通鑑紀事本末奸臣の収奪(宇文融・韋堅・楊慎矜・王鉷・楊釗)(姦臣聚斂)

玄宗の代に、財利を説いて位を得た臣たちが次々に現れ、聚斂によって国用を膨らませていく過程を記す。開元九年に宇文融が逃亡戸と籍外の田の検括を建議して八十余万の客戸を得たのが端緒で、勧農使を天下に分遣する手法はやがて張説との党争を招き、宇文融は百日の宰相で失脚した。その後は楊慎矜が太府の出納で信任され、韋堅が江淮の漕運で広運潭を作って寵を得、王鉷が戸口色役使として苛斂を極めて上の私用に応え、ついに楊釗(国忠)が十五余りの使職を兼ねて急速に昇進した。天宝八載には倉庫が満ちる一方、賞賜には限りがなくなった。

年表(14件)

唐玄宗開元九年(721年)――宇文融の括戸

  • 春正月、監察御史の宇文融が「天下の戸口で逃亡し移住した者、また偽装がきわめて多うございます。検括を加えられますよう」と上言した。宇文融は宇文弼の玄孫である。源乾曜はもともとその才を愛し、これを賛成した。
  • 二月乙酉、有司に勅して、流亡した者を招集し偽装を糾明する法を議して奏聞させた。
  • 丁亥、制して、州県の逃亡した戸口は百日の自首を認め、あるいは所在地で戸籍に付け、あるいは牒を出して故郷に帰らせ、それぞれ望むところに従わせることとした。期限を過ぎて自首せぬ者は検括を加えて辺州に謫し徙し、公私で敢えて庇い匿う者は罪に当てた。
  • 宇文融を使に充てて、逃亡・移住した戸口および籍外の田を括らせた。摘発された偽装はきわめて多く、兵部員外郎兼侍御史に遷った。
  • 宇文融は勧農判官十人を置いてみな御史を摂させ、分かれて天下を巡らせるよう奏した。新たに附籍した客戸は六年間の賦調を免じた。使者は競って刻薄に急ぎ、州県は風を承けて労し騒がせ、百姓は苦しんだ。
  • 陽翟尉の皇甫憬が上疏してその状を言った。上はまさに宇文融を任じており、皇甫憬を盈川尉に貶した。
  • 州県は旨に迎合して多く得ることに努め、その数を虚しく張り、あるいは実在の戸を客戸とした。およそ得た戸は八十余万、田もこれに見合った。

開元十一年(723年)

  • 秋八月、勅して、先に逃亡者の検括を令じたが煩わしい騒ぎとなることを慮り、所在の州県に安んじ集めさせ、その生業を遂げさせることとした。

開元十二年(724年)

  • 夏六月壬辰、制して、逃亡した戸の自首を認め、所在の閑田を開墾させ、適宜に税を収め、差科・征役を課してはならず、租庸は一切免除することとした。なお兵部員外郎兼侍御史の宇文融を勧農使として州県を巡行させ、吏民と賦役を議定させた。
  • 秋八月己亥、宇文融を御史中丞とした。駅馬に乗って天下を周流し、事は大小を問わず、諸州はまず勧農使に牒を上げ、その後で中書省に申した。省の担当官もまた宇文融の指図を待ってから処決した。
  • 当時、上はまさに大いに四夷を攘おうとして経費を急いだ。州県は宇文融を畏れ、多く虚数を張った。およそ客戸八十余万、田もこれに見合った。年末には緡銭が数百万増え、ことごとく宮中に納められた。これによって寵を得た。
  • 議者の多くが煩わしく騒がしく百姓に不利だと言った。上は百僚を尚書省に集めて議させたが、公卿以下は宇文融の恩勢を畏れてみな異を立てなかった。ただ戸部侍郎の楊瑒だけが抗議して、客戸を括って税を免ずるのは定住者に不利であり、籍外の田税を徴するのは百姓を困弊させるもので、得るところは失うところを補わないと述べた。まもなく楊瑒は華州刺史として出された。

開元十三年(725年)

  • 宇文融に戸部侍郎を兼ねさせた。制して、得た客戸の税銭を均しく常平倉の元手に充てた。

開元十四年(726年)

  • 中書令の張説は御史中丞の宇文融の人となりを憎み、しかもその権が重いことを患い、宇文融の建白の多くを抑えた。
  • 夏四月壬子、宇文融および御史大夫の崔隠甫、御史中丞の李林甫が共に張説を弾劾し、術士を引いて星を占わせ、私に徇い僭って奢り、賄賂を受納したと言った。庚申、張説の中書令を罷めた。

開元十五年(727年)

