通鑑紀事本末唐、奚・契丹を平定する(唐平奚契丹)

唐の東北辺で奚と契丹が服属と叛乱を繰り返し、やがて安禄山の辺功争いに巻き込まれていく過程を記す。貞観年間に契丹・奚は内附して松漠・饒楽の都督府に編まれたが、営州都督の趙文翽の失政から万歳通天元年に李尽忠・孫万栄が挙兵し、王孝傑を戦死させるほど猛威をふるって二年で滅んだ。開元年間には牙官の可突干が王を次々に立てては殺し、ついに邵固を弑して突厥に降り、幽州節度使の張守珪が李過折を用いて誅した。以後、平盧に起った安禄山が奚・契丹を騙し討ちにして功を誇り、天宝十載には土護真水で大敗した。

年表(28件)

唐太宗貞観二年(628年)

  • 夏四月丙申、契丹の酋長が部落を率いて降った。

貞観四年(630年)

  • 突厥が亡んでから、営州都督の薛万淑が契丹の酋長の貪没折を遣わして東北の諸夷を説諭させ、奚・霫・室韋など十余部がみな内附した。薛万淑は薛万均の兄である。

貞観二十二年(648年)

  • 夏四月己未、契丹の辱紇主の曲拠が衆を率いて内附した。その地に玄州を置き、曲拠を刺史として営州都督府に隷させた。
  • 冬十一月庚子、契丹の帥の窋哥と奚の帥の可度者がともに部下を率いて内属した。契丹の部を松漠府として窋哥を都督とし、またその別帥の達稽などの部を峭落など九州として各々その辱紇主を刺史とした。奚の部を饒楽府として可度者を都督とし、またその別帥の阿会などの部を弱水など五州として、これも各々その辱紇主を刺史とした。
  • 辛丑、東夷校尉の官を営州に置いた。

高宗顕慶五年(660年)

  • 夏四月戊辰、定襄都督の阿史徳枢賓、左武候将軍の延陀梯真、居延州都督の李含珠をともに冷岍道行軍総管とし、各々部下の兵を率いて叛いた奚を討たせ、あわせて尚書右丞の崔余慶を使者として三部の兵を総護させた。
  • 奚がまもなく使者を送って降ったので、改めて枢賓らを沙磚道行軍総管として契丹を討たせ、契丹の松漠都督の阿卜固を捕らえて東都に送った。

