通鑑紀事本末楊氏一門の寵愛(楊氏之寵)

楊太真が玄宗の後宮に入って貴妃となり、一族が栄華を極めた末に馬嵬で滅ぶまでの十三年余り。武恵妃を失った玄宗は寿王の妃だった楊氏を召して寵愛し、その三人の姉を韓国・虢国・秦国夫人とし、楊銛・楊錡を加えた五家が邸宅と賞賜を競う勢いとなった。無頼だった従祖兄の楊釗は章仇兼瓊の引きで都に出て、貴妃の縁と度支の才で昇進し、王鉷の獄の後に国忠と名を賜って右相となり、災害の報告さえ握りつぶした。安禄山の乱で蜀へ逃れる途中、馬嵬駅で将士に楊国忠と姉妹が殺され、貴妃も縊られた。

年表(11件)

唐玄宗天宝三載(744年)――太真の入宮

  • はじめ武恵妃が薨じてから、上は悼み偲んで止まず、後宮の数千人にも意に適う者がなかった。ある者が「寿王の妃の楊氏の美しさは絶世無双です」と言った。上は見て喜び、そこで妃に自らの意として女道士となることを乞わせ、「太真」と号させた。改めて寿王には左衛郎将の韋昭訓の娘を娶らせ、ひそかに太真を宮中に入れた。
  • 太真は肌も姿も豊かに艶やかで音律に通じ、性質は敏く鋭く、上の意を承け迎えることに善かった。一年も経たぬうちに寵遇は恵妃のようになった。宮中では「娘子」と呼び、およそ儀礼と待遇はすべて皇后と同じだった。

天宝四載(745年)――貴妃の冊立と楊釗の登場

  • 秋八月壬寅、楊太真を貴妃に冊した。その父の玄琰に兵部尚書を追贈し、叔父の玄珪を光禄卿、従兄の銛を殿中少監、錡を駙馬都尉とした。癸卯、武恵妃の娘を太華公主に冊し、錡に娶らせた。
  • 貴妃の三人の姉もみな京師に邸を賜り、寵貴は赫々たるものだった。
  • 楊釗は貴妃の従祖の兄である。学がなく行いも悪く、一族から鄙しまれた。蜀で従軍して新都尉を得たが、任期を終えても家が貧しく自力で帰れなかった。新政の富民の鮮于仲通が常に資金を与えて助けた。楊玄琰が蜀で卒したとき、楊釗はその家に出入りし、そのまま次女と通じた。
  • 鮮于仲通は名を向といい字で通っていた。かなり書を読んで才知があった。剣南節度使の章仇兼瓊が引いて采訪支使とし、腹心を委ねた。
  • 兼瓊がかつてくつろいで仲通に言った。今、私だけが上に厚遇されているが、もし内の援けがなければ必ず李林甫に危うくされよう。楊妃が新たに寵を得たが、まだ誰も敢えて附こうとしないと聞く。子が私のために長安に至ってその家と結んでくれれば、私に憂いはない、と。
  • 仲通は「私は蜀の人で、まだ都に遊んだことがありません。公の事を仕損じることを恐れます。今、公のために改めて一人を求めましょう」と言い、そこで楊釗の来歴を述べた。
  • 兼瓊が楊釗を引見すると、姿は甚だ立派で言辞は敏捷だった。兼瓊は大いに喜び、ただちに辟して推官とし、往来して次第に親密になった。そこで春の綵を京師に献じさせることにした。別れに際して「郫に少しばかりの物がある。一日の糧に足りよう。子は通りがかりに取るがよい」と言った。
  • 楊釗が郫に至ると、兼瓊は親信の者に蜀の貨物のうち精美なものを多く携えさせて贈った。値は万緡に相当した。楊釗は大いに喜んで望外とし、昼夜兼行して長安に至った。
  • 諸姉を歴訪して蜀の貨物を贈り、「これは章仇公の贈られたものです」と言った。当時、次女は寡婦になったばかりで、楊釗はそこでその部屋に住まい、蜀の貨物を分けて与えた。
  • ここに諸楊は日夜、兼瓊を誉め、しかも楊釗が樗蒲に善いと言った。引いて上に会わせ、供奉官に随って禁中に出入りできるようになり、金吾兵曹参軍に改められた。

