通鑑紀事本末元載の専権(元載専権)
唐の代宗期、元載が財利の職から身を起こして宰相となり、内侍の董秀や主書の卓英倩を使って帝意を先取りし、言路を塞いで権を専らにするまでの過程を追う。載は帝の意を察して宦官の魚朝恩を誅し、以後いよいよ驕って賄賂で政を決したため、顔真卿・李少良らを次々と貶し殺した。代宗はこれを厭って呉湊と謀り、大暦十二年(777年)に載と王縉を捕らえ、載を自尽させて党与を一掃した十七年間。
年表(8件)
- 粛宗
- 上元二年――財利を掌る761年元載が戸部侍郎・度支塩鉄転運使となり、劉晏に代わって財利を専らに掌る
- 代宗
- 広徳元年――内侍と結ぶ763年裴遵慶らが政事を退き、載は内侍の董秀を賄賂で抱き込んで帝意を先取りする
- 永泰元年765年元載の子の伯和らの収賄を上言した顧繇が、逆に錦州へ流される
- 大暦元年――言路を塞ぐ766年奏事はまず長官・宰相を経よと請い、諫めた顔真卿を峡州別駕に貶す
- 大暦五年――魚朝恩の誅770年載が皇甫温・周皓を抱き込み、寒食の宴の後に魚朝恩を縊り殺す
- 大暦六年――李少良の獄771年載の姦悪を上書した李少良らを杖殺させるが、帝は李栖筠を御史大夫に起用する
- 大暦八年――党与の摘発773年李栖筠の弾劾で徐浩・薛邕ら載の党が貶され、朝廷はやや粛然とする
- 大暦十二年――元載の誅777年呉湊が載と王縉を捕らえ、載は自尽を賜り、妻子と楊炎ら党与も誅貶される
粛宗上元二年(761年)――財利を掌る
- 建子月戊子、御史中丞の元載を戸部侍郎とし、勾当度支・鋳銭・塩鉄・兼江淮転運などの使に充てた。載ははじめ度支郎中となり、機敏で奏対が巧みだったので、帝はその才を愛して江淮の漕運を委ねた。数か月で劉晏に代わって専ら財利を掌ることとなった。
代宗広徳元年(763年)――内侍と結ぶ
- 秋九月壬辰、詔して元載に元帥行軍司馬を判じさせた。
- 冬十二月乙未、苗晋卿を太保、裴遵慶を太子少傅としてともに政事から退け、宗正卿の李峴を黄門侍郎・同平章事とした。
- 遵慶が去ると元載の権はいよいよ盛んになった。載は財貨で内侍の董秀を抱き込み、主書の卓英倩にひそかに行き来させたので、帝の心の向かうところを載は必ず先に知り、意を承けて微妙なところまで探り当て、その言はことごとく合致した。帝はこれでますます載を愛した。英倩は全州の人である。
永泰元年(765年)
- 華原令の顧繇が、元載の子の伯和らが権を笠に着て賄賂を受けていると上言した。十二月戊戌、繇はそれが罪となって錦州に流された。
大暦元年(766年)――言路を塞ぐ
- 元載は権を専らにし、奏事する者に私事を暴かれることを恐れて、百官が事を論ずるときはみなまず長官に申し出、長官が宰相に申し出、そのうえで奏聞するようにと請うた。そのうえ帝の意向として百官に諭させた。「近ごろ諸司の奏事は煩わしく多く、その言うところは讒りや誹りが多い。ゆえに長官と宰相にまずその可否を定めさせるのである」。
- 刑部尚書の顔真卿が上疏した。「郎官と御史は陛下の耳目です。今、事を論ずる者にまず宰相に申し出させるのは、自ら耳目を塞ぐことです。陛下が群臣の讒言を憂えられるなら、なぜその言の虚実をお調べにならぬのですか。もし言うところが果たして虚偽なら誅すべきであり、果たして事実なら賞すべきです。それに努めず、天下に『陛下は聴き取りの煩わしさを厭い、これに託して諫争の路を塞いだ』と言わせるとは、臣はひそかに陛下のために惜しみます」。