則天皇后万歳通天元年(696年)――李尽忠の反乱

  • 夏五月壬子、営州の契丹松漠都督の李尽忠と帰誠州刺史の孫万栄が挙兵して反し、営州を攻め落として都督の趙文翽を殺した。
  • 李尽忠は孫万栄の妹の夫で、ともに営州城の側に住んでいた。趙文翽は剛愎で、契丹が飢えても賑給せず、酋長を奴僕のように扱った。ゆえに二人は怒って反したのである。
  • 乙丑、左鷹揚衛将軍の曹仁師、右金吾衛大将軍の張玄遇、左威衛大将軍の李多祚、司農少卿の麻仁節ら二十八将を遣わして討たせた。
  • 秋七月辛亥、春官尚書の梁王武三思を楡関道安撫大使、姚璹を副として契丹に備えた。李尽忠を「李尽滅」、孫万栄を「孫万斬」と改称させた。
  • 李尽忠はまもなく無上可汗と自称して営州に拠り、孫万栄を前鋒として地を略した。向かうところみな下り、十日ほどで兵は数万に達し、進んで檀州を囲んだが、清辺前軍副総管の張九節が撃退した。
  • 八月丁酉、曹仁師・張玄遇・麻仁節が硤石谷で契丹と戦い、唐兵は大敗した。
  • これに先立ち、契丹は営州を破って唐の捕虜数百人を得て地下牢に囚えていた。唐兵が来ようとしていると聞き、牢を守る霫人に「我らの家族は飢え凍えて生きていけぬ。ただ官軍が至れば降るのを待つばかりだ」と偽って言わせた。やがて契丹はその捕虜を引き出して糠粥を食わせ、慰めて「お前たちを養えば食がなく、殺すのも忍びぬ。今、放してやる」と言って釈放した。
  • 捕虜が幽州に至ってその状況を詳しく述べ、諸軍は聞いて争って先に入ろうとした。黄麞谷に至ると、虜はまた老弱を送って降らせ、わざと老牛と痩馬を道の傍らに残しておいた。曹仁師らの三軍は歩卒を棄てて騎兵で軽々しく進み、契丹が伏兵で横から撃ち、索を投げて張玄遇と麻仁節を絡め取って捕らえた。将卒の死者は山谷を埋め、逃れた者はほとんどなかった。
  • 契丹は軍の印を得て牒を偽造し、張玄遇らに署名させた。総管の燕匪石・宗懐昌らに宛て「官軍はすでに賊を破った。営州に着いた際、軍将はみな斬り、兵には勲を叙さぬ」とあった。燕匪石らは牒を得て昼夜兼行し、寝食の暇もなく駆けつけ、士馬は疲弊した。契丹が中道に伏兵を置いて迎え撃ち、全軍が全滅した。
  • 九月、制して天下の繋囚および士庶の家奴で驍勇な者について、官が値を償って徴発し契丹を撃たせることとし、初めて山東の辺境に近い諸州に武騎団兵を置き、同州刺史の建安王武攸宜を右武威衛大将軍・充清辺道行軍大総管として契丹を討たせた。
  • 右拾遺の陳子昂が武攸宜の府の参謀となり、上疏して論じた。恩制で天下の罪人を免じ、各種の奴を募って兵に充て契丹を討撃されるのは、応急の計であって天子の兵ではありません。しかも近来、刑獄は久しく清く罪人はきわめて少なく、奴の多くは怯弱で征行に慣れておりません。募り集めても用いるに足りません。まして当今、天下の忠臣勇士は万分の一も用いておりません。契丹の小さな害悪など、命を仮に置いて誅を待つばかりのもの。どうして罪を免じ賤奴を用いて国の大体を損なう労を執られるのですか。臣はこの策が天下に威を示せぬことを恐れます、と。
  • 涼州都督の許欽明の兄の許欽寂が竜山軍討撃使として崇州で契丹と戦い、軍が敗れて捕らえられた。虜は安東を囲もうとして、許欽寂にまだ下らぬ属城を説かせようとした。安東都護の裴玄珪が城中にいたので、許欽寂は「狂賊は天罰を受け、滅亡は朝夕にある。公はただ兵を励まして謹んで守り、忠節を全うされよ」と言った。虜は殺した。
  • 突厥の黙啜が太子となることを請い、国のために契丹を討つと申し出た。黙啜に左衛将軍を冊授した。
  • 冬十月辛卯、契丹の李尽忠が没し、孫万栄が代わってその衆を率いた。突厥の黙啜が隙に乗じて松漠を襲い、李尽忠と孫万栄の妻子を捕らえて去った。
  • 孫万栄が残る衆を集めて軍勢は再び振るい、別帥の駱務整と何阿小を前鋒として冀州を攻め落とし、刺史の陸宝積を殺し、吏民数千人を屠った。また瀛州を攻め、河北は震動した。
  • 制して彭沢令の狄仁傑を起用して魏州刺史とした。前刺史の独孤思荘は契丹の急襲を畏れ、百姓をことごとく城に駆り入れて守備を修めていた。狄仁傑は着任するとみな農に帰らせ、「賊はなお遠い。どうしてこう煩わすのか。万一賊が来れば私が自ら当たる」と言い、百姓は大いに喜んだ。
  • 当時、契丹が侵入して軍書が山積みになった。夏官郎中の硤石の姚元崇が流れるように分析し、みな条理があった。太后は非凡と認め、夏官侍郎に抜擢した。

