通鑑紀事本末僕固懐恩の叛乱(周智光を付す)(僕固懐恩之叛)
安史の乱平定に大功のあった朔方の将、僕固懐恩が、回紇可汗の舅という立場ゆえに辛雲京・駱奉仙らに謀反を疑われ、六罪の上表で冤を訴えたのち挙兵に至る経緯。子の僕固瑒が部下に殺され、母にも刀を向けられて霊武へ走った懐恩は、回紇・吐蕃ら数十万を引き入れて二度長安に迫ったが、途中で病死した。郭子儀は単騎で回紇の陣に入って盟を結び直し、吐蕃を破って乱を収め、あわせて跋扈した周智光も大暦二年に討たれるまでの六年間を記す。
年表(6件)
- 粛宗
- 宝応元年――回紇との縁762年僕固懐恩の娘が回紇の登里可敦となり、懐恩が可汗を説いて史朝義討伐に加わらせる
- 代宗
- 広徳元年――辛雲京との軋轢763年辛雲京・駱奉仙に謀反を奏された懐恩が六罪の上表で冤を訴え、入朝を拒む
- 広徳二年――挙兵と僕固瑒の死764年僕固瑒が部下の焦暉・白玉に殺され、懐恩は霊武へ走り、郭子儀が朔方節度大使となる
- 永泰元年――四夷の大挙来寇と懐恩の死765年懐恩が回紇・吐蕃ら数十万を誘って侵入するも鳴沙で病死し、子儀が単騎で回紇と盟って吐蕃を破る
- 大暦元年――周智光の跋扈766年周智光が漕米を留め陝州監軍の張志斌を斬って、公然と朝廷を侮る
- 大暦二年――周智光の誅767年密詔で郭子儀が討伐に向かい、牙将の姚懐・李延俊が智光を殺してその首を献じる
粛宗宝応元年(762年)――回紇との縁
- はじめ回紇の毗伽闕可汗が登里可汗のために婚姻を求めたので、粛宗は僕固懐恩の娘を娶わせ、登里可敦とした。史朝義を討つため回紇に兵を徴したとき、可汗が懐恩と会いたいと請うたので、帝は懐恩を行かせた。懐恩が可汗に唐家の恩信は裏切れぬと説くと、可汗は喜んで使者を遣わし、上表して国を助けて朝義を討ちたいと請うた。
代宗広徳元年(763年)――辛雲京との軋轢
- はじめ僕固懐恩は詔を受けて太原で回紇可汗と会うことになったが、河東節度使の辛雲京は、可汗が懐恩の婿であることから、共謀して軍府を襲うのではと恐れ、城を閉ざして守り、軍をねぎらいもしなかった。史朝義が平定されると、詔して懐恩に可汗を塞外まで送らせたが、その往来に太原を通っても、雲京はやはり城を閉ざして連絡を取らなかった。懐恩は怒ってその有様を上表したが、返答はなかった。
- 懐恩は朔方の兵数万を率いて汾州に駐屯し、子で御史大夫の瑒に一万を率いさせて楡次に、禆将の李光逸らを祁県に、李懐光らを晋州に、張維嶽らを沁州に駐屯させた。懐光はもと渤海の靺鞨で、姓は茹といい、朔方の将となって功により姓を賜った者である。
- 中使の駱奉仙が太原に至ると、雲京は厚く結び、懐恩が回紇と共謀して反する情状はすでに露見していると告げた。奉仙は帰途に懐恩のもとを通った。懐恩は母の前で酒を酌み交わした。母はしばしば奉仙を責めて言った。「お前はわが子と兄弟の約を結んでおきながら、今また雲京と親しくしている。なぜ二枚舌を使うのか」。酒がたけなわになると懐恩は立って舞い、奉仙は纏頭の綵を贈った。懐恩がそれに報いようとして「明日は端午だ。もう一日楽しく飲もう」と言うと、奉仙は帰ることを強く請うた。懐恩がその馬を隠したので、奉仙は左右に「朝方から私を責め立て、今また馬を隠した。私を殺す気だ」と言い、夜、垣を越えて逃げた。懐恩は驚いて急ぎその馬で追わせて連れ戻した。
- 八月癸未、奉仙は長安に着き、懐恩が謀反していると奏した。懐恩もまた事の次第を奏し、雲京と奉仙を誅するよう請うた。帝はどちらも問わず、寛大な詔を下して和解させた。
