通鑑紀事本末吐蕃の侵入(代宗の陝州行幸)(吐蕃入寇)

開元末に崔希逸が盟約を破って青海の西を襲ってから、唐と吐蕃の全面的な争いが再燃し、王忠嗣・哥舒翰・高仙芝らが石堡城や小勃律をめぐって血を流した。安史の乱で辺兵が内地に抽かれると河西・隴右は次々に失われ、広徳元年(763年)には吐蕃が長安に入って代宗は陝へ落ちのび、郭子儀が疑兵の計で都を回復した。以後も僕固懐恩に導かれた来寇、霊州・邠涇の攻防、宜禄・塩倉の敗戦が続き、元載の原州築城の献策も彼の失脚とともに沙汰止みとなるまでの三十八年間。

年表(11件)

玄宗開元二十五年(737年)――崔希逸の背信

  • 春二月己亥、河西節度使の崔希逸が吐蕃を襲い、青海の西でこれを破った。
  • はじめ希逸は使者を遣わして吐蕃の辺将の乞力徐に言わせた。「両国は好みを通じ、今は一家同然だ。どうして兵を置いて守り、人の耕作や牧畜を妨げる必要があろう。どちらも撤するがよい」。乞力徐は答えた。「常侍は忠厚な方、その言に偽りはありますまい。しかし朝廷が必ずしも辺境の事をすべてあなたに委ねているとは限りません。万一、姦人がその間を掻き乱し、我らの無備を衝いたら、悔やんでも及びません」。希逸が強く請うので、白い犬を屠って盟い、双方とも守備を撤した。こうして吐蕃の家畜は野に満ちた。
  • そのころ吐蕃は西の勃律を撃ち、勃律が急を告げてきた。帝が吐蕃に兵を退くよう命じたが、吐蕃は詔を奉じず、ついに勃律を破った。帝は大いに怒った。折しも希逸の従者の孫誨が奏事のため入京し、自ら功を求めようとして、吐蕃には備えがないので不意を撃てば必ず大戦果が得られると奏した。帝は内給事の趙恵琮を誨とともに派遣して事情を確かめさせた。ところが恵琮らは現地に着くと詔を偽って希逸に襲撃を命じた。
  • 希逸はやむを得ず兵を発し、涼州から南へ吐蕃領内に二千余里入り、青海の西で吐蕃と戦って大破し、二千余級を斬った。乞力徐は身一つで逃れた。恵琮と誨はともに厚い賞を受けた。これより吐蕃はまた朝貢を絶った。

開元二十六年(738年)――河西・隴右の攻防

  • 春三月、吐蕃が侵入したが、河西節度使の崔希逸が撃ち破った。鄯州都督・知隴右留後の杜希望が吐蕃の新城を攻めて抜き、その地を威戎軍として兵一千を置いて守らせた。
  • 夏五月乙酉、李林甫に河西節度使を兼ねさせた。丙申、崔希逸を河南尹とした。希逸は吐蕃に信を失ったことを思い、内心恥じ恨んで、ほどなく死んだ。
  • 六月辛丑、岐州刺史の蕭炅を河西節度使として留後の事を統べさせ、鄯州都督の杜希望を隴右節度使、太僕卿の王昱を剣南節度使として、道を分けて吐蕃を攻略させ、あわせて赤嶺に立てた碑を毀った。
  • 秋七月、杜希望は鄯州の衆を率いて吐蕃の河橋を奪い、河の左岸に塩泉城を築いた。吐蕃は兵三万を発して迎え撃った。希望の衆は少なくて敵し得ず、将卒はみな恐れた。左威衛郎将の王忠嗣が部下を率いて先にその陣を衝き、向かうところ道が開け、数百人を殺した。虜の陣が乱れると希望は兵を放って乗じ、虜はついに大敗した。塩泉に鎮西軍を置き、忠嗣は功により左金吾将軍に昇った。
  • はじめ儀鳳年間に吐蕃が安戎城を陥れて拠っていた。その地は険要で、唐はしばしば攻めたが落とせなかった。剣南節度使の王昱はその側に二つの城を築き、蒲婆嶺の下に軍を駐めて、物資と食糧を運んで圧迫した。吐蕃が大いに兵を発して安戎城を救うと、昱の衆は大敗して死者数千人。昱は身一つで逃れ、糧食も武具も軍資もみな棄てた。昱は括州刺史に貶され、さらに高要尉に貶されて死んだ。

開元二十七年(739年)