神功元年(697年)――孫万栄の滅亡

  • 春三月戊申、清辺道総管の王孝傑と蘇宏暉らが十七万の兵で孫万栄と束硤石谷で戦い、唐兵は大敗して王孝傑は戦死した。
  • 王孝傑は契丹に遭って精兵を率いて前鋒となり力戦した。契丹が退いて王孝傑が追い、進むうちに背後が絶壁になった。契丹が兵を返して迫り、蘇宏暉が先に逃げたので王孝傑は崖から落ちて死に、将士はほぼ全滅した。
  • 管記の洛陽の張説が馳せてその事を奏し、太后は王孝傑に官爵を追贈し、使者を遣わして蘇宏暉を斬ってさらそうとした。使者が着かぬうちに蘇宏暉は功を立てて免れた。
  • 武攸宜は漁陽に軍していたが、王孝傑らの敗死を聞いて軍中は震え恐れ、進めなかった。契丹は勝ちに乗じて幽州を侵し、城邑を攻め落として吏民を剽掠した。武攸宜は将を送って撃たせたが克てなかった。
  • 夏四月癸未、右金吾衛大将軍の武懿宗を神兵道行軍大総管とし、右豹韜衛将軍の何迦密とともに兵を率いて契丹を撃たせた。
  • 五月癸卯、また婁師徳を清辺道副大総管、右武威衛将軍の沙吒忠義を前軍総管として二十万の兵で契丹を撃たせた。
  • 六月、武懿宗の軍が趙州に至り、契丹の将の駱務整が数千騎で冀州に来ようとしていると聞いた。武懿宗は恐れて南に逃げようとした。ある者が「虜には輜重がなく掠奪を資としています。兵を按じて拒み守れば、勢いとして必ず離散します。それに従って撃てば大功を得られましょう」と言ったが、武懿宗は従わず、相州に退いて拠り、軍資と器仗をきわめて多く棄てた。契丹はついに趙州を屠った。
  • 甲午、孫万栄が奴に殺された。
  • 孫万栄は王孝傑を破ってから、柳城の西北四百里の険に依って城を築き、老弱と婦女、獲た器仗と資財を留め、妹の夫の乙冤羽に守らせ、精兵を率いて幽州を侵した。突厥の黙啜が背後を襲うのを恐れ、五人を黒沙に遣わして黙啜に「私はすでに王孝傑の百万の衆を破った。唐人は胆をつぶしている。可汗と勝ちに乗じてともに幽州を取りたい」と告げさせた。
  • 三人が先に着き、黙啜は喜んで緋の袍を賜った。二人が後から着き、黙啜はその遅れに怒って殺そうとした。二人が「一言申してから死なせてください」と言い、黙啜が理由を問うと、二人は契丹の実情を告げた。黙啜はそこで先の三人を殺して二人に緋を賜り、嚮導とさせ、兵を出して契丹の新城を取り、捕らえていた涼州都督の許欽明を殺して天を祭り、新城を囲むこと三日で落とし、ことごとく俘として帰った。乙冤羽に馳せて孫万栄に報じさせた。
  • 当時、孫万栄はちょうど唐兵と対峙していた。軍中はこれを聞いて恐れ騒ぎ、奚人は孫万栄に叛いた。神兵道総管の楊玄基がその前を撃ち、奚兵が後ろを撃ち、その将の何阿小を捕らえ、孫万栄の軍は大潰した。
  • 孫万栄は軽騎数千を率いて東へ走り、前軍総管の張九節が兵を遣わして道中で迎え撃った。孫万栄は窮して奴とともに潞水の東に逃げ、林の下で休んで「今、唐に帰ろうにも罪は大きく、突厥に帰っても死、新羅に帰っても死。どこへ行けばよいのか」と嘆じた。奴はその首を斬って降り、四方館の門に梟された。その残る衆および奚・霫はみな突厥に降った。
  • 辛卯、制して契丹が平定されたばかりであるとして、河内王武懿宗・婁師徳および魏州刺史の狄仁傑に道を分けて河北を安撫させた。
  • 武懿宗は行く先々で残酷で、民で契丹に脅されて従い、また帰ってきた者を、武懿宗はみな謀反として生きたまま腹を裂いて胆を取った。これに先立って何阿小が人を殺すのを好んだので、河北の人は「ただこの二人の何(何阿小と武懿宗)が最も人を殺す」と語り合った。
  • 秋七月庚午、武攸宜が幽州から凱旋した。武懿宗は河北の百姓で賊に従った者をことごとく族滅するよう奏した。左拾遺の王求礼が朝廷で論駁して言った。この輩はもとより武備がなく、力が賊に及ばず、苟くも従って生を求めただけ。どうして国に叛く心がありましょう。懿宗は強兵数十万を擁しながら風を望んで退き走り、賊徒をはびこらせた。それでいて罪を草野の巻き込まれた人に移そうとしている。臣として不忠です。まず懿宗を斬って河北に謝することを請います、と。武懿宗は答えられなかった。司刑卿の杜景倹も「これはみな脅されて従った人です。ことごとく赦されますよう」と奏し、太后は従った。