- 懐恩は、兵乱が起きて以来いたるところで力戦し、一門で王事に死んだ者が四十六人、娘は遠く異域に嫁ぎ、回紇を説いて二度両京を収め、河南河北を平定した功は比べる者がないと自負していた。それが人に陥れられ、憤りと怨みはきわめて深く、上書して自ら訴えた。
- その趣旨はこうである。「臣は先ごろ詔を奉じて可汗を国へ送るにあたり、家財を傾けて出立させました。山北まで来たとき、雲京と奉仙は城を閉ざして出迎えず、そのうえひそかに盗みを働かせました。回紇は怨り怒って今にも兵を放とうとしましたが、臣が力を尽くして取り繕い、ようやく塞を出させたのです。雲京と奉仙は、臣が先に奏し出るのを恐れ、また備えを設けたなどと偽り、李抱玉とともに臣を陥れる話を組み立てました」。
- 「臣が静かに思うに、その罪は六つございます。昔、同羅が叛乱したとき、臣は先帝のために河曲を掃き清めました。これが一つ。臣の男の玢が同羅に捕らえられ、隙を見て逃げ帰りましたが、臣はこれを斬って衆に示しました。これが二つ。臣は二人の娘を遠く外夷に嫁がせ、国のために和親して敵を平らげました。これが三つ。臣と男の瑒は死をも顧みず国に命を捧げました。これが四つ。河北の新たに帰順した節度使はみな強兵を握っていますが、臣が撫でて不安な者たちを安んじました。これが五つ。臣は回紇を説いて急難に赴かせ、天下が平らいでからは送って帰国させました。これが六つ。臣はこの六つの罪を負っておりますから、まことに万死に値します。ただ九泉に恨みを呑み、千古に冤を銜むばかり。何を訴えられましょうか」。
- 「臣は受けた恩がきわめて重く、夜も日も天顔を仰ぐことを思っております。ただ来瑱が誅されたとき、朝廷はその罪を示しませんでした。諸道の節度使で疑い恐れぬ者がありましょうか。近ごろ詔で数人を召されたと聞きますが、みな参りませんでした。これは宦官の讒言によっていわれもなく陛下に誅されることを恐れているのです。どうして群臣が不忠なのではなく、まさに邪な者が側にいるからです。しかも臣が前後して奏した駱奉仙のことは、事実を拾い上げていないわけではないのに、陛下はついに何の処置もなさらず、寵任はいよいよ深い。これはみな同類が結託して聖聴を覆い隠しているからです」。
- 「ひそかに聞くところでは、四方から人を遣わして奏事しても、陛下はみな『驃騎と議する』とおおせられ、宰相に可否を委ねられぬとか。あるいは数か月も留められて帰らぬこともあり、遠近ますます疑い隔たっております。臣ら朔方の将士は功績が最も高く、先帝の中興を担った者であり、陛下が塵を蒙られた際の旧臣です。それを格別の褒賞もなく、かえって讒言と妬みの言葉を信じられる。子儀はすでに猜疑を受け、臣も今また誹謗に遭う。弓は蔵われ鳥は尽きるとは、まことに空言ではありません。陛下がその偽りを信じられるのは、鹿を指して馬となすのと何が違いましょう」。
- 「もし愚かな真心をお納れにならず、なおも因循を貴ばれるなら、臣はまこと家を保てず、陛下もどうして国を安んじられましょう。忠言は行いに利あり。どうか陛下、お図りください。臣は公然と入朝したいのですが、将士が引き止めて妨げるのを恐れます。今は晋・絳を巡視すると称してあちらで時を稼ぎます。どうか陛下、使者一人を絳州へ遣わして臣に問わせてください。臣はただちにその者とともに出立いたします」。