  • 秋八月壬午、吐蕃が白草・安人などの軍を侵したが、隴右節度使の蕭炅が撃ち破った。

開元二十八年(740年)――安戎城の奪回

  • 春三月、章仇兼瓊はひそかに安戎城中の吐蕃の翟都局および維州別駕の董承晏と謀を結び、都局に門を開かせて唐兵を引き入れ、吐蕃の将卒をことごとく殺し、監察御史の許遠に兵を率いて守らせた。遠は許敬宗の曾孫である。
  • 夏六月、吐蕃が安戎城を囲んだ。
  • 冬十月、吐蕃が安戎城と維州を侵したので、関中の精騎を発して救わせると、吐蕃は引き揚げた。安戎城を平戎と改称した。
  • 十二月、金城公主が薨じた。吐蕃は喪を告げ、あわせて和を請うたが、帝は許さなかった。

開元二十九年(741年)

  • 夏六月、吐蕃四十万の衆が侵入して安仁軍に至った。渾崖峰の騎将の臧希液が衆五千を率いて撃ち破った。
  • 冬十二月乙巳、吐蕃が達化県を屠り、石堡城を陥れた。蓋嘉運は防ぎきれなかった。

天宝年間(742–755年)――石堡城と小勃律

  • 天宝二年(743年)夏四月丁亥、皇甫惟明が軍を率いて西平を出て吐蕃を撃ち、千余里を行軍して洪済城を攻めて破った。
  • 天宝四載(745年)秋九月、隴右節度使の皇甫惟明が石堡城で吐蕃と戦って敗れ、副将の褚誗が戦死した。
  • 天宝六載(747年)冬十月、河西隴右節度使の王忠嗣は部将の哥舒翰を大将軍副使、李光弼を河西兵馬使・充赤水軍使とした。翰の父祖はもと突騎施の別部の酋長、光弼は契丹の王である楷洛の子で、いずれも勇と略をもって忠嗣に重んじられていた。忠嗣が翰に吐蕃を撃たせたとき、同僚で副将となった者が傲慢で使い物にならなかったので、翰は打ち殺した。軍中は震え上がった。翰は功を重ねて隴右節度副使に至った。
  • 毎年、積石軍の麦が熟すると吐蕃がやって来て刈り取り、防げる者がなく、辺境の人々は「吐蕃の麦荘」と呼んでいた。翰はあらかじめその側に兵を伏せ、虜が来ると後ろを断って挟み撃ちにし、一人も帰れなかった。これより吐蕃は二度と来なくなった。
  • 帝は王忠嗣に吐蕃の石堡城を攻めさせようとした。忠嗣は上言した。「石堡は険しく堅固で、吐蕃は国を挙げて守っております。今、兵をその下に据えれば、数万人を死なせずには落とせません。臣は得るところが失うところに及ばぬことを恐れます。しばらく兵を厲まし馬を養い、隙が生じるのを待ってから取るに如くはありません」。帝は不快であった。
  • 将軍の董延光が自ら兵を率いて石堡城を取りたいと請い、帝は忠嗣に兵を分けて助けさせた。忠嗣はやむを得ず詔を奉じたが、延光の望むところを十分には満たさなかったので、延光は恨んだ。
  • 李光弼が忠嗣に言った。「大夫は士卒を愛するがゆえに延光の功を成らせたくないのでしょう。制書に迫られたとはいえ、実際にはその計画を挫いておられる。なぜそう分かるか。今、数万の衆を授けながら重い賞を立てておられない。士卒がどうして力を尽くしましょう。しかしこれは天子のお考えです。彼は功が挙がらなければ必ず罪を大夫に帰します。大夫の軍府は物資が満ちております。なぜ数万段の帛を惜しんで、その讒言の口を塞がぬのですか」。
  • 忠嗣は答えた。「今、数万の衆で一城を争っても、得たところで敵を制するには足らず、得られなくとも国に害はない。だからわしはやりたくないのだ。わしが今、天子に責められても、せいぜい金吾か羽林の一将軍として宿衛に戻されるくらい、悪くて黔中の上佐だろう。わしがどうして数万人の命を一つの官と引き替えにできようか。李将軍よ、君はまことにわしを思ってくれた。だがわしの志は決まっている。もう言うな」。光弼は「先ほどは大夫のご迷惑になるかと思って申し上げずにいられなかったのです。今、大夫は古人の行いをなさろうとしている。私などの及ぶところではありません」と言って、急ぎ退出した。
  • 延光は期限を過ぎても落とせず、忠嗣が軍の計画を妨げたと言った。帝は怒った。李林甫はこれに乗じて済陽別駕の魏林に、忠嗣がかつて「わしは幼くして宮中に養われ、忠王と親しく睦んだ。兵を擁して太子を尊び奉りたい」と言ったと告げさせた。詔して忠嗣を召して入朝させ、三司に審理を委ねた。
  • 帝は哥舒翰の名を聞いて華清宮に召して会い、語り合って気に入った。十一月辛卯、翰に西平太守を判じさせ、隴右節度使に充て、朔方節度使の安思順に武威郡の事を判じさせ、河西節度使に充てた。