久視元年(700年)

  • はじめ契丹の将の李楷固は索を投げるのと騎射・槊の扱いに巧みで、陣に陥るたび鶻が烏の群れに入るようで、向かうところなびかぬものがなかった。黄麞の戦いで張玄遇と麻仁節はみな彼に絡め取られた。また駱務整という者も契丹の将で、しばしば唐兵を破った。
  • 孫万栄が死んで二人が降ってきた。有司はその遅参を責め、族滅を奏請した。
  • 狄仁傑は「楷固らはともに驍勇絶倫で、仕える相手に力を尽くせる者です。必ず我らにも力を尽くします。徳で撫でれば、みな我が用となりましょう」と言い、赦すよう奏請した。親しい者はみな止めたが、狄仁傑は「国に利あることなら、どうして身のために謀ろうか」と言った。太后はその言を用いて赦し、さらに官を与えることを請うた。
  • 太后は李楷固を左玉鈐衛将軍、駱務整を右武威衛将軍とし、兵を率いて契丹の残党を撃たせ、ことごとく平らげた。
  • 秋七月、含枢殿で俘を献じた。太后は李楷固を左玉鈐衛大将軍・燕国公とし、武氏の姓を賜った。公卿を召して合宴し、觴を挙げて狄仁傑に「公の力である」と言い、賞そうとした。狄仁傑は「これは陛下の威霊と将帥の尽力によるもの。臣に何の功がありましょう」と答え、固辞して受けなかった。

睿宗景雲元年(710年)

  • 冬十月丁酉、幽州鎮守経略節度大使の薛訥を左武衛大将軍兼幽州都督とした。節度使の名は薛訥に始まる。
  • 十二月壬辰、奚・霫が塞を犯して漁陽・雍奴を掠め、盧竜塞を出て去った。幽州都督の薛訥が追撃したが克てなかった。

