通鑑紀事本末貞観の君臣、治を論ず(貞観君臣論治)
太宗の即位から房玄齢の死までの二十三年間、君臣が政道を論じ合った言行を年ごとに集める。勲功の論定と至公の理、盗を止めるのは薄賦軽徭という論に始まり、魏徴・王珪・房玄齢・杜如晦・戴冑・馬周・褚遂良・劉洎らが諫争し、太宗が隋の煬帝を鑑として自らを戒める姿が繰り返される。封建の議と刺史世襲の停止、死刑五覆奏の制、封禅の中止、党仁弘の助命をめぐる自責など、制度と法をめぐる論も多い。貞観十七年(643年)に魏徴が没し、二十二年(648年)に太宗が『帝範』十二篇を太子に授け、房玄齢が東征を諫めて薨じるまで。
年表(22件)
- 唐高祖
- 武徳九年626年勲賞を至公に定め、盗を止めるには薄賦軽徭と説き、宗室の郡王を県公に降す
- 太宗
- 貞観元年627年戴冑が法を執って詔に抗し、魏徴が良臣と忠臣の別を説く
- 貞観二年628年魏徴が兼聴すれば明と答え、帝が蝗を呑んで民に代わる意を示す
- 貞観三年629年房玄齢・杜如晦を左右僕射とし、尚書の細務を離れて賢を求めさせる
- 貞観四年630年張玄素が洛陽宮の修築を諫めて止めさせ、この年の天下は大豊作となる
- 貞観五年631年封建の議が詔となり、死刑の五度覆奏の制が定められる
- 貞観六年632年魏徴が封禅を諫めて止め、長楽公主の嫁資をめぐる直言に皇后が賞を贈る
- 貞観七年633年諫める者が意を尽くせるよう、帝が群臣に接する言葉と表情を和らげる
- 貞観八年634年皇甫徳参の激越な上言を罪そうとするが、魏徴の諫めで賞に改める
- 貞観九年635年北斉の後主と北周の天元帝の優劣を論じ、斉のほうが劣ると評される
- 貞観十年636年魏王泰を軽んじたと三品以上を責めたのを魏徴に諫められて改める
- 貞観十一年637年魏徴が十思の疏を、馬周が民の苦楽を説く疏を上る
- 貞観十二年638年創業と守成の難易を論じ、これからは守成の難を慎もうと言う
- 貞観十三年639年長孫無忌らの固辞を容れて刺史の世襲を停止する
- 貞観十四年640年魏徴が大臣を疑い小臣を信ずる弊を諫め、褚遂良が張玄素の門地詰問を諫める
- 貞観十五年641年北門の営繕を問うた房玄齢を責めたことを、魏徴に諭されて恥じ入る
- 貞観十六年642年褚遂良が起居注を君に見せぬ理を説き、党仁弘の助命に帝が三罪を数える
- 貞観十七年643年魏徴が薨じ、帝は人を鏡として得失を知る一鏡を失ったと嘆く
- 貞観十八年644年劉洎が才弁で群臣を論破する弊を諫め、帝が近臣の長短を一人ずつ評する
- 貞観二十年646年出家の請いを翻した蕭瑀を手詔で責めて商州刺史に落とす
- 貞観二十一年647年戎狄まで服させ得た理由として、華夷を一つに愛するなど五事を挙げる
- 貞観二十二年648年『帝範』十二篇を太子に授け、東征を諫めた房玄齢が薨じる
唐高祖武徳九年(626年)
- 秋八月甲子、太宗が東宮の顕徳殿で皇帝の位に即いた。
- 九月己酉、上は自ら勲臣の長孫無忌らの爵邑を定め、陳叔達に殿下で名を読み上げて示させ、「朕が卿らの勲賞を定めたが、当を得ていないところがあるかもしれぬ。各自申し出よ」と言った。そこで諸将が功を争って騒然とした。
- 淮安王神通が「私は関西で挙兵して真っ先に義旗に応じました。今、房玄齢や杜如晦らは筆を弄するばかりで功が私の上にあります。承服できません」と言った。上は答えた。義旗が挙がった当初、叔父上は真っ先に挙兵されたが、それも自ら禍を逃れるためだった。竇建徳が山東を呑んだときは叔父上の全軍が壊滅し、劉黒闥が残党を集めたときは風を望んで逃げられた。玄齢らは帷幄で計を運らし、坐して社稷を安んじた。功を論じ賞を行えば、まことに叔父上の先に居るべきである。叔父上は国の至親であり、朕はまことに惜しむものはないが、私恩で濫りに勲臣と同じ賞を与えるわけにはいかぬ、と。
- 諸将は語り合って「陛下は至公であられ、淮安王にすら私されない。我らがどうして分を守らずにおれよう」と言い、みな悦服した。
- 房玄齢が、秦府の旧臣で官に昇進していない者がみな「我らは長年、左右に仕えてきたのに、今、任官では前の東宮や斉王府の者の後になった」と嘆き怨んでいる、と言った。
- 上は答えた。王者は至公無私だからこそ天下の心を服させられる。朕と卿らが日々衣食するものはみな民から取ったものだ。ゆえに官を設け職を分けるのは民のためである。賢才を選んで用いるべきで、どうして新旧を先後の基準とできようか。新参で賢く旧臣で不肖なら、どうして新を捨てて旧を取れよう。今、その賢不肖を論ぜず、ただ嘆き怨むというのは、政治の本体であろうか、と。
- 冬十月甲申、民部尚書の裴矩が、突厥に踏み荒らされた民に一戸あたり絹一匹を給することを奏した。上は「朕は誠信で下を御している。恤みの名だけあって実のないことは望まぬ。戸には大小がある。どうして一律に給せようか」と言い、そこで人口に応じた割合とした。
- はじめ上皇は宗室を強くして天下を鎮めようとし、皇帝の再従弟・三従弟および兄弟の子まで、幼児であってもみな王とし、王は数十人に上った。
- 上がくつろいで群臣に「宗族の子を天下にあまねく封ずるのは利があるか」と問うた。封徳彝は「前世では皇子および兄弟だけが王となり、その他は大功がなければ王となりませんでした。上皇は九族を睦まじくして宗室を大いに封じ、両漢以来、今日ほど多いことはありません。爵位が高ければ力役も多く給されます。天下に至公を示すゆえんではないでしょう」と答えた。上は「そのとおりだ。朕が天子であるのは百姓を養うためである。どうして百姓を労して自分の宗族を養えようか」と言い、十一月庚寅、宗室の郡王をみな県公に降し、功ある数人だけは降さなかった。
- 丙午、上が群臣と盗を止める方法を論じ、ある者が厳法で禁じるよう請うた。上は笑って言った。民が盗をなすのは、賦が繁く役が重く、官吏が貪り求め、飢寒が身に迫って廉恥を顧みる暇がないからだ。朕は奢りを去り費用を省き、徭役を軽くし賦税を薄くし、廉潔な吏を選んで用い、民の衣食に余りがあるようにする。そうすれば自ずと盗はなくなる。厳法など要らぬ、と。これより数年後、海内は太平となり、道に落ちた物を拾わず、門を閉じず、商旅は野宿できるようになった。
- 上はまた侍臣に「君は国に依り、国は民に依る。民を削って君を奉ずるのは、肉を割いて腹を満たすようなもの。腹は膨れても身は斃れ、君は富んでも国は亡ぶ。ゆえに人君の患いは外から来るのではなく、常に己の身から出る。欲が盛んなら費えが広がり、費えが広がれば賦が重くなり、賦が重ければ民は愁え、民が愁えれば国は危うく、国が危うければ君は亡ぶ。朕は常にこれを思うゆえに、あえて欲を恣にせぬ」と言った。
- 十二月己巳、益州大都督の竇軌が獠人の反乱を奏して兵を出して討つことを請うた。上は「獠は山林の険に拠り、時に出て小盗を働くのがその常俗である。牧守がよく恩と信で撫でれば自ずと帰服する。どうして軽々しく干戈を動かし、その民を狩り立てて禽獣扱いできよう。民の父母たる者の意であろうか」と言い、ついに許さなかった。
- 上が裴寂に「近ごろ事を上書する者が多い。朕はみな屋の壁に貼って出入りのたび読める。政道を思って深夜に寝ることもある。公らも職務に励んで朕のこの意に副え」と言った。
- 上は精を励まして治を求め、しばしば魏徴を寝所に招いて得失を尋ねた。魏徴は知る限りを言い、上はみな喜んで受け入れた。
- 上が使者を送って兵を徴発しようとしたとき、封徳彝が「中男(十六〜二十歳)でまだ十八に満たなくとも、体の大きい者はあわせて徴発できます」と奏し、上は従った。勅が出たが、魏徴は不可として固執し、四度も勅に署名しなかった。
- 上は怒って召して責め、「中男で体の大きい者は、姦民が偽って征役を避けているのだ。取って何の害がある。卿がここまで固執するのはなぜか」と言った。
- 魏徴は答えた。そもそも兵は御し方が肝要で、数の多さではありません。陛下がその壮健な者を取って道をもって御されれば、天下に敵なしとなるに足ります。どうして細く弱い者を多く取って虚数を増やす必要がありましょう。しかも陛下は常々「私は誠信で天下を御し、臣民にみな欺詐なからしめたい」と仰せられます。ところが即位して間もないのに、信を失われたことがすでに数度あります、と。
- 上が驚いて「朕が何をもって信を失ったのか」と問うと、魏徴は答えた。陛下は即位の当初、詔で「未納の官物はことごとく免ずる」とされましたが、有司は秦府の国司に対する未納は官物でないとして従来どおり徴収しました。陛下は秦王から天子に昇られたのですから、国司の物が官物でなくて何でしょう。また「関中は二年の租調を免じ、関外は一年の課役を免ずる」とされましたが、その後、勅が続いて「すでに役に就き納めた者は来年から起算する」とされ、散じ返した後にまた徴収されました。百姓が怪しまぬはずがありません。今また徴収した物を取ったうえ、兵に徴発される。どうして来年から起算などと言えましょう。また陛下が共に天下を治められるのは守宰です。日ごろの点検はみな彼らに委ねながら、兵の徴発だけはその詐りを疑われる。誠信をもって治めるといえましょうか、と。
- 上は喜んで「先ほどは卿が固執するので、卿は政事に通じていないのかと疑った。今、卿が国家の大体を論ずるのを聞いて、まことにその精要を尽くしている。号令が信でなければ民は従うところを知らず、天下はどうやって治まろう。朕の過ちは深い」と言い、中男を徴発せず、魏徴に金の甕を賜った。
- 上は景州録事参軍の張玄素の名を聞いて召し、政道を問うた。張玄素は答えた。隋主は庶務を自ら専らにするのを好み、群臣に任せませんでした。群臣は恐れてただ受けて奉行するだけで、誰も逆らえなかった。一人の智で天下の務を決すれば、仮に得失半ばとしても誤りはすでに多い。下は諂い上は蔽われ、亡びずして何を待ちましょう。陛下がよく群臣を選んで事を分任し、高く清らかに構えてその成敗を考課して刑賞を施されれば、治まらぬことを何を憂えましょう。また私は、隋末の乱離で天下を争おうとした者は十余人にすぎず、その余はみな郷党を保ち妻子を全うして有道の主を待って帰しただけだと見ております。百姓で乱を好む者もまた稀であり、ただ人主が安んじられなかっただけです、と。上はその言を善しとして侍御史に抜擢した。
- 前幽州記室で中書省直の張蘊古が『大宝箴』を上った。その要旨は、聖人は命を受けて溺れる者を拯い難儀を通ずる、ゆえに一人をもって天下を治め、天下をもって一人に奉じさせぬ。九重の宮殿を壮んにしても、居るのは膝を容れるほどにすぎぬ。かの昏君は知らずに台を瑤で飾り室を瓊で飾る。八珍を前に並べても、食べるのは口に適う分だけ。狂者は思いもせず糟を丘とし酒を池とする。ぼんやりして暗くもならず、細かく詮索して明らかぶりもせぬ。冕の旒が目を蔽っても形なきうちに見、黈纊が耳を塞いでも声なきうちに聴く、というものである。上は嘉して束帛を賜り、大理丞に任じた。
- 上が傅奕を召して食を賜り、「汝が以前に奏したことは危うく私の禍となるところだった。しかし天変があれば卿は言を尽くせ。みなこのようにせよ。前の事を懲りとするな」と言った。
- 上がかつて傅奕に「仏の教えは玄妙で師とすべきものだ。卿だけがなぜその理を悟らぬのか」と言った。傅奕は「仏は胡の中の狡猾な者で、彼の地を誑かし輝かせたにすぎません。中国の邪僻な者が荘老の玄談を取り、妖幻の語で補い、愚俗を欺いております。民に益なく国に害があります。私は悟らぬのではなく、卑しんで学ばぬのです」と答え、上はかなりそのとおりと思った。
- 上は吏が賄賂を多く受けるのを患い、ひそかに側近に試しに賄賂させた。司門令史で絹一匹を受けた者があり、上は殺そうとした。民部尚書の裴矩が諫めて「吏となって賄賂を受ければ罪はまことに死に当たります。しかし陛下が人に贈らせて受けたのですから、人を法に陥れたことになります。いわゆる『これを導くに徳をもってし、これを斉うるに礼をもってす』ではないでしょう」と言った。上は喜んで文武五品以上を召し、「裴矩は官に当たって力争し、面と向かって従うことをしない。何事もこうであれば、治まらぬことを何を憂えよう」と告げた。
史論(臣光曰)
- 古人は「君が明なら臣は直である」と言った。裴矩は隋では佞であり唐では忠であった。その性が変わったのではない。君が自分の過ちを聞くのを嫌えば忠は佞に化し、君が直言を聞くのを楽しめば佞は忠に化す。君は表(日時計の標)、臣は影である。表が動けば影も随う。