高仙芝の小勃律遠征

  • はじめ将軍の高仙芝はもと高麗の人で、安西で従軍していた。仙芝は驍勇で騎射に巧みであった。節度使の夫蒙霊詧がしばしば推薦し、安西副都護・都知兵馬使・充四鎮節度副使にまで至った。
  • 吐蕃は娘を小勃律王に嫁がせ、その周辺の二十余国もみな吐蕃に付いて、貢献が入らなくなった。前後の節度使が討伐したがいずれも落とせなかったので、仙芝を行営節度使として一万騎を率いて討たせた。安西から百余日かけて特勒満川に至り、軍を三道に分けて七月十三日に吐蕃の連雲堡の下で合流することとした。
  • 連雲堡には一万近い兵がいたが、唐兵が突然来るとは思わず大いに驚き、山に依って拒み戦い、礮石や檑木が雨のように降った。仙芝は郎将で高陵の人の李嗣業を陌刀将として命じた。「正午までに必ず虜を破れ」。嗣業は旗一本を執り、陌刀隊を率いて険を伝って真っ先に登り、力戦して辰の刻から巳の刻まで戦い、大破して五千級を斬り、千余人を捕虜とし、残りはみな逃げ散った。
  • 中使の辺令誠は虜の領内に深く入りすぎたことを恐れ、進もうとしなかった。仙芝は令誠に弱兵三千を与えてその城を守らせ、さらに進んで三日で坦駒嶺の下に至った。険しい坂が四十余里、その先に阿弩越城がある。仙芝は士卒が険を憚って下りたがらぬことを恐れ、あらかじめ人に胡服を着せて阿弩越の守将の使者を装わせ、降伏を申し出させた。「阿弩越は真心から唐に帰します。娑夷水の藤橋はもう斬り落としました」。娑夷とはすなわち弱水で、その水は草の芥さえ浮かべられない。藤橋は吐蕃へ通ずる路である。仙芝は喜んだふりをし、士卒はそこで坂を下りた。
  • さらに三日して、阿弩越城からの出迎えが果たして来た。翌日、仙芝は阿弩越城に入り、将軍の席元慶に千騎を率いて先行させ、こう言った。「小勃律は大軍が来ると聞けば、君臣も百姓も必ず山谷に逃げよう。ともかく呼び出して、繒帛を取り出し、詔で賜ると称して与えよ。大臣が来たらみな縛って私を待て」。元慶はそのとおりにして諸大臣をことごとく縛った。王と吐蕃の公主は石窟に逃げ込んで捕らえられなかった。仙芝は到着すると吐蕃に付いていた大臣数人を斬った。
  • 藤橋は城からなお六十里あった。仙芝は急ぎ元慶を遣わして斬らせた。斬り終えたところへ吐蕃の兵が大挙して来たが、もう間に合わなかった。藤橋の幅は矢の届く距離いっぱいで、修復には一年かかる。
  • 八月、仙芝は小勃律王と吐蕃の公主を捕らえて還り、九月に連雲堡で辺令誠と合流し、月末に播密川に至って使者を遣わして上奏した。河西の夫蒙霊詧は、仙芝が自分に先に告げず、いきなり奏上したことに怒り、まったく出迎えて労おうとせず、罵って言った。「犬の糞を食らう高麗奴め。お前の官は誰のおかげで得たと思っている。それをわしの指図も待たず、勝手に捷書を奏したな。高麗奴め、お前の罪は斬に当たる。ただお前に新たな功があるゆえ忍びぬだけだ」。仙芝はただ罪を謝するばかりであった。

石堡城の攻略

  • 天宝七載(748年)冬十二月、哥舒翰が青海のほとりに神威軍を築いた。吐蕃が来たが翰が撃ち破った。さらに青海の中の竜駒島に城を築き、応竜城と名づけた。吐蕃は跡を絶ってあえて青海に近づかなくなった。
  • 天宝八載(749年)夏六月、帝は隴右節度使の哥舒翰に、隴右・河西および突厥の阿布思の兵を率いさせ、朔方・河東の兵を加えて総勢六万三千で吐蕃の石堡城を攻めさせた。その城は三面が絶壁で、ただ一筋の道だけが登れる。吐蕃はわずか数百人で守り、糧食を多く貯え、檑木と石を積んでおり、唐兵が前後にしばしば攻めても落とせなかった。翰は進んで数日攻めても抜けず、禆将の高秀巖と張守瑜を召して斬ろうとした。二人が三日の猶予を請い、期日どおりに落とした。吐蕃の鉄刃悉諾羅ら四百人を捕らえたが、唐の士卒の死者は数万に上り、果たして王忠嗣の言ったとおりであった。
  • ほどなく翰はまた兵を遣わして赤嶺の西に屯田を開き、罪を得た兵卒二千で竜駒島を守らせた。冬に湖が氷結すると吐蕃が大挙して集まり、守っていた者はことごとく死んだ。
  • 閏月乙丑、石堡城を神武軍とした。
  • 天宝九載(750年)冬十二月、関西遊弈使の王難得が吐蕃を撃って五橋に勝ち、樹敦城を抜いた。難得を白水軍使とした。
  • 天宝十四載(755年)春正月、蘇毗の王子の悉諾邏が吐蕃を離れて降ってきた。夏四月癸巳、悉諾邏を懐義王とし、姓名を賜って李忠信とした。吐蕃の贊普の乞梨蘇籠猟贊が卒し、子の娑悉籠猟贊が立った。