- 九月壬戌、帝は裴遵慶を懐恩のもとへ遣わして意を伝え、あわせてその去就を探らせた。懐恩は遵慶に会うとその足を抱いて号泣し、冤を訴えた。遵慶が聖恩の厚いことを語り、入朝を勧めると、懐恩は承諾した。だが副将の范志誠が「なりません。公がその甘言を信じて入れば、来瑱の二の舞になり、二度と帰れません」と言った。翌日、懐恩は遵慶に会い、死を恐れることを理由に、子を一人入朝させたいと請うたが、志誠はこれもいけないと言った。遵慶は帰るほかなかった。
- 御史大夫の王翊が回紇への使いから帰ってきた。懐恩はかねて可汗と往来していたので、翊にそれを漏らされることを恐れ、留め置いた。
広徳二年(764年)――挙兵と僕固瑒の死
- 春正月丙午、検校刑部尚書の顔真卿を遣わして朔方行営を宣慰させた。帝が陝にいたころ、真卿は詔を奉じて僕固懐恩を召したいと請うたが、帝は許さなかった。このとき帝が真卿に懐恩を説いて入朝させよと命じると、真卿は答えた。「陛下が陝におられたときなら、臣が行って忠義をもって責め、難に赴かせれば、まだ来る道理もありました。今、陛下は宮に還られました。彼は進んでは勤王にならず、退いては衆を解けません。召してどうして来ましょうか」。さらに言った。「懐恩が反したと言うのは、辛雲京・駱奉仙・李抱玉・魚朝恩の四人だけです。それ以外の群臣はみな冤だと言っております。陛下は郭子儀を懐恩に代えられるのがよい。そうすれば戦わずして服させられます」。
- 当時、汾州別駕の李抱真は抱玉の従弟であったが、懐恩に異心があると知って身一つで京師に帰った。帝はちょうど懐恩のことを憂えており、抱真を召して計を問うた。抱真は答えた。「憂えるには及びません。朔方の将士が郭子儀を慕う心は、子弟が父兄を慕うようなものです。懐恩はその衆を欺いて『郭子儀はすでに魚朝恩に殺された』と言い、衆はそれを信じているから使われているだけです。陛下がまことに子儀に朔方を領させれば、彼らは召さずとも来ましょう」。帝はそのとおりだと思った。
- 僕固懐恩は朝廷に用いられなくなると、河東の都将の李竭誠とひそかに太原を取ろうと謀った。辛雲京がこれに気づいて竭誠を殺し、城に上って備えを設けた。懐恩は子の瑒に兵を率いて攻めさせたが、雲京が出て戦い、瑒は大敗して帰り、そのまま兵を率いて楡次を囲んだ。
- 帝は郭子儀に言った。「懐恩父子が朕に背いたのはまことに深い。聞けば朔方の将士が公を思うことは、旱れた地が雨を待つようだという。公は朕のために河東を鎮撫してくれ。汾水のほとりの軍は必ず変を起こすまい」。戊午、子儀を関内河東副元帥・河中節度等使とした。懐恩の将士はこれを聞いてみな言った。「我らは懐恩に従って不義をなした。どんな顔をして汾陽王にまみえよう」。
- 丁卯、郭子儀を朔方節度大使とした。二月、子儀は河中に至った。
- 僕固瑒は楡次を十日余り囲んだが落とせず、使者を遣わして急ぎ祁県の兵を発した。李光逸は全軍を差し出したが、士卒は食事もしておらず、行軍しても前に進めない。十将の白玉と焦暉が鏑矢で後れる者を射た。軍士が「将軍はなぜ人を射るのか」と言うと、玉は「今、人に従って反いても、どのみち死は免れぬ。死ぬのは同じことだ。射たとて何ほどのことか」と答えた。楡次に着くと瑒が遅れを責めた。胡人が「我らは馬に乗っているが、漢の兵卒が歩けぬのだ」と言い、瑒は漢の兵卒を鞭打った。兵卒はみな怨り怒って「節度使は胡人に肩入れする」と言った。その夕、焦暉と白玉が衆を率いて瑒を攻めて殺した。