太宗貞観元年(627年)
- 春正月丁亥、上が群臣を宴し「秦王破陣楽」を奏した。上は「朕は昔、専征を委ねられ、民間にこの曲ができた。文徳の雍容たるものではないが、功業はこれによって成った。あえて本を忘れぬ」と言った。封徳彝が「陛下は神武で海内を平らげられました。どうして文徳の及ぶところでありましょう」と言うと、上は「乱を勝つには武、成るを守るには文。文武の用はそれぞれ時に随う。卿が文は武に及ばぬというのは、言い過ぎである」と言い、封徳彝は頓首して謝した。
- 上は兵部郎中の戴冑が忠清公直なので大理少卿に抜擢した。上は選任される者の多くが門地や資格を偽ると考え、勅で自首させ、自首せぬ者は死罪とした。まもなく詐称が発覚した者があり、上は殺そうとした。戴冑は「法に拠れば流罪に当たります」と奏した。
- 上は怒って「卿は法を守って朕に信を失わせようというのか」と言った。戴冑は「勅は一時の喜怒から出るもの、法は国家が大信を天下に布くものです。陛下は選任者の詐りの多さに憤って殺そうとされましたが、すでにそれが不可と知られた以上、改めて法で断ぜられる。これこそ小さな憤りを忍んで大信を存することです」と答えた。上は「卿が法を執れば、朕は何を憂えよう」と言った。戴冑は前後に顔を犯して法を執り、その言は泉が涌くようで、上はみな従い、天下に冤獄はなくなった。
- 上が封徳彝に賢才を挙げるよう命じたが、久しく挙げなかった。上が詰ると、「心を尽くさぬのではありません。ただ今、奇才がいないのです」と答えた。上は「君子が人を用いるのは器を用いるようなもので、各々その長所を取る。古の治を致した者が、どうして異なる時代から才を借りたか。まさに自分が知り得ぬことを患うべきで、どうして一世の人を誣いられようか」と言い、封徳彝は恥じて退いた。
- 御史大夫の杜淹が、諸司の文案に滞りや誤りがあるかもしれぬので御史に各司に赴いて検校させるよう奏した。上が封徳彝に問うと、「官を設け職を分け、それぞれ司るところがあります。過失があれば御史が自ら糾挙します。諸司を巡回して瑕を探すのは、あまりに煩瑣です」と答えた。杜淹は黙った。
- 上が杜淹に「なぜ改めて論じ争わぬのか」と問うと、「天下の務は至公を尽くすべきです。善ければ従う。徳彝の言はまことに大体を得ています。臣は心から服し、あえて非を通しません」と答えた。上は喜んで「公らがみなこうであれば、朕は何を憂えよう」と言った。
- 右驍衛大将軍の長孫順徳が人から絹を贈られたことが発覚した。上は「順徳がまことに国家に益をなせるなら、朕は府庫を共有してもよい。どうしてこうまで貪るのか」と言い、なおその功を惜しんで罪せず、ただ殿庭で絹数十匹を賜った。大理少卿の胡演が「順徳は法を枉げて財を受けました。罪は赦されません。どうしてかえって絹を賜るのですか」と言うと、上は「彼に人の性があれば、絹を得た辱めは刑を受けるより甚だしい。もし恥を知らぬなら、一匹の禽獣にすぎぬ。殺して何の益があろう」と言った。
- 閏三月壬申、上が太子少師の蕭瑀に語った。朕は若いころ弓矢を好み、良弓十数張を得て、これ以上のものはないと思っていた。近ごろ弓職人に見せたところ、みな良材ではないと言う。理由を問うと、「木の心が真っ直ぐでなければ木目もみな歪む。弓は強くとも矢は真っ直ぐ飛ばぬ」と言った。朕は初めて、これまでの見分けが精確でなかったと悟った。朕は弓矢で四方を定めながら、その見分けすら尽くせぬ。まして天下の務をあまねく知り得ようか、と。そこで京官五品以上に交代で中書内省に宿直させ、しばしば引見して民間の疾苦および政事の得失を問うた。
- 夏五月、佞臣を除くよう上書した者があった。上が「佞臣とは誰か」と問うと、「私は草莽に居り、その人を確かには知りません。どうか陛下が群臣と語られるとき、偽って怒って試されますよう。理を執って屈せぬ者は直臣、威を畏れて旨に順う者は佞臣です」と答えた。
- 上は言った。君は源、臣は流である。源を濁して流の清きを求めても得られぬ。君が自ら詐りをなして、どうして臣下の直を責められようか。朕はまさに至誠で天下を治めようとしている。前世の帝王が権謀や小手先で臣下に接したのを見て、常にひそかに恥じてきた。卿の策は善いが、朕は取らぬ、と。
- 六月戊申、上が侍臣と周と秦の長短を論じた。蕭瑀が「紂が無道だったので武王が征し、周および六国は罪がないのに始皇が滅ぼしました。天下を得たことは同じでも、人心は異なります」と答えた。上は「公は一を知って二を知らぬ。周は天下を得てますます仁義を修め、秦は天下を得てますます詐力を尚んだ。これが長短の分かれた理由である。取るのは逆によっても得られるが、守るのは順によらねばならぬからだ」と言い、蕭瑀は及ばぬと謝した。
- 上が公卿に国を長く保つ策を問い、蕭瑀は三代が封建して長く、秦が孤立して速やかに亡んだと述べた。上ももっともと思い、ここに初めて封建の議が起こった。
- 秋九月辛酉、中書令の宇文士及を罷めて殿中監とし、御史大夫の杜淹に朝政を参与させた。他官が政事に参与するのはこれに始まる。
- 杜淹が刑部員外郎の邸懐道を推薦した。上がその行いと才能を問うと、「煬帝が江都に行こうとして百官に行くべきか留まるべきかを問うたとき、懐道は吏部主事として独り不可と言いました。私は自ら見ております」と答えた。
- 上は「卿が懐道を是とするなら、なぜ自ら正しく諫めなかったのか」と問い、杜淹は「臣はそのころ重任になく、また諫めても従われぬと知っていました。いたずらに死んでも益がありません」と答えた。
- 上は「卿は煬帝が諫められぬと知りながら、なぜその朝廷に立ったのか。その朝廷に立った以上、なぜ諫めなかったのか。隋の仕官は位が低かったと言えようが、後に王世充に仕えては尊顕であった。なぜやはり諫めなかったのか」と問い、杜淹は「私は世充に諫めなかったのではありません。ただ従われなかったのです」と答えた。上は「世充が賢くて諫めを納れたなら国は亡ばなかったはず。暴虐で諫めを拒んだのなら、卿はどうして禍を免れたのか」と言い、杜淹は答えられなかった。上は「今日は尊任といえよう。諫められるか」と言い、杜淹は「死を尽くしたく存じます」と答え、上は笑った。
- 冬十二月、右丞の魏徴が親戚を私したと告げる者があり、上は御史大夫の温彦博に調べさせたが事実無根だった。温彦博は上に「魏徴は形跡を残さず遠く嫌疑を避けるということをしません。心に私はなくとも、責めるべき点はあります」と言った。上は温彦博に魏徴を責めさせ、あわせて「今後は形跡に留意せよ」と言わせた。
- 後日、魏徴が入見して上に「臣は君臣は一体で、互いに誠を尽くすべきと聞いております。もし上下がただ形跡ばかり気にするなら、国の興亡も知れたものではありません。臣は詔を奉じられません」と言った。上ははっとして「私はもう悔いている」と言った。
- 魏徴は再拝して「臣は幸いに陛下にお仕えできました。どうか臣を良臣とし、忠臣とせられませぬよう」と言った。上が「忠と良に違いがあるのか」と問うと、「稷・契・皋陶は君臣が心を合わせてともに尊栄を享けました。これが良臣です。竜逄・比干は面と向かって折り、朝廷で争って、身は誅せられ国は亡びました。これが忠臣です」と答えた。上は喜んで絹五百匹を賜った。
- 上は神采が英毅で、群臣は進見するとみな挙措を失った。上はそれを知り、人が奏事するたび必ず言葉と表情を和らげ、諫めを聞くことを期した。
- かつて公卿に語った。人が自分の姿を見ようとすれば必ず明鏡を必要とし、君が自分の過ちを知ろうとすれば必ず忠臣を必要とする。もし君が諫めに逆らって自ら賢とし、臣が阿諛して旨に順えば、君は国を失い、臣もどうして独り全うできよう。虞世基らが煬帝に諂って富貴を保ったが、煬帝が弑せられると世基らも誅された。公らはこれを戒めとし、事に得失があれば言を尽くすことを惜しむな、と。
- ある者が、秦府の旧兵をみな武職に任じて宿衛に召し入れるべきだと言上した。上は「朕は天下を家とし、ただ賢を与とする。旧兵のほかにみな信じるに足る者がないというのか。汝のこの意は、朕の徳を天下に広める道ではない」と言った。
- 上が公卿に語った。昔、禹は山を鑿って水を治めたが民に謗りがなかったのは、人と利を同じくしたからだ。秦の始皇は宮室を営んで民が怨んで叛いたのは、人を病ませて己を利したからだ。華麗と珍奇はもとより人の欲するところだが、恣にしてやまなければ危亡はたちまち至る。朕は一つの殿を営もうとして材料もそろっていたが、秦を鑑として止めた。三公以下、朕のこの意を体すべきである、と。これによって二十年の間、風俗は素朴で衣に錦繍はなく、公私ともに富み足りた。
- 上が黄門侍郎の王珪に語った。国家がもともと中書と門下を置いたのは互いに検察させるためである。中書の詔勅に誤りがあれば門下が論駁して正すべきだ。人心の見るところは互いに異なる。論難を往復して至当を求め、己を捨てて人に従っても何も傷つかぬ。ところが近ごろは己の短所を庇って怨みの隙となり、あるいは私怨を避けようとして非を知りながら正さず、一人の顔色に順って万民の深患をなす。これこそ亡国の政である。煬帝の世には内外の官が互いに順従を務め、そのときはみな自分に智があって禍が身に及ばぬと思っていたが、天下が大乱して家も国も失われた。その中に万一免れた者があっても、当時の論に貶されて永遠に消えぬ。卿らはそれぞれ公に殉じて私を忘れ、雷同するな、と。
- 上が侍臣に「私は西域の商胡が美しい真珠を得て身を裂いて隠したと聞くが、そんなことがあるか」と問うた。侍臣が「あります」と答えると、上は「人はみなその真珠を愛して身を愛さぬことを笑う。吏が賄賂を受けて法に触れ、帝王が奢欲に殉じて国を亡ぼすのは、あの胡の笑うべきさまと何が違うのか」と言った。
- 魏徴が「昔、魯の哀公が孔子に『物忘れのひどい者がいて、家を移して妻を忘れた』と言うと、孔子は『もっとひどい者がいる。桀紂はその身を忘れた』と答えました。これも同じことです」と言った。上は「そうだ。朕と公らは力を合わせて助け合い、人に笑われぬようにしよう」と言った。
- 鄃令の裴仁軌が私に門夫を使役し、上は怒って斬ろうとした。殿中侍御史の長安の李乾祐が「法は陛下が天下と共にするもので、陛下が独り有するものではありません。今、仁軌が軽罪で極刑に当たれば、人は手足の置き所を失いましょう」と諫め、上は喜んで仁軌の死を免じ、李乾祐を侍御史とした。
- 上がかつて関中と山東の人の心情に違いがあると語った。殿中侍御史の義豊の張行成が跪いて「天子は四海を家とされます。東西の別があるべきではありません。人に狭量を示すことになりましょう」と奏した。上はその言を善しとして厚く賜り、これより大政のたび常に議に加えた。
貞観二年(628年)
- 春正月、上が魏徴に「人主は何によって明となり、何によって暗となるか」と問うた。魏徴は「兼ね聴けば明、偏り信じれば暗です。昔、堯は下民に広く問うたので有苗の悪を上に聞くことができ、舜は四方に目を明らかにし四方に耳を通じたので共工・鯀・驩兜も蔽い得ませんでした。秦の二世は趙高を偏信して望夷の禍を成し、梁の武帝は朱异を偏信して台城の辱を取り、隋の煬帝は虞世基を偏信して彭城閤の変を招きました。ゆえに人君が兼ね聴き広く納れれば、貴臣は蔽えず、下情が上に通じます」と答え、上は「善し」と言った。
- 上が黄門侍郎の王珪に「開皇十四年の大旱に、隋の文帝は賑給を許さず百姓を山東へ食を求めに行かせた。その末年に至って天下の蓄えは五十年分を供せるほどになった。煬帝はその富饒を恃んで奢りの心に飽くことなく、ついに天下を亡ぼした。倉庫の蓄えは凶年に備えるに足りればよい。その余に何の用があろう」と言った。
- 二月、上が侍臣に「人は天子は至尊で畏れるものがないと言うが、朕はそうではない。上は皇天の監臨を畏れ、下は群臣の仰ぎ見るのを憚る。戦々兢々として、なお天意に合わず人望に副わぬことを恐れる」と言った。魏徴は「これこそまことに治を致す要です。どうか陛下、終わりを始めのごとく慎まれれば善いことです」と言った。