安史の乱後の失地(756–762年)

  • 粛宗至徳元載(756年)、吐蕃が威戎・神威・定戎・宣威・制勝・金天・天成などの軍と、石堡城・百谷城・雕窠城を陥れた。
  • 至徳二載(757年)冬十月、吐蕃が西平を陥れた。
  • 乾元元年(758年)、吐蕃が河源軍を陥れた。
  • 上元元年(760年)、吐蕃が廓州を陥れた。
  • 宝応元年(762年)建寅月甲辰、吐蕃が使者を遣わして和を請うた。

代宗広徳元年(763年)――長安の陥落と陝への行幸

  • 夏四月、郭子儀はしばしば上言して、吐蕃と党項を侮ってはならぬ、早く備えるべきだと述べた。辛丑、兼御史大夫の李之芳らを吐蕃に遣わしたが、虜に留められ、二年してようやく帰ることができた。
  • 秋七月、吐蕃が大震関に入り、蘭・廓・河・鄯・洮・岷・秦・成・渭などの州を陥れ、河西・隴右の地をことごとく取った。
  • 唐は武徳以来、辺境を開拓して地は西域に連なり、いずれにも都督府と州県を置いた。開元年間には朔方・隴右・河西・安西・北庭の諸節度使を置いて統べさせ、毎年山東の丁壮を発して守備兵とし、繒帛を軍資とし、屯田を開いて糧食に充て、監牧を設けて馬牛を飼い、軍城と守備の砦は万里にわたって望み合っていた。だが安禄山が反すると、辺兵の精鋭はみな徴発されて救援に入り、これを行営と称した。残された兵は少なく弱く、胡虜が次第にこれを蚕食して、数年の間に西北の数十州が相次いで陥没し、鳳翔から西、邠州から北はみな夷狄の地となった。
  • 吐蕃がはじめて侵入したとき、辺将が急を告げても程元振はみな奏聞しなかった。冬十月、吐蕃が涇州を侵すと、刺史の高暉が城を挙げて降り、そのまま道案内となって吐蕃を深く引き入れ、邠州を過ぎた。帝ははじめてこれを知った。
  • 辛未、奉天・武功を侵し、京師は震え上がった。詔して雍王の适を関内元帥、郭子儀を副元帥とし、咸陽に出鎮して防がせた。子儀は閑職に置かれて久しく、部下も離散していたので、このとき募って二十騎を得て出発した。咸陽に至ると、吐蕃は吐谷渾・党項・氐・羌の二十余万の衆を率い、数十里にわたって満ち広がり、すでに司竹園から渭水を渡って山沿いに東へ進んでいた。子儀は判官で中書舎人の王延昌を入奏させて増兵を請うたが、程元振が阻んで、ついに引見されなかった。
  • 癸酉、渭北行営兵馬使の呂月将が精兵二千を率いて盩厔の西で吐蕃を破った。乙亥、吐蕃が盩厔を侵し、月将はまた力戦したが兵は尽き、虜に捕らえられた。
  • 帝がまさに兵を整えようとしているうちに、吐蕃はすでに便橋を渡っていた。あわてて為すすべを知らず、丙子、陝州へ落ちのびた。官吏は隠れ、六軍は逃げ散った。郭子儀はこれを聞いて急ぎ咸陽から長安に帰ったが、着いたときには車駕はすでに去っていた。
  • 帝がやっと苑門を出て滻水を渡ったとき、射生将の王献忠が四百騎を擁して叛き、長安に引き返して、豊王の珙ら十人の王を脅して西へ吐蕃を迎えに行こうとした。開遠門の内で子儀に出くわし、子儀が叱りつけると、献忠は馬を下りて子儀に言った。「今、主上は東へ遷られ、社稷に主がありません。令公は元帥の身。廃立は一言で決まりましょう」。子儀が応じずにいると、珙が順序を越えて「公はなぜ何も言われぬ」と言った。子儀はこれを責め、兵をつけて行在へ送らせた。