- 「太宗は司門式を定めて『門籍のない者でも急ぎの奏事があれば、みな門司と衛士に導いて奏させ、妨げてはならぬ』とされました。塞がれ覆われることを防ぐためです。天宝以後、李林甫が宰相となって諫言する者を深く憎み、道で目配せするだけという有様になりました。上の意は下に届かず、下の情は上に達せず、覆い隠され口を噤んで、ついに蜀へ落ちのびる禍を招いたのです。衰えて今日に至ったのは、その由来するところが積み重なってのことです」。
- 「そもそも人主が大いに憚りのない言路を開いても、群臣はなお思うところを言い尽くしません。まして宰相・大臣にこれを裁いて抑えさせれば、陛下がお聞きになるのは三、四人の言にすぎなくなりましょう。天下の士はこれより口を鉗し舌を結びます。陛下はもはや言う者がないのを見て天下に論ずべき事はないとお思いになる。これでは李林甫が今日にまた現れたも同然です。かつて林甫は権をほしいままにしましたが、群臣が宰相に諮らず奏事したときは、他の事にかこつけてひそかに中傷したまでで、それでも百司の奏事はみな先に宰相に申し出よと公然と令することはできませんでした。陛下がもし早く悟られなければ、しだいに孤立なさいます。のちに悔いても及びません」。
- 載はこれを聞いて恨み、真卿が誹謗したと奏した。二月乙未、峡州別駕に貶された。
大暦五年(770年)――魚朝恩の誅
- 観軍容宣慰処置使・左監門衛大将軍兼神策軍使・内侍監の魚朝恩は専ら禁兵を掌り、寵任は比べる者がなかった。帝は常に軍国のことを議し、その勢いは朝野を圧した。朝恩は大勢の座で時政をほしいままに論じ、宰相を侮辱するのを好んだ。元載は弁は立ったが、腕をこまねいて黙り、あえて応じなかった。
- 神策都虞候の劉希暹と都知兵馬使の王駕鶴はともに朝恩に寵せられていた。希暹は朝恩に説いて北軍の中に獄を置かせ、坊市の悪少年に富家を告発させ、罪悪を捏造して捕らえ地下牢に繋ぎ、拷問して自白させ、その家財を没収して軍に入れ、あわせて告発・捕縛した者に分けて賞した。場所が禁中の奥深くにあるため、誰もあえて口にできなかった。朝恩は奏事のたびに必ず許されることを当然としており、朝廷の政事で自分が与らぬものがあると怒って「天下の事にわしを通さぬものがあるのか」と言った。帝はこれを聞いて不快になった。
- 朝恩の養子の令徽はまだ幼く、内給使として緑の衣を着ていたが、同輩と言い争って帰り、朝恩に告げた。朝恩は翌日帝に会って言った。「臣の子は官が低いため同輩に侮られております。紫の衣を賜りたい」。帝がまだ応じぬうちに、担当の役人がすでに紫衣を捧げて前にいた。令徽はそれを着て拝謝した。帝は無理に笑って「わが子が紫衣を着るとは、さぞ心にかなったろう」と言ったが、いよいよ不平を抱いた。
- 元載は帝の意向を察し、機を見て朝恩が権をほしいままにして不軌を図っていると奏し、除くよう請うた。帝も天下がこぞって怨り怒っているのを知っており、載に方策を立てさせた。
- 朝恩は殿に入るたびに射生将の周皓に百人を率いさせて自衛し、また一党の陝州節度使の皇甫温に外で兵を握らせて後ろ盾としていた。載はいずれも重い賄賂で抱き込んだので、朝恩の陰謀もひそかな言葉も帝は一つ残らず知っていたが、朝恩はそれに気づかなかった。
- 辛卯、載は帝のために謀って李抱玉を山南西道節度使に移し、温を鳳翔節度使とした。表向きはその権を重くしたようで、実は温を内に引き入れて自分の助けとしたのである。載はまた郿・虢・宝鶏・鄠・盩厔を抱玉に、興平・武功・天興・扶風を神策軍に隷属させるよう請うた。朝恩は地を得たことを喜んで、まったく載を警戒せず、驕り高ぶることは相変わらずだった。
