通鑑紀事本末武韋の禍(武韋之禍)
武氏が高宗の後宮に入って皇后となり、周を建てて帝位に即き、さらにその後を襲った韋后と安楽公主が誅されるまでの六十年余り。武后は王皇后・蕭淑妃を除いて長孫無忌・褚遂良ら旧臣を粛清し、高宗の病を機に「二聖」として政を執り、太子弘・賢を廃殺した。中宗を廃して睿宗を立て、徐敬業の挙兵を平らげてからは索元礼・周興・来俊臣ら酷吏を用いて唐の宗室を壊滅させ、天授元年に周を建てた。晩年、狄仁傑の説得で廬陵王を復立し、張易之兄弟の専横のなか張柬之ら五王のクーデタで中宗が復位したが、韋后と武三思が五王を殺し、太子重俊の挙兵も失敗、最後は臨淄王隆基が韋后・安楽公主を誅して睿宗が即位した。
年表(29件)
- 唐太宗
- 貞観二十二年――「女主武王」の讖648年「女主が昌える」の秘記により李君羨が誅され、李淳風は殺戮を諫める
- 高宗
- 永徽三年〜五年(652〜)――武氏の入宮654年王皇后が蕭淑妃の寵を割こうと武氏を後宮に入れ、武氏が昭儀となる
- 永徽六年――皇后廃立655年厭勝の誣告と李義府の上表を経て王皇后を廃し、武昭儀を皇后に立てる
- 顕慶元年〜四年(656〜)――旧臣の粛清659年太子忠を廃して代王弘を立て、韓瑗・褚遂良ら旧臣が次々に逐われる
- 麟徳元年――上官儀の獄と「二聖」664年廃后の詔を草した上官儀が誅され、以後は后が並び坐して「二聖」と称される
- 上元元年〜儀鳳元年(674〜)676年天皇・天后の号を称し、仁孝の太子弘が急死して雍王賢が太子となる
- 永隆元年――太子賢の廃位680年明崇儼殺害の疑いと甲冑の発見によって太子賢が廃され庶人とされる
- 弘道元年――高宗の崩御683年高宗が東都で崩じ、遺詔により大事は天后の処分を仰ぐこととなる
- 光宅元年――中宗の廃位と徐敬業の乱684年韋玄貞の登用をめぐり中宗を廃して睿宗を立て、徐敬業の挙兵を平らげる
- 光宅元年末〜垂拱二年(684〜)――酷吏政治の始まり686年程務挺を斬り、匭を置いて告密を奨め、索元礼・周興らが制獄を握る
- 垂拱三年〜天授元年(687〜)――唐宗室の壊滅と革命690年劉禕之を死なせ、明堂を建て宝図を受け、ついに周を建てて帝位に即く
- 天授二年691年来俊臣が周興を偽の獄で自白させ、酷吏の相食む政治のなか釈教を道教の上に置く
- 長寿元年692年来俊臣が狄仁傑・魏元忠らを謀反と誣告するが、獄中の密書によって免れて貶されるにとどまる
- 長寿二年693年皇嗣の妃劉氏と徳妃竇氏を殺し、万国俊らが嶺南の流人を大量に殺す
- 延載元年694年「越古金輪聖神皇帝」の尊号を受け、武三思らが天枢を鋳て周を頌える
- 天冊万歳元年――明堂の焼失と懐義の誅殺695年明堂が焼け、僧の懐義が誅される
- 万歳通天元年696年新しい明堂が完成し、法を公平に用いた徐有功を殿中侍御史に抜擢する
- 神功元年――綦連耀の獄と来俊臣の誅殺697年綦連耀の獄で朝士が大量に連坐し、ついに来俊臣が誅されて酷吏政治が終わる
- 聖暦元年――廬陵王の復立698年狄仁傑らの説得で武承嗣らを退け、廬陵王を迎えて皇嗣に復す
- 聖暦二年699年控鶴監を置いて張易之らを寵し、太子・相王・太平公主と武氏に誓文を作らせる
- 久視元年700年吉頊が貶され、張易之兄弟の権勢が張って狄仁傑が「国老」として重んじられる
- 長安元年701年蘇安恒が太子への譲位を上疏し、邵王重潤らが張易之を謗って死を賜る
- 長安二年702年蘇安恒が再び唐への復帰を説き、張昌宗の封王の上表が出される
- 長安三年――魏元忠の獄703年張易之兄弟が魏元忠を誣告し、張説の証言をめぐって朝廷が争う
- 長安四年704年張氏兄弟の贓罪が摘発され、姚元崇の推挙で張柬之が宰相となる
- 神龍元年――五王のクーデタと中宗の復位705年張柬之らが張易之・昌宗を誅して中宗を復位させ、唐の国号が戻る
- 神龍二年――五王の流謫と誅殺706年武三思と韋后が張柬之ら五王を流謫の地で殺す
- 景龍元年〜二年(707〜)――太子重俊の挙兵708年太子重俊が武三思父子を斬るが、玄武門で敗れて殺される
- 景龍四年・睿宗
- 景雲元年――韋后の誅滅と睿宗の即位710年臨淄王隆基らが韋后と安楽公主を誅し、睿宗が即位する
唐太宗貞観二十二年(648年)――「女主武王」の讖
- はじめ左武衛将軍・武連県公の武安の李君羨が玄武門の宿直に当たっていたころ、太白がしばしば昼に現れ、太史は「女主が昌える」と占った。民間にはまた「唐三世の後、女主武王が天下に取って代わる」という秘記が伝わり、上は憎んだ。
- 折しも武臣たちと宮中で宴し、酒令で各々の幼名を言わせたところ、李君羨は「五娘」と名乗った。上は驚き、そして笑って「どんな女子がそこまで勇健なのか」と言った。また李君羨の官名と封邑にみな「武」の字があることから深く憎み、後に華州刺史として出した。
- 布衣の員道信という者が穀を断ち仏法に通じると称し、李君羨は深く敬信してしばしば人を退けて語り合った。御史が李君羨と妖人が交通して不軌を謀っていると奏し、秋七月壬辰、李君羨は連坐して誅され、家を没収された。
- 上はひそかに太史令の李淳風に「秘記の言うことは本当にあるのか」と問うた。李淳風は「臣が天象を仰ぎ暦数を察するに、その人はすでに陛下の宮中におり親属となっております。今より三十年を出ずして天下に王となり、唐の子孫をほぼ殺し尽くしましょう。その兆しはすでに成っております」と答えた。
- 上が「疑わしい者をことごとく殺したらどうか」と言うと、「天の命ずるところは人に違えられません。王者は死なぬもの。いたずらに無辜を多く殺すだけです。しかも今より三十年後にはその人も老いており、いくらか慈しみの心があって、禍はあるいは浅いかもしれません。今、仮に得て殺しても、天はあるいは若い者を生じて怨毒を恣にさせましょう。陛下の子孫に遺る者がなくなることを恐れます」と答え、上はそこで止めた。
高宗永徽三年〜五年(652〜654年)――武氏の入宮
- 永徽三年秋七月丁巳、陳王忠を皇太子に立てた。
- はじめ王皇后には子がなく、蕭淑妃が寵を得ていたので王后は妬んだ。上が太子だったころ、太宗に侍って才人の武氏を見て気に入っていた。太宗が崩じ、武氏は衆に従って感業寺で尼となった。忌日に上が寺に詣でて焼香したとき武氏を見、武氏が泣き、上も泣いた。
- 王后はこれを聞き、ひそかに武氏に髪を伸ばさせ、上に勧めて後宮に納れさせた。淑妃の寵を割こうとしたのである。
- 武氏は巧智で権謀に富み、入宮の当初は言葉を低くし身を屈して后に仕えた。后は愛してしばしばその美を上に称え、まもなく大いに寵を得て昭儀を拝した。后と淑妃の寵はみな衰え、二人は改めてともに武氏を讒言したが、上はみな容れなかった。
- 昭儀はその父を追贈させたかったが名目がないので、功臣を褒賞するのに託し、屈突通らをあまねく贈って武士彠をそこに含めた。
- 王皇后と蕭淑妃は武昭儀と代わる代わる讒訴したが、上は后と淑妃の言を信ぜず、独り昭儀を信じた。后は上の側近にうまく仕えられず、母の魏国夫人柳氏および舅の中書令柳奭が入見しても、六宮に礼を尽くさなかった。武昭儀は后が敬わぬ者を見つけると必ず心を傾けて結び、得た賞賜を分け与えた。これによって后と淑妃の動静を昭儀は必ず知り、みな上に報告した。
- 后の寵は衰えたが、上にはまだ廃する意はなかった。折しも昭儀が娘を生み、后は可愛がって遊ばせた。后が出て行くと、昭儀はひそかに絞め殺して被いをかけた。上が来ると昭儀は喜び笑うふりをして被いを開けて見せると、娘はすでに死んでいた。驚いて泣いて左右に問うと、左右はみな「皇后がたった今おいででした」と言った。上は激怒して「后がわが娘を殺した」と言った。昭儀はそこで泣いてその罪を数え上げた。后は自ら明かす術がなく、上はこれによって廃立の志を抱いた。
- しかし大臣が従わぬことを恐れ、昭儀とともに太尉の長孫無忌の邸に行幸して酣飲して大いに歓び、席上で無忌の寵姫の子三人をみな朝散大夫とし、なお金宝と繒錦十車を無忌に賜った。上はそこでくつろいで皇后に子がないと言って諷したが、無忌は他のことで答え、ついに旨に順わなかった。上も昭儀も不快なまま罷めた。昭儀はまた母の楊氏を無忌の邸に行かせてしばしば祈り請わせたが、無忌はついに許さなかった。礼部尚書の許敬宗もしばしば無忌に勧めたが、無忌は色をなして退けた。
永徽六年(655年)――皇后廃立
- 夏六月、武昭儀は王后とその母の魏国夫人柳氏が厭勝を行っていると誣告し、勅で柳氏の入宮を禁じた。
- 秋七月戊寅、吏部尚書の柳奭を遂州刺史に貶した。柳奭が扶風まで来たとき、岐州長史の于承素が旨に迎合して柳奭が禁中の話を漏らしたと奏し、改めて栄州刺史に貶した。
- 唐は隋の制に因り、後宮に貴妃・淑妃・徳妃・賢妃があってみな一品に准じた。上は特に宸妃を置いて武昭儀を充てようとしたが、韓瑗と来済が「故事にありません」と諫めて止めた。
- 中書舎人の饒陽の李義府が長孫無忌に憎まれて壁州司馬に左遷された。勅がまだ門下に至らぬうちに李義府はひそかに知り、中書舎人の幽州の王徳倹に計を問うた。王徳倹は「上は武昭儀を后に立てたいのに躊躇して決しかねているのは、まさに宰臣の異議を恐れているだけです。君が策を建てて立てれば禍を福に転じられます」と言い、李義府もそのとおりと思った。
- この日、王徳倹に代わって宿直し、閤を叩いて上表し、皇后王氏を廃して武昭儀を立て万民の心に応えることを請うた。上は喜んで召見して語り、真珠一斗を賜って旧職に留めた。昭儀もひそかに使者を送って労い励まし、まもなく中書侍郎に抜擢された。ここに衛尉卿の許敬宗、御史大夫の崔義玄、中丞の袁公瑜がみなひそかに武昭儀に腹心を通じた。
- 秋八月、長安令の裴行倹が武昭儀を后に立てようとしていると聞き、国家の禍は必ずここから始まるとして、長孫無忌・褚遂良と私かにその事を議した。袁公瑜がこれを聞いて昭儀の母の楊氏に告げ、裴行倹は連坐して西州都護府長史に左遷された。裴行倹は裴仁基の子である。
- 九月戊辰、許敬宗を礼部尚書とした。
- ある日、上は退朝後に長孫無忌・李勣・于志寧・褚遂良を内殿に召した。褚遂良は「今日の召しはおおむね中宮のことであろう。上の意はすでに決している。逆らえば必ず死ぬ。太尉は元舅、司空は功臣であり、上に元舅や功臣を殺した名を負わせてはならぬ。遂良は草莽から起こって汗馬の労もないのに位はここに至り、しかも顧命を受けた。死をもって争わずして、どうして地下で先帝にまみえられよう」と言った。李勣は病と称して入らなかった。
- 無忌らが内殿に至ると、上は無忌を顧みて「皇后には子がなく、武昭儀には子がある。今、昭儀を后に立てたいがどうか」と言った。
- 褚遂良は「皇后は名家の出で、先帝が陛下のために娶られた方です。先帝は崩御に臨んで陛下の手を執り、臣に『朕の佳き児と佳き婦を今、卿に託す』と仰せられました。これは陛下もお聞きになったこと。その言葉はなお耳にあります。皇后に過失があるとは聞いておりません。どうして軽々しく廃せましょう。臣は曲げて陛下に従い、先帝の命に背くことはできません」と答え、上は不快なまま罷めた。
- 翌日また言うと、褚遂良は「陛下がどうしても皇后を替えられるなら、どうか天下の令族から妙選なさいますよう。なぜ必ず武氏なのですか。武氏は先帝にお仕えしたこと、衆の共に知るところ。天下の耳目をどうして蔽えましょう。万代の後、陛下を何と評しましょうか。どうか三思なさいますよう。臣は今、陛下の意に逆らいました。罪は死に当たります」と言い、笏を殿の階に置き、頭巾を解いて叩頭して血を流し、「陛下に笏をお返しします。どうか田里に帰らせてください」と言った。
- 上は激怒して引き出させた。昭儀は簾の中から大声で「なぜこの獠(蛮人)を打ち殺さぬのか」と言った。無忌は「遂良は先朝の顧命を受けた身。罪があっても刑を加えられません」と言った。于志寧はあえて口をきかなかった。
- 韓瑗は奏事の折に涙を流して極諫したが、上は容れなかった。翌日また諫めて悲しみに堪えられず、上は引き出させた。
- 韓瑗はさらに上疏して諫めた。匹夫匹婦ですら互いに選び合います。まして天子においてをや。皇后は万国の母儀であり、善悪はこれによります。ゆえに嫫母は黄帝を輔佐し、妲己は殷王を傾けました。詩に「赫赫たる宗周、褒姒これを滅ぼす」とあります。前古を見るたび常に嘆息しておりましたが、今日、聖代を汚すことになろうとは思いませんでした。行って法とならぬことをすれば、後嗣は何を見ましょう。どうか陛下、詳らかにお考えになり、後人に笑われぬようになさいますよう。臣の言が国を益するものであれば、塩漬けの刑も臣の分です。昔、呉王は伍子胥の言を用いず、姑蘇に麋鹿が遊ぶことになりました。臣は海内が失望し、闕庭に荊棘が生じ、宗廟が血食せぬ日が近いことを恐れます、と。
- 来済も上表して諫めた。王者が后を立てるのは上は乾坤に法るもので、必ず礼教の名家から幽閑貞淑な者を択び、四海の望みに副い神祇の意に称うべきです。ゆえに周の文王は舟を並べて太姒を迎えて関雎の化を興し、百姓は福を蒙りました。漢の成帝は欲を恣にして婢を后とし、皇統を絶やして社稷を傾けました。周の隆盛はかくのごとく、大漢の禍はかくのごとし。どうか陛下、詳らかにご覧ください、と。上はみな容れなかった。
- 後日、李勣が入見したとき、上が「朕は武昭儀を后に立てたいが、遂良が固執して不可とする。遂良は顧命の大臣である。この事はやめるべきか」と問うと、「これは陛下の家事です。どうして改めて外の人に問われる必要がありましょう」と答え、上の意はついに決した。
- 許敬宗は朝廷で「田舎の爺でも十斛余分に麦を収めれば妻を替えたがる。まして天子が一人の后を立てるのに、諸人に何の関わりがあって妄りに異議を生ずるのか」と公言した。昭儀は左右にこれを報告させた。庚午、褚遂良を潭州都督に貶した。
- 冬十月己酉、詔を下し、王皇后と蕭淑妃が鴆毒を謀ったとして庶人に廃し、母および兄弟をみな除名して嶺南に流した。
- 乙卯、百官が上表して中宮を立てることを請い、そこで詔を下した。武氏は門地に勲功が著れ、家柄は華やかである。かつて才行によって選ばれて後宮に入り、椒闈に誉れ重く蘭掖に徳が輝いた。朕がかつて儲貳(皇太子)だったとき、特に先帝の慈しみを蒙り、常に侍従して朝夕離れなかった。宮中では常に自ら身を慎み、嬪嬙の間で目を逆らわせたことがない。聖情はこれを鑑み尽くし、毎度、賞嘆を垂れられ、ついに武氏を封じて朕に賜った。事は(漢の宣帝が)政君を賜ったのと同じである。皇后に立てるべし、と。丁巳、天下に赦した。
- この日、皇后は上表して「陛下が先に妾を宸妃に封じようとされたとき、韓瑗と来済が面と向かって朝廷で争いました。これは事としてきわめて難しいこと。深く国を思う情ではありませんか。どうか褒賞を加えられますよう」と述べた。上が表を韓瑗らに示すと、韓瑗らはいっそう憂え恐れ、しばしば辞職を請うたが、上は許さなかった。
- 十一月丁卯朔、軒に臨んで司空の李勣に璽と綬を持たせて皇后武氏を冊した。この日、百官が粛義門で皇后に朝した。
- 旧后の王氏と淑妃の蕭氏はともに別院に囚われていた。上はかつてこれを思って忍びで訪ね、その室が厳重に閉ざされ、ただ壁に穴を開けて食器を通すだけなのを見て痛ましく思い、「皇后と淑妃はどこにいるか」と呼んだ。王氏は泣いて「妾らは罪を得て宮婢となりました。どうして尊称がありましょう」と答え、また「至尊がもし昔を思われるなら、妾らに再び日月を見せてください。この院を回心院と名づけてくださいますよう」と言った。上は「朕はすぐに処置しよう」と言った。
- 武后は聞いて激怒し、人を遣って王氏と蕭氏を各々百打たせ、手足を切って酒甕に投げ入れ、「この二人の婆に骨まで酔わせてやれ」と言った。数日で死に、さらに斬った。
- 王氏は初め勅を宣せられて再拝し「願わくは大家(陛下)に万歳を」と言った。「昭儀が恩を承けており、死ぬのは自分の分」と言った。淑妃は罵って「阿武の妖しく狡猾な者め、ここまでするのか。願わくは他生で私は猫となり、阿武は鼠となり、生まれ変わるたびその喉を扼してやる」と言った。これによって宮中では猫を飼わなくなった。
- まもなく王氏の姓を蟒氏、蕭氏を梟氏と改めた。武后はしばしば王氏と蕭氏が祟るのを見た。髪を振り乱し血を滴らせ、死んだときの姿だった。後に蓬萊宮に移ってもまた見えたので、多く洛陽におり、終身、長安に帰らなかった。
顕慶元年〜四年(656〜659年)――旧臣の粛清
- 顕慶元年春正月辛未、皇太子忠を梁王とし、皇后の子の代王弘を皇太子に立てた。
- 李義府は寵を恃んで事を執った。洛州の婦人の淳于氏が美貌で大理の獄に繋がれていたのを、李義府は大理寺丞の畢正義に頼んで法を枉げて出させ、妾にしようとした。大理卿の段宝玄が疑って奏し、上は給事中の劉仁軌らに取り調べさせた。李義府は事の露見を恐れて畢正義を獄中で縊死させ、上は知りながら李義府の罪を問わなかった。
- 侍御史の漣水の王義方が弾劾しようとして、まず母に「私は御史として姦臣を糾さねば不忠、糾せば身が危うく憂いが親に及んで不孝。二つとも自ら決しかねます。どうしましょう」と言った。母は「昔、王陵の母は身を殺して子の名を成した。お前が心を尽くして君に仕えられれば、私は死んでも恨みはない」と言った。
- 王義方はそこで「李義府は輦轂の下で六品の寺丞を擅に殺しました。仮に正義が自殺したとしても、それも李義府の威を畏れ身を殺して口を滅したのです。こうでは生殺の威が上から出ぬことになり、助長すべきではありません。改めて取り調べを」と奏した。そのうえで仗の前で李義府を叱って退がらせた。李義府はためらって退かず、王義方が三度叱っても上が何も言わないので、李義府はようやく足早に出た。王義方はそこで弾劾文を読み上げた。上は李義府を問わず、王義方が大臣を毀辱し言辞が不遜だとして萊州司戸に貶した。
- 韓瑗が上疏して褚遂良の冤を訴えた。遂良は国を体して家を忘れ、身を捨てて事に殉じ、その操は風霜のごとく、その心は鉄石のごとし。社稷の旧臣、陛下の賢佐です。罪状を聞かぬまま斥け去られ、朝廷の内外、庶民に至るまでみなその処置を嘆いております。臣は、晋の武帝は寛大で劉毅を誅さず、漢の高祖は仁深く周昌の直言に怒らなかったと聞きます。しかも遂良が遷されてすでに寒暑を経ました。陛下に逆らった罰はもう十分です。どうか無辜を鑑み、罪ならぬ罪を寛やかにし、微かな誠を憐れんで人情に順われますよう、と。
- 上は韓瑗に「遂良の情は朕も知っている。しかし彼は悖戻で上を犯すことを好む。ゆえにこれで責めたのだ。卿はなぜそこまで言うのか」と言った。韓瑗は「遂良は社稷の忠臣で、讒諛の者に毀られました。昔、微子が去って殷国は亡び、張華が存して綱紀は乱れませんでした。陛下が故なく旧臣を棄て逐われるのは、国家の福ではないことを恐れます」と答えたが、上は容れなかった。韓瑗は言が用いられぬことから田里に帰ることを乞うたが、上は許さなかった。
- 顕慶二年春三月甲辰、潭州都督の褚遂良を桂州都督とした。癸丑、李義府に中書令を兼ねさせた。
- 秋七月、許敬宗と李義府が皇后の旨に迎合し、侍中の韓瑗と中書令の来済が褚遂良とひそかに不軌を謀り、桂州という用兵の地を遂良に授けて外援としようとしたと誣奏した。
- 八月丁卯、韓瑗は連坐して振州刺史に貶され、来済は台州刺史に貶され、終身、朝覲を許されなかった。また褚遂良を愛州刺史、栄州刺史の柳奭を象州刺史に貶した。
- 褚遂良は愛州に至って上表し自ら陳べた。かつて濮王と承乾が争ったとき、臣は死亡を顧みず陛下に心を寄せました。当時、岑文本と劉洎は承乾の悪状がすでに明らかで身は別所にあるが、東宮を少しの間も空けてはならぬとして、ひとまず濮王を東宮に住まわせることを奏請しました。臣は抗言して固く争いました。みな陛下がご覧になったこと。ついに無忌ら四人と大策を定めました。先朝が危篤に至って臣と無忌だけが遺詔を受けました。陛下が喪に服されるとき哀慟に堪えられず、臣は社稷をもって諭し慰めました。陛下は手ずから臣の頭を抱かれ、臣は無忌と諸事を処理して欠けるところがありませんでした。数日の間に内外は寧らかになりました。力は小さく任は重く、動もすれば過ちを犯します。螻蟻の余命、どうか陛下のお憐れみを、と。上表は省みられなかった。
- 顕慶三年冬十一月戊戌、許敬宗を中書令とした。この年、愛州刺史の褚遂良が没した。
- 顕慶四年夏四月、武后は太尉・趙公の長孫無忌が重い賜り物を受けながら自分を助けなかったことを深く怨んだ。また王后廃立の議のとき、燕公の于志寧は中立して発言せず、武后はこれも喜ばなかった。
- 許敬宗はしばしば利害をもって無忌に説いたが、無忌はそのたび面と向かって退けたので、許敬宗も怨んだ。武后は立ってから無忌が内心落ち着かぬのを見て、許敬宗にその隙をうかがって陥れさせた。
- 折しも洛陽の人の李奉節が太子洗馬の韋季方と監察御史の李巣の朋党の事を告げた。勅で許敬宗と辛茂将に取り調べさせた。許敬宗が厳しく取り調べると、韋季方は自ら刺したが死ななかった。許敬宗はそこで「季方は無忌とともに忠臣と近戚を陥れて権を無忌に帰させ、隙をうかがって謀反しようとした。今、事が発覚したので自殺したのだ」と誣奏した。
- 上は驚いて「そんなことがあるものか。舅は小人に離間されて少し疑い隔てることはあろうが、どうして謀反に至ろう」と言った。許敬宗は「臣が始終を推究して謀反の状はすでに露れました。陛下がなお疑われるのは、社稷の福ではありますまい」と言った。
- 上は泣いて「わが家は不幸で、親戚の間にしばしば異志が起こる。往年は高陽公主が房遺愛と謀反し、今また元舅がそうだという。朕は天下の人に見えるのが恥ずかしい。この事が事実なら、どうすればよい」と言った。
- 許敬宗は答えた。遺愛は乳臭い小僧で一人の女子と謀反したところで、何が成りましょう。無忌は先帝と天下を取り、天下はその智に服し、宰相となって三十年、天下はその威を畏れます。もし一朝ひそかに事を起こせば、陛下は誰を遣わして当たらせますか。今、宗廟の霊に頼り皇天が悪を疾んで、小事を調べるうちに大姦を得ました。実に天下の慶事です。ただ、無忌が季方の自刺を知って窮迫し、謀を発して袖をまくって一喝すれば、同悪が雲のように集まり、必ず宗廟の憂いとなることを恐れます。臣はかつて宇文化及を見ました。父の宇文述は煬帝に親任され、婚姻を結び朝政を委ねられました。宇文述が没して化及がまた禁兵を典り、一夜にして江都で乱をなし、まず自分に付かぬ者を殺しました。臣の家もその禍に遭いました。そのとき大臣の蘇威や裴矩の徒はみな馬首に舞踏して遅れることを恐れるばかり。夜明けにはついに隋室を傾けました。前事は遠からず。どうか陛下、速やかにご決断を、と。