- 上が房玄齢らに語った。政をなすのは至公に如くはない。昔、諸葛亮は廖立と李厳を南夷に流したが、亮が没すると廖立も李厳もみな悲泣し、死ぬ者さえあった。至公でなくてこうなろうか。また高熲は隋の宰相として公平で治の本体を心得ていた。隋の興亡は高熲の存否にかかっていた。朕はすでに前世の明君を慕っている。卿らも前世の賢相に倣わずにはおれまい、と。
- 夏四月、太常少卿の祖孝孫は、梁陳の音は呉楚が多く、周斉の音は胡夷が多いと考え、南北を斟酌し古の声を考えて唐の雅楽を作った。八十四調・三十一曲・十二和である。詔で協律郎の張文収に祖孝孫とともに修定させた。
- 六月乙酉、祖孝孫らが新楽を奏上した。上は「礼楽は聖人が物に縁って教えを設けたものにすぎぬ。治の隆替がどうしてこれによろうか」と言った。
- 御史大夫の杜淹が「斉が亡びようとするとき『伴侶曲』を作り、陳が亡びようとするとき『玉樹後庭花』を作りました。その声は哀しく、道行く者も聞けばみな悲泣しました。どうして治の隆替が楽によらぬと言えましょう」と言った。
- 上は「そうではない。楽は人を感じさせるもの。ゆえに楽しむ者が聞けば喜び、憂える者が聞けば悲しむ。悲喜は人の心にあり、楽によるものではない。亡びようとする政では民は必ず愁え苦しむ。ゆえに楽を聞いて悲しむのだ。今、二曲ともに存する。朕が公のために奏させよう。公は悲しむだろうか」と言った。
- 右丞の魏徴が「古人は『礼と言い礼と言うが、玉帛のことであろうか。楽と言い楽と言うが、鐘鼓のことであろうか』と言いました。楽はまことに人の和にあり、声音にはありません」と言った。
史論(臣光曰)
- 私は、垂は目で方円を測り心で曲直を量ったが、それを人に教えることはできず、人に教えるには必ず規矩(コンパスと定規)によったと聞く。聖人は勉めずして中り、思わずして得たが、それを人に授けることはできず、人に授けるには必ず礼楽によった。
- 礼は聖人の履むところ、楽は聖人の楽しむところである。聖人は中正を履み和平を楽しみ、さらにこれを四海と共にし百世に伝えようと思って礼楽を作った。ゆえに工人が垂の規矩を執って器に施せば、それも垂の功である。王者が五帝三王の礼楽を執って世に施せば、それも五帝三王の治である。
- 五帝三王が世を去って久しいが、後の人はその礼を見てその履んだところを知り、その楽を聞いてその楽しんだところを知る。あざやかに世に存するがごとくである。これこそ礼楽の功ではないか。
- そもそも礼楽には本と末がある。中和が本、容と声が末で、二つとも欠かせない。先王は礼楽の本を守って片時も心を離れず、礼楽の文を行って片時も身を離れなかった。閨門に興り朝廷に著れ、郷里に及び隣人に至り、諸侯に達し四海に流れ、祭祀・軍旅から飲食起居に至るまで礼楽の中にあった。こうして数十百年を経て初めて治化は行き渡り、鳳凰が舞い来た。
- もしその本がなくいたずらに末だけがあって、一日行って百日捨てるようでは、風を移し俗を易えるのはまことに難しい。ゆえに漢の武帝が協律を置いて天瑞を歌わせたのは美しくないわけではないが、哀痛の詔を免れなかった。王莽が羲和を建てて律呂を考えたのは精密でないわけではないが、漸台の禍を救えなかった。晋の武帝が笛の尺を制して金石を調えたのは詳しくないわけではないが、平陽の災いを防げなかった。梁の武帝が四器を立てて八音を調えたのは審らかでないわけではないが、台城の辱を免れなかった。
- とすれば、韶・夏・濩・武の音がすべて世に存しても、その他がそれに副わなければ、一人すら化せぬ。まして四海においてをや。これは垂の規矩を執っても工と材がなく、坐して器の完成を待つようなもので、ついに得られない。
- まして斉や陳の淫昏の主の亡国の音を、しばし庭で奏したからといって、どうして一世の哀楽を変えられよう。それなのに太宗はにわかに「治の隆替は楽によらぬ」と言った。何と言葉を発するのが易く、聖人を非とするのに果断なことか。
- そもそも礼は威儀のことではないが、威儀がなければ礼は行われない。楽は声音のことではないが、声音がなければ楽は現れない。山にたとえれば、その一つの土一つの石を取って山と呼ぶことはできぬが、土石をすべて除けば山はどこにあるのか。ゆえに「本がなければ立たず、文がなければ行われず」という。
- どうして斉陳の音が今の世に験されぬからといって、楽が治乱に益なしと言えようか。拳ほどの石を見て泰山を軽んずるのと何が違うのか。もしその言のとおりなら、五帝三王が楽を作ったのはみな妄りだったことになる。君子はその知らぬことについては差し控えるものである。惜しいことだ。
- 六月戊子、上が侍臣に「朕は隋の煬帝の文集を見たが、文辞は奥深く博く、堯舜を是とし桀紂を非としていることも分かる。それなのに、行いはなんと逆であったことか」と言った。魏徴は「人君は聖哲であっても、なお己を虚しくして人を受け入れるべきです。ゆえに智者はその謀を献じ、勇者はその力を尽くします。煬帝はその俊才を恃んで驕り高ぶり自ら用いました。ゆえに口では堯舜の言を誦しながら身は桀紂の行いをなし、自ら知らぬまま覆亡に至ったのです」と答えた。上は「前事は遠からず。我らの師である」と言った。
- 畿内に蝗が出た。辛卯、上は苑中に入って蝗を見、数匹つまんで祝った。「民は穀を命としているのに、お前がそれを食う。むしろ私の腸を食え」と言い、手を挙げて呑もうとした。左右が「悪い虫です。病になるかもしれません」と諫めると、上は「朕は民のために災いを受けるのだ。何の病を避けようか」と言い、ついに呑んだ。この年、蝗は災いをなさなかった。
- 上が「朕は朝に臨むたび、一言発するにも必ず三度思う。民の害となることを恐れるからだ。ゆえに多言せぬ」と言った。給事中・知起居事の杜正倫が「臣の職は言を記すこと。陛下のお言葉に失があれば臣は必ず書きます。ただ今日に害があるだけでなく、後世に譏りを残すことも恐れます」と言い、上は喜んで絹二百段を賜った。
- 上が「梁の武帝の君臣はただ苦と空を談じるばかりで、侯景の乱では百官が馬にも乗れなかった。元帝は周の師に囲まれてもなお『老子』を講じ、百官は戎服で聴いた。これは深く戒めとするに足る。朕の好むのはただ堯舜と周公・孔子の道である。鳥に翼があり魚に水があるように、失えば死ぬ。片時も欠かせぬ」と言った。
- 秋七月、上が侍臣に「古語に『赦は小人の幸いにして君子の不幸なり』『一歳に再び赦せば善人は口をつぐむ』とある。そもそも稂莠を養う者は嘉穀を害し、罪ある者を赦す者は良民を賊する。ゆえに朕は即位以来しばしば赦そうとせぬ。小人がこれを恃んで軽々しく法を犯すことを恐れるからだ」と言った。
- 九月、上が「近ごろ群臣がしばしば上表して祥瑞を賀する。そもそも家が足り人が足りていれば、瑞がなくとも堯舜たり得る。百姓が愁い怨めば、瑞が多くとも桀紂たり得る。後魏の世に吏が連理の木を焼き白雉を煮て食った。それで至治といえようか」と言った。丁未、詔して今後、大瑞は上表を聴し、その他の瑞は担当官に申告するだけとした。
- あるとき白鵲が寝殿の槐に巣をかけ、合わせて腰鼓のようになった。左右が賀すると、上は「私はいつも隋の煬帝が祥瑞を好んだのを笑ってきた。瑞は賢を得ることにある。これが何で賀するに足ろう」と言い、巣を毀して鵲を野に放たせた。
- 上が王珪に「近世、国を治める者がますます前古に及ばぬのはなぜか」と問うた。王珪は「漢代は儒術を尚び、宰相の多くは経術の士を用いました。ゆえに風俗は淳厚でした。近世は文を重んじ儒を軽んじ、法律を交えます。これが治化のますます衰えるゆえんです」と答え、上ももっともと思った。
- 冬十二月壬午、黄門侍郎の王珪を守侍中とした。
- 上がくつろいで王珪と語っていたとき、美人が側に侍していた。上は王珪に指し示して「これは廬江王瑗の姫である。瑗はその夫を殺して納れた」と言った。王珪は席を避けて「陛下は廬江が納れたのを是とお思いですか、非とお思いですか」と問うた。上が「人を殺してその妻を取ったのだ。何を是非と問うか」と言うと、王珪は「昔、斉の桓公は郭公が亡んだのは善を善としながら用いられなかったからだと知りながら、その進言した人を退けました。管仲は郭公と変わらぬと言いました。今、この美人はなお側におられます。臣は聖心が是とされていると思います」と答えた。上は喜んですぐに出して親族に返した。
- 上が太常少卿の祖孝孫に宮人へ音楽を教えさせたが、意に適わず責めた。温彦博と王珪が諫めて「孝孫は雅士です。それを宮人に教えさせ、そのうえ譴責される。臣はひそかに不可と考えます」と言った。上は怒って「朕は卿らを腹心としている。忠直を尽くして私に仕えるべきなのに、下に付いて上を欺き、孝孫のために遊説するのか」と言った。温彦博は拝謝したが、王珪は拝せず「陛下は臣に忠直を責められます。今、臣の言うところがどうして私曲でありましょう。これは陛下が臣に負うのであって、臣が陛下に負うのではありません」と言い、上は黙って罷めた。
- 翌日、上は房玄齢に「古来、帝王が諫めを納れるのはまことに難しい。朕は昨日、温彦博と王珪を責めて今に至るまで悔いている。公らはこれによって言を尽くさぬということのないように」と言った。
- 上が「朕のために民を養うのはただ都督と刺史である。朕は常にその名を屏風に書いて起居に眺め、その在官の善悪の跡を名の下に注記して黜陟に備えている。県令はとりわけ民に近く、選ばずにはおれぬ」と言い、内外の五品以上に各々県令たるべき者を挙げて名を報告させた。
- 上が「近ごろ奴が主の謀反を告げることがあるが、これは弊害である。そもそも謀反は独りではできず、必ず人と共にする。発覚せぬことを何を憂えよう。どうして奴に告げさせる必要があるか。今後、奴が主を告げれば、みな受理せず、その奴を斬れ」と言った。
貞観三年(629年)
- 春二月戊寅、房玄齢を左僕射、杜如晦を右僕射とし、尚書右丞の魏徴を守秘書監・参預朝政とした。
- 三月丁巳、上が房玄齢と杜如晦に「公らは僕射として広く賢人を求め、才に随って任を授けるべきだ。これが宰相の職である。近ごろ聞けば訴訟を聴くのに日も足りぬという。どうして朕を助けて賢を求められようか」と言い、勅して尚書の細務は左右丞に属させ、大事で奏すべきものだけを僕射に関わらせた。
- 房玄齢は吏事に明達で文学をもってこれを補い、夙夜に心を尽くし、一つでも所を失うことを恐れた。法を用いるのは寛平で、人に善があると聞けば自分のことのように思い、人に完全を求めず、自分の長所で人を律しなかった。杜如晦とともに士を引き抜くこと、なお及ばぬがごとくであった。台閣の規模はみな二人が定めたものである。
- 上は玄齢と事を謀るたび必ず「如晦でなければ決せられぬ」と言い、如晦が来ると結局は玄齢の策を用いた。玄齢は謀に善く、如晦は断に能かったからである。二人は深く意気投合し、心を同じくして国に殉じた。ゆえに唐世に賢相を称するとき房・杜を推す。
- 玄齢は寵遇を蒙りながら、事で譴責されると数日にわたり朝堂に赴いて頓首して罪を請い、恐れて身の置き所もないようであった。
- 玄齢が国史の監修に当たり、上は「近ごろ『漢書』に「子虚賦」「上林賦」が載っているのを見たが浮華で無用である。上書して事を論じ、辞理が切実直截なものは、朕が従ったか否かにかかわらず、みな載せるべきである」と語った。
- 夏四月乙亥、上皇が弘義宮に移り住み、大安宮と改名した。
- 甲午、上が初めて太極殿に出御し、侍臣に「中書と門下は機要の司である。詔勅に不都合があればみな論じ執るべきだ。近ごろは順従ばかりを見て違異を聞かぬ。ただ文書を流すだけなら誰にでもできる。どうして才を選ぶ必要があろう」と言い、房玄齢らはみな頓首して謝した。
- 故事では、軍国の大事はすべて中書舎人が各々見解を述べて連署し、「五花判事」と称した。中書侍郎と中書令が省審し、給事中と黄門侍郎が論駁して正す。上が初めて旧制を申明し、これによって失敗はほとんどなくなった。
- 冬十二月乙酉、上が給事中の孔穎達に「『論語』に『能をもって不能に問い、多をもって寡に問い、有れども無きがごとく、実つれども虚しきがごとし』とあるが、何の意味か」と問うた。孔穎達はその義を釈いて答え、あわせて「ただ匹夫だけではありません。帝王もまた同じです。帝王は内に神明を蘊め外は玄黙であるべきです。ゆえに『易』に『蒙をもって正を養う』『明夷をもって衆に莅む』とあります。もし至尊の位にあって聡明を輝かせ、才で人を凌ぎ、非を飾って諫めを拒めば、下情は通じません。亡びを取る道です」と述べた。上は深くその言を善しとした。