- 劉希暹は帝の様子が違うことに気づいて魚朝恩に告げた。朝恩ははじめて疑い恐れたが、帝は会うたびに恩礼をいよいよ篤くしたので、朝恩もこれで安心した。
- 皇甫温が京師に至ると、元載は遣わさずに留め、温と周皓とひそかに朝恩の誅殺を謀った。計が定まると載は帝に告げ、帝は「よく図れ。かえって禍を受けるな」と言った。
- 三月癸酉の寒食、帝は禁中で貴顕・近臣に酒宴を設けた。載は中書省に詰めていた。宴が終わって朝恩が営に帰ろうとすると、帝は留めて事を議し、そのうえで異図を責めた。朝恩は自ら弁じたが、言葉はかなり不遜であった。皓は左右とともに捕らえて縊り殺し、外には知る者がなかった。
- 帝は詔を下して朝恩の観軍容などの使を罷め、内侍監はもとのままとし、朝恩は詔を受けて自ら縊れたと偽って、屍を家に還し、銭六百万を賜って葬らせた。丁丑、劉希暹と王駕鶴に御史中丞を加えて北軍の心を宥めた。丙戌、京城の囚人に赦を下し、朝恩の党与をすべて釈放するよう命じ、あわせて「北軍の将士はみな朕の爪牙である。いずれも旧のままとせよ。朕は今より自ら禁旅を統べる。憂え恐れるな」と告げた。
元載の驕り
- 元載は魚朝恩を誅してから帝の寵任がいよいよ厚くなり、志気は驕り溢れた。人前で大言して、自分には文武の才略があり古今に及ぶ者がないと称し、権を弄び智を舞わせ、政は賄賂で決まり、僭上と奢侈には限度がなかった。
- 吏部侍郎の楊綰は選任を公平に行い、性は硬骨で載に付かなかった。嶺南節度使の徐浩は貪欲で佞い者で、南方の珍貨を傾けて載に贈った。辛卯、載は綰を国子祭酒とし、浩を引いて代わらせた。浩は越州の人である。
- 載には宣州から出てきて官を求めた妻の父方の縁者があった。載はその人物では任に堪えぬと見て、ただ河北への手紙一通を贈って帰した。その者は不満で、幽州まで来て、ひそかに封を開いて見た。手紙には一言もなく、ただ署名があるだけだった。その者は大いに怒ったが、やむを得ず試しに府の僚属を訪ねた。判官は載の手紙があると聞いて大いに驚き、ただちに節度使に申し出て、大校に箱で手紙を受け取らせ、上等の館に泊め、留めて数日宴を張り、去るときには絹千匹を贈った。その威権が人を動かすことはこのようであった。
- 劉希暹は内心つねに自ら疑い、不遜な言葉があった。王駕鶴が奏聞し、九月辛未、希暹に死を賜った。
- 帝は元載の所業をすべて知っていたが、政を任せて久しいので終わりを全うさせたいと思い、単独で会って深く戒めた。だが載は改めなかったので、帝はこれから次第に載を憎むようになった。
- 載は李泌が帝に寵せられているのを妬み、「泌はしばしば親故と北軍で宴を開き、魚朝恩と親しかったから、その謀を知っていたはずです」と言った。帝は「北軍は泌の古い部下がいる。ゆえに朕が親故のもとへ行かせたのだ。朝恩の誅殺には泌も謀に与っていた。卿は疑うな」と言った。載とその党は攻撃をやめなかった。
- 折しも江西観察使の魏少遊が参佐を求めてきた。帝は泌に言った。「元載は卿を容れぬ。朕は今、卿を魏少遊のもとに匿す。朕が載を除く意を決したら知らせを送ろう。そうしたら荷をまとめて来るがよい」。そして泌を江西判官とし、少遊に厚遇するよう言い含めた。
大暦六年(771年)――李少良の獄
- 夏四月、成都司録の李少良が上書して元載の姦悪と不正蓄財の隠された事実を述べた。帝は少良を客省に置いた。少良は帝の言葉を友人の韋頌に告げ、殿中侍御史の陸珽がこれを載に告げた。載が奏すると帝は怒り、少良・頌・珽を御史台の獄に下した。御史は少良・頌・珽が凶険で徒党を組み、君臣を離間したと奏した。五月戊申、詔して京兆に付し、みな杖で打ち殺した。