- 上は許敬宗にさらに審察を命じた。翌日、許敬宗はまた奏した。昨夜、季方はすでに無忌とともに謀反したと認めました。臣がさらに「無忌は国の至親で累朝の寵任を受けている。何の恨みがあって謀反するのか」と問うと、季方は「韓瑗がかつて無忌に『柳奭と褚遂良が公に梁王を太子に立てるよう勧めた。今、梁王がすでに廃され、上も公を疑って高履行を外に出した』と語った。これより無忌は憂え恐れ、次第に身を安んずる計を立てた。後に長孫祥がまた外に出され、韓瑗が罪を得たので、日夜、季方らと謀反した」と答えました。臣が供述を照合したところ、すべて符合します。捕らえて法に準じられますよう、と。
- 上はまた泣いて「舅が本当にそうであっても、朕は決して殺すに忍びぬ。殺せば天下は朕を何と言い、後世は朕を何と言うか」と言った。
- 許敬宗は答えた。薄昭は漢の文帝の舅です。文帝が代から来たとき薄昭にも功がありましたが、坐した罪は人を殺したことだけ。文帝は百官に素服で哭させて殺しました。今日まで天下は文帝を明主とします。今、無忌は両朝の大恩を忘れて社稷を移そうと謀りました。その罪は薄昭と同日に語れません。幸いに姦状が自ら発し逆徒が服しました。陛下は何を疑って早く決せられぬのですか。古人は「断つべきを断たねば、かえってその乱を受ける」と言いました。安危の機は髪一筋も容れません。無忌は今の姦雄、王莽・司馬懿の類です。陛下が少しでも引き延ばされれば、臣は変が肘腋に生じ、悔いても及ばなくなることを恐れます、と。
- 上はそのとおりと思い、ついに無忌を引いて問いもしなかった。
- 夏四月戊辰、詔を下して無忌の太尉と封邑を削り、揚州都督として黔州に安置し、一品に準じて給付した。
- 長孫祥は無忌の従父兄の子で、これに先立って工部尚書から荆州長史として出されていた。ゆえに許敬宗はこれで誣告した。許敬宗はまた無忌の謀逆は褚遂良・柳奭・韓瑗が構え煽って成ったもの、柳奭はなお宮中と密通して鴆毒を謀り、于志寧も無忌に党附したと奏した。
- そこで詔で遂良の官爵を追削し、柳奭と韓瑗を除名し、于志寧を免官し、使者を送って兵で無忌を黔州へ護送させた。無忌の子の秘書監・駙馬都尉の長孫冲らはみな除名されて嶺表に流され、遂良の子の彦甫・彦沖は愛州に流されて道中で殺された。益州長史の高履行は累次に貶されて洪州都督となった。
- 涼州長史の趙持満は力が強く射に善く、任侠を好んだ。その従母は韓瑗の妻、その舅の駙馬都尉の長孫銓は無忌の族弟である。長孫銓が無忌に連坐して巂州に流されたとき、許敬宗は趙持満が難を起こすことを恐れ、無忌と同じく謀反したと誣告し、駅で京師に召して獄に下し、拷問を尽くしたが、ついに供述を変えず「身は殺せても供述は変えられぬ」と言った。吏はどうしようもなく、代わりに獄辞を作って結審して奏した。
- 夏五月戊戌、誅して城の西に屍をさらした。親戚は誰も見に行けなかったが、友人の王方翼が「欒布が彭越を哭したのは義である。文王が枯骨を葬ったのは仁である。下は義を失わず上は仁を失わぬ。よいではないか」と嘆じ、収めて葬った。上は聞いても罪しなかった。王方翼は廃后の従祖兄である。長孫銓は流刑地に至り、県令が旨に迎合して杖殺した。
- 秋七月、御史を高州に遣わして長孫恩を、象州に柳奭を、振州に韓瑗を追わせ、枷と鎖をつけて京師に至らせ、あわせて州県にその家を没収させた。長孫恩は無忌の族弟である。
- 壬寅、李勣・許敬宗・辛茂将と任雅相・盧承慶に改めて無忌の事を審理させた。許敬宗はまた中書舎人の袁公瑜らを黔州に遣わして無忌の謀反を再訊させた。着くと無忌に自縊を迫った。詔で柳奭と韓瑗は着任地で斬決とし、使者は柳奭を象州で殺した。韓瑗はすでに死んでおり、検分して帰った。三家を没収し、近親はみな嶺南に流されて奴婢とされた。常州刺史の長孫祥は無忌と書を通じた罪で絞刑、長孫恩は檀州に流された。
- 八月乙卯、長孫氏と柳氏で無忌・柳奭に縁って貶降された者は十三人。高履行は永州刺史、于志寧は栄州刺史に貶され、于氏で貶された者は九人。これより政は中宮に帰した。
- 顕慶五年秋七月乙巳、梁王忠を廃して庶人とし、黔州に移して承乾の旧宅に囚えた。
- 冬十月、上は初めて風眩に苦しみ、頭が重く目が見えなくなった。百司の奏事を上は時に皇后に決させた。后は明敏な性質で文史を渉猟しており、事の処理はみな旨に称った。これによって初めて政事を委ね、権は人主と等しくなった。
麟徳元年(664年)――上官儀の獄と「二聖」
- はじめ武后は身を屈し辱を忍んで上の意に順ったので、上は群議を排して立てた。しかし志を得ると威福を専らにし、上が何かしようとしても后に制せられ、上は憤りに堪えなかった。
- 道士の郭行真が禁中に出入りしてかつて厭勝の術を行い、宦者の王伏勝が告発した。上は激怒してひそかに西台侍郎・同東西台三品の上官儀を召して議した。上官儀は「皇后は専恣で海内が与しません。廃されますよう」と言い、上の意もそうと思ってただちに上官儀に詔を草させた。
- 左右が走って后に告げ、后が急ぎ上のもとに来て自ら訴えると、詔の草案はまだ上の手元にあった。上は恥じ縮んで忍びなくなり、元のとおり待遇した。それでも后の怒りを恐れ、「私に初めからそんな心はなかった。みな上官儀が私に教えたのだ」と偽った。
- 上官儀は先に陳王の諮議で、王伏勝とともに旧太子の忠に仕えていた。后はそこで許敬宗に、上官儀と王伏勝が忠と大逆を謀ったと誣奏させた。十二月丙戌、上官儀は獄に下され、その子の庭芝と王伏勝とともに死に、家を没収された。戊子、忠に流刑地で死を賜った。
- 右相の劉祥道は上官儀と親しかった罪で政事を罷めて司礼太常伯となり、左粛機の鄭欽泰ら朝士で流され貶された者は甚だ多かった。みな上官儀と交通した罪である。
- これより上が政務を執るたび后は後ろに簾を垂れ、政は大小を問わずみな与り聞いた。天下の大権はことごとく中宮に帰し、黜陟と生殺はその口で決し、天子は手を拱くのみ。中外はこれを「二聖」と呼んだ。
上元元年〜儀鳳元年(674〜676年)
- 上元元年秋八月壬辰、皇帝を天皇、皇后を天后と称した。先帝・先后の称を避けるためである。改元して天下に赦した。
- 上元二年春三月、上の風眩がひどく、太后(天后)に国政を摂知させることを議した。中書侍郎・同三品の郝処俊が「天子は外を理め后は内を理めるのが天の道です。昔、魏の文帝は令を著して、幼主であっても皇后の臨朝を許しませんでした。禍乱の萌を杜ぐためです。陛下はどうして高祖・太宗の天下を子孫に伝えず天后に委ねられるのですか」と言い、中書侍郎の昌楽の李義琰も「処俊の言は至忠です。陛下はお聴きになるべきです」と言い、上はそこで止めた。
- 天后は文学の士を多く引き入れ、著作郎の元万頃、左史の劉禕之らに『列女伝』『臣軌』『百僚新誡』『楽書』合わせて千余巻を撰させた。朝廷の奏議および百官の表疏も時にひそかに参決させて宰相の権を分けた。時人はこれを「北門学士」と呼んだ。
- はじめ左千牛将軍の長安の趙瓌が高祖の娘の常楽公主を娶り、生まれた娘が周王顕(後の中宗)の妃となった。公主はかなり上に厚遇され、天后は憎んだ。夏四月辛巳、妃は連坐して廃され内侍省に幽閉された。食料は生のまま与え、番人はその煙が出るのを見張るだけだった。数日、煙が出ないので開けて見ると死んで腐っていた。趙瓌は定州刺史から括州刺史に貶され、公主も随行させて朝謁を絶たれた。
- 太子弘は仁孝謙謹で上に深く愛され、士大夫を礼遇し、内外の心が寄せられた。天后がまさに志を逞しくしようとするなか、太子の奏請はしばしば旨に逆らい、これによって天后の愛を失った。
- 義陽・宣城の二公主は蕭淑妃の娘で、母の罪に連坐して掖庭に幽閉され、三十を過ぎても嫁げなかった。太子は見て驚き痛み、急ぎ降嫁を請い、上は許した。天后は怒り、その日のうちに公主を当直の翊衛の権毅と王遂古に配した。
- 己亥、太子が合璧宮で薨じた。時人は天后が毒を盛ったと考えた。六月戊寅、雍王賢を皇太子に立てた。
- 天后が慈州刺史の杞王上金を憎み、有司が旨に迎合してその罪を奏した。秋七月、上金は連坐して解官され、澧州に安置された。
- 儀鳳元年、郇王素節は蕭淑妃の子で、聡明で学を好んだ。天后が憎み、岐州刺史から申州刺史に左遷させた。乾封の初め「素節には持病があるので入朝に及ばぬ」と勅したが、素節は実は病がなく、久しく拝謁できぬことから『忠孝論』を著した。王府倉曹参軍の張柬之がひそかにその論を封じて進めた。后は見て贓賄で誣告し、冬十月丙午、鄱陽王に降封して袁州に安置した。
永隆元年(680年)――太子賢の廃位
- 太子賢は宮中でひそかに「賢は天后の姉の韓国夫人の生んだ子」と噂されているのを聞き、内心疑い恐れた。明崇儼が厭勝の術で天后に信じられており、かつてひそかに「太子は継承に堪えぬ。英王は容貌が太宗に似ている」と称し、また「相王の相が最も貴い」と言った。
- 天后はかつて北門学士に『少陽正範』および『孝子伝』を撰させて太子に賜り、またしばしば書を作って誚め責めた。太子はますます落ち着かなかった。
- 明崇儼が殺されて賊が捕まらず、天后は太子の仕業と疑った。太子はかなり声色を好み、戸奴の趙道生らと狎れ親しんで金帛を多く賜っていた。司議郎の韋承慶が上書して諫めたが聴かなかった。
- 天后が人に事を告発させ、詔で薛元超・裴炎と御史大夫の高智周らに合同で取り調べさせた。東宮の馬坊から黒革の鎧数百領が捜し出されて謀反の具とされ、趙道生も「太子が自分に明崇儼を殺させた」と自白した。
- 上は日ごろ太子を愛しており、躊躇して宥そうとしたが、天后は「人の子として逆謀を懐くのは天地の容れぬところ。大義親を滅す、どうして赦せましょう」と言った。
- 甲子、太子賢を廃して庶人とし、右監門中郎将の令狐智通らに賢を京師に送らせて別所に幽閉し、党与はみな誅され、その鎧は天津橋の南で焼いて民に示した。韋承慶は韋思謙の子である。
- 乙丑、左衛大将軍・雍州牧の英王哲を皇太子に立て、改元して天下に赦した。
弘道元年(683年)――高宗の崩御
- 冬十一月、上が奉天宮から病篤くなり、宰相もみな会えなかった。丁未、東都に帰り、百官が天津橋の南で謁見した。
- 十二月丁巳、改元して天下に赦した。上は則天門の楼に出て赦を宣そうとしたが、気が逆上して馬にも乗れず、百姓を殿前に入れて宣した。
- この夜、裴炎を召して遺詔を受けて輔政させ、上は貞観殿で崩じた。遺詔で太子は柩前で即位し、軍国の大事で決しがたいものは天后の指図も仰ぐこととし、万泉・芳桂・奉天などの宮を廃した。
- 庚申、裴炎が「太子はまだ即位しておらず勅を宣すべきではありません。急を要する処分があれば、天后の令を中書門下で施行することを望みます」と奏した。
- 甲子、中宗が即位し、天后を皇太后と尊び、政事はすべてその決を仰いだ。太后は沢州刺史の韓王元嘉らが地位が尊く望みが重いことから変を起こすことを恐れ、みな三公などの官を加えてその心を慰めた。
光宅元年(684年)――中宗の廃位と徐敬業の乱
- 春正月甲申朔、改元して嗣聖とし、天下に赦した。太子妃の韋氏を皇后に立て、后の父の韋玄貞を普州参軍から豫州刺史に抜擢した。
- 中宗が韋玄貞を侍中とし、また乳母の子に五品の官を授けようとした。裴炎が固く争うと、中宗は怒って「私は天下を韋玄貞にやってもよい。何が不可で、侍中を惜しむのか」と言った。裴炎は恐れて太后に告げ、ひそかに廃立を謀った。
- 二月戊午、太后が百官を乾元殿に集め、裴炎が中書侍郎の劉禕之、羽林将軍の程務挺・張虔勗と兵を整えて宮に入り、太后の令を宣して中宗を廬陵王に廃し、殿から扶け下ろした。中宗が「私に何の罪がある」と言うと、太后は「お前は天下を韋玄貞に与えようとした。どうして罪がなかろう」と言い、別所に幽閉した。
- 己未、雍州牧・豫王旦を皇帝に立てた。政事は太后が決し、睿宗を別殿に置いて何事にも与らせなかった。豫王妃の劉氏を皇后に立てた。后は劉徳威の孫である。
- 飛騎の十余人が街の酒場で飲み、一人が「こんなことなら別に勲賞もない。廬陵王を奉じたほうがましだ」と言った。一人が席を立って北門に行って告げ、宴が終わらぬうちにみな捕らえられて羽林の獄に繋がれた。言った者は斬られ、他は謀反を知って告げなかったとしてみな絞られ、告げた者は五品の官を授かった。告密の端はここに始まる。
- 壬子、永平郡王成器を皇太子とした。睿宗の長子である。天下に赦して文明と改元した。
- 庚申、皇太孫の重照を廃して庶人とし、劉仁軌に西京の留守を専知させ、韋玄貞を欽州に流した。太后は劉仁軌に「昔、漢は関中の事を蕭何に委ねた。今、公に託すのも同じである」と書を送った。
- 劉仁軌は上疏して衰老を理由に留守を辞し、あわせて呂后の禍敗の事を陳べて規戒とした。太后は秘書監の武承嗣に璽書を持たせて慰諭させた。「今、皇帝が諒闇で口をきかぬので、身を眇めながらしばらく親政に代わっている。遠く勧戒を労し、また衰疾を辞された。また『呂氏は後代に嗤われ、呂禄・呂産は漢朝に禍を移した』と言われた。喩えを引くこと深く、恥じと慰めが交々至る。公の忠貞の操は終始変わらず、剛直の風は古今に比類がない。初めこの語を聞いて呆然とせずにおれようか。静かに思えば亀鑑である。まして公は先朝の旧徳で遠近が仰ぐところ。匡救を心とし、暮年を理由に請わぬように」と述べた。
- 辛酉、太后は左金吾将軍の丘神勣に巴州へ赴いて旧太子賢の宅を検校させ外の憂いに備えさせたが、実はそれとなく殺させたのである。丘神勣は丘行恭の子である。
- 甲子、太后が武成殿に出御し、皇帝が王公以下を率いて尊号を奉った。丁卯、太后が軒に臨んで礼部尚書の武承嗣を遣わして嗣皇帝を冊した。これより太后は常に紫宸殿に出御し、暗紫の帳を施して朝を見た。
- 三月、丘神勣が巴州に至り、旧太子賢を別室に幽閉して自殺を迫った。太后はそこで罪を丘神勣に帰し、戊戌、顕福門で挙哀し、丘神勣を畳州刺史に貶した。己亥、賢を雍王に追封した。丘神勣はまもなく戻って左金吾将軍となった。
- 夏閏五月、礼部尚書の武承嗣を太常卿・同中書門下三品とした。
- はじめ尚書左丞の馮元常は高宗に委任されていた。高宗は晩年に病が多く、百司の奏事のたび「朕は体調がすぐれぬ。元常と平章して報告せよ」と言っていた。馮元常はかつてひそかに中宮の威権が大きすぎるので少し抑えるべきだと言い、高宗は用いられなかったが深くそのとおりと思っていた。
- 太后が制を称すると四方が競って符瑞を言い、嵩陽令の樊文が瑞石を献じた。太后は朝堂で百官に示させたが、馮元常は「状は諂りと詐りに渉ります。天下を欺き罔うべきではありません」と奏した。太后は不快で隴州刺史として出した。馮元常は馮琮の曽孫である。
- 丙午、武承嗣を罷めて礼部尚書とした。
- 武承嗣が太后にその祖を追王して武氏の七廟を立てることを請い、太后は従った。裴炎が「太后は母として天下に臨まれる以上、至公を示されるべきで、親しい者を私されてはなりません。呂氏の敗をご覧にならぬのですか」と諫めた。太后は「呂氏は権を生きている者に委ねた。ゆえに敗に及んだ。今、私が亡き者を追尊して何を傷つけようか」と言った。裴炎は「事は微を防ぎ漸を杜ぐべきで、助長してはなりません」と答えたが、太后は従わなかった。
- 己巳、太后の五代祖の克己を魯靖公、高祖の居常を太尉・北平恭粛王、曽祖の倹を太尉・金城義康王、祖の華を太尉・太原安成王、父の士彠を太師・魏定王と追尊し、祖妣はみな妃とした。裴炎はこれによって罪を得た。また五代の祠室を文水に作った。
- 当時、諸武が事を執り、唐の宗室は人ごとに危うさを感じ、衆心は憤り悔やんだ。折しも眉州刺史の英公李敬業とその弟の盩厔令の敬猷、給事中の唐之奇、長安主簿の駱賓王、詹事司直の杜求仁がみな事に連坐し、敬業は柳州司馬に貶され、敬猷は免官、之奇は括蒼令、賓王は臨海丞、求仁は黟令に貶された。杜求仁は杜正倫の甥である。盩厔尉の魏思温はかつて御史だったがまた黜けられた。みな揚州に会し、各々失職を怨んで乱を謀り、廬陵王を匡復すると称した。
- 魏思温が謀主となり、その党の監察御史の薛仲璋に江都への奉使を求めさせ、雍州の人の韋超に薛仲璋のもとへ行かせて「揚州長史の陳敬之が謀反する」と変を告げさせた。薛仲璋は陳敬之を捕らえて獄に繋いだ。数日後、李敬業が駅伝で到着し、揚州司馬として赴任すると偽り、「密旨を奉じ、高州の酋長の馮子猷が謀反したので兵を出して討つ」と称した。
- そこで府庫を開き、士曹参軍の李宗臣に銭坊で囚徒と工匠数百を駆り出させて甲を授け、陳敬之を獄で斬った。録事参軍の孫処行が拒むと、これも斬ってさらした。僚吏は誰も動けなかった。
- こうして一州の兵を起こし、改めて嗣聖元年と称し、三府を開いた。一は匡復府、二は英公府、三は揚州大都督府。李敬業は匡復府上将・領揚州大都督と自称し、唐之奇と杜求仁を左右長史、李宗臣と薛仲璋を左右司馬、魏思温を軍師、駱賓王を記室とした。十日ほどで精兵十余万を得た。
- 州県に檄を回した。その大略に言う。偽って朝に臨む武氏なる者は、人となりは温順ならず、家柄は実に寒微。昔、太宗の末席に充てられ、更衣の際に侍った。晩年に及んでは東宮を穢し乱し、先帝の私通を隠し、後宮の寵をひそかに図り、皇后の位を踏んで、わが君を父子相通ずる恥に陥れた、と。また「姉を殺し兄を屠り、君を弑し母に鴆した。人も神も同じく憎み、天地の容れぬところ」と言い、また「禍心を包み蔵して神器をうかがい、君の愛子を別宮に幽し、賊の一族に重任を委ねている」と言い、また「一杯の土(先帝の陵)はまだ乾かぬのに、六尺の孤児はどこにいるのか」と言い、また「試みに今日の域中を見よ。ついに誰の家の天下であるか」と言った。
- 太后は檄を見て「誰が作ったのか」と問うた。「駱賓王です」と答えると、太后は「宰相の過ちである。人にこれほどの才がありながら、流落して不遇のままにしておくとは」と言った。
- 李敬業は旧太子賢に似た人物を得て、衆に「賢は死んでおらず、この城中にいる。我らに挙兵させ、奉じて号令せよと言われた」と偽った。
- 楚州司馬の李崇福が部下の三県を率いて李敬業に応じた。盱眙の人の劉行挙だけは県に拠って従わなかった。李敬業が将の尉遅昭に盱眙を攻めさせたが、劉行挙が撃退した。詔で劉行挙を遊撃将軍とし、その弟の行実を楚州刺史とした。
- 甲申、左玉鈐衛大将軍の李孝逸を揚州道大総管として三十万の兵を率いさせ、将軍の李知十と馬敬臣を副として李敬業を討たせた。
- 武承嗣と従父弟の右衛将軍の武三思は、韓王元嘉と魯王霊夔が族の尊長で位が重いことから、しばしば太后に事にかこつけて誅すよう勧めた。太后が執政に諮ると、劉禕之と韋思謙はみな黙し、内史の裴炎だけが固く争った。太后はいっそう不快になった。武三思は武元慶の子である。
- 李敬業の挙兵に際し、薛仲璋は裴炎の甥だった。裴炎は余裕を示そうとして、誅討の議を急がなかった。太后が裴炎に計を問うと、「皇帝は年長でありながら親政されておりません。ゆえに小僧どもが口実を得たのです。太后が政を返されれば、討たずとも自ら平らぎましょう」と答えた。
- 監察御史の藍田の崔詧が聞いて「裴炎は顧託を受けて大権が己にあります。もし異図がなければ、なぜ太后に政を返せと請うのですか」と上言した。
- 太后は左粛政大夫の金城の騫味道と侍御史の櫟陽の魚承曄に取り調べさせ、裴炎を捕らえて獄に下した。裴炎は捕らえられても辞気は屈しなかった。ある者が言葉を低くして免れるよう勧めると、裴炎は「宰相が獄に下って、どうして全うする道があろう」と言った。
- 鳳閣舎人の李景諶が裴炎は必ず謀反すると証言した。劉景先および鳳閣侍郎の義陽の胡元範はみな「裴炎は社稷の元臣で国に功があり、心を尽くして上に奉じております。天下の知るところ。臣らはその謀反せぬことを明らかにできます」と言った。太后が「裴炎の謀反には証拠がある。ただ卿らが知らぬだけだ」と言うと、「もし裴炎が謀反なら臣らも謀反です」と答えた。太后は「朕は裴炎が謀反したことを知り、卿らが謀反せぬことも知っている」と言った。文武の間で裴炎の無実を証する者は甚だ多かったが、太后はみな聴かなかった。まもなく劉景先と胡元範も獄に下された。
- 丁亥、騫味道を検校内史・同鳳閣鸞台三品、李景諶を同鳳閣鸞台平章事とした。
- 魏思温が李敬業に説いた。明公は匡復を辞としておられます。大衆を率いて鼓を鳴らして進み、まっすぐ洛陽を指すべきです。そうすれば天下は公の志が勤王にあると知り、四面から響き応じましょう、と。
- 薛仲璋は「金陵には王気があり、しかも大江の天険は固めとするに足ります。まず常州・潤州を取って覇業の基とし、その後で北に向かって中原を図るに如くはありません。進んで不利はなく退いて帰るところがある。これが良策です」と言った。
- 魏思温は「山東の豪傑は武氏の専制に憤り、公の挙事を聞いてみな自ら麦飯を蒸して糧とし、鋤を伸ばして兵器とし、南軍の到着を待っております。この勢いに乗じて大功を立てず、かえって縮こまって自ら巣穴を謀られては、遠近が聞いて誰が解体せずにおりましょう」と言ったが、李敬業は従わなかった。
- 唐之奇に江都を守らせ、兵を率いて長江を渡って潤州を攻めた。魏思温は杜求仁に「兵は勢いを合わせれば強く、分ければ弱い。敬業が力を併せて淮水を渡り山東の衆を収めて洛陽を取らねば、敗北は目前だ」と言った。
- 壬辰、潤州を陥して刺史の李思文を捕らえ、李宗臣を代わりとした。李思文は李敬業の叔父で、敬業の謀を知って先に使者を間道から送って変を上告し、敬業に攻められて久しく拒み守り、力尽きて陥ちた。魏思温が斬ってさらすことを請うたが、李敬業は許さず、李思文に「叔父は武氏に党しておられる。姓を武と改められよ」と言った。潤州司馬の劉延嗣が降らず、李敬業が斬ろうとしたが、魏思温が救って免れ、李思文とともに獄に囚えられた。劉延嗣は劉審礼の従父弟である。
