通鑑紀事本末太平公主の謀反(太平公主謀逆)
高宗と武后の娘である太平公主が、婚姻と権謀によって朝政を左右し、ついに玄宗に誅されるまでを記す。薛紹に嫁いだ後、武攸暨に再嫁し、母に似た権謀を愛されて厚遇された。中宗の代には韋后誅滅にも与って重んじられ、睿宗の代には宰相の進退を左右するまでになり、若い太子隆基を廃そうと図って姚元之・宋璟を貶させた。玄宗の即位後も宰相七人のうち五人がその門から出るほどの勢いで、常元楷らと兵を挙げる謀を進めたが、開元元年に先手を打たれて党与を斬られ、山寺に逃げた末に家で死を賜った。
年表(7件)
- 高宗
- 開耀元年681年吐蕃の求婚を避けて道士とされていた公主が、薛紹に嫁ぐ
- 則天垂拱四年688年薛顗が琅邪王沖と通謀した罪で誅され、夫の薛紹も獄中で餓死する
- 天授元年690年太后が武攸暨の妻を殺して公主を娶らせ、公主の食邑は三千戸に至る
- 睿宗
- 景雲元年710年韋氏誅滅の功で重んじられ、宰相の進退を左右し、太子の廃立を流言する
- 景雲二年711年宋璟・姚元之が公主の東都移住を請うが、怒りを買って二人が貶される
- 玄宗
- 先天元年712年彗星を口実にした公主の術策が裏目に出て睿宗が譲位し、玄宗が即位する
- 開元元年――太平公主の誅滅713年玄宗が常元楷・竇懐貞ら党与を誅し、公主は死を賜って一党が滅ぶ
高宗開耀元年(681年)
- はじめ太原王妃(武后の母)が薨じたとき、天后は太平公主を女道士として冥福を追わせることを請うた。また吐蕃が和親を求めて太平公主を娶りたいと請うたため、上はそのために太平観を立てて公主を観主とし、これを口実に拒んだ。
- ここに至ってようやく光禄卿の汾陰の薛曜の子の紹を選んで娶らせた。紹の母は太宗の娘の城陽公主である。
- 秋七月、公主が薛氏に嫁いだ。興安門から南、宣陽坊まで松明が連なり、道を挟む槐の木の多くが枯れた。
- 紹の兄の顗は公主の寵が盛んなことを深く憂え、族祖の戸部郎中の克構に問うた。克構は「帝の甥が主を娶るのは国家の故事だ。慎み深く行えば何の傷もない。ただし諺に『婦を娶って公主を得るのは、事もないのに官府を引き取るようなもの』という。恐れずにはおれまい」と言った。
- 天后は顗の妻の蕭氏および顗の弟の緒の妻の成氏が貴族の出でないとして離縁させようとし、「わが娘をどうして田舎娘と嫁同士にできようか」と言った。ある者が「蕭氏は蕭瑀の姪孫で、国家の旧い姻戚です」と言い、そこで取りやめた。
則天垂拱四年(688年)
- 琅邪王沖が敗れたとき、済州刺史の薛顗とその弟の緒、緒の弟の駙馬都尉の紹が琅邪王沖と通謀した罪に問われ、顗と緒はみな誅された。紹は太平公主のゆえに杖百を打たれ、獄中で餓死した。
天授元年(690年)
- 太后は太平公主を、その伯父の武士譲の孫の攸暨に嫁がせようとした。攸暨は当時、右衛中郎将だった。太后はひそかに人を遣ってその妻を殺し、公主を娶らせた。
- 公主は額が角ばり顎が広く、権謀に富んだ。太后は自分に似ていると考えてとりわけ厚く寵愛し、常にひそかに天下の事を議した。旧制では食邑は諸王でも千戸を超えず、公主は三百五十戸を超えなかったが、太平公主だけは累加して三千戸に至った。
睿宗景雲元年(710年)
- 太平公主は沈着で明敏、権謀に富み、武后は自分に似ていると考えて諸子の中で独り愛し寵し、かなり密謀に与らせた。しかしなお武后の厳しさを畏れ、あえて権勢を招こうとはしなかった。張易之を誅したとき公主にも力があった。