天宝五載(746年)――貴妃の第一次追放

  • 夏五月乙亥、剣南節度使の章仇兼瓊を戸部尚書とした。諸楊が引いたのである。
  • 楊貴妃はまさに寵を得ており、馬に乗るたび高力士が轡を執り鞭を授けた。織繡の工人で貴妃の院にもっぱら供する者は七百人。中外は争って器・服・珍玩を献じた。嶺南経略使の張九章と広陵長史の王翼は献じた物が精美だったので、九章は三品を加えられ、翼は入って戸部侍郎となった。
  • 天下は風になびくように従い、民間ではこう歌った。「男を生んでも喜ぶな、女を生んでも悲しむな。君よ、今は女が門を飾るのを見よ」と。
  • 妃は生の茘枝を得たがり、毎年、嶺南に命じて駅を馳せて届けさせ、長安に着いても色と味が変わらぬようにさせた。
  • ここに至って妃が嫉妬深く不遜だったので、上は怒って兄の銛の邸に送り返させた。この日、上は不機嫌で、日中になっても食事をせず、左右は動くたび旨に称わず、横ざまに鞭打たれた。
  • 高力士が上の意を試そうとして、院中の蓄えをことごとく車に載せて貴妃に送ることを請うた。上は自ら御膳を分けて賜った。夜になって力士がひれ伏して貴妃を院に迎え返すことを奏請し、そこで禁門を開いて入れた。これより恩遇はいっそう隆んになり、後宮で進み出られる者はなくなった。

天宝七載(748年)――三夫人と五家

  • 冬十一月癸未、楊貴妃の姉で崔氏に嫁いだ者を韓国夫人、裴氏に嫁いだ者を虢国夫人、柳氏に嫁いだ者を秦国夫人とした。三人はみな才と色があり、上は「姨(おば)」と呼んだ。宮掖に出入りしてともに恩沢を承け、勢いは天下を傾けた。
  • 命婦が入見するたび、玉真公主らはみな譲って敢えて席に着かなかった。三姉と銛・錡の五家がおよそ請託することがあれば、府県は峻厳な制勅よりも急いで承け迎え、四方からの賄賂はその門に輻湊し、ただ後れることだけを恐れて、朝夕、市のようだった。
  • 十宅の諸王および百孫院の婚礼はみな、まず銭千緡を韓国・虢国に賂して請わせ、志のとおりにならぬことはなかった。
  • 上の賜与および四方の献上は五家に一様に及んだ。競って邸宅を開いてその壮麗を極め、一堂の費用は動もすれば千万を超えた。完成してから他人に自分より勝る者があれば、たちまち毀って改造した。
  • 虢国はとりわけ豪奢だった。ある朝、工人と人夫を率いて韋嗣立の邸に突入し、そのまま旧屋を撤去して自ら新しい邸を建て、韋氏にはわずかに空き地十畝を与えただけだった。
  • 中堂ができあがると工人を呼んで塗装させ、銭二百万を約した。工人がさらに技への褒賞を求めたので、虢国は絳羅五百段を賞したが、工人は鼻で笑って顧みず、「どうか螻蟻や蜥蜴を取ってその数を記し、堂の中に置いてください。もし一匹でも失われれば、代金は受け取りません」と言った。