玄宗先天元年(712年)――冷陘の敗戦

  • 幽州大都督の薛訥は幽州を鎮めること二十余年、吏民は安んじた。一度も兵を挙げて塞を出ず、虜もあえて犯さなかった。燕州刺史の李璡と隙があり、李璡が劉幽求に讒言した。劉幽求は左羽林将軍の孫佺を代わりに推薦した。
  • 三月丁丑、孫佺を幽州大都督とし、薛訥を并州長史に移した。
  • 夏六月庚申、幽州大都督の孫佺が奚の酋長の李大酺と冷陘で戦い、全軍が壊滅した。
  • このとき孫佺は左驍衛将軍の李楷洛と左威衛将軍の周以悌を率い、歩兵二万・騎八千を発して三軍に分け、奚を襲おうとした。将軍の烏可利が「道は険しく天は熱い。孤軍で遠く襲えば、行けば必ず敗れます」と諫めたが、孫佺は「薛訥は辺境に積年いながら、ついに国家のために営州を回復できなかった。今その無備に乗じて行けば、必ず功がある」と言った。
  • 李楷洛に四千騎で先駆けさせたところ、奚騎八千に遭遇して楷洛は戦って不利となった。孫佺は臆病で救えず、軍を引いて帰ろうとした。虜が乗じて唐兵は大敗した。
  • 孫佺は山を背に方陣を組んで自ら固めた。李大酺が孫佺に「朝廷はすでに我らと和親している。今、大軍は何のために来たのか」と伝えさせた。孫佺は「私は勅を奉じて招慰に来ただけだ。楷洛が節度に従わず勝手にお前と戦った。斬って謝したい」と言った。李大酺は「そうなら、国信(贈り物)はどこにあるのか」と言った。孫佺は軍中の帛をすべて集めて一万余段を得、あわせて紫の袍・金の帯・魚袋を贈った。李大酺は「将軍は南へ帰られよ。互いに驚かせぬように」と言った。
  • 将士は恐れて隊伍を保てず、虜が追撃して士卒はみな潰えた。孫佺と周以悌は虜に捕らえられて突厥の黙啜に献じられ、みな殺された。李楷洛と烏可利は逃れ帰った。
  • 冬十一月乙酉、奚・契丹の二万騎が漁陽を侵し、幽州都督の宋璟は城を閉じて出ず、虜は大いに掠めて去った。

開元二年(714年)――灤水の敗戦

  • はじめ営州都督は柳城に治して奚・契丹を鎮撫していた。則天の世に都督の趙文翽が政を失って奚・契丹に攻め落とされ、以後は幽州の東の漁陽城に仮住まいしていた。
  • ある者が「靺鞨・奚・霫は大いに唐に降りたがっているが、唐が営州を建てぬので身を寄せる所がなく、黙啜に侵し騒がされてやむなく付いているだけである。唐が再び営州を建てれば連れ立って帰化しよう」と言った。
  • 并州長史・和戎大武等軍州節度大使の薛訥はこれを信じ、契丹を撃って営州を再置することを奏請した。上も冷陘の役があったので契丹を討とうとした。群臣の姚崇らは多く諫めたが、甲申、薛訥に同紫微黄門三品を加えて兵を率いて契丹を撃たせたので、群臣はもう言えなくなった。
  • 秋七月、薛訥が左監門衛将軍の杜賓客、定州刺史の崔宣道らと六万の兵で檀州から出て契丹を撃った。杜賓客は「士卒が盛夏に武具を負い資糧を携えて寇の境に深入りするのは、成功しがたい」と言った。薛訥は「盛夏は草が肥え、羔や犢が育つ。敵地で糧を得られる。まさに天の時を得た。一挙に虜を滅ぼす。逃してはならぬ」と言った。
  • 灤水の山峡の中まで進んだところ、契丹の伏兵がその前後を遮り、山上から撃って唐兵は大敗し、死者は十中八、九。薛訥は数十騎で囲みを突いて免れた。虜中はこれを嘲って「薛婆」と呼んだ。
  • 崔宣道は後軍を率いていたが、薛訥の敗を聞いてこれも逃げた。薛訥は罪を崔宣道および胡将の李思敬ら八人に帰し、制でみな幽州で斬られた。庚子、勅で薛訥の死を免じてその官爵を削り、杜賓客だけを赦した。

開元四年(716年)

  • 秋八月辛未、契丹の李失活と奚の李大酺が部下を率いて降った。制で李失活を松漠郡王・行左金吾大将軍兼松漠都督とし、その八部落の酋長をそれぞれ刺史に拝し、また将軍の薛泰に軍を督して鎮撫させた。李大酺を饒楽郡王・行右金吾大将軍兼饒楽都督とした。李失活は李尽忠の従父弟である。
  • 突厥の黙啜が死んでから、奚・契丹・抜曳固など諸部がみな内附した。

開元五年(717年)