  • 丁丑、車駕は華州に至った。官吏は逃げ散って何の用意もなく、扈従の将士は凍えと飢えを免れなかった。折しも観軍容使の魚朝恩が神策軍を率いて陝から迎えに来たので、帝は朝恩の営に入った。豊王の珙は潼関で帝に謁見した。帝は責めなかったが、退いて幕中で不遜な言葉を吐いたので、群臣が誅殺を奏請し、死を賜った。
  • 戊寅、吐蕃が長安に入った。高暉と吐蕃の大将の馬重英らは、故邠王の守礼の孫である広武王の承宏を帝に立て、改元して百官を置き、前翰林学士の于可封らを宰相とした。吐蕃は府庫と市街を掠奪し、家々を焼き、長安は寂寞として空になった。苗晋卿は病んで家に臥していたが、人を遣わして輿で運び込み脅した。晋卿は口を閉ざして何も言わず、虜もあえて殺さなかった。こうして六軍の散った者はいたるところで掠奪し、士民は乱を避けてみな山谷に入った。
  • 辛巳、帝は陝に至り、百官も少しずつ集まってきた。
  • 郭子儀は三十騎を率いて御宿川から山沿いに東へ向かい、王延昌に言った。「六軍の将士で潰えた者の多くは商州にいる。今すぐ行って収め、あわせて武関の守備兵を発すれば、数日のうちに北へ藍田に出て長安に向かえる。吐蕃は必ず逃げよう」。藍田を過ぎたところで元帥都虞候の臧希譲と鳳翔節度使の高昇に出会い、千人近い兵を得た。子儀は延昌と謀って言った。「潰兵が商州に至れば官吏は必ず逃げ隠れて、人心が乱れる」。延昌をまっすぐ商州に入らせて宥め諭させた。諸将はちょうど兵を放って掠奪させていたが、子儀が来ると聞くとみな大いに喜んで命に従った。
  • 子儀は吐蕃が乗輿に迫ることを恐れ、七盤に軍を留めて三日してから進んだ。商州に至るまでに兵を収め、武関の守備兵とあわせて四千人となり、軍勢はやや振るった。子儀は泣いて将士に諭し、ともに国恥を雪いで長安を取り戻そうと言うと、みな感激して統制に従った。子儀は太子賓客の第五琦を糧料使として軍糧を供給するよう請うた。
  • 帝は子儀に詔を賜り、吐蕃が東へ潼関を出るのを恐れて行在に来るよう召した。子儀は表を上げて「臣は京城を回復せぬうちは陛下にお目にかかれません。もし兵を藍田に出せば、虜は必ず東へは向かいますまい」と述べ、帝は許した。
  • 鄜坊節度判官の段秀実が節度使の白孝徳に兵を率いて難に赴くよう説き、孝徳はその日のうちに大挙して南の京畿へ向かい、蒲・陝・商・華と勢いを合わせて進撃した。
  • 吐蕃は広武王の承宏を立てたのち、城中の士女と職人を掠め取り、軍を整えて帰国しようとした。子儀は左羽林大将軍の長孫全緒に二百騎を率いて藍田に出させ、虜の様子を窺わせ、第五琦に京兆尹を摂させて同行させ、さらに宝応軍使の張知節に兵を率いて続かせた。
  • 全緒は韓公堆に至ると、昼は太鼓を打って旗を張り、夜は多くの火を焚いて吐蕃を惑わせた。前光禄卿の殷仲卿は千人近い衆を集めて藍田を保ち、全緒と表裏をなして、二百余騎を率いてまっすぐ滻水を渡った。吐蕃は恐れ、百姓もまた欺いて「郭令公が商州から大軍を率いて来る。その数は知れぬ」と言った。虜はそれを真に受けて、少しずつ軍を引いて去った。全緒はさらに射生将の王甫を城内に入れ、ひそかに少年数百人を集めさせ、夜、朱雀街で太鼓を打って大声をあげさせた。吐蕃は慌てふためき、庚寅、全軍を挙げて逃げ去った。高暉はこれを聞いて麾下三百余騎を率いて東へ走り、潼関に至って守将の李日越に捕らえられ殺された。
  • 壬辰、詔して元載に元帥行軍司馬を判じさせ、第五琦を京兆尹とした。癸巳、郭子儀を西京留守とした。甲午、子儀は商州を発した。己亥、魚朝恩の部将の皇甫温を陝州刺史、周智光を華州刺史とした。