天宝九載(750年)――貴妃の第二次追放と楊国忠の改名

  • 春二月、楊貴妃がまた旨に逆らって私邸に送り返された。戸部郎中の吉温が宦官を通じて上に言った。婦人は識も慮りも遠くありません。聖心に違い逆らったとして、陛下はどうして宮中の一席の地を惜しんで死に就かせられぬのですか。どうして外の家で辱められるに忍びましょうか、と。上も悔いて、中使を遣わして御膳を賜った。
  • 妃は使者に対して涙を流して言った。妾の罪は死に当たります。陛下は幸いにも殺さずに帰してくださいました。今、永く掖庭を離れます。金玉・珍玩はみな陛下から賜ったもので、献上するに足りません。ただ髪だけは父母から与えられたもの。あえてこれをもって誠を薦めます、と。そこで髪を一房切って献じた。
  • 上は急ぎ高力士に召し還させ、寵遇はいっそう深くなった。
  • 当時、貴戚は競って食を進めることを尚んだ。上は宦官の姚思芸を検校進食使とし、水陸の珍しい馳走は数千盤、一盤の費用は中流の家十軒の財産に当たった。
  • 中書舎人の竇華がかつて退朝の折、公主の進食の列が大通りに並んでいるのに出会い、先払いの呼び声を上げて轡を按じてその間を出ようとした。宮苑の小者数百人が前で棒を振るい、竇華はかろうじて身一つで免れた。
  • 楊釗は図讖に「金刀」の字があるとして改名を請い、上は「国忠」の名を賜った。

天宝十載(751年)

  • 春正月庚子、楊氏の五宅が夜遊し、広平公主の従者と西市の門で争った。楊氏の奴が鞭を振るって公主の衣に及び、公主は馬から落ちた。駙馬の陳昌裔が下りて助け起こしたが、これも数鞭を受けた。公主は泣いて上に訴え、上はそのために楊氏の奴を杖殺したが、翌日、昌裔を免官して朝謁を許さなかった。

天宝十一載(752年)――楊国忠の拝相

  • 京兆尹の王鉷は権と寵が日に盛んで、二十余りの使を領していた。王鉷が罪を得ると、勅で楊国忠に取り調べさせ、なお国忠に京兆尹を兼ねさせた。
  • 夏五月丙辰、楊国忠に御史大夫・京畿関内采訪使を加えた。およそ王鉷が総べていた使務はことごとく国忠に帰した。
  • 十一月庚申、楊国忠を右相兼文部尚書とし、その判使の職はみな元のとおりとした。
  • 国忠は人となりが弁が立って強かったが軽々しく躁がしく威儀がなかった。宰相となると天下をもって己の任とし、機務を裁決して果敢で疑わなかった。朝廷では袖をまくり腕をさすり、公卿以下を顎で指し気で使い、震え上がらぬ者はなかった。侍御史から宰相に至るまで、およそ四十余の使を領した。台省の官で才行と時名がありながら自分に用いられぬ者はみな外に出した。
  • ある者が陝郡の進士の張彖に国忠に謁するよう勧め、「会えば富貴はたちどころに図れる」と言った。張彖は「君たちは楊右相を泰山のように恃んでいるが、私は氷山と思う。もし皎々たる日が出れば、君たちは恃むところを失うのではないか」と言い、そのまま嵩山に隠居した。
  • 十二月、楊国忠は人望を収めようとして、文部の選考にかかる者は賢愚を問わず、選考歴の長い者を留めて資歴に依り欠員に拠って官に注することを建議した。滞っていた者は挙って称えた。国忠のなす措置はみな時人の望むところに曲げて徇うものだったので、かなり衆誉を得た。

天宝十二載(753年)