- 曲阿令の河間の尹元貞が兵を率いて潤州を救おうとしたが、戦って敗れ、李敬業に捕らえられた。白刃を突きつけられても屈せず死んだ。
- 丙申、裴炎を都亭で斬った。裴炎は死に臨んで兄弟を顧み「兄弟の官はみな自分で得たもの。私は毫も力を貸していない。今、私に連坐して流竄される。悲しいことではないか」と言った。家を没収したが一石の蓄えもなかった。劉景先は普州刺史、さらに辰州刺史に貶され、胡元範は瓊州に流されて死んだ。
- 裴炎の弟の子の太僕寺丞の裴伷先は十七歳で、封事を上って拝謁して事を言いたいと請うた。太后が召見して「お前の伯父は謀反した。まだ何を言うのか」と詰った。
- 裴伷先は答えた。臣は陛下のために計を画くだけで、どうして冤を訴えましょう。陛下は李氏の婦です。先帝が天下を棄てられるや、たちまち朝政を握り、嗣子を変え、李氏を斥け疎んじ、諸武を封じ崇めておられる。臣の伯父は社稷に忠でありながら、かえって罪に誣いられ戮が子孫に及びました。陛下のなさることがこうであるのを、臣は実に惜しみます。陛下は早く子に位を返して深宮に高枕されるべきです。そうすれば宗族は全うできます。さもなくば天下がひとたび変じ、二度と救えなくなりましょう、と。
- 太后は怒って「小僧め、よくもそんなことを言えたな」と言い、引き出させた。裴伷先は振り返って「今、臣の言を用いられればまだ遅くありません」と三度繰り返した。太后は朝堂で杖百を打たせて瀼州に長流させた。
- 裴炎が獄に下ったとき、郎将の姜嗣宗が使いで長安に至った。劉仁軌が東都の事を問うと、姜嗣宗は「私は裴炎が常と異なると久しく気づいておりました」と言った。劉仁軌が「使者どのが気づいていたのか」と問うと「そうです」と答えた。劉仁軌は「私に奏事がある。どうか使者に託して奏聞したい」と言い、姜嗣宗は承諾した。翌日、劉仁軌の表を受け取って帰った。表には「姜嗣宗は裴炎の謀反を知りながら言わなかった」とあった。太后は読んで姜嗣宗を殿庭で引き据えさせ、都亭で絞った。
- 丁酉、李敬業の祖と父の官爵を追削し、塚を暴いて棺を斬り、姓を徐氏に戻した。
- 徐敬業は李孝逸の到来を聞いて潤州から軍を返して防ぎ、高郵の下阿溪に駐屯し、徐敬猷に淮陰を迫らせ、別将の韋超と尉遅昭を都梁山に駐屯させた。
- 李孝逸の軍が臨淮に至り、副将の雷仁智が敬業と戦って不利となった。李孝逸は恐れて兵を按じて進まなかった。
- 監軍の殿中侍御史の魏元忠が李孝逸に「天下の安危はこの一挙にあります。四方は太平が久しく、にわかに狂猾の徒を聞いて心を注ぎ耳を傾けてその誅を待っております。今、大軍が久しく留まって進まなければ遠近は失望します。万一、朝廷が他の将に代えれば、将軍はどんな言葉で逗留の罪を逃れられますか」と言い、李孝逸はそこで軍を進めた。
- 壬寅、馬敬臣が都梁山で尉遅昭を撃って斬った。
- 十一月辛亥、左鷹揚大将軍の黒歯常之を江南道大総管として敬業を討たせた。
- 韋超が衆を擁して都梁山に拠り、諸将はみな「韋超は険に憑んで固めており、士は勇を施す所なく騎は足を展べる所がありません。しかも窮寇は死戦します。攻めれば士卒を多く殺すだけ。兵を分けて守らせ、大軍はまっすぐ江都に向かってその巣穴を覆すに如くはありません」と言った。
- 支度使の薛克構は「韋超は険に拠るとはいえその衆は多くありません。今、多く兵を留めれば前軍の勢いが分かれ、少なく留めれば結局は後患となる。まず撃つに如くはありません。その勢いは必ず挙がります。都梁を挙げれば淮陰と高郵は風を望んで瓦解しましょう」と言った。
- 魏元忠はまず徐敬猷を撃つよう請うた。諸将は「まず敬業を攻めるに如くはありません。敬業が敗れれば敬猷は戦わずして擒になります。敬猷を撃てば敬業が救いに来て腹背に敵を受けます」と言った。
- 魏元忠は言った。そうではない。賊の精鋭はことごとく下阿にあり、烏合の衆として来て一戦で決することを利としている。万一計を誤れば大事は去る。敬猷は博打打ちの出で軍事に習熟せず、その衆は単弱で人心も揺らぎやすい。大軍が臨めば馬を止めるだけで克てる。敬業が救おうとしても日程として必ず間に合わぬ。我らが敬猷を屠って勝ちに乗じて進めば、韓信・白起がいてもその鋒には当たれぬ。今、まず弱きを取らずににわかにその強きを攻めるのは計ではない、と。李孝逸は従った。
- 兵を率いて韋超を撃つと韋超は夜逃げした。進んで徐敬猷を撃つと敬猷は身一つで逃げた。
- 庚申、敬業が兵を整えて溪を隔てて拒み守った。後軍総管の蘇孝祥が夜に五千人を率いて小舟で溪を渡って先に撃ったが、兵は敗れて蘇孝祥は死に、士卒で溪に落ちて溺死した者は半ばを越えた。
- 左豹韜衛果毅の漁陽の成三朗が敬業に捕らえられた。唐之奇はその衆を欺いて「これが李孝逸だ」と言って斬ろうとした。成三朗は大声で「私は果毅の成三朗で李将軍ではない。官軍は今、大挙して至る。お前たちが破れるのは朝夕にある。私が死ねば妻子は栄を受け、お前たちが死ねば妻子は没官される。お前たちはついに私に及ばぬ」と叫び、斬られた。
- 李孝逸ら諸軍が続いて至り、しばしば戦って不利となった。李孝逸は恐れて退こうとしたが、魏元忠と行軍管記の劉知柔が「風は順で荻は乾いております。これは火攻めの利です」と言い、決戦を固く請うた。
- 敬業は陣を布いて久しく士卒の多くが疲れ、後ろを気にして陣を整えられなかった。李孝逸が進撃し、風に乗じて火を放ち、敬業は大敗して七千級を斬られ、溺死した者は数え切れなかった。
- 敬業らは軽騎で江都に逃げ込み、妻子を連れて潤州に走り、海に出て高麗へ逃げようとした。李孝逸は進んで江都に駐屯し、諸将を分遣して追わせた。
- 乙丑、敬業が海陵の境に至って風に阻まれ、その将の王那相が敬業と敬猷および駱賓王の首を斬って降った。残党の唐之奇・魏思温らもみな捕らえられ、首を神都に送られた。揚・潤・楚の三州が平らいだ。
史論(陳嶽曰)
- 敬業がもし魏思温の策を用いてまっすぐ河洛を指し、専ら匡復を事としていれば、たとえ軍が敗れ身が戮せられても忠義はそこにあった。ところが妄りに金陵の王気を望んだ。これはまことに叛逆であり、敗れずして何を待とう。
光宅元年末〜垂拱二年(684〜686年)――酷吏政治の始まり
- はじめ裴炎が獄に下ったとき、単于道安撫大使・左武衛大将軍の程務挺がひそかに上表して弁護し、これによって旨に逆らった。程務挺は日ごろ唐之奇・杜求仁と親しく、ある者が「務挺は裴炎・徐敬業と通謀している」と讒言した。
- 十二月癸卯、左鷹揚将軍の裴紹業を遣わして軍中で斬り、家を没収した。突厥は程務挺の死を聞いて各地で宴を開いて祝い合い、また程務挺のために祠を立てて出師のたび必ず祈った。
- 太后は夏州都督の王方翼が程務挺と職を連ねて日ごろ親しく、しかも廃后の近親であることから、召して獄に下し、崖州に流して死なせた。
- 垂拱元年春正月、太后は徐思文(李思文)が忠であるとして特に連坐を免じ、司僕少卿を拝して「敬業がお前の姓を武に改めた。朕は今、それを奪わぬ」と言った。
- 三月辛酉、武承嗣を罷めた。
- 冬十一月、太后が旧白馬寺を修め、僧の懐義を寺主とした。懐義は鄠の人で、本姓は馮、名は小宝。洛陽の市で薬を売っていたが、千金公主の推挙で太后に幸せられた。太后は禁中に出入りさせるため僧に度して懐義と名づけ、またその家が寒微なので駙馬都尉の薛紹と同族とし、薛紹に叔父として仕えさせた。
- 出入りには御馬に乗り、宦者十余人が侍従した。士民は出会えばみな逃げ避け、近づく者があればその頭を打って血を流させて捨て置き、生死を問わなかった。道士を見れば思い切り殴り、髪を剃って去った。朝廷の貴顕はみな匍匐して礼謁し、武承嗣と武三思はみな僮僕の礼で仕えて轡を執ったが、懐義は無人のように見ていた。無頼の少年を多く集めて僧に度し、縦横に法を犯したが、誰も口に出せなかった。右台御史の馮思勗がしばしば法で取り締まったところ、懐義は途上で馮思勗に出会うと従者に殴らせ、危うく死なせるところだった。
- 垂拱二年春正月、太后が詔を下して皇帝に政を返した。睿宗は太后が誠心でないと知って上表して固辞し、太后は再び臨朝して制を称した。辛酉、天下に赦した。
- 二月、右衛大将軍の李孝逸は徐敬業に克って声望が甚だ重く、武承嗣らが憎んでしばしば太后に讒言し、施州刺史に左遷された。
- 三月戊申、太后が銅を鋳て匭(投書箱)を作り朝堂に置いて天下の表疏を受けた。東を「延恩」と銘して賦頌を献じ仕進を求める者が投じ、南を「招諫」として朝政の得失を言う者が投じ、西を「伸冤」として冤抑ある者が投じ、北を「通玄」として天象災変および軍機秘計を言う者が投じることとし、正諫・補闕・拾遺の各一人に掌らせた。まず身元を確かめてから投書を許した。
- 徐敬業の反乱のとき、侍御史の魚承曄の子の保家が敬業に刀車と弩を作らせた。敬業が敗れてかろうじて免れたが、太后が人間界のことをあまねく知ろうとしていたので、保家が銅で匭を鋳て天下の密奏を受けることを上書して請うた。その器は一室をなし、中を四つに仕切り、上に穴があって表疏を入れられるが出せない構造だった。太后は善しとした。まもなくその仇家が匭に投じて、保家が敬業のために兵器を作って官軍を多く殺傷したと告げ、ついに誅された。
- 太后は徐敬業の反乱以来、天下の人の多くが自分を図っていると疑い、また久しく国事を専らにし、しかも内行が正しくないので、宗室と大臣が怨望して心服せぬことを知り、大いに誅殺して威そうとした。そこで盛んに告密の門を開いた。告密する者があれば臣下は問えず、みな駅馬を給し五品の食を供して行在所へ来させた。農夫や樵夫でも召見され、客館で扶持された。言うところが旨に称えば順序を越えて官を除き、実がなくとも問われなかった。こうして四方の告密者が蜂起し、人はみな足をすくめて息を殺した。
- 胡人の索元礼が太后の意を知り、告密で召見されて游撃将軍に抜擢され、制獄を担当した。索元礼は残忍な性質で、一人を推せば必ず数十百人を引かせた。太后がしばしば召見して賞賜してその権を張らせたので、尚書都事の長安の周興、万年の来俊臣の徒がこれに倣って続々と現れた。周興は累遷して秋官侍郎、来俊臣は累遷して御史中丞に至った。
- 二人は私かに無頼数百人を蓄え、専ら告密を事とした。一人を陥れようとすれば数か所から同時に告げさせ、事状は一様だった。来俊臣は司刑評事の洛陽の万国俊とともに『羅織経』数千言を撰し、その徒に無辜を網羅して謀反の状を織り上げる方法を教え、構造と配置にみな筋道があった。
- 太后は告密者を得るたび索元礼らに推させ、彼らは競って囚人を訊問する酷法を作った。大枷を作って「定百脉」「突地吼」「死猪愁」「求破家」「反是実」などと名づけた。あるいは椽で手足を縛って回すのを「鳳凰曬翅」、物で腰を絡めて枷を前に引くのを「驢駒抜橛」、跪いて枷を捧げさせその上に瓦を積むのを「仙人献果」、高い木の上に立たせて枷の尾を後ろに引くのを「玉女登梯」といい、あるいは逆さ吊りにして頭に石を垂らし、あるいは酢を鼻に注ぎ、あるいは鉄の輪で頭を締めて楔を打ち、脳が裂けて髄が出る者さえあった。囚人を得るたびまずその刑具を並べて示すと、みな戦慄し汗を流し、風を望んで自ら誣した。赦令があるたび来俊臣は獄卒にまず重罪の囚人を殺させてから宣示した。太后は忠と思っていっそう寵任した。中外はこの数人を虎狼より恐れた。
- 麟台正字の陳子昂が上疏して論じた。執事者は徐敬業が首として乱を唱えたことを憎み、姦の源を息めようとしてその党与を窮めた。ゆえに陛下は大いに詔獄を開き、厳刑を重ねて設けられた。少しでも嫌疑に渉り供述で引かれた者は、みな捕らえられ取り調べられ、姦人が惑わし危うきに乗じて誣告し、疑わしきを告げて爵賞を図る者さえあります。罪を伐ち人を弔う意ではありますまい。
- 臣がひそかに見るに、当今、天下の百姓は安きを思って久しい。ゆえに揚州の逆謀もほぼ五十日で海内は静まり、微塵も動きませんでした。陛下が玄黙に努めて疲れた民を救わず、かえって威刑に任せてその望みを失われる。臣は愚かながら大いに惑います。
- 諸方の告密の囚人は累百千に上りますが、窮め尽くしてみれば百に一つも実がありません。陛下は仁恕で、また法を曲げて容れられます。そのため姦悪の党は意を恣にして讎を報い、睨み合いの嫌でもすぐに密告と称する。一人が訴えられれば百人が獄に満ち、使者が推捕して冠蓋が市のよう。陛下は一人を愛して百人を害されると言う者もあり、天下は不安で寧んずるところを知りません。
- 臣は、隋の末代でも天下はなお平らかで、楊玄感が乱をなしても一月たたずに敗れ、天下の弊はまだ土崩に至らず、民の心はなお楽業を望んでいたと聞きます。煬帝は悟らず、兵部尚書の樊子蓋に専ら屠戮させ、大いに党与を窮めたので、海内の豪士で殃いに遭わぬ者はなく、ついに人を殺すこと麻のごとく血が沢を成し、天下はなびいて初めて乱を思い、雄傑が並び起こって隋族は亡びました。
- そもそも大獄がひとたび起これば濫りがないはずがなく、冤えた人は嘆いて和気を傷つけ、群生は疫を病み、水旱がこれに随います。人が生業を失えば禍乱の心が怵然として生じます。古の明王が刑罰を重んじ慎んだのは、これを懼れたからです。
- 昔、漢の武帝のとき巫蠱の獄が起こり、太子は逃げ、兵が宮闕で交わり、無辜で害された者は千万を数え、宗廟は危うく覆るところでした。武帝は壺関の三老の書を得てはたと感悟し、江充の三族を滅ぼし、残る獄は論ぜず、天下は安らぎました。古人は「前事の忘れざるは後事の師なり」と言います。どうか陛下、これを念じてください、と。太后は聴かなかった。
- 夏四月、岑長倩を御史とした。六月辛未、蘇良嗣を左相・同鳳閣鸞台三品、韋待価を右相とした。己卯、韋思謙を納言とした。
- 蘇良嗣が朝堂で僧の懐義に会ったとき、懐義は傲慢で礼をしなかった。蘇良嗣は激怒して左右にその襟を掴んで引き倒させ、頬を数十回打たせた。懐義が太后に訴えると、太后は「阿師は北門から出入りせよ。南衙は宰相の往来する所である。犯すな」と言った。
- 太后は懐義に巧みな細工の才があると言い立てて禁中に入れて造営させた。補闕の長社の王求礼が上表して「太宗のとき羅黒黒という琵琶の上手がおり、太宗は宦官にして給使とし、宮人に教えさせました。陛下がもし懐義に巧みな性があって宮中で使役されたいなら、臣は宦官とされるよう請います。そうすれば宮闈を乱さずに済みましょう」と述べたが、表は握りつぶされた。
- 秋九月己巳、雍州が新豊県の東南に山が涌き出たと報じ、新豊を慶山県と改め、四方がこぞって賀した。江陵の人の兪文俊が上書して「天の気が和さねば寒暑が併せ来り、人の気が和さねば疣が生じ、地の気が和さねば丘阜が出ます。今、陛下は女主として陽の位に処し、剛柔を逆にされた。ゆえに地気が塞がって山が変じて災いとなったのです。陛下はこれを慶山と呼ばれますが、臣は慶ではないと考えます。臣は愚かながら、身を側めて徳を修め天譴に応えられるべきと思います。さもなくば殃禍が至りましょう」と述べた。太后は怒って嶺外に流し、後に六道使に殺された。
垂拱三年〜天授元年(687〜690年)――唐宗室の壊滅と革命
- 垂拱三年夏五月、鳳閣侍郎・同鳳閣鸞台三品の劉禕之がひそかに鳳閣舎人の永年の賈大隠に「太后はすでに昏を廃して明を立てられた。どうして臨朝して制を称される必要があろう。政を返して天下の心を安んじられるに如くはない」と言った。賈大隠がひそかに奏し、太后は不快で左右に「禕之は私が引き立てたのに、かえって私に叛くのか」と言った。
- ある者が劉禕之が帰州都督の孫万栄から金を受け、また許敬宗の妾と私通したと誣告した。太后は粛州刺史の王本立に取り調べさせた。王本立が勅を宣して示すと、劉禕之は「鳳閣鸞台を経ぬものが、どうして勅と呼べようか」と言った。太后は激怒し、制使を拒んだとして、庚午、家で死を賜った。
- 劉禕之が初め獄に下ったとき、睿宗が上疏して弁護し、親友がみな賀した。劉禕之は「これこそ私の死を速める所以だ」と言った。刑に臨んで沐浴して神色は自若とし、自ら謝表を草して数紙を立ちどころに仕上げた。麟台郎の郭翰と太子文学の周思鈞がその文を称嘆し、太后は聞いて郭翰を巫州司法、周思鈞を播州司倉に左遷した。
- 冬十月、武承嗣がまた人に、李孝逸が自ら「名の中に兎があり、兎は月中の物、天分があるはず」と言ったと誣告させた。太后は李孝逸に功があったので、十一月戊寅、死を減じて除名し、儋州に流して没した。
- 垂拱四年春正月甲子、神都に高祖・太宗・高宗の三廟を立て、四時の享祀は西廟の儀のとおりとした。また崇先廟を立てて武氏の祖考を享した。
- 太后が有司に崇先廟の室数を議させ、司礼博士の周悰は七室とし、あわせて唐の太廟を五室に減らすことを請うた。春官侍郎の賈大隠が「礼では天子七廟、諸侯五廟。百王が易えぬ義です。今、周悰は別に浮議を引き広く異文を述べ、ただ臨朝の権宜を崇めて国家の常度に依っておりません。皇太后は親しく顧託を承け大猷を光顕されました。崇先廟の室数は諸侯の数どおりとすべきで、国家の宗廟は変更されるべきではありません」と奏し、太后はそこで止めた。
- 太宗・高宗の世にしばしば明堂を立てようとしたが、諸儒がその制度を議して決せず止んでいた。太后が制を称すると、独り北門学士と制を議して諸儒に問わなかった。諸儒は明堂は国都の南、丙巳の地、三里の外七里の内にあるべきだとしたが、太后は宮から遠すぎるとした。
- 二月庚午、乾元殿を毀ってその地に明堂を作り、僧の懐義を使とした。役夫は数万人。
- 夏四月戊戌、太子通事舎人の郝象賢を殺した。郝処俊の孫である。はじめ太后は郝処俊を恨んでいた。折しも奴が郝象賢の謀反を誣告し、太后は周興に取り調べさせて族罪に至らせた。郝象賢の家人が朝堂で冤を訴え、監察御史の楽安の任玄殖が郝象賢に謀反の状なしと奏したが、任玄殖は連坐して免官された。
- 郝象賢は刑に臨んで口を極めて太后を罵り、宮中の隠れた悪事を暴き、市人の薪を奪って刑吏を打った。金吾の兵がともに撃ち殺した。太后はその屍を切り刻ませ、その父祖の墳墓を暴いて棺を毀ち屍を焼かせた。これより太后の世を通じて、法官は人を刑するときまず木の丸で口を塞いだ。
- 武承嗣が白石を鑿らせて「聖母、人に臨み、永く帝業を昌んにす」と文字を刻ませ、紫石を薬物に混ぜて埋め込んだ。庚午、雍州の人の唐同泰に表を奉じて献じさせ、洛水で得たと称した。太后は喜んでその石を「宝図」と名づけ、唐同泰を游撃将軍に抜擢した。
- 五月戊辰、詔して自ら洛に拝して宝図を受け、南郊で昊天に告謝し、礼を終えて明堂に出御して群臣に朝せしめることとし、諸州の都督・刺史および宗室・外戚に拝洛の十日前に神都へ集まるよう命じた。乙亥、太后に尊号を加えて聖母神皇とした。
- 六月壬寅、神皇の三璽を作った。
- 東陽大長公主の封邑を削って二子とともに巫州に移した。公主は高履行に嫁いでおり、太后は高氏が長孫無忌の舅の族であることから憎んだのである。
- 秋七月丁巳、天下に赦し、宝図を改めて「天授聖図」、洛水を「永昌洛水」と名づけ、その神を顕聖侯に封じて特進を加え、漁釣を禁じ、祭祀は四瀆に比した。図の出た所を「聖図泉」と名づけ、泉の側に永昌県を置いた。また嵩山を「神岳」と改め、その神を天中王に封じて太師・使持節神岳大都督を拝し、放牧を禁じた。また先に汜水で瑞石を得たので汜水を広武と改めた。
- 太后がひそかに革命を謀り、次第に宗室を除いた。絳州刺史の韓王元嘉、青州刺史の霍王元軌、邢州刺史の魯王霊夔、豫州刺史の越王貞、および元嘉の子の通州刺史の黄公譔、元軌の子の金州刺史の江都王緒、虢王鳳の子の申州刺史の東莞公融、霊夔の子の范陽王藹、貞の子の博州刺史の琅邪王沖は、宗室の中でみな才行によって美名があり、太后はとりわけ忌んだ。
- 元嘉らは内心落ち着かず、ひそかに匡復の志を抱いた。黄公譔は偽って貞に「内に病が次第に重くなっている。速やかに治療すべきだ。今冬まで至れば痼疾となることを恐れる」と書を送った。
- 太后が宗室を召して明堂に朝させようとしたとき、諸王は次々に驚いて「神皇は大饗の際に人に告密させ、宗室をことごとく捕らえて遺る類なく誅そうとしている」と言い合った。
- 黄公譔が皇帝の璽書を偽造して沖に「朕は幽閉されている。諸王は各々兵を発して我を救え」と送り、沖もまた璽書を偽造して「神皇は李氏の社稷を移して武氏に授けようとしている」と称した。
- 八月壬寅、沖が長史の蕭徳琮らを召して募兵させ、あわせて韓・霍・魯・越および貝州刺史の紀王慎に告げて各々起兵して共に神都に向かわせようとした。
- 太后は聞いて左金吾将軍の丘神勣を清平道行軍大総管として討たせた。
- 沖は募兵して五千余人を得、黄河を渡って済州を取ろうとし、まず武水を撃った。武水令の郭務悌が魏州に救いを求め、莘令の馬玄素が兵千七百で中道に沖を迎え撃とうとしたが、力が及ばぬと恐れて武水に入り門を閉じて拒み守った。
- 沖は草を積んだ車を押して南門を塞ぎ、風に乗じて火を放って焼き、火に乗じて突入しようとしたが、火が起こると風が返って沖の軍は進めず、これによって気勢が沮んだ。
- 堂邑の董玄寂が沖のために兵を率いて武水を撃っていたが、人に「琅邪王が国家と交戦している。これは謀反だ」と言った。沖は聞いて董玄寂を斬ってさらしたが、衆は恐れて草沢に散り、禁じられなかった。ただ家僮と側近数千人だけが残った。
- 沖は博州に走り帰り、戊申、城門で守門者に殺された。挙兵から七日で敗れた。丘神勣が博州に至ると官吏が素服で出迎えたが、丘神勣は刃を振るってことごとく殺し、千余家を破った。
- 越王貞は沖の起兵を聞いて豫州でも挙兵し、兵を送って上蔡を陥した。
- 九月丙辰、左豹韜大将軍の麴崇裕を中軍大総管、岑長倩を後軍大総管として十万の兵で討たせ、また張光輔を諸軍節度とし、貞と沖を属籍から削って姓を虺氏と改めた。
- 貞は沖の敗を聞いて自ら鎖につないで闕に赴いて謝罪しようとしたが、折しも自ら任じた新蔡令の傅延慶が勇士二千余人を募って得た。貞はそこで衆に「琅邪はすでに魏・相の数州を破り、兵二十万が朝夕に至る」と宣言し、属県の兵を発して合わせて五千を得、五営に分けて汝陽県丞の裴守徳らに率いさせ、九品以上の官五百余人を任じた。任じられた官はみな脅迫されたもので、戦意を持つ者はなかった。ただ裴守徳だけが同謀で、貞はその娘を娶らせて大将軍とし腹心とした。
- 貞は道士と僧に経を誦させて成功を求め、側近と戦士にみな辟兵の符を帯びさせた。