- 中宗の世には韋后も安楽公主もみな公主を畏れた。また太子(隆基)とともに韋氏を誅した。
- しばしば大功を立てたことでいっそう尊重され、上(睿宗)は常に公主と大政を図議した。入って奏事するたび座って長く語り、あるいは朝謁せぬときは宰相が邸に赴いて諮問した。
- 宰相が奏事するたび、上は必ず「太平と議したか」と問い、また「三郎と議したか」と問い、そのうえで可とした。三郎とは太子のことである。
- 公主の望むところで上が聴かぬものはなく、宰相以下の進退はその一言にかかった。その他、推薦されて急に清要の顕職を歴任した者は数え切れない。権は人主を傾け、その門に趨り附く者は市のようだった。
- 子の薛崇行・崇敏・崇簡はみな王に封ぜられ、田園は近郊にあまねく広がり、買い集めて造らせた諸々の器玩は遠く嶺南や蜀にまで及び、輸送する者が路に連なった。住まいと供養は宮掖に匹敵した。
- 太平公主は太子が年少なことからかなり侮っていたが、その英邁で武を備えていることを憚り、改めて暗愚な者を択んで立て、長く権を保とうとした。しばしば「太子は長子ではない。立てるべきでない」と流言を流した。己亥、制で内外を戒め諭して浮ついた議論を止めさせた。
- 公主は常に太子の行いをうかがい、些細なことまで上に告げた。太子の側近もしばしば公主の耳目となり、太子は深く自ら安んじられなかった。
景雲二年(711年)
- 太平公主が益州長史の竇懐貞らと朋党を結び、太子を危うくしようとした。その婿の唐晙に韋安石を邸に招かせたが、韋安石は固辞して行かなかった。
- 上がかつてひそかに韋安石を召して「朝廷はみな東宮に心を傾けていると聞く。卿はこれを察せよ」と言った。韋安石は「陛下はどこからそのような亡国の言葉をお聞きになったのですか。これは必ず太平の謀にすぎません。太子は社稷に功があり、仁明孝友は天下の知るところ。どうか陛下、讒言に惑わされませぬよう」と答えた。上ははっとして「朕は分かった。卿は言うな」と言った。
- このとき公主は簾の下にいてひそかに聴いており、飛語で韋安石を陥れて捕らえて取り調べようとしたが、郭元振の救いによって免れた。
- 公主はまたかつて輦に乗って光範門の内で宰相を待ち構え、東宮を替えることをそれとなく諷した。衆はみな色を失った。宋璟が抗言して「東宮は天下に大功があり、まことに宗廟社稷の主です。公主はどうしてにわかにこんな議を出されるのですか」と言った。
- 宋璟と姚元之がひそかに上に言った。宋王は陛下の長子、豳王は高宗の長孫です。太平公主がその間を交え構えて東宮を不安にさせております。どうか宋王と豳王を出して刺史とし、岐王と薛王の左右羽林の職を罷めて左右率とし太子に仕えさせ、太平公主は武攸暨とともに東都に安置されますよう、と。
- 上は「朕には他に兄弟がなく、ただ太平の一妹だけである。どうして遠く東都に置けようか。諸王は卿らの処置のままに」と言った。
- そこでまず制を下し「諸王と駙馬は今後、禁兵を典ってはならぬ。現任の者はみな他官に改めよ」と述べた。
- ほどなく上が侍臣に「術者が、五日のうちに急な兵が宮に入ると言った。卿らは朕のために備えよ」と言った。張説は「これは必ず讒人が東宮を離間しようとしているのです。どうか陛下、太子に国政を監させられますよう。そうすれば流言は自ずと息みましょう」と言い、姚元之も「張説の言うところは社稷の至計です」と言い、上は喜んだ。