- 房玄齢と王珪が内外の官の考課を掌った。治書侍御史の万年の権万紀がその不公平を奏し、上は侯君集に調べさせようとした。
- 魏徴が諫めて言った。玄齢と王珪はいずれも朝廷の旧臣で、日ごろ忠直をもって陛下に委ねられております。考課した者は多く、その間に一、二人の不当がないとは限りませんが、その情を察すれば決して私に阿ったものではありません。もし取り調べてその事が出てくれば、みな信頼できぬことになり、どうして再び重任に堪えられましょう。しかも万紀は近ごろ常に考課の場にいながら一度も論駁して正さず、自分が良い考課を得られなくなってから初めて述べ立てた。これはまさに陛下の怒りを煽ろうとするもので、誠を尽くして国に殉じるものではありません。調べて事実を得ても朝廷の益にはならず、もし虚偽なら、いたずらに陛下が大臣を委任される意を失うだけです。臣が愛するのは治の本体であり、あえて二臣を私するのではありません、と。上はそこで問わずに済ませた。
貞観四年(630年)
- 春二月甲寅、御史大夫の温彦博を中書令、守侍中の王珪を侍中、守戸部尚書の戴冑を戸部尚書・参預朝政、太常少卿の蕭瑀を御史大夫として宰臣とともに朝政を参議させた。
- 三月甲申、蔡成公杜如晦が薨じた。
- 夏六月乙卯、兵卒を出して洛陽宮を修め、巡幸に備えさせた。
- 給事中の張玄素が上書して諫めた。洛陽にはまだ巡幸の予定がないのに、あらかじめ宮室を修めるのは今日の急務ではありません。昔、漢の高祖は婁敬の説を納れて洛陽から長安に遷りました。洛陽の地が関中の形勝に及ばぬからではありませんか。景帝は晁錯の言を用いて七国の禍を構えました。陛下は今、突厥を中国に置いておられます。突厥の親しさは七国に比べてどうでしょう。まず憂えずして宮室を急に興し、乗輿を軽々しく動かせましょうか。
- さらに言う。臣が見るに、隋氏が初めて宮室を営んだとき、近くの山に大木がなく、みな遠方から運びました。二千人で一本の柱を曳き、木で車輪を作れば擦れて火が出るので、鉄を鋳て轂としましたが、一、二里行くごとに鉄轂が壊れ、別に数百人に鉄轂を持たせて随行して取り替えさせ、一日に二、三十里しか進みませんでした。一本の柱の費用ですでに数十万の人夫を用いたのですから、その他は推して知るべしです。陛下は洛陽を平定された当初、隋氏の宮室で宏侈なものはみな毀たせられました。まだ十年も経たぬのに、また営繕を加えられる。なぜ先日は憎まれたことを今日は倣われるのですか。しかも今日の財力は隋の世と比べてどうでしょう。陛下が傷ついた民を役して亡隋の弊を襲われるのは、煬帝よりさらに甚だしいことを恐れます、と。
- 上が「卿は私を煬帝に及ばぬというが、桀紂と比べてどうか」と問うと、「もしこの役を止められなければ、同じく乱に帰しましょう」と答えた。上は嘆じて「私の考えが熟していなかったのでこうなった」と言い、房玄齢を顧みて「朕は洛陽が土地の中央で朝貢の道が均しいので、民を便にしようと思って営ませた。今、玄素の言うところはまことに理がある。ただちに役を罷めよ。後日、事があって洛陽に行っても、野宿しても差し支えない」と言い、玄素に綵二百匹を賜った。
- 秋七月乙丑、上が房玄齢と蕭瑀に「隋の文帝はどのような主か」と問うた。二人は「文帝は治に勤め、朝に臨めば日が傾くまで、五品以上を座らせて事を論じ、衛士が食事を運んで食べさせました。性は仁厚ではありませんでしたが、精を励んだ主です」と答えた。
- 上は言った。公らは一を得て二を知らぬ。文帝は明でないのに詮索を好んだ。明でなければ照らしても通らぬところがあり、詮索を好めば物事を疑うことが多い。事はみな自ら決して群臣に任せぬ。天下は至って広く一日に万事がある。神を労し形を苦しめても、どうして一つ一つ理に中たろうか。群臣は主の意を知って、ただ決を仰いで結果を受けるだけとなり、過失があっても誰も諫争しない。これが二世で亡んだゆえんである。朕はそうではない。天下の賢才を選んで百官に置き、天下の事を考えさせ、宰相を経て熟慮して便安を得てから奏聞させる。功あれば賞し罪あれば刑する。誰が心力を尽くして職業を修めずにおれようか。天下の治まらぬことを何を憂えよう、と。そこで百司に、今後、詔勅を下しても不都合があればみな執奏すべきで、阿って従い自分の意を尽くさぬことのないようにと勅した。
- 冬十二月、諸宰相が宴に侍った。上が王珪に「卿は識鑑が精通し談論にも善い。玄齢以下、みな品評してみよ。あわせて自らは数人と比べてどうか」と言った。
- 王珪は答えた。孜孜として国に奉じ、知る限りをなすことでは、臣は玄齢に及びません。才が文武を兼ね、出ては将、入っては相となることでは、臣は李靖に及びません。奏を詳明に述べ、出納が公正であることでは、臣は温彦博に及びません。繁を処し劇を治め、諸務を挙げ尽くすことでは、臣は戴冑に及びません。君が堯舜に及ばぬことを恥じ、諫争を己の任とすることでは、臣は魏徴に及びません。ただ濁を激し清を掲げ、悪を憎み善を好むことでは、臣も数人にいささか優るところがあります、と。上は深くそのとおりと思い、衆もその的確な論に服した。
- 上が即位した当初、群臣と教化について語った。上が「今は大乱の後を承けている。この民を化するのは容易でないだろう」と言うと、魏徴は「そうではありません。久しく安んじた民は驕り気ままで、驕り気ままなら教えにくい。乱を経た民は愁え苦しみ、愁え苦しめば化しやすい。飢えた者は食を与えやすく、渇いた者は飲を与えやすいのと同じです」と答え、上は深くそのとおりと思った。
- 封徳彝が非として「三代以来、人は次第に浮薄になりました。ゆえに秦は法律に任せ、漢は覇道を交えた。化そうとしてできなかったのであって、できるのにしなかったのではありません。魏徴は書生で時務を知りません。その空論を信じれば必ず国家を敗ります」と言った。
- 魏徴は「五帝三王は民を替えずに化しました。昔、黄帝は蚩尤を征し、顓頊は九黎を誅し、湯は桀を放ち、武王は紂を伐ち、みな自らの代に太平を致しました。大乱の後を承けたのではありませんか。もし古人は淳朴で次第に浮薄になったというなら、今日に至ってはみな鬼魅に化しているはずです。人主がどうして治められましょう」と言った。上は結局、魏徴の言に従った。
- 貞観元年、関中が飢饉で米一斗が絹一匹、二年は天下に蝗、三年は大水だったが、上が勤めて撫でたので、民は東西に食を求めて移動しても嘆き怨まなかった。
- この年、天下は大豊作で、流散していた者はみな郷里に帰り、米一斗は三、四銭を出ず、一年の死刑執行はわずか二十九人。東は海に至り南は五嶺に及ぶまで、みな門を閉じず、旅人は糧を携えず道すがら得られた。
- 上が長孫無忌に語った。貞観の初め、上書する者はみな「人主は独り威権を運らすべきで臣下に委ねてはならぬ」と言い、また「威武を輝かせて四夷を征討すべきだ」と言った。ただ魏徴だけが朕に武を偃せて文を修め、中国が安らげば四夷は自ずと服すると勧めた。朕はその言を用いた。今、頡利は擒となり、その酋長はみな刀を帯びて宿衛し、部落はみな衣冠を着けている。魏徴の力である。ただ封徳彝にこれを見せられなかったのが残念だ、と。
- 魏徴は再拝して「突厥が破滅し海内が康寧なのは、みな陛下の威徳です。臣に何の力がありましょう」と謝した。上は「朕が公に任せ、公がその任に称えばこそだ。その功がどうして朕だけにあろうか」と言った。
- 房玄齢が府庫の甲兵を調べて隋の世をはるかに上回ると奏した。上は「甲兵と武備はまことに欠かせぬ。しかし煬帝の甲兵が足りなかったであろうか。それでも天下を亡ぼした。公らが力を尽くして百姓を安んじてくれれば、それこそ朕の甲兵である」と言った。
貞観五年(631年)
- 秋九月、上が仁寿宮を修めて九成宮と改名し、また洛陽宮を修めようとした。民部尚書の戴冑が上表して諫め、乱離が終わったばかりで百姓は疲弊し国庫は空である、営造をやめなければ公私の労費に堪えられぬと述べた。上は嘉して「戴冑は私の親族ではないが、忠直で国を体し、知る限りを言わぬことがない。ゆえに官爵で報いたのだ」と言った。
- 久しくして、ついに将作大匠の竇璡に洛陽宮を修めさせた。竇璡は池を掘り山を築き、彫飾は華美だった。上は怒ってただちに毀たせ、竇璡を免官した。
- はじめ上が群臣に封建を議させた。魏徴は「もし諸侯を封建すれば、卿大夫はみな俸禄を要し、必ず重い取り立てを招きます。また京畿の賦税は多くなく、頼るのは畿外です。もしすべて封国の邑としてしまえば経費はたちまち欠けます。また燕・秦・趙・代はいずれも外夷に接しています。警急があっても内地から兵を追いやるのは難しい」と論じた。
- 礼部侍郎の李百薬は「運祚の長短は天が定めるもの。堯舜は大聖でありながら守って固められず、漢魏は微賤から起こって拒んでも退けられませんでした。今、勲戚の子孫にみな民と社を持たせれば、代が替わった後、驕り淫らを恣にし、攻め戦って殺し合い、民を害することがとりわけ深い。守令が交代するに如くはありません」と論じた。
- 中書侍郎の顔師古は「宗子を分けて王とし、大きくなりすぎぬようにし、州県を交ぜて住まわせて互いに維持させ、各々その境を守って協力同心させれば、京室を扶けるに足ります。官僚を置くのはみな中央の司が選用し、法令の外では擅に威刑をなさせず、朝貢の礼儀はすべて条式を定める。この制を一定すれば万代にわたり憂いはありません」と論じた。
- 十一月丙辰、詔して、皇家の宗室および勲賢の臣を藩部の鎮とし、子孫に伝えさせ、大きな理由がなければ黜免せぬこととし、担当官に条例を明らかにして等級を定めて報告させた。
- 冬十二月、上が侍臣に「朕は死刑がきわめて重いので三度の覆奏を令した。詳しく熟慮させたいからである。ところが有司はわずかな間に三度の覆奏を終えてしまう。また古は人を刑するとき、人君はそのために楽を撤し膳を減らした。朕の庭には常設の楽はないが、常に酒肉を食べぬこととしている。ただ、まだ令に著していない。また百司が獄を断ずるときはただ律文に拠るだけで、情に憐れむべきものがあってもあえて法に違えぬ。その間にどうして冤なきを尽くせようか」と言った。
- 丁亥、制して、死囚を処決するときは二日の間に五度覆奏し、諸州に下すものは三度覆奏し、行刑の日は尚食に酒肉を進めさせず、内教坊および太常に楽を挙げさせぬこととし、みな門下に覆審させ、法に拠れば死に当たるが情に憐れむべきものは状を録して奏聞させた。これによって助かった者はきわめて多かった。五度の覆奏とは、処決の一、二日前に二度、処決の日にさらに三度である。ただ悪逆を犯した者だけは一度の覆奏だけとした。
- 上が執政に「朕は喜怒によって妄りに賞罰を行うことを常に恐れる。ゆえに公らに極諫を求めるのだ。公らもまた人の諫めを受けるべきで、自分の望むところを人が違えるのを憎んではならぬ。もし自ら諫めを受けられぬなら、どうして人を諫められようか」と言った。
- 康国が内附を求めた。上は「前代の帝王は絶域を招き求めて遠きを服させる名を得ようとしたが、用に益なく百姓を疲弊させた。今、康国が内附して、もし急難があれば義として救わぬわけにいかぬ。師が万里を行くのは疲労ではないか。百姓を労して虚名を取ることを、朕はせぬ」と言い、ついに受けなかった。
- 侍臣に「国を治めるのは病を治すようなもの。病が癒えてもなお養生すべきである。もし急に自ら放縦にすれば病が再発して救えぬ。今、中国は幸いに安く四夷はみな服した。まことに古来まれなことだ。しかし朕は日々慎み、ただ終わりを全うできぬことを恐れる。ゆえにしばしば卿らの諫争を聞きたいのだ」と言った。魏徴は「内外が治まり安らかなのを臣は喜びません。ただ陛下が安きに居て危うきを思われることだけを喜びます」と言った。
- 上がかつて侍臣と獄を論じた。魏徴が言った。煬帝のとき盗が出て、帝は于士澄に捕らえさせました。少しでも疑わしければみな拷問して自白させ、合わせて二千余人。帝はことごとく斬らせました。大理丞の張元済がその多さを怪しんで試みにその状を調べたところ、うち五人はかつて盗をしたことがあるだけで、残りはみな平民でした。それでも執奏する勇気がなく、みな殺されました、と。上は「これは煬帝が無道だっただけでなく、その臣も忠を尽くさなかった。君臣がこうであれば、どうして亡びずにおれよう。公らは戒めとせよ」と言った。
貞観六年(632年)