- 麴崇裕らの軍が豫州城の東四十里に至り、貞は末子の規と裴守徳を送って防戦させたが、兵は潰えて帰った。貞は大いに恐れて閤を閉じて自守した。麴崇裕らが城下に至ると、左右が貞に「王がどうして坐して戮辱を待てましょう」と言い、貞・規・守徳およびその妻はみな自殺し、沖とともに東都の闕下に梟首された。
- はじめ范陽王藹が使者を貞と沖に送って「四方の諸王が一時に並び起これば、事は済らぬはずがない」と伝えていた。諸王は往来して約を結んだが定まらぬうちに沖が先に発し、貞だけが狼狽して応じ、諸王はみな発せなかった。ゆえに敗れたのである。
- 貞が挙兵しようとしたとき、使者を送って寿州刺史の趙瓌に告げた。趙瓌の妻の常楽長公主が使者に言った。私のために越王に伝えよ。昔、隋の楊氏が周室を簒おうとしたとき、尉遅迥は周の甥にすぎぬのに、なお兵を挙げて社稷を匡救した。功は成らなかったが威は海内を震わせ、忠烈と言うに足りる。まして汝ら諸王は先帝の子である。どうして社稷を心としないでいられよう。今、李氏は朝露のごとく危うい。汝ら諸王が生を捨てて義を取らず、なお躊躇して発せぬのは、何を待つのか。禍がまさに至ろうとしている。大丈夫は忠義の鬼となるべきで、いたずらに死ぬべきではない、と。
- 貞が敗れて、太后は韓・魯ら諸王をことごとく誅そうとし、監察御史の藍田の蘇珦にその密状を調べさせた。蘇珦が訊問しても明らかな証拠はなかった。ある者が蘇珦が韓・魯と通謀していると告げ、太后が召して詰ると、蘇珦は抗論して曲げなかった。太后は「卿は大雅の士である。朕は別に任用しよう。この獄は卿でなくてよい」と言い、蘇珦を河西の監軍とし、改めて周興らに調べさせた。
- そこで韓王元嘉・魯王霊夔・黄公譔・常楽公主を東都で捕らえ、迫ってみな自殺させ、姓を虺と改め、親党もみな誅した。
- 文昌左丞の狄仁傑を豫州刺史とした。当時、越王貞の党与で連坐すべき者は六、七百家、没収された者は五千口。司刑が急いで行刑させようとした。狄仁傑がひそかに「彼らはみな巻き込まれた者です。臣は公然と奏せば逆人のために弁護するかのようですが、知りながら言わねば陛下の仁恤の旨に背きます」と奏し、太后は特に赦した。みな豊州に流された。
- 道中、寧州を過ぎたとき、寧州の父老が迎えて労い「我らの狄使君がお前たちを生かしてくださったのか」と言い、連れ立って徳政碑の下で哭し、斎を三日設けてから行った。
- 当時、張光輔がなお豫州におり、将士は功を恃んで多く求め取った。狄仁傑が従わないので、張光輔は怒って「州将が元帥を軽んじるのか」と言った。狄仁傑は「河南を乱したのは一人の越王貞だけです。今、一人の貞が死んで、万人の貞が生じております」と言った。張光輔がその言を詰ると、狄仁傑は答えた。明公は三十万の兵を総べながら、誅したのは越王貞だけ。城中は官軍の到着を聞いて城を越えて降る者が四面に道を成した。明公は将士を放って暴掠させ、すでに降った者を殺して功とし、流血が野を染めた。万人の貞でなくて何でしょう。尚方の斬馬剣を明公の頸に加えられぬのが残念です。死んでも帰するがごとしです、と。張光輔は詰りきれず、帰って狄仁傑が不遜だと奏し、復州刺史に左遷させた。
- 太后が宗室を召して明堂に朝させたとき、東莞公融がひそかに使者を送って成均助教の高子貢に問うた。高子貢は「来れば必ず死にます」と答え、融はそこで病と称して赴かなかった。越王貞が起兵して使者を送って融を誘ったが、融は急なことで応じられず、属官に迫られて使者を捕らえて報告した。右賛善大夫に抜擢されたが、まもなく支党に引かれ、冬十月己亥、市で戮せられ家を没収された。高子貢も連坐して誅された。
- 済州刺史の薛顗、その弟の緒、その弟の駙馬都尉の紹はみな琅邪王沖と通謀し、沖の起兵を聞いて兵器を作り人を募った。沖が敗れると録事参軍の高纂を殺して口を滅した。冬十一月辛酉、薛顗と薛緒は誅され、薛紹は太平公主のゆえに杖百を打たれ獄で餓死した。
- 十二月乙酉、司徒・青州刺史の霍王元軌が越王と連謀した罪で廃されて黔州に移され、檻車で運ばれて陳倉で死んだ。江都王緒と殿中監・郕公の裴承先はみな市で戮された。裴承先は裴寂の孫である。
- 己酉、太后が洛に拝して図を受けた。皇帝と皇太子がみな従い、内外の文武百官と蛮夷の酋長が各々方角どおりに列した。珍禽奇獣と各種の宝が壇前に並び、文物と鹵簿の盛大さは唐の興隆以来なかったものである。
- 辛亥、明堂が完成した。高さ二百九十四尺、方三百尺、全三層。下層は四時に法って各々方角の色に随い、中層は十二辰に法って上は円蓋とし九竜が捧げ、上層は二十四気に法ってこれも円蓋、上に鉄の鳳を置いた。高さ一丈で黄金で飾った。中に十囲の巨木があって上下を貫き、斗栱と梁がこれを基とした。下に鉄の溝を施して辟雍の象とし、「万象神宮」と号した。
- 群臣に宴し賜り、天下に赦し、民の観覧を許した。河南を合宮県と改めた。また明堂の北に天堂を五層に起こして大仏像を納めた。三層まで登れば明堂を見下ろせた。僧の懐義は功により左威衛大将軍・梁国公を拝した。
- 侍御史の王求礼が上書して「古の明堂は茅葺きの端を切らず、椽も削らなかった。今は珠玉で飾り丹青で彩り、鉄の鷟が雲に入り金の竜が霧に隠れる。昔の殷の紂の瓊台、夏の桀の瑤室もこれに勝りません」と述べたが、太后は答えなかった。
- 永昌元年(689年)春正月乙卯朔、万象神宮で大饗した。太后は袞冕を服し大圭を搢み鎮圭を執って初献となり、皇帝が亜献、太子が終献。まず昊天上帝の座に詣で、次に高祖・太宗、次に魏国先王、次に五方帝の座に詣でた。太后は則天門に出御して天下に赦し改元した。丁巳、明堂に出御して朝賀を受けた。戊午、明堂で政を布き、九条を頒して百官を訓えた。己未、明堂で群臣を饗した。
- 三月壬申、太后が正字の陳子昂に当今の為政の要を問うた。陳子昂は退いて上疏し、刑を緩め徳を崇め、兵革を息め賦役を省き、宗室を慰撫して各々自ら安んじさせるべきだと論じた。辞は婉やかで意は切実、その論はきわめて美しく、ほぼ三千言に及んだ。
- 癸酉、天官尚書の武承嗣を納言、張光輔を守内史とした。
- 夏四月甲辰、辰州別駕の汝南王煒、連州別駕の鄱陽公諲ら宗室十二人を殺し、その家を巂州に移した。煒は李惲の子、諲は李元慶の子である。
- 己酉、天官侍郎の藍田の鄧玄挺を殺した。鄧玄挺の娘は諲の妻で、また煒と親しかった。諲が中宗を廬陵から迎えることを謀って鄧玄挺に問い、煒もかつて「急な計を立てたらどうか」と言ったが、鄧玄挺はいずれも答えなかった。ゆえに謀反を知って告げなかったとして同じく誅された。
- 諸王が起兵したとき、貝州刺史の紀王慎だけは謀に加わらなかったが、これも連坐して獄に繋がれた。秋七月丁巳、檻車で巴州に移され、姓を虺氏と改めた。蒲州まで来て没した。八人の男子、徐州刺史の東平王続らも相次いで誅され、家は嶺南に移された。
- 徐敬業が敗れたとき、弟の敬真は繡州に流されたが逃げ帰り、突厥へ走ろうとして洛陽を通った。洛州司馬の弓嗣業と洛陽令の張嗣明が資を与えて送り出したが、定州で吏に捕らえられた。弓嗣業は縊死し、張嗣明と徐敬真は国内の知識人を多く引いて「異図がある」と言い、それで死を免れることを期した。こうして朝野の士で連座して死んだ者は甚だ多かった。
- 張嗣明は内史の張光輔を「豫州征討の日、私かに図讖と天文を論じ、ひそかに両端を抱いていた」と誣告した。八月甲申、張光輔は徐敬真・張嗣明らとともに誅され、家を没収された。
- 乙未、秋官尚書の太原の張楚金、陝州刺史の郭正一、鳳閣侍郎の元万頃、洛陽令の魏元忠がみな死を免じて嶺南に流された。張楚金らはみな徐敬真に「敬業と通謀した」と引かれたのである。
- 刑に臨んで太后は鳳閣舎人の王隠客に駅馬を馳せさせ声を伝えて赦した。声が市に達すると、刑に当たる者はみな喜び躍り歓呼して転げ回った。魏元忠だけは安坐して自若としていた。ある者が立てと言うと、魏元忠は「虚実がまだ分からぬ」と言った。王隠客が到着してまた立てと言うと、「勅の宣を待つ」と言い、勅が宣せられてからようやくゆっくり起きて舞踏して再拝した。ついに憂喜の色はなかった。この日、陰雲が四方を塞いでいたが、張楚金らが釈放されると天気は晴れ渡った。
- はじめ高宗の世に周興が河陽令として召見され、上は抜擢しようとしたが、ある者が清流の出でないと奏して取りやめた。周興は知らずにしばしば明堂で沙汰を待った。諸相はみな何も言わなかったが、地官尚書・検校納言の魏玄同は当時、同平章事で、「周明府はお帰りになってよい」と言った。周興は魏玄同が自分を阻んだと思って恨んだ。
- 魏玄同は日ごろ裴炎と親しく、時人はその終始変わらぬことから「耐久の朋」と呼んだ。周興は魏玄同が「太后は老いた。嗣君を奉ずるほうが耐久だ」と言ったと誣奏し、太后は怒って、閏月甲午、家で死を賜った。
- 監刑御史の房済が魏玄同に「丈人、なぜ告密されぬのか。召見されて自ら弁明できましょう」と言った。魏玄同は嘆じて「人に殺されようが鬼に殺されようが、何の違いがあろう。どうして告密する人になれようか」と言い、死に就いた。
- また夏官侍郎の崔詧を隠れた所で殺した。その他、内外の大臣で死に坐し流貶された者は甚だ多かった。
- 彭州長史の劉易従もまた徐敬真に引かれ、戊申、州で誅された。劉易従は仁孝で慎み深く、市で刑に処されようとすると、吏民はその無辜を憐れみ、遠近から駆けつけ、競って衣を脱いで地に投げ「長史のために冥福を求める」と言った。有司が値を評定すると十余万に上った。
- 周興らが右武衛大将軍・燕公の黒歯常之の謀反を誣告し、召して獄に下した。冬十月戊午、常之は縊死した。
- 己未、宗室の鄂州刺史の嗣鄭王璥ら六人を殺し、庚申、嗣滕王脩琦ら六人を死を免じて嶺南に流した。
- 右衛胄曹参軍の陳子昂が上疏して論じた。周は成王・康王を頌し、漢は文帝・景帝を称えました。みな刑を措けたからです。今、陛下の政はすべて善であるとしても、太平の朝で上下が化を楽しんでいるのに、乱臣賊子が日々天誅を犯すべきはずがありません。大獄は増え逆徒はますます広がる。愚かな臣は初めみな事実と思っておりました。ところが先月十五日、陛下が特に繋がれた囚人の李珍らを無罪と察せられ、百僚は慶び喜んでみな聖明を賀しました。臣はそこで無罪の人が疎い網にかかっていることを知りました。陛下は寛やかな法典に努められるのに、獄官は急な刑に努めて陛下の仁を傷つけ太平の政を誣いている。臣はひそかにこれを恨みます。
- また九月二十一日、勅で張楚金らの死を免じられたとき、初め風雨があったのが景雲に変わりました。臣は、陰惨は刑、陽舒は徳と聞きます。聖人は天に法り、天もまた聖を助けます。天意がこうである以上、陛下はどうしてこれに承順されぬのですか。今また陰雨です。臣は過ちが獄官にあることを恐れます。およそ獄に繋がれた囚人の多くは極刑に処されます。道路の議論は是非まちまちです。陛下はなぜことごとく召見して自らその罪を詰られぬのですか。罪に実ある者は明刑を顕示し、濫りな者には獄吏を厳しく懲らしめれば、天下はみな服し、人は政と刑を知りましょう。至徳を明らかにすることではありませんか、と。
- 天授元年(690年)十一月、鳳閣侍郎の河東の宗秦客が天・地など十二字を改造して献じ、丁亥、施行した。太后は自ら「曌」と名づけ、「詔」を「制」と改めた。宗秦客は太后の従父姉の子である。乙未、司刑少卿の周興が唐の親属を籍から除くよう奏した。
- 臘月辛未、僧の懐義を右衛大将軍とし、鄂国公の爵を賜った。
- 春一月戊子、武承嗣を文昌左相、岑長倩を文昌右相・同鳳閣鸞台三品、鳳閣侍郎の武攸寧を納言、邢文偉を守内史とし、左粛政大夫・同鳳閣鸞台三品の王本立を罷めて地官尚書とした。武攸寧は武士彠の兄の孫である。
- 当時、武承嗣と武三思が事を執り、宰相はみな下に付いた。地官尚書・同鳳閣鸞台三品の韋方質が病んだとき、武承嗣と武三思が見舞いに行ったが、韋方質は床几に拠って礼をしなかった。ある者が諫めると、韋方質は「死生に命あり。大丈夫がどうして近戚に曲げて仕えて苟くも免れることを求められようか」と言った。まもなく周興らに構えられ、甲午、儋州に流され家を没収された。
- 醴泉の人の侯思止は初め餅売りを業とし、後に游撃将軍の高元礼の僕となった。日ごろ詭譎で無頼だった。恒州刺史の裴貞が一人の判司を杖打ち、その判司が侯思止に裴貞と舒王元名が謀反したと告げさせた。秋七月辛巳、元名は連坐して廃されて和州に移され、壬午、その子の豫章王亶を殺し、裴貞も族滅された。侯思止は游撃将軍に抜擢された。
- 当時、告密する者はしばしば五品を得た。侯思止が御史になりたいと求めると、太后は「卿は字を知らぬ。どうして御史が務まるか」と言った。侯思止は「獬豸がいつ字を知りましょう。ただ邪を触れるだけです」と答え、太后は喜んですぐ朝散大夫・侍御史とした。後日、太后が先に没収した邸宅を賜ろうとすると、侯思止は「臣は反逆の人を憎みます。その宅に住むことは望みません」と受けず、太后はますます賞した。
- 衡水の人の王弘義は日ごろ行いがなかった。かつて隣家に瓜を乞うて与えられず、県官に「瓜畑に白兎がいる」と告げた。県官が人に捜させ、瓜畑は踏み荒らされて全滅した。また趙・貝に遊んで里の長老が邑の斎を営んでいるのを見、謀反と告げて二百余人を殺し、游撃将軍に抜擢され、まもなく殿中侍御史に遷った。
- ある者が勝州都督の王安仁の謀反を告げ、勅で王弘義が調べた。王安仁が服さないので、王弘義はその場で枷の上で首を刎ね、その子を捕らえ、着くやまたその首を刎ね、箱に納めて帰った。道中、汾州司馬の毛公と向かい合って食事し、たちまち毛公を階下に叱り降ろして斬り、槍にその首を掲げて洛に入った。見る者は震え上がらぬ者がなかった。
- 当時、制獄を麗景門内に置き、この獄に入る者は死ぬほかなかった。王弘義は戯れて「例竟門」と呼んだ。朝士は人ごとに危うさを覚え、会っても言葉を交わさず、道路で目配せするだけ。入朝の際にひそかに捕らえられることもあり、朝のたび家人に「また会えるかどうか」と訣別した。
- 当時、法官は競って深酷を事としたが、ただ司刑丞の徐有功と杜景倹だけが公平と寛恕を守った。告発された者はみな「来俊臣と侯思止に遇えば必ず死に、徐有功と杜景倹に遇えば必ず生きる」と言った。
- 徐有功は徐文遠の孫で、名は弘敏、字で通っていた。初め蒲州司法となり、寛やかさで治めて笞や鞭を用いなかった。吏は「徐司法の杖に触れた者は衆で斥ける」と約し合い、任期を終えるまで一人も杖打たず、職事もよく治まった。累遷して司刑丞となり、酷吏に誣構された者を徐有功はみな正し、前後で生かした者は数十百家。かつて朝廷で獄事を争い、太后が色をなして詰り、左右は震え上がったが、徐有功は神色を撓めずいっそう強く争った。太后は殺すことを好んだが、徐有功の正直を知って甚だ敬い憚った。杜景倹は武邑の人である。
- 司刑丞の滎陽の李日知もまた公平と寛恕を尚んだ。少卿の胡元礼が一人の囚人を殺そうとし、李日知は不可として四度も往復した。胡元礼は怒って「私が刑曹を離れぬ限り、この囚人が生きる道はない」と言い、李日知は「私が刑曹を離れぬ限り、この囚人が死ぬ法はない」と言った。ついに二つの意見を並べて上申し、李日知が正しいとされた。
- 東魏国寺の僧の法明らが『大雲経』四巻を撰して上表し、太后こそ弥勒仏の下生であり、唐に代わって閻浮提の主となるべきだと述べた。制で天下に頒布した。
- 武承嗣が周興に隋州刺史の沢王上金と舒州刺史の許王素節の謀反を誣告させ、行在所に召した。素節は舒州を発ち、喪に遭って哭する者に会って嘆じ「病死できるものならどんなによいか。それなのに、なぜかえって哭するのか」と言った。丁亥、竜門に至って縊り殺され、上金は自殺し、その諸子と支党はことごとく誅された。
- 八月甲寅、太子少保・納言の裴居道を殺した。癸亥、尚書左丞の張行廉を殺した。辛未、南安王頴ら宗室十二人を殺し、また旧太子賢の二子を鞭殺した。唐の宗室はここにほぼ尽きた。幼弱で残った者も嶺南に流され、またその親党数百家も誅された。
- ただ千金長公主だけは巧みに媚びて全うし、自ら太后の娘となることを請い、姓を武氏と改めた。太后は愛して延安大長公主と改号した。
- 九月丙子、侍御史の汲の人の傅遊芸が関中の百姓九百余人を率いて闕に至って上表し、国号を周と改め皇帝に武氏の姓を賜ることを請うた。太后は許さず、傅遊芸を給事中に抜擢した。
- そこで百官および帝室の宗戚、遠近の百姓、四夷の酋長、沙門・道士合わせて六万余人がそろって傅遊芸の請いのとおり上表し、皇帝も上表して自ら武氏の姓を賜ることを請うた。
- 戊寅、群臣が「鳳凰が明堂から上陽宮に飛び入り、また左台の梧桐の上に集まり、久しくして東南に飛び去った。また赤い雀数万が朝堂に集まった」と上言した。
- 庚辰、太后は皇帝および群臣の請いを許した。壬午、則天楼に出御して天下に赦し、唐を周と改めて改元した。乙酉、尊号を聖神皇帝とし、皇帝を皇嗣として武氏の姓を賜り、皇太子を皇孫とした。
- 丙戌、武氏の七廟を神都に立て、周の文王を始祖文皇帝、妣の姒氏を文定皇后、平王の少子の武を睿祖康皇帝、妣の姜氏を康恵皇后、太原靖王を厳祖成皇帝、妣を成荘皇后、趙粛恭王を粛祖章敬皇帝、魏義康王を烈祖昭安皇帝、周安成王を顕祖文穆皇帝、忠孝太皇を太祖孝明高皇帝と追尊し、妣はみな考の諡に倣って皇后と称した。
- 武承嗣を魏王、三思を梁王、攸寧を建昌王とし、武士彠の兄の孫の攸帰・重規・載徳・攸暨・懿宗・嗣宗・攸宜・攸望・攸緒・攸止をみな郡王とし、諸姑・姉をみな長公主とした。
- また司賓卿の溧陽の史務滋を納言、鳳閣侍郎の宗秦客を検校内史、給事中の傅遊芸を鸞台侍郎・平章事とし、傅遊芸は岑長倩・右玉鈐衛大将軍の張虔勗・左金吾大将軍の丘神勣・侍御史の来子珣らとともに武の姓を賜った。宗秦客はひそかに太后に革命を勧めたので真っ先に内史となった。傅遊芸は一年のうちに青・緑・朱・紫の服を歴任し、時人は「四時仕官」と呼んだ。
- 州を郡と改めるよう勅したが、ある者が「陛下は革命を始められたばかりなのに州を廃されるのは不祥です」と言い、太后はただちに追って止めた。史務滋ら十人に諸道を存撫させた。癸卯、太后が兄の孫の延基ら六人を郡王に立てた。
- 冬十月甲子、検校内史の宗秦客が贓罪で遵化尉に貶され、弟の楚客と晋卿も姦贓で嶺外に流された。丁卯、流人の韋方質を殺した。
- 壬申、両京と諸州に各々大雲寺一区を置いて『大雲経』を蔵し、僧に高座で講解させるよう勅した。その疏を撰した僧の雲宣ら九人にみな県公の爵を賜り、なお紫の袈裟と銀の亀袋を賜った。
- 制して天下の武氏はみな課役を免じた。
- 道州刺史の李行褒兄弟が酷吏に陥れられて族罪に当たり、秋官郎中の徐有功が固く争ったが叶わなかった。秋官侍郎の周興が徐有功はわざと謀反の囚人を出したので斬るべきだと奏した。太后は許さなかったが、徐有功の官も免じた。
- しかし太后は日ごろ徐有功を重んじ、久しくして改めて侍御史に起用した。徐有功は地に伏して涙を流し固辞して「臣は、鹿が山林を走っても命は厨に懸かる、勢いがそうさせるのだと聞きます。陛下が臣を法官とされれば、臣は陛下の法を枉げられません。必ずこの官で死にます」と言った。太后は固く授け、遠近で聞く者は互いに賀した。
天授二年(691年)
- 春正月癸酉朔、太后が初めて万象神宮で尊号を受けた。旗幟は赤を尚んだ。甲戌、社稷を神都に改置した。辛巳、武氏の神主を太廟に納れた。長安にある唐の太廟は「享徳廟」と改称し、四時にはただ高祖以下三廟だけを享し、他の四室はみな閉じて享さなかった。また長安の崇先廟を崇尊廟と改めた。乙酉、冬至に明堂で大享し、昊天上帝を祀って百神を従祀させ、武氏の祖宗を配享し、唐の三帝も同じく配した。
- 御史中丞・知大夫事の李嗣真が酷吏の横行を見て上疏して論じた。今、告事は紛々として虚が多く実は少ない。凶悪な者の陰謀が陛下と君臣を離間することを恐れます。古は獄が成れば公卿が参聴し、王は必ず三度宥してから刑を行いました。近ごろは獄官が単車で使いを奉じ、推鞫が定まれば法家が依って断じ、再審させません。あるいは臨時に専決して二度と奏聞しません。こうでは権が臣下に由ることになり、審慎の法ではありません。もし冤や濫りがあれば、どうやって知り得ましょう。まして九品の官が推覆を専らにし、生殺の柄を操って人主の威を盗む。案覆は秋官になく、審復は門下によらぬ。国の利器を軽々しく人に仮すのは、社稷の禍となることを恐れます、と。太后は聴かなかった。
- 侍御史の来子珣が尚衣奉御の劉行感兄弟の謀反を誣告し、みな連坐して誅された。
- 春一月、地官尚書の武思文および朝集使二千八百人が上表して中岳の封禅を請うた。己亥、唐の興寧・永康・隠陵の署官を廃し、ただ守戸を量って置いた。
- 左金吾大将軍の丘神勣が罪で誅された。
- 納言の史務滋が来俊臣とともに劉行感の獄を取り調べた。来俊臣は史務滋が劉行感と親密でその謀反の状を握りつぶそうとしていると奏し、太后は来俊臣にあわせて取り調べさせた。庚子、史務滋は恐れて自殺した。
- ある者が文昌右丞の周興が丘神勣と通謀していると告げ、太后は来俊臣に取り調べさせた。来俊臣は周興とちょうど事を推して向かい合って食事しながら「囚人の多くが自白しない。どんな方法がよいか」と問うた。周興は「それはきわめて簡単だ。大甕を取って周りを炭で炙り、囚人を中に入れれば、何を自白せぬことがあろう」と言った。来俊臣はそこで大甕を取り寄せ、周興の方法どおり火で囲み、立ち上がって「内々の告発で兄を取り調べることになった。兄はこの甕に入られよ」と言った。周興は恐れおののいて叩頭して罪に服した。法では死に当たったが太后は許し、二月、周興を嶺南に流したが、道中で仇家に殺された。
- 周興は索元礼・来俊臣と競って暴虐苛酷をなし、周興と索元礼が殺した者は各々数千人、来俊臣が破った家は千余。索元礼は残酷がとりわけ甚だしく、太后も殺して人望を慰めた。
- 左衛大将軍・千乗王の武攸暨を定王に移した。旧太子賢の子の光順を義豊王に立てた。
- 甲子、太后が始祖の墓を徳陵、睿祖の墓を喬陵、厳祖の墓を節陵、粛祖の墓を簡陵、烈祖の墓を靖陵、顕祖の墓を永陵と名づけ、章徳陵を昊陵、顕義陵を順陵と改めた。
- 夏四月癸卯、制して釈教が革命の階を開いたとして道教の上に昇せた。