- 二月丙子朔、宋王成器を同州刺史、豳王守礼を豳州刺史、左羽林大将軍の岐王隆範を左衛率、右羽林大将軍の薛王隆業を右衛率とし、太平公主を蒲州に安置した。丁丑、太子に国政を監させ、六品以下の除官および徒罪以下はみな太子の処分を仰ぐこととした。
- 太平公主は姚元之と宋璟の謀を聞いて激怒し、太子を責めた。太子は恐れて、元之と璟が姑と兄を離間したとして極法に処すよう奏請した。甲申、元之を申州刺史、璟を楚州刺史に貶した。丙戌、宋王と豳王の刺史の命も取りやめとなった。
- 夏四月、上が三品以上の群臣を召して「朕はもともと淡泊を懐き、万乗を貴いとは思わぬ。かつて皇嗣となり皇太弟となったときもみな辞して受けなかった。今、太子に位を伝えたいがどうか」と言った。群臣は誰も答えなかった。太子は右庶子の李景伯を遣わして固辞し、許されなかった。
- 殿中侍御史の和逢堯が太平公主に付いて「陛下は年もまだ高くなく、まさに四海の依り仰ぐところです。どうしてにわかにそのようなことを」と言い、上はそこで止めた。
- 戊子、制して政事はすべて太子の処分を仰ぎ、軍旅・死刑および五品以上の除授はみな太子と議したうえで奏聞することとした。
- 夏五月、太子が宋王成器に位を譲ることを請うたが許されなかった。太平公主を京師に召し返すことを請い、許された。
- 壬戌、殿中監の竇懐貞を御史大夫・同平章事とした。
- 秋九月庚辰、竇懐貞を侍中とした。懐貞は退朝するたび必ず太平公主の邸に赴いた。当時、金仙・玉真の二観を修めており、群臣の多くが諫めたが、懐貞だけは勧めて成らせ、自ら役を督した。
- 冬十月甲辰、上が承天門に出御して韋安石・郭元振・竇懐貞・李日知・張説を引き、制を宣して政教に欠けるところ多く、水旱が災いをなし、府庫はいよいよ尽き、僚吏は日に増えていると責め、「朕の薄徳もあるが輔佐が非才でもある」と述べた。
- 韋安石を左僕射・東都留守、郭元振を吏部尚書、竇懐貞を左御史大夫、李日知を戸部尚書、張説を左丞とし、みな政事を罷めた。吏部尚書の劉幽求を侍中、右散騎常侍の魏知古を左散騎常侍、太子詹事の崔湜を中書侍郎としてともに同中書門下三品、中書侍郎の陸象先を同平章事とした。みな太平公主の意によるものである。
- 陸象先は清浄で欲少なく、言論が高遠で時人に重んじられた。崔湜はひそかに太平公主に侍しており、公主は引いて宰相にしようとした。崔湜は陸象先と同時に昇進することを請い、公主が承知しないので、崔湜は「では私もお受けできません」と言った。公主はそこで二人ともを上に言い、上は崔湜を用いたくなかったが、公主が涙を流して請い、そこで従った。
玄宗先天元年(712年)
- 蒲州刺史の蕭至忠が自ら太平公主に託し、公主は引いて刑部尚書とした。華州長史の蒋欽緒はその妹の夫である。「君ほどの才なら、栄達を憂える必要がどこにあろう。分に非ざる妄りな求めをするな」と言ったが、至忠は応じなかった。欽緒は退いて「九代続いた卿の家柄を、一挙に滅ぼすのか。哀しいことだ」と嘆じた。
- 至忠はもともと高い名望があった。かつて公主の邸の門から出たところで宋璟に出会った。宋璟が「蕭君に望んでいたことではありませんな」と言うと、至忠は笑って「よく言うものだ、宋生は」と言い、ただちに馬に鞭打って去った。
- 秋七月、彗星が西方に現れ、軒轅を経て太微に入り、大角に至った。
- 太平公主が術者に上へ「彗星は旧きを除いて新しきを布くもの。また帝座および心宿の前星にみな変異があります。皇太子が天子となるべきです」と言わせた。公主は太子を廃立させるためにこれを言わせたのである。