- 春正月、文武の官が封禅を請うた。上は「卿らはみな封禅を帝王の盛事と思っているが、朕の意はそうではない。天下が治まり家が足り人が足りれば、封禅せずとも何を傷つけようか。昔、秦の始皇は封禅し漢の文帝は封禅しなかった。後世、文帝の賢が始皇に及ばぬとするだろうか。しかも天に仕えるには地を掃いて祭ればよい。どうして泰山の頂に登り数尺の土を封じてはじめて誠敬を示せようか」と言った。
- 群臣がなお請いやまず、上も従おうとしたが、魏徴だけは不可とした。
- 上が「公が朕の封禅を望まぬのは、功がまだ高くないからか」と問うと「高うございます」、「徳がまだ厚くないからか」「厚うございます」、「中国がまだ安らかでないからか」「安らかです」、「四夷がまだ服さぬからか」「服しております」、「年穀がまだ豊かでないからか」「豊かです」、「符瑞がまだ至らぬからか」「至っております」と答えた。上が「では、なぜ封禅してはならぬのか」と問うた。
- 魏徴は答えた。陛下にこの六つがあるとはいえ、隋末の大乱の後を承けて戸口はまだ回復せず、倉廩はなお虚しい。それなのに車駕が東巡すれば千乗万騎、その供応の労費は容易に堪えられません。しかも陛下が封禅されれば万国が集まり、遠夷の君長もみな扈従します。今、伊水・洛水以東から海と岱に至るまで、人家の煙はなお稀で、草莽が見渡す限りです。これは戎を腹中に引き入れて虚弱を示すことになります。まして賞賜は計り知れぬのに遠人の望みを満たせず、課役免除を連年行っても百姓の労に償えません。虚名を崇めて実害を受ける。陛下はどうしてそれをなさるのですか、と。
- 折しも黄河南北の数州が大水となり、事はついに止んだ。
- 三月、長楽公主が降嫁しようとした。上は公主が皇后の生んだ子なのでとりわけ愛し、有司に嫁資を永嘉長公主の倍にするよう勅した。魏徴が諫めて「昔、漢の明帝が皇子を封じようとして『我が子がどうして先帝の子と比べられよう』と言い、みな楚王・淮陽王の半分とさせました。今、公主の嫁資を長公主の倍とされるのは、明帝の意と異なるのではありませんか」と言った。
- 上はその言をもっともと思い、入って皇后に告げた。皇后は嘆じて「妾はしばしば陛下が魏徴を重んじられると聞きながら、その理由を知りませんでした。今、礼義を引いて人主の情を抑えるのを見て、まことの社稷の臣と知りました。妾は陛下と結髪の夫婦として恩礼を承け、言うたび必ずまず顔色をうかがい、あえて軽々しく威厳を犯しません。まして人臣の疎遠な身で、これほど抗言できる。陛下は従われぬわけにいきません」と言った。
- そして中使に銭四百緡・絹四百匹を持たせて魏徴に賜り、「公が正直と聞いていたが、今それを見た。ゆえに賞する。公は常にこの心を秉って移さぬように」と伝えさせた。
- 上がかつて朝を罷めて怒り「いつかあの田舎爺を殺してやる」と言った。皇后が誰かと問うと、「魏徴だ。いつも朝廷で私を辱める」と答えた。皇后は退いて朝服を着けて庭に立った。上が驚いて理由を問うと、皇后は「妾は『主が明なら臣は直』と聞いております。今、魏徴が直なのは陛下が明であられるからです。妾がどうして賀さずにおれましょう」と言い、上はそこで機嫌を直した。
- 秋七月辛未、三品以上を丹霄殿で宴した。上はくつろいで「内外が治まり安らかなのはみな公卿の力である。しかし隋の煬帝は威を夷夏に加え、頡利は北荒に跨がり、統葉護は西域に雄拠したが、今はみな覆亡した。これは朕と公らが親しく見たところだ。強盛を誇って自ら満足するな」と言った。
- 閏月乙卯、上が近臣を丹霄殿で宴した。長孫無忌が「王珪と魏徴は昔は仇でしたが、今日この宴を同じくできるとは思いませんでした」と言った。
- 上が「魏徴と王珪は仕える者に心を尽くした。ゆえに私は用いた。しかし魏徴は諫めても私が従わぬと、私が話しかけても応じぬ。なぜか」と問うた。魏徴は「臣は事を不可と考えるゆえに諫めます。もし陛下が従われぬのに臣が応じれば、事はそのまま施行されます。ゆえにあえて応じません」と答えた。
- 上が「ひとまず応じてから改めて諫めても構わぬではないか」と言うと、魏徴は「昔、舜は群臣を戒めて『汝、面従して退いて後言することなかれ』と言いました。臣が心では非と知りながら口で陛下に応ずれば、それこそ面従です。稷や契が舜に仕えた意でありましょうか」と答えた。
- 上は大笑して「人は魏徴の挙止が疎慢だと言うが、私が見ると、かえって愛らしく思える。まさにこのためだ」と言った。魏徴は立って拝謝し「陛下が臣に言わせてくださるから、臣は愚を尽くせるのです。もし陛下が拒んで受けられなければ、臣がどうしてしばしば顔を犯せましょう」と言った。
- 戊辰、秘書少監の虞世南が『聖徳論』を奉った。上は手ずから詔を賜って「卿の論は高すぎる。朕がどうして上古になぞらえられようか。ただ近世に比べていくらか勝るだけだ。しかも卿はその始めを見ただけで、終わりを知らぬ。もし朕が終わりを始めのごとく慎めればこの論も伝わろうが、そうでなければ、いたずらに後世に卿を笑わせることになろう」と述べた。
- 冬十二月癸丑、帝が侍臣と安危の本を論じた。中書令の温彦博が「どうか陛下、常に貞観の初めのごとくあられれば善いことです」と言った。帝が「朕は近ごろ政を怠っているか」と問うと、魏徴は「貞観の初め、陛下は志が節倹にあり、諫めを求めて倦まれませんでした。近ごろは営繕がやや多く、諫める者はかなり旨に逆らいます。そこが違うところです」と答えた。帝は手を打って大笑し「まことにそういうことがある」と言った。
- 上が侍臣に「朕は近ごろ事を決するのに律令どおりにできぬことがある。公らは小事として執奏せぬのか。そもそも事は小より大に至らぬものはない。これこそ危亡の端である。昔、関竜逄が忠諫して死んだ。朕はそのたび心を痛める。煬帝が驕暴で亡んだのは公らが親しく見たところだ。公らは常に朕のために煬帝の亡びを思い、朕は常に公らのために関竜逄の死を念う。君臣が互いに保てぬことを何を憂えよう」と言った。
- 上が魏徴に「官のために人を択ぶのは軽々しくできぬ。一人の君子を用いれば君子がみな至り、一人の小人を用いれば小人が競って進む」と言った。魏徴は「そのとおりです。天下が定まらぬうちは専らその才を取ってその行いを問いませんが、喪乱が平らいだ後は才と行を兼備した者でなければ用いてはなりません」と答えた。
貞観七年(633年)
- 冬十二月、上が魏徴に「群臣の上書は採るべきものがあるのに、召して対せさせると多く順序を失うのはなぜか」と問うた。魏徴は「臣が見るに、百司が常事を奏するのでも数日考えてきて、上の前に至ると三分の一も言えません。まして諫める者は意に逆らい忌みに触れます。陛下が言葉と表情で助けられなければ、どうしてその情を尽くせましょう」と答えた。上はこれによって群臣に接する言葉と表情をいっそう温かくした。
- かつて「煬帝は猜疑が多く、朝に臨んで群臣に対して多くは語らなかった。朕はそうではない。群臣と一体のように親しむ」と言った。
貞観八年(634年)
- 冬十二月、中牟丞の皇甫徳参が「洛陽宮の修築は人を労し、地租を取るのは重い取り立てである。世間で高い髷を好むのは宮中に感化されたものだ」と上言した。
- 上は怒って房玄齢らに「徳参は、国家が一人も役さず一斗の租も取らず、官人がみな髪をなくせば気が済むというのか」と言い、その謗訕の罪を治めようとした。
- 魏徴が諫めて「賈誼は漢の文帝のとき上書して『痛哭すべきもの一つ、流涕すべきもの二つ』と言いました。古来、上書は激烈でなければ人主の心を動かせません。いわゆる狂夫の言も聖人は択ぶのです。どうか陛下、お裁きを」と言った。上は「朕がこの人を罪すれば、誰がまた敢えて言おうか」と言い、絹二十匹を賜った。
- 後日、魏徴が「陛下は近日、直言を好まれません。努めて含み容れておられますが、往時の豁達さではありません」と奏した。上はさらに賜与を厚くし、監察御史に任じた。
貞観九年(635年)
- 春三月、上が魏徴に「北斉の後主と北周の天元帝はいずれも百姓から重く取り立てて自分を厚く養い、力尽きて亡んだ。饞い人が自分の肉を食い、肉が尽きて斃れるようなもの。何と愚かなことか。しかしこの二主のどちらが優れどちらが劣るか」と問うた。魏徴は「斉の後主は懦弱で政令が多くの門から出ました。周の天元は驕暴で威福が己にありました。同じく亡国とはいえ、斉王のほうが劣ります」と答えた。
貞観十年(636年)
- 秋八月丙子、上が群臣に「朕が直言の路を開いたのは国を利するためである。ところが近ごろ封事を上る者の多くは人の些細な事を暴く。今後これをなす者があれば、朕は讒人として罪する」と言った。
- 冬十二月、魏王泰が上に寵愛され、ある者が「三品以上の多くが魏王を軽んじている」と言った。上は怒って三品以上を引いて色をなして責め、「隋の文帝のときは一品以下がみな諸王に躓かされた。彼らも天子の子ではなかったか。朕はただ諸子を横暴にさせぬだけだ。三品以上がみな軽んじていると聞く。私が放任すれば、公らを辱め得ぬと思うか」と言った。房玄齢らはみな恐れて汗を流して拝謝した。
- 魏徴だけが色を正して言った。臣がひそかに計るに、当今の群臣に必ず魏王を軽んずる者はおりません。礼において臣も子も同じです。『春秋』では王の使者は微賤でも諸侯の上に序します。三品以上はみな公卿で、陛下が尊礼される者です。もし紀綱が大いに壊れているなら論外ですが、聖明が上におられる以上、魏王が群臣を辱める理はありません。隋の文帝は諸子を驕らせて多く無礼を行わせ、ついにみな滅ぼされました。それを法とするに足りましょうか、と。
- 上は喜んで「理に至った言には服さぬわけにいかぬ。朕は私愛によって公義を忘れた。さきほどの憤りは自分では疑いないと思っていたが、魏徴の言を聞いて理が屈することを知った。人主の発言はどうして軽々しくできようか」と言った。
- 上が「法令はしばしば変えてはならぬ。しばしば変えれば煩わしく、官長も覚えきれず、また前後で食い違って吏が姦をなす手立てとなる。今後、法を変えるときはみな詳しく慎重に行うべきである」と言った。
- 治書侍御史の権万紀が「宣州・饒州の銀を大々的に採掘すれば年に数百万緡を得られます」と上言した。上は言った。朕は貴くて天子である。乏しいのは財ではない。ただ民を利する良言がないことを恨むだけだ。数百万緡を多く得るより、一人の賢才を得るほうがどれほどよいか。卿はいまだ一人の賢を進めず一人の不肖を退けず、専ら銀の税の利ばかり言う。昔、堯舜は璧を山に投げ珠を谷に投じた。漢の桓帝・霊帝は銭を集めて私蔵とした。卿は私を桓霊に擬するのか、と。この日、権万紀を退けて家に帰らせた。
貞観十一年(637年)
- 春正月、上が飛山宮を作った。庚子、特進の魏徴が上疏し、煬帝はその富強を恃んで後患を慮らず、奢りを窮め欲を極め、百姓を困窮させて身は人の手に死に社稷は廃墟となった、陛下は乱を撥めて正に反されたのだから、隋が失ったゆえんと我が得たゆえんを思い、その高い宮室を撤して卑しい宮に安んじられるべきである、もし基を襲って広げ旧を襲って飾りを加えるなら、それは乱を乱に易えることで、殃咎は必ず至る、得難く失いやすいものを思わずにおれようか、と論じた。
- 上がかつて大理卿の劉徳威に「近日、刑網がやや密になったのはなぜか」と問うた。劉徳威は「これは主上にあって群臣にはありません。人主が寛を好めば寛、急を好めば急となります。律文では誤って重く入れれば三等を減じ、誤って軽く出せば五等を減じます。今は誤って重く入れても咎めなく、誤って軽く出せばかえって大罪を得ます。ゆえに吏は各々身を免れようとして競って深く法文を適用します。教えてそうさせたのではなく、罪を恐れるからです。陛下がひとたび律に拠って断ぜられれば、この風はたちまち変わりましょう」と答えた。上は喜んで従い、これによって断獄は公平になった。
- 二月、上が顕仁宮に至った。官吏が備えの不足で譴責された者があった。
- 魏徴が諫めて「陛下が備えのことで官吏を譴責されれば、臣はそれが風となって煽り合い、いつか民が生きていけなくなることを恐れます。行幸の本意ではありますまい。昔、煬帝は郡県にそれとなく食を献じさせ、その豊倹を見て賞罰したので、海内が叛きました。これは陛下の親しく見られたところ。どうして倣おうとされるのですか」と言った。
