪にもしなかった。
  • 左補闕の権徳輿が上奏した。「延齢は通常の賦のうち支出しきれずに残った分を取って余剰として自分の功とし、官がすでに買い上げた物にあらためて代価を払って別途の蓄えに充てております。辺境の軍はこの春から糧を支給されておりません。陛下がもし延齢は孤高で独り立ち、当世の人が正しい者を憎んで流言していると思われるなら、なぜ信頼できる臣を遣わして調べ直させ、その本末を究めて、賞罰を明らかになさらぬのですか。今、多くの人の声が朝廷にも市中にも喧しい。まさか京城の士庶がみな朋党だとでも言うのでしょうか。陛下もやや聖慮を回らせてお察しになるべきです」。帝は従わなかった。

貞元十年(794年)――陸贄の弾劾

  • 秋九月、裴延齢が「官吏が多すぎます。今後、欠員が出てもしばらく補わず、その俸給を収めて府庫を充たしたい」と奏した。
  • 帝が神竜寺を修理しようとして五十尺の松を求めたが手に入らなかった。延齢は「臣は近ごろ同州の谷で木を数千株見ましたが、いずれも八十尺はあります」と言った。帝が「開元・天宝の間ですら都の近郊に良材を求めて得られなかった。今どうしてそんなものがあろう」と言うと、「天が珍しい材を生ずるのは、もとより聖君を待って現れるのです。開元・天宝がどうして得られましょうか」と答えた。
  • 延齢はまた奏した。「左蔵庫の担当には紛失が多くありました。近ごろ点検して帳簿を作らせたところ、なんと塵芥の中から銀十三万両を得、その匹段や雑貨は百万余りに上ります。これはみなすでに棄てられていた物ですから、つまり余剰です。ことごとく雑庫に移して、別途の詔による支出に充てるべきです」。太府少卿の韋少華は納得せず、上表して抗弁し、「これらはみな毎月申告している現存の物です。取り調べを加えてください」と請うた。執政は三司に詳しく審査させるよう請うたが、帝は許さず、少華を罪にもしなかった。
  • 延齢は奏対のたびにほしいままに詭弁を弄した。いずれも誰もあえて口にできぬこと、あるいはこれまで聞いたこともないことばかりだったが、延齢は平然としていた。帝もそのでたらめをかなり知っていたが、人を誹るのを好むので外の事を聞けると期待し、親しんで厚遇した。群臣は延齢が寵を得ているのを恐れてあえて言わず、ただ塩鉄転運使の張滂、京兆尹の李充、司農卿の李銛が職務上関わりがあるためときどきその虚偽を証し、陸贄だけが一身をもって当たり、日々その不可を陳べた。
  • 冬十一月壬申、贄は上書して延齢の姦詐を極論し、その罪悪を数え上げた。その大意はこうである。
  • 「延齢は取り立てを長策とし、詭弁とでたらめを良謀とし、搾り取って怨みを集めることを身を顧みぬ忠とし、讒言に服し従うことを節を尽くすとしております。あらゆる典籍が憎むところを集めてこれを智術とし、聖人と哲人が戒めたところを冒してこれを行いの能とする。堯の代の共工、魯国の少正卯というべきです。その姦悪と害毒の跡をたどれば日ごとに伸び月ごとに増しており、ひそかに隠されたものはまだ十分に明るみに出ておらず、露見した分でさえ数え上げがたいほどです」。
  • 「陛下がもし彼が誹りを負っているとお思いなら、まことに速やかに弁明なさるべきです。陛下がもしその不良をご存じなら、どうして無理に庇い隠されるのですか」。
  • 「陛下がひとまず彼を保とうとして一度も詰問されぬので、延齢は目をくらませられると思い込み、もはや恐れも慮りもしない。東のものを西へ移してはそれを実績とし、こちらのものをあちらへ取ってはこれを余剰と号する。朝廷を愚弄すること、子供の遊びと同じです」。
  • 「偽り飾る態度、欺きの言葉は、事に遭えばすぐ行い、口を開けばすぐ出る。ない日はなく、ない時はない。とても具さには述べきれません」。
  • 「昔、趙高は鹿を指して馬とした。臣は思うに、鹿と馬とは物の類がまだ同じです。延齢が有るものを覆って無いとし、無いものを指して有るとするのに、どうして比べられましょう」。
  • 「延齢の凶悪とでたらめは天下に知れ渡り、上は公卿や近臣から下は下賤の者に至るまで、議論する者は億万を数えます。それを上に申し上げられる者が幾人ありましょう。臣は卑しい身でありながら台衡の任に当たっております。心中の激するところ、やめようと思ってもなお黙っていられません」。
  • 書が奏されると帝は不快になり、延齢をいよいよ厚遇した。