柳伉の上疏

  • 吐蕃の侵入に際し、驃騎大将軍・判元帥行軍司馬の程元振は時を移して奏さず、帝をあわてて避難させることになった。帝が詔を発して諸道の兵を徴しても、李光弼らはみな元振を憚って駆けつける者がなかった。中外はみな歯噛みしたが、あえて口に出す者はいなかった。太常博士の柳伉が上疏した。
  • その趣旨はこうである。「犬戎が関を犯し隴を越え、刃に血塗らずして京師に入り、宮闕を劫かし陵寝を焼きましたが、武士に一人として力戦する者がありませんでした。これは将帥が陛下に叛いたのです。陛下は元勲を遠ざけ、身近な者に委ね、日を追い月を重ねて大禍を成しました。廷にある群臣に、一人として顔を犯して考え直させようとする者がありませんでした。これは公卿が陛下に叛いたのです。陛下がはじめ都を出られたとき、百姓は騒ぎ立って府庫を奪い合い、互いに殺し合いました。これは三輔が陛下に叛いたのです。十月朔に諸道の兵を召してから四十日、関に入った車輪一つありません。これは四方が陛下に叛いたのです」。
  • 「内外が離れ叛いております。陛下は今日の情勢を安と見られるか、危と見られるか。もし危と見られるなら、どうして枕を高くして天下のために罪人を討たずにおられましょう。臣は聞きます、良医が病を療すには病に当たる薬を飲ませる、薬が病に当たらねば益はないと。陛下は今日の病がどこから来たとご覧になりますか」。
  • 「必ず宗廟社稷を存そうとされるなら、ただ元振の首を斬って天下に馳せ告げ、内使をことごとく出して諸州に隷属させ、神策の兵を大臣に付されよ。そのうえで尊号を削り、詔を下して自ら咎を引いてこう言われよ――『天下がもし朕の自新と改過を許すなら、ただちに士を募って西へ赴かせよ。もし朕の悪が改まらぬと見るなら、帝王の大器をどうして聖賢の妨げにできようか。天下の向かうところに任せる』と。これでなお兵が来ず、人が感じず、天下が服さぬなら、臣は門を閉ざして寸断され、陛下にお詫びいたします」。
  • 帝は元振にかつて保護の功があったとして、十一月辛丑、元振の官爵を削って郷里に帰らせた。
  • 吐蕃は帰途、鳳翔に至った。節度使の孫志直は城を閉ざして守り、吐蕃は数日囲んだ。鎮西節度使の馬璘は車駕が陝に行幸したと聞き、精騎千余を率いて河西から難に赴き、転戦して鳳翔に至ったところ、吐蕃の囲みに遭った。璘は衆を率いて弓を引き絞って外へ向け、城中に突入したが、甲も脱がずに城を背にして出て戦い、単騎で士卒に先んじて奮撃し、捕虜と斬首は千を数えて帰った。翌日、虜がまた城に迫って戦いを請うと、璘は懸門を開いて待ち受けた。虜は退いて「この将軍は死を惜しまぬ。避けるがよい」と言い、そのまま去って、原・会・成・渭の地に居を構えた。
  • 十二月丁亥、車駕が陝州を発った。左丞の顔真卿は、帝がまず陵と廟に詣でてから宮に還るよう請うたが、元載は従わなかった。真卿は怒って「朝廷は相公にもう一度壊されるのに堪えられましょうか」と言った。載はこれを恨んだ。甲午、帝は長安に至った。郭子儀は城中の百官と諸軍を率いて滻水の東で迎え、地に伏して罪を待った。帝は労って「卿を用いるのが遅かった。ゆえにこんなことになったのだ」と言った。
  • 魚朝恩を天下観軍容宣慰処置使として禁兵を統べさせた。その権勢と寵愛は比べる者がなかった。鄠県と中渭橋に城を築き、兵を駐屯させて吐蕃に備え、駱奉仙を鄠県築城使としてその兵を率いさせた。
  • 吐蕃が松・維・保の三州および雲山と新たに築いた二城を陥れた。西川節度使の高適は救えず、こうして剣南西山の諸州もまた吐蕃のものとなった。

広徳二年(764年)――懐恩の反乱と併せた来寇

  • 僕固懐恩が反した。秋八月、涇原が、懐恩が回紇・吐蕃十万の衆を引き入れて侵入すると奏し、京師は震え上がった。詔して郭子儀に諸将を率いて奉天に出鎮させた。辛巳、子儀は奉天へ発った。
  • 九月辛亥、郭子儀を北道の邠寧・涇原・河西以西の通和吐蕃使、陳鄭澤潞節度使の李抱玉を南道通和吐蕃使とした。子儀は吐蕃が邠州に迫ったと聞き、甲寅、子で朔方兵馬使の晞に兵一万を率いさせて救わせた。
  • 己未、剣南節度使の厳武が吐蕃七万の衆を破り、当狗城を抜いた。邠寧節度使の白孝徳が宜禄で吐蕃を破った。
  • 冬十月、僕固懐恩が回紇・吐蕃を率いて邠州に至った。庚午、厳武が吐蕃の塩川城を抜いた。僕固懐恩が回紇・吐蕃とともに奉天に迫り、京師は戒厳された。

永泰元年(765年)