- 上は「徳を伝えて災いを避ける。わが志は決まった」と言った。太平公主とその党はみな力を尽くして不可と諫めた。
- 上は言った。中宗の時、群姦が事を執り、天変がしばしば臻った。朕は当時、中宗に賢い子を択んで立てて災異に応えるよう請うた。中宗は喜ばず、朕は憂え恐れて数日、食事もできなかった。どうして人のことなら勧められ、自分のことならできぬということがあろうか、と。
- 太子は聞いて馳せ入って会い、自ら地に身を投げて叩頭して「臣は微功によって順序を越えて嗣となり、堪えられぬことを恐れております。陛下がにわかに大位を伝えられる理由が分かりません」と請うた。
- 上は「社稷が再び安らかになったのも、わしが天下を得たのも、みなお前の力である。今、帝座に災いがある。ゆえにお前に授けて禍を転じて福とするのだ。お前は何を疑うのか」と言った。太子が固辞すると、上は「お前は孝子である。どうして必ず柩の前を待ってから即位する必要があろうか」と言い、太子は涙を流して出た。
- 壬辰、制で太子に位を伝えた。太子は上表して固辞した。太平公主は上に、位を伝えても大政は自ら総べるべきだと勧めた。
- 上はそこで太子に「お前は天下の事が重いので、朕にあわせて理めさせようというのか。昔、舜は禹に禅っても、なお自ら巡狩した。朕は位を伝えても、どうして家国を忘れよう。軍国の大事はあわせて省みることとする」と言った。
- 八月庚子、玄宗が即位し、睿宗を太上皇と尊んだ。上皇は自ら「朕」と称し、命を「誥」といい、五日に一度、太極殿で朝を受けた。皇帝は自ら「予」と称し、命を「制」「勅」といい、日ごとに武徳殿で朝を受けた。三品以上の除授および大きな刑政は上皇が決し、その他はみな皇帝が決した。
- はじめ河内の人の王琚は王同皎の謀に加わって亡命し、江都で書写を請け負って暮らした。上が太子だったころ、王琚は長安に帰って諸暨主簿に選補され、太子のもとへ挨拶に立ち寄った。
- 王琚は廷中に至ってわざとゆっくり歩き、高く見上げていた。宦者が「殿下は簾の内におられます」と言うと、王琚は「何が殿下か。当今、あるのはただ太平公主だけだ」と言った。太子は急ぎ召見して語った。
- 王琚は「韋庶人が弑逆し人心が服さなかったのですから、誅すのは易いことでした。太平公主は武后の子で凶猾この上なく、大臣の多くがその用となっております。私はひそかにこれを憂えます」と言った。
- 太子は引いて同じ床几に坐らせ、泣いて「主上と同じ母から生まれたのはただ太平だけだ。言えば主上の意を傷つけることを恐れ、言わねば患いは日々深くなる。どうすればよいか」と言った。
- 王琚は「天子の孝は匹夫とは異なります。宗廟社稷を安んずることを事とすべきです。蓋主は漢の昭帝の姉で幼時から供養しましたが、罪があってなお誅されました。天下を治める者が、どうして小節を顧みましょう」と答えた。
- 太子は喜んで「君にはどんな芸があるか。寡人と遊べるか」と問うた。王琚が「飛(軽業)・煉(錬丹)・詼嘲(洒落)ができます」と答え、太子はそこで奏して詹事府司直とし、日々ともに過ごし、累遷して太子中舎人となった。即位すると中書侍郎とした。