- 僕固懐恩はこれを聞き、母に告げに入った。母は言った。「わしはお前に反くなと言った。国家のお前への扱いは薄くはなかった。今、衆心は変わった。禍は必ずわしにも及ぶ。どうするつもりだ」。懐恩は答えず、再拝して出た。母は刀を提げて追いかけ、「わしは国家のためにこの賊を殺し、その心臓を取り出して三軍に謝そう」と言った。懐恩は駆けて逃れ、麾下三百とともに黄河を渡って北へ走った。
- 当時、朔方の将の渾釈之が霊州を守っていた。懐恩の檄が届き、全軍を挙げて鎮に帰ると言ってきた。釈之は「そうではない。これは軍が潰えたに違いない」と言って拒もうとした。その甥の張韶が「彼が翻然と考えを改め、衆を率いて鎮に帰るのかもしれません。受け入れぬ手はないでしょう」と言った。釈之が迷って決しかねているうちに、懐恩は先触れより早く着いてしまい、釈之はやむなく受け入れた。張韶が自分たちの相談を懐恩に告げると、懐恩は韶を内通者と見なして釈之を殺し、その軍を収めて韶に主らせた。だがのちに「釈之は韶の伯父だ。それにさえ背く者が、どうして私に忠であろうか」と言い、後日、事にかこつけて杖打ってその脛を折り、弥峨城に置いて死なせた。
- 都虞候の張維嶽は沁州にいたが、懐恩が去ったと聞いて駅伝で汾州に至り、その衆を撫でて鎮め、焦暉と白玉を殺してその功を横取りし、郭子儀に報告した。子儀が牙官の盧諒を汾州に遣わすと、維嶽は諒に賄賂を贈って自分の言を裏づけさせた。子儀は維嶽が瑒を殺したと奏し、首を闕下に届けさせた。群臣が入って祝賀すると、帝は沈んだ様子で不快げに言った。「朕の信が人に及ばず、勲臣を躓かせてしまった。深く恥じるところだ。何を祝うことがあろう」。懐恩の母を車で長安に迎え、手厚くもてなすよう命じた。一月余りで天寿を全うし、礼をもって葬った。功臣たちはみな感じ入って歎じた。
- 戊寅、郭子儀が汾州に赴くと、懐恩の衆数万はことごとく帰服し、みな喜び踊り涙を流して、その到来を喜び、遅かったことを悲しんだ。子儀は盧諒の偽りを知って杖殺した。帝は李抱真の言が的中したので、殿中少監に昇進させた。
- 夏六月、僕固懐恩は霊武に至って散り散りになった者を集め、その勢いはまた盛り返した。帝はその家族を手厚く遇し、癸未に詔を下して、その勲労は帝室に著しく天下に及ぶこと、疑い隔たる端緒は小人どもから起こったこと、その深い本心を察するにもとより他意はなく、君臣の義は情において当初のままであることを述べた。ただし河北はすでに平定され、朔方にもすでに任じた者があるとして、河北副元帥・朔方節度等使を解き、太保兼中書令・大寧郡王はもとのままとし、参内せよ、二度と疑うなと命じた。だが懐恩はついに従わなかった。
- 秋八月、郭子儀は河中から入朝した。折しも涇原が、僕固懐恩が回紇・吐蕃十万の衆を引き入れて侵入しようとしていると奏し、京師は震え上がった。詔して子儀に諸将を率いて奉天に出鎮させた。帝が召して方策を問うと、「懐恩に何ができましょう」と答えた。帝が理由を問うと、こう答えた。「懐恩は勇猛ですが恩が薄く、士心が付いておりません。それでも侵入できるのは、帰郷を思う士たちがいるからにすぎません。懐恩はもと臣の副将であり、その麾下はみな臣の部曲です。必ず刃を向け合うには忍びますまい。それゆえ何もできぬと分かるのです」。辛巳、子儀は奉天へ発った。
- 九月辛亥、郭子儀を北道の邠寧・涇原・河西以西の通和吐蕃使とした。
- 僕固懐恩の前軍が宜禄に至ると、郭子儀は右兵馬使の李国臣に兵を率いさせて郭晞の後詰めとし、邠寧節度使の白孝徳が宜禄で吐蕃を破った。冬十月、懐恩が回紇・吐蕃を率いて邠州に至ると、白孝徳と郭晞は城を閉ざして守った。