  • 春三月庚戌、吐蕃が使者を遣わして和を請い、詔して元載・杜鴻漸を興唐寺で盟わせた。
  • 秋九月、僕固懐恩が回紇・吐蕃数十余万の衆を誘ってともに侵入した。剣南節度使の厳武は将軍の崔旰を漢州刺史として、兵を率いて西山で吐蕃を撃たせ、続けてその数城を抜き、数百里の地を奪った。

大暦年間(766–774年)――辺境の攻防

  • 大暦元年(766年)春二月己亥、大理少卿の楊済に吐蕃と和を修めさせた。
  • 大暦二年(767年)夏四月庚子、宰相と魚朝恩に吐蕃と興唐寺で盟わせた。九月、吐蕃数万の衆が霊州を囲み、遊騎は潘原・宜禄に至った。詔して郭子儀に河中から甲士三万を率いて涇陽を鎮めさせ、京師は戒厳された。甲子、子儀は奉天に移鎮した。冬十月戊寅、朔方節度使の路嗣恭が霊州城下で吐蕃を破り、二千余級を斬った。吐蕃は引き揚げた。
  • 大暦三年(768年)八月壬戌、吐蕃十万の衆が霊武を侵した。丁卯、吐蕃の尚贊摩の二万の衆が邠州を侵し、京師は戒厳された。邠寧節度使の馬璘が撃ち破った。九月壬申、郭子儀に兵五万を率いて奉天に駐屯させ、吐蕃に備えさせた。壬午、朔方の騎将の白元光が吐蕃を撃って破り、壬辰、元光はまた霊武で吐蕃二万の衆を破った。
  • 鳳翔節度使の李抱玉は右軍都将で臨洮の人の李晟に兵五千を率いて吐蕃を撃たせた。晟は言った。「力で当たるなら五千では足りず、謀で当たるなら多すぎます」。そして千人を率いて強行軍で大震関を出て臨洮に至り、吐蕃の定秦堡を屠って蓄えを焼き、虜の堡帥の慕容谷種を捕らえて還った。吐蕃はこれを聞いて霊州の囲みを解いて去った。戊戌、京師の戒厳を解いた。
  • 冬十一月、郭子儀が河中に還った。元載は、吐蕃が毎年侵入するのに、馬璘が四鎮の兵で邠寧に駐屯していても力が足りず、郭子儀は朔方の重兵をもって河中を鎮めていて深く内地の無事の地に居ることを問題とし、子儀および諸将と議して、璘を涇州鎮に移し、子儀に朔方の兵で邠州を鎮めさせることとした。「もし辺土が荒れ果てて軍費が足りぬなら、内地の租税と運んだ金帛で助ける」と言い、諸将もみなそのとおりだと考えた。
  • 十二月己酉、馬璘を涇原節度使に移し、邠・寧・慶の三州を朔方に隷属させた。璘は先に赴いて涇州に築城し、都虞候の段秀実に邠州留後を知らせた。
  • はじめ四鎮・北庭の兵は遠く中原の難に赴き、長く旅にあって何度も移されていた。四鎮は汴・虢・鳳翔を経、北庭は懐・絳・鄜を経て、そののち邠に至っており、疲労困憊が積もっていた。涇州への移動となると、衆はみな怨んで誹謗した。刀斧兵馬使の王童之が乱を起こそうと謀り、辛酉の朝、警戒の合図とともに事を起こすこととした。
  • 前夜、これを告げる者があった。秀実は装って時刻係を呼び、時を誤ったと怒って、更ごとに報告に来るよう命じ、わざと数刻ずつ遅らせた。こうして四更で夜が明けたので、童之は事を起こせなかった。
  • 秀実は討ちたかったが、言動がまだ表に現れておらず、軍中が無実の罪だと疑うことを恐れた。告げた者はまた「今夕は馬坊の草を焼き、消火に乗じて乱を起こすつもりです」と言った。夜半、果たして火が出た。秀実は軍中に、歩いている者はみな止まれ、坐っている者は立つな、それぞれ部伍を整えて要害を厳しく守れと命じた。童之が消火を請うたが許さなかった。夜が明けて童之とその党八人を捕らえてみな斬り、令を下した。「以後、移る者は族滅、流言する者は刑に処す」。こうして涇へ移った。
  • 癸亥、西川が吐蕃一万余の衆を破った。
  • 大暦四年(769年)秋九月、吐蕃が霊州を侵したが、丁丑、朔方留後の常謙光が撃ち破った。冬十月、常謙光が、吐蕃が鳴沙を侵して首尾四十里に及ぶと奏した。郭子儀は兵馬使の渾瑊に精兵五千を率いさせて霊州を救い、自ら進んで慶州に至ったが、吐蕃が退いたと聞いて還った。
  • 大暦五年(770年)秋九月、吐蕃が永寿を侵した。
  • 大暦六年(771年)夏四月、吐蕃が和を請い、庚辰、兼御史大夫の呉損を吐蕃に遣わした。秋九月、吐蕃が青石嶺を下って那城に陣したが、郭子儀が人を遣わして諭すと、翌日引き揚げた。
  • 大暦七年(772年)夏四月、吐蕃五千騎が霊州に至ったが、ほどなく退いた。