  • 奚・契丹が内附したので、貝州刺史の宋慶礼が営州の回復を建議した。
  • 三月庚戌、制して営州都督を柳城に再置し、平盧軍使を兼ねさせ、管内の州県・鎮戍をみな旧のとおりとし、太子詹事の姜師度を営田支度使として宋慶礼らとともに築かせ、三十日で完成した。
  • 宋慶礼は清廉勤勉で厳粛、屯田八十余か所を開き、流散した者を招き安んじ、数年の間に倉廩は充実し、市邑は次第に繁栄した。
  • 冬十一月丙申、契丹王の李失活が入朝した。十二月壬午、東平王の外孫の楊氏を永楽公主として嫁がせた。

開元六年(718年)

  • 夏五月、契丹王の李失活が没し、癸巳、その弟の娑固を代わりとした。

開元七年(719年)

  • 冬十一月壬申、契丹王の李娑固が公主とともに入朝した。

開元八年(720年)――可突干の台頭

  • 契丹の牙官の可突干は驍勇で人心を得ていた。李娑固は猜疑して畏れ、除こうとした。この年、可突干が兵を挙げて李娑固を撃ち、娑固は敗れて営州に逃げた。
  • 営州都督の許欽澹が安東都護の薛泰に驍勇五百を率いさせ、奚王の李大酺とともに娑固を奉じて討たせたが、戦って敗れ、娑固と李大酺はともに可突干に殺され、薛泰は生け捕られた。営州は震え恐れ、許欽澹は軍を移して渝関に入った。
  • 可突干は娑固の従父弟の鬱干を主に立て、使者を送って罪を請うた。上は可突干の罪を赦し、鬱干を松漠都督、李大酺の弟の魯蘇を饒楽都督とした。

開元十年(722年)

  • 夏閏五月壬申、張説が朔方に赴いて辺を巡った。己丑、余姚県主の娘の慕容氏を燕郡公主として契丹王の鬱干に嫁がせた。

開元十二年(724年)

  • 契丹王の李鬱干が没し、弟の吐干が位を襲いだ。

開元十三年(725年)

  • これに先立ち、契丹王の李吐干と可突干がまた互いに猜疑し、吐干は公主を連れて逃げてきて、二度と帰ろうとしなかった。改めて遼陽王に封じて留めて宿衛させた。
  • 可突干は李尽忠の弟の邵固を主に立てた。車駕が東巡したとき、邵固は行在所に赴き、そのまま従って泰山に至り、左羽林大将軍・静析軍経略大使を拝した。

開元十四年(726年)

  • 春正月癸未、改めて契丹の松漠王の李邵固を広化王、奚の饒楽王の李魯蘇を奉誠王とし、上の従甥の陳氏を東華公主として邵固に嫁がせ、成安公主の娘の韋氏を東光公主として魯蘇に嫁がせた。

開元十八年(730年)――可突干の叛乱

  • はじめ契丹王の李邵固が可突干を入貢させたとき、同平章事の李元紘が礼遇しなかった。左丞相の張説は人に「奚と契丹は必ず叛く。可突干は狡猾で強情、その国政を専らにして久しく、人心が付いている。今その心を失った以上、必ず来なくなる」と言った。
  • 己酉、可突干が邵固を弑し、その国人を率い、あわせて奚の衆を脅して叛いて突厥に降った。奚王の李魯蘇とその妻の韋氏、邵固の妻の陳氏はみな逃げてきた。
  • 制して幽州長史の趙含章に討たせ、また中書舎人の裴寛と給事中の薛侃らに関内・河東・河南北で道を分けて勇士を募らせた。
  • 六月丙子、単于大都護の忠王浚を河北道行軍元帥、御史大夫の李朝隠と京兆尹の裴伷先を副として十八総管を率いて奚・契丹を討たせた。忠王浚に光順門で百官と相見させた。張説は退いて学士の孫逖・韋述に「私はかつて太宗の画像を見たが、まさに忠王に似ている。これは社稷の福である」と言った。
  • 可突干が平盧を侵し、先鋒使の張掖の烏承玼が捺禄山で破った。

開元二十年(732年)