- 建安王攸宜に長安の留守を命じた。
- 秋八月庚申、玉鈐衛大将軍の張虔勗を殺した。来俊臣が張虔勗の獄を取り調べ、張虔勗が徐有功に自ら訴えたので、来俊臣は怒って衛士に刀で乱斬りさせて殺し、市に梟首した。
- 義豊王光順、嗣雍王守礼、永安王守義、長信県主らにみな武氏の姓を賜り、睿宗の諸子とともに宮中に幽閉して十余年、門庭を出させなかった。守礼と守義は光順の弟である。
- ある者が地官尚書の武思文がはじめ徐敬業と通謀していたと告げ、甲子、武思文を嶺南に流し、姓を徐氏に戻した。
- 九月乙亥、岐州刺史の雲弘嗣を殺した。来俊臣が取り調べたが、一言も問わずまずその首を斬り、偽の文案を作って奏した。張虔勗を殺したときも同様である。勅旨はみな「依る」とあり、海内は口を閉ざした。
- 鸞台侍郎・同平章事の傅遊芸が湛露殿に登る夢を見、親しい者に語った。親しい者が告発し、壬辰、獄に下されて自殺した。
- これに先立ち、鳳閣舎人の修武の張嘉福が洛陽の人の王慶之ら数百人に上表させ、武承嗣を皇太子に立てることを請わせた。文昌右相・同鳳閣鸞台三品の岑長倩は皇嗣が東宮にある以上この議はあるべきでないとして、上書した者を厳しく責めて解散を告示するよう奏請した。太后がまた地官尚書・同平章事の格輔元に問うと、格輔元も固く不可と称した。これによって大いに諸武の意に逆らい、ゆえに岑長倩を斥けて吐蕃征討に向かわせ、到着せぬうちに召し返して制獄に下した。武承嗣がまた格輔元を讒言した。
- 来俊臣はまた岑長倩の子の霊原を脅して司礼卿兼判納言事の欧陽通ら数十人を引かせ、みな同じく謀反したと言わせた。欧陽通は来俊臣に訊問されて五毒を尽くされたが、ついに供述を変えなかった。来俊臣は欧陽通の供述を偽造した。冬十月己酉、岑長倩・格輔元・欧陽通らはみな連坐して誅された。
- 王慶之が太后に会うと、太后は「皇嗣は我が子である。どうして廃せようか」と言った。王慶之は「神は同類でないものを享けず、民は同族でないものを祀りません。今、誰が天下を有ちながら李氏を嗣とされるのですか」と答えた。太后は諭して帰らせようとしたが、王慶之は地に伏して死を賭して泣いて請い、去らなかった。太后はそこで印を押した紙を与えて「私に会いたければこれを門番に示せ」と言った。これより王慶之はしばしば拝謁を求めた。
- 太后はかなり怒り、鳳閣侍郎の李昭徳に王慶之を杖打つよう命じた。李昭徳は光政門の外に引き出して朝士に示し「この賊は我が皇嗣を廃して武承嗣を立てようとしている」と言って打たせた。耳も目も血が出、そのうえで杖殺した。その党はそこで散った。
- 李昭徳はそこで太后に言った。天皇は陛下の夫、皇嗣は陛下の子です。陛下が身に天下を有つ以上、子孫に伝えて万代の業とされるべきです。どうして甥を嗣とできましょう。古来、甥が天子となって姑のために廟を立てたなど聞いたことがありません。しかも陛下は天皇の顧託を受けられました。もし天下を承嗣に与えれば、天皇は血食できなくなります、と。太后もそのとおりと思った。李昭徳は李乾祐の子である。
- 壬辰、鸞台侍郎・同平章事の楽思晦と右衛将軍の李安静を殺した。李安静は李綱の孫である。太后が革命しようとしたとき、王公百官はみな上表して勧進したが、李安静だけは色を正して拒んだ。制獄に下って来俊臣がその謀反の状を詰ると、李安静は「私は唐家の老臣である。殺すなら殺せ。謀反を問われても実際にないので答えようがない」と言い、来俊臣はついに殺した。
長寿元年(692年)
- 春一月丁卯、太后が存撫使の推挙した人を引見し、賢愚を問わずことごとく抜擢して用いた。高い者は鳳閣舎人・給事中を試し、次は員外郎・侍御史・補闕・拾遺・校書郎を試させた。試官はこれに始まる。
- 時人はこれを「補闕は車に載せるほど、拾遺は斗で量るほど、欋で推すのは侍御史、椀から外れるのが校書郎」と語った。挙人の沈全交が続けて「取り繕う存撫使、目のくらんだ聖神皇」と作った。御史の紀先知に捕らえられ、朝政を誹謗したとして朝堂で杖打ってから法に付すよう請われた。太后は笑って「卿らが濫りでなければ、人の言を何を憂えよう。その罪を釈せ」と言い、紀先知は大いに恥じた。
- 太后は濫りに禄位で天下の人心を収めたが、職に称わぬ者はまもなく黜け、あるいは刑誅を加えた。刑賞の柄を握って天下を駕御し、政は己から出、明察で決断に善く、ゆえに当時の英賢もまた競って用いられた。
- 寧陵丞の廬江の郭霸が太后に諂って監察御史を拝した。中丞の魏元忠が病んだとき郭霸が見舞い、その糞を舐めて「大夫の糞が甘ければ憂うべきですが、今は苦い。害はありません」と喜んだ。魏元忠は大いに嫌い、人に会うたびこれを話した。
- 戊辰、夏官尚書の楊執柔を同平章事とした。楊執柔は楊恭仁の弟の孫で、太后は外族として用いた。
- 左台中丞の来俊臣が、同平章事の任知古と狄仁傑、裴行本、司農卿の裴宣礼、前文昌左丞の盧献、御史中丞の魏元忠、潞州刺史の李嗣真の謀反を織り上げて告げた。
- これに先立ち来俊臣は、一度問うただけで謀反を認めた者は死を減じる勅を降すよう奏請していた。任知古らが獄に下ると、来俊臣はこれで誘った。狄仁傑は「大周が革命して万物が新たになった。唐室の旧臣として甘んじて誅戮に従う。謀反はまことである」と答え、来俊臣はそこで少し寛やかにした。
- 判官の王徳寿が狄仁傑に「尚書はきっと死を減じられます。私は駆使を受けている身で少し位を上げたい。尚書に楊執柔を引いていただけませんか」と言った。狄仁傑は「皇天后土よ、この狄仁傑にこんなことをさせるのか」と言って頭を柱に打ちつけ、血が流れて顔を覆った。王徳寿は恐れて謝した。
- 侯思止が魏元忠を取り調べたが、魏元忠の辞気は屈しなかった。侯思止は怒って逆さに引きずらせた。魏元忠は「私は薄命で、たとえば驢馬から落ちて足が鐙に絡まって引きずられるようなものだ」と言った。侯思止はいっそう怒ってさらに引きずらせた。魏元忠は「侯思止、お前が魏元忠の頭を必要とするなら截り取ればよい。どうして謀反を認めさせる必要があるか」と言った。
- 狄仁傑はすでに謀反を認めており、有司は報告を待って行刑するので厳重な備えをしなくなった。狄仁傑は衾の帛を裂いて冤状を書き綿入れの中に入れ、王徳寿に「時候が暑くなった。家人に渡してこの綿を取らせてほしい」と言い、王徳寿は許した。狄仁傑の子の光遠が書を得て持参し、変を告げると称して召見され、則天は見て来俊臣に問うた。
- 来俊臣は「仁傑らが獄に下ってから、臣は一度もその頭巾と帯を取り上げず、寝起きもきわめて安らかです。もし事実がなければ、どうして謀反を認めましょう」と答えた。太后は通事舎人の周綝に見に行かせた。来俊臣はしばらく狄仁傑らに頭巾と帯を貸して西に並び立たせ、周綝に見せた。周綝はあえて見ようとせず、ただ東を向いて唯々諾々と答えるだけだった。来俊臣はまた狄仁傑らの死を謝する表を偽造して周綝に奏させた。
- 楽思晦の男子は十歳に満たず司農に没入されていたが、変を告げて召見された。太后が状を問うと「臣の父はすでに死に、臣の家はすでに破れました。ただ陛下の法が来俊臣らに弄ばれるのを惜しみます。陛下が臣の言を信じられぬなら、朝臣で忠清、陛下が日ごろ信任される者を択んで謀反の状を作らせて来俊臣に付けてご覧ください。謀反を認めぬ者はありますまい」と答えた。
- 太后の意はようやく醒め、狄仁傑らを召見して「卿はなぜ謀反を認めたのか」と問うた。「認めなければ拷掠で死んでおりました」と答えた。太后が「ではなぜ死を謝する表を作ったのか」と問うと「そんなものはありません」と答えた。表を出して示すと、そこで偽造と知れた。こうしてこの七族を出した。
- 庚午、任知古を江夏令、狄仁傑を彭沢令、裴宣礼を夷陵令、魏元忠を涪陵令、盧献を西郷令に貶し、裴行本と李嗣真を嶺南に流した。
- 来俊臣は武承嗣らとともに固く誅殺を請うたが、太后は許さなかった。来俊臣はそこで裴行本の罪だけがとりわけ重いとして誅を請うた。秋官郎中の徐有功が「明主には更生の恩がある。来俊臣は将順できず、恩と信を損なっている」と論駁した。
- 殿中侍御史の貴郷の霍献可は裴宣礼の甥だったが、太后に「陛下が裴宣礼を殺されぬなら、臣は御前で命を隕とします」と言い、頭を殿の階に打ちつけて血が地を濡らし、人臣として親を私せぬことを示した。太后はいずれも聴かなかった。霍献可は常に緑の帛でその傷を包み、それとなく幞頭の下から覗かせて太后に忠を見せようとした。
- 来俊臣が左衛大将軍の泉献誠に金を求めて得られず、謀反と誣告して獄に下し、乙亥、縊り殺した。
- 夏六月辛亥、万年主簿の徐堅が上疏して論じた。『書』に五聴の道があり、令に三覆の奏を著しております。近ごろ、謀反の者を推按させ、使者が実を得ればただちに斬決させる勅があると聞きます。人命は至って重く、死ねば再び生きません。万一、枉げられて声を呑み一族が滅ぼされれば、痛ましいことではありませんか。これは姦逆を粛し典刑を明らかにするに足らず、かえって威福を長じて疑懼を生じさせるだけです。臣はこの処分をやめ、法に依って覆奏されることを望みます。
- また法官の任は選別を加えるべきです。法を用いること寛平で百姓に称えられる者は親しんで任じ、事を処するのに深酷で人望に副わぬ者は疎んじて退けられますよう、と。徐堅は徐斉聃の子である。
- 夏官侍郎の李昭徳がひそかに太后に「魏王承嗣の権は重すぎます」と言った。太后が「私の甥である。ゆえに腹心を委ねている」と言うと、李昭徳は「甥の姑に対する親しさは、子の父に対するのと比べてどうでしょう。子ですら父を簒い弑せます。まして甥においてをや。今、承嗣はすでに陛下の甥であり、親王でありながら宰相を兼ね、権は人主に等しい。臣は陛下が久しく天位に安んじられぬことを恐れます」と言った。太后ははっとして「朕はそこまで思わなかった」と言った。
- 秋七月戊寅、文昌左相・同鳳閣鸞台三品の武承嗣を特進・納言、武攸寧を冬官尚書、夏官尚書・同平章事の楊執柔を地官尚書とし、みな政事を罷めた。
- 武承嗣もまた李昭徳を太后に毀った。太后は「私は昭徳を任じて初めて安眠できるようになった。彼が私の労に代わっているのだ。汝は言うな」と言った。
- このとき酷吏が恣に横行して百官は畏れて身をすくめたが、李昭徳だけが朝廷でその姦を奏した。太后は祥瑞を好み、白石に赤い文のあるものを献じた者があった。執政がその異を問うと「その赤心をもってです」と答えた。李昭徳は怒って「この石が赤心なら、他の石はみな謀反か」と言い、左右はみな笑った。襄州の人の胡慶が丹漆で亀の腹に「天子万万年」と書いて闕に献じた。李昭徳は刀で削り落として法に付すよう奏請したが、太后は「この心もまた悪ではない」と言って釈放させた。
- 太后が猫を馴らして鸚鵡と一緒に置き、百官に示して伝え見させたが、みなが見終わらぬうちに猫が飢えて鸚鵡を捕らえて食べてしまい、太后はひどく恥じた。
- 太后は垂拱以来、酷吏を任用し、まず唐の宗室・貴戚数百人を誅し、次いで大臣数百家に及んだ。刺史・郎将以下は数え切れない。一官を除くたび戸の婢がひそかに「鬼の材料がまた来た」と言い合った。旬月ならずして捕らえられて族誅されたからである。
- 監察御史の朝邑の厳善思は公直で敢言だった。当時、告密者は数え切れなかったが、太后は厳善思に取り調べさせ、虚偽を認めて罪に服した者は八百五十余人。羅織の党はこれで振るわなくなった。そこで彼らは共に厳善思を構え陥れ、驩州に流された。太后はその冤を知り、まもなく召し返して渾儀監丞とした。厳善思は名を譔といい字で通っていた。
- 右補闕の新鄭の朱敬則は、太后がもともと威刑によって異議を禁じたが、今すでに革命して衆心は定まったのだから、刑を省いて寛やかを尚ぶべきだと考え、上疏して論じた。李斯は秦の相として刻薄と変詐を用いて諸侯を屠りましたが、これを寛和に易えることを知らず、ついに土崩に至りました。これは変を知らぬ禍です。漢の高祖が天下を定めたとき、陸賈と叔孫通が礼義を説き、世を伝えること十二代。これは変を知った善です。
- 文明の草昧、天地は屯蒙の時、三叔は流言し四凶は難を称えました。鉤距を設けねば天に応じ人に順えず、刑名を切にせねば姦を摧き暴を息められませんでした。ゆえに神器(匭)を置いて告密の端を開かれ、曲直の影は必ず現れ、包蔵の心はことごとく露れました。神道は直を助け、罪あって除かれぬものはなく、蒼生は安らかに紫宸は主を易えました。
- しかし急ぎ趨れば善き迹がなく、柱を促めれば和なる声が少ない。かつての妙策は今日の芻狗です。どうか秦漢の得失を覧、時事の合宜を考え、糟粕の遺すべきを審らかにし、蘧廬(仮の宿)の毀つべきを覚られ、萋菲(讒言)の牙角を去り、姦険の鋒芒を頓らせ、羅織の源を窒ぎ、朋党の迹を掃われれば、天下の蒼生は坦然として大いに喜びましょう。楽しいことではありませんか、と。太后は善しとして帛三百段を賜った。
- 侍御史の周矩が上疏して論じた。推劾の吏はみな互いに虐を誇り合っております。耳に泥を詰め頭に籠をかぶせ、枷で研ぎ轂に楔を打ち、胸を折り爪に籤を刺し、髪で吊るし耳を燻す。これを「獄持」と号します。あるいは数日食を절し、夜通し緩やかに問い、昼夜揺すって眠らせない。これを「宿囚」と号します。この者たちは木石ではありません。しかも目前を救おうとして、しばらくの延命を求めるだけです。
- 臣がひそかに輿論を聴くに、みな「天下は太平である。何を苦しんで謀反する必要があろう。まさか告発された者がみな英雄で帝王になろうとしているのか。ただ楚毒に堪えず自ら誣しているだけだ」と言います。どうか陛下、お察しください。今、満朝が身をすくめて安からぬのは、みな陛下が朝に親しみ夕に讎とされ、保証がないと思っているからです。周は仁を用いて昌え、秦は刑を用いて亡びました。どうか陛下、刑を緩め仁を用いられますよう。天下の幸いです、と。太后はかなりその言を採り、制獄はやや衰えた。
- 太后は年齢こそ高かったが自ら化粧に巧みで、左右も衰えを気づかなかった。丙戌、歯が抜けて生え直ったとして、九月庚子、則天門に出御して天下に赦し改元し、さらに九月を社(正月)とした。
長寿二年(693年)
- 春正月壬辰朔、太后が万象神宮を享し、魏王承嗣を亜献、梁王三思を終献とした。太后は自ら神宮楽を制し、舞う者は九百人。
- 戸婢の団児が太后に寵信され、皇嗣に恨みを抱いて、皇嗣の妃の劉氏と徳妃の竇氏が呪詛していると讒言した。癸巳、妃と徳妃が嘉豫殿で太后に朝して退いた後、同時に殺され、宮中に埋められて所在も知れなかった。徳妃は竇抗の曽孫である。
- 皇嗣は旨に逆らうことを恐れてあえて口に出さず、太后の前では容止が自若としていた。団児がさらに皇嗣を害そうとし、その情を太后に言う者があって、太后は団児を殺した。
- このとき告密者はみな人の奴婢を誘ってその主を告げさせ功賞を求めた。徳妃の父の竇孝諶は潤州刺史で、ある奴が妖異を装って徳妃の母の龐氏を脅した。龐氏は恐れ、奴の請いで夜に祈禱して解こうとしたところ、奴がその事を告発した。監察御史の竜門の薛季昶が取り調べ、徳妃とともに呪詛したと誣奏した。まず涙を流して堪えられぬふりをし、そのうえで「龐氏の行いは臣子として口にするに忍びません」と言った。太后は薛季昶を給事中に抜擢した。
- 龐氏は斬に当たり、その子の竇希瑊が侍御史の徐有功のもとに冤を訴えた。徐有功は担当官に牒して刑を停め、上奏して無罪と論じた。薛季昶は徐有功が悪逆に阿党したと奏し、法に付すよう請うた。法司は徐有功の罪を絞に当てた。令史がこれを徐有功に告げると、徐有功は嘆じて「私だけが死んで、他の人は永久に死なぬのか」と言い、食事を終えると扇で顔を覆って寝た。人は徐有功が強がっていて内心は憂え恐れていようとひそかにうかがったが、ぐっすり眠っていた。
- 太后が徐有功を召して迎えて「卿は近ごろ獄を裁いて失出(軽く出すこと)が何と多いことか」と言った。徐有功は「失出は人臣の小さな過ちであり、生を好むのは聖人の大いなる徳です」と答え、太后は黙った。これによって龐氏は死を減じられ、三子とともに嶺南に流され、竇孝諶は羅州司馬に貶され、徐有功も除名された。
- 臘月丁卯、皇孫の成器を寿春王、恒王成義を衡陽王、楚王隆基を臨淄王、衛王隆範を巴陵王、趙王隆業を彭城王に降した。みな睿宗の子である。
- 春二月甲寅、前尚方監の裴匪躬と内常侍の范雲仙が皇嗣に私かに謁した罪で市に腰斬された。これより公卿以下はみな会えなくなった。
- また皇嗣がひそかに異謀を抱いていると告げる者があり、太后は来俊臣にその側近を取り調べさせた。側近は楚毒に堪えずみな自ら誣しようとした。太常の工人の京兆の安金蔵が大声で来俊臣に「公が私の言を信じられぬなら、心を剖いて皇嗣が謀反せぬことを明らかにしよう」と言い、佩刀を引いて自らその胸を剖き、五臓がみな出て血が地を覆った。
- 太后は聞いて輿で宮中に入れさせ、医に五臓を納めさせ、桑の皮の糸で縫って薬を付けさせた。一晩経ってようやく蘇った。太后は臨んで見て「私に子がありながら自ら明かせず、お前をここまで至らせた」と嘆じ、ただちに来俊臣に取り調べを停めさせた。睿宗はこれによって免れた。
- ある者が嶺南の流人が謀反したと告げ、太后は司刑評事の万国俊に監察御史を摂させて調べさせた。万国俊は広州に至って流人をことごとく召し、制を偽って自尽を賜った。流人は号泣して服さず、万国俊は水辺の曲がりに駆り立ててことごとく斬った。一朝にして三百余人を殺し、そのうえで謀反の状を偽って帰り奏し、あわせて「諸道の流人にも必ず怨望して謀反する者がおります。早く誅さぬわけにいきません」と言った。
- 太后は喜んで万国俊を朝散大夫・行侍御史に抜擢し、改めて右翊衛兵曹参軍の劉光業、司刑評事の王徳寿、苑南面監丞の鮑思恭、尚輦直長の王大貞、右武威衛兵曹参軍の屈貞筠にみな監察御史を摂させて諸道の流人を調べさせた。劉光業らは万国俊が多く殺して賞を蒙ったので競って倣い、劉光業は七百人、王徳寿は五百人を殺し、その他も少ない者で百人を下らなかった。年久しく雑犯で流された者も一緒に死んだ。
- 太后はかなりその濫りを知り、制して六道の流人で未死の者はその家属ともみな郷里へ帰ることを許した。万国俊らも相次いで死に、あるいは罪を得て流竄された。
- 来俊臣が冬官尚書の蘇幹を「魏州で琅邪王沖と通謀した」と誣告し、夏四月乙未、殺した。
- 秋九月、魏王承嗣ら五千人が上表して尊号に「金輪聖神皇帝」を加えることを請うた。乙未、太后が万象神宮に出御して尊号を受け、天下に赦した。金輪など七宝を作り、朝会のたび殿庭に陳列した。
- 庚子、昭安皇帝を渾元昭安皇帝、文穆皇帝を立極文穆皇帝、孝明高皇帝を無上孝明高皇帝と追尊し、皇后も帝号に従った。
延載元年(694年)
- 夏五月、魏王承嗣ら二万六千余人が尊号を「越古金輪聖神皇帝」とすることを上った。甲午、則天門の楼に出御して尊号を受け、天下に赦して改元した。
- 河内に老尼がいて神都の麟趾寺に住み、嵩山の人の韋什方らとともに妖妄で衆を惑わした。尼は「浄光如来」と自称して未然を知ると言い、韋什方は呉の赤烏元年の生まれと自称した。また老いた胡人も五百歳と自称し、「薛師(懐義)に会って二百年になるが、容貌はますます若い」と言った。太后は甚だ信重し、韋什方に武氏の姓を賜った。
- 秋七月癸未、韋什方を正諫大夫・同平章事とし、制に「軒轅の代の広成子を越え、漢朝の河上公を凌ぐ」と述べた。八月、韋什方が山に帰ることを乞い、制で罷めて帰らせた。
- 武三思が四夷の酋長を率い、銅鉄を鋳て天枢を作り端門の外に立て、功徳を銘記し、唐を黜けて周を頌えることを請うた。姚璹を督作使とした。諸胡が銭百万億を集めて銅鉄を買ったが足りず、民間の農器を徴発して足した。
- 九月、殿中丞の来俊臣が贓罪で同州参軍に貶され、王弘義は瓊州に流された。王弘義は勅と詐って呼び戻され、漢北に至ったところで侍御史の胡元礼に出会い、調べられて姦状が明らかになり、杖殺された。
- 内史の李昭徳は太后の委任を恃んでかなり権を専らにし気を張り、多くの人に憎まれた。前魯王府功曹参軍の丘愔が上疏して攻撃した。その大略に「陛下は天授以前は万機を独断されましたが、長寿以来は昭徳に委任して機密に参与させ、可を献じ否を替えさせておられます。事に便利があっても諮謀に加わらず、日を画して行おうとする段になって初めて別に異を唱え、専擅を露わにして人に見せつける。美を帰し愆を引く義はこうではありません」とあり、また「臣がその胆を見るに、身より大きい。鼻息の衝くところ、上は雲漢を払う」とあり、また「蟻の穴が堤を壊し、針の芒が気を写す。権が重くひとたび去れば、収めるのはきわめて難しい」とあった。
- 長上果毅の鄧注もまた『石論』数千言を著して李昭徳の専権の状を述べ、鳳閣舎人の逢弘敏が取って奏した。太后はこれによって李昭徳を憎み、壬寅、南賓尉に貶し、まもなく死を免じて流竄した。
天冊万歳元年(695年)――明堂の焼失と懐義の誅殺
- 春正月辛巳朔、太后が号に「慈氏越古金輪聖神皇帝」を加え、天下に赦して証聖と改元した。
- 周允元が司刑少卿の皇甫文備とともに、内史の豆盧欽望、同平章事の韋巨源・杜景倹・蘇味道・陸元方が李昭徳に付会して匡正できなかったと奏した。豆盧欽望は趙州、韋巨源は麟州、杜景倹は溱州、蘇味道は集州、陸元方は綏州の刺史に貶された。
- はじめ明堂が完成すると、太后は僧の懐義に夾紵の大像を作らせた。その小指の中でも数十人を容れられた。明堂の北に天堂を構えて納れようとしたが、天堂は構え始めたところで風に壊され、改めて構えた。日々一万人を役し、江嶺で木を伐ること数年、費用は万億を数え、府庫はこれで枯渇した。
- 懐義は財を糞土のように使い、太后はすべて任せて問わなかった。無遮会を催すたび銭万緡を使い、士女は雲のように集まった。また銭十車を散じて争って拾わせ、踏み合って死ぬ者もあった。各地の公私の田宅の多くが僧の所有となった。
- 懐義はかなり宮に入るのを厭い、多く白馬寺にいた。度して僧とした力士は千人に満ちた。侍御史の周矩が姦謀を疑って調べることを固く請うと、太后は「卿はしばらく退がれ。朕はすぐ行かせる」と言った。
- 周矩が台に至ると懐義も来たが、馬に乗ったまま階まで来て下り、腹を出して床几に寝そべった。周矩が吏を召して取り調べようとすると、たちまち馬を躍らせて去った。周矩がその状を詳しく奏すると、太后は「この道人は風病である。詰るに足りぬ。度した僧は卿の処置のままに」と言い、みな遠州に流し、周矩を天官員外郎に遷した。