- 上は驚いて「公でなければこの言を聞けなかった」と言い、長孫無忌らに「朕は昔ここを通ったとき、飯を買って食い宿を借りて泊まった。今、この供応で、なお足りぬと嫌えようか」と言った。
- 三月庚子、上が洛陽宮の西苑で宴し、積翠池に舟を浮かべ、侍臣を顧みて「煬帝はこの宮苑を作って民に怨みを結んだ。今はことごとく私のものだ。まさに宇文述・虞世基・裴蘊の徒が内では諂い外では聡明を蔽ったからである。戒めずにおれようか」と言った。
- 夏四月己卯、魏徴が上疏して論じた。人主は始めを善くする者は多く終わりを全うする者は寡い。取るのが易く守るのが難しいからでしょうか。思うに、深く憂えれば誠を尽くして下を尽くし、安逸なら驕り恣にして物を軽んじます。下を尽くせば胡越も心を同じくし、物を軽んずれば六親も徳を離れます。威怒で震わせても、みな表向き従って心は服さぬからです。
- 人主がまことに、欲すべきものを見れば足るを知ることを思い、営繕を興そうとすれば止まることを思い、高く危うい所にあれば謙り下ることを思い、満ち溢れるに臨めば減らすことを思い、逸楽に遇えば節することを思い、宴安にあれば後の患いを思い、擁蔽を防ぐには受け入れを広げることを思い、讒邪を憎めば己を正すことを思い、爵賞を行うには喜びによって濫りに施さぬことを思い、刑罰を施すには怒りによって濫りにせぬことを思う。この十思を兼ね、賢を選び能に任せれば、まことに無為にして治まります。どうして神を労し体を苦しめて百司の任に代わる必要がありましょう、と。
- 五月壬申、魏徴が上疏して論じた。陛下の善を欲する志は昔時に及ばず、過ちを聞けば必ず改める点も往日よりやや欠けます。譴責と処罰が積み重なり、威と怒りがやや厳しくなりました。「貴くして驕らんとは期せず、富んで奢らんとは期せず」というのが虚言でないと知られます。しかも隋の府庫・倉廩・戸口・甲兵の盛んなことを今日と比べれば、比較になりません。しかし隋は富強でありながら動いて危うくなり、我は寡弱でありながら静かにして安らかです。安危の理は目に明らかです。
- 昔、隋がまだ乱れぬとき、自ら必ず乱れぬと思い、まだ亡びぬとき、自ら必ず亡びぬと思いました。ゆえに賦役は窮まりなく征伐はやまず、禍が身に及ぼうとしてもなお悟りませんでした。そもそも形を映すには止まった水に如くはなく、敗を映すには亡国に如くはありません。どうか隋を鑑とし、奢を去って約に従い、忠に親しみ佞を遠ざけ、当今の無事に往時の恭倹を行われれば、尽善尽美、称えようもありません。取るのは実に難しく守るのはきわめて易い。陛下はその難しい方を得られたのに、どうして易い方を保てぬはずがありましょう、と。
- 秋七月、魏徴が上疏して論じた。文子は「同じ言でも信ぜられるのは信が言の前にあるからであり、同じ令でも行われるのは誠が令の外にあるからである」と言いました。王道が明らかになって十有余年、それでも徳化が行き渡らぬのは、下を待つ情に誠信を尽くしておられぬからです。
- 今、政を立て治を致すには必ず君子に委ねられますが、事に得失があるときは小人に問われることがある。君子には敬いながら疎く接し、小人には軽んじながら狎れて接する。狎れれば言い尽くし、疎ければ情は上に通じません。中程度の智の人にも小さな知恵はありましょうが、才は国を経るものでなく慮は遠くに及びません。力を尽くし誠を尽くしてもなお敗れを免れず、まして内に姦邪を懐く者なら、その禍は深くありませんか。
- そもそも君子でも小過なしとはいきませんが、正道を害さぬならば略してよろしい。君子と認めながら、なおその信を疑うのは、真っ直ぐな木を立てながらその影が曲がるのを疑うのと何が違いましょう。陛下がまことに慎んで君子を選び、礼と信で用いられれば、治まらぬことを何を憂えましょう。そうでなければ危亡の期も保証できません、と。
- 上は手ずから詔を書いて褒め、「昔、晋の武帝は呉を平らげてから志意が驕り怠った。何曽は三公の位にありながら直諫できず、私かに子孫に語って自分の明智を誇った。これは不忠の大なるものである。公の諫めを得て、朕は過ちを知った。几案に置いて弦と韋(緩急を戒める帯)としよう」と述べた。
- 乙未、車駕が洛陽に帰った。詔して洛陽宮で水に壊されたものは少し修繕して住める程度にし、その他の材木は城中で廬舎を壊された者に給し、百官に各々封事を上って朕の過ちを極言させた。壬寅、明徳宮および飛山宮の玄圃院を廃し、水害に遭った者に給した。
- 八月甲子、上が侍臣に「封事を上る者はみな朕の遊猟が頻繁すぎると言う。今、天下は無事だが武備は忘れられぬ。朕は時に左右と後苑で狩る。民を煩わす一事もない。何を傷つけようか」と言った。魏徴は「先王はただその過ちを聞けぬことを恐れました。陛下はすでに封事を上らせておられる以上、その陳述を恣にさせるほかありません。その言が採るべきならもとより国に益があり、採るべきものがなくとも損はありません」と言い、上は「公の言のとおりだ」と言って、みな労って帰らせた。
- 侍御史の馬周が上疏して論じた。三代および漢は年数の多いもので八百年、少ないものでも四百年を下りません。まことに恩で人心を結び、人が忘れられなかったからです。これ以降は多くて六十年、少なければわずか二十余年。みな人に恩がなく、根本が固くなかったからです。陛下は禹・湯・文・武の業を隆んにし、子孫のために万代の基を立てられるべきで、当年だけを保てばよいのではありません。
- 今の戸口は隋の十分の一にも及ばぬのに、役に就く者は兄が去れば弟が還り、道路に相次いでいます。陛下は恩詔を加えて裁減させておられますが、営繕がやまぬ以上、民はどうして休めましょう。ゆえに有司はいたずらに文書を出すだけで実がありません。昔、漢の文帝・景帝は恭倹で民を養い、武帝はその豊かな資を承けたからこそ奢りを窮め欲を極めても乱に至りませんでした。もし高祖の後すぐ武帝に伝えていたら、漢室がどうして長く存し得たでしょう。
- また京師および四方で造る乗輿・器用および諸王・妃・公主の服飾を、議する者はみな倹約とは思っておりません。そもそも夜明け前から励んでも後世は怠るもの。陛下は若いころ民間におられて民の疾苦をご存じでありながら、なおこの有様です。まして皇太子は深宮に生まれ育ち外事を経験しておられません。万歳の後は、まことに聖慮の憂えられるべきところです。
- 臣は古来、百姓が愁え怨んで集まって盗賊となり、その国が亡びなかったためしを知りません。人主が後から改めようとしても、もはや全うできません。ゆえに修め得るときに修めるべきで、失ってから悔いても及ばぬのです。思うに、幽王・厲王もかつて桀紂を笑い、煬帝もまた周・斉を笑いました。後の世に今を笑わせてはなりません、今、煬帝を笑うように。
- 貞観の初め、天下は飢饉で米一斗が絹一匹でしたが百姓が怨まなかったのは、陛下が憂え念じて忘れられぬことを知っていたからです。今は連年豊作で絹一匹で粟十余斛を得るのに百姓が怨嗟するのは、陛下がもはや念じられず、急がぬ務めを多く営まれることを知っているからです。
- 古来、国の興亡は蓄えの多少によらず、百姓の苦楽にあります。近事で験してみましょう。隋が洛口倉に貯えたものを李密が用い、東都に積んだ布帛を王世充が資とし、西京の府庫もまた国家の用となって今なお尽きません。蓄えはもとより無くてはなりませんが、要は人に余力があってから収めるべきで、強いて取り立てて寇敵を資けてはなりません。
- 倹約で人を休ませることは、陛下がすでに貞観の初めに自ら行われたこと。今日行うのはもとより難しくありません。陛下が長久の謀をなそうとされるなら、遠く上古に求めるまでもなく、ただ貞観の初めのようになされば天下の幸いです。
- 陛下の諸王への寵遇はかなり過分なところがあります。万代の後を深く思わずにはおれません。魏の武帝は陳思王を愛しましたが、文帝が即位すると諸王を囚禁し、ただ縄目がないだけでした。とすれば武帝が愛したことが、まさに苦しめることになったのです。
- また百姓が治まり安らぐのはただ刺史と県令にかかっています。よく人を選んで用いれば陛下は手を拱いて無為でおられます。今、朝廷はただ内官を重んじて州県の選を軽んじ、刺史には武人を多く用い、あるいは京官が職に堪えぬ者を初めて外任に補し、辺遠の地の人選はさらに軽い。百姓が安らがぬのは、まさにこれによるのでしょう、と。
- 上奏に上は善しとし、久しくして侍臣に「刺史は朕が自ら選ぶ。県令は京官五品以上に各々一人を挙げさせよ」と言った。
- 冬十月、上が洛陽苑で狩り、猪の群れが林から突き出た。上は弓を引いて四度射て四頭を斃した。一頭が突進して馬の鐙に迫り、民部尚書の唐倹が馬から飛び降りて組み止めた。上は剣を抜いて猪を斬り、笑って「天策長史は上将が賊を撃つのを見たことがないのか。何をそう恐れる」と言った。唐倹は「漢の高祖は馬上で天下を得ましたが、馬上で治めはしませんでした。陛下は神武で四方を定められた。どうしてさらに一匹の獣に雄心を逞しくされるのですか」と答えた。上は喜んで狩りを罷め、まもなく光禄大夫を加えた。
貞観十二年(638年)
- 春三月辛亥、著作佐郎の鄧世隆が上の文章を集めることを表請した。上は「朕の辞令で民に益あるものは史がみな書いている。不朽たるに足りる。益がないなら集めて何の用があろう。梁の武帝父子、陳の後主、隋の煬帝はみな文集が世に行われているが、亡びるのに何の救いになったか。人主たる者は徳政のないことを患うべきで、文章が何になろう」と言い、ついに許さなかった。
- 丙子、皇孫の誕生により五品以上を東宮で宴した。上は「貞観以前、朕に従って天下を経営したのは玄齢の功である。貞観以来、過ちを正し誤りを糾したのは魏徴の功である」と言い、みなに佩刀を賜った。
- 上が魏徴に「朕の政事は往年と比べてどうか」と問うと、「威徳の加わるところは貞観の初めよりはるかに広がりました。人の悦服では及びません」と答えた。
- 上が「遠方が威を畏れ徳を慕うから来て服するのだ。及ばぬなら、どうやってそれを致したのか」と問うと、「陛下は往時、まだ治まらぬことを憂えられたゆえに徳義が日々新たでした。今は治まったから安心と思われるゆえに及ばぬのです」と答えた。
- 上が「今なすことは往年と同じである。何が違うのか」と問うと、「陛下は貞観の初め、人が諫めぬことを恐れて常に導いて言わせられました。中ごろは喜んで従われました。今はそうではなく、努めて従われても難しい顔をされます。それが違うところです」と答えた。
- 上が「その事例を聞けるか」と問うと、魏徴は答えた。陛下は昔、元律師を殺そうとされ、孫伏伽が法では死に当たらぬと言いました。陛下は蘭陵公主の園(価百万)を賜り、ある者が賞が厚すぎると言うと、陛下は「朕は即位以来、諫める者がなかった。ゆえに賞するのだ」と言われました。これが導いて言わせることです。司戸の柳雄が隋の資歴を偽って訴え、陛下が誅そうとされ、戴冑の諫めを納れて止められました。これが喜んで従うことです。近ごろ皇甫徳参が上書して洛陽宮の修築を諫め、陛下は憤られ、臣の言によって止められはしましたが、努めて従われたのです、と。上は「公でなければここまで及ばぬ。人は自分を知らぬのが苦しいところだ」と言った。
- 秋九月甲寅、上が侍臣に「帝王の創業と守成はどちらが難しいか」と問うた。房玄齢は「草昧の初め、群雄と並び起こって力を角して後に臣とするのですから、創業が難しい」と言い、魏徴は「古来、帝王で艱難のうちに得て安逸のうちに失わぬ者はありません。守成が難しい」と言った。
- 上は「玄齢は私とともに天下を取り、百死を出でて一生を得た。ゆえに創業の難きを知る。魏徴は私とともに天下を安んじ、常に驕奢が富貴から生じ、禍乱が忽せにしたところから生じることを恐れる。ゆえに守成の難きを知る。しかし創業の難はすでに過ぎた。守成の難は、これから諸公とともに慎もう」と言い、玄齢らは拝して「陛下がこの言に及ばれるのは四海の福です」と言った。
貞観十三年(639年)
- 春二月、上はすでに宗室と群臣に刺史の職を世襲させる詔を下していたが、左庶子の于志寧は古今の事情が異なり長久の安の道ではないと考え、上疏して争った。