  • 春正月、御史大夫の崔隠甫と中丞の宇文融は右丞相の張説が再び用いられることを恐れ、しばしば奏して毀った。各々朋党をなし、上は憎んだ。
  • 二月乙巳、制して張説を致仕させ、隠甫を免官して母に仕えさせ、宇文融を魏州刺史として出した。
  • 乙卯、制して、諸州の逃亡戸で先に勧農使の検括を経て確定した後に、また逃げて来る者があれば、到着次第、白丁の例に準じて当年の租庸を納めさせ、征役に当たる者は差役を免ずることとした。

開元十六年(728年)

  • 春正月甲寅、魏州刺史の宇文融を戸部侍郎兼魏州刺史・河北道宣撫使に充てた。
  • 丙寅、魏州刺史の宇文融を検校汴州刺史・河南北溝渠堤堰決九河使に充てた。宇文融は『禹貢』の九河の故道を用いて稲田を開き、あわせて陸運の銭を回して替えることを請い、官がその利を収めた。役を興して息まなかったが、事は多く成らなかった。

開元十七年(729年)――宇文融の失脚

  • 宇文融は性質が精密で敏捷、応対は弁が立ち、財賦を治めることで上に幸せられた。始めて広く諸使を置き、競って聚斂をなした。これによって百官は次第にその職を失い、上の心はいよいよ奢り、百姓はみな怨み苦しんだ。
  • 人となりは疎放で躁がしく多言、自ら誇ることを好んだ。相位にあって人に「私をここに数か月置いてくれれば、海内は無事になる」と言った。
  • 信安王褘が軍功によって上に寵せられ、宇文融は憎んだ。褘が入朝すると、宇文融は御史の李寅にこれを弾劾させ、それを親しい者に漏らした。褘は聞いて先に上に申し上げ、翌日、李寅の奏が果たして入った。上は怒った。
  • 九月壬子、宇文融は連坐して汝州刺史に貶された。およそ相位にあること百日で罷めた。これより後、財利を言って高位を取る者はみな宇文融を祖とした。
  • 冬十月、宇文融が罪を得てから国用が足りず、上は改めてこれを思って裴光庭らに「卿らはみな融の悪を言った。朕はすでに黜けた。今、国用が足りぬ。どうすればよいか。卿らは何をもって朕を佐けるか」と言った。裴光庭らは恐れて答えられなかった。
  • 折しも飛状で宇文融の贓賄の事を告げる者があり、また平楽尉に貶された。嶺外に至って一年余り、司農少卿の蒋岑が「融は汴州で官銭を隠没すること巨万に上ります」と奏し、制でその事を窮め治めた。宇文融は連坐して巌州に流され、道中で没した。

開元二十一年(733年)――楊慎矜の登用

  • 太府卿の楊崇礼は楊政道の子である。太府にあること二十余年、前後の太府の官で及ぶ者はなかった。当時は太平が久しく続いて財貨が山と積まれていたが、楊卿の手を経たものは精美でないものがなかった。毎年、勘定して省いた分が銭百万緡に上った。
  • この年、戸部尚書として致仕した。年は九十余であった。
  • 上が宰相に「崇礼の諸子で父を継げる者は誰か」と問うた。「崇礼には三子、慎余・慎矜・慎名がおり、みな廉直で勤勉、才があります。中でも慎矜が優れております」と答えた。
  • 上はそこで慎矜を汝陽令から監察御史に抜擢して太府の出納を知らしめ、慎名に監察御史を摂させて含嘉倉の出給を知らしめた。いずれも職に称い、上は甚だ喜んだ。
  • 慎矜が、諸州から輸された布帛で汚れや破れのあるものはみな本州に下して倍の銭を徴収して折り合わせ、軽貨に転じて市うよう奏した。徴調はここから繁くなった。

天宝元年(742年)――韋堅・王鉷の台頭

  • 春三月、長安令の韋堅を陝郡太守・江淮租庸転運使とした。
  • はじめ宇文融が敗れてから利を言う者はやや息んだが、楊慎矜が幸せられるに及び、ここに韋堅・王鉷の徒が競って利によって進んだ。百司で権のある事は少しずつ別に使を置いて領させ、旧来の官は位を占めるだけになった。
  • 韋堅は太子の妃の兄である。吏として才幹と機敏を称され、上はこれに江淮の租運を督させた。年ごとに巨万を増やし、上は有能と考えて抜擢して任じた。
  • 王鉷は王方翼の孫である。これも租賦を善く治めることによって戸部員外郎兼侍御史となった。