- 僕固懐恩が回紇・吐蕃とともに奉天に迫ると、京師は戒厳された。諸将が戦いを請うたが、郭子儀は許さず言った。「虜は深く我が地に入っており、速戦が利だ。我らは壁を堅くして待つ。彼らは我らを臆病と見て必ず警戒を怠る。そこではじめて破れる。もし急いで戦って不利になれば、衆心は離れよう。戦いを口にする者は斬る」。
- 辛未の夜、子儀は出て乾陵の南に陣した。壬申の未明、虜の大軍が到着した。虜ははじめ子儀に備えがないと見て襲おうとしたが、突然大軍を見て驚愕し、戦わずに退いた。子儀は禆将の李懐光らに五千騎で追わせ、麻亭まで行って還った。虜は邠州に至り、丁丑に攻めたが落とせず、乙酉、涇水を渡って逃げ去った。
- 懐恩が南へ侵入したとき、河西節度使の楊志烈は兵五千を発して監軍の柏文達に言った。「河西の精兵はここに尽きている。君がこれを率いて霊武を攻めれば、懐恩は後ろを振り返る憂いを抱く。これも京師を救う一つの奇策だ」。文達は衆を率いて摧砂堡と霊武県を撃ち、いずれも下し、進んで霊州を攻めた。懐恩はこれを聞いて永寿から急ぎ帰り、蕃・渾の騎二千に夜襲させて大破した。士卒の死者はほぼ半ばに及んだ。文達は残兵を率いて涼州に帰り、泣きながら入城した。志烈が出迎えて「この遠征は京師を安んずる功があった。兵卒が死んだところで何の痛みがあろう」と言うと、士卒はその言葉を怨んだ。ほどなく吐蕃が涼州を囲んだが、士卒は働かず、志烈は甘州へ逃れて沙陀に殺され、涼州はついに陥落した。
永泰元年(765年)――四夷の大挙来寇と懐恩の死
- 春三月庚戌、吐蕃が使者を遣わして和を請うたので、詔して元載・杜鴻漸を興唐寺で盟わせた。帝が郭子儀に吐蕃の請盟をどう見るかと問うと、こう答えた。「吐蕃は我が備えのないところに乗じようとします。備えのないところへ来られたら、国は守れません」。そこで相次いで河中の兵を奉天に戍らせ、また兵を涇原に巡らせて様子を窺わせた。
- 僕固懐恩は回紇・吐蕃・吐谷渾・党項・奴刺の数十万の衆を誘って、ともに侵入させた。吐蕃の大将の尚結悉贊磨・馬重英らは北道から奉天へ、党項は任敷・鄭庭・郝徳らに率いられて東道から同州へ、吐谷渾と奴刺の衆は西道から盩厔へ向かい、回紇は吐蕃の後に続き、懐恩はさらに朔方の兵を率いて続いた。
- 郭子儀は行軍司馬の趙復を遣わして奏した。「虜はみな騎兵で、その来ること飛ぶがごとし。侮ってはなりません。どうか諸道の節度使――鳳翔の李抱玉、滑濮の李光庭、邠寧の白孝徳、鎮西の馬璘、河南の郝庭玉、淮西の李忠臣にそれぞれ兵を出させ、その要衝を扼させてください」。帝は従ったが、諸道の多くは時を移して兵を出さなかった。李忠臣はちょうど諸将と毬を打っていたが、詔を得るとすぐに出立の支度を命じた。諸将と監軍がみな「軍の出立には日を選ばねば」と言うと、忠臣は怒って言った。「父母に急があるのに、日を選んでから救えようか」。その日のうちに兵を勒して道についた。
- 懐恩は途中で急病に遭って帰り、丁酉、鳴沙で死んだ。大将の張詔が代わってその衆を率いたが、別将の徐璜玉がこれを殺し、范志誠がまた璜玉を殺してその衆を率いた。懐恩は三年にわたって命に背き、二度胡の兵を引き入れて国の大患となったが、帝はなおそれを隠し、前後の制詔で一度もその反を口にしなかった。その死を聞くと痛ましげに言った。「懐恩は反したのではない。左右の者に誤らされたのだ」。