  • 春正月、京兆尹の鮮于仲通が選人にそれとなく諷して、国忠のために頌を刻んで省の門に立てることを請わせた。制で仲通にその辞を撰ばせ、上はそのために数字を改め定め、仲通は金を填めた。
  • 冬十月、上が華清宮に行幸した。楊国忠と虢国夫人は邸が隣り合っており、昼夜の往来に期限もなかった。あるいは轡を並べて馬を走らせて入朝し、障幕も施さず、道路の人は目を掩った。
  • 三夫人が車駕に従って華清宮に行こうとして国忠の邸に会したとき、車馬と僕従は数坊に溢れ、錦繡・珠玉が鮮やかに目を奪った。
  • 国忠は客に「私はもともと寒家の出。一朝、椒房(后妃)の縁でここに至った。いつ車を降ろすことになるか分からぬ。しかし結局よい名を残すことはできぬと思う。ならばひとまず楽を極めるにしくはない」と言った。
  • 楊氏の五家は隊ごとに一色の衣を着て区別し、五家が隊を合わせると雲錦のように輝いた。国忠はなお剣南の旌節をその前に立てて導かせた。
  • 国忠の子の暄が明経を受験したが、学業が粗雑で及第の基準に達しなかった。礼部侍郎の達奚珣は国忠の権勢を畏れ、その子の昭応尉の撫を遣わして先に伝えさせた。
  • 撫は国忠が入朝するのをうかがい、馬に乗ろうとするところへ駆け寄って馬の下に至った。国忠は子が必ず及第したと思って喜色を浮かべた。撫が「父が相公に申し上げます。ご子息の答案は基準に達しておりません。しかしまだ落とすつもりはございません」と言うと、国忠は怒って「わが子がどうして富貴を憂えようか。鼠輩ごときに売られてたまるか」と言い、馬に鞭打って顧みずに去った。
  • 撫は恐れ慌てて父に書き送った。「あの者は貴勢を恃んで人を慘めさせます。どうして曲直を論じられましょう」。そこで暄を上等に置いた。
  • 暄が戸部侍郎になったころ、珣はようやく礼部から吏部に遷った。暄は親しい者に、なお自分の昇進の遅さと珣の速さを嘆いていたという。
  • 国忠が要地に居ると、中外からの贈り物が輻湊し、積まれた縑は三千万匹に至った。

天宝十三載(754年)――災害の隠蔽

  • 春二月丁丑、楊国忠が司空に進んだ。甲申、軒に臨んで冊命した。
  • 去年から水旱が相次ぎ、関中は大いに飢えた。楊国忠は京兆尹の李峴が自分に付かぬのを憎み、災いの咎を峴に帰した。九月、長沙太守に貶した。峴は信安王褘の子である。
  • 上は雨が稼を傷めることを憂えた。楊国忠は禾の善いものを取って献じ、「雨は多くとも稼を害しておりません」と言い、上はそのとおりと思った。
  • 扶風太守の房琯が管内の水災を言うと、楊国忠は御史にこれを取り調べさせた。この年、天下に敢えて災いを言う者はなくなった。
  • 高力士が側に侍していたとき、上が「淫雨が止まぬ。卿は言葉を尽くしてよい」と言った。「陛下が権を宰相に仮されてから、賞罰に章がなく、陰陽が度を失っております。臣がどうして敢えて申せましょう」と答え、上は黙然とした。

天宝十四載(755年)――安禄山の反乱

  • 安禄山が反いた。冬十二月、上が親征を議した。辛丑、制で太子に国政を監させ、宰相に言った。朕は在位ほぼ五十年、憂え勤めることに倦んだ。去年の秋、すでに太子に位を伝えようとしたが、水旱が相次ぎ、余った災いを子孫に遺したくなかったので、留まってやや豊かになるのを待っていた。思いがけず逆胡が横暴に発した。朕はまさに親征し、しかも太子に国政を監させる。事が平らいだ日には、朕は高枕して無為となろう、と。
  • 楊国忠は大いに恐れ、退いて韓国・虢国・秦国の三夫人に「太子はもともとわが家の専横を憎むこと久しい。もし一朝、天下を得れば、私と姉妹の命は旦夕に迫る」と言い、相ともに集まって哭いた。三夫人に貴妃を説かせ、土を銜んで上に命を請わせ、事はそこで沙汰止みとなった。

粛宗至徳元載(756年)――馬嵬の変

  • 楊国忠が上に蜀への行幸を勧めた。上が馬嵬駅に至ると、将士は飢え疲れてみな憤り怒った。竜武大将軍の陳玄礼は禍が楊国忠に由るとして誅そうとした。
  • 折しも吐蕃の使者二十余人が国忠の馬を遮って食がないことを訴えた。国忠がまだ答えぬうちに軍士が追いかけて殺し、あわせてその子の暄および韓国夫人・秦国夫人を殺した。
  • 上は高力士に命じて貴妃を仏堂で縊らせた。国忠の妻の裴柔とその幼子の晞および虢国夫人、夫人の子の裴徽は逃げて陳倉に至ったが、吏士が追捕して誅した。