- 帝はいよいよ元載の所業を厭い、阿り付かぬ士大夫を得て腹心とし、次第に載の権を収めようとした。丙子、内から制書を出して浙西観察使の李栖筠を御史大夫としたが、宰相はそれを知らなかった。載はこれによって少しずつ退けられていった。
大暦八年(773年)――党与の摘発
- 春三月、吏部侍郎の徐浩と薛邕はいずれも元載・王縉の党であった。浩の妾の弟の侯莫陳怤が美原尉であったとき、浩は京兆尹の杜済に頼んで、実体のない駅務の功績を「優」と奏させ、また薛邕に頼んで長安尉に擬した。怤が御史台に出頭したとき、御史大夫の李栖筠がその事実を弾劾して奏した。詔して礼部侍郎で万年の人の子邵らに調べさせたが、邵は薛邕の罪は赦の前にあるので免ずべきだと奏した。帝は怒り、夏五月乙酉、浩を明州別駕、邕を歙州刺史に貶し、丙戌、済を杭州刺史、邵を桂州長史に貶した。朝廷はやや粛然とした。
大暦十二年(777年)――元載の誅
- 中書侍郎・同平章事の元載は専横をきわめ、黄門侍郎・同平章事の王縉がこれに付き従い、二人ともに貪欲であった。載の妻の王氏と子の伯和・仲武、縉の弟妹および出入りする尼たちは、争って賄賂を受けた。また政事を多くの下役に委ねたので、出世を求める士は、その子弟や主書の卓英倩らと結ばなければ自分を売り込む道がなかった。
- 帝は数年こらえていたが、載と縉が改めないので誅そうと思った。だが左右に漏れることを恐れ、語り合える者もなく、ただ左金吾大将軍の呉湊とだけ謀った。湊は帝の母方の伯父である。
- 折しも載と縉が夜に星祭りをして不軌を図っていると告げる者があり、三月庚辰、帝は延英殿に出御して、湊に載と縉を政事堂で捕らえさせ、さらに仲武と卓英倩らを捕らえて獄に繋がせ、吏部尚書の劉晏と御史大夫の李涵らに合同で審理させた。訊問の項目はみな禁中から出され、そのうえ中使を遣わして隠された事どもを詰問させると、載と縉はみな罪に服した。
- この日、まず左衛将軍・知内省事の董秀を禁中で杖殺し、次いで載に万年県で自尽を賜った。載が担当官に「楽に死なせてほしい」と請うと、担当官は「相公には少しばかり辱めを受けていただかねばなりません。お怪しみくださるな」と言い、汚れた靴下を脱いでその口に押し込んで殺した。
- 王縉にもはじめは自尽が賜られたが、劉晏が李涵らに「先例では重刑には再度の奏聞がある。まして大臣ではないか。それに法には首謀と従犯の別がある。もう一度ご意向を伺うべきだ」と言い、涵らは従った。帝はそこで縉を括州刺史に貶した。
- 載の妻の王氏は王忠嗣の娘である。妻と子の伯和・仲武・季能はみな誅せられた。有司が載の家財を没収すると、胡椒だけで八百石に上り、その他の物もこれに見合う量であった。
- 夏四月癸未、吏部侍郎の楊炎、諫議大夫の韓洄・包佶、起居舎人の韓会ら十余人を貶した。みな載の党である。炎は鳳翔の人。載はいつも文学と才望のある者を一人引き立てて親しくし、後日自分の後任にしようとしていた。それゆえ炎も貶謫に及んだ。洄は韓滉の弟、会は南陽の人である。帝ははじめ炎らをことごとく誅そうとしたが、呉湊が百方諫めて救ったので、貶官にとどまった。
- 庚午、帝は中使を遣わして元載の祖父の墓を暴かせ、棺を斬って屍を棄て、その家廟を毀ち、位牌を焼いた。
- 戊寅、卓英倩らをみな杖殺した。英倩が権を握っていたころ、弟の英璘は郷里で横暴を働いていた。英倩が獄に下ると、英璘は険阻な地に拠って乱を起こした。帝は禁兵を発して討たせ、乙巳、金州刺史の孫道平が撃って生け捕りにした。