- 吐蕃が邠州に至ると、白孝徳は城に籠もって守った。甲辰、吐蕃十万の衆が奉天に至り、京城は震え恐れた。朔方兵馬使の渾瑊と討撃使の白元光が先に奉天を戍っていた。虜が営を並べ始めたところへ、瑊は驍騎二百を率いてまっすぐ突撃し、自ら士卒の先頭に立った。虜衆は左右に崩れ、瑊は虜の将を一人小脇に抱えて馬を躍らせて還り、従った騎で刃や矢に当たった者はいなかった。城上の士卒はこれを望んで、はじめて勇気を奮い立たせた。
- 乙巳、吐蕃が進んで攻めたが、虜の死傷は甚だ多く、数日して衆を収めて営に還った。瑊は夜、兵を率いて襲い、千余人を殺した。前後して虜と二百余合戦い、五千級を斬った。
- 丙午、河中から郭子儀を召して涇陽に駐屯させた。己酉、李忠臣に東渭橋、李光進に雲陽、馬璘・郝庭玉に便橋、李抱玉に鳳翔、内侍の駱奉仙と将軍の李日越に盩厔、同華節度使の周智光に同州、鄜坊節度使の杜冕に坊州を守らせ、帝自ら六軍を率いて禁苑の中に駐屯した。庚戌、親征の制を下した。
- 辛亥、魚朝恩が城中の捜索を請い、士民の私馬を徴発し、城中の男子にみな黒衣を着せて兵に編成し、城門はみな塞いで二つに一つを開くようにした。士民は大いに驚き、垣を越え穴を掘って逃げる者が甚だ多く、役人にも止められなかった。朝恩は帝を奉じて河中に行幸させ吐蕃を避けようと考えたが、群臣の議論がまとまらぬのを恐れた。ある日、百官が入朝して列に立ったが、長い間閤門が開かない。朝恩は突然、禁軍十余人に白刃を執らせて出てきて宣言した。「吐蕃はしばしば都の近郊を侵している。車駕は河中へ行幸されたいがどうか」。公卿はみな驚き慌てて答えるすべを知らなかった。ただ劉某という給事中だけが列から出て声を張り上げて言った。「勅使は反する気か。今、屯する軍は雲のごとくだ。力を合わせて寇を防がず、にわかに天子を脅して宗廟社稷を棄てさせようとする。反でなくて何か」。朝恩は驚き挫けて退き、この件は沙汰止みとなった。
- 丙午から甲寅まで大雨が止まなかったので、虜は進めなかった。吐蕃は兵を移して醴泉を攻め、党項は西は白水を掠め、東は蒲津を侵した。丁巳、吐蕃は男女数万を大いに掠奪して去り、通ったあとは廬舎を焼き禾稼を踏み荒らして尽きるばかりだった。周智光が兵を率いて迎え撃ち、澄城で破って敗走する敵を鄜州まで追った。智光はかねて杜冕と仲が悪く、そのまま鄜州刺史の張麟を殺し、冕の家族八十一人を穴埋めにし、坊州の廬舎三千余家を焼いた。
単騎の会盟
- 冬十月、吐蕃は退いて邠州に至り、回紇と出会って再びともに侵入した。辛酉、奉天に至った。癸亥、党項が同州の官庁と民家を焼いて去った。丙寅、回紇と吐蕃が兵を合わせて涇陽を囲んだ。子儀は諸将に厳重な守備を命じたが戦わせなかった。日暮れに二虜は退いて北原に駐屯し、丁卯、また城下に至った。
- このとき回紇と吐蕃は僕固懐恩の死を聞いて、すでに主導権を争って睦まじくなく、営を分けて居た。子儀はこれを知った。回紇は城の西にいたので、子儀は牙将の李光瓚らを遣わして説き、ともに吐蕃を撃とうと持ちかけた。回紇は信じず「郭公はほんとうにここにおられるのか。お前は我らを騙しているのだろう。もし本当にここにいるなら、会わせてもらえるか」と言った。光瓚が帰って報じると、子儀は言った。「今は衆寡敵せず、力で勝つのは難しい。昔、回紇とはきわめて厚い契りを結んだ。身一つで行って説くに如くはない。戦わずして下せよう」。諸将が鉄騎五百を選んで護衛につけたいと請うと、子儀は「かえって害になるだけだ」と言った。