  • 春正月乙卯、朔方節度副大使の信安王禕を河東河北行軍副大総管として兵を率いて奚・契丹を撃たせた。壬申、戸部侍郎の裴耀卿を副総管とした。
  • 三月、信安王禕が裴耀卿および幽州節度使の趙含章を率いて道を分けて奚・契丹を撃った。趙含章が虜に遭うと、虜は風を望んで逃げ去った。
  • 平盧先鋒将の烏承玼が趙含章に「二虜は手強い賊です。先日逃げ去ったのは我らを畏れたのではなく、我らを誘っているのです。兵を按じてその変を観るべきです」と言った。趙含章は従わず、白山で虜と戦って果たして大敗した。烏承玼は別に兵を率いてその右に出て撃ち、虜を破った。
  • 己巳、信安王禕らが奚・契丹を大破し、俘と斬は甚だ多かった。可突干は麾下を率いて遠く逃げ、残党は山谷に潜み隠れた。奚の酋長の李詩瑣高が五千余帳を率いて降った。禕は兵を率いて帰った。李詩に帰義王の爵を賜り、帰義州都督に充て、その部落を幽州の境内に移し置いた。

開元二十一年(733年)

  • 春閏三月癸酉、幽州道副総管の郭英傑が都山で契丹と戦って敗死した。
  • 当時、節度使の薛楚玉が郭英傑に精騎一万および降った奚を率いて契丹を撃たせ、楡関の外に駐屯させた。可突干が突厥の衆を引いて来て合戦し、奚は両様に構えて散り走り険に拠った。唐兵は不利となり郭英傑は戦死した。残る衆六千余人はなお力戦してやまず、虜が郭英傑の首を示してもついに降らず、ことごとく虜に殺された。薛楚玉は薛訥の弟である。

開元二十二年(734年)――可突干の誅殺

  • 夏六月壬辰、幽州節度使の張守珪が契丹を大破し、使者を送って捷を献じた。
  • 冬十二月乙巳、幽州節度使の張守珪が契丹王の屈烈および可突干を斬って首を送った。
  • 当時、可突干は連年、辺患となっており、趙含章も薛楚玉も討てなかった。張守珪は着任してしばしば撃破した。可突干は困窮して使者を送って偽って降った。張守珪は管記の王悔を送って撫でさせた。
  • 王悔がその牙帳に至って観察すると、契丹の上下には初めから降る意はなく、ただ営帳を少しずつ西北に移し、ひそかに人を送って突厥を引き入れ、王悔を殺して叛こうとしていた。王悔はこれを知った。
  • 牙官の李過折が可突干と兵馬を分掌して権を争って折り合わなかった。王悔は李過折を説いて図らせた。李過折は夜に兵を整えて屈烈と可突干を斬り、その党をことごとく誅し、残る衆を率いて降った。
  • 張守珪は紫蒙川に出師して大閲兵を行って鎮撫し、屈烈と可突干の首を天津の南に梟した。

開元二十三年(735年)

  • 春正月、契丹の知兵馬中郎の李過折が来て捷を献じた。制で李過折を北平王・検校松漠州都督とした。
  • この年、契丹王の李過折がその臣の涅礼に殺され、諸子も殺された。一子の刺乾は安東に逃げて免れた。
  • 涅礼は「過折は刑を用いること残虐で衆情が安からず、ゆえに殺しました」と上言した。上はその罪を赦し、涅礼を松漠都督とし、あわせて書を賜って責めた。
  • その書に言う。卿の蕃法は君長に対する義がないことが多く、昔からそうである。朕もそれは知っている。しかし過折は卿の王である。悪があればただちに殺す。これでは王たる者は難しくないか。ただ、卿が今、王となっても、後の人がまたそうすれば、常に自ら保てず、誰が王になろうと思うか。後の事も慮って防ぐべきである。どうして目前の快を取れようか、と。
  • 突厥がまもなく兵を引いて東に奚・契丹を侵し、涅礼は奚王の李帰国とともに撃破した。

開元二十四年(736年)