- このとき宰相の多くが太平公主の党だった。劉幽求が右羽林将軍の張暐と羽林の兵で誅そうと謀り、張暐にひそかに上へ言わせた。竇懐貞・崔湜・岑羲はみな公主によって進み、日夜、軽からぬ謀をなしております。早く図られねば、一朝、事が起こったとき太上皇はどうして安らかでいられましょう。速やかに誅されますよう。臣はすでに幽求と計を定め、ただ陛下の命を待つばかりです、と。上は深くそのとおりと思った。
- 張暐がその謀を侍御史の鄧光賓に漏らし、上は大いに恐れて急ぎその状を上奏した。丙辰、劉幽求は獄に下された。有司は幽求らが骨肉を離間したとして罪は死に当たると奏したが、上は幽求に大功があって殺すべきでないと言った。癸亥、幽求を封州、張暐を峯州、鄧光賓を繡州に流した。
- はじめ崔湜は襄州刺史だったころ、ひそかに譙王重福と書を通じ、重福は金の帯を贈った。重福が敗れたとき崔湜は死に当たったが、張説と劉幽求が庇って免れた。ところが崔湜は太平公主に付き、公主と謀って張説の政事を罷めさせ、左丞として東都に分司させた。
- 劉幽求が封州に流されると、崔湜は広州都督の周利貞にそれとなく殺させようとした。桂州都督の景城の王晙がその謀を知り、幽求を留めて送らなかった。周利貞がしばしば牒を送って求めたが、王晙は応じなかった。周利貞はこれを上申し、崔湜はしばしば王晙に迫って幽求を送らせようとした。
- 幽求は王晙に「公が執政に逆らって流人を保護しても、勢いとして全うできません。いたずらに累を仰ぐだけです」と言い、固く広州へ赴くことを請うた。王晙は「公の坐したところは、朋友を絶つべき類のものではない。晙が公のゆえに罪を得ても恨むところはない」と言い、ついにぐずぐずして送らなかった。幽求はこれによって免れた。
開元元年(713年)――太平公主の誅滅
- 太平公主は上皇の勢いに依って権を擅にして事を執り、上と隙を生じた。宰相七人のうち五人がその門から出、文武の臣の大半が附いた。
- 竇懐貞・岑羲・蕭至忠・崔湜および太子少保の薛稷、雍州長史の新興王晋、左羽林大将軍の常元楷、知右羽林将軍の李慈、左金吾将軍の李欽、中書舎人の李猷、右散騎常侍の賈膺福、鴻臚卿の唐晙および僧の慧範らと廃立を謀った。
- また宮人の元氏と謀って赤箭粉(天麻の粉)の中に毒を仕込んで上に進めようとした。晋は李徳良の孫である。常元楷と李慈はしばしば公主の邸に往来してともに謀を結んだ。
- 王琚が上に「事は迫っております。速やかに発せられぬわけにいきません」と言った。左丞の張説は東都から人を遣わして上に佩刀を贈り、断ち割ることを促す意を示した。
- 荆州長史の崔日用が入って奏事し、上に言った。太平の謀逆は日を追っております。陛下がかつて東宮におられたころはなお臣子でしたから、討とうとすれば謀と力を用いねばなりませんでした。今すでに大宝に光臨されております。ただ一通の制書を下されれば、誰があえて従わぬでしょう。万一、姦宄が志を得れば、悔いても及びません、と。
- 上が「まことに卿の言うとおりだ。ただ上皇を驚かせることを恐れる」と言うと、崔日用は「天子の孝は四海を安んずることにあります。もし姦人が志を得れば社稷は廃墟となります。どこに孝がありましょう。まず北軍を定め、後で逆党を収めれば、上皇を驚かせずに済みます」と言い、上はそのとおりと思って崔日用を吏部侍郎とした。
- 秋七月、魏知古が「公主は今月四日に乱を起こそうとしております。常元楷と李慈が羽林の兵で武徳殿に突入し、竇懐貞・蕭至忠・岑羲らが南牙で兵を挙げて応じます」と告げた。
