通鑑紀事本末太宗、吐谷渾を平定する(太宗平吐谷渾)
隋末に故地を回復した吐谷渾の可汗の伏允が、唐の使者を捕らえて辺境を侵し続けたため、太宗が段志玄に続いて李靖・侯君集・任城王道宗らを出して討った経緯を追う。唐軍は南北二道に分かれ、水のない砂漠を越えて赤水・烏海に破り、契苾何力が突倫川の牙帳を襲う。伏允は逃げて配下に殺され、嫡子の慕容順が天柱王を斬って降り、可汗に立てられたが殺され、子の諾曷鉢が継いで正朔を請い弘化公主を娶った。貞観十五年(641年)の宣王の乱まで二十余年。
唐高祖武徳二年(619年)
- はじめ隋の煬帝が自ら吐谷渾を征したとき、吐谷渾の可汗の伏允は数千騎で党項へ逃げた。煬帝はその人質の子の順を主に立てて残る衆を統べさせようとしたが、入国できずに帰った。折しも中国が喪乱となり、伏允は戻って故地を回復した。
- 上が受禅すると、順は江都から長安に帰った。上は使者を送って伏允と和を結び、李軌を撃たせることとして順を返した。伏允は喜んで兵を挙げて李軌を撃ち、しばしば使者を送って順を求め、上は帰した。
太宗貞観八年(634年)
- はじめ吐谷渾の可汗の伏允が使者を入貢させたが、まだ帰らぬうちに鄯州を大いに掠めて去った。上は使者を送って責め、伏允を召して入朝させようとしたが、病と称して来なかった。それでいてその子の尊王のために婚を求めた。上は許して親迎させることとしたが、尊王もまた来なかったので婚を絶った。伏允はまた兵を送って蘭・廓の二州を侵した。
- 伏允は年老いて臣の天柱王の謀を信じ、しばしば辺境を犯し、また唐の使者の趙徳楷を捕らえた。上は使者を送って十度も諭し、またその使者を軒に臨ませて自ら禍福を諭したが、伏允にはついに改心がなかった。
- 六月、左驍衛大将軍の段志玄を西海道行軍総管、左驍衛将軍の樊興を赤水道行軍総管として、辺境の兵および契苾・党項の衆を率いて撃たせた。
- 冬十月辛丑、段志玄が吐谷渾を撃って破り、八百余里追撃して青海まで三十余里に迫った。吐谷渾は牧の馬を駆り立てて逃げた。
- 十一月丁亥、吐谷渾が涼州を侵した。己丑、詔を下して大挙して吐谷渾を討つこととした。
- 上は李靖を将としたかったが、その老齢を理由に煩わせるのを憚った。李靖は聞いて自ら行くことを請い、上は大いに喜んだ。
- 十二月辛丑、李靖を西海道行軍大総管として諸軍を節度させ、兵部尚書の侯君集を磧石道、刑部尚書の任城王道宗を鄯善道、涼州都督の李大亮を且末道、岷州都督の李道彦を赤水道、利州刺史の高甑生を塩沢道の行軍総管とし、突厥・契苾の衆を併せて吐谷渾を撃たせた。
貞観九年(635年)
- 春正月、先に内属していた党項がみな叛いて吐谷渾に帰した。三月庚辰、洮州の羌が叛いて吐谷渾に入り、刺史の孔長秀を殺した。
- 夏閏四月癸酉、任城王道宗が庫山で吐谷渾を破った。吐谷渾の可汗の伏允は野の草をことごとく焼き、軽装の兵で砂漠に逃げ込んだ。
- 諸将は馬に草がなく疲れ痩せているので深入りすべきでないとしたが、侯君集が言った。そうではない。先に段志玄の軍が帰って鄯州に着いたばかりのとき、虜はすでにその城下に至っていた。これは虜がなお完全で衆が用をなしていたからだ。今は一敗の後で、鼠のように逃げ鳥のように散り、斥候も絶えている。君臣は離れ父子ははぐれている。取るのは芥を拾うより易い。この機に乗ぜねば必ず後悔する、と。李靖は従った。
- 軍を二分し、李靖は薛万均・李大亮とともに北道を、侯君集は任城王道宗とともに南道を進んだ。