大暦八年(773年)――宜禄・塩倉の敗戦

  • 冬十月、霊州が吐蕃一万余の衆を破った。吐蕃十万の衆が涇・邠を侵し、郭子儀は朔方兵馬使の渾瑊に歩騎五千を率いさせて拒がせた。
  • 庚申、宜禄で戦った。瑊は黄萯原に登って虜を望み、険に拠って拒馬を並べ、突撃に備えるよう命じた。だが古参の将の史抗・温儒雅らは瑊を侮ってその命に従わなかった。瑊が召して虜を撃たせようとすると、彼らはすでに酔っていた。拒馬を見て「野戦にこんなものが要るか」と言って撤去させ、騎兵を叱咤して虜の陣に突っ込んだが、入れずに引き返した。虜は跡を追って乗じ、官軍は大敗して士卒の死者は十のうち七、八に及び、住民で吐蕃に掠われた者は千余人であった。
  • 甲子、馬璘が塩倉で吐蕃と戦ってまた敗れた。璘は虜に隔てられ、日暮れになっても帰らなかった。涇原兵馬使の焦令諶らは敗兵と門を争って入った。ある者が行軍司馬の段秀実に城に上って守るよう勧めたが、秀実は「大帥の所在が知れぬ。前へ出て虜を撃つべきだ。どうして自分だけ全うできようか」と言い、令諶らを召して責めた。「軍法では大将を失えば麾下はみな死罪だ。諸君はその死を忘れたか」。令諶らは恐れ入って拝し、命を請うた。
  • 秀実は城中の兵でまだ戦っていない者をすべて発して東原に陣させ、あわせて散った兵を収めて、将のために力戦する構えを示した。吐蕃は恐れてやや退き、夜になって璘はようやく帰ることができた。
  • 郭子儀は諸将を召して謀った。「軍を敗った罪は私にあって諸将にはない。しかし朔方の兵の精強は天下に聞こえている。それが今、虜に敗れた。どんな策で恥を雪げようか」。誰も答えない。渾瑊が言った。「敗軍の将は議に加わるべきではありませんが、一言申し上げたい。今日のことはただ瑊の罪を裁かれるか、さもなくば再び任じられるかです」。子儀はその罪を赦し、兵を率いて朝那へ向かわせた。
  • 虜は官軍を破ったのち、汧・隴を掠めようとした。塩州刺史の李国臣が「虜は勝ちに乗じて必ず都の近郊を犯す。我らがその後ろを牽けば、虜は必ず振り返る」と言い、兵を率いて秦原へ向かい、太鼓を鳴らして西へ進んだ。虜はこれを聞いて百城まで来て引き返し、渾瑊が隘路で待ち伏せて、掠奪された者をすべて取り戻した。馬璘もまた精兵を出して潘原で虜の輜重を襲い、数千人を殺した。虜はついに逃げ去った。

元載の原州建策

  • はじめ元載はかつて西州刺史となり、河西・隴右の山川の形勢を知っていた。このころ吐蕃がしばしば侵入したので、載は帝に言った。
  • 「四鎮・北庭はすでに涇州を治所としていますが、涇州には守るべき険要がありません。隴山は高く険しく、南は秦嶺に連なり北は大河に至ります。今、国家の西境は潘原までで、吐蕃は摧沙堡に戍っており、原州はその中間、隴山の口に当たります。その西はみな監牧のあった地で、草は肥え水は美しく、平涼はその東にあって、一県を耕すだけで軍糧をまかなえます。古い塁もなお残っており、吐蕃は棄てて住んでおりません。毎年盛夏には吐蕃は青海で牧畜し、塞から甚だ遠く離れます。その隙に乗じて築城すれば二十日で終わりましょう。京西の軍を移して原州に戍らせ、郭子儀の軍を移して涇州に戍らせて根本とし、兵を分けて石門・木峡を守れば、次第に隴右を開き、進んで安西に達し、吐蕃の腹心を扼することができます。そうなれば朝廷は枕を高くできましょう」。
  • そして地形図を添えて献じ、ひそかに人を隴山に出して工事量を見積もらせた。折しも汴宋節度使の田神功が入朝したので、帝が問うと、こう答えた。「行軍して敵を計るのは古参の将にも難しいことです。陛下はどうして一書生の言を用いて、国を挙げてこれに従おうとなさるのですか」。載はほどなく罪を得て、この計画は沙汰止みとなった。
  • 大暦九年(774年)春二月、諫議大夫の呉損は吐蕃への使者として留められること数年、ついに虜中で病死した。