- 乙未、朝堂で無遮会を催した。地を掘って深さ五丈の坑とし、綵を結んで宮殿とし、仏像をみな坑の中から引き出して「地から涌き出た」と称した。また牛を殺してその血で大像を描いた。首の高さは二百尺で、懐義が膝を刺した血で描いたと称した。
- 丙申、天津橋の南に像を張り、斎を設けた。当時、御医の沈南璆も太后に幸せられており、懐義は内心憤った。この夜、ひそかに天堂を焼き、火は明堂に延びた。火は城中を昼のように照らし、夜明けにはみな尽きた。暴風が血の像を数百段に裂いた。
- 太后は恥じて隠し、ただ「内作の工人が誤って麻の主柱を焼き、明堂に及んだ」と言った。当時ちょうど酺宴の最中で、左拾遺の劉承慶が朝を輟め酺を停めて天譴に応えることを請い、太后も従おうとした。姚璹が「昔、成周は宣榭が焼けても卜した代はいよいよ隆んになり、漢の武帝は建章が焼けても盛徳はいよいよ永らえました。今、明堂は布政の所であって宗廟ではありません。自ら貶損されるべきではありません」と言い、太后はそこで端門に出御して平日どおり酺を観た。
- 改めて明堂と天堂を造るよう命じ、なお懐義を使に充てた。また銅を鋳て九州の鼎および十二神を作り、みな高さ一丈で各々その方角に置いた。
- これに先立ち、河内の老尼は昼は麻一粒米一粒を食べるだけだったが、夜は肉を煮て宴楽し、弟子百余人を蓄え、淫穢で至らぬところがなかった。武什方は長生の薬を合わせられると自称し、太后は駅馬で嶺南に薬を採りに行かせていた。
- 明堂が焼けて尼が太后を弔いに入ると、太后は怒って叱り「お前は常々前知できると言った。なぜ明堂の火を言わなかったのか」と言い、河内に追い返した。弟子と老胡らはみな逃げ散った。またその姦を暴く者があった。太后はそこで改めて尼を麟趾寺に召し返し、弟子がみな集まったところで給使に一斉に捕らえさせ、みな没して官婢とした。武什方は偃師まで戻ったところで事の露見を聞き、自ら縊れて死んだ。
- 庚子、明堂の火を廟に告げ、制を下して直言を求めた。劉承慶が上疏して論じた。火は麻の主柱から出て総章の営んだ仏舎に及びました。いたずらに労して益なきものです。罷められますよう。また明堂は天と人を統べ和する所です。一朝にして焼け毀たれたのに、臣下はどんな心で酺宴を催せましょう。憂いと喜びが相争って情性を傷つけます。また陛下は制を垂れて広く訪ね、至理を陳べることを許されました。ところが左史の張鼎は「今、火が王屋に流れたのは、いよいよ大周の祥を顕すもの」と言い、通事舎人の逢敏は「弥勒が道を成したとき天魔が宮を焼き、七宝の台がたちまち散り壊れた」と奏しました。これは実に諂妄の邪言であって君臣の正論ではありません。どうか陛下、乾々翼々として天と人の心に戻らず、急がぬ役を興されぬようになさいますよう。そうすれば兆民は頼み、福禄は窮まりありません、と。
- 獲嘉主簿の彭城の劉知幾が表を上って四事を陳べた。その一は次のとおり。皇業の始まり、天地の開闢、嗣君の即位、黎元の更始には非常の慶に藉って再造の恩を申べるものです。今、六合は清く安らかなのに赦令が息みません。近くは一年に二度降り、遠くは毎年欠かさない。違法悖礼の徒や無頼不仁の輩は、編戸なら盗みを業とし官に当たれば贓賄を求めながら、元日の朝には天沢を期し、重陽の節には皇恩を待つ。その思惑どおりみな釈免されます。あるいは名が結審に垂んとし罪が断決されようとするとき、ひそかに賄賂を行って引き延ばしを図り、ついに寛宥に浴する。それで俗は頑悖が多く時に廉隅が稀となり、善をなす者は恩光に与らず、悪をなす者だけが僥倖を承ける。古語に「小人の幸いは君子の不幸」とはこれです。どうか陛下、今後は赦をいくらか節され、黎民に禁を知らせて姦宄を粛清されますよう。
- その二。海内の官僚で九品以上は毎年、赦に遭うたび必ず階と勲を賜ります。朝野の宴集や公私の集まりでは、緋の服が青衣より多く、象牙の板が木の笏より多い。みな栄は徳によらず、位は才によらぬ。何が美しく何が醜いか、何が良く何が悪いか分からなくなっております。どうか今後は私恩を加減され、善ある者はいよいよ忠勤を効し、才なき者もみな勉励を知るようになさいますよう。
- その三。陛下が朝に臨み極に践まれてから士を取ること広すぎ、六品以下の職事の清官はついに土芥のように扱われ砂礫に比べられます。もし沙汰を加えられねば、臣は皇風を穢すことを恐れます。
- その四。今の牧伯は交代が速すぎ、たちまち来てたちまち去り、蓬のように転がり萍のように流れる。すでに苟且の謀を懐いているのに、どうして循良の政をなす暇がありましょう。どうか今後、刺史は三年以上でなければ遷官されぬようにし、なお功過を明察してとりわけ賞罰を明らかになさいますよう、と。上疏に太后はかなり嘉した。
- このとき官爵は得やすいのに法網は厳峻だったので、人は競って進もうとしながら多く刑戮に陥った。劉知幾はそこで『思慎賦』を著して時を刺し志を見した。
- 春二月、僧の懐義はますます驕り恣になり、太后は憎んだ。明堂を焼いてから内心落ち着かず、言葉に不順が多かった。太后はひそかに宮人で力の強い者百余人を選んで備えた。壬子、瑤光殿の前の樹の下で捕らえ、建昌王の武攸寧に壮士を率いて殴り殺させ、屍を白馬寺に送って焼き、塔を造った。
- 甲子、太后が「慈氏越古」の号を去った。
- 夏四月、天枢が完成した。高さ百五尺、径十二尺、八面で各々径五尺。下は鉄の山で周囲百七十尺、銅で蟠竜と麒麟を作って絡ませ、上は騰雲で銅の盤を承け、径三丈、四頭の竜が人のように立って火珠を捧げ、高さ一丈。工人の毛婆羅が模型を造り、武三思が文を作って百官および四夷の酋長の名を刻み、太后が自らその榜に「大周万国頌徳天枢」と書いた。
- 秋九月甲寅、太后が南郊で天地を合祭し、号に「天冊金輪大聖皇帝」を加え、天下に赦して改元した。
万歳通天元年(696年)
- 春一月、長安の崇尊廟を太廟と改めた。
- 三月丁巳、新しい明堂が完成した。高さ二百九十四尺、方三百尺。規模はおおむね旧より小さい。上に金塗りの鉄の鳳を施し高さ二丈。後に大風で損なわれ、改めて銅の火珠として群竜に捧げさせ、「通天宮」と号した。天下に赦して万歳通天と改元した。
- 太后は徐有功が法を用いて公平だったことを思い、左台殿中侍御史に抜擢した。遠近で聞く者は互いに賀さぬ者がなかった。
- 鹿城主簿の宗城の潘好礼が論を著して徐有功を称え、道を踏み仁に依り、固く誠節を守り、貴賤生死によってその操履を易えぬと述べた。客との問答の体裁を取り、客が「徐公は今、誰と比べられるか」と問うと、主人は「四海は至って広く人物は至って多い。あるいは迹を匿し光を韜む者もあろうから、私は妄断せぬ。だが聞き見た限りではただ一人。古人の中に求めるほかない」と答えた。
- 客が「張釈之と比べてどうか」と問うと、主人は答えた。釈之の行ったことはきわめて易く、徐公の行うことはきわめて難しい。難易の間に優劣が現れる。張公は漢の文帝の時に遭い、天下は無事だった。高廟の玉環を盗んだ件や渭橋で馬が驚いた件のように、法を守るだけで済んだ。易くないか。徐公は革命の秋に遭い、新たな運に属した。唐朝の遺老はあるいは禍心を包蔵して人主に疑いを抱かせ、周興や来俊臣のごときは堯の代の四凶である。悪言を飾り立てて盛徳を誣う。それでも徐公は死を守って善道につき、深く明白にした。危うく囹圄に陥り、しばしば網羅にかかった。これはあなたも承知のこと。難くないか、と。
- 客が「司刑卿とすればその才を展べられよう」と言うと、主人は「あなたはただ徐公が法を用いて公平なのを見て司刑に置けると言うが、私はその人の胸中を見るに、何を容れられぬところがあろう。用いるとすれば、どんな事ができぬだろうか。どうして司刑だけであろう」と答えた。
神功元年(697年)――綦連耀の獄と来俊臣の誅殺
- 箕州刺史の劉思礼が術士の張憬蔵に人相を学んだ。張憬蔵は「思礼は箕州を経て太師に至る」と言った。劉思礼は太師は人臣の極貴で、佐命でなければ致し得ぬと考え、洛州録事参軍の綦連耀と謀反を謀った。
- ひそかに朝士を結び、相術に託して富貴を約し、その意が喜ぶのを待って「綦連耀に天命がある。公は必ずこれによって富貴を得る」と説いた。鳳閣舎人の王勮が天官侍郎の事を兼ねており、劉思礼を箕州刺史に用いた。
- 明堂尉の河南の吉頊がその謀を聞いて合宮尉の来俊臣に告げ、来俊臣に変を告げさせた。太后は河内王の武懿宗に取り調べさせた。武懿宗は劉思礼に広く朝士を引かせ、その死を免ずると約した。少しでも意に逆らった者はみな引かせた。
- そこで劉思礼は鳳閣侍郎・同平章事の李元素、夏官侍郎・同平章事の孫元亨、知天官侍郎事の石抱忠、劉奇、給事中の周譒、および王勮の兄の涇州刺史の勔、弟の監察御史の助ら合わせて三十六家を引いた。みな海内の名士である。楚毒を尽くしてその獄を成した。壬戌、みな族誅され、親旧で連坐して流竄された者は千余人。
- はじめ武懿宗は劉思礼を外に置いて諸人を誣引させ、諸人が誅されてから劉思礼を捕らえた。劉思礼は初めて悔いた。武懿宗は天授以来、太后がしばしば獄を取り調べさせ、人を誣い陥れることを喜び、時人は周興・来俊臣に次ぐ者と考えた。
- 来俊臣はその功を専らにしようとして改めて吉頊を織り上げて告げた。吉頊は変を告げて召見され、かろうじて免れた。来俊臣はこれによって再び用いられ、吉頊もこれによって進んだ。
- 来俊臣の党人が司刑府史の樊惎の謀反を織り上げて告げて誅した。樊惎の子が朝堂で冤を訴えたが、誰も取り上げなかった。そこで刀を取って自ら腹を割いた。秋官侍郎の上邽の劉如璿がこれを見てひそかに嘆いて泣いた。来俊臣は劉如璿が悪逆に党したと奏して獄に下し、絞刑に処したが、制で瀼州に流された。
- 尚乗奉御の張易之は張行成の族孫である。年少で姿容が美しく音律に善かった。太平公主が易之の弟の昌宗を推薦して禁中に侍らせ、昌宗がまた易之を推薦して兄弟ともに太后に幸せられた。常に朱と白粉を塗り錦繡を着た。
- 昌宗は累遷して散騎常侍、易之は司衛少卿となり、その母の韋氏と臧氏を大夫人に拝し、賞賜は数え切れなかった。なお鳳閣侍郎の李迥秀に勅して臧氏の私夫とさせた。李迥秀は李大亮の族孫である。武承嗣・三思・懿宗・綜・楚客・晋卿はみな易之の門に伺候し、争って鞭と轡を執り、易之を「五郎」、昌宗を「六郎」と呼んだ。
- 右司郎中の馮翊の喬知之に碧玉という美妾があり、喬知之はそのために結婚しなかった。武承嗣が諸姫に教えさせると称して借り、そのまま返さなかった。喬知之は「緑珠怨」の詩を作って寄せ、碧玉は井戸に身を投げて死んだ。武承嗣はその裙の帯から詩を得て激怒し、酷吏をそそのかして織り上げて告げさせ、族誅した。
- 司僕少卿の来俊臣は勢いを恃んで貪淫だった。士民の妻妾で美しい者があれば百方手を尽くして取った。あるいは人にその罪を織り上げて告げさせ、勅と偽ってその妻を取った。前後に織り上げて誅した人は数え切れず、宰相以下その姓名を記して取った。自ら「才は石勒に比べられる」と言った。
- 監察御史の李昭徳は日ごろ来俊臣を憎み、また秋官侍郎の皇甫文備を朝廷で辱めたことがあった。二人は共に李昭徳の謀反を誣告して獄に下した。
- 来俊臣は武氏の諸王および太平公主を織り上げて告げ、さらに皇嗣および廬陵王が南北の衙とともに謀反したと誣告し、これによって国権を盗もうとした。河東の人の衛遂忠が告げ、諸武と太平公主は恐れて共にその罪を暴き、獄に繋いだ。有司は極刑に処したが、太后は赦そうとして奏上を三日出さなかった。
- 王及善が「来俊臣は凶狡貪暴で国の元悪です。除かねば必ず朝廷を動揺させます」と言った。太后が苑中を遊んだとき吉頊が轡を執り、太后が外の事を問うと「外の人はただ来俊臣の奏が下されぬのを怪しんでおります」と答えた。太后が「来俊臣は国に功がある。朕はまさに考えているところだ」と言うと、吉頊は「于安遠が虺貞の謀反を告げ、果たして反しましたが、今は成州司馬にとどまっております。来俊臣は不逞の者を集めて良善を誣構し、贓賄は山のごとく、冤魂は路を塞ぐ。国の賊です。惜しむに足りましょうか」と言った。太后はそこでその奏を下した。
- 丁卯、李昭徳と来俊臣が同じく市に棄てられた。時人は李昭徳を痛まぬ者なく、来俊臣を快とせぬ者はなかった。仇家は競って来俊臣の肉を食い、たちまち尽きた。目を抉り面を剥ぎ、腹を裂いて心を出し、踏みつけて泥にした。
- 太后は天下がこれを憎むと知って制を下してその罪悪を数え、あわせて「赤族の誅を加えて蒼生の憤りを雪ぐべし。法に準じてその家を没収せよ」と述べた。士民はみな路上で賀し合い「今から眠る者は背を席に付けられる」と言った。
- 来俊臣は綦連耀を告げた功で奴婢十人を賞されたが、司農の婢を閲して適当な者がなく、西突厥可汗の斛瑟羅の家に歌舞に善い婢がいると聞いて賞としてもらおうと考え、人に斛瑟羅の謀反を誣告させた。諸酋長が闕に来て耳を切り面を割いて冤を訴える者は数千人。折しも来俊臣が誅されて免れた。
- 来俊臣が事を執っていたころ、選考の司は彼の依頼を受けて順序を越えて官を除くこと、銓考のたび数百人に及んだ。来俊臣が敗れると侍郎はみな自首した。太后が責めると「臣は陛下に負いました。死罪です。臣が国家の法を乱した罪は一身に止まりますが、来俊臣の言に違えばたちまち族滅されました」と答え、太后はそこで赦した。
- 上林令の侯敏は日ごろ来俊臣に諂って仕えた。妻の董氏が「来俊臣は国賊。日を指して敗れましょう。君は遠ざけられるべきです」と諫め、侯敏は従った。来俊臣は怒って武竜令として出し、侯敏が行くまいとすると、妻は「速やかに去って留まってはなりません」と言った。来俊臣が敗れてその党はみな嶺南に流されたが、侯敏だけが免れた。
- 太后は于安遠を召して尚食奉御とし、吉頊を右粛政中丞に抜擢した。
- 夏六月、検校夏官侍郎の宗楚客を同平章事とした。戊子、特進の武承嗣と春官尚書の武三思をともに同鳳閣鸞台三品とした。秋七月、武承嗣と武三思をともに政事から罷めた。
- 九月甲寅、太后が侍臣に「近ごろ周興と来俊臣が獄を按じて多く朝臣を引き、謀反と言った。国には常法がある。朕がどうして違えられよう。中ごろ、その不実を疑って近臣を獄に行かせて問わせたが、その自筆の供述を得ると、みな自ら認め服していたので疑わなかった。周興と来俊臣が死んでから、二度と謀反する者があると聞かぬ。とすれば、前に死んだ者に冤はなかったのか」と言った。
- 夏官侍郎の姚元崇が答えた。垂拱以来、謀反に坐して死んだ者はおおむねみな周興らが織り上げ、自ら功としたものです。陛下が近臣に問わせても、近臣も自ら身を保てず、どうして動揺できましょう。問われた者ももし翻せば惨毒に遭うことを恐れ、速やかに死ぬに如くはないと考えたのです。幸いに天が聖心を啓かれ、周興らは誅に服しました。臣は百口をもって陛下に保証します。今より内外の臣に二度と謀反する者はありません。もしわずかでも実状があれば、臣は知って告げなかった罪を受けます、と。
- 太后は喜んで「かつての宰相はみな順ってその事を成し、朕を淫刑の主に陥れた。卿の言うところを聞いて深く朕の心に合う」と言い、姚元崇に銭千緡を賜った。
- 当時、魏元忠のために冤を訴える者が多く、太后は改めて召して粛政中丞とした。魏元忠は前後で市に棄てられ流竄されること四度に及んだ。かつて宴に侍ったとき太后が「卿は往時しばしば謗りを負ったのはなぜか」と問うと、「臣は鹿のようなもの。羅織の徒が臣の肉を得て羹にしようとしたのです。臣にどこへ避けようがありましょう」と答えた。
聖暦元年(698年)――廬陵王の復立
- 武承嗣と武三思が太子となることを求め、しばしば人に太后を説かせて「古来、天子で異姓を嗣とした者はありません」と言わせた。太后の意はまだ決しなかった。
- 狄仁傑がしばしばくつろいで太后に言った。文皇帝は風に櫛り雨に沐い、自ら鋒鏑を冒して天下を定め、子孫に伝えられました。大帝は二子を陛下に託されました。陛下は今、これを他族に移そうとされる。天意ではないのではありませんか。しかも姑と甥、母と子ではどちらが親しいでしょう。陛下が子を立てられれば千秋万歳の後、太廟に配食されて継承は窮まりない。甥を立てれば、甥が天子となって姑を廟に祔したなど聞いたことがありません、と。
- 太后は「これは朕の家事である。卿は与り知るな」と言った。狄仁傑は「王者は四海を家とします。四海の内で誰が臣妾でありましょう。何が陛下の家事でないでしょう。君は元首、臣は股肱、義は一体と同じ。まして臣は宰相の位に備わる身。どうして与り知らずにおれましょう」と答えた。
- また太后に廬陵王を召し返すよう勧めた。王方慶と王及善もこれを勧め、太后の意はやや醒めた。
- 後日、太后がまた狄仁傑に「朕は大きな鸚鵡の両翼がともに折れる夢を見た。何であろう」と問うと、「武は陛下の姓、両翼は二子です。陛下が二子を起こされれば両翼は振るいましょう」と答えた。太后はこれによって武承嗣・三思を立てる意をなくした。
- 孫万栄が幽州を囲んだとき、朝廷に檄を回して「なぜ我らに廬陵王を返さぬのか」と言った。
- 吉頊は張易之・昌宗とともに控鶴監の供奉となり、易之兄弟と親しく狎れた。吉頊はくつろいで二人に説いた。公らの兄弟の貴寵はこのとおりですが、徳業で取ったものではありません。天下は目を側め歯を切ることが多い。天下に大功がなければ、どうやって身を全うされますか。ひそかに公らのために憂えます、と。
- 二人は恐れて涙を流して計を問うた。吉頊は「天下の士庶は唐の徳を忘れず、みな廬陵王を思っております。主上は年高く、大業は付す所が要ります。武氏の諸王は意中の人ではありません。公らはなぜくつろいで主上に廬陵王を立てて蒼生の望みを繋ぐよう勧められぬのですか。そうすれば禍を免れるだけでなく、長く富貴を保てましょう」と言った。
- 二人はそのとおりと思い、折を見てしばしば太后に言った。太后は謀が吉頊から出たと知って召して問い、吉頊は改めて太后に利害を詳しく陳べ、太后の意はそこで定まった。
- 三月己巳、廬陵王が病んでいると偽って職方員外郎の瑕丘の徐彦伯を遣わし、廬陵王とその妃・諸子を行在所に召して療養させた。春二月戊子、廬陵王が神都に至った。
- 秋八月、太子太保・魏宣王の武承嗣は太子になれなかったことを恨んで鬱々とし、戊戌、病んで薨じた。
- 九月甲子、夏官尚書の武攸寧を同鳳閣鸞台三品とした。
- 皇嗣が固く廬陵王に位を譲ることを請い、太后は許した。壬申、廬陵王哲を皇太子に立て、名を顕に戻し、天下に赦した。
- 甲戌、太子を河北道元帥として突厥を討たせた。藍田令の薛訥が太后に「太子は立てられましたが、外の議論はなお疑って定まりません。もしこの命が変わらなければ、醜虜は平らげるに足りません」と言い、太后は深くそのとおりと思った。王及善が太子を外朝に出して人心を慰めるよう請い、従った。
- 冬十月、都下に屯兵を制し、河内王の武懿宗と九江王の武攸帰に領させた。
聖暦二年(699年)
- 春正月壬戌、皇嗣を相王とし、太子右衛率を領させた。
- 甲子、控鶴監の丞・主簿などの官を置いた。おおむね寵臣だったが、かなり才能と文学の士も加えた。司衛卿の張易之を控鶴監、銀青光禄大夫の張昌宗、左台中丞の吉頊、殿中監の田帰道、夏官侍郎の李迥秀、鳳閣舎人の薛稷、正諫大夫の臨汾の員半千をみな控鶴監内供奉とした。薛稷は薛元超の従子である。
- 員半千は古にこの官はなく、しかも集まる者の多くが軽薄の士であるとして、上疏して廃止を請うた。これによって旨に逆らい、水部郎中に左遷された。
- 臘月戊子、左台中丞の吉頊を天官侍郎、右台中丞の魏元忠を鳳閣侍郎とし、ともに同平章事とした。
- 文昌左丞の宗楚客とその弟の司農卿の晋卿が贓賄一万余緡および邸宅の過度により、宗楚客は播州司馬に貶され、晋卿は峯州に流された。太平公主はその邸宅を見て「その居所を見れば、我らは虚しく生きているようなもの」と嘆じた。
- 辛亥、太子に武氏の姓を賜り、天下に赦した。太后の眉が重なって八の字を成し、百官がみな賀した。
- 春一月庚申、夏官尚書・同鳳閣鸞台三品の武攸寧を罷めて冬官尚書とした。
- 太后は年高く、身後に太子と諸武が相容れぬことを慮った。二月壬寅、太子・相王・太平公主と武攸暨らに誓文を作らせ、明堂で天地に告げ、鉄券に銘して史館に蔵させた。
- 秋七月、建安王の武攸宜に西京の留守を命じ、会稽王の武攸望に代えた。
- 内史の王及善は学術こそなかったが清正で奪いがたく、大臣の節があった。張易之兄弟が内宴に侍るたび人臣の礼を失っており、王及善はしばしば不可と奏した。太后は不快で「卿は年が高い。もう遊宴に侍らずともよい。ただ閤中を検校すればよい」と言った。王及善はそこで病と称して一月余り休暇を願ったが、太后は問わなかった。王及善は「中書令でありながら天子が一日も会わずにいられようか。事は知れたものだ」と嘆じ、上疏して骸骨を乞うたが、太后は許さなかった。
- 八月、武三思を内史とした。
- 冬十月、太子と相王の諸子が再び閤を出た。
- 太后は制を称して以来、多く武氏の諸王および駙馬都尉を成均祭酒とし、博士・助教も多くは儒士でなかった。また郊丘・明堂・拝洛・封嵩のたび弘文・国子の学生を斎郎に取り、それで選補されたので、学生は二度と学業を習わなくなり、二十年の間に学校はほとんど廃れた。しかも先に酷吏に誣い陥れられた者の親友は流離してまだ原宥を得ていなかった。
- 鳳閣舎人の韋嗣立が上疏して論じた。時俗は次第に儒学を軽んじ、先王の道は弛み廃れて講じられません。王公以下の子弟をみな国学に入れさせ、他の道での仕進を許されぬようになさいますよう。
- また揚州・豫州の乱以来、制獄は次第に繁くなり、酷吏が隙に乗じて専ら人を殺して進むことを求めました。幸いに陛下の聖明によって周興・丘神勣・王弘義・来俊臣が相次いで誅殛され、朝野は慶び泰らかとなり、再び陽和を見るがごとくです。狄仁傑や魏元忠のごとき、かつて取り調べを受けてみな自ら誣しました。陛下の明察でなければ、すでに塩漬けにされていたでしょう。今、陛下は彼らを昇して用い、みな良輔となりました。どうして前は非で後は是なのでしょう。まことに枉げ陥れられたか、真相が明らかにされたかの違いによるものです。