天宝二年(743年)――広運潭

  • 春三月、江淮南租庸等使の韋堅が滻水を引いて苑の東の望春楼の下に至らせ、潭を作って江淮の運船を集め、役夫と工匠を使って漕渠を通じさせた。人の墳墓を掘り起こし、江淮から京城まで民間は寂として愁え怨んだ。二年で完成した。
  • 丙寅、上が望春楼に行幸して新しい潭を観た。韋堅は数百艘の新しい船にあまねく郡名を掲げ、各々郡中の珍しい貨物を船の甲板に陳べた。
  • 陝尉の崔成甫は錦の半臂に切れ込みのある股引き、緑の衫を裸ばだけに羽織り、紅い被り物をして先頭の船に立ち、「得宝歌」を歌った。美婦百人に盛装させて唱和させ、帆柱が数里に連なった。
  • 韋堅は跪いて諸郡の軽貨を進め、なお百の牙盤の食膳を上った。上は宴を設けて終日を尽くして罷めた。観る者は山のようだった。
  • 夏四月、韋堅に左散騎常侍を加え、その僚属・吏卒に差をつけて褒賞した。その潭を「広運潭」と名づけた。

天宝四載(745年)――王鉷の苛斂

  • 秋九月癸未、陝郡太守・江淮租庸転運使の韋堅を刑部尚書とし、その諸使を罷めて御史中丞の楊慎矜に代えた。
  • 冬十月、上が戸部郎中の王鉷を戸口色役使とした。勅で百姓に復除(免税)を賜ったが、王鉷はその運送の費用を徴すると奏して銭数を広く張り、また本郡の軽貨を市わせた。百姓の負担はかえって復除されぬときより甚だしくなった。
  • 旧制では辺境を戍る者は六年でその租庸を免じて交代することになっていた。当時、辺将は敗戦を恥じて士卒の死者をみな申告せず、戸籍から除かなかった。王鉷は志が聚斂にあり、籍にあって人のいない者はみな課役逃れとし、籍に照らして戍辺六年を過ぎた分についてことごとくその租庸を徴した。三十年分を併せて徴された者もあり、民は訴えるところがなかった。
  • 上は在位が久しく、用度は日々奢り、後宮への賞賜にも節がなかったが、しばしば左蔵・右蔵から取ることを望まなかった。王鉷は上の意向を探り知り、歳貢の額外の銭帛百億万を内庫に貯えて宮中の宴と賜与に供し、「これはみな租庸調から出たものではなく、経費に関わりません」と言った。
  • 上は王鉷を国を富ませる才ありとしていよいよ厚遇した。王鉷は割き剥ぐことに努めて媚びを求め、中外は嘆き怨んだ。
  • 丙子、王鉷を御史中丞・京畿采訪使とした。
  • 楊釗が禁中の宴に侍り、もっぱら樗蒲(賭博)の帳簿を掌り、勘定は精密だった。上はその強明を賞めて「よい度支郎だ」と言った。諸楊はしばしばこの言葉を上に持ち出し、また王鉷に属させ、王鉷はそこで判官に充てるよう奏した。

天宝七載(748年)――楊釗の躍進

  • 度支郎中兼侍御史の楊釗は上の愛憎をうかがうことに善く、迎合して聚斂をなし、急速に昇進した。一年のうちに十五余りの使職を領した。
  • 夏六月甲辰、給事中兼御史中丞に遷り、もっぱら度支の事を判じた。恩幸は日に隆んになった。

史論(蘇冕曰)

  • 官を設け職を分けるのは、それぞれ司るところがあってのこと。政に常があれば守りやすく、事が本に帰すれば失いにくい。遠くを経る理はこれを措いて何に拠ろうか。
  • 姦臣が広く利を言って恩を邀え、多く使を立てて寵を示し、下民を刻んで厚く斂め、虚数を張って献上の状となす。上の心は蕩れていよいよ奢り、人の望みは怨んで禍を成す。天子の有司にその位を守らせながらその事をなさしめず、厚禄を受けさせながらその用を虚しくさせた。
  • 宇文融がまずその端を唱え、楊慎矜と王鉷が続いてその軌を遵み、楊国忠がついにその乱を成した。仲尼は「盗む臣があっても、聚斂する臣がないほうがよい」と言った。まことにこの言のとおりである。前の車がすでに覆っているのに後の轍が改まらぬ。化の本に達しようとしても、また難しいことではないか。

天宝八載(749年)

  • 春二月戊申、百官を引いて左蔵を観覧させ、差をつけて帛を賜った。
  • このとき州県は殷賑で富み、倉庫の粟と帛の蓄積は動もすれば万を数えた。楊釗は所在で糶って軽貨に変え、丁租・地税を徴するにもみな布帛に変えて京師に輸送するよう奏請し、しばしば「帑蔵は充ち満ちて古今に稀に見るところ」と奏した。ゆえに上は群臣を率いてこれを観、楊釗に紫衣と金魚を賜って賞した。
  • 上は国用が豊かに広がったことから金帛を糞土のように見なし、貴寵の家への賞賜には限りがなくなった。