- 戊子、李靖の部将の薛孤児が曼頭山で吐谷渾を破り、その名王を斬り、多くの家畜を得て軍食に充てた。癸巳、李靖らが牛心堆で吐谷渾を破り、また赤水原で破った。
- 侯君集と任城王道宗は無人の境を二千余里行軍した。盛夏に霜が降り、破邏真谷を通ったが、その地に水がなく、人は氷を噛み馬は雪を食べた。
- 五月、烏海で伏允に追いついて戦い、大破してその名王を捕らえた。薛万均と薛万徹はまた赤海で天柱王を破った。
- 赤水の戦いでは、薛万均と薛万徹が軽騎で先に進んで吐谷渾に包囲され、兄弟ともに槍を受けて馬を失い、徒歩で戦い、従う騎兵の十中六、七が死んだ。左領軍将軍の契苾何力が数百騎を率いて救い、力を尽くして奮撃し、向かうところみななびかせたので、薛万均・薛万徹は免れた。
- 李大亮が蜀渾山で吐谷渾を破り、その名王二十人を捕らえた。将軍の執失思力が合茹川で吐谷渾を破った。
- 李靖は諸軍を督して積石山・河源を経て且末に至り、その西境を極めた。伏允が突倫川にあり、于闐へ逃げようとしていると聞いて、契苾何力は追撃しようとした。薛万均は先の敗北に懲りて強く不可を唱えた。
- 契苾何力は「虜には城郭がなく水草を追って移動する。その集まり住んでいるところを襲って取らねば、一朝雲散して二度とその巣窟を覆せようか」と言い、自ら驍騎千余を選んでまっすぐ突倫川に向かった。薛万均もそこで兵を率いて従った。
- 砂漠の中で水が乏しく、将士は馬の血を刺して飲んだ。伏允の牙帳を襲って破り、数千級を斬り、家畜二十余万を得た。伏允は身一つで逃げ、その妻子は捕虜となった。
- 侯君集らは進んで星宿川を越えて柏海に至り、引き返して李靖の軍と合流した。
- 大寧王順は隋室の甥で伏允の嫡子である。隋に侍子として長く帰れずにいる間、伏允は他の子を太子に立てた。帰ってからは常に不満を抱いていた。折しも李靖がその国を破って国人が窮し、天柱王を怨んだ。順は衆心に乗じて天柱王を斬り、国を挙げて降を請うた。
- 伏允は千余騎で砂漠に逃げ、十余日で衆は次第に散り尽くし、側近に殺された。国人は順を立てて可汗とした。
- 壬子、李靖が吐谷渾平定を奏した。乙卯、詔してその国を復し、慕容順を西平郡王・趉故呂烏甘豆可汗とした。上は順がその衆を服させられぬことを慮り、李大亮に精兵数千を率いて後援させた。
- 吐谷渾の甘豆可汗は久しく中国に人質だったので国人が付かず、ついに配下に殺された。子の燕王諾曷鉢が立ったが、諾曷鉢は幼く、大臣が権を争って国中は大いに乱れた。
- 十二月、詔して兵部尚書の侯君集らに兵を率いて援けさせ、先に使者を送って諭して和解させ、詔を奉じぬ者は適宜討たせた。
貞観十年(636年)
- 春三月丁酉、吐谷渾王の諾曷鉢が使者を送って暦の頒布と年号の使用を請い、子弟を入侍させることを請うた。いずれも従った。
- 丁未、諾曷鉢を河源郡王・烏地也抜勒豆可汗とした。
貞観十三年(639年)
- 冬十二月己丑、吐谷渾王の諾曷鉢が来朝し、宗女を弘化公主として嫁がせた。
貞観十五年(641年)
- 夏四月丁巳、果毅都尉の席君買が精兵百二十を率いて吐谷渾の丞相の宣王を襲撃して破り、その兄弟三人を斬った。
- はじめ丞相の宣王が国政を専らにし、ひそかに弘化公主を襲い、その王の諾曷鉢を脅して吐蕃へ走ることを謀った。諾曷鉢は聞いて軽騎で鄯善城へ逃げ、その臣の威信王が兵で迎えた。そこで席君買が討って宣王を誅したのである。国人はなお驚き騒いだので、戸部尚書の唐倹らを遣わして慰撫させた。