  • 張守珪が平盧討撃使・左驍衛将軍の安禄山に奚・契丹の叛いた者を討たせたが、安禄山は勇を恃んで軽々しく進み、虜に敗れた。

開元二十五年(737年)

  • 春二月乙酉、幽州節度使の張守珪が捺禄山で契丹を破った。

開元二十八年(740年)

  • 秋八月甲戌、幽州が奚・契丹を破ったと奏した。

天宝四載(745年)

  • 安禄山は辺功で寵を買おうとしてしばしば奚・契丹を侵掠し、奚と契丹はそれぞれ公主を殺して叛いた。安禄山は討って破った。

天宝五載(746年)

  • 夏四月癸未、奚の酋長の娑固を昭信王、契丹の酋長の楷洛を恭仁王に立てた。

天宝九載(750年)

  • 冬十月、安禄山はしばしば奚・契丹を誘って宴を設け、莨菪の酒を飲ませ、酔ったところで穴埋めにした。動もすれば数千人に及び、その酋長の首を箱に納めて献じた。前後で四度に及んだ。

天宝十載(751年)――安禄山の敗戦

  • 安禄山が三道の兵六万を率いて契丹を討ち、奚の騎兵二千を嚮導とした。平盧を過ぎて千余里、土護真水に至って雨に遭った。安禄山は兵を率いて昼夜兼行して三百余里、契丹の牙帳に至り、契丹は大いに驚いた。
  • 当時、久しく雨が続いて弓弩の筋も膠も緩んでいた。大将の何思徳が安禄山に「我が兵は多くとも遠来して疲弊しており、実は用いられません。甲を按じ兵を休めて臨むに如くはありません。三日と経たず虜は必ず降ります」と言った。安禄山は怒って斬ろうとし、何思徳は先駆けとして死を効すことを請うた。
  • 何思徳は容貌が安禄山に似ていたので、虜は争って撃ち殺し、安禄山を得たと思って勇気が倍加した。奚も再び叛いて契丹と合し、唐兵を挟撃して殺傷はほぼ全滅した。安禄山は射られて鞍に当たり、冠の簪は折れ履を失い、ただ麾下二千騎と逃げた。
  • 折しも夜になり追騎が解けて師州に入れた。安禄山は罪を左賢王の哥解と河東兵馬使の魚承仙に帰して斬った。
  • 平盧兵馬使の史思明は恐れて山谷に逃げ、二十日近く散兵を収めて七百人を得た。平盧守将の史定方が精兵二千で安禄山を救い、契丹は引き揚げ、安禄山はようやく免れた。
  • 平盧に至ると麾下はみな逃げて行方が分からなかった。史思明が出てきて安禄山に会うと、安禄山は喜んで立ってその手を執り「私はお前を得た。もう何を憂えよう」と言った。史思明は退いて人に「もし早く出ていたら、私も哥解と並んで斬られていた」と言った。
  • 契丹が師州を囲み、安禄山は史思明に撃退させた。

天宝十一載(752年)

  • 春三月、安禄山が蕃漢の歩騎二十万を発して契丹を撃ち、去年の秋の恥を雪ごうとした。
  • はじめ突厥の阿布思が降り、上は厚く礼遇して李献忠の姓名を賜り、累遷して朔方節度副使とし、奉信王の爵を賜った。李献忠は才略があって安禄山の下風に立たず、安禄山は恨んでいた。
  • ここに至って安禄山は李献忠に同羅数万騎を率いてともに契丹を撃つことを奏請した。李献忠は安禄山に害されることを恐れ、留後の張暐に上奏して留めてもらうよう請うたが、張暐は許さなかった。李献忠はそこで部下を率いて倉庫を大いに掠め、叛いて漠北に帰った。安禄山はそこで兵を止めて進まなかった。

天宝十三載(754年)

  • 夏四月癸巳、安禄山が奚を撃って破り、その王の李日越を捕らえたと奏した。

天宝十四載(755年)

  • 夏四月、安禄山が奚・契丹を破ったと奏した。