- 臣は、かつて冤を負って罪を得た者は甚だ多く、みな同様であることを恐れます。どうか陛下、天地の仁を弘め雷雨の施しを広め、垂拱以来、罪の軽重を問わずすべて昭洗し、死者は官爵を追復し、生者は郷里に帰ることを許されますよう。そうすれば天下はみな、昔の枉濫が陛下の意ではなくみな獄吏の辜であったと知り、幽明ともに歓び、和気に感通しましょう、と。太后は従えなかった。
久視元年(700年)
- 春正月戊寅、内史の武三思を罷めて特進とし、太子少保・天官侍郎・平章事の吉頊を安固尉に貶した。
- 太后は吉頊に幹略があるとして腹心を委ねていた。吉頊が武懿宗と趙州の功を太后の前で争ったとき、吉頊は魁偉で弁が立ち、武懿宗は背が低く猫背だった。吉頊は武懿宗を見下ろして声気が凌ぎ立った。太后はこれによって不快になり「吉頊は朕の前ですら我が諸武を卑しめる。まして他日、どうして頼れようか」と言った。
- 後日、吉頊が奏事して古今を援き引くと、太后は怒って言った。卿の言うことは朕は聞き飽きた。多言するな。太宗に師子驄という馬があり、肥えて逸り、調馭できる者がなかった。朕は宮女として側に侍り、太宗に「妾はこれを制せます。ただし三つの物が要ります。一に鉄の鞭、二に鉄の檛、三に匕首。鉄の鞭で打って服さねば檛でその首を打ち、なお服さねば匕首でその喉を断ちます」と申しました。太宗は朕の志を壮とされた。今日、卿ごときが朕の匕首を汚すに足りようか、と。吉頊は恐れおののいて汗を流し、拝伏して生を求めてようやく止んだ。
- 諸武は吉頊が太子に付くのを怨み、共にその弟の官を偽った事を暴き、これによって連坐して貶された。
- 辞去の日、召見されて涙を流して「臣は今、遠く闕庭を離れ永く再見の期がありません。どうか一言申し上げたい」と言った。太后が座を命じて問うと、吉頊は「水と土を合わせて泥にすれば争いがありますか」と言った。太后が「ない」と答えると、「半分を仏とし半分を天尊としたら争いがありますか」と言った。「争いがあろう」と答えた。
- 吉頊は頓首して「宗室と外戚が各々その分に当たれば天下は安らぎます。今、太子はすでに立てられたのに、外戚がなお王である。これは陛下が駆り立てて、いつか必ず争わせ、両者とも安らかでなくさせるものです」と言った。太后は「朕もそれは知っている。しかしすでにこうなった以上、どうしようもない」と言った。
- 臘月辛巳、旧皇太孫の重潤を邵王、その弟の重茂を北海王に立てた。
- 夏四月戊申、太后が三陽宮に行幸して避暑した。ある胡僧が車駕を招いて舎利の埋葬を観覧させようとし、太后は許した。狄仁傑が馬前に跪いて「仏は戎狄の神で、天下の主を屈するに足りません。あの胡僧は詭譎で、ただ万乗を招いて遠近の人を惑わそうとしているだけです。山路は険しく狭く侍衛を容れられません。万乗の臨むべき所ではありません」と言い、太后は中道で引き返して「わが直臣の気を成してやったのだ」と言った。
- 五月、太后が洪州の僧の胡超に長生の薬を合わせさせ、三年で完成した。費用は巨万。太后は服して病がやや癒え、癸丑、天下に赦して久視と改元し、「天冊金輪大聖」の号を去った。
- 六月、控鶴を奉宸府と改め、張易之を奉宸令とした。太后は内殿で私宴を催すたび諸武と張易之および弟の秘書監の昌宗を引いて飲み博打を打ち戯れ嘲った。太后はその跡を掩おうとして、易之・昌宗に文学の士の李嶠らとともに内殿で『三教珠英』を修めさせた。
- 武三思が「昌宗は王子晋の後身です」と奏し、太后は昌宗に羽衣を着せて笙を吹かせ木の鶴に乗って庭に立たせ、文士はみな詩を賦して美とした。
- 太后はまた美少年を多く選んで奉宸内供奉とした。右補闕の朱敬則が諫めて「陛下の内寵は易之と昌宗で十分です。近ごろ左監門衛長史の侯祥らが自ら売り込んで醜く慢りがましく恥じることを知らず、奉宸内供奉になりたがっていると聞きます。無礼無儀の噂が朝廷に溢れております。臣の職は諫諍にあり、奏さぬわけにいきません」と言った。太后は労って「卿の直言がなければ朕はこれを知らなかった」と言い、綵百段を賜った。
- 易之と昌宗は競って豪奢を張り合った。弟の昌儀が洛陽令となり、頼まれれば従わぬことはなかった。あるとき早朝、選人で薛姓の者が金五十両と願書を携えてその馬を遮って賂した。昌儀は金を受け、朝堂で願書を天官侍郎の張錫に渡した。数日後、張錫が願書を紛失して昌儀に問うと、昌儀は罵って「使えぬ奴だ。私も覚えておらぬ。ただ薛姓の者ならみな与えよ」と言った。張錫は恐れて退き、銓考中の薛姓六十余人をみな留めて官に注した。張錫は張文瓘の兄の子である。
- 太后は内史・梁文恵公の狄仁傑を信重すること群臣の及ぶところではなく、常に「国老」と呼んで名を呼ばなかった。狄仁傑が薨じると、太后は泣いて「朝堂が空になった」と言った。これより朝廷に大事があって衆が決しかねるたび、太后は「天が我が国老を奪うのが、何と早すぎたことか」と嘆じた。
- 太后がかつて狄仁傑に「朕は一人の佳士を得て用いたい。誰がよいか」と問うた。狄仁傑が「陛下が何にお用いになるか分かりません」と言うと、太后は「将相に用いたい」と言った。狄仁傑は「文学に富むなら蘇味道と李嶠がまさにその選です。必ず卓犖の奇才をお取りになるなら荆州長史の張柬之がおります。その人は老いておりますが宰相の才です」と答えた。
- 太后は張柬之を洛州司馬に抜擢した。数日後にまた問うと、狄仁傑は「先に薦めた張柬之がまだ用いられておりません」と答えた。太后が「もう遷したではないか」と言うと、「臣が薦めたのは宰相たり得る者で、司馬ではありません」と答えた。そこで秋官侍郎に遷し、久しくしてついに宰相に用いた。
- 狄仁傑はまたかつて夏官侍郎の姚元崇、監察御史の曲阿の桓彦範、泰州刺史の敬暉ら数十人を薦め、みな名臣となった。ある者が狄仁傑に「天下の桃李はことごとく公の門にありますな」と言うと、狄仁傑は「賢を薦めるのは国のためで、私のためではない」と言った。
- 冬十一月丁巳、納言の韋巨源を罷め、文昌右丞の韋安石を鸞台侍郎・同平章事とした。韋安石は韋津の孫である。
- 当時、武三思と張易之兄弟が事を執り、韋安石はしばしば面と向かって退けた。かつて禁中の宴に侍ったとき、張易之が蜀の商人の宋霸子ら数人を座に引いて同席で博打を打った。韋安石は跪いて「商賈は賤しい類です。この会に加わるべきではありません」と奏し、左右を顧みて出させた。座中はみな色を失った。太后はその言が直であるとして労い励まし、同列はみな歎服した。
長安元年(701年)
- 秋八月丙寅、武邑の人の蘇安恒が上疏して論じた。陛下は先聖の顧託を欽み、嗣子の推譲を受けて天を敬い人に順われること二十年になります。帝舜が裳を褰げ周公が政を返した故事をお聞きにならぬのですか。舜の禹に対する関係は族親に仕えたにすぎず、周公と成王は叔父と甥。族親は子の愛と比べてどうでしょう。叔父は母の恩と比べてどうでしょう。
- 今、太子は孝敬を崇び、春秋すでに壮んです。宸極に統臨させれば陛下ご自身と何が違いましょう。陛下は年も徳も尊く、宝位に倦まれ、機務は繁重で心神を浩蕩とさせております。なぜ東宮に禅位して聖体を怡ばせられぬのですか。
- 昔から天下を治める者に、二つの姓がともに王となった例を見ません。当今、梁王・定王・河内王・建昌王ら諸王は陛下の蔭を承けてみな王に封ぜられました。臣は千秋万歳の後、事として便でないと考えます。臣は公侯に黜けて閑職に任じられることを請います。
- 臣はまた陛下に二十余人の孫があると聞きますが、今、尺寸の封もありません。これは長久の計ではありません。臣は土を分けて王とし、師傅を択び立てて孝敬の道を教え、周室を夾輔し皇家を屏藩とされることを請います。それでこそ美となりましょう、と。上疏に太后は召見して食を賜り、慰め諭して帰らせた。
- 太后は年高く、政事の多くを張易之兄弟に委ねた。邵王重潤とその妹の永泰郡主、郡主の婿の魏王武延基がひそかにその事を議した。張易之が太后に訴え、九月壬申、太后はみな自殺を強いた。武延基は武承嗣の子である。
長安二年(702年)
- 夏五月壬申、蘇安恒がまた上疏して論じた。臣は、天下は神堯(高祖)・文武(太宗)の天下と聞きます。陛下は正統に居られるとはいえ、実は唐氏の旧基によるものです。当今、太子は呼び戻され、年も徳もともに盛んです。陛下がその宝位を貪って母子の深恩を忘れられれば、どんな聖顔で唐家の宗廟にまみえ、どんな誥命で大帝の墳陵に謁されるのですか。陛下はなぜ日夜、憂いを積み、鐘が鳴り漏が尽きようとしていることをご存じないのですか。
- 臣は愚かながら、天意も人事も李家に還り帰すると考えます。陛下は天位に安んじておられますが、物が極まれば反り、器が満ちれば傾くことをご存じない。臣がどうして一朝の命を惜しんで万乗の国を安んぜずにおれましょう、と。太后もこれを罪としなかった。
- 司僕卿の張昌宗兄弟の貴盛は勢いが朝野を傾けた。八月戊午、太子・相王・太平公主が上表して昌宗を王に封ずることを請い、制で許さなかった。壬戌、また請い、そこで鄴国公の爵を賜った。
- 九月庚辰、太子賓客の武三思を大谷道大総管、洛川長史の敬暉を副とした。辛巳、また相王旦を并州道元帥とし、武三思と武攸宜・魏元忠を副、姚元崇を長史、司礼少卿の鄭杲を司馬としたが、ついに出動しなかった。
- 冬十一月辛未、監察御史の魏靖が上疏して「陛下はすでに来俊臣の姦を知られて極法に処されました。どうか来俊臣らが推した大獄を詳しく覆審してその枉濫を伸べられますよう」と論じた。太后はそこで監察御史の蘇頲に来俊臣らの旧獄を按覆させ、これによって雪がれ免ぜられた者は甚だ多かった。蘇頲は蘇夔の曽孫である。
長安三年(703年)――魏元忠の獄
- はじめ左台大夫・同鳳閣鸞台三品の魏元忠が洛州長史だったとき、洛陽令の張昌儀は諸兄の勢いを恃んで、当直のたび長史の役所に登った。魏元忠は着任してこれを叱り降ろした。また張易之の奴が都の市で暴れ乱れたので、魏元忠は杖殺した。
- 宰相となってから、太后が易之の弟の岐州刺史の昌期を雍州長史にしようとし、仗に対して宰相に「誰が雍州にふさわしいか」と問うた。魏元忠は「今の朝臣で薛季昶に易えるべき者はありません」と答えた。太后が「季昶は久しく京府に任じている。朕は別の官を除きたい。昌期はどうか」と言うと、諸相はみな「陛下は人を得られました」と言った。魏元忠だけが「昌期は堪えません」と言った。
- 太后が理由を問うと、魏元忠は「昌期は年少で吏事に習熟しておりません。先に岐州にいたとき戸口が逃亡してほぼ尽きました。雍州は帝京で事務が繁劇です。季昶が強幹で事に習熟しているのに及びません」と答え、太后は黙って止めた。
- 魏元忠はまたかつて面と向かって「臣は先帝以来、恩渥を蒙り、今、宰相の欠を承けながら、忠を尽くし節に死んで小人を側に置かせているのは臣の罪です」と奏した。太后は不快で、これによって諸張は深く怨んだ。
- 司礼丞の高戩は太平公主の愛する者だった。折しも太后が不予となり、張昌宗は太后が一朝崩御すれば魏元忠に誅されると恐れ、魏元忠が高戩と私かに「太后は老いた。太子を挟むほうが長久だ」と議したと讒言した。
- 太后は怒って魏元忠と高戩を獄に下し、張昌宗と朝廷で対弁させようとした。張昌宗はひそかに鳳閣舎人の張説を引き、美官で賂して魏元忠のことを証言させようとし、張説は承諾した。
- 翌日、太后は太子・相王および諸宰相を召し、魏元忠と張昌宗に対決させたが、往復して決しなかった。張昌宗は「張説が元忠の言を聞いております。召して問われますよう」と言い、太后は張説を召した。
- 張説が入ろうとしたとき、鳳閣舎人の南和の宋璟が「名義は至って重く、鬼神は欺きがたい。邪に党して正を陥れ、苟くも免れることを求めてはならぬ。もし罪を得て流竄されても、その栄誉は大きい。もし不測のことがあれば、私が閤を叩いて力争し、君と死をともにする。努めてこれをなせ。万代の瞻仰はこの一挙にある」と言った。
- 殿中侍御史の済源の張廷珪は「朝に道を聞けば夕に死すとも可なり」と言い、左史の劉知幾は「青史を汚して子孫の累とするな」と言った。
- 入って太后が問うと張説はまだ答えなかった。魏元忠が恐れて「張説は昌宗とともに魏元忠を織り上げるつもりか」と言った。張説は叱って「元忠は宰相である。どうして横町の小人の言を効すのか」と言った。張昌宗が傍らから迫って早く言えとせき立てた。
- 張説は言った。陛下がご覧のとおり、陛下の御前ですら臣をこう迫ります。まして外においてをや。臣は今、広い朝廷に対して実をもって答えぬわけにいきません。臣は実に元忠がそんなことを言うのを聞いておりません。ただ昌宗が臣に迫って誣証させようとしただけです、と。
- 易之と昌宗はたちまち「張説は魏元忠とともに謀反しております」と叫んだ。太后がその状を問うと、「張説はかつて元忠を伊尹・周公に喩えました。伊尹は太甲を放ち、周公は王位を摂しました。謀反しようというのでなくて何でしょう」と答えた。
- 張説は言った。易之兄弟は小人です。ただ伊尹・周公の語を聞いただけで、伊尹・周公の道を知りません。先ごろ元忠が初めて紫を着たとき、臣は郎官として賀しに行きました。元忠は客に「功なくして寵を受け、恥じ恐れに堪えぬ」と言い、臣は実に「明公は伊尹・周公の任にあられる。三品に何を愧じられよう」と申しました。あの伊尹と周公はみな臣として至忠、古今の慕い仰ぐところです。陛下が宰相を用いるのに、伊尹・周公に学ばせずして誰に学ばせようとされるのですか。しかも臣がどうして、今日、昌宗に付けばたちどころに三公の位を取り、元忠に付けばたちどころに族滅を招くことを知らぬでしょう。ただ臣は元忠の冤魂を畏れ、あえて誣わぬだけです、と。
- 太后は「張説は反覆する小人である。あわせて繋いで治めよ」と言った。後日また引いて問うたが、張説の言うところは前と同じだった。太后は怒って宰相と河内王の武懿宗に合同で取り調べさせたが、張説の執るところは初めのとおりだった。
- 朱敬則が抗疏して弁護し「元忠は日ごろ忠正と称せられ、張説の坐したところには名目がありません。もし罪に当てられれば天下の望みを失います」と言った。
- 蘇安恒も上疏して論じた。陛下が革命された初め、人は諫めを納れる主と思いました。晩年以来、人は佞を受ける主と思っております。元忠が獄に下ってから里巷は騒然とし、みな陛下が姦宄を委信して賢良を斥け逐われると思っております。忠臣烈士はみな私室で腿を撫でて憤り、公朝では口を閉ざす。易之らの意に逆らって、いたずらに死を取って益がないことを畏れるからです。
- 今、賦役は煩重で百姓は彫弊し、加えて讒慝が日々恣にされ刑賞は中を失う。臣は人心が安からず別に他の変が生じ、朱雀門の内で鋒を争い、大明殿の前で鼎を問うことを恐れます。陛下は何をもって謝し、何をもって禦がれるのですか、と。
- 易之らはその疏を見て激怒し殺そうとしたが、朱敬則および鳳閣舎人の桓彦範、著作郎の陸沢の魏知古が保ち救って免れた。
- 九月丁酉、魏元忠を高要尉に貶し、高戩と張説はみな嶺表に流した。
- 魏元忠は辞去の日、太后に「臣は老いました。今、嶺南に向かえば十に九は死にましょう。陛下はいつか必ず臣を思われる時があります」と言った。太后が理由を問うと、易之と昌宗がともに側に侍していたので、魏元忠は指して「この二人の小僧が、ついに乱の階となりましょう」と言った。易之らは殿を降りて胸を叩き身を投げて冤を訴え、太后は「元忠よ、去るがよい」と言った。
- 殿中侍御史の景城の王晙がまた奏して魏元忠を弁護した。宋璟が「魏公は幸いにすでに全うされた。今、君がまた威怒を冒せば、狼狽せずにおれようか」と言うと、王晙は「魏公は忠によって罪を得ました。私は義に激せられております。顛沛しても恨みはありません」と言った。宋璟は「私は魏公の枉げられたのを申べられず、深く朝廷に負い目がある」と嘆じた。
- 太子僕の崔貞慎ら八人が郊外で魏元忠を送別した。張易之は告密人の柴明という者の状を偽造し、崔貞慎らが魏元忠と謀反したと称した。
- 太后は監察御史の丹徒の馬懐素に取り調べさせ、「この事はみな事実である。ざっと問うて速やかに報告せよ」と言った。ほどなく中使が四度も督促し「謀反の状は明白だ。なぜこう滞るのか」と言った。馬懐素が柴明との対質を請うと、太后は「私も柴明の居所は知らぬ。ただ状に拠って取り調べよ。告げた者を用いる必要はない」と言った。馬懐素は実に拠って報告した。
- 太后は怒って「卿は謀反する者を放とうというのか」と言った。馬懐素は答えた。臣はあえて謀反する者を放ちません。元忠は宰相として謫官となり、貞慎らは親故として見送っただけです。もしこれを謀反と誣えるのは、臣は実にできません。昔、欒布は彭越の頭の下で奏事しましたが、漢の高祖は罪としませんでした。まして元忠の刑は彭越には及びません。それなのに陛下はその見送った者を誅されようとするのですか。しかも陛下は生殺の柄を操っておられます。罪を加えようとされるなら聖慮でお決めになればよい。もし臣に取り調べを命じられるなら、臣は実をもって報告せぬわけにいきません、と。
- 太后が「お前は全く罪しないつもりか」と言うと、「臣は智識が愚かで浅く、実にその罪が見えません」と答えた。太后の意は解け、崔貞慎らはこれによって免れた。
- 太后がかつて朝廷の貴顕を宴集させたとき、易之兄弟はみな宋璟の上に位した。張易之は日ごろ宋璟を憚っており、その意を喜ばせようとして席を空けて揖し「公はまさに今、第一の人です。どうして下座におられるのですか」と言った。宋璟は「才は劣り位は卑しい。張卿がどうして第一とされるのか」と言った。
- 天官侍郎の鄭杲が宋璟に「中丞ともあろう方が、どうして五郎に『卿』などと呼ばれるのですか」と言うと、宋璟は「官で言えばまさに卿と称すべきだ。足下は張卿の家奴でもあるまいに、何の『郎』か」と答えた。座中はみな悚然とした。
- 当時、武三思以下はみな易之兄弟に謹んで仕えたが、宋璟だけは礼をしなかった。諸張は怒りを積んで常に中傷しようとしたが、太后がこれを知っていたので免れた。
- 丁未、左武衛大将軍の武攸宜を西京留守に充てた。
長安四年(704年)
- 春正月丁未、三陽宮を毀ち、その材で興泰宮を万安山に作った。二宮はいずれも武三思の建議で、太后に毎年行幸することを請うたもの。費用は甚だ広く百姓は苦しんだ。
- 左拾遺の盧蔵用が上疏して「側近の多くは意に順うことを忠とし、朝廷の官僚はみな犯し逆らうことを戒めとしております。そのため陛下は百姓が生業を失っていることをご存じない。陛下の仁を傷つけます。陛下がまことに人を労することを理由に制を発して罷められれば、天下はみな陛下が己を苦しめて人を愛されると知りましょう」と論じたが従われなかった。盧蔵用は盧承慶の弟の孫である。
- 夏四月、太后が改めて天下の僧尼に課税して白司馬阪に大像を作らせ、春官尚書の武攸寧に検校させた。費用は巨億に上った。
- 李嶠が上疏して「天下の編戸で貧弱な者は多くおります。造像の銭は現に十七万余緡あります。もし人に一千ずつ施せば十七万余戸を済えます。飢寒の弊を拯い労役の勤めを省くのは、諸仏の慈悲の心に順い、聖君の亭育の意に浴するもの。人も神も喜び、功徳は窮まりありません。後になって因縁を作るより、現在の果報のほうがどれほどよいでしょう」と論じた。
- 監察御史の張廷珪も上疏して諫めた。臣が時政をもって論ずれば、まず辺境を固め府庫を蓄え人力を養うべきです。釈教をもって論ずれば、苦厄を救い諸相を滅し無為を崇めるべきです。どうか陛下、臣の愚を察し、仏の意を行われ、理を上とし、人によって言を廃されませぬよう、と。太后はそのために役を罷め、なお張廷珪を召見して深く賞し慰めた。
- 秋七月丙戌、神都副留守の楊再思を内史とした。楊再思は宰相として専ら諂媚で容れられることを事とした。
- 司礼少卿の張同休は易之の兄である。かつて公卿を招いて宴集し、酒が酣になって楊再思を戯れて「楊内史の顔は高麗人に似ている」と言った。楊再思は喜んで紙を剪って頭巾に貼り、紫の袍を裏返しに着て高麗の舞をし、一座は大笑した。時にある者が張昌宗の美しさを「六郎の顔は蓮の花のようだ」と褒めた。楊再思だけは「そうではない」と言った。張昌宗が理由を問うと、楊再思は「蓮の花が六郎に似ているのです」と答えた。
- 乙未、司礼少卿の張同休、汴州刺史の張昌期、尚方少監の張昌儀がみな贓罪で獄に下され、左右台に合同で取り調べさせた。丙申、張易之と昌宗も威福を作したとして同じく取り調べるよう勅した。
- 辛丑、司刑正の賈敬言が「張昌宗が人の田を強奪しました。銅二十斤を徴すべきです」と奏し、制で許した。
- 乙巳、御史大夫の李承嘉と中丞の桓彦範が「張同休兄弟の贓は合わせて四千余緡。張昌宗は法として免官に当たります」と奏した。張昌宗は「臣は国に功があります。犯したところは免官に至りません」と奏した。太后が諸宰相に「昌宗に功があるか」と問うと、楊再思は「昌宗は神丹を合わせ、聖躬が服して験がありました。これに勝る功はありません」と答え、太后は喜んで昌宗の罪を赦して官を復した。
- 左補闕の戴令言が『両足狐賦』を作って楊再思を譏り、楊再思は戴令言を長社令として出した。
- 癸丑、張同休を岐山丞、張昌儀を博望丞に貶した。鸞台侍郎・知納言事・同鳳閣鸞台三品の韋安石が張易之らの罪を挙げて奏し、勅で韋安石および右庶子・同鳳閣鸞台三品の唐休璟に取り調べさせたが、終わらぬうちに事情が変わった。八月甲寅、韋安石に検校揚州長史を兼ねさせ、庚申、唐休璟に幽・営都督・安東都護を兼ねさせた。唐休璟は出発に際してひそかに太子に「二張は寵を恃んで臣たらず、必ず乱をなします。殿下は備えられますよう」と言った。
- 相王府長史兼知夏官尚書事・同鳳閣鸞台三品の姚元崇が「臣は相王にお仕えしております。兵馬を典るべきではありません。臣は死を惜しみませんが、王に益なきことを恐れます」と上言した。辛酉、春官尚書に改め、その他は元のままとした。姚元崇は字を元之といい、字で通っていた。
- 九月、太后が外司で宰相たり得る者を挙げさせた。姚元崇は「張柬之は沈厚で謀があり大事を断じられます。しかもその人はすでに老いております。どうか陛下、急ぎお用いください」と答えた。冬十月甲戌、秋官侍郎の張柬之を同平章事とした。時に年はほぼ八十であった。