- 上はそこで岐王範・薛王業・郭元振および竜武将軍の王毛仲、殿中少監の姜皎、太僕少卿の李令問、尚乗奉御の王守一、内給事の高力士、果毅の李守徳らと計を定めて誅すことにした。姜皎は姜謩の曽孫、李令問は李靖の弟の客師の孫、王守一は王仁皎の子、高力士は潘州の人である。
- 甲子、上は王毛仲に閑厩の馬および兵三百余人を取らせ、同謀の十余人とともに武徳殿から虔化門に入り、常元楷と李慈を召してまず斬り、賈膺福と李猷を内客省で捕らえて引き出し、蕭至忠と岑羲を朝堂で捕らえてみな斬った。
- 竇懐貞は溝の中に逃げ込んで自縊し、その屍を戮して姓を「毒」と改めた。
- 上皇は変を聞いて承天門の楼に登った。郭元振が「皇帝は先に誥を奉じて竇懐貞らを誅されました。他事はございません」と奏した。上もほどなく楼に至り、上皇はそこで誥を下して懐貞らの罪状を述べ、天下に赦した。ただ逆人の親党だけは赦さなかった。薛稷は万年の獄で死を賜った。
- 乙丑、上皇が誥して「今より軍国の政と刑はすべて皇帝の処分を仰ぐ。朕はまさに無為を方として志を養い、素心を遂げる」と述べた。この日、百福殿に移り住んだ。
- 太平公主は山寺に逃げ込み、三日してから出て、家で死を賜った。公主の諸子および党与で死んだ者は数十人。薛崇簡はしばしば母を諫めて鞭打たれていたので特に死を免じられ、李の姓を賜り、官爵は元のままとされた。
- 公主の家財を没収すると貨物は山と積まれ、珍しい品々は御府に匹敵し、厩の羊馬・田園・利息の銭は数年かけても取り尽くせなかった。慧範の家産もまた数十万緡。新興王晋の姓を「厲」と改めた。
- はじめ上が竇懐貞らを誅そうと謀ったとき、崔湜を召して腹心として託そうとした。崔湜の弟の滌が「主上に問われたら隠すな」と言ったが、崔湜は従わなかった。懐貞らが誅されると、崔湜は右丞の盧蔵用とともに私かに太平公主に侍した罪に問われ、崔湜は竇州、盧蔵用は瀧州に流された。
- 新興王晋は刑に臨んで「もともとこの謀を立てたのは崔湜だ。今、私が死んで湜が生きるのは、冤ではないか」と嘆じた。折しも有司が宮人の元氏を取り調べ、元氏が崔湜も同謀して毒を進めたと引いた。そこで追って荆州で死を賜った。薛稷の子の伯陽は公主を娶っていたので死を免じて嶺南に流されたが、道中で自殺した。
- はじめ太平公主がその党と廃立を謀ったとき、竇懐貞・蕭至忠・岑羲・崔湜はみなそのとおりと思ったが、陸象先だけは不可とした。公主が「長を廃して少を立てるのはすでに順ならぬこと。しかもまた徳を失っている。どうして去らぬわけにいこう」と言うと、陸象先は「功によって立った以上、罪によって廃すべきです。今、実際に罪がありません」と答え、ついに従わなかった。公主は怒って去った。
- 上は懐貞らを誅した後、陸象先を召して「歳が寒くなって初めて松柏を知るとは、まことだ」と言った。当時、公主の枝党を窮め治めて連坐すべき者は多かったが、陸象先はひそかに申し開きをして全うさせた者が甚だ多かった。しかも自ら言うことがなく、当時それを知る者はなかった。
- 百官で日ごろ公主に善くされていた者、また憎まれていた者は、あるいは黜けられあるいは陟げられ、年が終わっても片付かなかった。
- 丁卯、上が承天門の楼に出御して天下に赦した。己巳、功臣の郭元振らに官爵・邸宅・金帛を差をつけて賞した。
- 庚辰、中書侍郎・同平章事の陸象先を罷めて益州長史とした。
- 八月癸巳、封州の流人の劉幽求を左僕射・平章軍国大事とした。
- 九月庚午、劉幽求を同中書門下三品とした。
- 冬十一月、劉幽求に侍中を兼ねさせた。