陸贄の罷免

  • 十二月、中書侍郎・同平章事の陸贄は、帝の待遇が厚いことを知っていたので、いけないことがあれば常に力を尽くして争った。親しい者が鋭すぎると諫めると、贄は「私は上は天子に背かず、下は学んだところに背かぬ。他に顧みるところはない」と言った。
  • 裴延齢は日々帝の前で贄をそしった。趙憬が宰相になったのは贄が引いたのだが、やがて贄に恨みを抱き、贄が延齢を弾劾している内容をひそかに延齢に告げた。それゆえ延齢はいよいよ手を打てるようになり、帝もこれによって延齢を信じて贄を正しいとしなくなった。
  • 贄は憬と約束して帝の前で延齢の姦邪を極論したが、帝は怒りを顔に表し、憬は黙って何も言わなかった。壬戌、贄は罷免されて太子賓客となった。

貞元十一年(795年)――陽城の直諫

  • 春二月、陸贄が罷相となると、裴延齢はそれに乗じて京兆尹の李充、衛尉卿の張滂、前司農卿の李銛が贄の党であると讒言した。折しも旱害があり、延齢は奏した。「贄らは勢いを失って怨み、人前で『天下は旱で百姓は流亡しようとしている。度支は諸軍の飼葉と糧を多く欠いており、軍中の人馬は食うものがない。この事をどうする』などと言い立てて衆心を動揺させております。その意図は臣を中傷するだけにとどまりません」。
  • 数日後、帝が禁苑で狩りをしていると、たまたま神策軍の兵士が「度支が馬の飼葉を支給しません」と訴えた。帝は延齢の言が事実だと思い、急ぎ宮に還った。夏四月壬戌、贄を忠州別駕、充を涪州長史、滂を汀州長史、銛を邵州長史に貶した。
  • はじめ陽城は処士から諫議大夫に召された。官を拝しても辞さず、まだ京師に着かぬうちから、人々はその風采を思い描いて「城は必ず諫争して職に死ぬだろう」と言った。ところが着任してからは、諸々の諫官が次々に細かい事を言い立てて天子がますます厭い苦しんでいるのを見て、城は二人の弟と客とともに日夜痛飲し、誰もその心底を窺えなかった。みな名ばかりの人だと思った。前進士で河南の韓愈は「争臣論」を作ってこれを譏ったが、城は意に介さなかった。城を訪ねて問いただそうとする者があると、城はその意を察して、無理に酒を強いた。客が先に酔って席に倒れることもあれば、城が先に酔って客の懐に臥して客の話が聞けぬこともあった。
  • 陸贄らが罪を得て貶されると、帝の怒りはまだ解けず、中外は恐れおののき、罪はどこまで及ぶか分からぬとして、あえて救おうとする者がなかった。城はこれを聞いて立ち上がり、「天子に姦臣を信用させて無罪の人を殺させてはならぬ」と言い、ただちに拾遺の王仲舒・帰登、右補闕の熊執易・崔邠らを率いて延英門を守り、上疏して延齢の姦佞と贄らの無罪を論じた。帝は大いに怒って城らを罪しようとしたが、太子が取りなしたので帝の意も解け、宰相に諭して帰らせた。
  • ここで金吾将軍の張万福は諫官が閤に伏して諫めていると聞き、駆けつけて延英門に至り、大声で祝して言った。「朝廷に直臣がある。天下は必ず太平だ」。そして城と仲舒らに残らず拝礼し、続けて「太平万歳、太平万歳」と呼び続けた。万福は武人で年八十余、これより名は天下に重んじられた。登は帰崇敬の子である。
  • 当時、朝な夕なに延齢が宰相になると言われていた。陽城は言った。「もし延齢が宰相となったら、私は白麻の詔書を取り上げて破り、廷で慟哭してみせる」。
  • 李繁という者があり、李泌の子である。城は延齢の過ちと悪をことごとく書き並べ、ひそかに論奏しようとして、繁が旧友の子であるので清書させた。ところが繁はそのまま延齢に告げ、延齢は先回りして帝のもとへ行き、一つ一つ自ら弁解した。疏が届いても、帝はでたらめと思って目も通さなかった。

貞元十二年(796年)――裴延齢の死

  • 春三月、戸部侍郎の裴延齢を戸部尚書とし、使職はもとのままとした。
  • 秋九月丙午、戸部尚書・判度支の裴延齢が卒した。中外の人々は互いに祝ったが、帝だけがこれを悼み惜しんだ。