- 郭晞が馬を押さえて諫めた。「彼らは虎狼です。大人は国の元帥であられる。どうして身を虜の餌になさるのですか」。子儀は言った。「今戦えば父子ともに死に、国家は危うくなる。行って至誠をもって語り、幸いにも聞き入れられれば四海の福だ。そうでなければ、わしの身が没しても家は全うされる」。そして鞭でその手を打ち「去れ」と言い、数騎とともに門を開いて出た。
- 人に触れ回らせて「令公が来られたぞ」と言わせると、回紇は大いに驚いた。その大帥の合胡禄都督は薬葛羅可汗の弟であるが、弓に矢をつがえて陣前に立った。子儀は兜を脱ぎ、鎧を解き、槍を投げ捨てて進んだ。回紇の酋長たちは互いに顔を見合わせ「あの方だ」と言い、みな馬を下りて並び拝した。子儀もまた馬を下り、進み出て薬葛羅の手を執って責めた。
- 「お前たち回紇は唐に大功があった。唐がお前たちに報いたのも薄くはない。それをなぜ約に背いて深く我が地に入り、都の近県に迫るのか。前の功を棄てて怨みを結び、恩徳に背いて叛臣を助けるとは、なんと愚かなことか。しかも懐恩は君に叛き母を棄てた男だ。お前の国に何の関わりがある。今、私は身一つで来た。お前たちが私を捕らえて殺すというなら好きにせよ。だが我が将士は必ず死力を尽くしてお前たちと戦うだろう」。
- 薬葛羅は言った。「懐恩が我らを欺いて『天可汗はすでに崩じ、令公も亡くなった。中国に主はない』と申したのです。それゆえ思い切って一緒に来たのです。今、天可汗が上都におられ、令公がここでまた兵を統べておられると知りました。懐恩はまた天に殺された。我らがどうして令公と戦いましょうか」。
- 子儀はそこで説いた。「吐蕃は無道である。我が国の乱に乗じ、舅甥の親を顧みず、我が辺境を呑み、我が都の近郊を焼き払った。掠め取った財は載せきれぬほど、馬牛雑畜は数百里に連なって野に満ちている。これは天がお前たちに与えるものだ。軍を全うして好みを続け、敵を破って富を取る。お前たちにとってこれ以上の得策があろうか。逃してはならぬ」。
- 薬葛羅は言った。「私は懐恩に誤らされ、公に背いたことはまことに深い。今は公のために力を尽くして吐蕃を撃ち、過ちを謝したい。ただ懐恩の子は可敦の兄弟です。どうか助けて殺さないでいただきたい」。子儀は承知した。
- 回紇の見物する者たちが左右に両翼をなして少しずつ前に出ると、子儀の麾下も進み出た。子儀は手を振って退けさせ、酒を取ってその酋長とともに飲んだ。薬葛羅が子儀に先に酒を執って誓わせると、子儀は地に酒を注いで言った。「大唐の天子は万歳、回紇の可汗もまた万歳、両国の将相もまた万歳。約に背く者があれば、身は陣前に斃れ、家族は滅び絶えよ」。盃が薬葛羅に回ると、彼もまた地に注いで「令公の誓いのとおりに」と言った。
- そこで酋長たちはみな大いに喜んで言った。「先に二人の巫師を軍に従えていたが、巫は『この遠征はきわめて安穏で、唐とは戦わず、一人の大人に会って還る』と言った。今それが果たしてそのとおりになった」。子儀は綵三千匹を贈り、酋長はそれを分けて巫に賞した。子儀はついに約を定めて還った。
- 吐蕃はこれを聞き、夜のうちに兵を率いて逃げ去った。回紇は酋長の石野那ら六人を遣わして天子に謁見させた。薬葛羅は衆を率いて吐蕃を追い、子儀は白元光に精騎を率いて同行させた。癸酉、霊台の西原で戦って大破し、吐蕃を万を数えるほど殺し、掠われていた士女四千人を取り戻した。丙子、また涇州の東で破った。丁丑、僕固懐恩の将の張休藏らが降った。辛巳、詔して親征を取りやめ、京城の戒厳を解いた。