- 侍御史の馬周も上疏して論じた。堯舜の父にすら丹朱・商均のような子がありました。もし幼童が職を継ぎ、万一驕り愚かであれば、万民がその殃いを蒙り国家がその敗を受けます。絶とうとすれば子文の治績がなお残り、留めようとすれば欒黶の悪がすでに現れている。生きている百姓に害毒を及ぼすより、すでに亡くなった一臣に恩を割くほうがよいのは明らかです。とすれば、いわゆる愛するということが、まさに傷つけることになるのです。臣は、茅土を賦して戸邑を与え、材能と行いがあれば器に随って官を授け、その人に大恩を奉じさせ子孫が福禄を全うできるようにすべきと考えます、と。
- 折しも司空・趙州刺史の長孫無忌らがみな封国に赴くことを望まず、上表して固辞した。恩を承けて以来、形と影が互いを弔うようで、春の氷を履むごとく、宗戚は憂え、湯火に置かれたようだと述べ、さらに、三代の封建は力が制せられなかったのでそれを利としたもので、礼楽の節文の多くは己から出たものではない、両漢が侯を罷めて守を置いて旧弊を除いたのは事宜にかなっていた、今、臣らのために再び変更されては聖朝の綱紀を紊すことを恐れる、しかも後世の愚幼不肖の嗣がもし国法に触れて自ら誅夷を招けば、延世の賞がかえって断絶の禍となる、まことに哀れむべきである、どうか詔旨を止め、性命の恩を賜れ、と述べた。
- 長孫無忌はまた子の嫁の長楽公主を通じて固く請い、「臣は荊棘を分けて陛下にお仕えしました。今、海内が寧一となったのに、どうして外州に捨てられるのですか。遷徙と何が違いましょう」と言った。上は「地を割いて功臣を封ずるのは古今の通義である。公の後嗣に朕の子孫を輔けさせ、ともに永く伝えようと思ってのことだ。それを公らはかえって怨みの言を発する。朕がどうして公らに茅土を強いようか」と言い、庚子、詔して刺史の世襲を停止した。
- 夏五月、旱があり、甲寅、詔して五品以上に封事を上らせた。魏徴が上疏して、陛下の志と業が貞観の初めに比べて次第に終わりを全うされなくなった点、全十条を論じた。その一条に、近年、民力を軽々しく用い、「百姓は無事なら驕り気ままになり、労役させれば使いやすい」と言われる、しかし古来、百姓が安逸だから敗れ労役だから安らいだためしはない、これは邦を興す至言ではないでしょう、とあった。上は深く奨め嘆じ、「すでに屏風に列して朝夕に仰いでいる。あわせて写して史官に付した」と述べ、魏徴に黄金十斤と厩の馬二匹を賜った。
- 冬十一月戊辰、尚書左丞の劉洎を黄門侍郎・参知政事とした。
貞観十四年(640年)
- 冬十二月、魏徴が上疏して論じた。朝にあって枢機の寄を担う群臣は、任は重くとも信は篤くありません。そのため人は自ら疑い、心に苟且を懐きます。陛下は大事には寛やかで小罪には厳しく、その場の叱責には愛憎を免れません。そもそも大臣には大体を委ね、小臣には小事を責めるのが治の道です。今、職を委ねるときは大臣を重んじ小臣を軽んじられるのに、事があると小臣を信じて大臣を疑われる。軽んずる者を信じ重んずる者を疑って、治を致そうとしても得られましょうか。
- もし大官に任じながらその細かな過ちを求めれば、刀筆の吏が旨に順い風に承け、法文を弄して罪を作り上げます。自ら陳べれば「罪に服さぬ心」とされ、言わなければ「犯したことはすべて事実」とされる。進退窮まって自ら明かせず、苟くも禍を免れようとして、偽りが俗となりましょう、と。上は納れた。
- 上が侍臣に「朕は天下を平定したが、これを守るのは甚だ難しい」と言った。魏徴は「臣は『戦い勝つは易く、勝ちを守るは難し』と聞きます。陛下がこの言に及ばれるのは宗廟社稷の福です」と答えた。
- 右庶子の張玄素は若いころ刑部の令史だった。上がかつて朝臣の前で「卿は隋で何の官だったか」と問い、「県尉です」と答えた。「尉になる前は何の官か」と問い、「流外です」と答えた。「何曹か」とさらに問われ、張玄素は恥じて、閤を出るとほとんど歩けず、顔色は死灰のようだった。
- 諫議大夫の褚遂良が上疏して「君がその臣を礼遇してこそ、その力を尽くさせられます。玄素は寒微の出とはいえ、陛下はその才を重んじて三品にまで抜擢し皇儲を輔けさせておられます。どうして群臣の前でその門地を極められましょう。かねての恩を棄てて一朝の恥を成し、心中に鬱結させて、どうして節に殉じ義に死ぬことを責められましょう」と言った。上は「朕もこの問いを悔いている。卿の疏は深く我が心にかなう」と言った。褚遂良は褚亮の子である。
- 孫伏伽と張玄素は隋ではいずれも令史だったが、孫伏伽は時に大勢の前で自ら往事を述べ、少しも隠さなかった。
- 事を言う者の多くが、壅蔽を防ぐため上が自ら表奏を覧るよう請うた。上が魏徴に問うと、「この者たちは大体を知りません。陛下に一つ一つ目を通させれば、朝堂だけでなく州県の事まで自ら見なければならなくなります」と答えた。
貞観十五年(641年)
- 秋七月丙子、上が殿の屋根を指して侍臣に「天下を治めるのはこの屋を建てるようなもの。営構が成れば、しばしば改め移してはならぬ。垂木一本を替え瓦一枚を正すにも、踏み動かせば必ず損ずるところがある。もし奇功を慕って法度を変え、その徳を恒にしなければ、労と煩わしさは実に多い」と言った。
- 冬十二月、上が魏徴に「近ごろ朝臣がまるで事を論じないのはなぜか」と問うた。魏徴は「陛下が心を虚しくして採納されれば必ず言う者があります。およそ臣で国に殉ずる者は寡く身を愛する者は多い。彼らは罪を畏れるゆえに言わぬのです」と答えた。
- 上は「そのとおりだ。人臣が意見を述べて旨に逆らえば、動もすれば刑誅に及ぶ。湯火を踏み白刃を冒すのと何が違おうか。ゆえに禹が昌言に拝したのは、まことにこのためである」と言った。
- 房玄齢と高士廉が路上で少府少監の竇徳素に出会い、北門で近ごろ何を営繕しているかと問うた。竇徳素がこれを奏し、上は怒って玄齢らを責め「君らはただ南衙の政事を知ればよい。北門の小さな営繕が君らに何の関わりがあるのか」と言い、玄齢らは拝謝した。
- 魏徴が進んで「臣には陛下がなぜ玄齢らを責められるのか、玄齢らがなぜ謝るのかが分かりません。玄齢らは陛下の股肱耳目であり、中外の事はみな知らぬはずのないものです。営むところが是なら陛下を助けて成すべきであり、非なら陛下に罷めるよう請うべきです。有司に問うのは理として当然です。何の罪で責められ、何の罪で謝るのか分かりません」と言った。上はひどく恥じ入った。
- 上がかつて朝に臨んで侍臣に「朕は人主として常に将と相の事を兼ねている」と言った。給事中の張行成が退いて上書し、禹は誇らなかったからこそ天下に争う者がなかった、陛下は乱を撥めて正に反され、群臣はまことに清光を望むべくもないが、朝に臨んでそれを言われる必要はない、万乗の尊をもって群臣と功を較べ能を争われるのは、臣はひそかに陛下のために取りません、と述べた。上は大いに善しとした。
貞観十六年(642年)
- 夏四月壬子、上が諫議大夫の褚遂良に「卿はなお起居注を掌っているが、書いたものを見られるか」と問うた。褚遂良は「史官は人君の言動を書き、善悪を備え記します。人君が非をなさぬようにと願うためです。自ら取って見たという話は聞いておりません」と答えた。
- 上が「朕に不善があれば、卿もそれを記すのか」と問うと、「臣の職は筆を執ることです。あえて記さぬわけにいきません」と答えた。黄門侍郎の劉洎も「仮に遂良が記さずとも、天下がみな記します」と言い、上は「まことにそうだ」と言った。
- 秋七月戊午、長孫無忌を司徒、房玄齢を司空とした。
- 特進の魏徴が病んだ。上は手ずから詔を書いて見舞い、あわせて「数日会わぬ間に、朕の過ちは多くなった。今、自ら行こうとするが、かえって労を増すことを恐れる。見聞きすることがあれば状に封じて進めよ」と述べた。
- 魏徴は上言して、近ごろは弟子が師を凌ぎ、奴婢が主を忽せにし、下が上を軽んずることが多い、みな理由あってのことだが、助長すべきではない、と述べ、また、陛下は朝に臨んで常に至公を言われるが、退いて行われることは私僻を免れない、あるいは人に知られるのを畏れて濫りに威怒を加えられるが、蓋えば蓋うほど現れる、結局、何の益がありましょうか、と述べた。
- 魏徴の家には正堂がなかった。上は小殿の材を回して構えさせ、五日で完成させ、あわせて素の屏風・素の褥・几・杖などを賜ってその尚ぶところに副わせた。魏徴が上表して謝すると、上は手ずから詔を書いて「卿をここまで遇するのは黎元と国家のためであって、一人のためではない。何をそう過分に謝するのか」と述べた。
- 冬十一月壬申、上が「朕は兆民の主として、みなを富貴にしたい。礼義を教えて年少者が年長者を敬い妻が夫を敬うようにすれば、みな貴くなる。徭役を軽くし賦斂を薄くしてみなが生業を治められるようにすれば、みな富む。もし家が足り人が足りれば、朕は管弦を聴かずとも楽しみはその中にある」と言った。
- 高祖が関に入ったとき、隋の武勇郎将の馮翊の党仁弘が二千余人を率いて蒲坂で高祖に帰し、京城平定に従った。まもなく陝州総管に任じられ、大軍が東征したときは輸送を絶やさなかった。南寧・戎・広州の都督を歴任し、才略があって行く先々で名を挙げ、上はきわめて器量を認めていた。しかし性が貪欲で、広州を罷めるとき訴えられ、贓が百余万で罪は死に当たった。
- 上は侍臣に「私は昨日、大理が五度、仁弘の誅を奏したのを見た。その白髪で刑に就くのを哀れみ、ちょうど夕食の時だったので膳を撤せしめた。しかし生かす道を求めてもついに得られぬ。今、法を曲げて公らに乞いたい」と言った。
- 十二月壬午朔、上は改めて五品以上を太極殿の前に召して言った。法は人君が天から受けたもので、私によって信を失ってはならぬ。今、朕が党仁弘を私して赦そうとするのは、その法を乱すことであり、上は天に背く。南郊で藁を敷き、日に一度の粗食で天に罪を謝すること三日としたい、と。
- 房玄齢らはみな「生殺の柄は人主が専らにし得るものです。どうして自らここまで貶責されるのですか」と言った。上は許さず、群臣は頓首して庭で固く請い、朝から日が傾くまで及んだ。上はそこで手詔を降し、自ら「朕に三罪あり。人を知るに明らかでなかったのが一、私によって法を乱したのが二、善を善として賞さず悪を悪として誅さなかったのが三。公らが固く諫めるので、ひとまず請いに依る」と述べた。そこで仁弘を庶人に落として欽州に移した。
- 上が侍臣に「古来、君が乱れて臣が治める場合と、君が治めて臣が乱れる場合とがあるが、どちらがましか」と問うた。魏徴は「君が治まれば善悪と賞罰が当を得ます。臣がどうして乱せましょう。もし治まらず、暴を恣にして諫めに逆らえば、良臣があってもどこに施しようがありません」と答えた。上が「北斉の文宣帝は楊遵彦を得た。君が乱れて臣が治めたのではないか」と言うと、「あれはかろうじて亡びを救っただけ。どうして治といえましょう」と答えた。
貞観十七年(643年)
- 春正月、鄭文貞公魏徴が薨じた。上は魏徴を思ってやまず、侍臣に「人は銅を鏡とすれば衣冠を正せる。古を鏡とすれば興替を見られる。人を鏡とすれば得失を知れる。魏徴が没して、朕は一つの鏡を失った」と言った。
- 二月壬午、上が諫議大夫の褚遂良に「舜が漆器を作ったとき、諫めた者が十余人あった。それが何で諫めるに足るのか」と問うた。褚遂良は「奢侈は危亡の本です。漆器でやめねば、金玉で作るようになりましょう。忠臣が君を愛するには、必ずその兆しを防ぎます。禍乱が成ってからでは、もはや諫めようがありません」と答えた。
- 上は「そのとおりだ。朕に過ちがあれば、卿もその兆しの段階で諫めよ。朕が見るに、前世の帝王で諫めを拒む者の多くは『すでにやってしまった』とか『すでに許してしまった』と言って、ついに改めなかった。それで危亡なからんとしても、得られようか」と言った。
- 当時、皇子で都督や刺史となっている者の多くは幼かった。褚遂良が上疏して「漢の宣帝は『我と天下を共に治める者は、それただ良二千石か』と言いました。今、皇子は幼くて政をご存じありません。むしろ京師に留めて経術を教え、成長を待って遣わされるに如くはありません」と論じ、上ももっともと思った。
- 丁未、上が「人主にはただ一つの心があるだけなのに、これを攻める者は甚だ多い。勇力で、弁舌で、諂諛で、姦詐で、嗜欲で、輻が集まるように攻めて、各々自らを売り込んで寵禄を取ろうとする。人主が少しでも懈って一つでも受ければ、危亡が随う。これが難しいところである」と言った。