- 太后が病んで長生院にあり、宰相は数か月会えず、ただ張易之と昌宗が側に侍していた。病がやや癒えたころ、崔玄暐が「皇太子と相王は仁明孝友で湯薬に侍るに足ります。宮禁の事は重い。どうか異姓を出入りさせられませぬよう」と奏した。太后は「卿の厚意を徳とする」と言った。
- 易之と昌宗は太后の病篤きを見て禍が己に及ぶことを恐れ、党援を引き入れてひそかに備えた。しばしば人が飛書したり大路に「易之兄弟が謀反する」と貼り出したりしたが、太后はみな問わなかった。
- 十二月辛未、許州の人の楊元嗣が、昌宗がかつて術士の李弘泰を召して人相を占わせ、李弘泰が「昌宗には天子の相がある。定州に仏寺を造れば天下の心が帰する」と言ったと告げた。
- 太后は韋承慶および司刑卿の崔神慶、御史中丞の宋璟に取り調べさせた。崔神慶は崔神基の弟である。韋承慶と崔神慶は「昌宗は李弘泰の語をすでに奏聞したと申しております。法に準じて首謀は原すべきです。李弘泰の妖言は捕らえて法を行われますよう」と奏した。
- 宋璟は大理丞の封全禎とともに奏した。昌宗の寵栄はこのとおりでありながら、また術士を召して占わせた。志は何を求めるのでしょう。李弘泰は「筮して純乾を得た。天子の卦だ」と称しました。昌宗がもし李弘泰を妖妄と思ったなら、なぜただちに有司に送らなかったのか。奏聞したと言っても、結局は禍心を包蔵しております。法として斬に処し家を破るべきです。獄に付して罪を窮められますよう、と。
- 太后は久しく応じなかった。宋璟はさらに「ただちに繋がねば、衆心を揺り動かすことを恐れます」と言った。太后は「卿はしばらく推問を停めよ。改めて文状を検討する」と言った。
- 宋璟が退くと、左拾遺の江都の李邕が進んで「先ほど宋璟の奏したところを見るに、志は社稷を安んずるにあり、身のための謀ではありません。どうか陛下、その奏をお許しください」と言ったが、太后は聴かなかった。
- まもなく宋璟に揚州の推按を勅し、また幽州都督の屈突仲翔の贓汚を按ずるよう勅し、また李嶠を副けて隴・蜀を安撫するよう勅した。宋璟はみな行こうとせず「故事では州県の官に罪があれば、位が高ければ侍御史、低ければ監察御史が按じます。中丞は軍国の大事でなければ出使すべきではありません。今、隴・蜀に変はありません。陛下が臣を外に遣わされる理由が分かりません。臣はみな制を奉じられません」と奏した。
- 司刑少卿の桓彦範が上疏して論じた。昌宗は功なくして寵を蒙り、禍心を包蔵して自ら咎を招きました。これは皇天が怒りを降されたもの。陛下が誅を加えるに忍びなければ天に違って不祥です。しかも昌宗はすでに奏したと言うなら、さらに李弘泰と往来して福を求め災いを穣わせるべきではありません。とすれば初めから悔い改める心がない。奏したのは、事が発覚すれば「先に奏し陳べた」と言い、発覚しなければ時を待って逆をなすためです。これこそ姦臣の詭計です。これを捨てられるなら、誰を刑せましょう。まして事はすでに二度発しました。陛下はみな釈して問われぬ。昌宗にいっそう計を得たと自負させ、天下もまた「天命によって死なぬ」と思うことになります。これこそ陛下がその乱を養成されるものです。もし逆臣が誅されねば社稷は亡びます。どうか鸞台・鳳閣・三司に付してその罪を糾明されますよう、と。上疏は返答されなかった。
- 崔玄暐もしばしばこれを言い、太后は法司に罪を議させた。崔玄暐の弟の司刑少卿の崔昇は大辟に処した。
- 宋璟がまた昌宗を獄に下すよう奏した。太后が「昌宗はすでに自ら奏聞した」と言うと、「昌宗は飛書に迫られ、窮して自ら陳べたのです。勢いとしてやむを得なかっただけ。しかも謀反大逆は自首で免れる余地がありません。昌宗が大刑に服さねば国法を何に用いましょう」と答えた。太后が温かい言葉で解こうとしても、宋璟の声色はいっそう厳しくなり「昌宗は分外の恩を承けております。臣は言えば禍が従うと知っておりますが、義が心に激しております。死んでも恨みません」と言った。
- 太后は不快になった。楊再思が旨に逆らうことを恐れ、ただちに勅を宣して退出させようとした。宋璟は「聖主がここにおられる。宰相が擅に勅命を宣する必要はない」と言った。太后はそこでその奏を許し、昌宗を台に赴かせた。宋璟が庭に立って取り調べたが、終わらぬうちに太后が中使を遣わして昌宗を召し、特に勅で赦した。宋璟は「先にこの小僧の脳を打ち割らなかった。この恨みを負うことになった」と嘆じた。
- 太后はそこで昌宗を宋璟のもとに謝りに行かせたが、宋璟は拒んで会わなかった。
- 左台中丞の桓彦範と右台中丞の東光の袁恕己がともに詹事司直の陽嶠を御史に薦めた。楊再思が「陽嶠は弾劾の任を楽しみません。どうしましょう」と言うと、桓彦範は「官のために人を択ぶのです。どうしてその望むところを待つ必要がありましょう。望まぬ者こそとりわけ与えるべきです。それによって進みにくい風を長じ、躁がしく求める路を抑えるのです」と言い、右台侍御史に抜擢された。陽嶠は陽休之の玄孫である。
- これに先立ち、李嶠と崔玄暐が「かつて革命の時に当たり、人に逆節が多かったため、刻薄の吏が酷法を恣にしました。周興らが弾劾して家を破った者はみな雪ぎ免ずることを請います」と奏し、司刑少卿の桓彦範もまた奏し陳べ、表疏は前後十度に上った。太后はそこで従った。
神龍元年(705年)――五王のクーデタと中宗の復位
- 春正月、太后が病んで迎仙院にあり、癸卯以来、宰相は月余り会えなかった。ただ張易之と昌宗が側に侍していた。
- 張柬之と崔玄暐が中台右丞の敬暉、司刑少卿の桓彦範、相王府司馬の袁恕己と誅殺を謀った。張柬之は右羽林衛大将軍の李多祚に「将軍が今日の富貴を得たのは誰のおかげか」と言った。李多祚が涙を流して「大帝(高宗)のおかげです」と答えると、張柬之は「今、大帝の子が二人の小僧に危うくされている。将軍は大帝の徳に報いようと思われぬか」と言った。李多祚は「国家に利があれば、公の処置に唯々従います。身も家族も顧みません」と言い、天地に指して誓い、そこで謀に加わった。
- これに先立ち、張柬之は荆府長史だったころ楊元琰と代わり、ともに舟に乗って中流で武后の革命の事を語り、楊元琰は慷慨して匡復の志があった。宰相となって楊元琰を右羽林将軍に引き、「君は江中の話を覚えているか。今日の事は空言ではない」と言った。
- 張柬之はまた桓彦範・敬暉および右散騎侍郎の李湛をみな左右羽林将軍として禁兵を委ね、なお李多祚・李湛および内直郎・駙馬都尉の安陽の王同皎に共に謀を定めさせた。
- 姚元之が霊武から来ると、張柬之と桓彦範は喜んで「大事は済った」と言い、そのまま謀に加えた。桓彦範は母を訪ね、母は「忠と孝は両立できぬ。まず国のことを済ませよ。私を顧みるな」と言った。
- 癸卯、桓彦範と敬暉は太子に会って計を定めた。李多祚・李湛および内直郎の王同皎が東宮に太子を迎えに行った。太子は疑って出なかった。王同皎が「先帝は神器を殿下に伝えられたのに、横死されて久しく人神の憤りは積もっております。今、北門と南牙の執干戈の士がともに戮力して凶豎を誅し、李氏を復そうとしております。どうか殿下、玄武門に至って衆望に副われますよう」と言った。
- 太子は「凶豎はまことに誅すべきだ。しかし天子の玉体が不予である。驚かせぬわけにはいくまい。諸公はしばらく後日を待ってくれ」と言った。李湛は「諸将相は家族を顧みず社稷のために身を殉じております。殿下はなぜ彼らを鼎鑊に赴かせようとされるのですか。どうか自ら出て止められますよう」と言った。太子はそこで出た。王同皎は太子を抱いて馬に乗せ、従って玄武門に至り、羽林の兵で門を斬り破って入った。
- 太后は長生殿にあり、張柬之らは兵を率いて進んだ。易之と昌宗は廡下で捕らえて斬り、進んで太后の寝所を囲んだ。太后は驚き起きて「乱をなすのは誰か」と問うた。「易之と昌宗が謀反したので、臣らは太子の令を奉じて誅しました。事が漏れることを恐れ、事前に奏聞できませんでした。宮禁で兵を挙げ刃を露わにした罪、死を冒して謝します」と答えた。
- 太后は太子を見て「お前だったのか。小僧どもはすでに誅された。東宮に帰るがよい」と言った。桓彦範が進んで「太子はどうして帰れましょう。昔、天皇は愛子を殿下に託されました。今、年歯すでに長じ、久しく東宮におられます。天意と人心は久しく李氏を思っております。群臣は太宗と天皇の徳を忘れず、ゆえに太子を奉じて賊臣を誅しました。どうか陛下、位を太子に伝え、上は天心に順い下は民望に副われますよう」と言った。
- 太后は李湛を見て「お前も易之を誅した将士の一人か。私はお前ら父子を薄く待遇しなかったのに、こんなことをするのか」と言った。李湛は恥じて答えられなかった。また崔玄暐に「他の者はみな人に推薦されたが、卿は朕が自ら抜擢した。卿もここにいるのか」と言った。崔玄暐は「これこそ陛下の大徳に報いる所以です」と答えた。
- 張昌期・張同休・張昌儀を捕らえてみな斬り、易之・昌宗とともに天津橋の南に梟首した。
- 甲辰、制で太子に国政を監させ、天下に赦した。乙巳、太后が位を太子に伝えた。丙午、中宗が即位して天下に赦した。ただ張易之の党だけは赦の限りとせず、韋后の父の韋玄貞を追贈して上洛王とした。
- 丁未、太后を上陽宮に移し、李湛に宿衛させた。戊申、皇帝が上陽宮で尊号を奉り、則天大聖皇帝と称した。
- 二月甲寅、復び国号を唐とした。郊廟・社稷・陵寝・百官・旗幟・服色・文字はみな永淳以前に戻した。神都を東都に戻し、北都を并州大都督府に戻し、老君の玄元皇帝の号を戻した。
- 乙卯、韋氏を皇后とし、后の父を追贈して上洛郡王とした。左拾遺の桓彦範が上表して、后妃は政に与らぬこと、外戚を封王すべきでないことを論じたが、聴かれなかった。
- 張柬之を天官尚書・同鳳閣鸞台三品・漢陽郡公、崔玄暐を内史・博陵郡公、袁恕己を鳳閣侍郎・同平章事・南陽郡公、敬暉と桓彦範をみな納言とし、敬暉を平陽郡公、桓彦範を扶陽郡公とした。李多祚を遼陽郡王、王同皎を琅邪郡公、李湛を趙国公とし、楊元琰らもみな爵賞を加えた。
- 丁巳、相王旦に安国相王を加えて太尉・同鳳閣鸞台三品とし、太平公主に鎮国太平公主の号を加えた。相王は固辞して太尉と政事を受けなかった。
- 甲子、皇太子の重俊を衛王、その弟の重茂を温王とした。李氏の宗室で武后に殺された者はみな官爵を追復し、その子孫を仕えさせた。
- 丙寅、天下に大赦し、酷吏に構陥された者はことごとく雪ぎ免じた。
- 武氏の諸王を降して公とし、武三思を徳静王から司空・同中書門下三品とした。しかし中宗は武三思の旧恩を思って厚遇した。
- 夏四月、武三思が上官婉児を通じて韋后と私通した。上官婉児は上官儀の孫で、儀が誅されたとき掖庭に没入されたが、聡明で文に善く吏事に習熟し、則天が愛して用いた。中宗が即位すると婕妤とされ、その信任を専らにした。婉児は武三思を韋后に薦め、韋后がこれを引いて禁中に入れた。上は武三思とともに双六を打ち、婉児が数を記した。これによって武三思の権勢はもとどおりになった。
- 敬暉らが五王となって武三思を憎み、しばしば上に諸武を除くよう勧めた。武三思は韋后を通じてかえって五王を排斥した。
- 五月、武三思と韋后が日夜、張柬之ら五人の短を讒言した。上は疑ってこれを信じた。武三思らはそこで五人を王に封じてその実権を奪う計を立てた。
- 五月乙卯、張柬之を漢陽王、敬暉を平陽王、桓彦範を扶陽王、袁恕己を南陽王、崔玄暐を博陵王とし、みな特進として政事を罷めた。
- 武三思がまた上に、五王が韋后の失徳を天下に暴いていると言った。上は激怒し、これによって五王をますます疎んじた。
- 秋七月、五王を刺史として外に出した。敬暉は朗州、桓彦範は亳州、張柬之は襄州、袁恕己は郢州、崔玄暐は均州の刺史となった。
- 冬十一月壬寅、則天大聖皇后が上陽宮で崩じた。年八十二。遺制で帝号を去って則天大聖皇后と称し、王皇后・蕭淑妃および褚遂良・韓瑗・柳奭の親属で連坐した者をみな赦した。
神龍二年(706年)――五王の流謫と誅殺
- 春正月丙寅、則天大聖皇后を乾陵に合葬した。
- 武三思が韋后とともに五王を除こうと謀り、ひそかに人に韋后の悪事を書いて天津橋に貼らせ、中宗の廃立を請う体裁とした。上は怒って御史大夫の李承嘉に調べさせた。李承嘉は武三思の意に迎合して、敬暉・桓彦範・張柬之・袁恕己・崔玄暐がさせたことだと奏し、五人を族滅するよう請うた。
- 大理丞の李朝隠が「五人は鞫問を経ておりません。ただちに誅すべきではありません」と奏し、上はそこで免死として五人を遠州の司馬に貶した。崔玄暐は白州、張柬之は瀧州、敬暉は瓊州、桓彦範は瀼州、袁恕己は環州。
- 六月、武三思がまた大理正の周利用らを遣わして五人を追い、州に至って殺させた。周利用は張柬之を襄州で捕らえたが、張柬之はすでに憂憤して死んでいた。崔玄暐も貶所へ赴く道中で死んだ。
- 桓彦範を貴州で捕らえ、竹槎(竹の切り株)の上を引きずり回して肉を尽くし、そのうえで杖殺した。敬暉は瓊州で凌遅して殺した。袁恕己は日ごろ金丹を服しており、周利用が野葛の汁を飲ませた。数升を飲んで悶え苦しみ、手で地を掻いて爪がみな脱け落ち、そのうえで杖殺した。
- 五王の子弟も相次いで殺され、家は嶺南に流された。武三思の権はいよいよ盛んで、公卿以下その門に趨らぬ者はなかった。
- 武三思はしばしば人に「私は何が善人で何が悪人か知らぬ。ただ私に善き者が善人、私に悪しき者が悪人だ」と言った。
- 秋七月、上の子の衛王重俊を皇太子に立てた。重俊は韋后の生んだ子ではなく、后は愛さなかった。武三思の子の崇訓は安楽公主を娶っており、しばしば公主に太子を「奴」と呼ばせた。安楽公主は自ら皇太女となることを求め、太子は不安になった。
- 上官婉児は武三思に付き、しばしば制勅の中で武氏を推し崇めた。左散騎常侍の李懐遠、右補闕の権若訥らはみな諂って附いた。
景龍元年〜二年(707〜708年)――太子重俊の挙兵
- 景龍元年秋七月辛丑、太子重俊が李多祚および左羽林将軍の李思沖・李承況、独孤禕之、沙吒忠義らと矯制して羽林の千騎兵三百余人を発し、武三思と崇訓を邸で殺し、その党十余人を殺した。
- また左金吾大将軍の成王千里とその子の天水王禧に兵を分けて宮城の諸門を守らせ、上官婉児・韋后・安楽公主を捜し求めた。
- 上官婉児が走って上と韋后に告げ、上と后は太極殿に登り、左羽林大将軍の劉景仁に飛騎百余人を率いて楼下に屯して自衛させた。
- 李多祚らが玄武門に至り、楼を挟んで拒み守られ、上を捕らえて意を伝えようとしたが、宿衛の兵は入れなかった。
- 上が檻に倚って下に「お前たちはみな私の宿衛の士だ。なぜ多祚に従って謀反するのか。多祚を斬れば富貴を心配することはない」と言った。千騎の王歓喜らはそこで李多祚と李承況、独孤禕之、沙吒忠義を斬り、その余の衆はみな散った。
- 成王千里と天水王禧は右延明門を攻めて宗楚客・紀処訥を殺そうとしたが、力尽きて敗れ、みな殺された。姓を蝮氏と改めた。
- 太子は敗れて左右百余騎とともに終南山に走り、鄠県の西の林中に至って人も馬も疲れ果て、従う者はみな去り、部下に殺された。首を献じて太廟と武三思・崇訓の柩前に供えた。
- 武三思に太尉・梁王を追贈し、崇訓に開府儀同三司・魯王を追贈した。
- 兵部尚書の宗楚客と侍中の紀処訥はもと武三思の党で、武三思が死ぬと韋后に付いた。宗楚客が中書令となり、権を専らにした。
- 景龍二年、韋后と安楽公主が官爵を売り、宮中で作った勅は中書門下を経ずに斜めに封じて授けられた。世にこれを「斜封官」と呼んだ。銭三十万を出せば員外・同正・試・摂・検校・判・知の官を得た。累計して数千人。太府の七貴の妃主も競って賄賂を受けた。府庫の物は尽き、員外の官は数え切れなかった。
- 左台大夫の竇従一、御史中丞の宗楚客らはみな韋后に諂った。安楽公主は定昆池を作り、方数里、石を累ねて華山に象り、水を引いて天津に象った。費用は巨億。
- 侍御史の辛替否が上疏して論じた。臣が今の陛下の政を見るに、天に事えるには不足があり、仏に事えるには余りがあり、百姓を養うには不足があり、僧尼を養うには余りがあります。天下の財を出して寺観を造り、天下の力を尽くして僧尼を養う。そのため十分の七の田は僧に帰し、公私は困窮しております。
- 陛下は貴戚に恵まれ帑蔵を傾けて与えられる。愛するとはいえ、かえって害となります。臣は、王者は天下を家とし万姓を子とし、財を積むより人を積むことを願うものと聞きます。今、農桑の力を奪って土木の功に費やし、府庫を空しくして無用に賜う。天下の心はここにおいて離れましょう。
- 昔、成王が桐の葉を圭とした戯れに、周公はなお慎めと諫めました。まして今、爵を売り官を鬻ぐは戯れではありません。天下の官職に定員があるのは、その人を得るためです。今、額外に置くこと万を数え、賢愚を分かたぬ。そのため吏は治めるところを知らず、民は帰するところを知りません。
- どうか陛下、無用の費を省き、不急の官を停め、農桑を勧め、儉約を尚び、賢良を進め、姦佞を退けられますよう。そうすれば天下は幸いです、と。上は答えなかった。
- 韋后は自ら武后に倣おうとし、しばしば祥瑞を上らせ、また上に請うて天下の士庶に亡母のために斉衰三年の服を著けさせ、宗楚客らに勧進の表を作らせた。
景龍四年・睿宗景雲元年(710年)――韋后の誅滅と睿宗の即位
- 春、定州の人の郎岌が上書して「韋后と宗楚客が社稷を危うくしようとしております」と言った。韋后は上に訴え、杖殺させた。
- 夏五月、許州司兵参軍の燕欽融が上言した。皇后は淫乱で権に干し、国家を危うくしております。安楽公主・武延秀・宗楚客はともに宗社を危うくしようと図っております、と。
- 上が召見して詰ると、燕欽融は顔を上げて抗言し、神気は挫けなかった。上は黙っていた。燕欽融が出ようとしたとき、宗楚客が矯制して飛騎に捕らえさせ、殿庭に投げ落として頸を折って殺した。宗楚客は大声で「快なり」と叫んだ。上はこれによって少し不快になり、韋后とその党はいっそう恐れた。
- 散騎常侍の馬秦客は医術に通じ、光禄少卿の楊均は料理に善く、みな出入りして宮掖で韋后に幸せられた。安楽公主は皇太女となることを望んだ。
- 六月壬午、韋后が餅の中に毒を入れ、上は神竜殿で崩じた。
- 韋后は諸府の兵五万人を発して京城に屯し、駙馬都尉の韋捷・韋灌、衛尉卿の韋璿、左千牛中郎将の韋錡、長安令の韋播、郎将の高嵩に分けて統べさせ、中書舎人の韋元に諸衛の事を総べさせ、宗楚客・韋温らを召して喪を発すべきかを議した。
- そこで太極殿で発喪し、遺制を宣して温王重茂を皇太子とし、皇后が政を知り、相王旦が政事に参加することとした。宗楚客が韋温に「相王が輔政すれば太后には叔嫂の礼があり不便です」と言い、そこで議を改めて相王を太子太師とした。
- 甲辰、温王重茂が即位した。年十六。太后が朝に臨んで制を称した。
- 韋温が総べて内外の兵馬を知り、諸韋を要職に配した。宗楚客はひそかに韋后に武后の故事に倣うよう勧め、また相王と太平公主を除くことを謀った。
- 臨淄王隆基はこのとき衛尉少卿・潞州別駕として京師にあり、ひそかに才勇の士を結んで社稷を匡復しようとした。
- 前朝邑尉の劉幽求、苑総監の鍾紹京、果毅の葛福順・陳玄礼・李仙鳧、長上折衝の麻嗣宗、押万騎の果毅の王崇曄らがみなこれに従った。太平公主も子の薛崇簡を遣わして加わらせた。
- 韋播と高嵩が万騎を統べ、威を立てようとして士卒をしばしば鞭打った。万騎はみな怨んだ。葛福順と陳玄礼が臨淄王に訴え、王はそこで挙事を諭した。
- ある者が「相王に告げるべきです」と言うと、王は「我らはこの挙で社稷を安んじ、大王のために利を図るのだ。成れば福は宗社に帰し、成らねば身を殉じるのみ。大王を累わすことはない。今、告げて大王が許されれば、大王を危事に加わらせることになる。許されねば大事は敗れる」と言い、告げなかった。
- 庚子の夜、葛福順が羽林の営に入って韋璿・韋播・高嵩を斬り、首を持って来た。臨淄王は火を掲げて見、そこで葛福順に左万騎を率いて玄徳門を攻めさせ、李仙鳧に右万騎を率いて白獣門を攻めさせ、凌煙閣の前で合流して声を上げることを約した。
- 王は劉幽求らと苑の南門に至った。三更、二軍とも噪ぎ声を上げた。王は総監の兵を率いて響応した。韋后は恐れて飛騎の営に走り、一人の飛騎が斬って首を献じた。
- 安楽公主は鏡に向かって眉を描いていたところを斬られ、武延秀は肅章門の外で斬られ、内将軍の賀婁氏も斬られた。
- 上官婉児が宮人を率いて燭を持って出迎え、劉幽求に、かつて相王に譲位を勧める遺制の草案を作ったことを示し、劉幽求が助命を請うたが、王は許さず斬った。
- 諸韋と諸武で襁褓の子に至るまでみな殺した。宗楚客は喪服を着て青い驢馬に乗って逃げようとしたが門者に捕らえられて斬られ、紀処訥も捕らえられて斬られた。馬秦客・楊均も誅された。
- 辛丑、王が相王に会って跪いて謝し、事前に告げなかったことを謝した。相王は抱いて泣いて「社稷と宗廟が墜ちずに済んだのは、お前の力である」と言った。
- 少帝が相王に位を譲ろうとし、王公百官もこれを請うた。甲辰、相王が即位した。これが睿宗である。少帝を降して温王とした。
- 睿宗が誰を太子とするか迷ったとき、宋王成器が「国家が安らかなときは先に嫡長を立て、国家に難があるときは先に功ある者を立てます。もし違えれば海内は失望します。臣は死んでも三郎(隆基)の上に居ることを敢えていたしません」と涙を流して数日固辞し、大臣も「平王には社稷を除いた大功があります。まさに嗣とすべきです」と言った。
- 睿宗はそこで従い、己酉、平王隆基を皇太子に立てた。
- 秋七月、譙王重福(中宗の子)が均州に流されていたが、洛陽で挙兵して自ら帝と称し、年号を中元克復とし、留守の官を襲ったが、破れて漕渠に身を投げて死んだ。党与はみな誅された。
- 八月、斜封官数千人をことごとく罷免した。中書舎人の李乂、盧俌らの議による。後にまた復されたが、当時、天下は快とした。
- 姚元之と宋璟が同中書門下三品となり、政を革め弊を除き、朝政はやや粛清された。
- 冬十一月己酉、孝和皇帝(中宗)を定陵に葬り、廟号を中宗とした。
- 朝議は韋后に罪があって祔葬すべきでないとし、故英王妃の趙氏に和思順聖皇后と諡を追った。その埋葬の場所を尋ねたが知る者がなく、そこで褘衣(皇后の礼服)で招魂し、夷衾を覆って定陵に祔葬した。