- はじめ粛宗は陝西節度使の郭英乂に神策軍使を領させ、内侍の魚朝恩にその軍を監させた。英乂が入って僕射となると、朝恩が専らこれを率いた。帝が陝へ行幸したとき、朝恩は陝にあった兵と神策軍を挙げて迎えて扈従し、すべてを神策軍と称した。天子がその営に臨み、京師が平定されると、朝恩は軍を率いて禁中に帰り、自ら率いた。だがなお北軍と肩を並べるには至らなかった。このとき朝恩は神策軍を率いて帝に従い禁苑に駐屯し、その勢いは次第に盛んになり、左右の廂に分かれて北軍の上位に立つに至った。
- 郭子儀は、僕固名臣・李建忠らがみな懐恩の驍将であることから、外夷に逃げ込むのを恐れて招くよう請うた。名臣は懐恩の甥で、当時回紇の営にいた。帝は詔して、古参の将で功のある者はみなその罪を赦し、回紇に送り届けさせた。壬午、名臣は千余騎を率いて降った。子儀は開府儀同三司の慕容休真に書を持たせて党項の帥の鄭庭・郝徳らを諭させ、みな鳳翔に出頭して降った。
- 甲申、周智光が闕下に来て戦勝を献じ、二泊して鎮に帰った。智光はほしいままに人を殺した罪を負いながらまだ処罰されていなかったので、帝は帰したあとで悔いた。
- 乙酉、回紇の胡禄都督ら二百余人が入って謁見した。前後して贈った繒帛は十万匹に及び、府庫は空になり、百官の俸給に課税してこれに充てた。
大暦元年(766年)――周智光の跋扈
- 春正月、周智光は華州に至っていよいよ驕り高ぶり、召しても来なかった。帝は杜冕に山南の張献誠のもとへ行かせて智光を避けさせた。智光は兵を遣わして商山で待ち伏せさせたが捕らえられなかった。
- 智光は自分の罪が重いと知り、亡命者や無頼の子弟を集めて衆は数万に達し、掠奪をほしいままにさせて彼らの心を悦ばせた。関中で漕運される米二万斛をほしいままに留め、藩鎮の貢献物はしばしばその使者を殺して奪った。
- 冬十二月癸卯、周智光が陝州監軍の張志斌を殺した。智光はかねて陝州刺史の皇甫温と仲が悪かった。志斌が奏事のため入京する途中、智光が宿を提供した。志斌がその部下の不作法を責めると、智光は怒って言った。「僕固懐恩が反したのは、まさにお前たちのような輩が煽ったからだ。わしも反する気などなかったが、今日はお前のために反してやろう」。叱りつけて引き下ろして斬り、その肉を切り刻んで食った。
- 朝廷の官や科挙の受験者たちは智光の乱暴を恐れ、多くは同州からひそかに通り過ぎたが、智光は将に兵を率いさせて道で待ち伏せさせ、死ぬ者が甚だ多かった。
- 戊申、詔して智光に検校左僕射を加え、中使の余元仙に告身を持たせて授けさせた。智光はぞんざいに罵って言った。「智光は天下国家に大功がある。平章事をくれずに僕射とは。それに同・華は土地が狭くて才を伸ばすに足らぬ。陝・虢・商・鄜・坊の五州を加えてくれれば、まあよかろうというところだ」。そして大臣たちの過失を数え上げ、さらに言った。「ここは長安から百八十里。智光は夜寝るのにも足を伸ばせぬ。長安城を踏み破ってしまいそうでな。天子を挟んで諸侯に令するとなれば、この周智光にしかできぬわい」。元仙は震え上がった。郭子儀がしばしば智光の討伐を請うたが、帝は許さなかった。
大暦二年(767年)――周智光の誅
- 春正月丁巳、密詔して郭子儀に周智光を討たせた。子儀は大将の渾瑊・李懐光に渭水のほとりに陣させた。智光の麾下はこれを聞いてみな離心を抱いた。己未、智光の大将の李漢惠が同州から部下を率いて子儀に降った。壬戌、智光を澧州刺史に貶した。甲子、華州の牙将の姚懐・李延俊が智光を殺し、その首を献じてきた。