- はじめ上が監修国史の房玄齢に「前世の史官が記したものは、みな人主に見せなかった。なぜか」と問うた。房玄齢は「史官は美を虚しく飾らず悪を隠しません。人主が見れば必ず怒るので、あえて献じないのです」と答えた。上は「朕の心は前世の帝王とは違う。自ら国史を見て前日の悪を知り、後の戒めとしたい。公は撰次して奏せよ」と言った。
- 諫議大夫の朱子奢が上言して「陛下は聖徳を身に備えられ、行いに過ちはありません。史官の述べるところも義として尽善に帰します。陛下が独り起居注を覧られるだけなら事に失はありません。しかしこれを法として子孫に伝えれば、曽孫玄孫の後、あるいは上智でない者が非を飾り短を庇い、史官は必ず刑誅を免れません。そうなれば誰もが風を望んで旨に順い、身を全うして害を遠ざけようとします。悠々たる千載、何を信じられましょう。前代が覧なかったのは、まさにこのためです」と言ったが、上は従わなかった。
- 房玄齢は給事中の許敬宗らとともに削って『高祖実録』『今上実録』とし、癸巳、書が成って奉った。上は書中の六月四日(玄武門)の事について、語がひどく婉曲であるのを見て、房玄齢に「昔、周公は管叔・蔡叔を誅して周を安んじ、季友は叔牙に鴆して魯を存した。朕のなしたことも同類である。史官が何を憚ろうか」と言い、ただちに浮辞を削って事をありのままに書かせた。
貞観十八年(644年)
- 夏四月、上が侍臣に「人臣は旨に順う者が多く、顔を犯す者は少ない。今、朕は自ら己の失を聞きたい。諸公は直言して隠すな」と言った。長孫無忌らはみな「陛下に失はありません」と言った。
- 劉洎は「近ごろ上書して旨に称わぬ者があると、陛下はみな面と向かって問い詰められ、恥じ恐れて退かぬ者がありません。言路を広げるゆえんではないでしょう」と言い、馬周は「陛下は近ごろ賞罰にいささか喜怒による高下があります。その他に失は見当たりません」と言った。上はみな納れた。
- 上は文学を好んで弁敏だったので、群臣が事を言うと古今を引いて論破し、多くは答えられなかった。
- 劉洎が上書して諫めた。帝王と凡庸、聖哲と愚者では上下が懸絶して比べようもありません。とすれば至愚をもって至聖に対し、極卑をもって至尊に対するのですから、いくら自ら強めようとしても得られるものではありません。陛下が恩旨を降し慈顔を貸し、旒を垂れてその言を聴き、襟を虚しくしてその説を納れられても、なお群下があえて対え奉らぬことを恐れます。まして神機を動かし天弁を恣にし、辞を飾ってその理を折り、古を引いてその議を排されては、凡庸の者はどんな段階で応答できましょう。
- しかも記憶が多ければ心を損じ、言葉が多ければ気を損じます。心と気が内で損なわれれば、形と神は外で労します。初めは気づかずとも、後には必ず累となります。ぜひ社稷のためにご自愛ください。どうして性の好むところで自ら傷つけられるのですか。秦の始皇は強弁でしたが自矜によって人心を失い、魏の文帝は宏才でしたが虚説によって衆望を欠きました。才弁の累は、これで明らかです、と。
- 上は飛白の書で答えて「慮らなければ下に臨めず、言わなければ慮を述べられぬ。近ごろ談論が煩多になった。物を軽んじ人に驕るのは、この道から出るのかもしれぬ。形神心気はこれで労するものではないが、今、諫言を聞いた。心を虚しくして改める」と述べた。
- 秋八月壬子、上が司徒無忌らに「人は自分の過ちを知らぬのが苦しいところだ。卿らは朕のために明言せよ」と言った。「陛下の武功と文徳を臣らは順い奉るのに暇もありません。何の過ちを言えましょう」と答えた。
- 上は「朕が公らに己の過ちを問うたのに、公らは曲げて諛って喜ばせようとする。朕は面と向かって公らの得失を挙げて互いの戒めとし改めたい。どうか」と言い、みな拝謝した。
- 上は言った。長孫無忌は嫌疑を避けるのが上手く、物事への応対が敏速で事理の決断は古人にも劣らぬ。しかし兵を総べて攻戦するのは得意ではない。高士廉は古今を渉猟し心術は明達、難に臨んで節を改めず、官にあって朋党をなさぬ。欠けるのは骨のある規諫だけだ。唐倹は言辞が明快で人の間を和解させるのが上手いが、朕に三十年仕えてついに興替に及ぶ言はなかった。楊師道は性行が純和で自ら過失はないが、情は実に怯懦で、緩急の際には力を得られぬ。岑文本は性質が敦厚で文章は華やか、持論は常に経典に拠って遠く、自ら物に負い目を持たぬ。劉洎は性が最も堅貞で益するところがあるが、その志は諾を尚び、朋友を私する。馬周は事を見るのが敏速で性は甚だ貞正、人物を論量するのに直道で言う。朕が近ごろ任使して、多く意に称っている。褚遂良は学問がやや長じ、性もまた堅正で、常に忠誠を写して朕に親しみ寄る。たとえば飛ぶ鳥が人に寄るようなもの、人は自ずと憐れむ、と。
- 九月、諫議大夫の褚遂良を黄門侍郎・参預朝政とした。
貞観二十年(646年)
- 秋九月、特進・同中書門下三品の宋公蕭瑀は性が狷介で同僚と合わぬことが多かった。かつて上に「房玄齢は中書・門下の衆臣と朋党をなして不忠であり、権を執って固く結んでいます。陛下が詳しくご存じないだけで、まだ反していないというにすぎません」と言った。
- 上は「卿の言は甚だしすぎぬか。人君は賢才を選んで股肱心膂とし、誠を推して任せるべきである。人に完全を求めてはならぬ。必ずその短を捨てその長を取る。朕は聡明でなくとも、どうしてにわかに善悪の判断をここまで迷おうか」と言った。
- 蕭瑀は内心穏やかでなく、しばしば旨に逆らったので、上も恨んだが、忠言が多いことからまだ廃するに忍びなかった。
- 上がかつて張亮に「卿はすでに仏に仕えている。なぜ出家せぬのか」と言った。蕭瑀はそこで自ら出家を請うた。上は「公が桑門を雅好することは承知している。今、公の意に違うまい」と言った。ところが蕭瑀はしばらくしてまた進み出て「臣はよく考えましたが、出家できません」と言った。
- 上は蕭瑀が群臣の前で言を反覆したことをとりわけ許し難く思った。折しも蕭瑀は足の病と称して朝せず、朝堂まで来ても入って謁見しなかった。上は蕭瑀の意がついに不満のままと知り、冬十月、手ずから詔を書いてその罪を数えた。
- その詔に言う。朕は仏教を意として遵ずるものではない。その道を求める者は将来の福を験さず、その教えを修める者はかえって過去に咎を受けている。梁の武帝は釈氏に心を窮め、簡文帝は法門に意を鋭くし、国庫を傾けて僧に給し、人力を尽くして塔廟に供した。ところが三淮に浪が沸き五嶺に煙が上がるに及んで、熊の掌を求めて余喘をつなぎ、雀の雛のように残魂を引くありさま。子孫は覆亡する暇もなく社稷は俄かに廃墟となった。報施の徴は何と誤っていることか。
- 蕭瑀は覆った車の轍を踏み、亡国の遺風を襲い、公を棄てて私に就き、隠と顕の際を明らかにせず、身は俗にありながら口は道を説き、邪と正の心を弁じない。累葉の殃いの源を修めて一身の福の本を祈っている。上は君主に逆らい、下は浮華を煽り習わせ、自ら出家を請いながらまもなくまた違える。一たび翻り一たび惑うこと瞬息の間、自ら可とし自ら否とすること帷扆の場で変わる。棟梁の体に乖き、どうして具瞻(衆に仰がれる)の量であろうか。朕は隠忍して今に至ったが、蕭瑀は全く改悛しない。商州刺史とし、あわせてその封を除く、と。
- 冬十二月、房玄齢がわずかな譴責で邸に帰されたことがあった。褚遂良が上疏して論じた。玄齢は義旗の始めから聖功を翼賛し、武徳の末には死を冒して決策し、貞観の初めには賢を選んで政を立てました。人臣の勤めでは玄齢が第一です。赦されぬ罪でもなく、搢紳がともに咎めるところでもない以上、遠ざけ棄てられてはなりません。陛下がその衰老をお考えなら、それとなく諭して致仕させ、礼をもって退かせるべきで、わずかな過ちで数十年の勲旧を棄てられてはなりません、と。上はただちに召して出仕させた。
- しばらくして玄齢はまた位を避けて家に帰った。久しくして上が芙蓉園に行幸したとき、玄齢は子弟に門庭を掃き清めさせて「乗輿がまもなく来る」と言った。ほどなく上は果たしてその邸に行幸し、玄齢を車に載せて宮に帰った。
貞観二十一年(647年)
- 夏五月庚辰、上が翠微殿に出御して侍臣に「古来の帝王は中夏を平定しても戎狄を服させられなかった。朕は才が古人に及ばぬのに、成した功はそれを超えた。自らその理由が分からぬ。諸公はそれぞれ思うところを率直に言え」と問うた。群臣はみな「陛下の功徳は天地のごとく、万物は名づけようもありません」と称えた。
- 上は言った。そうではない。朕がここに及び得たのはただ五事による。古来の帝王は各々己に勝る者を憎んだが、朕は人の善を見れば己のもののように思う。人の行いと能は兼備できぬもの、朕は常にその短を棄てその長を取る。人主は往々にして賢を進めれば懐に置きたがり、不肖を退ければ谷に突き落としたがる。朕は賢者を見れば敬い、不肖者を見れば憐れむ。賢も不肖も各々その所を得る。人主の多くは正直を憎み、陰に誅し顕に戮すること、どの代にもあった。朕は践祚以来、正直の士が朝廷に肩を並べ、いまだ一人も黜責したことがない。古来みな中華を貴び夷狄を賤しんだが、朕だけは一つのように愛した。ゆえにその種族はみな朕に父母のごとく依る。この五つが、朕が今日の功を成したゆえんである、と。
- 褚遂良を顧みて「公はかつて史官であった。朕の言はその実を得ているか」と問うと、「陛下の盛徳は載せ尽くせません。ただこの五つだけを自ら挙げられるのは、謙譲の志です」と答えた。
- 秋八月己丑、斉州の人の段志沖が封事を上って、上に政を皇太子に譲るよう請うた。太子は聞いて憂いが顔に出、口を開けば涙を流した。長孫無忌らが段志沖の誅を請うた。
- 上は手ずから詔を書いて「五岳は霄を凌ぎ四海は地に亘る。汚れを納れ疾を蔵しても高深を損なわぬ。志沖は匹夫の身で天子の位を解こうとした。朕に罪があるなら、それは彼の直である。罪がないなら、それは彼の狂である。たとえば尺ほどの霧が天を障っても大に欠けはなく、寸ほどの雲が日を点じても明を損なわぬ」と述べた。
貞観二十二年(648年)
- 春正月己丑、上が『帝範』十二篇を作って太子に賜った。君体・建親・求賢・審官・納諫・去讒・戒盈・崇倹・賞罰・務農・閲武・崇文である。
- あわせて「身を修め国を治める道はすべてこの中にある。ひとたび不諱があっても、もう言うことはない」と言い、さらに言った。お前は改めて古の哲王を求めて師とせよ。私のごときは法とするに足りぬ。そもそも上に法を取ってようやく中を得、中に法を取れば下に落ちるのを免れぬ。私は位に居て以来、不善が多かった。錦繍と珠玉が前に絶えず、宮室台榭をしばしば興し、犬馬鷹隼を遠方から取り寄せ、四方を遊行して供応を煩わせた。これはみな私の深い過ちである。これを是として法とするな。ただ私が蒼生を弘く済い、その益が多かったこと、区夏を初めて造り、その功が大きかったことを顧みれば、益多く損少なきゆえに人は怨まず、功大きく過ち微なるゆえに業は堕ちなかった。しかし尽善尽美に比べれば、まことに恥じることが多い。お前には私の功と勤めがなく、私の富貴を承ける。力を尽くして善をなせば国家はかろうじて安く、驕り怠り奢り恣にすれば一身も保てぬ。しかも成るのが遅く敗れるのが速いのが国であり、失いやすく得難いのが位である。惜しまずにおれようか。慎まずにおれようか、と。
- 秋七月、司空・梁文昭公の房玄齢が京師の留守を務めていて病が重くなり、上は玉華宮に召し寄せた。肩輿で殿に入り、御座の側に至って初めて下り、向かい合って涙を流し、そのまま宮に留まった。上はその小康を聞けば喜色を浮かべ、悪化すれば憂え悴れた。
- 玄齢は諸子に「私は主上の厚恩を受けた。今、天下に事はないが、ただ東征だけが止まぬ。群臣はあえて諫めぬ。私が知りながら言わなければ、死んでも責めが余る」と言い、上表して諫めた。
- 玄齢の子の遺愛は上の娘の高陽公主を娶っていた。上は公主に「あれほど病が重くても、なお我が国家を憂えてくれる」と言った。上は自ら見舞い、手を握って訣別し、悲しみに堪えなかった。癸卯、薨じた。
史論(柳芳曰)
- 玄齢は太宗を佐けて天下を定め、相位を終えるまで合わせて三十二年、天下は賢相と称した。しかも跡として辿れるものがない。徳もまた至れりというべきである。
- ゆえに太宗が禍乱を定めても房・杜は功を言わず、王珪・魏徴が諫争に善くても房・杜はその賢を譲り、李勣・李靖が兵を将いるに善くても房・杜はその道を行わせた。治めて太平を致し、善は人主に帰した。唐の宗臣たるにふさわしい。